23.栢森あやめは企てる
夏休みが終わり、二学期が始まった。
夏が過ぎようと、屋上前は相変わらず華やかさがない。じめっとした薄暗い空間で、消えそうな蛍光灯が命を燃やしている。夏休み期間中ここに訪れたのは、多分埃だけだと思う。
始業三十分前の屋上前には、ふんふんと息荒く話す栢森の声が響いている。これも相変わらずの光景ということは、もはや語るまでもない。学期が変わろうと、時間はいつだって地続きなのだ。
そして転機というのは往々にして、こういった何気ないタイミングで訪れる。
「全国共通テストともなると、さすがに上がわんさか出てくるわね」
「それでも、校内では一位だったんだろ?」
「もちろん! この敷地内に私の敵はいないわ!」
「栢森はすごいなぁ」
「ふふん!」
堂々と腕を組む栢森に適当な相槌を返しながら、俺は一つ息を吐き出した。何度目だっけかこの話。五回を超えてから数えるのを止めたが、おかげで「ふふん!」までの最短ルートを見つけてしまった。
栢森あやめは変わらない。成海に出会ったあの日が現実ではなかったかのように。
結局、栢森の過去については何もわかっていない。成海と連絡を取る手段もないし、リリーちゃんというヒントも生かせていないし、栢森は何事もなかったかのように振る舞っているしで、進展がないまま夏休みが明けて二週間も経ってしまった。
知りたいという気持ちが消えたわけではないが、今すぐ知ってどうなるわけでもない。機が来るのを待とうというのが、俺の最終判断になっていた。
スカートから伸びる足先を見つめ考え事を浮かべていると、自慢を漏らしていた栢森の声がワントーン上がった。
「次のイベントは燈花祭かしら?」
「そうだな。イベントが多くて大変だ」
「何もないよりはいいじゃない。忙しいことは誇らしいことよ」
栢森は足を組んで髪を払った。色素の薄い髪が、ほこりを切って光を吸い込んだ。
燈花祭。全学年各クラスごとに演劇を披露するという、平たく言うと学芸会のような、わが校独自のイベントだ。
ほとんどのクラスが既存の台本に沿って芝居をするだけという、消化試合に近いイベントではあるが、栢森の興味はそこに向かっているらしい。今回のマウントの種はなんなんだろうか。
俺は携帯電話で日付を確認し、栢森に視線を戻した。
「あと二週間か。そろそろホームルームの議題に上がりそうだな」
「安堵はどんな役をやりたいの?」
栢森は口の端から白い歯をのぞかせた。一旦は答えを考えてみたものの、頭のどこにも落ちてはいなかった。
「演目も決まってないのに希望を言えと?」
「ざっくりと考えるくらい良いじゃないの。私は主役がいいわ!」
「確かに栢森には主役がピッタリかもな」
俺は言葉を返し、鞄の上に置いた文庫本を眺めた。厳密に言うとぴったりじゃない脚本もあるだろうけれど、そもそもが不毛過ぎたので言及を避けることにした。
しかしながら、立候補すれば間違いなく栢森は主役を張ることができるだろう。というのも、このイベントに対するクラスメイトのモチベーションは、おそらく高くない。
準備をするとなれば放課後になるだろうから、部活動組が嫌がることはもちろんのこと、優秀さを競うといった目標もないので、ただただ面倒くさいイベントという印象があるのだ。
うちのクラスには演劇部もいないから、率先して指揮を取るやつもいない。それは俺に関しても同じことが言える。
「どんな役でも完璧にこなしてみせるわ」と語り悦に浸る栢森を横目に、俺はぐっと背中を伸ばした。
「俺は裏方が良いな。照明とか」
「裏方ぁ?」
「人前に出て何かを演じるとか、俺には難しいし」
「あら。教室での陽気な様子を見ていると、演技も得意そうだけれど」
「嫌な詰め方だな」
「詰めている訳じゃないわ。ただの感想。被害妄想よ」
栢森はそう言いながらもじっとりと口角を上げた。
「どうしても裏方が良いなら、脚本にでも立候補すればいいわ。私が主人公になる、最高に輝かしい物語を紡いでちょうだい」
「脚本は既存のものをつかうだろ」
「それこそまだ決まっていないでしょう?」
「例年の傾向的にそうなると思うけど」
「私、流れとかそういうものはぶち壊すためにあると思っているから」
栢森の口角が更に上がる。いつもの分かりやすさはどこへやら、今のところ褒めポイントは見つかっていない。それどころか、不気味な足音が徐々に近づいてきているような気がした。
俺は浮かび上がった鳥肌をさすり、栢森の声に耳を向け続ける。
「演劇というのは、もともと伝記や宗教をわかりやすく布教するためのものという側面もあったみたいね。伝えたいことを芝居という枠組みを通してわかりやすく伝達する、これこそ燈花祭の醍醐味だと思うのよ。だとしたら、オリジナルが良いと思わない?」
「オリジナルねぇ。書きたいやつがいるとは思えないな」
「本当にそうかしら」
栢森の言葉を聞いて、俺は逃げるように深く頭を落とした。演劇というものの魅力については、俺も栢森と同意見ではある。しかしながら、二週間後に迫った燈花祭に向け、新たに脚本を書きたいという猛者は間違いなくうちのクラスにはいない。
そもそも準備期間が短いことから、有物以外を演目として設定するクラスがほとんど無いのだ。部活動が忙しいだのなんだの、適当な理由をつけて既存のものが優勢になるに決まっている。
それくらいのこと、栢森でもわかっているとは思うが。
当の本人に目を向ける。彼女は含みのある笑みをこちらに返した。なんと言えば諦めてくれるんだろうか。言葉を出しあぐねていると、栢森から声が降ってきた。
「あんたはそういうの、興味あるでしょ?」
「そういうの?」
「オリジナルの脚本よ。どう? 書きたい? というか書きなさい!」
「……無茶言うなよ。脚本なんて俺に書けるわけがないだろ」
栢森はふっと静かに息を漏らした。
「へぇ。とぼけるんだ」
「とぼけたつもりは全くないが」
「ダウト」
栢森は悪魔のように口の端を上げ、人差し指を俺に向けた。それがとぼけていた何よりの証拠になるとわかっていながら、俺は急いで視線を栢森から外した。ここ数分の栢森の言葉一つ一つが、ここに至るためのステップだったように思えた。
ほこりっぽい階段を眺め、彼女とのやり取りをくまなく思い返す。
出会ってからの数ヶ月、脚本に興味があるだなんて言った記憶はないし、そういう素振りを見せた覚えもない。だとしたら、なぜ栢森は俺に脚本を書かせようとしているんだ。
いや、何も難しいことはない。彼女はどこかしらで俺の過去を掘り当てたんだろう。じゃないとわざわざ突っかかってくるわけがない。
不気味な足音はもう目の前まで迫ってきている。探るように視線を上げると、満面の笑みを浮かべる栢森が映った。
「私は一度、あんたの部屋に入ったわ。あんたが眠っている間、多少物色もしたでしょうね」
「……素敵な趣味をお持ちですね」
「二時間も部屋に放置されたんだから、本棚を漁るくらいのことなら許容されて然るべきでしょう? そこで何かを見つけてしまっても、私は悪くない」
「何が言いたいんだ?」
「ただの独り言よ。でも、これらも踏まえてもう一度答えなさい。脚本、書きたい?」
皮肉めいた俺の態度を物ともせず、栢森は堂々と腕を組んだ。飲み込んだ息が詰まり、呼吸が遮られる。ヒントも与えていないのに、こちらの過去を先に掘り返されるとは思わなかった。
栢森にはもう全てがわかってしまっているんだろう。嫌な詰め方だという言葉は、今こそ使うべきだった。
俺は諦めを背景に自室の光景を思い浮かべた。
自室の本棚には名著に隠れて、俺が昔に書いた脚本たちが眠っている。舞台脚本家を夢見て書き連ねた、不出来な物語の断片。俺ですら存在を忘れようとしていたそれらを、おそらく栢森は見たのだろう。これでようやく意味深な態度にも合点が行った。
どうりで褒めポイントが見つからないわけだ。燈花祭の話を振ってきたのは、マウントのためではなく俺に脚本を書かせるためか。
長々とした回顧を挟み、俺は大きく息を吐きだした。
「わかったわかった。昔書いていたって事は認める。興味があったのも間違いない。ただな、書けないっていうのは事実だぞ」
「理由を述べる権利をあげるわ」
「俺が書いていたのは中学までなんだ。からかわれて諦めた、中途半端な趣味だったからな。高校に入ってからは一文字も書いていないし、今のキャラにも合ってない。今の俺に短期間で一本仕上げる能力も根気もないよ」
待っていた絶好球がやってきたように、栢森は頬を緩ませた。
「からかわれて諦めた、か。なるほど。語るに落ちるとはまさにこのことね。能力だの根気だの、ましてやキャラの話はしていないわ。今のあんたに書きたい気持ちがあるかどうかを聞いているの」
「それは……」
胸を張った栢森に圧され、俺は眉をひそめた。すぐにでも「ない」と言ってやりたかったのに、思うように言葉が続けられない。そのことが自分自身でも意外で仕方がなかった。
中学校卒業直前、うっかり公にしてしまった創作をバカにされた事で、俺は筆を折った。なんてことはない、挫折とも言えないほど粗末な諦めだ。
自分のやっていたことがくだらないことだと言われたような気がして、それがどうしようもなく恥ずかしくて、想い自体を葬ったつもりだった。だから今の俺に脚本を書きたい気持ちなんて残っているわけがない。
それなのに、やはり簡単な二文字が喉から先に進んでくれない。
言葉を続けられずただただ震えていた俺を見て、栢森は穏やかに微笑んだ。
「今の間を見れば、十分やる価値がありそうね。やっぱり今回の燈花祭はオリジナルがいいわ。もちろん、脚本を書くのは安堵よ」
「ちょっと待てよ。やるとは——」
「大丈夫、私に任せておきなさい。あんたのキャラクターとやらを崩さないまま、バトンを渡してあげる! 筋書きは整ったわ!」
不穏な言葉達を吐き出しながら、栢森は立ち上がり鞄を担いだ。俺は慌てて喉を震わせる。
「なんかおかしなことを企ててないか?」
「どうでしょうね。さあ、いつものやるわよ! 今日も私はかわいい、今日も私はかっこいい、今日も私は主演女優賞! はいリピート!」
勢いにつられ、自動的に俺の口が動いた。
「今日も栢森はかわいいし、かっこいいし……主演、女優賞? なんだそれ!」
「よしっ! 今日も一日張り切っていきましょう!」
「あっ、おい! 栢森!」
栢森は目にも止まらないスピードで隣をすり抜けていった。ピッタリ時間通り、いつもの光景が流れる。いつもと違うのは、栢森がなにやらをたくらんでいそうだということ。教室での彼女を止める術など俺にはない。
せめて、こちらに降りかかってくる火の粉が最低限であることだけを願っておこう。奥底に埋めた過去の想いが、目を覚まさないように。
不安がこもった溜息を吐き出し、重い腰を上げる。どこかから吹き込んだ冷たい風が、文庫本に張り付いた付箋を揺らした。




