22.栢森あやめは夢を見る
「最後まであやめの相手をしてくれてありがとね」
「いえいえ。光栄なくらいです」
「なにそれ、変な謙遜だなぁ」
栢森の母は、愉快な笑みを咲かせてハンドルを切った。エンジン音の小さい軽自動車が夜の街を進む。ぼんやりと光るカーナビには、目的地までの時間が四〇分と表示されていた。
眠ってしまった栢森を置いて、俺は栢森母に家まで車で送ってもらうことになった。
友人の母と二人でドライブ。車に乗り込んで数秒は何を話そうかと脳を動かしていたが、エンジン同様軽快に回る栢森母の口のおかげで、その憂いも無くなった。
赤信号で車体を止め、栢森母はじっとりとした目をこちらに向けた。
「何回も聞くけど、本当に付き合ってないの?」
「付き合ってないですって」
「二人っきりで遊んでたのに? 本当に道中何もなかったの?」
「ないですよ。ただの友達です」
「なぁんだ。残念。もっと盛れよ高校生」
栢森母は唇を尖らせてアクセルを踏んだ。同時に発進したトラックが、ものすごい勢いで追越車線を駆け上がっていく。
遠くの景色を眺めながら、彼女は言葉をつづけた。
「あやめ、今日楽んでた?」
「はい。……だといいんですけど」
「安堵ちゃんは?」
俺は栢森母の方を向いた。流れる街頭が、心地よいリズムで彼女の姿を照らしている。運転する彼女はもちろんこちらなんて見ていなかったが、横顔で上がる口角が栢森そっくりだった。
親子というのは、顔つきだけじゃなくて空気感まで似てくるんだな、などという呑気なことを考えながら、俺は言葉を返した。
「僕も楽しかったです」
「なら良し! あやめが高校に入って誰かと遊びに行くなんて初めてだから、心配してたのよね。空回りしてないかーって」
「あ、でも予定の立て方は致命的に下手でしたよ」
栢森母は高い笑い声を発し、とんとんとハンドルを指で叩いた。
「でしょうね。リスト見て引いたもん。あの子、一日が百時間あると思ってるんじゃない?」
「ですよね! 全く同じこと思いました」
栢森との関係上、共感してもらえるということが今まで無かったから、心が躍ってしまう。俺も栢森母に合わせて声を出して笑った。俺の感覚は間違っていなかったようだ。今後は予定の立て方をこっそり教えてやろう。
窓から心地よい風が吹き込んでくる。先程までは片鱗も見せていなかった夏の終わりが、ふと姿を現したようだった。
快活に車を走らせながら、栢森母は人差し指を上げた。
「ここだけの話、一週間前くらいからそわそわしてて大変だったのよ?」
「栢森がですか?」
栢森母はシートに背中を預け、悪戯っぽく微笑んだ。
「この服とこの服どっちが良いと思う? メイク濃くない? 髪は下ろす? 結ぶ? とかね。面倒くさいったらありゃしない。あとは、熱が出てんのに行くって聞かないとか」
「熱⁉︎」
「そう。あのバカ、一昨日から風邪ひいて寝込んでやんの。無理すんなって言ったのに、今日は絶対行くって聞かなくてさ。それだけ楽しみにしてたんだろうね」
「そう、なんですね」
車が止まる。赤信号が煌々と目の前を照らしている。
彼女がおんぶされる栢森に言及しなかったことにも、これで合点がいった。
なんだよ栢森。人には無理をするなと言っておいて、自分はしっかりと無理をしていたんじゃないか。いや、そもそも俺は一日を通してそんなことにも気付けなかったのか。
指に力を込めた俺を横目で見て、栢森母はふっと息を吐いた。
「安堵ちゃんが負い目を感じる必要はないよ。体調管理を怠ったのもあやめ、行くって決めたのもあやめ、強がったのもあやめ。結果楽しそうだったなら、それでもあの子にとっては最高の一日だったと思うし」
「……はい」
「むしろよく連れて帰ってきてくれたよ。再三になるけど、ありがとうね」
撫でるような彼女の声で、俺は身体から力を抜いた。
青信号に変わり車が進み始める。愉快そうな栢森母は、鼻歌を歌うように言葉を続けた。
「というか、そこまで楽しみにしてたからこそ、付き合ってないっていうのがやっぱり納得できないんだけど。本当に付き合ってないのよね?」
深々と悩んでしまったのが馬鹿らしくなった。興味への実直さ。大人になった栢森と話しているみたいだ。やはり親子は空気感が似ているらしい。
俺は静かに笑みを浮かべ、窓の外を眺めた。
「付き合ってないです。あんまり言うと栢森に怒られますよ」
「あやめにちょっかいかけるとご飯作ってもらえなくなるから、ここで発散してるの。内緒ね?」
「ろくでもない大人!」
「あはは。あやめにもよく言われるー」
栢森母はそう言って、ばんばんとハンドルを叩いた。笑い声が流れる車内は、終始居心地のいい空間だった。
談笑を交わしていると、あっという間に家に着いた。馴染みの一軒家には、しっかりと明かりが灯っている。まだ十時、そりゃ誰も寝てはいないか。
俺はルームライトを頼りにドアレバーに手をかけた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ遅くまでありがとね。あ、最後に確認なんだけど、二人は本当に付き合って——」
「ないです! 蛇並みにしつこいですね!」
「そんなリアクションをされると、また言いたくなっちゃうよね」
「勘弁してくださいよ」
悪戯っぽい表情から逃げるように、俺はドアを開けた。一歩外に足を踏み出しただけで、再び夏が帰ってきたような気分になった。
「栢森によろしくお伝えください」
「はいよ。安堵ちゃんはからかうと面白いよって伝えておくわ」
栢森母は目を糸のように細くして、ひらひらと左手の指を揺らした。ぼんやりとした明かりに、ふと真剣な表情が浮かび上がる。
「誰に似たのか融通が利かないし、無駄に頑固だし、強がりばっかりですぐ道を見失う馬鹿な娘だけど、意外と頑張り屋で可愛い奴だからさ。懲りずに仲良くしてあげてね」
「……はい」
「人を頼るのも下手だから、困っていたら、手を差し伸べてあげて欲しい。安堵ちゃんがしんどくならない程度に」
「わかりました」
「私は安堵ちゃんが息子になっても全然構わないから、気が向いたらそっち方面でもよろしくね」
構えたほど真面目な話ではなかったらしい。真面目と不真面目が混線していてどれが本心かはわからないが、きっと照れ隠しかなにかなのだろう。栢森の母親だし。
俺は真っすぐ笑みを返しドアを閉めた。星々が輝く空に、ばたんという鈍い音が響いた。
「それは了承しかねます」
「あっは。あやめだっさ、振られてやんの。じゃあね、今度はまたゆっくりおいで。ユリちゃんによろしく!」
勢いよく言葉を放り、栢森母はハンドルを握った。薄緑色の軽自動車が、再び呼吸を始め走り去っていった。
エンジンの音が遠くなるにつれ、どんどん疲労感が降りかかってきた。一日の出来事とは思えないほど濃い記憶がくるくると脳を回り始めるが、それを見返すほどの元気はもうない。
頭の中を空にするように息を吐いた俺は、脱力したまま家に入った。
そういえば、栢森母はなぜ姉の名前を知っているんだろう。あがきのように浮かんだ思考も、玄関扉が閉まる音に合わせて消えていった。




