アドレナリンとセロトニン
「最近、婚約破棄とか浮気とか不倫とか聞くことが多いけど、どう思う?」
幼馴染であり五歳からの婚約者ギルバートに、リリアンはドキドキしながら聞いた。
ここはとある夜会なのだが、目の前で一人の青年が隣に可愛らしい女性を連れながら、青年の婚約者に婚約破棄を言い放っている。そしてその婚約者は目を釣り上げ、今までの彼の不行き届きな言動を証拠付きで暴露していた。
「アドレナリン中毒だな」
愛しい婚約者に〝そんなことする奴は最低だ″とか、〝俺は君だけを愛するよ″というような誠実さと愛を感じる返答を期待していたが、見た目は格好良いが変人すぎると有名な婚約者はまたしても期待通りの反応はしてくれないらしい。
でもちょっとクセになるとリリアンはワクワクしながらギルバートに重ねて話しかけた。
「それはどういう意味?」
「私と君はまだ婚姻を結んでいない。そのため、清いお付き合いを十五歳の現在まで続けている。
よって特別照れ症でもないが、私は君と手を繋ぐだけで手汗が出て赤面してしまう。
そのような時に私の脳はアドレナリンという人類が緊張した時に出るホルモンで一杯になり、ドキドキする」
その回答だけでリリアンは凄まじい幸せを感じ、最初の質問の目的を果たしていた。
だがまだまだ続きがありそうだと先を促した。
「だが、人は付き合いが長くなると段々と慣れを感じてくる。アドレナリンが些細な事で出にくくなるのだ。そして他の人でアドレナリンを感じると、〝あ、自分はこの人に恋してる″と思い込み、前付き合っていた人が色褪せて見えるのだ。そしてアドレナリンの奴隷となり不道徳的な振る舞いをしてしまったりするのだ」
その言葉を聞きリリアンは今度はちょっと不安になってきた。私達は母親同士が仲の良い幼馴染で、産まれた時からの付き合いになる。また、結婚を再来年に控えており、結婚してディープな仲になった後に飽きられてしまうんだろうか。今度は嫌な意味でドキドキしながら続きを求めた。
「私は二年前甥が生まれたんだ。姉の子供だな。その子がふにゃふにゃの時に抱っこさせてもらった。初めて赤子を抱っこしたんだ。とっても柔らかくて温かかった」
リリアンはそうだったと思い出していた。自分も抱っこさせてもらったことがあるその小さな男の子は温かくとても可愛かった。
「その時にドパーッとセロトニンが出た。セロトニンは人類が幸福を感じる時に出るホルモンだ。
そしてその子がちょっとずつ大きくなるたびに抱っこさせてもらっている。初めて笑顔を向けられた時も、初めてギールと呼んでもらった時もとても嬉しかった。」
なるほど。確かにリリアンもそういう時とっても幸せを感じる。自分とギルとその子で遊んでいる時は、将来こんな風にむふふとか一人で考えていた。
「私はこのように将来子どもの成長に幸せを感じることは、ドキドキのアドレナリンに劣らないくらい充分に幸せなセロトニンに溢れた日々だと思っている。
加えていうなら、私は君と一緒にいる限りセロトニンのまったりとした幸せだけでは無く、君にドキドキして緊張のアドレナリンも出ると思っている。」
「とっても嬉しいですけど、どうしてですか?」
リリアンはマルチーズのように真っ白な肌とくりっくりの丸い黒目がちの目をうるうるして聞いた。
「まず、昨日も君と会ったはずなのに今日のエスコートでこの紫色のドレスを着た姿を見て心臓が止まるかと思った。装いだけで君は僕をドキドキさせてくれる。
外見も小さい時からどんどん変化していっていて、いずれ死ぬまで君は変わり続けるだろう。その全ての変化が美しい。そばかすが薄く散っていた頬も可愛かったし、今の白くつるんとした肌も好ましいし、将来シワシワになった君にもドキドキするだろう。
それに君ほど日々意外性のある人間はいないよ。いつも君の言動にもドキドキさせてもらっている」
ギルバートの発言は手放しで喜べるものでもなかったが、辛うじて嬉しい。そんなにいつもドキドキとアドレナリンを出してくれているとは。
リリアンは意外性なんてギルの方があるでは無いかと思っていた。彼は無口に見えて意見を求めると饒舌で、完璧なようでいて今日の金色のスーツのようにセンスが凄まじいというギャップもある。彼の黒髪には何でも似合いそうだが、流石に金色は舞台俳優のようで、夜会では浮いていた。
「逆に私の方がリリアンに飽きられないか心配なくらいだ。
私はほら、リリアンの白金色の髪に比べて黒髪に茶色の目で地味だろう。
今日はリリアンの意表をつくために今まで着たことのない金色のスーツにしてみた」
彼の気遣いは全くもって的外れだが、ギルバート以外見えていないリリアンは喜んでいた。
「つまり、私も貴方もお互いに夢中で、お互いに永遠にアドレナリンとセロトニンを余所見しないで感じられるということね?」
リリアンは照れながら確認した。
そのようにほっこりした二人の間に水を差す声が掛けられた。
「あらお生憎様。ギル様はお子ちゃまな貴方より私の方がお気に入りのようですよ」
扇情的な格好をした美しい女性がギルバートにしなだれかかろうとした。
ところがさっとギルバートが横に素早く移動したので、よろっとよろけた。
ギルバートが避けたのかと顔を赤くして見ると、ギルバートの腕を引いただろうリリアンがいた。
いつのまにと怒り、女性がウェイターからサッと赤ワインを取りリリアンに向かって投げつけた。
すると次の瞬間に何故か女性はワインまみれになっており、リリアンは〝怖いですわ″とギルバートの胸に顔を埋めている。
周りは何事かと見ていたが、女性の手元が狂い自分にかけてしまったのだろうと失笑した。
女性はしばらく呆気に取られていたが、我に返り〝何をするのよ″と叫びながらリリアンに一歩踏み出そうとすると、会場の警備の騎士達がやってきて女性を会場から出るように促し始めた。
「リリアンお嬢様。お止めするのが遅くなり申し訳ございませんでした。
こちらの方は責任を持って処理させていただきます」
リリアンはうるっとした瞳をして〝よろしくお願いしますね″と声をかけた。
騎士団長の愛娘という事で、騎士達は失態をこれ以上犯さないようにと必死になり、速やかに女性を連行した。
「リリアン、大丈夫だったかい?」
「大丈夫よ。ギル。
ところで彼女は貴方とどういう関係なのかしら?
もしかして彼女にアドレナリンを感じちゃったりしていないわよね?
最初の質問を何でギルにしたのか言い忘れていたけど、この前彼女と貴方が学園のB室で一緒に居たのを見たの。
私の教室からほんの3キロくらいだったから克明に見えたわ。
彼女に手を握られていたわよね。あんなにゆっくり動く手に握られちゃうなんて、ギルは本当にうっかりしているんだから。
ちゃんと直ぐに振り払って離れていたから今日まで聞かないであげていたの。
出来ればギルからこのお話聞きたかったなぁ」
リリアンの外見は少女めいた彼女の愛くるしい母親に似ているが、中身はゴリラの騎士団長に似ている。
身体能力が非常に高く、素手で林檎を粉々に粉砕できる。
うるっとした目に光る鋭い輝きがこちらを刺してくるようだ。ギルバートは〝あぁ、ドキドキしてきた。この意外性にキュンとするんだよ″とアドレナリンを多量に出しながら、きっちり説明責任を果たす事を誓い、リリアンと夜会を後にした。