12.栢森あやめは目を細める
渇きを潤そうとストローを啜ってみたが、上ってくるのは僅かな水分と空気だけだった。大きな呼吸の後、栢森は口火を切った。
「私には境界線が見えないのよ」
「境界線?」
「これは頑張らないとか、逆にこれは努力するとか、そういう判断基準のことよ。あんたにもあるんじゃない?」
「まあ、そうだな。ある程度力の入れ具合は考えていると思う」
「そうよね。人それぞれ、きっとそういう境界線があるの」
栢森はスニーカーの先で砂に線を引いた。地表に隠れていた石ころが、ひょっこりと顔を覗かせる。
頑張る頑張らないの境界線は、彼女の言う通り人それぞれに存在するだろう。深く考えたことはなかったが、俺もおそらく努力に優先順位をつけている。じゃないと身が持たないから。
だからこそ大小関係なく走り続ける栢森の原動力を知りたかったわけなんだが。
彼女はふうと一つ息を挟んで、三つ編みの髪をくるくると回し話を続けた。
「昔から私には、頑張らなくても良いっていう感覚がわからないの。頑張るべきことっていう大きな括りがあるだけ。みんなには見えているだろう一線が、私には見えない」
「だから全部を頑張っているってことか?」
「そうね。要は努力しないを選べないだけなのよ私は。不安にもなるしね。ただ単にそういう性質っていうだけで、すごくもなんともないわ。むしろ劣っているんじゃない?」
栢森がそう零すと同時に、遊んでいた子どもたちが自転車に乗って去っていった。彼女の瞳は、子どもたちに合わせ遠くを向いている。賑やかさを含んでいた公園が、馴染みの屋上前のように音を失った。
俺は栢森の下がった眉を初めて見た。これは不安や愚痴を吐き出す時、なんなら泣いていた時ですら見られなかった光景だ。
どんなことにでも努力できるというのは、一種の才能だと俺は思う。しかし、栢森はきっとそう思っていない。自己暗示もそう、自分を高く見せる態度もそう。結局のところ、彼女は根っこで自分の性分を信用していないんだろう。
彼女から零れてきた言葉たちのおかげで、小事大事問わず手を抜かない栢森の根幹が見えた気がしたが、それを掘り起こす勇気は、今の俺には備わっていない。
言葉を出しあぐね、彼女の引いた線を眺める。一分ほどの静寂の後、再び栢森から言葉が飛んできた。
「安堵はさ、些細なことでも頑張っちゃう奴のことをみっともないと思う?」
「思わない。さっきも言った通り俺には出来ないから、正直羨ましい」
「ふふっ、即答ね」
「なんだよ。自分のことをみっともないとでもいうつもりか?」
栢森は穏やかに笑みを浮かべたあと、左右に首を振った。柔らかい表情にほっとした俺は、菓子パンの包装をくしゃくしゃにしてポケットに放り込んだ。
包装の無機質な音に合わせ、彼女の足が強く地面を踏みしめる。
「世の中には安堵と違って、他人の頑張りを蔑むような人もいるのよ。そんな些細なことに必死になって、馬鹿みたいだなって」
「世の中には色んな奴がいるからな」
「そうね。そんな人たちを取り立てて悪く言うつもりはないわ。でもね、頑張りを否定されることは、決して気分の良いものじゃない。不安を消し去るために努力して、褒められるくらいの結果を残して……。それでもくだらない努力だと揶揄する人がいる。だから私は——」
一呼吸置いた栢森は、言葉を切って立ち上がった。彼女に合わせ顔を上げる。子どもたちが戻ってきていたようで、公園は賑やかさを取り戻していた。ゆらゆらと揺れた眼鏡が、再び彼女の目元へと戻る。
ここまでの事を漏らすつもりはなかったんだろう。ポケットに手を突っ込んだ彼女は、腕を組んで顔を九十度背けた。
「話し過ぎたわ。今すぐ全部忘れなさい」
彼女はばつが悪そうにリュックを背負い、地面に描いた線を足で擦り始めた。
今すぐ全部忘れろだと? 無茶を言うな。最初にちゃんと、都合よく記憶は消せないと説明しただろうが。それに、半端な切り方をされると余計に気になるじゃないか。
脳内に反論を並べつつも、突然の栢森らしい様子におもしろおかしくなった俺は、息を吹き出して立ち上がった。
「努力するよ」
「何を笑ってるの⁉︎ 笑うようなことがあったかしら?」
笑うようなことしかなかったよ。栢森がいつも通りに戻ったのであれば、俺に求められるのはいつも通りの振舞いだ。今日の栢森クイズの答えが容姿であることは、もう既に聴取済みである。
「いや、三つ編み眼鏡の美女と昼飯を食えたことが急に嬉しくなったんだ。だから笑っただけ」
「えっ⁉︎ 今日の私ってそんなに清楚系美人⁉︎」
「とびきり別嬪だよ。栢森はすごいな」
急いで顔をこちらに向けた栢森は、大きな口を開けて俺の褒め言葉を咀嚼した。
「……そう! 今日も私はウルトラ美少女なの! よくわかってるじゃない!」
そこまでは言っていないが、嬉しそうなら何よりです。満面の笑みを浮かべた栢森は、くるりと身を半回転させた。
「学年一位のため、休んでいる暇なんてないわ! さあ戻りましょう!」
「そうだな。戻ろう」
栢森は小走りで公園の出口に向かっていった。図書館を目指す彼女の背中を追う最中、栢森が放った感情たちが俺の脳で群れを成し始める。
普段あれだけ高圧的なのだから、努力を馬鹿にしてくる奴のほうがみっともないくらいのことを考えていると思っていた。
でも違った。彼女は想像以上に繊細で複雑なのだ。俺や他のクラスメイトと同じように、揶揄される恐怖と闘っている。
他人の努力を蔑むという行為を称賛する気は全く起きないが、そういった人間は間違いなく一定数いる。他人の努力を非難することで、頑張らない自分を簡単に肯定出来てしまうから。お手軽な自己防衛に頼ってしまいたくなる気持ちもわからなくはない。
些細な努力も捨てられない栢森は、おそらくそういった周囲の戯言を恐れている。というか、多分かつてそういうことで嫌な思いをしている。じゃないとあんなことをわざわざ言い出さない。
言わずで留めた栢森には申し訳ないが、話の流れを整理したら簡単に続きが想像ができてしまった。
彼女は多分「努力を見せたくない」という言葉を続けるつもりだったのだろう。
馬鹿にされるから努力を見せない、でも自信がないから褒めてほしい。このちぐはぐさが、教室での彼女の空回りを生み出している気がしてならない。
そこまで考えを纏めた俺は、足の動きを緩め、大きく息を吐いた。図書館までの数百十メートルが、今はやたらと短く感じる。
彼女の中身を組み立てたせいで、もっと何かを言ってやるべきだったんじゃないかという後悔が生まれてしまった。そしてその後悔が、自身の意図せぬ行動を引き出した。
俺は吐き出した息を吸いなおして、彼女の背中に声を向けた。
「栢森!」
「ああん⁉︎ 何よ!」
彼女はこちらを威嚇しながら足を止め振り返った。鋭い目がレンズの奥からこちらを射貫いている。おお怖い。さっきまでのしおらしい様子はどこに行ってしまったんだ。図書館に向かう家族連れが、不審そうな目をこちらに向けている。
話をもっと深く掘り下げるだとか、そういう勇気はまだ湧いてきていない。それでも、今後の彼女のために、これだけは伝えておかないといけないような気がした。
俺は栢森のほうに拳を向け、出来る限りの笑顔を浮かべた。
「どんなことでも頑張るお前、最高にかっこいいと俺は思ってるよ。栢森の努力に、無駄なことなんて一つもない。一緒に頑張ろうぜ!」
栢森は眉をしかめ終えた後、待ち望んだ絶好球が来たかのように悪戯っぽく口角を上げた。
「当然よ! あんたがそう思っているってわかっていて喋ったんだから」
彼女は満足げに頷いた後、図書館へと足を進めなおした。先を進む三つ編みが、息を吹き返したように風に揺られていた。
……どうやら量られていたのは、質問を吹っ掛けた俺のほうだったらしい。零れた要素を覗いたところで、栢森あやめのお考えには到底追いつけそうにない。
追いかけるように足を動かした俺は、その日一日を勉強に費やした。