13.栢森あやめは受けて立つ
真っ先に感じたのは喉の痛みだった。目を覚ました俺は、鉛がのしかかっているように重い身体を起こし、携帯電話を起動させた。
六時二〇分。セットしておいたアラームよりも少し早いというだけでは説明がつかないほど、全身がずっしりと重い。
高校受験以来と思われる勢いで準備を進め迎えたテスト当日は、どうにもパリッとしない目覚めだった。
嫌な予感を抱えたまま、いつも通りベッドから立ち上がり洗面所に向かう。
俺の顔は、普段からこんなに浮腫んでいただろうか。鏡で自分と正対すると、どうにも全体的に腫れぼったい気がして、それが余計に予感を増進させた。
不安を払拭するように熱を帯びた顔を冷水で洗い流し、俺は大きく息を吐き出した。
今までの定期考査は、捨て単元なるものを適当に設定して、最小限の力で赤点を回避することだけに特化してきた。実際その方法で予想を下回る点数を取ったことはないし、おそらく俺の点数感覚というのは正確なほうだと思う。
そしてそんな俺の感覚が、今回はどの教科でも九割は固いと告げている。そのくらいこの一週間は満足のいく過程を経ることが出来た。
実力もモチベーションも最高の状態。だからこそ、この身体の重さが不気味で仕方がない。
健康を無下にしていたわけではない。睡眠は足りているし、食生活も偏っていないし、体育祭が終わってから毎日ジョギングもしているくらいには運動も不足していない。だったらこの気だるさはなんなんだ。
適当に朝食を貪り家を出た頃には、違和感は気のせいで済ませられないほどにまで膨れ上がっていた。これは間違いない。俺は風邪をひいている。
よりによって今日とは。お呼びでないことこの上ない。締めに向かっているホームルームを遮って、新しい話題を放り込むくらい空気を読んでいない。
栢森のようなウイルスに憤りをぶつけながらも、いつもの癖で早く学校に着いてしまった俺は、念のためにマスクを装着し、よろよろと屋上前に向かった。
いくら栢森だってテスト直前に来るはずがない。そう思いながらたどり着いた屋上前には、何食わぬ顔をした栢森がいた。やはりこいつも思うがままに動いてくれないらしい。
「おはよう。今日も私のほうが……。って、なんでマスクをしているの?」
俺の顔を見るや否や、栢森は首を傾けた。
「おはよう。今日も栢森は早いな。ちゃんと寝たのか?」
「いやいや。それ私の台詞なんだけど」
食い入るように立ち上がった栢森を一瞥し、最下部に腰掛けた俺は、そそくさと教科書を取り出した。
不穏な空気を悟らせるわけにはいかない。いつも以上にさらっとしなければ。
「今日からテスト期間なのに、風邪をひいたら終わりだろ? だから念のためだよ」
「でも、なんか声もざらついている気が」
「声に出して覚えてたら、いつの間にか枯れてたわ。勲章だと受け取ってくれ」
「そ、そう。それならいいけど」
栢森は納得しきっていないような面持ちで腰を下ろした。即席の言い訳にしては悪くないんじゃないだろうか。
本人から発破をかけられたとはいえ、今回の俺は栢森の肝を冷やすべく勉強に打ち込んだ。目的成就には、体調不良なんていう同情要素はいらない。
俺は無駄に張り切って身体を動かした。
「今回はどうだ? しっかり学年一位を取れそうか?」
「ええ。答えるまでもないくらい楽勝よ。全教科満点まで視野に入っているわ。というかよくよく考えれば、全教科満点を取れば漏れなく学年一位よね。盲点だったわ」
「画期的な発見だな」
「でしょ? 私ってばやっぱり天才!」
「栢森はすごいなぁ」
勢いよく跳ねた足が、埃をぷかりと浮かせた。
答えるまでもないと言いつつしっかり答えているし、微塵も画期的ではない。それでも彼女が努力が出来るタイプの天才であることは、間違いないのである。
「で? あんたはどうなの?」
栢森の癖である、悪戯っぽい笑みがこちらに向けられた。例に漏れず、褒め言葉を強奪するためのわかりやすいステップだろう。
俺は一度言葉を飲み込んだ後、大きく息を吸い込んだ。熱を帯びた空気が喉を擦りながら肺に向かう。
この状況における正解は、自身を卑下して彼女に隙を見せること。「俺は自信がない。栢森はすごい」からの「ふふん!」という、古典落語くらい擦られたやりとりが続くのがお決まりだ。
普段の俺なら間違いなくそのルートを選んでいる。
しかし、今日ばかりは譲れなかった。たとえ期待された反応がわかっていても、栢森の前で自身の努力に嘘をつくことは、多分もう出来ない。
テストも間近。そろそろ対抗馬を名乗り出ても良い頃合いだろう。
俺は咳払いを一つ挟み、勢いのまま声を上げた。
「絶好調だよ。今回はお前に勝つから」
言葉をまっすぐに受け取った栢森は、わかりやすく目を丸くした。
「随分と直球な宣戦布告をしてくれるじゃないの」
「ご期待に応じて、俺が対抗馬になってやるよ」
「へえ。お気持ちを聞いても良いかしら?」
「お前が心地よくなるため、ライバルほど邪魔な存在はいないってことを、俺が証明してやろうと思ってな」
栢森は頬に手を添えてゆっくりと微笑んだ。
「なるほど。良い度胸ね」
「どうだ? お望み通りの展開だぞ。燃えるだろ?」
埃っぽい空間に珍しく俺の声がこだました。頭が熱っぽいせいで、ぼんやりと余計なことを言ってしまった気がする。
本当にこんな状況でテストを受けて大丈夫なのか俺は。急激に冷静さを取り戻した俺は、大きく手を振った。
「やばっ、調子に乗ったわ。忘れてくれ」
「嫌よ。忘れてあげない」
栢森は意外にも嬉しそうに口角を上げた。これが俺の気恥ずかしさを察してなのか、ライバルの出現に心が躍ったのかはわからない。
栢森は愉快そうな様子を崩さず言葉を続ける。
「体育祭やらなんやら、ここ最近はあんまり気持ち良くないことが多かったから、私もフラストレーションが溜まっているの。そうやって挑戦者の目を向けられるのは気持ちがいいわ。お望み通り、全力で叩き潰してあげる。私の自慢の糧になるがいいわ!」
ラスボスみたいだな、なんて言葉が頭をよぎった。俺も勇者みたいな言葉を返した方が良いのか?
もんもんとした葛藤は、栢森が指を鳴らす音に遮られた。
「選手宣誓が済んだことだし、いつものやつも済ましちゃいましょう。今日も私は頭が良い。今日も私はかっこいい。今日も私はかわいい。テストでも絶対に一位を取れる! はいリピート!」
栢森は逞しく腕を組んで声を響かせた。教室に向かう前のルーティン。いつもよりも随分と早い。
「もう教室に行くのか? まだ開始まで一時間くらい──」
「違うわ。あんたが教室に行くのよ」
「えっ、俺は」
「ここは埃っぽいし、体調に良い環境とは言えないわ。私はイメージの問題があるから戻らないけれど、あんたは違うでしょ?」
栢森が立てた指が、光を吸い込んだ埃を切った。
確かに栢森の言うとおりだった。今日は本を読むつもりもないし、努力を見せたがらない栢森とは違い、俺は教室に行って自習をするくらいなんとでも言い訳が出来る。
今日ばかりは栢森の勘の良さに感謝しないといけないかもしれない。
「わかったよ」
俺は教科書を鞄にしまい立ち上がった。全身の血が行き場を間違えたように、ゆらりと視界が揺れる。
「わかったならさっさと復唱してちょうだい」
「えっと、何だっけ。もう一回頼むわ」
「はぁ。テスト前に不安になる記憶力だこと」
不安要素は多分記憶力の方じゃない。不安定な重心を手すりでサポートし、俺は栢森に向け親指を立てた。
いつもより少し早く栢森の口が回る。
「今日も私は頭が良いしかっこいいしかわいい! テストでも絶対に一位が取れる! はいリピート!」
「今日も栢森は頭が良い。かっこいいしかわいい。けど」
俺は彼女に倣って悪戯っぽい表情を返した。よくよく考えれば、マスク越しで伝わったかどうかもわからないが。
俺は向けた親指を人差し指に差し替えた。
「一位は絶対に俺が取るから」
「ふふっ。痺れるわね。楽しみにしてるわ」
栢森の言葉を背に受け、俺は教室に向かった。