25.栢森あやめは擬態する
最後の一文をなぞり、俺は文庫を鞄に戻した。栢森が来ない屋上前は驚くほど静かで、なんだか懐かしい気持ちになった。
喉から手が出るほど欲しかった環境のはずなのに、教室での一幕が視界に掛かってほとんど読書に集中できなかった。罪悪感というやつは、毒のようにじんわりと身を蝕んでいくらしい。
校舎を出てグラウンドを眺める。薄暗い朱色に覆われた景色が、これでもかというほど時間の経過を訴えかけてくる。どうやら思いのほか長く屋上前に居座ってしまっていたようだ。
未だ賑やかな部活動の音に背を向け、逃げるように校門を目指すと、途中で知った顔と出くわしてしまった。
「安堵ぉ。何してんの?」
見慣れないユニフォーム姿でこちらに手を振ったのは宮城さんだった。本当に何をしていたんだろう。俺は深く息を吸い込み、精一杯何食わぬ顔を作った。
「見りゃわかるだろ。帰ってんの」
「あれ? 安堵って部活入ってたっけ?」
「入ってないよ。教室に忘れ物したから取りに行ってたんだ」
「こんな時間まで? 変なのー」
額に浮かんだ汗を拭い、宮城さんは水筒を口に傾けた。
「にしても、鈴木を止めた時の安堵、なかなかいけてたよ。こんなことで熱くなってどうする……キリッ、って!」
「ははっ。あいつ意外と体格良いから、焦った焦った」
苦笑いを浮かべ、俺は宮城さんから視線を逃がした。あんなもの空気に合わせて適当な言葉を吐いただけで、全然いけてない。俺はあの時、栢森をかばうべきだったんだ。
芯も信念もないくだらない感情から目を背け、俺は再び宮城さんのほうを向いた。
「みーさんは? 休憩中?」
「そそ。暇なら体験入部でもしに来る?」
「えっ? いいのか?」
「女子ソフトボールだっつーの。駄目に決まってるっしょ」
宮城さんはけらけらと愉快な笑みを浮かべた後、もう一度水筒に口を付けた。薄暗くて見落としていたが、どうにもデザインが幼稚な水筒だった。
違和感の正体を探る前に、俺の人差し指は宮城さんの水筒へと向いていた。
「その水筒……」
「ああこれ? いやぁ、昔使ってたやつなんだけど、なんか捨てらんなくて」
宮城さんは水筒を堂々とこちらに向けた。パステルカラーに金髪ロール髪の魔法少女が浮かんでいる。
どこかで見覚えのあるイラストだな。そんなことを思ったのも束の間、俺の思考はあっという間に栢森の部屋に貼ってあったポスターへと辿り着いた。
「リリーちゃん」
「えっ!? 知ってんの!?」
「え、あ、いや、親戚の子も似たようなの持ってたなって。それって何のキャラなの?」
自分でも驚くほど間抜けな言い訳を返した。最初は驚いた顔を浮かべていた宮城さんは、俺の返答でぱちりと笑顔を咲かせた。
「魔女少女マジカルフルールっていうアニメ! マジョフルって知らない? 小学生くらいの頃流行ってたやつ!」
「マジョフル……。聞いたことがあるくらいだな」
姉の影響で何度か見たはずだが、今のところ想起されるストーリーは一つもない。名前でさえ、今の今まで忘れていたくらいなのだから。
小首を傾げた俺に向け、宮城さんは更に笑顔を輝かせた。
「日曜日の朝にやってる、お花をモチーフにした魔女少女モノだよ。これがまた可愛くて熱いの! ちなみにこの初代マジョフルは、今なお続くマジョフルシリーズの礎にもなっていて——」
「なるほど」
本当に十年近く前のことを話す熱量なのだろうか? 情報の波に飲まれた俺は、彼女の言葉に相槌を挟み続けた。俺のリアクションが芳しくなかろうと、宮城さんの口は構わず回り続けた。
「特にこのマジカルリリーこと百合ちゃんが、私のイチオシ!」
「百合ちゃん?」
「変身前の名前ね。望月百合ちゃん。すっごく高飛車なんだけど、本当は誰よりも自信がなくって、みんなに隠れてステッキに弱音を吐くの。そのギャップがたまんなくてさ! 弱気を隠すために強気で振舞っちゃうっていうの? はぁ、好き」
宮城さんは早口で言い切り、溶けるように息を漏らした。向けられる水筒が、意気揚々と俺のことを見つめた。
花をモチーフにしているだけあって、衣装の随所に花弁があしらわれている。純白色の大きく開いた花。栢森の部屋では気が付かなかったが、あれは百合の花だろう。
百合、英名リリー。実にシンプルなネーミング。これが自ずと頭で結びついたのは、愚かな姉のおかげだ。
この花と同じ名を持つ姉は幼少期、部屋の前に「リリーの部屋」という奇抜なプレートをぶら下げていた。思えばメールアドレスには未だに「lily」という文字が入っている。
寒気がする記憶を思い浮かべたところで、今までヒントにもならなかった事象が、ハマりどころを見つけたような感覚が頭によぎった。
思案に耽る様子を空気の冷えだと感じたのか、少し照れた様子で、宮城さんは水筒を背中の方に持っていった。
「少々熱くなりまして」
「いやいや、みーさんの意外な趣味が知れて良かったよ」
「お、女の子は秘密で出来てるんだよ!」
あけすけに秘密をぶら下げているのはどうかと思うが。目を細めた俺を見て、宮城さんはふるふると顔を振り、仕切りなおすように眉を上げた。
「リリーちゃんって、栢森さんに似てるんだよね」
「栢森に?」
「そそ。ほら、私って隣に座ってるじゃん? たまーにアンニュイな感じとか受け取っちゃうわけ。今日は特にそうだったなぁ。高飛車なところもそっくりだし、じっくり見れば見るほどリリーちゃんに見えてくるの。ひょっとしたら自尊心を上げるために、私はかわいいから大丈夫、とか陰で言ってるかもしれない!」
俺はぐっと息を飲んだ。なるほど。栢森はリリーちゃんに似ているのか。そしてそのリリーちゃんは、自尊心を上げるために自身を肯定する言葉を吐いているのか。
屋上前での様子を見られていたのかと思ってしまうほど正確な考察だ。いや、むしろ考察のほうに栢森が寄っているのか。
降ってくる疑問たちが、足りない隙間を埋める。以前の栢森の言葉が、徐々に形を成していく。
「俄然リリーちゃんに興味がわいたよ」
「コスプレして欲しいって言ったら、怒られるかなぁ?」
「チャレンジしてみたらどう?」
ひょっとしたらやってくれるかもしれないし、もうやっているのかもしれないし。余計な言葉を封じ込め、俺はグラウンドのほうを向いた。宮城さんと同じユニフォーム姿が、隅の方に集まり始めている。
俺はそちらに人差し指を向ける。
「そろそろ休憩が終わるんじゃない?」
「おっ! ほんとだ!」
宮城さんは跳ねるようにグラウンドを向いた。
「んじゃね安堵。また明日!」
「おう。みーさんも頑張って」
「頑張る! 今日も私はパーフェクト! マジカルリリー!」
水筒のイラストと同じポーズを取った後、宮城さんは照れくさそうにグラウンドに走り去っていった。
遠くなる彼女の背中を目で追いながら、俺は彼女の言葉を思い返した。
栢森に似ているマジカルリリー。リリーちゃんが意味するところは百合。何故かちらつく姉の顔。
結びつきがなさ過ぎて考えたこともなかったが、もし栢森のヒントの意味するところが俺の予想通りだったとしたら、これほど早い話はない。
俺はいつもより早足で帰路を辿り、家に着くや否や、リビングでくつろぐ姉に詰め寄った。




