表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第4話:はーとの在処

1、


 ずっと、ずっと、わけも分からないままに苛立っていた。

 まるで‥無限のように繰り返す、何の実感も無い虚ろな毎日。

 口うるさいだけの両親。

 くだらない教師。

 クラスメイトさえも、ただ煩わしい存在でしか無かった。

 一日も早く、一人きりになりたかった。

 誰にも干渉されずに、一人だけで生きて行きたかった。


 ある時、ふいにモモにこう聞かれた事がある。

「真依ちゃんはどうしてプー荘に引越して来たの?」

 真依はこう答えた。

「そんな特別な理由なんて無いよ‥、ただ、何の目的も無く高校に入って、何の役に立つのか分からないような勉強をするくらいだったら、早く自分で稼いで生活できるようになりたかった。それだけ‥」

 もちろん、それも嘘では無かった。でも、本当の理由は『あの家』にはもう一秒だって居たくなかったからに他ならなかった。

 イベントプロデューサーをしている真依の父親は全国を飛び回っていて、真依が小さな頃から家にはほとんど寄り付かなかった。

 広告代理店に勤めている母親も、真依が小学校に上がった頃に課長に昇進してからは、急に忙しくなってしまって、いつもビジネスホテル泊まり。家に帰ってくるのは週末だけだった。

 だから、真依は派遣会社から送られてくる通いのお手伝いさんに、ずっと面倒を見てもらっていたのだ。

 それでも、お手伝いさんはお昼前に来て掃除や洗濯をし、午後には一度他の家の掃除に行って、夕方に再び戻って来くると、真依の夕飯と次の日の朝食の用意をして帰ってしまうから、夜はいつもひとりぼっちだった。

 お父さんも、お母さんも、普段は真依なんて居ないものだと思って好きな仕事にのめり込んでるくせに、たまに家に帰って来た時だけ親ぶって、勉強はしてるのか?だとか、門限はきちんと守ってるのか?だとか言って、最後には必ず「お父さんとお母さんは真依の事を愛してるのよ」って言った。

 真依は、いつの頃からかずっと、ずっと、ずーっと思っていた。


 『嘘つき!!』


 授業参観にも、運動会にも、たった一度だって来てはくれなかった。

 遠足のお弁当も、掃除の三角巾や雑巾も、みんなはお母さんが作ってくれたのを嬉しそうに持って来ていたのに、真依のだけは違っていた。

 家庭訪問だって、いつもお手伝いさんが代わりに受けてくれていたし、学校で体調を崩した時にも、二人とも迎えに来てはくれずに、担任の先生が家まで送ってくれた。

 インフルエンザで寝込んだ時にだって、電話の一本も入れてはくれなかった。

 それでも‥。

 それでも真依は、お父さんも、お母さんも、二人とも大好きだった‥。

 いつかは、みんなの家と同じように、毎日、お父さんとお母さんと一緒に過ごせるようになるんだって、そう思って‥、そうなる事だけを願って、淋しがったり、駄々をこねたりせずに、素直にひとりぼっちで我慢していたのだ。

 それなのに‥、お父さんとお母さんは、いつの間にか、顔を合わせる度に真依の事で言い争いをするようになってしまった。

 お互いに責任のなすりあいを始めてしまって、真依がそこにいる事なんて、まるで見えていない様子だった。

 真依の中にあった小さな希望は、ガスの抜けた風船のように少しずつ小さくしぼんでいって、真依が中学に上がる頃には、もうとっくに、ぺしゃんこに潰れて地面に落ちてしまっていた。

 楽しい事なんて何にもなくて、毎日が無気力だった。

 わけも分からずに苛立っていて、ついつい他人に当たり散らしてしまったりもした。

 そんなイライラしてる自分が、どうしようもなく嫌いで、こんな自分なんて早く消えてしまえば良いのにって、いつも思ってた。

 そんな情けない自分に、また苛立ちが生まれて、その苛立ちがまた自分を嫌いにさせる‥、毎日がその繰り返しだった。

 そのうち、人に会うのも嫌になって、真依は学校を休みがちになった。

 先生たちは、困ったような顔をして注意してくれたけど、どの先生も、どうして学校に行かなければいけないのか、その理由を真依に教えてはくれなかった。

 結局は、先生だってスーパーマンじゃなくて、お金で雇われて生徒に勉強を教えてるだけの、ただのサラリーマンなんだって、真依にそう気付かせてくれたのは、他ならぬ先生たちだった。

 友達も、最初のうちは心配して声をかけてくれていたけれど、そのうち、真依の事なんて忘れたように他の子と仲良くなって、真依の家の前を楽しそうに笑い合いながら通り過ぎていった。

 そうだ‥。

 みんな心配してる振りをして自分の義務感や責任感を自己満足させてるだけで、心配するのに飽きてしまえば、もう心配してた事なんてすっかり忘れて楽しそうに笑い始めてしまうんだ。

 誰も、心から真依の事を好きになって、心から真依の事を想ってくれる人なんて、この世の中には居やしないのだ。

 そんな嘘つきたちと友達ぶって楽しく笑う事なんて、真依には出来ないと思った。

 どうせ、誰も真依を好きになってくれないのなら、真依は一人で生きて行きたかった。

 お父さんや、お母さんのように、好き勝手に、自分の事ばかり考えて生きて行きたかったのだ。

 去年のクリスマス・イヴの夜、久しぶりに、お父さんとお母さんが一緒に家に帰って来た。

「どうしたの? 何の気まぐれ?」

 そんな風に、口では憎まれ口を叩きながらも、真依は三人で一緒に過ごせる初めてのクリスマスが嬉しくて、嬉しくて、どうしようもないくらい幸せだった。

 お父さんが買って帰ってきてくれた、お菓子のサンタさんとチョコのお家が載った大きなクリスマスケーキと、まだ温かいフライドチキンを三人で食べて、それから、真依がまだ幼稚園生の頃の、三人が一緒に写ってるアルバムを引っ張り出して、一緒に眺めながら、楽しかった思い出話をしたりした。

 真依は、サンタさんがずっと持ってくるのを忘れていた真依のお願いを、今ごろになってやっと叶えてくれたのだと思って、子供みたいにはしゃいでしまったのだ。

 なのに‥。

 なのに、あの人たちは、平気な顔をしてこう言った。


『お父さんとお母さんは離婚する事にしたから‥』


 そこから先の事を、真依は何も覚えていなかった。

 気が付いたら、みぞれ混じりの冷たい雨の中、裸足にスウェット姿で、M駅の南口のテラスの端に座り込んでいて、そこを偶然通りかかったキッカさん‥一〇二号室の吉川結さんに拾われて、プー荘に連れて来てもらった。

 それからは、真依は一度も『あの家』には帰っていなかった。


 プー荘に住んで、バイトを見つけ、自分の力で生活するようになって、少しずつ分かって来た事がある。

 それは、自分が、他人に余計な心配をされるのが嫌だったんじゃなくて、他人に自分を心配してる『振り』をされるのが嫌だったんだ‥って事。

 本当は真依の事なんてどうでもいいくせに、義務や責任だけで心配してる『振り』をされるのが、たまらなく嫌だった。

 そして、その境目が自分の中にあるって事にも気が付いた。

 たとえ相手が相手なりに真剣に考えてくれていても、自分がそう感じなかったらそれは自分にとっては『振り』で終わってしまうんだって事。

 最近、真依は少しずつ、あの頃のお父さんとお母さんも、二人なりに真依の事を真剣に考えていてくれたのかもしれないな‥って、本当に少しずつだけど、そう思えるようになって来ていた‥。


2、


「笹野さん、最近よく笑うようになったね」

 バイト先の先輩が、急にそう言って真依に笑いかけてくれた。

 働き始めた頃は、愛想が無いだとか、もっと笑いなさいだとか、顔を合わせる度にそう言ってほっぺたをつままれたりもしたのだけれど、そんな事を言われたのは初めてだったから、驚いて、真依はポカンと口を開けてしまった。

「そう‥ですか?」

「うん、たまに鼻歌唄ってたりするんだもん、ビックリしちゃった」

「えっ?! ホントですか?」

 ビックリしちゃったのはあたしの方です!‥って、真依は心の中で叫んだ。

 まさか、自分が人前で、しかも仕事中に鼻歌を唄っていただなんて、とても信じられなかった。

「え‥、気付いてなかったの?」

 そう言って、もう一度ビックリさせられてしまったように目を丸くして先輩は笑った。

「ね、彼氏でも出来たの?」

「あはは、そんな事ないですよ」

 そんなわけ無いじゃないですか‥って、今度は真依が笑った。

 けれど、そう答えながら、頭の中には何故かモモの顔が浮かんで来てしまって、真依は自分でもそれに驚いて、顔が勝手に熱くなって行く感じに戸惑ってしまった。

 そうだ‥。

 言われてみれば、バイト中にも、モモの事ばかり考えてしまっていたような気がする。

 だって、バイトで失敗をしたり、お客さんに嫌な事を言われたりしても、モモの事を想い出すと自然と頬がゆるんで、嫌な気持ちなんてどこかに飛んで行ってしまうのだ。

 いつの間にかモモが真依の胸の奥に住み着いて、そこからいつも真依の事を励ましてくれてるみたいな気がして、それが嬉しくて、真依は先輩が目の前にいる事なんてすっかり忘れて、だらしなく頬を緩めてしまった。


3、


 真依ちゃんと一緒に映画館に出かけた次の週の日曜日。

 お部屋で一緒にゴロゴロしながら真依ちゃんの雑誌を借りて見ていたモモは、その雑誌の星座占いコーナーを見ながら、ふと思って訊ねた。

「あ‥、あのね、真依ちゃんの誕生日っていつなのかなぁ?」

「来月の十二日」

 いつのものようにそっけなくそう答えた真依ちゃんが、今度はモモの方を振り向いて、訊ね返した。

「モモは?」

「わたしは、四月の十四日‥」

 だから、今はわたしの方が真依ちゃんよりお姉さんなんだよ、って言って、えへへ‥って嬉しそうに笑ったモモに、

「四月の十四日って‥、それって、ここに住み始めてからじゃん?! どうして教えてくれなかったのよ!」

 そう言って、真依ちゃんが血相を変えた。

「え、でも‥」

「でもじゃないでしょ! 言ってくれたらケーキとプレゼントくらい用意したのに」

「え‥」

(ほ、ほんとに‥?!)

 モモは、なんだか信じられなくて、真依ちゃんの顔をぼぉっと眺めてしまった。

 だって、そんな事してもらった記憶なんてモモには一度も無かったから、夢の世界の話みたいで、現実感がまるで無かったのだ。だけど、

「来年は覚悟してなさいよ。今年の分まで上乗せしてハッピーバースディしてあげるんだから」

 そう言って、モモの頭をグリグリと撫でてくれた真依ちゃんの優しい瞳を見ていたら、なんだか勝手に涙があふれて来て、その後から、嬉しい!って気持ちがどんどん押し寄せて来ちゃって、モモはもう、居ても立ってもいられなくなって、真依ちゃんにぎゅ‥って抱き付いてしまった。


 モモは、自分が覚えている限り一度も、自分の誕生会を開いてもらった事も無ければ、誰かの誕生会に呼ばれた事も無かった。

 いや、最初の頃は友達も呼んでくれていたのだけれど、プレゼントを用意しようにも、お小遣いなんて一度ももらった事が無かったから用意しようがなかったし、自分だけ手ぶらで、お誕生会に行く事なんて出来なくて、毎回泣きながら断っているうちに、誰も誘ってくれなくなった。

 でも、今年は違う。だって、モモは自分でお金を稼ぐ事が出来るようになったのだ。

 だから、モモは心に決めた。

 来月、六月の十二日の真依ちゃんの誕生日には、モモにとって生まれて初めてのプレゼントを真依ちゃんに贈ろう!って。


 真依ちゃんへのバースディプレゼントをあれこれ考えるのは、モモにとって、とっても楽しくて幸せな作業だった。

 さりげなく、真依ちゃんに何か欲しい物が無いか聞いてみたり、プー荘のみんなから情報を集めてみたりしながら、真依ちゃんが喜んでくれる姿を想像しては、一人で勝手に舞い上がってしまうそうになったりもした。

 だけど、問題はやっぱりお金だった。

 似顔絵描きを始めてからの一ヶ月とちょっとで稼いだささやかなお金は、真依ちゃんから借りた三千円を返して、スケッチブックと必要な画材を買い足して、公共料金の半分と、食費をちょっとだけ払ったら、もうモモの手元には何にも残らなかったのだ。

 真依ちゃんは、もうちょっと余裕が出てくるまでは払わなくてもいいよって言ってくれたんだけれど、モモはどうしても払いたくて、無理を言って真依ちゃんに受け取ってもらっていた。

 こんな事なら、もうちょっとだけ真依ちゃんに待ってもらえばよかったのに‥わたしのばか‥、って、少しだけ後悔してしまったモモだけど、すぐに気が付いて顔をほころばせた。

 そうだ、真依ちゃんの誕生日まではまだ時間があるのだから、無くなってしまったお金は、もう一度稼げば良いのだ。


 次の日、モモは事情を翠さんにお話して、いつもよりもうちょっとだけお金を稼げる方法が無いかどうか訊ねてみた。

 すると翠さんは、少し思案してからモモに答えてくれた。

「今度の休みにK駅の辺りで少しやってみる?」

 二つ返事でOKしたモモは、次の日曜日、ワクワクしながら家を出て翠さんと待ち合わせのK駅前に向かった。

 真依ちゃんに初めて連れて来てもらった時もそうだったけれど、K駅にはM駅とは比べ物にならないくらいの人が溢れてて、モモは、まっすぐ歩くのも大変なくらいだった。

 待ち合わせの場所には、まだ時間前だというのに、翠さんが先に来て待っていてくれた、合流して早々、今日はお師匠さんは別のお仕事があるからこっちには来れなくて残念がっていたって話を翠さんがしてくれた。

 元々、来れるかどうか分からないって話だったのだけれど、それでもやっぱり、お師匠さんが一緒にいてくれないのは、たくさん残念で、ちょっとだけ不安だった。

 モモと翠さんは、ショッピングモールの片隅のお店の前に陣取った。

 シャッターが下りていたからモモには何のお店かは分からなかったけれど、翠さんによると、知り合いの人が経営してる不動産屋さんで、今日はお休みだからその前を貸してもらえるように話を付けておいてくれたって事だった。

 二人は早速、店支度を始めた。

 翠さんは押してきたいつもの小さなワゴンを開けて、ぬいぐるみとアクセサリーを並べ始め、モモは、翠さんがワゴンに乗せて運んで来てくれたお師匠さんの折り畳み椅子を広げて、画材を準備し、『似顔絵十五分 自由価格〜』って書いたダンボールの看板を掲げた。

 それから、今日は取っておき。

 プー荘のみんなの似顔絵を、後ろのシャッターにセロテープで貼り付けて、通りすがりの人にも見えるようにしたのだ。

 みんな本当に可愛いんだけど、似顔絵の方も我ながらとっても可愛く描けてたから、たくさんの人に見てもらいたいな‥って思って貼ってみたのだけれど、その効果はテキメンだった。

 足を止めて見てくれた人たちであっという間に人だかりが出来て、何人かの人はすぐにモモに似顔絵を頼んでくれたのだ。

 午前中だけでも、十人もの人が似顔絵を描かせてくれて、モモのお財布の中には、何枚もの千円札がぎゅうぎゅうに詰め込まれてしまった。

 お昼時になると、モモもさすがに疲れてしまって、持って来た真依ちゃん特製のお弁当を食べながら休憩になった。

「モモちゃん、知ってる?」

 翠さんが菓子パンをかじりながら、思い出したようにモモに話した。

「昔聞いた話なんだけど、人の幸せって、思い出し笑いの量で決まるんだってさ」

 え‥、そうなんですか?って、ポカンと口を開けてしまったモモに、翠さんが訊ねた。

「モモちゃんは、今、幸せ?」

 『幸せ』って言葉を聞いて、モモの頭の中は真依ちゃんの事でいっぱいになってしまった。

「えへへ」

「はいはい、訊いた私がバカでした」

 あんまり素直なモモに、呆れたように翠さんが笑った。

「いいなぁ、私も幸せになりたーい」

 と、まるでそんな翠さんの声に引き寄せられたみたいに、変な格好をした金髪のお兄さんたちが、急に翠さんに声を掛けた。

「ねぇ、こんな所でなにやってんの?」

「俺らと遊びに行かない?」

 翠さんは一瞬で、あからさまに不快そうに顔をしかめた。

「いーじゃんいーじゃん、奢っちゃうからさあ」

「そうだよ、行こうよー」

 そう言いながら、今度は手近に居たモモの手を引っ張り始めた。

「あ‥、あの‥、ダメです」

 どうにか抵抗しようとしたモモだったけれど、お兄さんの力はとっても強くて、モモの力じゃどうにも出来なかった。

 そのまま連れて行かれそうなってしまったモモだけれど、

「おいコラ!ヤダって言ってんだろ!!」

 ばきょっ。

 黒のエプロンドレスの長い裾をはためかせて、翠さんの回し蹴りがお兄さんの後頭部に炸裂した。

 舗道のタイルの上に倒れ込んだお兄さんをわざとハイヒールの踵で踏みつけながら、翠さんがモモの手を引いて抱き寄せた。

「いい?こんな頭の悪そうな奴らに声かけられても、絶対に付いて行ったりしちゃダメだからね」

「あ‥、は、はい」

 初めて見る翠さんの剣幕に驚いて、モモはポカンと口を開けたまま固まってしまった。

「てっ‥め! なにしやがる!!」

 倒れ込んでるお兄さんの仲間の二人が、今度は一斉に翠さんにつかみかかって来た。

 翠さんは、それを円を描くように流れる足捌きと目にも止まらぬ身のこなしで、軽々と避けると、その流れのままに素早く二人の足を同時に払った。

 ズダーン! と豪快な音を立てて地面に転がる二人のお兄さん。

「痛ってぇ!!」

「このアマ!」

 映画やドラマぐらいでしか聞けないような台詞を吐いて、悪態をつくお兄さんたちを尻目に、

「場所変えよ、モモちゃん」

 そう言って翠さんは黙々とワゴンの片付けを始めてしまった。

「おいコラ! シカトかよ!!」

 片付けを始めた翠さんの後ろから、よろよろと起き上がった三人が同時に襲い掛かった。

 けれど、首も動かさずに視線だけで三人の動きを確認すると、翠さんは右手にぬいぐるみを抱えたまま、フットワークだけで軽々と三人の攻撃を避け、身を翻すと、翠さんが左手を軽く触れただけで三人のお兄さんが次々に宙をクルリと舞って、そのまま順番に背中から地面に叩きつけられていった。

「お前ら、恥ずかしくないのか? こんなか弱い美少女に大の男が三人がかりで」

「う、うるせぇ!!」

 顔を歪めながらお兄さんたちはヨロヨロと立ち上がり、翠さんを弱々しく睨んだ。

 それから、翠さんには敵わないと見たのか、いきなりモモに掴み掛かって来たのだ。

「きゃっ‥」

 抵抗する間もなく羽交い締めにされてしまったモモ。

「こいつに手ェ出されたくなかったら、大人しくしな!」

 まるで小説に出て来る卑怯な不良そのままの台詞に、モモはなんだか現実感が無くて、怖い‥って思うよりも先に、わ‥こんな事言う人もいるんだぁ‥って思って、妙に感心してしまった。

「サイテーだね‥、ゴミ以下だよお前ら」

 フッ‥、と翠さんはシリアスに笑って言い放った。

 そんな翠さんの芝居掛かった台詞が、モモからまた現実感を奪ってしまって、モモはなんだか本の中の世界に紛れ込んでしまったような気がした。

 周りで何事かと見守っている人たちも、どうやら、なにかのアトラクションなのかと思ってしまっているみたいだった。

「うるせぇっつってんだろ!!」

 叫びながら襲い掛かってきたお兄さんを、翠さんは寸前でサッと横に避け、腰の脇に後ろ向きに肘を立てた姿勢で、背中からお兄さんの横腹に体当たりをぶちかました。

 翠さんに吹っ飛ばされたお兄さんが、モモを羽交い締めにしているお兄さんにぶつかって、モモごと、そのまま後ろに押し倒してしまった。

 二人分の体重をかけられて腰から地面に落ち、悶絶してるお兄さんの手から、悠々とモモを取り返すと、

「失せな! あんまりしつこいと、さすがの私も切れるわよ」

 そう言って、翠さんはボキボキと指を鳴らした。

「いてて‥、骨が折れちまったよ、警察に訴えてやるからな!」

「うふふ、面白いわね。男が三人がかりで、こんなか弱い女のコに襲い掛かりましたって、わざわざお巡りさんに教えるつもりなの? お笑いだわ」

 ますます芝居じみていく翠さんとお兄さんの遣り取りをぼんやりと聞きながら、これは本当に現実なんだろうか‥って思ってしまったモモだったけれど、

「後ろっ‥!」

 三人を前に見据えた翠さんの背後に、もう一人、別のお兄さんが忍び寄っていたのに気が付いて、モモは慌てて声を上げた。

 けれど、一瞬遅かったのだ。

「っ!? しまった!!」

 いつの間にか仲間がもう一人増えていた事に全く気付いていなかった翠さんは、背中から羽交い締めにされてしまった。

「離せっ! 服が汚れるだろっ!!」

 言われてみれば、あれだけ暴れておいて、まだ翠さんの漆黒のエプロンドレスには汚れ一つ付いていなかった。

 けれどお兄さんたちは、そんな翠さんの声には構わずに勝手に話を進めた。

「よくも好き放題やってくれたなぁ」

「この綺麗な顔に傷を付けるのもなんだし、土下座して『ごめんなさい、すみませんでした』って謝るんなら、許してやってもいいぜ」

 お兄さんの一人が、翠さんの顎に手をかけて顔を近づけた。

 と、我慢し切れなくなったのか、そんなお兄さんの顔目掛けて、翠さんがペッと唾を吐きかけてしまったのだ。

「てめぇっ!!」

 お兄さんが手を振り上げた上げた。

「ダメぇーーーーー!!」

 モモは、何かを考えるよりも先に飛び出して、お兄さんと翠さんの間に体を割り込ませた。

『バキッ!!』

 鈍い音が響いた。

 一瞬、気が遠くなりそうになって、モモはようやく、あ‥これってやっぱり小説じゃなかったんだ‥って思った。

「モモちゃんっ?!」

 翠さんが、悲鳴のような声を上げて叫んだ。

「こ‥、こいつが悪いんだからな」

 うろたえたように声を震わせたお兄さんに、翠さんの目がギロリと光った。

 そこから先の事は、モモは怖くて目をぎゅっと閉じていたから分からなかった。

 ただ、辺りが静かになった後、ゆっくりと目を開けたモモの視界に飛び込んで来たのは、折り重なって倒れた四人のお兄さんのズタボロになった姿だった。

「もう二度と女のコに手なんか上げるんじゃないわよ! 次はこんなもんじゃ済まないからね!!」

「ひっ‥、た、たすけて‥‥」

 鬼のような顔をした翠さんを怯えたように見て、お兄さんたちは泣きながらヨロヨロと後ずさるように逃げて行った。

 その姿が遠くに見えなくなると、

「モモちゃん、ごめん! ごめんね!!」

 翠さんが、服が汚れるのも構わずに、地面に座り込んで、モモをぎゅっと抱きしめてくれた。

「えへへ‥、ちょっとだけ痛いけど‥大丈夫です」

「ごめん‥」

 そう謝ると、翠さんは、モモを守りきれなかった自分が悔しかったのか、きつく唇を噛みしめて、睫毛を伏せた。

 それから翠さんは、いつまでも、いつまでもモモの事をぎゅう‥っと抱きしめていてくれた。


「モモっ?! どうしたの、その顔?!」

 部屋に帰るなり、真依ちゃんが泣きそうな顔でモモに駈け寄って来た。

「え‥、そんなにひどい?」

 言われて初めて洗面所の鏡を見ると、頬が青く腫れ上がって、唇も少し切れていた。

「わ‥、すごい‥」

「すごい‥じゃないわよ! どうしたの?!」

「え‥と、ちょっと転んじゃって‥」

 じ‥っと、真依ちゃんの黒目がちの綺麗な目が、心の中まで見透かすみたいにモモの瞳を覗き込んで来て、モモは胸のあたりがきゅうって音を立てたような気がした。

「お願い‥、嘘は無しだよ‥」

 怒ってるみたいな、それでいて心配で仕方無さそうな声‥。

「‥ごめんなさい」

 本当に真剣にモモの事を心配してくれてるんだって分かって、それが嬉しくて、モモはそんなに痛くなんてなかったのに涙があふれるのを我慢出来なかった。

「モモ? 痛いの?」

 心配そうな真依ちゃんの声がまた嬉しくて、モモは、ぎゅう‥と真依ちゃんに抱き付いてしまった。

「モモ‥?」

 睫毛を伏せて、やさしくモモの背中を撫でてくれる真依ちゃん。

 翠さんの腕の中とは全然違って、甘いドキドキがモモを優しく包んでくれて、モモは夢見るみたいにそっと瞳を閉じた。

 お願い真依ちゃん‥、もう少し‥。

 ‥もう少しだけでいいから、このままでいさせて下さい‥。


「‥‥やめて」

 真依ちゃんの腕の中で、モモが顔の痣の本当の理由を話し終えると、真依ちゃんは怒ったように顔をしかめて言った。

「もうやめて! こんな目に遭ってまで似顔絵描きなんてやる必要無い!」

「え‥‥」

「『え‥』じゃない! あたし‥、あたしの居ない所でモモがこんな目に遭うのなんて、絶対‥、絶対に許せない!」

「だ、大丈夫だよ。もう、こんな事なんてきっと起きないよ‥‥、きっと‥」

「モモっ!!」

 真依ちゃんが泣きそうに顔をしかめながら怒鳴った。

 モモは嬉しかった‥。

 嬉しくて、また泣きそうになりながら、真依ちゃんにぎゅ‥って抱き付いてしまった。

 でも、それでも、モモはやっぱり‥。

「ごめんなさい‥。でも、わたし、もう少し続けてみたいの‥」

 これだけは譲れなかった。

 だって、似顔絵描きは、モモがみんなを幸せに出来るたった一つの方法だったのだから。

「‥‥モモのバカ‥、もう知らないっ!!」

 複雑な表情をしてモモを見つめてた真依ちゃんだったけれど、やがて、プイッとそっぽを向いてモモの腕を払い除けると、立ち上がってそのままお風呂の方に歩いて行ってしまった。

 すぐに聞こえてきた激しいシャワーの音を聴きながら、モモは小さく呟いた。

「ごめんね‥真依ちゃん」

 心配してくれて、ありがと‥。

 でも、わたし、真依ちゃんがいてくれれば、どんな事があっても頑張って前を向いていられると思うの‥。だから‥、お願いです‥‥。


 次の日の朝、モモはベッドから起き上がれなかった。

 といっても、たぶん、前の日に殴られてしまった事とは何も関係は無かった。

 だって、喉が痛くて咳が出たし、鼻水もすごかった。

 それから、体温計で熱を測ったら、体温が三十八度近くあった。

 つまりは‥風邪。

「あんまり無理するからだよ‥」

 真依ちゃんは呆れたようにそう言ったけど、モモは別に無理をしてたつもりなんて無かったし、体があんまり丈夫じゃないのは昔からだったから、こんなのもう慣れっこになってしまっていた。

 あんまり食欲は無かったのだけれど、真依ちゃんが作ってくれたお豆腐のお味噌汁を少しだけ食べて、それから、真依ちゃんの薬箱から買い置きの総合感冒薬を一錠もらって飲んだ。

 真依ちゃんがアルバイトに出かけた後、薬が効いてきたのか眠気が襲ってきて、モモはぐっすりと眠ってしまった。

 だけど、夕方近くにハッと気が付いて目を覚ますと、時計を確認して、しまった‥、って思いながらベッドの上に起き上がった。

 だって、だって、今日はモモが家事をしないといけない日だったんだもん。

 家事の分担は真依ちゃんとの約束、風邪を引いたくらいで寝てなんていられない。

 咳と鼻水は相変わらずだったけど、寝たら熱はだいぶ下がったような感じだった。

 顔はまだ腫れてちょっと痛かったけれど、我慢出来ないほどじゃ無かったから、モモはそんなに気にもしていなかった。

 とにかく、真依ちゃんがアルバイトから帰って来るまでに、お部屋の掃除をしちゃわないといけない。と、

「あ‥、あれ‥‥?」

 立ち上がろうとして、ベッドから降りた途端、膝に力が入らなくなってしまって、モモはへなへなと床にへたり込んでしまった。

「わ‥‥」

 なんだか手足に力が入らなくて、モモはそのまま、立ち上がる事はおろか、動く事も出来なくなってしまった。

 う‥、どうしよう‥。このまま真依ちゃんが帰ってくるまでここで寝てようかな‥。

 でも、そんな事したら、きっと真依ちゃん、怒るだろうな‥。

「ふふっ‥」

 真依ちゃんの怒ってる顔を思い出したら、どうしてか嬉しくなって来て、モモは床に這いつくばったまま頬を緩めてしまった。

「ばか!! あんた一体なにやってんのよ!!」

(えっ‥?!)

 びっくりして見上げたら、ぼんやりとした視界の中、モモが想像してた通りに怒ってる真依ちゃんの顔が見えた。

「あ‥、あの‥‥。でも‥今日はわたしが掃除当番だから‥‥」

 モモが、虚ろな口調でそう答えると、真依ちゃんは絶句して、今にも泣き出してしまいそうな顔をした。

「‥‥ばか」

 震えてかすれそうな声で、そう言って、モモの傍にしゃがみ込み、抱き起こしたモモの体を、そのまま、ぎゅ‥ときつく抱きしめてくれた。

「何のために二人で暮らしてると思ってんの‥。頼りないかもしれないけど、こんな時くらい、もっと私のこと頼ってよ‥」

 モモは、嬉しくて‥涙があふれた。

 だって、真依ちゃんがそんな事を言ってくれるなんて思っても見なかったんだもん‥。

「真依‥ちゃん‥‥」

 抱きしめられた腕の中で、真依ちゃんの温もりと、胸の鼓動を感じたら、モモはもう涙が止まらなくなってしまった。

 そして、そんなモモが落ち着くまで、真依ちゃんはずっと、ずっと、モモの背中を優しく撫で続けていてくれた。


 夕ご飯は、真依ちゃんがとっても美味しいおかゆを作ってくれた。

 一口食べるごとに美味しい‥って微笑んで真依ちゃんを見てたら、

「いいから黙って食べなさい」

 って、真依ちゃんに怒られてしまった。

 はぁい、って、返事をしながらも、そんな真依ちゃんの顔が嬉しくて、モモはやっぱりニコニコが止められなかった。

「えへへ」

「なに?」

「真依ちゃん、お母さんみたい」

「なっ‥」

 モモの不意打ちのような言葉に、真依ちゃんは困ったように眉をひそめて、唇を尖らせたけど、すぐに顔をほころばせてモモを見ると、なんだか幸せそうにモモの髪を撫でてくれた。


 食事の後、しばらくして、またゴホゴホと咳を始めたモモに、真依ちゃんは思い出したようにパーカーのポケットをまさぐると、小さな丸い缶に入った喉飴をモモにくれた。

「ゆっくり舐めるんだよ。噛んだり飲み込んだりしちゃダメだからね」

「うん‥」

 モモは、大切そうに缶から喉飴を一粒取り出すと、小さく開けた口に含み、舌の上でコロコロと転がしながら、ゆっくりゆっくり舐めた。

 そんなモモの姿を、ベッドの傍で瞳を細めながら真依ちゃんはずっと見ていてくれた。

 真依ちゃんがくれた喉飴は、まるで真依ちゃんみたいに優しい甘さがした。


4、


「モモ、桃の缶詰たべる?」

 お風呂から上がった真依が、ベッドの方に向かって呼びかけた。

 本当は食後にモモに食べてもらおうと思って買ってきたのだけれど、ほどよく冷やしてからの方が絶対に美味しいと思って、しばらく冷蔵庫に入れておいたのだ。

 だけど、ベッドの方からは、うんともすんとも言って来なかった。

 これは寝ちゃったかな‥、と思って顔を見に行くと、案の定。

「あは‥、気持ち良さそうに寝てる」

 モモはブタのペティを抱きしめながら、幸せそうに寝息を立てていた。

 脱力して小さく開いた口から、よだれを少し垂らしそうになってるのが見えて、真依は苦笑しながらティッシュでモモの口元を拭ってあげた。

 すると、モモの唇が微かに動いた。

「まいちゃん‥」

 起こしてしまったのかと思って心配した真依だったけれど、その虚ろで舌っ足らずな囁きは、どうやら寝言のようだった。

 初めて聴くモモの寝言‥。

 一体、どんな夢を見て真依の名前を呼んだのだろう。

 幸せな夢だといいな‥。そう思ってモモのおデコをそっと撫でてあげると、また、モモの口から小さな呟きが洩れた。


「まいちゃん‥だいすき‥‥」


 ドクン‥。

 一瞬、心臓が止まったんじゃないかと思った。

 だって、自分の胸の辺りから、ものすごい大きな音が聴こえたのだ。

 だけど、次の瞬間にはもう、真依は嬉しくて、ドキドキが止まらなくて、いったい何をどうしたら良いのか分からなくなってしまいそうなった。

 こんな気持ち、生まれて初めてだった。

 一体、自分はどうしてしまったのだろう‥。

 真依は、いつまでもバカみたいにドキドキしてる自分の胸に手を当て、落ち着け、落ち着け‥って、何度も言い聞かせた。

 なのに、モモの淡いピンク色の唇に目が行くたびに、さっきの寝言が頭の中に映像付きで再生されてしまって、余計にドキドキしてしまう。

 寝言なのに‥。

 寝言だって分かってるのに‥、モモの『好き』を信じてしまいそうな自分が、今、ここにいるって事を、真依は素直に認識せずにはいられなかった。


 次の日には風邪も小さな咳を残してすっかり治まり、その次の日には頬の腫れもだいぶ引いて、モモはいつものように元気を取り戻した。


「あのね、今日は翠さんがね‥」

 相変わらず、楽しそうに、その日の出来事を真依に話してくれるモモ。

 だけど、そんなモモの笑顔を、いつの頃からか真依は複雑な気持ちで眺めていた。

 上手く言葉にはあらわせないけれど、ただ、『翠さん』って嬉しそうに話すモモの笑顔は、どうしようもなく真依の心を焦らせるのだ。

 真依が知らない時間に、真依の知らない所で、真依の知らない『翠さん』とモモが仲良く笑い合っている‥、そう思うのが、どうしてか分からないほど苦しくて、次第に真依はモモの話を上の空で聞くようになってしまっていた。


 五月の半ばに、花屋のバイトの先輩が急にやめてしまった。

 田舎に帰って結婚するという話だったけれど、そのおかげで、真依は午後八時までの遅番のバイトに連日入らなければならなくなった。

 モモと一緒に過ごせる時間が急に少なくなってしまって、真依は本当の事を言えば、淋しくて仕方なかった。

 なのに、モモは相変わらずの様子で、部屋に帰った真依を見つけると、楽しそうに、その日の『翠さん』との出来事を話してくれた。

 モモは、真依と一緒の時間が減ってしまった事なんて、これっぽっちも淋しくは思っていないみたいだった。


 五月の終わり。バイトの給料日の翌日に、久しぶりの休みをもらった真依は、半日かけてご馳走を用意し、朝から外に出かけたモモの帰りを待っていた。

 モモと一緒に暮らすようになってから、真依は料理をするのが楽しくて仕方がなかった。

 喜んで食べてくれるモモのために作る食事は、自分の空腹を満たすためだけに作っていた食事とはまるで違って、真依の心まで温かく満たしてくれた。

 モモのために料理を作っている自分が、真依はいつの間にか大好きになっていたのだ。

 今日のメニューは、初挑戦のラムチョップの香り焼きに、鶏もも肉と温野菜のツナソースがけ、メインはモモが好きなチーズたっぷりのチキンドリアを談話室のオーブンで焼いて、スープも半日かけてじっくりと煮込んだ。

 だけど、モモはいつまで経っても帰っては来なかった。

 いつもなら日が暮れる頃には帰って来ていたハズなのに、今日は夜の八時を過ぎても、まだ帰って来ない。

 もしかすると、真依が連日遅番のバイトに出ている間に、モモが外で過ごす時間も遅くまで延びてしまったのだろうか‥。

 次第に真依が心配になって来た頃、カチャッといつもと同じようにドアが開く音がして、

「ただいまー」

 いつもと変わらないモモの声が聴こえてきた。

 その声と姿にホッと安心して胸を撫で下ろしながらも。

「こら! 外から帰ってきたら、ちゃんとうがいと手洗いしなきゃダメでしょ! また風邪引いたって知らないんだからね」

 ついつい、眉をひそめてそんな事を言ってしまう真依。

 それから冷えてしまった料理を温めて、モモと二人でソファーに腰掛け、食事を始めた。

「今日は遅かったじゃない、また駅前に行ってたの?」

「あ‥ごめんなさい‥。帰りに菜摘さんのお部屋に寄ってたの」

「は‥?」

 それなら、どうして一度部屋に戻って一言告げてから行ってくれなかったんだろうって、真依は眉をひそめた。

 だけど‥。

 そうだ‥、ご馳走を作って待っていたのは真依が勝手にした事で、約束してた訳じゃない。それに、お互いの事には干渉しないって最初に決めたのは自分だったじゃないか‥。

 真依は、うつむいて、そっと唇をかみしめた。

「ね‥大丈夫? 食欲無さそうだけど‥」

 今日のモモは、見て分かるくらいに食の進みが悪かった。

「ううん、大丈夫だよ」

 そう答えて笑顔を作ると、ぱくぱく‥と急にペースを上げて食べ始めるモモ。

 だけどやっぱり、すぐに顔色を曇らせて箸の動きが止まりそうになる。

「やめて‥、もう食べなくて良いから」

「あ‥」

 真依は見かねてモモの手から箸をひったくった。

 そんな真依を申し訳なさそうな顔で見上げると、モモは、

「あの‥、ごめんなさい、菜摘さんの所でおやつ食べすぎちゃって‥」

 そう言って、泣きそうに顔を歪めてしまった。

「もう‥、仕方ないわね」

 真依は呆れたように眉間に皺を寄せ、そんなモモのおデコをコツンとした。

 それから、気を取り直したように、

「あ、それじゃ、明日は何か美味しいものでも食べに行こっか?」

 そう誘ってみた。

 きっと、喜んでくれる‥そう思って、真依は思い切って誘ったのだ。

 なのに‥、モモは気まずそうに顔を曇らせて言った。

「あ‥、あのね‥、明日は翠さんと約束があるの‥」

 また『翠さん』って響きが、真依の胸をぎゅ‥と締め付けた。

「だから‥、帰るの、ちょっと遅くなっちゃうかもしれないから‥」

 そう言って、ごめんね‥と謝るモモ。

 そんなモモをじっと見つめながら、真依は、胸が焼け付くような苦しさと必死に闘っていた。

 油断したら、何かとんでもない事を口走ってしまいそうで、唇をかみしめ、手をぎゅっと握り締めた。

(ダメ‥。ダメだよ、冷静になんなきゃ‥)

 そう自分に言い聞かせるように、真依は大きく深呼吸をし、それからもう一度モモに訊ねた。

「‥それじゃ、あさっては?」

 真依はドキドキしながら、半分、神様に祈るみたいな気持ちだった。

 そんな真依の気持ちを知ってか知らずか、モモは急に顔をほころばせて答えた。

「うん、あさってなら、きっと大丈夫だよ」

 そんなモモの嬉しい反応に、真依の重く沈みかけていた心は急に羽根が生えたみたいに軽くなってしまった。

「外に食べに行くのと、うちでご馳走、どっちが良い?」

「おうちで真依ちゃんのご馳走食べたいな‥」

「おっけー、それじゃ約束。あさっての晩御飯は、今日よりもすっごいご馳走作っちゃうからね」


 真依は、いつの頃からか、自分の本当の気持ちがどこにあるのか全く分からなくなってしまっていた。

 ほんのちょっとした事で、泣きそうに嬉しくなってしまったり、反対に、息も出来ないくらいに苦しくなってしまったり‥。

 少し前までは、モモの事を考えるだけでホッとして気持ちが楽になれたのに、今はもう、モモを想えば想うほど、胸が苦しくて、切なくて‥、勝手に涙があふれてしまうようになった。

 そのうち、自分でも、この正体不明の気持ちを押さえられなくなってしまいそうな気がして、真依には、それが何よりも怖かった。

 この気持ちがどこに向かって行こうとしているのか、その先はいつまで立っても暗闇の中で、不安ばかりが真依を攻め立て続けていた。


 明後日。真依は花屋のバイトを早めに切り上げて、商店街の外れにある、値段は少し張るけど品揃えの豊富なスーパーに立ち寄り、あれこれとメニューを考えながらいろんな食材を買い出して、両手にずしりと重いスーパーのビニール袋を提げて家路についた。

 まだ明るいうちに部屋に戻ると、モモはまだ帰っていないようで、ダイニングのテーブルの上には、夕方六時には戻るって内容のメモがあった。

「よしっ」

 真依は部屋着に着換えて、腕まくりをすると、気合を入れてキッチンに向かった。

 急いで作れば、ちょうどモモが帰ってくる時間に間に合うかもしれない。そう思って、真依は、モモの喜んでくれる顔を思い浮かべながら、一生懸命料理をしたのだ。

 けれど、食事の支度がすっかり整って、時計の針が六時半を差しても、モモは帰っては来なかった。

 心配と、不安と、淋しさと、怒りと、数え切れないくらいの気持ちが入り混じって真依の心を攻め立て、真依はもう居ても立ってもいられなくなってしまった。

 部屋から出て二階の廊下から前の道路を眺めたり、この前みたいに、他の誰かの部屋にお邪魔してるんじゃないかって思って、一部屋一部屋訊ねて歩いたりもした。

 でも、モモはプー荘のどこにも居なかったし、時計の針が七時を差しても、八時を差しても、まだ帰っては来なかった。

 始めは、正直、約束を破ったモモを怒っていた。

 けれど、時間が経つに連れて、もう、心配で心配で、どうしようもなくなってしまっていたのだ。

 遠くから聞こえた救急車のサイレンに心臓が止まりそうになってしまったり、廊下から聞こえる小さな音に反応して、その度にモモが帰って来たのかと思って廊下に飛び出したりもした。

 モモ‥、お願い。どんなに遅くなってもいいから、無事に帰って来て‥。

 真依は、胸が苦しくて、今にも張り裂けてしまいそうで、ソファーに腰を下ろすと、両手で自分の躯を抱きしめて、必死に不安と闘った。

 もう、料理なんてどうだって良かった。

 モモが‥、モモさえ無事に帰って来てくれるなら、他に何もいらないって、真依はそう思っていたのだ。


「ただいまー」

 いつもと何も変わらないモモの声が聴こえて来たのは、午後九時を回った頃だった。

 真依は、じっとソファーに座ったまま、無言でモモを向かえた。

 本当は、今すぐにでも駈け寄って、モモをきつく、きつく抱きしめたかった。

 でも、モモの平気な顔を見た瞬間、今度は、ずっと忘れていた怒りが一気に込み上げて来てしまった。

「遅くなっちゃってごめんなさい‥。翠さんがね‥」

 また『翠さん』だ‥。

「もういい‥」

 真依は、もう、自分の中から溢れ出しそうな想いを堪えきれなくなりそうだった。

「え‥?」

 モモが、いったいどうしたのかと、普段とは違う様子の真依の顔をじっと覗き込んで来た。

 そんなモモの目も見ずに、真依はうつむいたまま、今にも体中から噴き出してしまいそうな激しい気持ちを押さえ付けるように、無感情に呟いた。

「出て行って‥、もう顔も見たくない‥‥」

 モモが目を見開いて真依を見た。

 なにか、信じられない物でも見たような顔をして、モモはじっと、じっと真依を見つめていた。

 真依は、とうとう我慢し切れなくなって、ぎゅっと瞳を閉じると、泣き出しそうな声で叫んだ。

「モモなんて大っ嫌い!!」

 真依の頭の中は、もう見事なくらいに真っ白だった。

 急に電源が落ちたように、何も考えられなくなって、ただ呆然とソファーに身を預けていた。

 モモからは何の反応も無かった。

 まるでこの世界から音という音が全て消え去ってしまったように、二人の間を沈黙が埋め尽くして行った。

 無言で、無表情のまま、真依はモモを見上げた。

 モモの震える瞳からは、見たこともないほど綺麗な涙が、音もなく零れ落ちていた。

 どこからこんなに涙があふれて来るんだろう‥って思うくらい、後から後から、あふれては頬を伝って落ちて行くモモの涙を、真依は、まるで映画のワンシーンのように、ぼんやりと眺めていた。

 やがて、モモは、こらえ切れなくなったように俯くと、そのまま後ろを振り向いて、ゆっくりと玄関の方に歩いて行った。

 靴を履く小さな音が聴こえ、モモは静かにドアを開けて、部屋から出て行った。

 真依は、モモがいなくなってからも、ずっと、身動き一つ出来ないでソファーに身を預けていた。

 何も分からなかった。

 自分の気持ちも、モモの気持ちも、どうして自分があんな事を言ってしまったのかも、なにもかもが、まるで分からなかった。


 真依は、せっかく作った食事を、箸もつけずに生ゴミ入れに捨てた。

 食べる気なんて起きなかったし、それを見ているのも嫌だった。

 それから、熱い熱いシャワーを浴びて、ベッドに入った。

 心も、体も、疲れ切っていた。

 何もかも忘れて、ぐっすりと眠ってしまいたかった。

 だけど、ベッドの上で手足を伸ばそうとして、真依は気付いてしまったのだ。

「このベッド‥、なんでこんなに大きいの‥‥」

 急に、モモはもうこの部屋には居ないんだって実感が押し寄せて来て、真依はぎゅっと奥歯を噛みしめ、勝手にあふれそうになる涙をこらえた。それから、

「あー気持ちいいー」

 両手を思い切り伸ばして、そんな事これっぽっちも思ってもいないくせに、強がって声に出してみた。

 あたしは一人が好きなんだから、これでいいの‥、そう自分に言い聞かせようとしてみたけど、そんなの何の役にも立たなかった。

 枕元では、ペティが主の居なくなったベッドの半分を淋しそうに眺めていた。

「そんな顔‥しないでよ‥‥」

 真依は、もうどうしたらいいのか分からなくなってしまって、抱き枕の、モモがいつも頭を載せていた所にそっと顔をうずめた。

 甘くて優しいモモの匂いが、まだそこには残っていた。

 そして、その匂いに導かれるように、モモの悲しそうな顔が勝手に浮かんで来て、真依は顔をうずめたまま、ぎゅっと顔を歪めた。

 そして、思った。

(枕カバー、明日洗濯しよう‥)

 ‥モモの事は何から何まで、全部消し去ってしまいたかった。

 モモと出会う前の自分に戻ろう‥と思ったのだ。

 あの頃の自分は、一人で上手くやっていけてたじゃないか‥。

 モモなんかと一緒に暮らし始めてしまったから、歯車が狂った時計のように、真依はおかしくなってしまったのだ。

 あんな酷い事を言って追い出してしまったのだ‥。きっと、もう、モモがこの部屋に‥、‥真依の傍に帰ってくる事なんてない。

 きっと『翠さん』の所に行くに違いないのだから‥。

 モモは『翠さん』と暮らす。

 真依は、元通りに一人で気ままに暮らす。

 きっと、これで良いのだ‥。

 そうだ、きっと‥‥。


 けれど、真依は枕カバーを洗濯出来なかった。

 それどころか、何をする気も起きなかった。

 料理も、掃除も、洗濯も、何をするにも、部屋の中にはモモの想い出の欠けらが散らばり過ぎていて、何かしようとする度にモモの事を考えては落ち込んでしまった。

 食欲なんて、全然無かった。

(バイト‥休んじゃおうかな‥)

 何度もそう思ったけれど、結局休めなかった。

 そんな自分の不便な性格が、こんな時には恨めしかった。

 バイト先でも失敗ばかりだった。

「ちょっと、笹野さん、大丈夫? 調子悪いんなら無理して来なくても良いんだよ?」

 傍目にも分かるくらい真依の様子はおかしかったみたいで、何度となく注意されてしまった。

「無理されても、うちも迷惑なだけなんだから」

 そう言って困ったような顔をしてくれたオーナーは、本当に真依の事を心配してくれている様子で、それが何だか嬉しくて、真依は少し泣いてしまいそうだった。


「真依ちん、ダイエットしてるの? それ以上痩せてどうするつもりよ?」

 みゆきちゃんは、顔を合わせる度にそう言った。

 でも、モモを追い出してしまった事に関しては、みんな何も言わなかった。

 言っても無駄だと思ったのか、それとも、真依に何か話したく事情があるとでも思ってくれたのか、それは分からなかったけれど、『モモ』って響きを聴いただけでも心が勝手に揺れてしまうようになっていた真依には、それは有り難い事だった。

「うるさいな、ほっといてよ‥」

 そんな憎まれ口を叩く真依にも、みゆきちゃんは決して怒ったりしなかった。

「はいはい、真依ちんは一人が好きなんだもんね」


 ううん‥、違う‥‥。


 ホントは‥、もうとっくに一人なんか好きじゃなくなってたんだ。

 いつだって‥傍にいて欲しい人がいる。

 いつの間にか、ずっと一緒の時を過ごして行きたいって、心からそう思える人が、真依の隣にはいたのだから。

(モモ‥)

 苦しいよ‥モモ。

 あたしは‥、あたしは、一体どうしたらいいの‥。


5、


 あの夜。どうしたらいいのか分からなくて、助けを求めるように公衆電話から電話をしたモモを、翠さんは駅前まで迎えに来て、自分の家に泊まらせてくれた。

 それから、ただ「真依ちゃん‥」「真依ちゃん‥」って呟きながら、涙を止める方法を忘れてしまったみたいに泣き続けるモモに、朝までずっと付き合ってくれた。

 明け方になって泣きつかれたように眠ったモモが、お昼前に目を覚ますと、翠さんは、そんなモモの手を引いて「気分転換」って、お散歩に連れ出してくれた。

 寝て起きたら、いつの間にか涙は止まってくれていたけれど、それでも、モモは、少しつついたら泣き出してしまいそうな顔のままだった。

 お散歩の途中で、モモは翠さんにお願いして、前にみゆきさんと一緒にお祈りした神社に立ち寄ってもらった。

 前と同じように、お財布から大切そうに百円玉を取り出してお賽銭箱に投げ入れ、モモはそっと手を合わせた。

「なに?『真依ちゃんと仲直り出来ますように』って?」

 翠さんはそう訊ねてきたけど、モモのお願いはちょっと違った。

「ううん‥、前は、よくばって『真依ちゃんとずっと一緒にいられますように‥』ってお願いしちゃったんだけど、それはやっぱりダメだったから‥」

 真依ちゃんが今日も一日幸せでありますように‥、って囁いて、モモはもう一度手を合わせた。

 だって、真依ちゃんとモモは喧嘩してしまった訳じゃなくて、モモが真依ちゃんに嫌われちゃっただけなんだもん‥。

 仲直りなんて‥、してもらえる訳ないって思った。

 ‥だけど、真依ちゃんにはいつだって微笑んでいてほしかったから‥。

「ねぇ、『真依ちゃん』のどこがそんなに良いわけ?」

 翠さんが、呆れたようにモモに訊いた。

「え‥と、優しいところ」

 モモは泣きそうな顔を赤く染めて答えた。

「優しい? モモちゃんのこと追い出すようなヤツのどこが優しいっていうのよ」

 そんな事を言う翠さんに、モモは珍しく怒ったように口を尖らせた。

「真依ちゃんは世界で一番優しいもん‥」

 誰になんて言われたって、これだけは絶対に譲れなかった。

 真依ちゃんに出会えたから。

 真依ちゃんが傍にいてくれたから、モモは前に向かって小さな一歩を踏み出せた。

 こんなに優しい人が、この世界にいてくれて、そのうえ、誰よりもモモの傍にいて、微笑んでいてくれるだなんて、そんな事、モモは夢にだって思ったことは無かった。

 真依ちゃんの傍にいられた二ヶ月とちょっとの時間は、モモの今までの人生全てと交換したってお釣りが付いてきちゃうくらい幸せだったのだ。

 真依ちゃんに嫌われてしまったのは、約束を破った自分の自業自得なんだってモモは思ってた。

 真依ちゃんに喜んでもらおうと思ってした事が、結果的には約束を破る事に繋がってしまったのだけれど、それでも、悪いのはモモの方なのだ。

 嫌われたって、当たり前なんだって、モモは、そう必死に自分に言い聞かせようとしていた。


「真依ちゃん‥」

 翠さんの部屋の縁側に腰掛けて、ナップサックの内ポケットから取り出した喉飴の小さな丸い缶を見つめながら、モモはそっとつぶやいた。

 夕陽がモモの顔をオレンジ色に染め、喉飴の缶をキラキラと綺麗に光らせていた。

 真依ちゃんの事を考えるたびに、『モモなんて大っ嫌い!!』って、真依ちゃんの言葉がリフレインして来て、涙が勝手にあふれそうになってしまう。

 だから、モモはもう何度も何度も、真依ちゃんの事は考えないようにしようって、思ったのだ。

 なのに、ふと気が付くといつも、真依ちゃんの事ばかり考えて泣いている自分がいた。

「‥どうして‥なのかな‥‥」

 真依ちゃんからもらった喉飴の缶に訊ねるみたいに、モモは小さく呟いた。

 範子さんに「出て行って」って言われた時には、淋しかったけれど、こんなに悲しくなんてなかったし、泣いたりなんかしなかった。

 範子さんとは十年近くも一緒に過ごして、真依ちゃんとはたった二ヶ月だけしか一緒にいられなかったのに‥、どうして‥。

「‥‥好きだから‥じゃないの?」

 後ろから静かに掛けられた声に少し驚いたように振り向くと、いつの間にかモモの後ろに翠さんが立っていた。

「‥好き‥‥?」

 呆けたように口を開けて、モモは翠さんを見上げた。

 それから、嬉しいような、悲しいような、淋しいような、複雑な表情をして瞳を細めると、モモは泣き出してしまいそうな掠れた声で言った。

「 ‥‥‥‥うん‥、わたし‥真依ちゃんのこと‥好き‥‥‥‥」

 きっと、これが『好き』ってことなんだ‥。

 やっと、モモは真依ちゃんの事を『好き』になれたんだって思って、それが嬉しくて、思わず、泣きそうな顔をそっとほころばせてしまった。

 だけど、真依ちゃんの事を考えたら、また急に悲しくなって来て、モモは俯いて顔をこわばらせた。

 だって、やっと‥やっと『好き』になれたのに‥、

「‥‥だけど‥真依ちゃん‥‥‥わたしの‥こと‥‥‥」

 嫌いだって‥‥、そう続けようと思ったのに、声が出なかった。

 代わりに、しゃくりあげるような嗚咽と一緒にポロポロと大粒の涙がこぼれた。

 悲しくて、苦しくて、もうどうにかなってしまいそうで、モモは喉飴の缶を胸に抱きしめて、ただ泣き続けるしか出来なかった。

「くやしいなぁ‥」

 かがみ込んで、背中からそっとモモの肩を抱いてくれた翠さんが、耳元でそう囁いた。

「こんなに泣けちゃうくらい真依さんの事好きだなんて‥、私もそれくらいモモちゃんに好かれてみたいな‥」

 そう言って、翠さんはモモを抱きしめる腕をきつくした。

「真依さんの所に帰りたい?」

 そう言った翠さんの顔を、モモはびっくりしたように振り向いた。

 だけど、すぐに気が付いたように瞳を揺らし、また泣き顔を下に向けた。

「そうね‥、真依さんはモモちゃんのこと大嫌いで顔も見たくないんだもの、帰れるわけ無いよね」

「‥‥う‥ん‥、‥ひっく‥‥ひっく‥‥」

 そんな事言われなくたって分かってるのに‥、言葉にして聞かされてしまって、モモは苦しそうに顔を歪めた。

「‥でも、‥それでも‥帰りたいんだよね‥」

 そんなモモの髪を優しく撫でてくれながら、翠さんが言った。

 モモは涙でぐしょぐしょになった顔を上げて、唇を噛んだまま無言でうなずいた。

 嫌いだって言われても‥、顔も見たくないって思われても‥、それでも、真依ちゃんの傍に居たかった。

 謝って許してもらえるのなら‥、嫌いじゃないよって言ってもらえるのなら、真依ちゃんのためにどんな事をしたって良いと思った。

 生まれて初めて、『好き』になった人。

 ずっと‥、ずっと一緒に居たいって、そう心から思った人。

 可愛くて‥、格好良くて‥、世界中の誰よりも優しい、大好きな真依ちゃん‥。

「だけど‥」

 と、翠さんがモモに囁いた。

「だけど、今は我慢しなきゃダメよ‥。真依さんが自分から謝って来るまで、待たなきゃダメ」

「‥えっ、真依ちゃんが謝るの? ‥わたしに?」

 あんまり驚いて、モモはすっとんきょうな声を上げてしまった。

「そうよ、当ったり前じゃない! こんなにモモちゃんの事泣かせたんだから、」

 そう言って口を尖らせてくれる翠さんがちょっとだけ嬉しかったけれど、モモはやっぱり、悪いのは自分だって思っていたから、こう答えた。

「ううん‥、真依ちゃんは悪くないの‥。約束守れなかった‥わたしがいけなかったの‥、‥だから真依ちゃん‥怒っちゃったんだもん‥」

 真依ちゃんは、いつだってモモの事を真剣に考えていてくれた。

 真依ちゃんは、どんな時だって優しかった。

 そんな真依ちゃんを怒らせてしまったのは、自分なんだって思ったら、モモは自分が許せなかった。

 そして、真依ちゃんの優しさを、真依ちゃんのぬくもりを、モモの躯が、心が覚えてしまっているのに、真依ちゃんのいない所で平気な顔をして生きて行く事なんて、出来るわけ無いと思った。

 昨日の晩、いつまで経っても泣き止まないモモに、翠さんが優しく言ってくれた。

「もう、あんなヤツの事なんて忘れちゃいなよ‥」

 その時のモモは、どうしたって忘れられるハズなんて無いと思った。

 だけど、そうじゃなかったんだって、モモは後から気が付いた。


 忘れたくなんて無いんだ‥。


 真依ちゃんの笑顔。

 真依ちゃんのぬくもり。

 モモに怒ってくれてる真剣な顔、優しい手の感触、とろけちゃいそうな料理の味、とっても可愛い寝顔、ぶっきらぼうな口調、その一つ一つが、モモの大切な‥、大切な宝物なのだ。

 何一つ、忘れたくなんか無い‥。

 何一つ、忘れたりなんかしない!

 生まれて初めて『好き』になれた人。

 世界中で一番大好きな‥真依ちゃん。

 ぶっきらぼうで、おこりんぼうだけど、いつだってモモのことを考えてくれてた真依ちゃん。

 きっと真依ちゃんだったから、『好き』になれた。

 ううん‥、真依ちゃんがいてくれたから、『好き』になれたんだ‥。

 ずっと、ずっと真依ちゃんの傍に居たかった。

 真依ちゃんが居てくれるなら、他には何にもいらなかったのだ。

 それが、それだけが‥モモの願いだったのだから‥。


6、


 二回目のモモが居ない夜、真依は少しずつ熱が冷めたように落ち着いてきた頭の中で、一晩中いろんな事を考えていた。

 どうして、自分はこんなにモモを必要としてしまうようになったのか。

 いつから、モモにドキドキさせられるようになってしまったのか。

 どうして、モモと一緒にいるだけで心が落ち着いたのか。

 それから、それから、数え切れないくらい沢山の事を考えてみたのだけれど、そこから導き出される答えは、どれもたった一つの解答に辿り着いてしまった。

 そう‥、真依は、あの公園でモモと目が合った瞬間から、もう、どうしようもないくらいモモに惹かれてしまっていたんだって事。

 理屈なんかじゃ無い。

 まるで、隣同士のパズルのピースがぴったりとくっつくように、真依はモモに惹かれてしまったのだ。

 他に何万個、何億個のピースがあったとしたって、真依の隣にぴったりと収まる事が出来るのは、きっとモモのピースだけ‥。

 まるで、神様が創ったジグソーパズルみたいだ‥、って、真依はぼんやりと思った。

 それから、真依は、モモとの想い出を順番に思い出してみた。

 そうしたら、いつの間にか頬をゆるませている自分に気が付いて、真依は唖然としてしまった。

 失ってしまったモモの事を考えるのは、苦しくて、つらい事だったけど、それでも、モモと一緒に過ごした二ヶ月の想い出は、真依に微笑みをくれたのだ‥。

 真依は、その事実の気が付いて、泣き笑いのように顔を歪めると、小さく呟いた。

「‥そうか‥」

 あたし‥。

 あたし、幸せだったんだ‥‥。

 なんで‥、一緒にいる時に気が付けなかったんだろう。

 そう‥、きっと、自分が幸せだなんて事、考える必要も無いくらいに幸せだったんだ‥。

 生まれて初めて、心の底から幸せだった‥。

 モモの傍で、モモと一緒に暮らして行きたい。

 ただ、それだけを望んでいたんだ‥。

 平凡な日常の繰り返しで良かった。

 そこにモモがいてくれるだけで、それは他のどんなものにも代えられない、あったかくて幸せな、真依の大切な宝物になってくれたんだ。

 モモの笑顔が好きだった‥。

 本当に嬉しそうに笑うモモを見ているだけで、凍りかけていた自分の心が、少しずつ溶けて行くような気がしてた。

「モモ‥‥」

 好き‥、好きだよ‥。

 ずっと、このまま一緒に暮らして行きたい、ううん‥、暮らしていけるって、いつの間にか勝手に思い込んでいた。

 だけど、きっとモモにとっては、あたしなんて居ても居なくても何も変わらない、所詮は『範子さん』や『翠さん』の代わりでしかなかったんだよね‥。

 そう思ったら、真依はまた胸がぎゅう‥って苦しくなってしまって、枕に顔をうずめ、ペティをきつく抱きしめて、洩れそうになる嗚咽を必死に堪えた。

 枕からも、ペティからも、モモの甘くて優しい匂いがして、真依は泣きながら、モモの胸の中に抱かれているような錯覚に陥っていた。


『コンコン』

 次の日、バイトを休んで部屋でペティと一緒にモモの想い出にひたっていた真依の元に、突然の来客があった。

 ノックの音にドアを開けると、見たことの無い、モデルさんのように背の高い綺麗なお姉さんが立っていた。

「笹野真依さん‥ね?」

「そう‥ですけど、何ですか?」

 いきなり不躾に聞かれて、真依はあかさらまに眉をひそめた。

 すると、そんな真依に、その人はいきなりモモの話を切り出したのだ。

「あなた、モモちゃんの事どう思っているのかしら?」

「モモ? あ、あなたこそ、モモの何なんですか?!」

「私は池野翠。‥それで分かるかしら?」

 『翠さん』が挑戦的な瞳に真依を映し、唇の端を上げて笑った。

「あ、あんたが‥」

 予想外の翠さんの来訪に、真依は戸惑って、一瞬言葉を失ってしまった。

 そんな真依の表情を見て、翠さんは不敵に笑い。堂々と言い放った。

「私はね、モモちゃんの事が好き。大好きなの」

「なっ‥」

 絶句してしまった真依の鼻先に人差し指を突きつけると、

「ふふ‥、良い? あなたなんかに絶対に負けないわよ」

 そういって、もう一度唇の端を上げて笑った。

 しかも、そこまで話すと、

「それだけ言っておきたかったの、それじゃ」

 そう言って、もう話は終わったとばかりに踵を返してドアから出ようとしたのだ。

「ま、待ちなさいよ!」

 真依は翠さんの腕を掴んで、無理やり真依の方を向かせた。

 そして、胸に息を吸い込んでから、廊下まで聞こえそうな声で宣言した。

「あたしだって、あんたなんかに負けない!!」

 そんな真依を少し驚いたような顔で見てから、翠さんは、ふっ‥と笑った。 

「そう‥、でも、あなた、モモちゃんに大嫌いだって言ったんでしょ?」

「そっ‥、それは‥‥」

 言葉に詰まってしまった真依に、翠さんは大人が子供に諭すように続けた。

「私なら、モモちゃんをあんなに泣かせたりしない。大嫌いだなんて、そんな酷い事言わない。それに‥」

 一旦、そこで言葉を切ると、大きく胸を張り、真依の瞳をじっと見据えた。

「私の方が、あなたよりも絶対にモモちゃんを幸せに出来るわ」

「そ‥、そんな事ないっ!!」

 真依は、両手をぎゅっと握り締めて叫んだ。

 だって、そんな話ぜったいに認める訳にはいかないんだから!

「どうして? モモちゃんだって私の方がいいって言ってるのよ?」

「嘘!! そんなの嘘だ!!」

 子供のようにムキになって噛み付く真依に、翠さんは呆れたようなため息を洩らした。

「あなた‥、まさか、もう顔も見たくないなんて言っておきながら、今さら『本当は好きだ』とか、そんなふざけた事を言う権利が有るとでも思ってるんじゃないでしょうね?」

「なっ‥」

 悔しかった。

 悔しくて、悔しくて、気が変になってしまいそうだった。

 でも‥、何も言い返せなかった。

 だって、翠さんが言っている事の方が正しい事のように思えてしまったのだから‥。

「まぁいいわ、今さら何を言ったって、モモちゃんはあなたの所には戻らないもの」

 黙ってうつむく真依に、余裕の声でそう告げると、

「ふふ‥、それじゃあね、真依さん」

 最後に、真依に初めてニコっと微笑んで、翠さんはドアから出て行った。


「モモ‥」

 胸が‥痛かった。

 苦しくて、息も出来ないくらいだった。

 一体、どうしてこんな事になってしまったんだろう‥。


 好き‥。


 好きで、好きで、どうしようもないくらい‥好きで‥、だから、あんなに不安で、心配で‥、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、大っ嫌いだなんて言ってしまった。


 会いたい。


 会って‥、抱きしめて‥、ごめんって謝りたい。

 許してもらえなくたって良い。

 もう、真依なんて嫌いだって、そう言われたって良い。

 ただ一言、『好き』だって、そう自分の口でちゃんと伝えたかった。

 ‥だけど

 モモを幸せにする‥だなんて、そんな自信、あるわけ無いよ‥。

 こんなあたしに、誰かを幸せにする事なんて‥‥。

 池野翠さん‥。

 あの人なら、きっと言った通り本当にモモを幸せにしてしまうに違いない。

 だって、あんなに胸を張って『モモが好きだ』って言えてしまうのだから‥

 それに、あの人は大人だ。

 あたしみたいな、何も出来ない子供じゃない‥。

 悔しいけど‥。

 こんな事、考えるのだって嫌だけど。

 ‥あたしなんかが出る幕じゃないのかもしれない‥。


 好き‥。


 好きで、好きで、もう、どうしたらいいのか分からないくらい好き。

 ‥だけど、好きなだけで幸せになれるわけじゃないんだ‥。

 あたしは‥モモがいるだけで、モモが傍にいてくれるだけで、他に何もいらないくらい幸せ‥。

 だけど、モモにとってあたしは‥‥。

 ‥そんな自信、あるわけ無い‥。

 モモは優しい‥。

 優しくて、純粋で、あったかくて、みんなモモの事をすぐに好きになる。

 あたし一人いなくなったって、きっとモモにとっては何も変わらないに違いない‥。

 だから‥。

「‥きっと‥、これで良いんだよね‥‥」

 翠さんの言う通りだ、あたしにはモモを泣かせたり困らせたりする事くらいしか出来ないのに‥、モモを好きだなんて言う資格、あるわけ無いんだ‥。

 あたしが、ちょっとだけ淋しいのを我慢すれば‥、そうすれば、モモは翠さんが幸せにしてくれるんだから‥。

「‥これでいいんだ‥‥」

 自分を納得させるように、そうつぶやいてみた。

 そう、心から思っていた。

 そう‥、そのはずなのに‥。


 ‥どうして‥涙が溢れるんだろう‥‥。


「ちょっとだけ‥なんかじゃ無い‥‥」

 こんなに‥。

 こんなに好きなのに。

 ちょっとだけなんかのハズ無いのに。

 モモともう会えないのなんて‥‥そんなの‥。

「‥‥やだよぉ‥」

 後から後から涙があふれ、頬を伝ってはボロボロとこぼれ落ちた。

 真依は玄関に座り込み、膝を抱えてうずくまったまま、夕闇の訪れ始めた一人ぼっちの部屋で泣きじゃくるしか出来なかった。


『コンコン』

 再び、ドアが音を立てた。

 翠さんが戻ってきたのだろうか‥。

 それとも、プー荘の誰かが訪れたのだろうか。

 どちらにしても、こんな泣き顔は見られたくなかった‥

 それは、真依にとって精一杯のプライドだったのだ。

 だけど、

『コンコン』

「佐山急便ですー」

 どう聞いても宅配便のお兄さんの声に、真依は慌てて涙をぬぐいドアを開けた。

 届いた荷物は、真依には全く心当たりの無い物だった。

 ティッシュボックス四つ分くらいの大きさのダンボール箱で、重さはほとんど無い。

 軽く振ってみると、中で何か軽い物が動くような音がした。

 誰からの荷物だろう‥と思って、真依は部屋の明かりを点け、伝票に目を落としてみた。

 差出人は‥‥。


 『倉内桃名』!!


 驚いて、目を擦ってみたけれど、そこには間違いなく、見覚えのあるモモの小さな丸っこい字で、モモの名前が書かれていた。

 受取人の名前は『笹野真依』になっているから、モモが真依宛てに送った荷物なのは確かだった。

 一体、モモは何を送って来たというのだろう‥。

 真依は、大きな不安と少しの期待に、胸を締め付けられそうになりながらも、梱包のガムテープを剥がして、ダンボール箱を開けようとした。

 と、そこで見落としていた物に気が付いた。

 『六月十二日指定』と書かれた長方形のシールが、箱の右上隅に貼られていたのだ。

 もう一度伝票に目を落とすと、荷物の受付日は『六月九日』‥、真依がモモを追い出してしまった日。

 これって、一体どういう事?!。

 モモが、あの日部屋に帰ってくる前に、これを真依宛てに発送したって事だけは確かなようだったけれど、直接真依に手渡さないで、わざわざ宅配便で送り付けるなんて、真依には、その理由がさっぱり分からなかった。

 でも、とにかく、開けてみれば答えは分かる。

 真依は、ドキドキで心臓が壊れてしまいそうになりながらも、焦って震える手で慎重に梱包を解き、ぎゅっと目を閉じてダンボールの蓋を開けた。

 恐る恐る目を開けて、ダンボールの中を覗き込む。すると、

「な‥、なに、これ?」

 見覚えの無い、両手に収まるくらいの大きさの不細工なぬいぐるみが、ダンボールの中から真依の顔を見上げていた。

 長い尻尾と、頭の上に付いた大きな耳からすると、猫のようだったけれど、耳の大きさや体のバランスは左右で微妙にずれていたし、尻尾も右側に軽くカールしてしまっていて、間違っても出来の良いぬいぐるみには見えなかった。

 でも、そんな一生懸命のアンバランスさも、よく見るとなんだか愛嬌があって、可愛いかもしれない‥って、真依は思ってしまった。

 両手でそっと抱き上げてみると、柔らかな手触りが心地良くて、真依は思わず手の中でふにふにと遊んでしまった。

 なんにしても、どう見たって市販のぬいぐるみじゃなさそうだし、ペティを作ったっていう翠さんの手から生み出された物にも見えなかった。

 何か他に入っている物は無いかと思って、ダンボールの中を見ると、底に一冊のスケッチブックと、それに挟まった二つ折りのカードが見えた。

 真依は、震える手でそのスケッチブックを取り出し、赤いリボンで閉じられていた葉書サイズのカードを開いてみた。


『真依ちゃんへ


 お誕生日おめでとう!

 今日から真依ちゃんもわたしと同じ十六歳だね。


 プレゼント、もう見てくれた?

 わたし、誰かにプレゼントあげるのなんて初めてだから、あんまり自信ないんだけど、一生懸命考えたから、受け取ってもらえると嬉しいです。

 本当は自分の手で渡したかったんだけど、わたし、緊張しちゃって、ちゃんと誕生日のうちに真依ちゃんに渡せるかどうか不安だったから、みゆきさんに教えてもらって宅配便で送ってみました。

 びっくりしたでしょ? えへへー。


 えっと、ぬいぐるみの方は、仔猫さんです。名前はミャオっていいます。

 一ヶ月も前から翠さんに教わってがんばったんだけど、わたし、不器用だから、すごく時間掛かっちゃって、ようやくさっき出来上がった所なんだよ。

 でも、真依ちゃんの誕生日に間に合うように出来て、本当に良かったです。


 真依ちゃん、猫さん飼いたいけど、死んじゃったら悲しいから嫌だって言ってたでしょ。

 だから、ミャオにはわたしが死なない魔法をかけました。

 ミャオは、真依ちゃんが大切にしてくれてる間は、ぜったいに死んじゃったりしないから、いっぱいいっぱい可愛がってあげてね。えへへ‥。


 スケッチブックの方は、見てのお楽しみなのです。

 気に入ってもらえたら、とっても嬉しいです。


 え‥と、来年はもっとたくさんがんばってプレゼントするね!

 だから‥、えっと‥、ずっとずっと真依ちゃんと一緒にいたいな‥‥。


 真依ちゃんの十六回目の誕生日に、真依ちゃんと神様にありがとうの気持ちを込めて。


                                 モモより  』


「モモ‥‥」

 真依は、ぎゅっとミャオを抱きしめて、顔をくしゃくしゃに歪めた。

 後から後から涙があふれ出して、バースディカードの上にボタボタと音を立てて落ちた。

 あたしはなんてバカなんだろう‥、バカで、バカで、どうしようもないバカな自分が許せなくて、モモは血が滲むほど唇をきつく噛みしめた。

 一秒だって離したくなくて、ミャオを膝の上に載せたまま、真依は必死に涙をこらえてスケッチブックを開いた。

 ノートサイズのスケッチブックには、いつの間に描いたのか、最初のページからずっと真依の似顔絵ばかりが描かれていた。

 笑ってる真依、すましてる真依、怒ってる真依、あくびしてる真依、寝てる真依、とにかくもう、ありとあらゆる真依が、モモの優しいタッチと色使いで描かれていて、中にはバイトの制服姿の真依までいた。

 そして、最後の一枚には。

「‥‥う‥っく‥」

 真依は最後のページを捲った途端、嗚咽を洩らしながら、またボロボロと涙をこぼして、スケッチブックに水玉模様の沁みを作ってしまった。

 だって‥、だって‥、その最後の一枚には、手を繋いで幸せそうに笑ってる真依とモモの姿が描かれていたのだ。

 真依は、もう嗚咽をこらえる事もせずに、ただ涙を落とし続けた。

 モモに伝えなきゃいけない。

 まだ、何にも伝えていないのに、このまま終わりにしてしまうなんて、そんなのできっこない!!

 真依は、ミャオが淋しくないようにペティと一緒にベッドに寝かせると、もう余計なことなんて何も考えられなくなって、部屋着のスウェット上下姿のまま、裸足をスニーカーの中に突っ込んで、すっかり暗くなっていた外へと飛び出した。

 モモが何処にいるのか、当てなんて少しも無かった

 ただ、モモの泣いている姿だけが頭の中から離れずに、一秒でも早くモモの傍に行きたくて、闇雲に街の中を走り続けた。

 この広い世界の中で、一度は真依とモモを巡り逢わせてくれた神様なのだ。

 もう一度くらい会わせてくれなきゃ、もう神様なんて一生信じない!って、真依は理不尽な願いを神様にぶつけた。

 だけど、そんなワガママな真依に神様が怒ってしまったのか、駅前にも、商店街にも、公園にも、コンビニの前にも、どこにもモモの姿は無かった。

 モモが行きそうな場所を一通り回ってみてから、やっぱり、モモは翠さんの家にいるのかも知れないって思ったけれど、真依には翠さんの家が何処にあるのかなんて知る由も無かった。

 だから、ただ、神様を信じて走り続けた。

 プー荘を出てコンビニの前を通り、商店街を抜けて駅の周辺を回った後、裏道を通って公園に立ち寄り、プー荘に戻る。

 同じコースを、モモの影を求めて、神様に願いを込めながら、無心に走り続けた。

 三回目に駅前のスーパーを通り過ぎた時、ちょうど空から雨が落ちて来た。

 あの時と同じだ‥と、真依は思った。

 あの時、この雨が落ちてきてくれたから、真依はモモと出会うことが出来た。

 神様が、もう一度だけ真依に奇跡を起こしてくれたんだって思って、真依はただ無心に走り続けた。

 だけど、あの時と同じ道のりを更に三周まわっても、モモの姿はどこにも見当たらなかった。

 額に張り付いた前髪を指で掻き揚げながら、走り疲れてフラフラな足取りを引きずるように、真依は駅前のテラスになった広場に辿り着いた。

 蕭々と降りしきる雨の中を三十分以上も走り続けて、真依のスウェットは、もう水が滴るほどぐっしょりと濡れて、体に重く張り付いていた。

 けれど、真依にはそんな事なんて、もうどうだって良かった。

 神様がモモに逢わせてくれるまでは、この足を止めるつもりは無かったのだから‥。

 と、夜の雨の中に浮かび上がった駅前の案内板の明かりの下に、モモの姿がぼんやりと見えた気がした。

(神様‥!)

 真依は何か思うよりも先に飛び出して、傘の華で混み合う雑踏を掻き分け、案内板を目指して突き進んだ。

 けれど、ちょうど会社員の帰宅の時間帯にぶつかってしまっていて、なかなかまっすぐ進む事が出来なかった。

 焦った真依は、強引に人波の中を走り抜けようとした。その瞬間、

「あっ‥!?」 

 真依は濡れたタイルに足を滑らせて、舗道の上に前のめりに突っ伏した。

 スウェットが舗道に溜まった雨水を吸い込んで行く冷たい感触を体中で感じて、真依は唇を噛みしめた。そのうえ、真依がモモだと思い込んでいた人影は、近くから見れば髪型が似ているだけの全くの別人だった‥。

 傘もささずにスウェット姿で舗道にしゃがみ込む真依の姿を、みんな異様な物でも見るような目付きで眺めては、真依を避けるように遠巻きに歩きすぎて行った。

(神様‥‥‥どうしてなの‥‥)

 真依はヨロヨロと立ち上がると、人波を避けて、テラスの広場の端まで足を引きずりながら歩き、精も根も尽き果てたように、その場にへたり込んだ。

 その場所は、あのクリスマス・イヴにキッカさんと出会い、真依がプー荘に入るきっかけになった場所‥。

 真依は、もう、ダメかもしれない‥と思った。

 神様は、せっかく与えたチャンスを自分で壊してしまった真依なんかに、もう興味を失ってしまったんじゃないかと思った。けれど、

「真依ちん? 何してんの?」

 急に聞き覚えのある温かい声が聴こえて、ふいに泣きそうになりながら振り向くと、後ろからみゆきちゃんが真依に傘を差し掛けていた。

「モモが‥、モモがいないの‥‥」

 まるでうわごとのように真依は虚ろに呟いた。

「は‥? 何言ってんの、モモちゃんは真依ちんが追い出したんでしょ」

 呆れたように眉をひそめたみゆきちゃんだったけれど、

「‥逢いたいの‥」

 雨に濡れ、ウサギのように真っ赤な目をしながら、そう呟いた真依に、目を細めて訊ねた。

「‥どうして?」

「‥伝えなきゃいけない事が‥あるから‥‥」

 そう答えた真依の、ぐしょ濡れの頭をわしゃわしゃと掻き混ぜて、どうしてか、みゆきちゃんは本当に嬉しそうに微笑み、そして言った。

「‥やっと、幸せ‥見つけられたね‥」

 幸せ‥‥?

 そうだ‥、今までの苦しかった事も、楽しかった事も、その全てがあったからこそ、真依はモモと出会う事が出来た。

 今の、この苦しさだって、きっとすぐ先の幸せに繋がってるんだって、急にそう思えて来て、真依はみゆきちゃんの目をしっかりと見つめ返した。

 そうだ、真依は幸せになるのだ。

 誰よりも幸せにしたい人と一緒に、世界中で一番幸せになってみせるのだ。

 真依は立ち上がり、みゆきちゃんに目で「ありがとう」って告げると、そのまま一気に傘の下から飛び出した。


 滝のような雨が落ちていた。

 息も出来ないくらい激しい雨。

 モモと初めて出会った、あの夕方にも、こんな雨が地面を叩いていた。

 濡れた服の冷たさに体中に鳥肌が立って、唇は青ざめ、小さく震え始めたけれど、それでも真依は走るのをやめなかった。

 もう、今日何回目だか分からなくなってしまったあの公園に向かって、真依は走り続けていた。

 けれど、さっきまでとは何かがまるで違っていた。

 そう‥、そこには絶対にモモがいるって、真依は何故かそう確信していたのだ。


 プー荘とM駅の中間にある児童公園。

 その東屋のような屋根付きの休憩所のベンチの隅に、少女は居た。

 うつむいて、ただ、激しい雨音に耳を澄ませている様子で、はぁはぁと肩で息をしながら屋根の下に飛び込んできた真依に気付いてはいないようだった。

「モモっ‥!」

 雨音に混じった真依の震える声に、モモはゆっくりと顔を上げ、その揺れる瞳が、真依をはっきりと映した。

 瞬間、モモは弾かれるように立ち上がって、後ろを振り向き、そのまま雨の中へと飛び出して行ってしまった。

「待って!!」

 どうして?!

 真依は、その場にへたりこみそうになる自分の心を必死に励まして、すぐにモモの後を追いかけた。

 『もう顔も見たくない』

 自分がモモに浴びせた言葉が頭をよぎる。

 モモは、もう顔を見るのも嫌なくらい、あたしを嫌いになってしまったのだろうか。

 もう、あたしなんて、モモにとっては迷惑な存在でしかないのだろうか‥。

 それでも‥。

 それでも‥‥。

 痛いほどの雨に打たれ、雨に霞む視界の中、目の前のモモの小さな背中を追いかけて、真依は泥だらけになった公園のグラウンドを駈け抜けた。

 もう、何も考えられなかった。

 この体中からあふれ出しそうな想いをモモに伝えたい。

 一分、一秒でも早く、この気持ちをモモの心に届けたい、ただ、それだけだった。

「モモっ!!」

 ありったけの声で叫んだ。

 その声に、モモの足が一瞬止まったように見えた。

 瞬間、真依の指先がモモに届いた。

 真依は、思い切り腕をのばしてモモの手首を掴み、そのまま強引にモモの体を引き寄せた。

 腕を引かれ、力ずくで真依の方を振り向かされて、モモはぎゅっと瞳を閉じた。

 そんなモモの震える躯を、真依は両腕で思い切り抱きしめた。

 ぎゅっと、ぎゅっと、折れそうなくらいに強くモモの細い躯を抱きしめ、そして‥ささやいた。


「お願い‥どこにも行かないで‥‥」


 その言葉に、モモの肩が小さく震えたのが分かった。

「ごめん‥ごめんね‥‥。あんなひどいこと言ったんだもん、もうあたしの事なんて嫌いになっちゃったよね‥‥‥。どんなに謝ったって、許してなんてもらえないよね‥‥」

 真依は、泣き出しそうに震える掠れた声で、腕の中のモモに囁き続けた。

「でも‥でもね、それでも、あたし‥‥やっぱり‥モモがいなくちゃダメだって‥そう‥‥分かったの‥‥‥」

 ゆっくりと、一つ一つの言葉全てに想いを込めてモモに告げた。それから、もう一度、腕の中で震えるモモをぎゅ‥っと、もう絶対に離さないって、そう宣言するみたいにしっかりと抱き締めて、モモの肩口に顔をうずめながら、真依は言った。


「モモが好き‥、好きなの‥‥」


 モモの大きな瞳が、涙をいっぱいに湛えて揺れていた。

 一体、何が起きたのか分からないような様子で、真依の腕の中で震えていた。

「‥真依ちゃん‥‥」

 激しい雨音にかき消されてしまいそうな、か細い声で、モモは真依の名を呟いた。

「わたし‥、夢‥みてるのかな‥。真依ちゃんが‥‥わたしのこと‥好きだなんて‥‥」

 呆然と、信じられない‥、って表情のまま、モモは声を震わせた。

 そして、そう言いながら、ぽろぽろと、透きとおった綺麗な珠のような涙の粒を瞳からあふれさせた。

 そんなモモが愛しくて、愛しくて、もうどうしようもなくて、真依はモモの躯を抱き締めながら、耳元で小さくささやいた。

「‥ばか」

 そんな真依の照れたような呟きに、モモは小さく息を呑んで躯を震わせた。

 それから、真依の濡れそぼったスウェットの背中におずおずと手を回し、ぎゅう‥っと真依の冷たく冷えきった躯を抱きしめ返してくれた。

 その仕草は、まるで、もう何があったって、真依の傍からは絶対に離れないって言ってくれてるみたいで、それが嬉しくて、真依はもう一度モモの耳元に、小さく「好き‥」って呟いた。

 モモは、真依の首すじに顔をうずめて、ボロボロと、まるで涙腺が壊れてしまったように大粒の涙を後から後からこぼしながら、必死に声を絞り出して、真依にささやいた。

「‥好きっ‥‥大好き‥!」

 モモの告白に、今度は真依の涙腺が壊れてしまったみたいで、真依の瞳からもボロボロと勝手に涙がこぼれ始めてしまった。

 もう、嬉しくて、幸せで、腕の中のモモのこと以外何にも考えられなくて、真依は泣きながら、ただずっとモモの細い躯を抱き続けた。

 そして、やっぱり神様はいるんだって、真依は心からそう思い、空を見上げて、ありがとう‥って呟いた。


 それから、土砂降りの雨の中、真依とモモはしっかりと手を繋いで、ぴったりと寄り添いながら歩き、プー荘の二人の部屋に一緒に帰って来た。

「くしゅっ‥」

 部屋に戻って玄関に腰掛け、濡れたスニーカーから足を引き抜くと同時に、真依が小さくクシャミをした。

 二人とも、まるで服のままプールに飛び込んだみたいにずぶ濡れで、服の裾や髪の毛の先からは、ポタポタと休むことなく水が滴っていた。

「お風呂入らないと風邪引いちゃうね‥」

 モモが久しぶりの『我が家』に目を細めながら言った。

「うん‥、モモ先に入っていいよ」

 帰ってきて早々、また風邪でも引かれたら困ると思って、真依はそう言ったのだけれど、モモは唇を尖らせて真依を見た。

「だめ!」

「え?」

「真依ちゃんだってびしょ濡れだもん、すぐに入らないとダメだよ」

「だけど‥」

 あたしは平気だから、モモが絶対に先だよ‥って、そう言おうと思った途端。

「一緒に入っちゃお」

「えっ?!」

 いたずらっぽく笑って言うや否や、モモは、唖然としてる真依の手を引っ張って脱衣室に引きずり込んでしまった。

(わ‥、ちょ、ちょっと‥?!)

 一緒にお風呂に入った事なんて一度も無かったから、真依は驚いて一瞬戸惑ってしまった。

 だけど、子供のように無邪気に笑うモモを見ていたら、真依もなんだか急に楽しくなって来てしまって、二人でふざけ合いながら濡れて肌に張り付いた服を協力して脱がせ合うと、それをそのまま洗濯機に放り込み、二人で一緒にバスルームへと駈け込んだ。

 温かいシャワーを、躯をくっつけて一緒に浴び、それから、二人で狭いバスタブの中にに向かい合ってしゃがんで、シャワーをかけっこしながらお湯をためて湯船に浸かった。

 淡い薄桃色に染まったモモの躯は、とっても綺麗で、可愛くて、真依はなんだかドキドキしてしまって、とてもまっすぐには見れなかった。

 おしゃべりしながら、ゆっくりとお湯につかって温まった後、二人で泡だらけになりながら体を洗って、またシャワーをかけっこし、一緒にバスルームから出た。

「真依ちゃん、拭いてあげるね」

 脱衣室に戻ると、モモがバスタオルを広げてニコニコしながら言った。

「い‥、いいよ。自分で拭けるから」

「だーめ」

 笑いながらそう言うと、モモはいきなり、ぎゅーってバスタオルで真依の躯を包みながら抱きついてきた。

「こ、こらっ」

 なんだか恥ずかしくて、モモを払い除けようとしてしまった真依だったのだれど、

「や‥、やめっ‥、あは、くすぐったいよー」

 モモにバスタオル越しにあちこち触られて、あまりのくすぐったさに笑い転げてしまった。

 やられてばかりで、ちょっと悔しかったから、今度は真依の方からバスタオルを構えて

「えいっ」と、モモにお返し。

 だけど、モモは楽しそうに声を上げてはしゃぎながら、真依のバスタオル攻撃を避けて、そのまま裸で脱衣室のドアを開け、濡れた体のまま部屋の中に逃げていってしまった。

「こら、待てー」

 真依も負けずに、そのままバスタオルを広げてモモと追いかけっこ。

 バタバタと床を鳴らして走り回った後、ばふっと、裸のままベッドに飛び乗ったモモが、その途端に嬉しそうに声を上げた。

「あっ、ミャオ!」

 ベッドの隅で、ペティに寄り添って嬉しそうにしているミャオを見つけたモモが、ミャオの何倍も嬉しそうに顔をほころばせた。

 それから、クルッと真依の方に顔を向けると、

「真依ちゃん、お誕生日おめでと!」

 そう言って、モモはこれ以上ないくらい幸せそうに笑った。

「ありがと‥、モモ」

 真依も裸のままベッドに横になって、モモの顔をじっと見つめた。

「真依ちゃん‥」

「ん?」

 じっとモモに見つめられて、真依は胸がきゅんっ音を立てたような気がした。

「真依ちゃん‥」

「なに?」

「真依ちゃんっ」

 急にモモが泣きそうな目をして、ぎゅ‥って真依の躯に抱きついてきた。

 真依は、そんなモモの濡れた髪を、火照った顔を、柔らかな肌を、そっと撫でてあげた。

「真依‥ちゃん‥‥」

 真依の腕の中で安心したように瞳を細めて、ぽろぽろと涙をこぼし始めたモモに、真依は優しく声をかけた。

「モモ‥‥」

 真依に名前を呼ばれると、モモは嬉しそうに微笑んで、真依を見つめた。

「‥もう‥‥真依ちゃんに会えないのかなって‥、ずっと‥そう思ってたから‥‥」

 なんだか、まだ夢みてるみたい‥。

 そう言うと、もう一度瞳を細めて、モモは途切れる事の無い綺麗な涙を流し続けた。

 泣きすぎて、ずず‥っと、鼻を啜り始めたモモに、

「ほら‥、鼻かんで」

 真依は、しょうがないなぁ‥って顔の中に、ありったけの愛しさを込めて、モモの鼻にティッシュを宛がった。

 嬉しそうな顔をして、ちーんと鼻をかんだモモは、ようやく涙を止めて真依を見つめ、微笑んだ。

「えへへ‥、真依ちゃん大好き‥」

 真依の背中に回した手をモモがぎゅ‥っとすると、躯と躯が密着して、モモの火照った肌の熱さに、真依の胸は火傷しそうに熱く、ドクドクと脈を打った。

「モモ‥」

 モモの細くて小さな躯の柔らかな感触と、湯上がりの甘い匂いに、真依はだんだん何も考えられなくなってしまいそうだった。

 目の前のモモの潤んだ瞳と、艶やかな桃色の薄い唇が、真依のドキドキを更に激しくさせて、真依はもう、頭の中が真っ白になってしまいそうだった。だけど、

『ぐぅ‥‥きゅるるぅ‥‥‥‥』

 ‥と、どこからともなく‥‥、いや‥、間違いなく自分のお腹の辺りから響いた音に、ハッと我に返ると、、

「あはっ、真依ちゃん、お腹すいた‥?」

 モモが可笑しそうにクスクスと笑って真依の顔を覗き込んでいた。

 でも、お腹が鳴った恥ずかしさよりも、目の前のそんなモモの笑顔が嬉しくて、真依はまた、ぎゅうっとモモを抱き締めて、泣きそうになってしまった。

「真依ちゃん‥‥」

 モモの小さな手が、細い指が、やさしく真依の顔を撫でてくれた。

 唇に触れたモモの指先を、真依はそっと口に含んで舌先でちろっと舐めた。

 くすぐったそうに目を細めるモモに、真依の胸はきゅんきゅんと音を立てて鳴った。

 もう、できるなら、このままモモを食べてしまいたいくらいだった。

『プルルルル‥』

 そんな甘い空気を邪魔するように、急に電話の呼び出し音が響いた。

 びっくりして飛び起きたモモが、

「あ、わたし出るね‥」

 って、ベッドから下りようとしたのを、真依は手を掴んで引き止めようとしてしまった。

 だって、ほんの少しだって、モモと離れたくなかったんだもん‥。

「だめだよ真依ちゃん」

 いい子いい子するみたいにモモに頭を撫でられて、真依はまだちょっと唇を尖らせながらも、しぶしぶとモモの手を離した。

 どこからの電話なのかは分からなかったけれど、モモは二言三言何かを話すと、ぱたぱたと小走りにベッドに戻って来て、

「真依ちゃん、行こっ」

 そう言って真依の両手を引っ張ってベッドから身を起こさせた。

「え‥?」

「いいからぁ」

 訳も分からずに、モモに急かされて服を着ると、二人は濡れた髪のまま部屋から出た。

「ちょ、ちょっと? どこ行くのよ」

「えへへ‥、ないしょだよ」

 モモに手を引かれて向かった先は、なんて事は無い二部屋隣りの談話室だった。

「なんなの?」

 ドアを開けても、談話室の中は真っ暗。

 訝しげに眉をひそめる真依を、モモは背中を押すようにして談話室の中に押し込んだ。

 すると、

『パン!パン!パンッ!!』

「うわっ?!」

 急に明かりが点いて乾いた炸裂音がし、真依は飛び上がって驚いた。

 目の前には紙ふぶきが舞っていて、その先には‥。

「ハッピーバースディ! 真依ちゃん!!」

 大きなバースディケーキと山盛りのご馳走。そして、みんなの笑顔‥。

「な‥なんなのよ、これ‥」

 こんな事、一言も言ってなかったのに‥、どうして‥こんな‥‥。

 不意打ちみたいにこんな事されて、思わず泣いてしまいそうになった真依は、あわててみんなから顔を背けた。

「よくやった! 真依ちん」

 そんな真依の頭を、みゆきちゃんが、がしがしと両手で撫でた。

 その隣では、菜摘さんがモモの頭を優しく撫でている。

「おかえりなさい、モモちゃん」

 ニコニコと本当に嬉しそうな菜摘さん。

「おかえり〜!!」

 我慢できなくなったように、ナーノがモモに抱きついた。

「た‥、ただいま」

 モモが幸せそうに瞳を細めて、声を震わせた。

「モモちゃんも、よくがんばったね」

 そんなモモの、ウサギのように真っ赤に泣き腫れた目を覗き込みながら、みゆきさんが微笑んだ。

 みんなも、真依に負けないくらい、モモが戻って来た事を喜んでくれてるんだって思って、真依はなんだか嬉しくなってしまった。


 それから、みんながハッピーバースディを歌ってくれて、十六本のロウソクの火を、モモと一緒に吹き消した。

 だって、モモの十六歳の誕生日を、真依は何も祝ってあげられなかったから、自分だけが祝ってもらうのなんて、そんなの納得がいかなかったのだ。

 モモは、戸惑いながらも真依のお願いをきいてくれて、二人、顔をぴったりくっつけて一斉に息を吹いた。

「モモちゃん、せっかく一緒に特訓したのに、今年は無駄になっちゃったね」

 残念‥、と、菜摘さんが言った。

「後で、真依ちゃんにケーキ焼いてあげてね」

 そう続いた菜摘さんの言葉に、真依はハッとして顔を上げた。

「あ‥、まさか、この間の菜摘さんの所でおやつ食べ過ぎたって言ってたのは‥」

 そんな真依の言葉に、菜摘さんは小さく首をかしげてから、急に思い当たったように笑った。

「あは、モモちゃん、試食と失敗作の片付け、がんばっちゃったもんね」

 隣にちょこんと座っていたモモを振り向くと、

「ごめんなさい‥、真依ちゃんのことビックリさせようと思って‥」

 そう言って、また泣き出しそうに顔を赤くしていた。

 そんなモモが愛しくて、嬉しくて、

「‥‥バカ」

 真依は、みんなの前だなんて事すっかり忘れて、ぎゅ‥っとモモを抱き寄せてしまった。

 すると、

『パシャッ!』

 いきなり閃光が走って、真依は目をぎゅっと閉じた。

「なっ、なに?!」

 見ると、みゆきちゃんがデジカメを構えて二人をファインダー越しに覗いていた。

「こらぁ!」

 真依はあわててモモから手を離し、顔を真っ赤にしてみゆきちゃんに頬をふくらませた。

 だけど、みゆきちゃんはそんな真依なんかお構いなしに、鼻歌混じりでデジカメをパソコンに繋ぐと、その場でさっきの写真をプリントアウトしてモモに手渡してしまった。

「はい、遅ればせながら、モモちゃんに誕生日プレゼント」

 真依に抱き締められて顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに瞳を細めてるモモの表情を、その写真はとても可愛くとらえていた。

「わぁ‥」

 その写真を、モモはポカンと口を開けたままじぃっと眺めて、それから、幸せそうに胸元に抱えると、みゆきちゃんに、ありがとう‥って微笑んだ。

 みんなから真依へのプレゼントもあった。

「はい、ボクからはこれだよ」

 そう言ってナーノが差し出したのは、ナーノの手作りらしい使い易そうなサイズの肩掛け鞄だった。

「真依ちゃん、いつもお弁当入れたビニール袋下げてバイトに行ってたでしょ? あれ、ちょっとダサ‥‥じゃなかった、イケてないなぁって思ってたんだー」

 そう言って、今度からはこれ使ってくれると嬉しいな‥ってナーノは笑った。

「これは私からね」

 菜摘さんからは、菜摘さんオススメの料理の本が二冊と、包丁と砥石のセット。

「これでモモちゃんに美味しい御飯作ってあげてね」

 そう微笑んでくれた菜摘さんにも、これからはもっとたくさんおすそ分け出来るように頑張って料理しようって、真依は思った。

「あたしとユイとマキちゃんからはこれ」

 そう言ってみゆきちゃんとマキさんから差し出されたのはK駅にあるファッションビルの紙袋。

「ユイは、なんだか今、海外らしいんだけど、プレゼントにジーンズだけ送ってよこしたから、それに合わせてあたしがスニーカーで、マキちゃんがパーカー選んでみました」

 袋の中からは、夏物のゆったりとした半袖パーカーと、ビンテージっぽい格好良いジーンズ、それから真依の好きな空色のスニーカーが出てきた。

 そしてキッカさんからのバースディカード‥。

『ハッピーバースディ! 十六歳の真依に幸せあれ!』

 たったそれだけのメッセージだったけれど、真依は嬉しくて泣きそうになってしまった。

「みんな‥、ありがと」

 誕生日が、こんなに幸せな日だなんて、真依は長い間ずっと‥ずっと知らなかった。

 みんながいて‥、モモがいて‥、あたしがいる。

 それだけの事が、泣けちゃうくらい嬉しくて、夢見てるみたいに幸せだった。

「ね、真依ちん、ちょっと着てみてよ」

「へ?」

 感激にひたっていた真依は、いきなりのみゆきちゃんの言葉に耳を疑って、すっとんきょうな声を上げた。

「早く早くー」

 ナーノまでワクワクした様子で真依を急かした。

「こ、ここで着換えるの?」

「ほら、早くしないと脱がせちゃうぞぉ」

「やっ、やめて! ‥‥って、もう脱がせようとしてるじゃんか!!」

「え? なになに? きこえなーい」

「やーめーてー!!」

 気が付けば、みゆきちゃんとナーノだけじゃなくて、マキさんまで楽しそうに真依の服を脱がせ始めてる。

 じたばたと無駄な抵抗を続ける真依。

 おろおろしながら、困ったような、それでいて、なんだかワクワクしてるような瞳で、顔を赤くして、その様子を見つめるモモ。

「はーい。みんなチーズ」

 のんきな声でそう言って、菜摘さんがデジカメのセルフタイマーをセットした。

 てててっと、小走りにこちらに戻って来て、服を半分脱がし掛けられてる真依の隣で、ぶいっとピースサイン。


『パシャッ!』


 そんなこんなで、真依の人生で一番幸せで、一番騒がしい誕生日の夜は、のんびりゆっ

くりと更けて行くのでした。

 まる。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ