16.栢森あやめは折りたたむ
配布されたテスト結果を見た時、一番最初に浮かんだ感想は、「これでも足りないか」だった。学年順位や平均点が書かれたA5サイズの紙きれをポケットに突っ込み、俺は大きく息を吐いた。
今週を乗り切れば夏休みという浮かれた月曜日。穏やかな笑みを浮かべる夏休みの目の前に佇んでいたのは、厳かな顔をしたテスト返却という門番だった。
うちの学校では、全教科の答案用紙がまとめて返却される。上位者が大々的に掲示されるなんてことはなく、答案用紙と同時に配布される紙きれ一枚によってのみ、自分の位置を知ることが出来るのである。
テスト結果を踏まえた放課後の教室の空気は、有り体に言えば地獄だった。
「やべえよマジで」
「最悪だよ本当に。ちゃんと勉強しておけばよかった」
「赤点ぎりぎりだったよー」
クラスメイトから飛び交う様々な阿鼻叫喚。誰も具体的な順位を言わず、ただただ悲惨だということを嘆きながら周りの様子をうかがっている。
自分の上下に誰がいるかわからないからこそ、こういった水面下での探り合いが行われる。栢森ほど露骨じゃないにしろ、マウントの取り合いというのはどの集団においても行われるのだ。
当の栢森は、しっかりと一位を自慢して周囲に苦い顔を咲かせていた。毎度お疲れ様です。隣の宮城さんには、特別な手当てを与えたほうが良いと思う。
「安堵は? まさかとは思うが、抜け駆けしてないだろうな?」
ぼうっと栢森を眺めていると、手番が回ってきてしまった。俺に言葉を向けた鈴木は、もうすでに部活動に行く準備が万端である。きっと一言二言返せば輪は解けていくだろう。
俺は誰の物とも分からない机に腰を預けた。
「俺? うーん。なんとか赤点回避出来たくらい。いつも通りだよ」
「なんだよ優等生かよ!」
「優等生のハードル低すぎな。ほんとヤマが当たって良かった」
「くぅー! その勘の良さからまずは分けてくれ! あと数学はお前のおかげでなんとかなったわ」
「そりゃ良かった。ひとまずこれで勉強とは一旦お別れだな」
声高く騒ぐ鈴木を横目に、俺も例にもれず、具体的な順位を言わずへらへらと愛想を返し続けた。
俺のキャラクターにこの順位は邪魔なだけなので、絶対にオープンにしてやらない。いつも以上に周囲に気を配りつつ、ポケットに突っ込んだ文字列を思い返した。
学年七位。一五〇〇人以上いる生徒数を考えれば、自分でも信じられないほど上出来だと思う。実際手ごたえ以上の結果が返ってきたし、本来であれば文句のつけようがない。
しかしながら、こと今回において、俺は学年一位を狙っていたのだ。だからこその「これでも足りないか」なのである。栢森の立っている場所は、想像以上に高かった。
じんわりと部活に向かって行くクラスメイトを見送り、もやもやを抱えたまま、いつも通り屋上前へと向かう。
「じゃんじゃじゃーん! 満点とまではいかなかったけれど、ちゃんと一位を取ってきたわよ! どう? すごいでしょ?」
屋上前に現れた栢森は、高らかな声とともにテスト結果をこちらに向けた。同学年生徒を母数に、輝かしい1の数字が並んでいる。学年トップであれ、紙の質は変わらないんだな。当たり前か。
くだらない感想を浮かべながら、俺は彼女と紙切れを交互に見比べた。
「すごすぎて絶句」
「絶句している場合じゃないでしょ! ほら、もっと言うことはないの⁉︎」
「どの教科も穴がなくて、まさに完璧な結果だよ。栢森はすごいなぁ」
「ふふん!」
最上部に腰掛けた栢森を一瞥し、俺はポケットに手を突っ込んで大きく息を吐いた。
逆にどこを間違えたのか知りたくなるような高得点の羅列。もはや体調不良の一つや二つでどうこうなるレベルの差じゃない。日頃、というかそもそも高校生活全てにおける蓄積が今回の敗因だろう。それが出来るというのが彼女の強みなのである。
褒め言葉を憮然とした態度で待ち続ける彼女に向け、俺は言葉を付け足していく。
「やっぱり日々の積み重ねが大切なんだな」
「そうそう。テスト前に一気に詰め込んでも、粗が出てくるのよ」
「だよなー。これを毎回とか、本当に尊敬するわ」
「その尊敬をもっと言葉にしていいのよ? クラスメイトは相変わらず塩対応だったから」
「それこそすごすぎて絶句してたんだろうよ。形容詞の敗北だ。言葉に出来ないほどの天才、栢森あやめ。かっこいいな」
「褒めている……のよね?」
一旦褒め言葉を吟味した栢森は、少しの間を空けて満面の笑みを浮かべた。
「そんな安堵は学年何位だったの?」
なるべくこちらに話の矛先が向かないように躱したはずだったが、すかさず栢森は悪戯っぽく口元を曲げた。ど真ん中に綺麗に収まるストレート。勝負を吹っかけたくせに、クラスメイト同様煙に撒けると思っていた俺が馬鹿だった。
俺は諦めてポケットから順位表を引きずり出した。
「笑うなよ」
「あら心外ね。私だって笑いどころは弁えているわよ」
「既に半笑いな奴が言うことかよ」
俺は栢森にゴミのように丸まった紙を投げた。難なくそれを受け取った彼女は、汚いものを触るように顔を歪めた後、「ちゃんと管理しなさいよ」というお小言を添えてシワを広げる。
紙面を往復した彼女の目が、大きく見開かれた。
「七位⁉︎ すごいじゃない!」
「えっ」
俺は思わずほうけた顔を返した。マウントの糧を覚悟していた俺の脳が、ぴたりと思考を止める。
「なによ、教室でテンション低かったから、大失敗したのかと思って焦ったわ。もっと自信満々に振舞いなさいよややこしい」
「や、ややこしい?」
「クラスで見れば二位くらいじゃない? あの短期間で良くここまで仕上げたわ」
「クラスで二位……」
俺は呆然と言葉を繰り返す。違うぞ栢森。ここは「やっぱり私の勝ちね」だろう。お前が大好きな餌場じゃないか。俺は教室でも普段通りの振る舞いをしていたし、どちらかと言えばここでマウントを取ってこない彼女のほうがややこしい。
俺は一つ深呼吸を挟み人差し指を振った。
「いやいや、俺は七位。お前一位」
「見ればわかるわよ」
「どう考えてもお前の前だと霞むだろ」
「すごいと思ったからすごいって言ったの。そんなに引っかかることかしら?」
「すごくもなんともない。七位なんて大したこと──」
「努力無くしてこの結果にはならなかったはずよ」
「それでも、負けは負けだから。かっこつけて負けるとか最悪だよな」
早口で捨て台詞を吐き出し、俺は彼女から視線を外した。薄暗い踊り場がどんよりと気分を下げにかかってくる。
自分を下げるためになぜここまでムキになっているかはわからない。栢森の言葉をすんなり受け入れられない理由もわからない。形容しがたいもやもやが、心を包んでいるようだった。
遠くで響く野球部の声。心を鎮めるには物足りない。しばらく無言が続いた後、丸めた背中に栢森の言葉が降ってくる。
「あら? 言っていることが矛盾しているじゃない」
「矛盾なんてしてないと思うが……」
栢森に目を向ける。彼女は口角を上げたまま、俺の順位表を綺麗に折りたたんでいた。栢森の思惑がわからず、俺はこれでもかというほど眉にしわを寄せ視線を落とした。今度は頭に言葉が降ってくる。
「体育祭で私が八坂さんに負けた時、あんたはなんて言った?」
「細かくは覚えてない」
「じゃあ記憶力抜群なあやめ様が教えてあげる。勝とうが負けようが、私がかっこいいことに変わりはないって言ったの。あの時のあんたは、ちゃんと私だけを見て評価をくれたわ。負けは負けだ、かっこつけて負けて最悪、なんてことを言ってこなかった」
栢森の言葉で、鬱陶しいほど晴れた六月の空を思い出した。
あの時はたしか、吹っ掛けた自分に多少の罪悪感があって、なおかつ本当に栢森がすごかったから、自然とそんな言葉を投げることが出来た。
そもそも自信を持って物事に挑むという行為は、俺からすれば結果如何に関わらず偉大に見えるのだ。
最後まで諦めなかった栢森は輝いていたし、彼女自身がそれを認められない状況が歯痒かったのもあったし、負けは負けだなんて言葉、吐く気すら無かった。
そこまで考えて、何かがぱちりとハマった気がした。
顔を上げる。穏やかな笑みを浮かべた栢森が、いつも通りこちらを見下ろしていた。
「結果としてあやめ様には及ばなかったわけだけれど、あんたの努力が消えるわけじゃないわよ。勝とうと挑んできた姿勢と頑張った過程を私はちゃんと見ていたわ。その上ですごいと思ったからすごいと言ったの。嘘も偽りもない本心よ。わかる? あの時の言葉を嘘にして激怒されるか、大人しく今回の功績を誇るか、好きなほうを選びなさい」
栢森は堂々と言い切って、胸を張り腕を組んだ。飲み込んだ唾液が、間抜けな音になって空気を揺らす。
この状況はあの時と一緒なのだ。吹っ掛けた栢森にもおそらく多少の罪悪感があって、自分の努力を認められない俺に歯痒さを感じているのだろう。そして立場が逆になった瞬間言葉まで真逆になった俺を、彼女は嗜めようとしている。
かかっていたもやが、栢森の声に吹き飛ばされたような気分だった。
本気でやって自信もあって、意気揚々と勝利宣言をしたのに勝てなくて、それが悔しくてたまらない。俺はその感情を隠すため自分を下げて、必死で平静を装おうとしていたんだろう。
結果かつての自分に論破されるとは、なんと滑稽なことか。
本当の意味で冷静になった俺は、自分への呆れを笑みとしてこぼした。
「そうだな。今回の俺は頑張った。順位もめちゃくちゃ上がって最高。次は負けねえから。それだけで良かったよな」
「それが一番綺麗だったんじゃないかしら?」
栢森は満足そうに口角を上げた。
「そもそも普段からの勉強量に差があるんだから、今回で抜かれていたら私が発狂していたでしょうね。ちゃんと緊張感もあったし、いつもより楽しめたわ。次回はちゃんと万全な状態で挑んできなさい! 何度でも受けて立つわ!」
もはや何のために対抗馬に立候補したのかもあやふやになった。ライバル不要説を立証してやろうと思ったのに、次の対戦の約束まで取り付けてしまった。
この場所では虚勢を張らないでおこうと考えていたのに、それすらもまともに機能していない。それでも、栢森が俺に期待をしているということが、なんだか嬉しかった。
俺はゆっくりと息を吸い込んで、穏やかな気持ちでそれを吐き出した。
「今回はさ、我ながら結構頑張ったんだよ。今まで三桁常連だったのが、一桁順位だぞ。なのにキャラを気にして教室では出来なかったを演じたし、今も努力を否定しかけてた。悪い癖ってのは、なかなか直っちゃくれないな」
「そういえば腹の内を隠そうとしてたじゃない! ルール違反ね!」
「いや、違反ってほどじゃ……」
「罰として、夏期講習を受けること!」
栢森はにんまりと口を開いたまま、親指を立てた。夏休み期間中十日間ほど開催される、学年全員を集めた講習会。参加が任意であることから、よほど熱心な生徒でない限り参加しない。もちろん俺も参加しない予定だった。
「マジかよ。俺の夏休みが……」
「どうせ暇なんでしょ? いいじゃない」
返す言葉もない。日々の蓄積が大切だなんてことをしみじみと痛感した顔をしていた分、これ以上渋ることも出来ない。
「わかったよ。罰ゲームっていう体は多少不服だが」
「ちなみに私は全日程受講する予定よ!」
栢森は立ち上がり、人差し指を天高く上げた。勢いよく揺れるスカートが、薄く差し込む夕陽の光を吸い込んだ。
なるほど。結局ここに戻ってくるための餌だったのか。慈悲深い栢森ももちろんありがたいが、この栢森にはもはや落ち着きすら覚える。
俺はわざとらしく腕を組んで、いつも通りの言葉を吐き出した。
「夏休みも手を抜かない栢森はかっこいいなぁ。勤勉さで栢森の右に出るやつはいないよ」
「当然よ。私はいつだってかっこいいんだから!」
栢森はこれでもかというほど口角を上げ、地面に置いた鞄を持ち上げた。
「さあ気持ちも良くなったし、バイトだから帰るわ!」
「おう、気を付けてな」
栢森は綺麗に四つ折りにした紙を俺に付き返して、急ぎ足で階段を下っていった。俺は彼女の足音を見送りつつ、手元に返ってきた順位表を開いた。
学年順位七位。結果が返されてから負の感情しか生まなかった数字が、とたん誇らしく思えた。
栢森あやめがここに現れるようになって早二か月。高圧的な彼女と接するようになったせいで、俺の感性が形を歪に変えているような気がする。目の付け方というかなんというか、多分そういうところが変化してきている。
ただ一つ間違いなく言えることは、空気を読んで自分を卑下するよりも、自分の頑張りを認めてやるほうが心地いい。あれだけ疎まれながらも、自信の功績を誇る栢森のことが、今や羨ましいとさえ思えた。
栢森が動かした風が、くるくると埃を誘導している。眼中になかった夏期講習に意欲的な気持ちが湧いてきているのも、おそらく栢森のせいだと思う。