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迷子のアイリス  作者: 豆内もず
プロローグ
1/35

1.栢森あやめは現れる

 屋上に伸びる上り階段には、基本的に人が寄り付かない。

 屋上が閉鎖されていることに加え、上階に進めば進むほど何もない学校の作り上、何の動線にもなっていないこの場所は、高校という煌びやかな舞台から切り離されたように薄暗い。

 清掃が行き渡っていないのか常に埃っぽいし、蛍光灯も寿命が近いのか鈍い光を放っているし、立ち入り禁止の張り紙がどん詰まり感を演出している。

 こんな場所にわざわざ足を運ぶのは、埃に釣られたダニか人目から逃げたい奴くらいのものだろう。


 一歩一歩階段を上り、踊り場を抜ける。イヤホンを耳から外し顔を上げると、最上部に腰掛けた栢森(かしもり)がこちらを見下ろす姿が目に入った。

「おはよう。今日も私のほうが早かったわね」

 薄暗い階段に清涼飲料水のような声が響いた。ここ最近の俺の学校生活は、いつもこの言葉からスタートする。

 時刻は午前七時三〇分。始業まで一時間以上余裕を残した校内は、朝練をこなす生徒達がちらほら見られるくらいで、まだ夜の余韻が残るような出立ちをしていた。辺鄙な屋上前となればそれもなおのこと。

 俺は適当な段に腰掛け、これもまたいつも通り言葉を返した。

「早すぎだろ。ちゃんと寝てんのか?」

「何度も言ってるけど私、睡眠は短くても大丈夫なほうなの。あんたは? 何時間寝たの?」

 彼女は頬を手の甲で支えながら、不敵な笑みを浮かべこちらを見つめた。あの顔つきは栢森の癖のようなもので、期待した答えがある場合、彼女は決まってじんわりと口角を上げる。

 疑問を投げかけてきたが、おそらく彼女は俺の睡眠時間などに興味はない。これはただの罠。いつも通りの。

 毎度毎度飽きないのかと笑ってしまいそうになるが、俺は指折り睡眠時間を数えてそれを口にした。

「九時間くらい」

「ぷぷーっ。寝すぎ寝すぎ! 前世がコアラなの? 私なんて四時間しか寝てないんだから!」

 コアラの睡眠時間をなめるなよ。得意げに笑う彼女に、俺はわざとらしく拍手を向けた。

「マジかよ。俺の半分以下じゃん。すげえな」

「ふふん!」

 俺だって本当は九時間も寝ていない。ただ、能天気なデンキナマズに心地よく放電させるためには、これくらい大げさに隙を見せるほうが良い。

 睡眠の短さを誇る人間のほとんどは、多忙さをアピールして優位を取りたがっているものだと俺は思っている。

 基本的に自身の優位性を示す行動は、他の人間からすれば些末な物が多い。自慢げに語る彼女も例外ではなく、自慢にもならない内容でマウントを取りたがる。睡眠不足など、俺にはただの管理能力不足にしか見えない。

 自分と相手との高低差を示すため質問を放る。これがマウンティングガール、栢森あやめの日常動作なのだ。

「今日も絶好調だな」

「当たり前よ。私はいつだって最高なの。ほら、時間がないんだから早く準備してよ。一限目は古文の小テストがあるでしょ? そこから問題を出して」

「はいはい」

 彼女に促されるまま、俺は古典単語の参考書を取り出した。

 設問を用意し、それに彼女が答える。人気のない上り階段に、古の言葉たちが飛び交い始める。栢森あやめの辞書にはおそらく妥協という言葉がない。

 始業前のわずかな時間、一人静かにここで本を読むのが俺の唯一の楽しみだったのに、その平穏がこの女のせいで崩されてしまったのだ。

 参考書をなぞりながら、俺は現状を生み出した出来事を思い返した。


 ちょうど二週間前の朝。いつも通り本を読もうと足を運んだ屋上前に、英語の単語帳を片手に頭を落とす少女の姿があった。

「大丈夫、私は頭が良い。英単語くらい楽勝。おまけにかわいい」

 薄闇に呑まれそうなほどか細い声で、彼女はその言葉を繰り返し唱えた。閉鎖された屋上から漏れる光が、ゆらゆらと二つ結びのシルエットを浮かばせている。

 ──秘密基地さながらのマイスペースで、少女がなにやらメルヘンな自己暗示をしている。三秒ほど硬直して、ようやく俺は状況を理解した。

 約一年間、俺は誰も来ないこの屋上前を憩いスポットとして利用してきた。人の目を避けたいという俺の要望と、存在を忘れ去られたようなこの場所の親和性が高かったことが要因なのだが、とにもかくにもこの場所に先客がいるという状況は俺を驚かせるには十分な出来事だった。

 衝撃を一頻り飲み込み終わった俺は、遅まきながら大きく身を跳ねさせて声を漏らした。

「えっ」

「……えっ」

 深く落ちた頭が、俺の存在に気付いて大きく揺れる。彼女からしても、ここに人が来るなんて思ってもみなかったのだろう。それほどに屋上前は人の気配から遠ざかった場所なのだ。

 単語帳を背に隠し数秒こちらを見つめた後、彼女はぽつりと呟いた。

「み、見た?」

 どうやら見てはいけなかったらしい。この状況で嘘を吐くことも出来ず、俺は少し目をそらした。

「見たけど……。見ないほうが良かった?」

「出来ることならね。都合良く今の記憶を消せるなら、このまま逃がしてあげるわよ」

「あいにくそういった能力は……」

「じゃあそこに座りなさい。話をしましょう」

「えっ」

「座りなさい」

「はい……」

 俺は圧に負けゆっくりと段差に腰掛ける。薄暗い空間に慣れてきた俺の目は、はっきりと少女の姿を捉えることが出来た。だからこそ逃げ出すことが出来なかった。

 色素が薄い二つ結びの髪に、適度に着崩した制服。光度の強いこの少女こそが栢森あやめである。超有名人。どちらかと言うと悪い意味で。

 学力運動能力問わず常に優秀な成績を維持し続け、おまけに顔もいい栢森あやめは、入学当初から方々で噂になっていた。

 二年生になった今年、初めて同じクラスになったが、彼女の悪名を俺は一年生の頃から耳にしていたのだ。そう、特筆すべきはその悪名なのである。

 才色兼備で個性を留めておけばいいのに、わざわざ方々に対しそれを自慢し続けるという高飛車な態度が彼女の致命的欠点だった。そのくせ努力の跡を全く見せず、それが悪名に拍車をかけていた。

 ハイスペック台無しマウント女、神様から愛されただけの女、栢森あやめ。関わった人間たちは、口を揃えて彼女をそう評した。


 そんな彼女がわざわざ人気のない場所で必死に学問に励み、暗示で自らを鼓舞し、あまつさえそれに気づかれたことを口封じしようとしているのだ。

 凶暴なライオンがお淑やかに編み物をしているところを目撃してしまったような気分だった。

 あふれる情報を整理する俺を見下ろし、彼女は座ったまま勢いよく腕を組んだ。

「出席番号二番、安堵登(あんどのぼる)ね」

「えっ、俺のこと知ってんの?」

「クラスが同じで覚えてないなんてありえないでしょ」

「まあ、確かにそうだけど」

「そもそも私は学年全員の顔と名前を覚えてるから。で? 二番はこんなところに何しにきたの?」

 栢森はさも当然のことのようにそう言った。うちの学校はいわゆるマンモス校で、同学年だけでも六〇〇人以上は生徒がいる。

 クラスメイトの顔と名前を一致させるだけでも大変なのに、コースも部活も違う関わりのない生徒の名前を覚えることにおそらく意味はない。

 しかしそれどころではなかった。関わりのないクラスメイトに受刑者よろしく番号で呼ばれてしまった事が思いのほか衝撃的で、俺はすぐさま言葉を返した。

「名前を覚えているなら番号で呼ぶんじゃねえよ」

「じゃあ二番安堵。早く答えなさい」

 鋭い声が返ってくる。地獄のスタメン発表が、俺の耳を貫通する。俺と栢森にはクラスが同じだということ以上の交流はないし、ここまで偉そうにされるような仲ではない。つまりこいつは噂に違わずとても失礼な奴なのだ。

 頭ではこんなことを考えていたが、身体をしっかりと栢森の眼圧に制されていた俺は、あっさりと言葉を返した。

「誰も来ないから本を読みに来たんだよ」

「へえ、意外ね」

「意外とは……」

「人集りを避けるタイプには見えないわ。教室で読めばいいのに。読めないからここに来ているんだろうけれど」

「失礼な物言いだな」

 細められた目が、こちらを見定めるようにじろりと動く。俺は空気に飲まれそうになり、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 俺は時間をかけて息を吐き出し、冷静に話題を選別した。

「お前こそ、勉強なら教室でやればいいだろ」

「嫌よ。私のブランディングに関わるもの」

「ブランディング?」

「私、クラスメイト全員から崇拝されたいの。語るもおこがましい高嶺の花、影さえ踏めない天の人、イッツミー。教室なんて、私を崇拝するためだけにあればいいんだから。一位を維持するために必死こいてる姿なんて、見せて得がないでしょう?」

 俺はぐっと息を呑んだ。高圧的だというのは周知の事実だったが、その行動がこの考えから生み出されていたということにゾッとしてしまったのだ。

「……尖ってらっしゃいますね」

「抜きん出た才能というのは、常に尖りをはらんでいるの。当然の摂理ね」

「才能じゃなくて感性のほうのことを言ったんだが」

 栢森は立ち上がり、こつりこつりと神妙な音を立てて階段を下る。合わせて立ち上がろうかと思ったが、俺の身体は影を踏まれたように動かなくなってしまった。

「あんたは今、見てはいけない物を見てしまったの。私が鶴なら羽ばたいてどこかに行っちゃうような状況なの。わかる?」

「お前が俺を座らせなければ、無視して踵を返したのに。むしろ俺が足止めをされているんだが」

「鈍いのね。されているのは足止めじゃなくて口止めのほうよ」

「口止めってのは、隠れて勉強をしてたことか? 自己暗示のほうか?」

「事実を丁寧に並べないで。デリカシーが死んでいるの? それとも挑発しているの?」

 栢森は真横に並びこちらを見下ろしながら、俺の頭に人差し指をぶつけた。

「どうやら記憶を消せないみたいだから、今見た事実をお互いに他言しないことで手を打ちましょう。あんたは何も見なかった。私も何も見なかった。いいわね?」

 なぜ彼女のほうが妥協したことになっているのかは意味不明だが、とにかく栢森はこの場で見たことを口外してほしくないらしい。

 それもこれも彼女自身のブランディングとやらに関わってくるから。余裕ぶることを価値上昇の手段だと考えているのであれば、空回り甚だしい。その行動によって彼女に張り付いているのは、感じが悪いというレッテルだけなのだから。

 そもそも友人間で栢森の話題を出したとて、地雷にしかならないのだ。俺は頭をかいて言葉を返した。

「元から誰にも言うつもりなんてなかったよ」

 俺の言葉で栢森は不満げに眉をひそめた。

「……それはそれで腹が立つわね。話題としてのパンチが弱いとでも言いたいの?」

「言ってねえよ。ややこしいな」

「だったら言いふらそうとしなさいよ。天才美少女栢森あやめちゃんの真の姿を見たのよ? テンション低過ぎじゃない? デリカシーだけじゃなくて喜怒哀楽も死んでいるの?」

「……隠れて勉強することは悪いことじゃないしなぁ」

 言って欲しいのか欲しくないのか、どっちなんだこいつは。同級生の意外な姿を見てテンションを上げるほど俺は浮かれた野郎ではないし、早くここから立ち去りたくて仕方がない。

 困惑を顔に貼り付ける俺をよそに、栢森は腕を組んでうんうんと悩み始めた。

「というか、弱みを握られているのも癪だし、どうせなら口止めだけじゃなくて味方に引き入れた方がいいのかしら……。うんうん。それがいいわ。一石二鳥ね」

 壮大な独り言だった。弱みを握ったのは俺で、追い込まれているのは栢森の方。明らかに不利なこの状況下で、なぜ二鳥を落とそうとしているのだろうか。

 依然として上から目線の彼女は、再び自信満々に俺を指差した。

「予定変更! 安堵、私に協力しなさい!」

「はあ⁉︎」

「崇高な私を維持するためには、相応の努力と精神力が必要なの。だからあんたをメンタルケア要員として採用することにするわ! 私が気持ちよく学校生活を送れるよう、全力で褒め称えなさい。もちろん他言しないことは前提よ」

 栢森は高らかにそう言い放った。

 弱みを握られてしまったから、口封じついでに協力させる。栢森側からすれば素晴らしく理に適った因果関係なのかもしれないが、俺への対価が完全に度外視されているではないか。こいつの中での依頼と報酬のレートはどうなっているんだ。

「なんだそれは……。俺にメリットがないんだが」

「断るデメリットならあるわよ」

「……ないだろ別に」

「あんたがこんなところで本を読んでいるってこと、みんなに言いふらす。漏れなく言いふらすわ。きっといじられて、ここが安息の地じゃ無くなっちゃうでしょうね。協力することを了承すれば、数ヶ月で解放してあげる!」

「ぐっ……」

 自信満々な目でこちらを見下ろす彼女の様子を見て俺は確信した。栢森はくだらないやり取りをしつつも、この場所が俺にとってのウィークポイントであることをちゃんと見抜いていたのだ。

 始業前にこんなところに逃げ込んでいるという情報をクラスで吹聴されては困る。栢森同様、俺には俺のブランディングがある。適当に躱していたつもりだったのに。

 五秒ほど続いていたにらみ合いは、俺の溜息と共に解かれた。 

「わかったよ。協力すりゃいいんだろ。具体的には何をすればいいんだよ」

 弱々しく吐き出された俺の言葉を聞いて、栢森はこれでもかと言うほど口角を上げた。

「そうね……。今日と同じようにここに来て、私の不安材料を取っ払ってくれればいいわ。ルールは主に二つ。一つは私の努力に協力すること。もう一つは私を褒め称えること。不足があればその都度追加していくわ!」

「えっ。毎日?」

「もちろん! 当然教室では今まで通り、何も知らない顔をして過ごしなさい。約束よ」

「……お前もちゃんと守れよ」

 何度も吐いた溜息が薄闇に飲み込まれていく。満足そうに頷く彼女を見て、俺は諦めて鞄を下ろした。こうして俺は栢森あやめのマウント道に花を添えることになってしまったのだった。

 

 回想に溜息を吹きかけたタイミングで、栢森から言葉が投げられた。

「よし。このくらいにしましょうか。これで満点は堅そうだわ」

 しばらくの間古文の問題を出し続け、気が付けば始業五分前になっていた。

 協力しているとはいえ、お互い教室ではほとんど干渉し合うこともないし、基本的にはここに集まって栢森の努力の手伝いをするのが俺の業務の一つとなっている。

 二週間経っても教室内での立ち位置は変化していない。ただただ努力する栢森と協力する俺が、屋上前にこっそりと誕生しただけ。

 そしておまけにもう一つ。栢森から与えられた俺の役割は、案外低い彼女の自尊心を上げることだ。

 栢森は教材を鞄にしまい、大きく深呼吸をしてから俺のほうを向いた。

「私はすごい、私はかわいい、私は大丈夫。はい!」

「栢森はすごい。栢森はかわいい。栢森は大丈夫」

 簡単な復唱。単純すぎて笑ってしまうが、この暗示こそが彼女の自己肯定感を上げる毎朝のルーティーンワークなのだ。

 彼女のおかげで多少褒め上手になっているはずだから、その点においては感謝を述べてもいいのかもしれない。……いやいらないな。こんなことを考えてしまうくらい、わずかな期間で完全な上下関係を構築されてしまっているらしい。

 そして彼女はいつも通り、復唱を肯定する。

「うん、知ってる。私はいつだって最高なんだから。よしっ! 今日も一日頑張るぞー!」

 彼女は満面の笑みを浮かべて階段を下って行った。

 自信満々なのかそうじゃないのか。二週間そこらじゃ栢森あやめのことを理解出来ていない。ただただわかっていることは、ここで生み出された自己肯定感が、教室でのキレキレな彼女をもたらしているということ。才能に泥を塗る手伝いをしている気分だった。


 弱みを握られようが相変わらず高圧的な態度を振り撒く栢森あやめは、多分今日も空回る。

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