18.栢森あやめは目を輝かせる
夏休みだからといって、施設のキャパシティが増えるわけではない。栢森が提案した娯楽施設にはことごとく満員の文字が浮かんでいた。
煌びやかな建物を背に、俺たちは緑道を歩く。さわやかな夏の草木に囲まれながら、栢森がセミの声に負けないほど大きな声をあげた。
「どこもかしこも三時間以上待ちっていうのはどういうことなの⁉︎ 待ち時間だけで一日が終わっちゃうじゃない!」
「夏休みだからなぁ」
「責任者はどこにいるの⁉︎」
「夏休みの? 直訴しても解決しないだろ」
「ああもう! そこのけそこのけあやめ様が通るの!」
ふんふんと勢いよく腕を降る栢森には申し訳ないが、こんなものはもはや予定調和だ。こうなるからみんな事前に予約を取るわけで、予約を簡単に出来るツールが発達するのだ。そうしてあぶれた俺たちのような人間が路頭に迷うことになる。
事前にやることを伝えてくれていれば、雀の子を躱しながらスムーズに案内できたのに。栢森のセンサーは、どうやら遊び方面には伸びていないらしい。
「今は事前に予約できるツールも増えてるからな。夏休みはどこもあんな感じだよ。暑苦しいから落ち着けって」
「もう、わかったってば! その懇々と説明する感じ止めてもらえる? 私が無茶苦茶言ってるみたいじゃない」
実際そう見えているが。言葉を留め肩を竦めた俺を見て、栢森はふうと一つ息を吐いた。
「で、唯一空いていそうなのがプラネタリウムというわけね」
「悪かったな。リストに入っているものじゃなくて」
皮肉を返しながら、俺は視線を前に向ける。緑道が切れた先に、古びた文化センターが佇んでいた。
ほぼ地元民しか利用しない文化センターでは、定時でプラネタリウムが上映される。駅から少し離れるから注目度も低いし、過去の記憶が正しければ、夏休みであれゆとりをもって利用できるはずだ。
保険で用意した案だったが、栢森がポンコツなせいで、さっそく手札を切ることになってしまった。
数秒前まで鼻息を荒くしていた栢森は、スイッチを切り替えるようにもう一度息を吐き出した。
「思いついていなかっただけで、決して嫌なわけじゃないわ。だから大人しく着いて来てるじゃない」
「大人しい……?」
「文句があるなら聞くわよ」
「いえ、大丈夫です」
「だったら疑問符を投げず、大人しく案内しなさい」
じっとりとした栢森の目を躱しつつ、俺はいそいそと文化センターに足を踏み入れた。
自動扉が閉まると同時に、喧しい蝉の声は聞こえなくなった。この施設には小規模とはいえ図書館も併設されているし、ちょっとした多目的ホールもあるはず。それなのに、しっとりとした静寂がセンター内を包み込んでいた。
「諸々の順番が回ってくるまでの時間つぶしにはちょうど良いだろ? なにより涼しいし」
「そうね」
辺りを見渡し汗を拭う栢森を引き連れ、流れるようにプラネタリウムに向かう。次の投影が大人向けのプログラムということもあってか、懸念していた小学生たちの姿も見られなかった。
券売機でチケットを購入し、片割れを手渡したところで、栢森が怪訝そうに首を傾げた。
「安堵はこの場所に詳しいの?」
「詳しいってほどでも」
「それにしてはやけにスムーズね。一回来たことがある、なんて慣れ方じゃないわ。昔通っていた、とか?」
栢森は受け取ったチケットをショルダーポーチにしまい、近くの長椅子に腰掛けた。
「よく見てるな本当に。栢森の観察眼には脱帽だよ」
「その褒めが逃げ口上だってこともわかっているわ。聞かれたくないことでもあるの?」
一人分スペースを空けて座った俺に、栢森は悪戯っぽい笑みを向けた。さっきまで社会の仕組みに文句を述べていたと思えないほど冷静な彼女の言葉が、ひたりと心臓に張り付いてくる。
「別に。中学の頃、星に興味があったタイミングがあって、何回か来たことがあるだけだよ」
「へえ、素敵じゃない。意外とロマンチストなのね」
「そんな良いもんじゃねえよ。かっこいいだろ、星に詳しいって」
「ださっ。褒めて損したわ」
栢森は不満そうに眉をひそめ、呆れたように息を吐いた。だから言いたくなかったのに、という念を込め、俺も溜息を返した。
中学時代の俺は、電車賃を握りしめ足繁くこの場所に通っていた。それも星のことに詳しければ、ちやほやされるかもしれないという不純な理由で。そして今の俺は、その過去を恥ずかしいものだと認識している。ブランディングの邪魔になる過去は、いつだって隠しておきたいものなのである。だから普段友達と遊ぶ時なら、候補に入れたりしない。
券売機の方に流れていくカップルを眺めつつ、栢森はぼんやりと呟いた。
「プラネタリウムなんて、小学校の社会見学以来よ」
「そうか。その時はどんなプログラムだったんだ?」
「覚えてない。目を瞑った次の瞬間、終わっていたわ」
栢森は他人事のように遠くを眺めてそう言った。
「……寝たのか?」
「しょうがないでしょ。バス酔いでボロボロだったんだから。苦い思い出しかない」
当時の栢森の姿が想像できず、俺はうっかり息を漏らして笑みを浮かべた。
「栢森のそういう話、初めて聞いたわ」
「なによ、失礼なやつね。名刺に載せたくないエピソードくらい、誰にでもあるものよ」
「栢森にはそれもないと思ってたから驚いたってことだよ」
「私は天才だけど、超人ではないから」
一旦は不機嫌そうな顔を浮かべた栢森も、俺に合わせて薄く微笑んだ。苦いエピソードを吐いても、結局最後は強気で終わるところが実に栢森らしい。
俺は高校に入ってからの栢森のことしか知らない。高圧的という個性が一等星のように強く輝いているせいで、目を凝らさないと見えないが、彼女にも恥ずかしい思い出の一つや二つあってもおかしくはない。
だとすると、今の栢森を形作っているのはどんなエピソードなんだろうか。それを知れば、もっと彼女のことを理解出来そうな気がする。
俺が余計なお世話を浮かべている間、栢森は壁に張り付いた天体図をじっと眺めていた。
少しの間の後、係員の呼び込みがあり、俺たちはシアター内に足を進めた。薄い明かりを頼りに真ん中あたりの席に並んで腰掛ける。結局投影が始まっても、座席は四割程度しか埋まっていなかった。
果たして栢森は楽しんでくれるだろうか。いやいや、そもそもここに来ることになったのは栢森のせいだし。不安とふてくされの丁度間くらいの感情は、暗転と共に星空に溶けていった。
◇
穏やかな声が導く今日の夜空の事情。星の生まれ方を説明するアニメーション。
一人で通っていた時と別物に見えたのは、俺が数年分歳を重ねたせいだろうか。はたまた、隣から時折漏れていた声にならない声のせいだろうか。栢森がリアクションをするたび、嬉しくてたまらなかった。
プログラムが終わり建物から出るや否や、静寂から解放された栢森がうっとりと言葉を漏らした。
「はぁ、素敵だった。夜空を眺めるのが楽しみになったわ。はやく夜にならないかしら!」
ジャズのようなリズムで弾む栢森は、晴天を仰いで両手を広げた。
「季節に応じての星座を紹介してくれるから、何回行っても楽しめるぞ」
「なるほどね。中学時代の安堵の気持ちが、少しわかった気がするわ」
「案内した甲斐があったよ」
手柄などないに等しいのに、俺は得意げにそう返した。栢森の様子はご機嫌の極み。ここで「つまらなかった」なんて言葉を吐かれてしまっていたら、過去の自分に申し訳がつかない。そこまで考えて、他の友人には紹介しなかった理由がなんとなくわかった。それでも、ここまで感性に刺さってくれるとは思わなかったが。
星空のように目を輝かせ続ける栢森は、緑道を進みながらこちらに人差し指を向けた。
「どうせなら、実際の星空も見に行きたいわ! 光の少ない山に行けば見えるかしら?」
「そうだな。じゃあ——」
俺はそこまで言って言葉を切った。やかましい蝉の声が耳に届く。突如フリーズした俺に対し、栢森が不思議そうに首を傾ける。
「なによ端切れが悪い」
「悪い……。何言うか忘れたわ」
「ふふっ。暗いところに行って眠くなったのかしら? まだまだこれからなんだから、しゃきっとしてよね!」
「わかってるよ」
ふんふんと息荒く首を振った栢森は、力強く駅の方を指差した。
「よし! じゃあ次はカラオケを倒しに行きましょう! そろそろ私たちの番よね?」
俺は携帯電話を取り出し、ぼんやりと画面を眺めた。映った呼び出し順を見たところ、あと三〇分もすれば手番が回ってくるだろう。頷きを返すと、栢森はにやりと口角を上げた。
「私の美声に酔う覚悟は出来ているかしら?」
「行く前にハードルを上げる姿勢、ほんと尊敬するよ」
「棒読みすぎ! あんた、夏休みの間に褒めるのが下手になった?」
「いやいや、今日の栢森に隙が多いだけだから」
「やかましいわ! ほら、さっさと歩く!」
「はいはい」
傍から見た時、やかましいのはどっちだろうな。早足になった栢森を追いかけながら、俺は大きく息を吐いた。いつもより大人びた彼女の後姿が、子どもっぽく跳ねている。
機嫌よく弾む少女の姿に微笑ましさを覚える傍ら、先ほどの自身の行動が、背中の真ん中あたりをもぞもぞと刺激してくる。
とぼけたふりをして誤魔化したが、俺は栢森に「じゃあ一緒に星を見に行こう」と言おうとした。彼女が実際の星空を見たいと言ったのだから、話の流れとしてはおかしくないはず。
しかし俺は、そんななんてことない誘い文句を、何故か胸の内に蹴落としたのだ。感情を隠すための行動が、逆に違和感として浮き彫りになってしまう。
友人相手にならすんなりと言葉を吐けただろう。今日の約束を取り付けたように、他愛のない心持ちで。だからこそ質が悪い。
おそらくその差を突き詰めた先が、この感情の答えなのだ。怖いから掘り起こしてやらないが。
答えから逃げるように、俺は彼女の背中を夢中で追いかけた。