11.栢森あやめは遠くを見る
数式の波から顔を上げ、大きく息を吐き出す。隣に人がいるという環境は、やはり俺の勉強スタイルに合っていたらしい。栢森が走らせるペンの音が集中力を牽引し続けた。
息を吐き出し終わり、俺はちらりと栢森に目を向けた。すっと伸びた背筋で机に向かう彼女は、時間経過を感じさせないほど凛としていた。勉強をする姿勢までもが完璧なのがまた憎いところである。
視線を戻そうとしたところで、彼女から「くぉん」という間抜けな音が鳴った。少しの間を開けて、栢森は恥ずかしそうにわなわなと身を震わせる。
腹の音だろうか今のは。どうやら身体機能はいつもどおり意気揚々なようだ。見た目とのギャップが面白さを増幅させている。
表情を微笑みに変えてやると、彼女はノートの隅に何かを書き込み、それをこちらに向けた。
つらつらと並ぶ英文に添えられた一文。
『一発殴るから面を貸しなさい』
顔面を殴られるのだろうか。ちょうど俺も腹が減ったし、殴られついでに昼食にしよう。教材だけをその場に残し立ち上がった栢森に合わせ、俺も貴重品をポケットに詰め込んだ。
図書館から出るや否や、軽めの打撃が肩に飛んできた。
「生理現象を笑うとは良い度胸ね」
「さすがは栢森。昼飯時になっていたことに気が付かなかったよ。お知らせありがとう。体内時計まで正確とは素晴らしいな」
「一応言っておくけど、それは褒め言葉に認定しないわよ」
「マジかよ。せっかく褒めたのに」
練りに練った最高の褒め言葉を献上したつもりだったが、そもそもの素材が悪すぎたようだ。不機嫌そうに眉を吊り上げた彼女は、少しの間の後息を吐いた。
「まあいいわ。あんた、お昼ご飯は?」
「コンビニで買おうと思ってるけど」
「私はお弁当。手作りよ。中身を見たら、きっと腰を抜かすでしょうね! もちろん一口もくれてやらないわ!」
「せめて欲しいと強請ってから言ってくれ」
「ふふっ。あ、コンビニなら確かあっちにあったわよ」
栢森に導かれ流れのままコンビニに行き、菓子パンとパックジュースを購入し、近くの公園で昼食を摂ることになった。
昼下がりの公園は、子どもたちが一グループ遊んでいるくらいで、落ち着いた時間が流れていた。
空いていたベンチに腰掛け菓子パンの封を切る。当然のような顔つきで隣に居座った栢森は、リュックサックから弁当箱を取り出した。
シンプルな絵柄の弁当箱から顔を出す色とりどりの副菜たち。腰を抜かすには及ばなかったが、彼女自身がこれを作ったと考えれば拍手を送りたくなるほどだった。
砂糖をこれでもかと言うほどまぶした菓子パンをかじり、彼女の弁当に指を向ける。
「自信満々に語っていただけあって美味そうだな」
「どう? 腰、抜けそう?」
「腰っていうのはそう簡単に抜けるもんじゃないんだよ」
「私は驚いて立ち上がれなくなったことがあるけどね」
「すごいなぁ」
「でしょ⁉︎」
全く羨ましくない。どう考えても間違えたリアクションだったが、ご満悦な彼女を見たところ正解だったようだ。
栢森はふんふんと鼻歌を奏でたあと「いただきます」と呟いて弁当を食べ始めた。
綺麗に整った箸の先が、軽快に口に吸い込まれていく。
そういえば、栢森が何かを食べている姿を初めて見た気がする。昼休みは教室にいないし、なかなかレアなシーンに遭遇できた。
ぼんやりとそんなことを考えながら、子どもたちの賑やかな声に耳を傾ける。
「地元でもないのにわざわざこんなところに来たのね」
「クラスメイトに会いたくなかったからな」
「ふーん。なに? 嫌味?」
「いや、栢森がいて良かったよ。気合も入ったし」
「そう。ならいいわ」
危ない危ない。ぼうっとしていたせいでうっかり本音を零してしまった。オレンジ味で急いで菓子パンを流し込み、俺は人差し指を立てた。
「栢森こそ、地元なのか?」
「いいえ。一時間半くらいかかるわ。私の地元、敷江だから」
「敷江⁉︎」
「なに? 文句あるの?」
栢森はこれでもかというほど目を細くした。栢森の言う敷江。大きめの商業施設があり、確かにここからだと一時間半はかかる。というか、敷江からここの間に何件も図書館があるはずだ。
「いや、文句というか、それならもっと近い場所があっただろ?」
「中学時代の知り合いとか、高校の同級生とか、色んな目をかいくぐろうと思った結果ここになったのよ。勉強している姿は見せたくないから」
「なるほど。考えることは一緒か」
「悔しいことにね。私の思考に並べてよかったわね。誇っていいわよ」
クラスメイトに会いたくなかったのは、栢森も同じだったのか。俺の方はただ気まずいだけで、努力している姿を見られたくないという大尖りはないから、厳密に言うと思考は並んでいないと思うが。
俺は上げていた人差し指を親指に差し替えた。
「細部までブランディングが徹底しているんだな」
「当たり前よ。眼鏡だって伊達眼鏡! 私は視力もいいからね!」
そう言って栢森はメガネを外し目を細めた。休日であれ何であれ、彼女のマウント癖は絶好調らしい。
しかし栢森、外したレンズの先にある景色がしっかりと歪んでいるじゃないか。わざわざ自爆しに来なければ、なんとも思わなかったのに。今日の栢森は自爆が多いようだ。
そもそも視力が悪いからと言って、貶すつもりなんてない。俺は気づかないふりをして最後の一口を放り込んだ。
「さすが、栢森は身体の機能までもが完璧なんだな」
「そう! 私は完璧なの!」
眼鏡をつけなおしご満悦な栢森。今回は身体機能を褒めても怒られなかった。いろいろ線引きがややこしくて困る。
一つ息を吐いて大きく背中を伸ばす。子どもたちの声が響いていてのどかで、太陽も程よく隠れて過ごしやすい。腹を満たしたせいで、うっかり眠ってしまいそうだ。
微睡みを刺すように、栢森がこちらに声を向けた。
「というか、わて頑張りまへんねん、みたいなこと言っておいてちゃんと勉強しているじゃない」
「そんなこてこてな言い方はしてないだろ」
「私にはそう聞こえていたわ。どういう風の吹き回し?」
変な方向に風を吹かせたのはお前なんだがな。普段のテスト週間なら、わざわざこんなところにきて勉強をしない。
諸々を表明する自信はまだ芽吹いていなかったので、俺はへらりと白を切った。
「俺は栢森と違って記憶力が悪いんだ。赤点を回避するだけでもこのくらいの濃度は必要なんだよ」
「ふぅん。あやめ様の熱に絆されたわけじゃなくて?」
意地の悪い顔が返ってくる。やはりこいつは無駄に勘が鋭い。はぐらかした時にばかり食いついてくる。
なぜこの鋭利さを教室で生かせないのかは甚だ疑問ではあるが、これ以上惚けるのも無意味な気がした。
「そうだとしたら手を抜いてくれるのか?」
「おあいにく様、手を抜けるような性格じゃ無いの」
「だろうな。まあ都合のいいように解釈してくれればいいよ」
「なによ。中途半端な返事ね」
栢森は穏やかな笑みを浮かべたあと、副食を口に運んだ。
中途半端だろうがなんだろうが、勝つと宣言してしまった段階で逃げ道がなくなってしまう。それだけは避けたい。俺には彼女のような逞しいハートがないのだ。
弁当を平らげた栢森を見ていると、ふわりと疑問が浮かんできた。
「栢森ってさ、なんでそんなに頑張れるんだ?」
「なんでって、努力に理由が必要なの?」
栢森からきょとんとした顔が返ってくる。どうやら彼女にパスを出すときは、もっと足元にわかりやすくボールを出してやらないといけないらしい。
俺は急いで言葉をつけ足した。
「そういうわけじゃないが。俺なんて勉強だけでも手一杯状態なのに、栢森はどんなことにも手を抜かないだろ? なんというか、辛くなったり、辞めたくなったりしないのかなって」
「ならない」
「すげえな。尊敬するよ」
「すごくもなんともないわ。私の性分がたまたまそう出来ているだけよ」
栢森はふんと息を吐いた。わかりやすい言葉で褒めたつもりだったが、珍しく全く刺さっていない様子だった。俺からすれば当たり前に努力できること自体が褒める要素なのだが。
「少なくとも俺には出来ないな。興味深い性分だよ」
「そう? じゃあ……」
長い沈黙が始まる。言葉を待つように彼女の手元を眺める。栢森は弁当箱を閉じ、それをリュックに戻した。昼食は終わったのに、立ち上がる気配もない。
軽く質問を振ったつもりだったが、昼下がりの公園に似つかわしくない重々しい空気が漂い始めた。
「息抜きがてら、小話をしてあげましょうか」
沈黙を切り、栢森はそう言った。太陽を避けるように手のひらをかざし、眼鏡を外す彼女。細められた瞳が、何かを探すようにじんわりとこちらに向いた。なんてことない動きだったのに、今まで見た彼女の仕草の中で一番艶やかだった。