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迷子のアイリス  作者: 豆内もず
第四話 夏休み、晴れのち曇り。
19/35

19.栢森あやめは走り去る

 薄暗い正面のガラスには、肩を並べて座る俺たちが映っている。ピークを過ぎたのか、帰りの電車は容易に座ることが出来るほどゆとりのある乗車率だった。心地よい空調と程よい揺れが、脳と身体に疲れを思い出させる。

 プラネタリウムで時間を潰したおかげで、一日を通してスムーズに娯楽施設を利用することができた。栢森が提案したやりたいことリストも、それなりに消化できたのではないだろうか。

 時間はどう過ごすかによって感じ方が変わるとはよく言うが、今日という一日はいつにも増して早く過ぎ去っていった気がする。

 端の席に座る栢森からも、あふれんばかりの愉快さが浮かんでいた。

「あー楽しかった! こんなに遊んだの、高校に入ってから初めてよ」

 栢森は大きく身体を伸ばした。同じ夏を過ごしているとは思えないほど透き通った腕が、照明の光を吸い込んでいる。

 高校に入ってから初めて。確かに栢森には仲のいい友達がいなさそうだしな。疲労から余計なことを言いそうになった口を噛み、俺も両手を伸ばした。

「さすがの栢森でも、ちょっと疲れたんじゃないか?」

「はあ? 疲れてないわよ。私、疲れにも耐性があるから」

「すごいなぁ。俺はもうくたくただよ」

「ふふっ。日々の鍛錬が足りていないようね!」

 どうだと言わんばかりに口の端を上げた栢森は、何かを噛み締める様に顔に力を入れた。

 どう見ても欠伸を噛み殺してるじゃないか。口では強がりを言いつつも、彼女にも疲れがあるのだろう。

 俺の乗換駅までは十五分ほど。思い出話に花を咲かせるには少し心許ない。それでも俺は、とりあえず頭に浮かんだ言葉を繰り出した。

「栢森が流行りの曲を歌うとは思わなかったよ」

「私を原始人かなにかだと思っていたの?」

「いやそうじゃなくて。栢森って毎日忙しそうだから、そういうのに疎いのかと」

「忙しいのは事実だけど、流行りものくらいはちゃんと追っているわよ」

「意外性抜群だな。でもちゃんと上手くてそれも驚いた」

「もっと味がある歌声を期待していたのかしら?」

「正直な。杞憂に終わってよかったよ」

 俺がそう返すと、栢森は小さく息を吐いて笑みを浮かべた。お互い言葉を続ける事なく、窓の外に視線を向ける。

 目に見える弱点がない分、流行に疎いとかとんでもなく音痴とか、そういう要素でのバランスを求めてしまうのは仕方がないことなのだ。

 何に対してかもわからない言い訳を頭いっぱいに浮かべる。

 電車が駅に到着し、ブザー音と共に扉が開いた。緩い空気を纏いながら、二人組のサラリーマンが通り過ぎていく。左隣で空気が薄く揺れる。

「カラオケも、映画も、ゲームセンターも……。楽しかったなあ。でも、プラネタリウムが一番楽しかった……」

「お気に召して良かったよ」

 栢森のぼんやりとした声に言葉を返し視線を向けると、開いているかも定かではないほど目を細めた栢森が、全ての力を肘掛けに預けていた。

 どうやら彼女は心底お疲れらしい。俺は小さく笑みを浮かべ、視線を正面に戻した。半分ほど席の埋まった車両が再び揺れ始める。それに合わせて栢森の声も揺れた。

「見慣れた空には、今まで見つけられなかった星がたくさんあって……。ときめきというのは、案外近くに落ちているものね」

「そうだな。街明かりが強いと、小さな星までは見えないから」

 視界の端でこくりこくりと栢森の頭が揺れる。

「あんどぉ……」

「なんだよ」

「次は、どこに……」

 数秒待ってみても、栢森の言葉は途切れたままだった。何を言おうとしたんだろう。俺は慌てて彼女の方に顔を向けた。

「か、栢森?」

「んぅ? なんか言った?」

 こちらを向いた栢森は、起きているか寝ているかもわからないほど呆けた表情をしていた。

 寝落ち寸前というか、寝ている途中というか。ターンは栢森に向いていたはずだが、もう自分が何を言ったかも覚えていないんだろう。

 次の駅のアナウンスが車内に流れる。栢森の最寄り駅まではまだ三十分以上はある。

 俺は驚くほど間抜けな彼女の顔に、ワントーン落とした声を返した。

「なんでもないよ。楽しかったなって言っただけ」

「……そう。ふふっ」

 穏やかな表情を浮かべた栢森は、一分もすればすうすうと寝息を立て始めた。俺はほのかに息を漏らし、深く椅子に背中を預けた。

 艶やかな肩口、ショートパンツから伸びる細い足、パステルカラーで彩られた爪先。いつもは鋭く上がっている口の端が、だらしなく重力に身を預けている。

 和やかさ半分、恥ずかしさ半分。居場所を失くした俺の瞳が、うろうろと窓の外に矛先を向けた。ぼんやりとした自分の姿の先に、夜の景色が流れている。

 星を探そうと目を凝らしてみたが、浮かんだのは薄暗い街の灯りだけだった。


 三十分ほど栢森の寝息に耳を傾けていると、電子案内が「敷江」という単語を読み上げた。時折当たる肩の感触を噛み締める時間も、そろそろ終わりにしないといけない。

 俺は慎重に栢森の肩を叩いた。

「栢森。駅につくぞ」

「ふぐっ! はっ!」

 尻を焼かれたように飛び上がった栢森は、大きく見開いた目で周囲を見渡し始めた。

 電光掲示板、人の数、窓の外の景色、俺の顔。じっくりと視線を往復させた彼女は、最終的に目を細めて俺を睨んだ。

「ね、寝てないわ!」

「それはさすがに通らんなあ」

 栢森自身もそう思っているのだろう。彼女はばつが悪そうに頭を掻いた。

「ああもう。なんでもっと早く起こさないのよ」

「だって寝てたし」

「全然答えになってない」

 喉が温まっていないのか、栢森は咳払いを一つ挟んだ。

「あんたの乗換駅もとっくに過ぎてるじゃない。何してんの?」

「タイミングを逃したんだよ。どうせここまで来たし、夜も遅くて心配だし、家の前まで見送るわ」

「ええー……」

「嫌そうな顔すんなよ。別に家に上がろうってわけじゃないんだから」

 露骨に眉をひそめる彼女におどけた表情を返す。もちろん邪な感情は全くない。ただただ心配だという感情が九割、格好つけたいという感情が一割。十分邪かもしれない。

 苦虫を噛み潰し続けた栢森は、諦めたように息を吐いて立ち上がった。

「まあいいわ。降りるわよ」

 電車の扉が開き、栢森がホームに足を付ける。相変わらず上から目線で困ったものだが、許可は下りたという認識でいいだろう。俺は彼女に続いて電車を降りた。

 敷居を一歩跨いだだけで、先程までの楽園が幻だったかのように、熱気が身体に纏わりついてきた。汗腺が役割を思い出し、えっほえっほと汗を吐き出している。

 敷江駅。ほぼ名前しか知らない駅だったが、人の流れと線路の多さを見たところ、それなりに大きな規模らしい。

 黙々と進む背中を追いかけ出口に進むにつれ、賑やかさが途切れていく。いつもは耳も傾けない虫の声も、栢森が生活している地域のものだと思うと、特別なもののように思えた。

 三分ほど歩いた後、少し足の勢いを落とし、ようやく栢森が口火を切った。

「違和感がすごいわ」

「違和感?」

「ここに安堵がいるってことがね。水槽の金魚に紛れてハムスターが泳いでるくらいの違和感よ」

「見たことねえよそんな光景。まあ栢森様を危ない目に合わせるわけにはいきませんから。慣れない水槽も泳いで見せますよ」

「ふふっ。なによそれ」

 熱気のこもった笑い声が夏の夜空を泳いでいく。

「まさか寝ちゃうとは思わなかったわ。電車ってなんであんなに眠くなるのかしら?」

「わかる。ほんと不思議だよな」

「その割に、あんたは寝た気配が無かったけど?」

「隣に美少女がいて、暢気に眠るやつがいるかよ」

「あら、褒め言葉もようやく仕事を始めたみたいね」

 満足げに口角を上げる栢森は、額に張り付いた前髪を払った。電車内との温度差が激しいこともあってか、彼女の発汗量も普段では見られないほどだった。

 頭に浮かんだデリカシーの欠片もない言葉を喉元で留め、俺は手のひらで顔を仰いだ。

「夜になっても暑いな。汗が止まんねえ」

「電車が涼しかったから余計にね。夏が暑いのは良いことじゃない」

「確かにな。あ、コンビニ寄っていいか?」

「ええ。私もちょうど飲み物が欲しかったし」

 俺は十メートルほど離れた先で光る橙色の看板を指さした。栢森も同じ心持だったようで、珍しく二つ返事で了承が返ってくる。

 虫の声に入れ替わるように、排気量が多そうなバイクが通り過ぎていった。薄い光に照らされた栢森の横顔は、角がなく柔らかかった。

 同じ時間を共にするということには、期待と不安両方の側面が孕んでいると思う。

 楽しい瞬間への期待、楽しんでくれるだろうかという不安。俺が楽しかったから良かったというだけでは割り切れないのが、俺という人間の仕組みである。

 だからこそ、別れが近い時間で彼女の柔らかい表情を見られたことが正直誇らしい。誘ってよかったと心の底から思った。


 感慨深さを噛み締め足を進めていると、アスファルトを蹴る音を割くように、コンビニの入口の方から声が響いた。

「えっ? 安堵!?」

 俺は急いで視線を正面に向け目を細めた。コンビニを背景に少女のシルエットが浮かんでいる。

 名前を呼ばれたな。地元のコンビニならまだしも、この水槽内で俺は歪なハムスター。知り合いなどいるはずがない。

「えっと……」

 俺は呻きながら逆光に目を凝らし、必死に姿を読み解いた。ジャージを着た同年代の女の子だということはわかる。いや、既視感もある。ただ脳の情報と固有名詞が合致しない。

 ということは、たった今俺はかなりの失礼をかまそうとしている。

 沈黙の意味を悟ったように、少女はくすりと笑みを浮かべた。

「その顔、さては忘れてるなぁ。ゆかりだよ、なるみゆかり」

成海(なるみ)……。あっ!」

 ようやく脳内ネームプレートがピッタリと当てはまった。

 成海ゆかり。小学校のときに引っ越した同級生の名前だ。家が近所でよく遊んでいたのに、今の今まで記憶の隅に追いやってしまっていた。わかってから見てみれば、たしかにしっかりと面影がある。

 そういえばかつて彼女は、この街に引っ越すと言っていた。敷江という土地に聞き馴染みがあった一因は、彼女にもあったのか。

 俺は先ほどまでの失態を無い物にしようと、急いで手を挙げた。

「成海か! 久しぶりだな!」

「ねー。びっくりしたよ。別人だったらどうしようかと思った」

「よく俺だってわかったな」

「顔のパーツが昔のままなんだもん」

 成長期を挟んだ十年弱で、顔つきがそのままなことなんてあるものか。ラフな成海の姿がどんどん鮮明になっていく。過去の思い出が哀愁を生んだ。

「小三以来か。お互いに歳を取ったなぁ」

「なにそれ。親父くさ」

「うるせえ」

 笑う成海に合わせ俺も笑みを返した。久しぶり過ぎてもはやどう喋っていたかもはっきりと思い出せない。探るような俺に反し、成海は愛想よくこちらに近づいてきた。

「こんなところで何してんの? って野暮な話か。彼女連れて良い身分だねー」

「その言葉を野暮っていうんだぞ。友達だよ友達。ただのクラスメイト」

 俺は視線を逃しながら息を吐いた。しっかり言葉を選んでくれよ成海。俺の後ろにいるのは、可愛い猫さんなんかではなく、マウントに飢えたライオンさんだ。うかつに手を出すと噛みつかれるぞ。

 俺の願いを知ってか知らずか、成海は栢森の方を凝視した。

「ははは。テンプレかよー。ごめんね彼女さんお邪魔しちゃ……って」

 愉快に煽りを入れ始めた成海の目が、途端大きく見開かれた。一瞬は俺が美少女を引き連れていることに驚いたのかと認識したが、すぐさまそれが間違いだったことを理解させられる。

「あ、あやめ?」

 成海は幽霊を見たように口を震わせた。背後から言葉は返ってこない。恐る恐る振り返ると、肩を震わせ俯く栢森が目に映った。

 虫の声がうるさいと感じるほどの静寂がしばらく流れ、再び成海が口を開く。

「やっぱりあやめじゃん。まさかタイミングで会うなんて」

「知り合いなのか?」

「中学が同じだったからね」

「なんだ、そうだったのか。……それにしても、すごいぐうぜ──」

 不穏な空気に戸惑い言葉を探っている途中で、激しい足音が鳴った。視界の端から消えていく人影。振り返り捉えられたのは、走り去る栢森の背中だった。頬で踏ん張っていた汗が、ぽたりと地面に身を投げた。

 逃げた? 逃げたのか? なぜ? 爆発しそうな心音を急いで声に乗せた。

「お、おい!」

 とっさに言葉を投げても、彼女の足は止まる気配がない。成海の顔を見てみたが、もちろん答えは書いていない。

 なんだというのだ。今日一日を楽しく過ごし、さっきまで和やかに話をしていたのに、幼馴染と偶然会うというイベントが発生しただけで、どうしてこんな事になってしまうんだ。

 立ち止まってのんびり考えている場合か。俺は成海に手のひらを向けた。

「悪い成海! また今度な!」

「ええっ! ちょっと!」

 声を背を受け、俺は足音を追いかけた。

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