14.栢森あやめは看病する
威勢よく啖呵を切ったものの、身体にまとわりつく熱はどんどん高まっていった。吐き出す息が熱く、身体はどんよりと重い。俺はろくに知識を詰め込むこともないまま、教科書に目を向け続ける。
徐々に集まってくるクラスメイト達。「やばい、全然勉強してないわ」という不思議な呪文が飛び交う教室。保身のため適当な愛想を返しながらも、高校に入ってから初めてこの光景が不気味に見えた。
テストというシーンにおいては、「やっていない」「出来なかった」というアピールこそが正義になるのはなぜだろうか。
ハードルを下げようとしているのか、栢森のように勉強してないのに出来ちゃったという空気感を醸し出したいのか。はたまた本当に勉強をしていないのか。本当に勉強していない奴や手ごたえがなかった奴は、そんなことすら言わないと思う。
今までであれば何の違和感もなくその空気に馴染めたのに、今日に関してはそんな気になれなかった。これはきっと風邪のせいだ。そうに違いない。
ぼんやりとそんなことを考えているうちにテストが始まり、あれよあれよという間に期末考査一日目が過ぎ去っていく。
芯に細工がしてあるのかと思えるほど重いシャープペンシルを走らせ、もはや夢か現かあやふやなまま、俺は設問を解き続けた。
そうして一日目の最終科目が終わる頃には、もう自分がどこにいるかも曖昧な状態だった。
クラスメイトに挨拶を振り分け終えた後、教室を出た俺は大きく息を吐き出した。
不調を悟られぬよう気丈に振る舞い続けたことも悪化を助長したのだろうか。テストはちゃんとこなしたし、手応えもそれなりにはあったのだが、合間合間の出来事が正確に思い出せない。
みんなで昼飯を食った気がする。テストの愚痴を吐き合った気もする。やっとの思いで放課後を迎え、たった今教室を出たこともなんとなくわかる。それら全てがぼんやりとしていて、今日という一日の輪郭が捉えられない。
テスト及び友人から解放された俺は、すぐにでも横になりたくてたまらなかった。
まっすぐ帰ればいいのに、ふらふらと足を進めた俺は、いつの間にか屋上前にたどり着いていた。弱っていても同じ行動を取ってしまうのだから、習慣というのは恐ろしい。
最下部に腰掛け手すりに身を預ける。ドクンドクンという心臓の動きが大きくなってくる。
ちょっとだけ、ちょっとだけ休もう。そう思ったタイミングで、ぱたりと意識が途絶えた。
♢
視界に映ったのは薄暗く見慣れた天井だった。天井に張り付いた旬を過ぎたサッカー選手のポスター、カバーが欠けた天井照明、どう見ても自室だ。
重い身体を引き摺りながらテストを受けた後の記憶が、霧の中のようにぼやけている。家までの二〇分をどうやって帰ってきたのかも覚えていない。それでも俺は自室のベッドで横たわっていた。
ひょっとしたら、今日一日は夢だったのだろうか。しばらくぼうっとしていると耳に声が届いた。
「やっと起きた。寝すぎでしょ」
声のほうに目を向ける。太陽が沈んだのか、部屋には間接照明の薄い光しかない。加えて起きたばかりで意識がはっきりしていないが、そこにはあるはずない姿があった。
小学校のころから使い続けている学習机に座り、足を組んだツインテールの影。参考書を膝に乗せ、こちらを見下す鋭い目つき。
俺は急いで身体を起こした。額に張り付いていた冷却シートが、勢いよく身を投げ出す。
「か、栢森⁉︎」
「起き上がるんじゃ無いわよ。ゆっくりしてなさい」
「はい……」
栢森は立ち上がり、俺の額にシートを張りなおした。俺は言葉のまま再び枕に頭を預ける。
一度大きく深呼吸を挟んでみても、高圧ツインテールの影は消えない。消えないどころか我が物顔で部屋に明かりを灯し、もう一度椅子に腰かけた。窓から入ってくる風に彼女の髪が揺らされている。
驚くべきことに、俺の部屋に栢森がいる。急な動きに着いてこれなかった腰が痛いから、夢というわけでもなさそうだ。
「ごめん、理解が追いついてないんだが。とりあえず夢じゃないよな?」
「もちろんよ。長々と経緯を説明されるか、端折って説明されるか、どっちがいい? 選ぶ権利をあげる」
「じゃあ、中間でお願いします」
「はあ? 二者択一の概念を知らないの?」
栢森は深いため息を吐き出しながら首を振った。部屋にかかった時計は二〇時三〇分を指し示している。
「放課後の屋上前であんたが息荒く眠っていたから、ここまで運んできたのよ。そんでもってお姉さんが薬を買いに行ってくれているから、その間の留守番を任されたってわけ」
「ここまで運んだ? どうやって?」
「担いで」
「担いで⁉︎ パワー系過ぎんか?」
「女子にそういうこと言うとか、デリカシーが終わってるの? ちゃんと住所を確認していけると思ったからよ。悪いけど学生証を漁らせてもらったわ」
「それは全然……。そうか、ありがとう」
言葉を落とし込むため、俺は静かに瞳を閉じた。
俺は小柄ではないし、栢森は大柄ではない。歩ける距離だとしても、相当の苦労を与えてしまったようだ。俺はあのまま意識を失い、栢森に運ばれてここまで帰ってきたのだろう。
それほどに深い眠りに入っていたおかげか、身体の重さは随分とマシになっていた。かちりかちりとアナログ時計が歩みを進める。聞きたいことが山ほどありすぎて、もはや何から処理すればいいのかがわからなくなった。
「それで、姉貴は? まだ帰ってきてないのか?」
「そうね。かれこれ二時間くらい」
「二時間か。あの野郎……」
ここからドラッグストアまで歩いて五分。どこの薬屋まで行っているんだよ。しかも普段であれば両親も帰ってきている時間だ。いらぬ気を利かせやがって。
一旦は不平を浮かべながらも、テスト期間の貴重な時間を奪ってしまった申し訳なさから、俺は口を噤んだ。栢森の薄い息遣いが聞こえる。
「朝の違和感。やっぱり私の目に狂いはなかったのね」
「やっぱり気付いてたよな……」
「最終的には気が付いていないふりをしたけれど」
「そうしてもらいたかったから、正解の反応だよ」
ぶつかりそうになった視線を避けるように、栢森は風が吹く方を眺めた。
「……無理してテストを受ける必要なんてなかったんじゃないの? 後日試験でも0点にはされないわけだし、そもそも評定を使う予定もないんでしょう?」
「我ながら冷静さを欠いた判断だった」
「冷静さを奪ったのは、一週間前の私の言葉?」
動いていた栢森の目が、ぴたりと俺の顔で止まった。まごうことなく彼女の言う通りではあるが、それを認めるのはなんとなく違う気がする。なんだか嫌なものを背負わせてしまいそうな気がするし。
きっかけがどうであれ、勝ちたいから休まないという最終判断を下したのは俺だ。
「関係ないよ。単純に自分の体調を見誤っていただけ」
「……そう。ならよかったわ」
言葉ほど納得していない顔を浮かべ、彼女は立ち上がった。
「私さ、元々はあんたのことをいけ好かない奴だと思っていたのよ」
かと思えば、唐突にとんでもない罵倒が飛んできた。もちろん今の状況には感謝しかないが、それでもこんなことを唐突に言われる謂れはない。
「なんだよ急に。怒るぞさすがに」
「病人の逆上ほど怖くないものはないわ。というかいちいち噛みつかれたら面倒だから、悪い言葉じゃないという前提条件のもと聞きなさい」
栢森はこちらを見下ろし舌打ちを挟んだ。
「陽気なだけで友達が多くて、気さくなだけでクラスメイトからの信頼も厚くて、大した功績も残していないのに評価されているあんたが気に食わなかったの。なにより、その立ち位置を確保するために本心を隠している感があって、それが余計に苛立ちを煽っていたわ。でも——」
「伏しているときくらい優しくしてくれ」
「大丈夫よ、今はそう思っていないから」
「本当かよ」
「本当よ。ああもう面倒くさい。次余計な言葉を挟んだら、指の骨を一本ずつ丁寧に折ります」
「怖いこと言うなよ……」
笑みのかけらもない顔つきが返されたことで、俺は全力で口を閉じる。こいつなら本当に折りかねない。
慄いた俺に満足したのか、栢森の表情に少しだけ笑顔が灯った。意地悪くもなく試すような表情でもない。ただただ柔らかい顔だった。
「今日もそう、屋上前に隠れていることも、体育祭も、図書館の時も。クラスでは出さない顔を見たからかしら。教室では相変わらずいけ好かないけれど、それ以外のあんたは嫌いじゃないわ。ある程度感謝もしているつもり。だから倒れている姿を見た時、こう見えてとても心配したのよ。朝無理やりにでも止めなかったことを後悔もしたわ」
「栢森……」
「教室での姿に文句は言わない。私にとってはいけ好かなくても、多分それはあんたが一生懸命作り上げたものだろうから。でも屋上前は違う。あの場所で取り繕って本心を隠すなんてこと、私は許さない。辛いなら辛い、体調が悪いなら悪いって、今後はちゃんと言いなさい。ルール追加よ」
栢森はそう言って俺に視線を合わせるようにしゃがみこんだ。綺麗に上を向いたまつ毛、すっきりと伸びた鼻筋、艶やかな唇。自分の顔を鏡で見るのが恐ろしくなってしまった。
やはりこいつはとんでもなく面が良い。俺は彼女から視線を外すため、眠たくもない目を擦った。
会話の九割はマウントか褒めろが占めているし、残り一割の労いや褒めは直接的ではない。他者への理解など全く示そうともしない態度も相まって、栢森あやめは厄介な女子生徒と評されている。
しかし、今回の栢森は、俺の意図を尊重した上で意見を表明した。そもそもここまで連れて帰ってきてくれた挙句、見守りまでしてくれている。悲しいことにこういった部分は、彼女の噂を構成する要素には含まれていない。教室以外のお前は嫌いじゃないなんて台詞は、俺が吐き出したいくらいなんだ。
一つ、たった一つでも棘が違うほうを向いていれば、神様に愛されただけなんて言われ方はしなかっただろう。そんな考えが瞼の裏を巡った。
一言二言、いや余計な言葉のほうが多かったが、なんにせよ栢森は俺のことを心配して言葉を選んでくれたらしい。気つけに飲んだエナジードリンクよりも、よっぽど元気をもらえた。導入が致命的に最悪ではあったが、そういう部分も彼女らしい。
俺はもう一度彼女の方に顔を向けた。
「教室での俺は、そんなにいけ好かないか?」
「あくまで私にとってはという話よ。有象無象はそっちを好むんじゃないかしら?」
「そうだよな。俺もそう思う」
「それより、ルール追加は承認で良いの? 指を折られたいの?」
指の安全のためにも話を逸らすことは許されないようだ。どうせ俺が手を上げずとも可決されるだろうに。俺は笑みを浮かべて身体を起こした。
「いいよ。デメリットがないし」
「ああもう、起き上がるなって言ったのに!」
「もう大丈夫だよ。後は薬飲んで寝るだけだから。心配してくれてありがとう」
「ふん。あやめ様の看病を受けられた喜びを噛み締めてさっさと治しなさい!」
栢森は唇を尖らせ再び椅子に腰かけた。見慣れた景色に栢森がいるというのは、やはり違和感が山盛りだった。派手なインテリアを間違って置いてしまったような、そういう不相応な感じ。しかし嫌な気は全くしない。
「それにしても、テスト当日に風邪をひくなんてどうかしてるわよ。変なところで不器用な姿を見ていると、あんたもこっち側の人間なのかもと思えてきたわ」
「こっち……側? まさか俺に隠れた力が——」
「体調不良で看過できないほどの愚かさね。単なるスタンスの話よ。馬鹿なこと言ってないで寝なさい」
栢森は息をこぼし、力感なく穏やかに微笑んだ。そのタイミングで玄関のほうから物音が聞こえた。
「はー疲れたどっこいしょ! 姉ちゃんが帰ってきたぞー! パパもママも一緒だぞー! 」
玄関から響くわざとらしいほどの大声。自己紹介の通り姉の声だ。あの阿呆は俺と栢森が乳繰り合っているとでも思っているのだろう。熱でうなされる中そんなことが起こりうると思っている倫理観は、親族として恥ずかしい。
「ようやく帰ってきたな」
「ええ。お役御免ね」
言葉の切れ間を待って、栢森は鞄を担いだ。合わせて立ち上がろうとした俺を彼女の手が制する。
「見送りはいいわ。ユリさんが送ってくれると言ってたから」
「姉貴が? え、いやでも」
「それよりも! 言っておくけど、体調が悪かろうが私は手を抜かないわ。体調のせいだという言い訳も聞かない。しっかりと回復して、せいぜい私を楽しませてちょうだい」
「……わかった。お言葉に甘えるよ」
「うんうん。病人は大人しくしているが吉よ」
栢森の指の音が流れ込んだ風を揺らす。姉に送ってもらうと言っていたが、双方余計なことを言わなければいいが。
扉に手をかけた栢森を見て、俺はハッと声をあげた。
「言い忘れてた」
「ああん⁉︎」
栢森は今までの微笑みが嘘だったかのように眉をしかめて振り向いた。しかし、治安の悪い相槌のおかげで、俺のほうの力も抜けてくれた。熱のせいで忘れていたが、今日の褒めノルマはまだ達成されていないはずだ。
「看病してくれて……。というか、ここまで運んでくれてありがとう。栢森にはナイチンゲールも驚くほどの看病力があったんだと思い知らされたよ。もう天使にしか見えない」
ここまで来てもらったからには、しっかりと満足して帰ってもらわないといけない。俺の思惑をしっかりと受け取った栢森は、顔のしわを解き満足そうに口角を上げた。
「ふふん。当然よ! でも長いわ。次は一文に纏めなさい」
笑みと言葉を残し、栢森は部屋を後にした。
病人相手にも高圧的な栢森あやめ。顔面偏差値に態度が付いてきていないだけで、多分あいつは悪い奴じゃない。それをもったいないと感じてしまうのは、俺が彼女の言う有象無象の一人だからだろうか。
ぼうっと考えを浮かべつつ瞳を閉じる。俺は彼女が残した香りに酔ったように、数分後には眠りに落ちていた。