10.栢森あやめは変装する
時に、テスト前の休日というのは過ごし方が難しい。もちろん大人しく勉学に励めばいいのだが、自室には誘惑が多いし、勉強に割くことが出来る時間が多い分、一日の使い方に油断が生じてしまうのだ。読む気のなかった本に手を伸ばしてしまったり、気が付けば夕方になっていたり。
この問題を解決するためには、誰かの監視があればいい事を俺は知っている。しかしながら、友人たちに「人がいると集中できない」と適当を吐いた事実が、しっかりと俺の首を絞めていた。
家及び同級生の目を避け、かつ周囲に人がいる環境を勘案した結果、俺は高校からずいぶんと離れた図書館にやって来た。
図書館には読書スペースとは別に、十席分の自習スペースが設けられていた。長い机がパーテーションで簡易的に区切られており、隣にどんな奴が座っているかくらいはわかりそうなものの、集中する空間としては申し分ない。何より涼しいのがありがたい。
俺は冷房で汗を冷やしつつ、スペース全体をざっくりと見渡した。どの高校もテストが近いのか、席のほとんどが同年代で埋まり、ぱっと見たところ二席しか残っていなかった。
空いているのはど真ん中と右角の二席。こういう選択肢がある場合、俺は迷わず角を選んでしまう性分なのだ。
左隣の三つ編み女子に軽く会釈を向け、俺はそそくさと席に座った。古びた木製椅子の座り心地は最悪だが、この際文句は言うまい。こんなところまで足を運んだんだから、元を取る分集中して勉強せねば。
一つ深呼吸を挟みリュックから教材を取り出したところで、左隣から強烈な視線を感じた。
直視せずともわかる、じっとりと張り付くような気配。俺は視線に気がつかないふりをしつつ、ゆっくりと脳を回転させた。
左隣は確か地味そうな三つ編み女子。視界の端に映る肩がこっちを向いているから、間違いなくがっつり見られている。
後ろ姿しか見ていないが、あんな感じの知り合いはいないし、そもそも知り合いがいない環境だからこそ俺はこの場所を選んだのだ。じゃあ知り合いの線は薄い。
見られるほど珍しい格好はしていないはず。会釈もしたし、なるべく音もたてないようにしていたし、目の敵にされるほど悪い感じは出していない。それとも汗の匂いが酷いとか? いやいや、それなら逆に見ないだろ。
脳をくるくるさせている間も、降り注ぐ視線が止む気配はない。これは多分、目を合わせないと終わらない。
「な、何か用ですか?」
俺は意を決して左に顔を向けた。
並ぶ本棚を背景に、目を丸くする三つ編みの眼鏡少女が、あわあわと驚いたように口を半開きにさせていた。
見慣れない風貌のはずなのに、強烈な既視感が俺の脳を殴った。ここ数週間で飽きるほど見た顔。その顔が間抜けに口を開き続けている。
栢森だ。栢森あやめが図書館に現れたぞ。脳がようやく情報を処理し始める。
俺は彼女に合わせ口を動かし、息を吐き出した。
「……か、かし——」
言葉の途中で口を塞がれた。彼女は空いた手の親指を出口のほうに向け立ち上がり、その方向に足を進める。
怖すぎる。不良に呼び出された気分だ。呼び出されたことないが。俺は促されるまま彼女の後を追った。
不機嫌そうに揺れる三つ編みは、人目に付きにくい建物の裏で動きを止めた。再び太陽の下に連れ出され、思い出したように汗がぶわりと吹き出してくる。振り返った彼女の表情は、雰囲気通りちゃんと不機嫌。建物の影が彼女の迫力を倍増させていた。
スニーカーにパンツルック、上は白いシャツという大人しい服装の栢森は、俺の全身を一通り眺めながら堂々と腕を組んだ。眼鏡に三つ編みも含めて、普段のイメージとはかけ離れているが、行動のおかげで双子説も消えた。ジャンクフードのようにカロリーが高いこの動きは、栢森あやめに他ない。
鋭く唇を尖らせ一言も発さない彼女に向け、俺は挨拶代わりに言葉を放った。
「随分普段と装いが違うな。気付かなかったぞ」
「装いくらいで私のオーラが消えるわけがないでしょう? あんたの目が悪いのよ」
ちゃんと消えていたから気付かなかったわけだが。おそらく向こうから凝視してこなければ、気が付かず一日を終えるところだっただろう。
栢森はとんとんと速いリズムで足を揺すり、肩をすくめて腕を組んだ。
「なんであんたがここにいるの? まさか……地元⁉︎ それともストーカー⁉︎」
「両方違うよ。たまたま足を運んだらお前がいただけ。同じことをこっちも言いたいからな」
「言っておくけど、私は去年からずっとここを使っているからね! 先に手を付けたのは私なんだから!」
「驚いた。屋上前にお前がいた時、俺もまんま同じことを考えてたよ」
「ぐぬぬぬ……」
栢森はさらに深いしわを顔に作り、ふんと息を吐いてから顔を逸らした。
勝手に凝視して、勝手に沸点を上げて、勝手に不機嫌になる。やっていることがほぼ当たり屋じゃないか。俺だってこんなところで栢森に会うとは思っていなかった。
しかし、ちょうどいい交友レベルの知り合いが隣にいるというのは、テスト勉強をする上でありがたい。これはむしろラッキーの部類に入るのではないのだろうか? 追い出されるのはもちろんのこと、機嫌を損ねて逃がしてしまうのも惜しい。
駐輪場が近いのか、ブレーキが擦れる鋭い音が響いた。
「まあなんだ。お互い勉強するだけなんだから、気にせずやろうぜ」
「なによ。私だけが気にしているみたいな言い方じゃない? 休日仕様のあやめ様を見たのにその冷静さはなんなの? 美的センサーおよび喜怒哀楽が絶賛死亡中なの? もっと喜びなさいよ!」
きゃんきゃんと鳴く栢森の声が、薄い雲に吸い込まれていく。
学校から出ようが装いが変わろうが、栢森あやめは平常運転だ。冷静なわけではなくただただ状況に脳が追いついていないだけではあるが、彼女のおかげでようやくいつも通りの空気感を思い出した。
栢森がいつも通りなのであれば、俺もいつも通りこいつを褒めてやればいい。俺は栢森の容姿を上から下までじっくりと眺め、二回ほど首を縦に振った。
「やっぱり元が良いと、どんな格好をしていても華があるなぁ」
「えっ⁉︎」
「なんかこう、緊張してリアクションが出来なかったよ。ビジュアルが良すぎて。女神かな?」
「女神……」
栢森の視線が慌ただしくこちらを向く。わかりやすく口角の上がった表情が、言葉の効果の抜群さを示していた。普段よりインテリジェントな風貌をしていても、栢森は栢森なのだ。
「……そう。そうよ。私はどんな格好をしていても可愛いの! 装飾品や髪型で私の魅力を消しきることなんて不可能なのよ! ふふっ、よくわかってるじゃない!」
見込み通り、栢森は満足そうに笑みを貼り付けた。
「こんなところにまで足を運んでご苦労様。私の隣で勉学に励むことを許可するわ。せいぜい私の魅力に絆されて集中を切らすことがないように気をつけなさいね」
「わかってるよ」
スキップをして館内に戻っていく栢森に続き、俺も席に戻った。
どう考えても俺の喜怒哀楽が死んでいるのではなく、彼女のそれが生き生きしすぎているだけ。そんなことを考えながら教材を取り出し、俺はようやくテスト勉強に手をつけ始めた。
勉強を開始して数分は栢森の息遣いなんかがいちいち気になってしまっていたが、それも数分のうちに図書館の静寂に溶けていった。