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第3話:夢見る仔猫たち

1、


 まるで夢を見てるみたいな楽しくて嬉しい日々が、あっという間に過ぎていった。

 優しいみんなや、真依ちゃんと一緒の生活は、モモにとって初めての事ばかりで、毎日がドキドキとワクワクでいっぱいだった。

 真依ちゃんが、毎日少しずつ教えてくれた家事も、お料理はまだまだ全然ダメだったけど、二週間も経つ頃には、お洗濯とお掃除ならば真依ちゃんに誉めてもらえるくらいに、ちゃんと出来るようになっていた。

 だけどやっぱり、モモのアルバイト探しは、真依ちゃんが言っていた通り、とっても、とっても大変だった。

 毎日商店街に出かけて、アルバイト募集の貼り紙が貼ってあるお店を見つけては、一軒一軒、雇って下さいって一生懸命お願いして歩いたのだけれど、どのお店も、モモの歳と、中学を出たばっかりで高校にも通っていないって話を聞くと、困ったような顔をしてモモを追い出した。

 中には、雇っても良いけど親御さんと一緒に来てくれる? って言ってくれたお店もあったのだけれど、モモが、それは出来ませんって言うと、どうしてかお巡りさんを呼ばれそうになってしまったりもした。


「あ、あのね‥、ナーノはどんなお仕事してるの?」

 アルバイトに出かける真依ちゃんを見送った後、談話室でナーノと一緒に本を読みながら、モモが、ふと思って訊ねた。

 だって、ナーノはいつでもプー荘のどこかにいて、外にお仕事に行ってるような様子には見えなかったんだもん。

「うーん、ボクのはお仕事っていうのかなぁ」

 畳の上でゴロゴロしながらファッション雑誌を捲ってたナーノが、仰向けになったまま目線だけモモの方に向けて言った。

 それから、よっ、と体を起こして畳の上にあぐらをかくと、モモに向かい合って話を続けた。 

「んとね、隣町のK駅前のショッピングモールの中にね、自分で作った服とかアクセサリーとかインテリアとか、そーゆーのを何でも委託販売してくれるお店があるの」

 うんうん‥、と頷きながら聞くモモに、「それでね」と、ナーノはさらに続けた。

「ボクがデザインして作った服とかアクセサリーも、そこに置かせてもらってるのー」

 えへへー、っと、嬉しそうに笑って、ナーノは自慢気に胸を張った。

「わぁ、すごいねー」

「でしょでしょ、それに、ボクのデザインって結構人気あるんだって、店長さんが言ってたの。だから、好きな服を好きなだけ作れるくらいのお金と、お腹空かないくらいにご飯食べれるお金は、ちゃんと稼いでるんだよー」

 偉いでしょー、って、ナーノはもう一度大きく胸を張った。

 ナーノの話だと、インターネットっていう所にもお店を出して通信販売をしてるみたいで、談話室のパソコンを点けてホームページっていうのを見せてくれた。

 モモには、詳しい事はあんまり良く分からなかったけれど、こんな風にして、自分が大好きな事をお仕事に出来る方法もあるんだぁ‥って、ちょっと感動してしまった。

 そして、そんなふうに自分の力でお金を稼いで、ちゃんと生活しているナーノを、素直に憧れの目で見てしまった。


「あ、いたいた」

 談話室でゴロゴロしてたモモとナーノの所に、菜摘さんがヒョコっと顔を覗かせた。

「新作のケーキ焼いたんだけど、試食お願いしても良いかな?」

 そう言うと、二人の返事も待たずに、

「じゃじゃーん」

 ちゃぶ台の上に、小さなホールのケーキを載せるエプロン姿の菜摘さん。

「わ、おいしそーー!」

 その甘い匂いに誘われたみたいにナーノが飛び起きて、さささっとちゃぶ台に這い寄って来た。

「今、切るから待っててね」

 そう言うと菜摘さんは、待ちきれない様子で今にもヨダレを垂らしちゃいそうなナーノに『待て』をさせて、キッチンでお湯を沸かして三人分の紅茶を淹れ、それから、包丁でケーキをお皿に切り分けてくれた。

 菜摘さんのケーキは、甘くて、とろけちゃいそうなくらい美味しかった。

 モモは、ケーキなんてあまり食べた事が無かったし、ケーキの種類だってほとんど分からなかったから、自分が食べても試食の参考にはならないんじゃないかなって、心配してしまったのだけれど、モモが「美味しい‥」って瞳をうるませると、菜摘さんは本当に嬉しそうにモモの頭を撫でてくれた。

「あ、あの‥、菜摘さんは、何のお仕事をしてるんですか?」

 食休みの後、食器の後片付けを手伝いながら、モモは訊ねてみた。

 菜摘さんは、週に何日かは外にお仕事に行っているみたいだったのだけれど、何のお仕事をしているのかは、まだ聞いたことが無かった。

「私? 私は喫茶店のお手伝いさん」

 そう言って菜摘さんはニコって笑った。

「可愛い喫茶店を作るのが夢なんだぁ、だから、今はその修行中なの」

 菜摘さんの話によると、いろんなお店で勉強するために、今までもずっと、あちこちの喫茶店でアルバイトを続けて来てて、今も三つの喫茶店を掛け持ちでお手伝いしているって話だった。

「喫茶店ができたら、モモちゃんにもお手伝いしてもらっちゃおうかなぁ」

 そんな風に冗談めかして言った菜摘さんだったのだけれど、

「は、はいっ、お願いします」

 モモは、思わず身を乗り出して本気で菜摘さんにお願いしてしまった。

 だって、アルバイトは全然見つかりそうになかったし、優しい、お姉さんみたいな菜摘さんのお店で、美味しいケーキや紅茶に囲まれてお仕事できるなんて、想像しただけでも嬉しくなっちゃったんだもん。

「あは、いつになっちゃうか分からないけど、楽しみに待っててね」

 モモのあんまり真剣な様子に、菜摘さんは嬉しそうに瞳を細めてくれた。

「よーし、モモちゃんの為にもがんばっちゃうんだから」

 そう言うと、菜摘さんは両手で可愛らしくガッツポーズをしたのであった。


2、


「世の中厳しいねぇ‥」

 モモの隣を歩きながら、みゆきさんが、はふー、っと大きなため息を洩らした。

 今日は、みゆきさんがモモのアルバイト探しに付き合ってくれたのだけれど、結果はやっぱり、どこに行ってもダメだった。。

「はい‥、きびしいです‥」

 モモも、そんなみゆきさんに負けないくらい、ガックリと肩を落として、トボトボと歩いていた。

 もうすぐ、真依ちゃんと暮らし始めて三週間になってしまうというのに、モモは未だに正真正銘のプーなのだから、情けなくて泣きたくなってしまう。

 ご飯は真依ちゃんに食べさせてもらってばかりだし、お洋服はナーノに貸してもらってばっかり。本も、真依ちゃんから借りたり、談話室に置いてあるのを読んだりしていたから、モモの財布の中身は、真依ちゃんから三千円を借りたままで一円も減ってはいなかったけれど、それでも、自由価格のお家賃と、お部屋の公共料金の半分は何が何でも自分で払いたかったし、食費もちゃんと真依ちゃんに渡せるようになりたかった。

「うーん。真依ちんの時も、バイト見つかるまで一ヶ月近く掛かってたからねぇ‥」

 ふいにみゆきさんが呟いた言葉に、モモはびっくりして立ち止まってしまった。

「えっ?! 本当ですか」

 あんなにしっかりしてて器用で要領が良くて可愛い真依ちゃんが、アルバイト探しに一ヶ月も掛かっちゃったなんて‥。

「うん。真依ちんも、うちに来たばっかりの頃は、今からじゃ想像も出来ないくらい、きっつい性格してたからねぇ‥。ただでさえ中卒でプーなのに、無口で、愛想悪くて、人に頭を下げられない性格だったら、そりゃあ、いくら頭と顔が良くたって、どうにもならないよ」

 モモは、なんだか信じられなくて言葉を失ってしまった。

 あんなにモモに気を配ってくれる優しい真依ちゃんが、そんなだったなんて‥。

「あはは、信じられないでしょ? あれでも、苦労してバイト見つけて働くようになってからは、だいぶ融通が利くようにようになったんだよ」

 それに‥、と、みゆきさんは続けた。

「モモちゃんが来てからの真依ちんは、ますます可愛くなったと思うよ。いろんな意味でね」

「そ‥、そうなんですか?」

「そうなんです」

 そう一言だけ答えると、みゆきさんはニコニコと笑ってモモを嬉しそうに眺めた。

 モモの目には、初めて会った日からずっと真依ちゃんはとっても可愛く映ってたから、そんな事ちっとも気付かなかったけれど、本当にそうなのかな‥ってモモは不思議に思ってしまった。

 でも、もし本当だとしたら、どうしてなんだろう‥。

 モモは一生懸命考えてみたけど、やっぱり、いくら考えたって答えは出て来てくれなかった。

 モモに分かっていた事、それは、真依ちゃんは世界で一番可愛くて、世界中の誰よりもモモに優しいって事だけだった。

 商店街から少し裏手に入った路地で、あ! っと、みゆきさんが何か思いついたように声を上げた。

「ちょっと神頼みでもしてみよっか?」

 そう言ってみゆきさんが指差す方向には、民家に三方を挟まれて居心地悪そうにしてる小さな神社があった。

 みゆきさんと一緒に、赤く塗られた木の鳥居をくぐり、狭い境内に入る。

 すると、モモの目の前には、歴史の有りそうな古びた木造のお社が静かに佇んでいた。

 お賽銭も入れずに、大きな鈴のついた紐を楽しそうに揺さ振って鳴らし、何やらお願い事をしてるみゆきさんの横で、モモは自分のお財布から百円玉を大事そうに取り出して、そっと賽銭箱に投げ入れた。

 ちゃりん‥。

 小さな音が静かな境内に響いて、やがて吸い込まれるように消えていった。

 モモは小さな手をぱんぱんと二回叩いて、それからその手を合わせ、目を閉じて神様にお願いをした。

 他のどんな事よりも大切な‥、大切なお願いを。


「ちゃんとお願い出来た?」

 鳥居をくぐって道路に戻ると、みゆきさんが尋ねた。

「はい」

「どんなお願い?」

「あの‥、ま、真依ちゃんとずっと一緒にいられますように‥って」

 顔を真っ赤にして、ちょっと恥ずかしそうにモモが答えると、みゆきさんは呆れたように笑って言った。

「こら!『早くバイトが見つかりますように』でしょ!」

「あ‥‥」

 そっか‥、そうだよね。アルバイトが見つからなかったら、真依ちゃんとは一緒にいられなくなっちゃうんだもんね‥。

 そう思って、ちょっとだけ顔を曇らせたモモの肩に、みゆきさんが手を回して、耳打ちをして来た。

「ねぇ、真依ちんの事そんなに気に入った?」

 そ、そんな‥、気に入っただなんて‥。

 モモは真依ちゃんの傍にいられるだけで幸せなのに、気に入るとか、気に入らないとか、そんなの考えたこともなかった‥。

「そっか」

 みゆきさんは、モモの顔をじっと見つめて、納得したように微笑むと、今までで一番やさしくモモの頭を撫でてくれた。

 それから、思い出したように腕時計を見ると、

「わっ、ごめん、あたしちょっと出かけないとマズいから、一回プー荘に戻るね」

 急にあわてたように、そう言って、別れ際、まるで占い師みたいな不思議な言葉を残すと、スカートを風にはためかせながら、みゆきさんは全力疾走で商店街の方向へと消えて行ってしまった。

 いきなり鳥居の前に一人残されてしまったモモは、呆けたようにその場に立ち尽くして、みゆきさんが残した言葉の意味を考えてみた。


「駅の南口に行ってごらん、きっと何か良い事があると思うよ」


 いったい、そこに何があるっていうのだろう。


3、


 M駅の南口は、いつも通りの人ごみでごった返していた。

 駅の入口は二階にあって、その前にはテラス風の小さな広場、その下には路線バスのターミナルとタクシーのロータリーがあった。

 モモは、他に行く宛てもなかったので、みゆきさんに言われた通り、素直にこの場所を訪れていた。

 普段、商店街に行くことはあっても、一人でこの場所まで来る事はまず無かったので、なんだかちょっと新鮮な気持ち。

 広場の隅のベンチに腰掛けると、モモは、目の前を行き来する人や、テラスの下のバスとタクシーの流れを、しばらくの間ぼんやりと眺めた。

 空を見上げると、気持ち良い春の午後らしく、どこまでも青い空に小さな白い雲がゆったりと浮かんでいた。

(あ‥、あれ何だろう?)

 ふと、駅の入口の近くの案内板の脇に、何か小さな出店のような物が見えて、モモはベンチから立ち上がった。

 少し近付いて様子をうかがってみると、折りたたみ椅子に腰掛けた気難しそうなおじいさんと、その隣で、ぬいぐるみやアクセサリーを並べた小さなワゴンの前に立つ、遠目でも分かるくらいに背の高い、綺麗なロングヘアーのお姉さんの姿が見えた。

 興味津々な視線で、少し離れた所からじっと眺めていたモモに気付いたのか、ワゴンのお姉さんが、ふっ、とモモの方を振り向いた。

(わっ‥)

 いきなり視線が合ってしまって、モモはあわてて目を伏せた。

 だけど、お姉さんはワゴンの前を離れて、ツカツカとモモの方に向かって歩いて来てしまったのだ。

(わ、わ‥)

 逃げるようにそそくさと後ろを振り向き、歩き出したモモ。

 いや、歩き出そうとしたモモだったけれど、

「‥っ?!」

 声にならない叫び声を上げて、ガクッとその場にへたり込みそうになってしまった。

 だって、だって。

「あら、ごめんなさい」

 そう言って悪気なんか少しも無さそうに笑うお姉さんの、まるでモデルさんみたいに細くて長い腕が、いきなり後ろからモモの体を羽交い締めにして来たんだもん。

「うふふ、大丈夫?」

 腰が抜けそうになって、膝に力が入らなくなってしまったモモの体を、両手だけで支えてるっていうのに、そのお姉さんは平気な顔をして楽しそうに笑った。

「‥は、はい‥、あの‥」

 何が何だか分からなくなってしまって、あわあわとうろたえてしまったモモの体を、お姉さんはヒョイっと抱きかかえて、そのまま軽々とワゴンの後ろに連れて行ってしまった。

「あのっ‥、あのっ‥‥」

 何をされてしまうんだろうって、あからさまに怯え顔のモモを、植え込みの縁に腰掛けさせると、お姉さんがモモの顔を正面から覗き込んだ。

「わ‥、やっぱり可愛い」

 語尾に「♪」が付きそうなくらい、お姉さんは嬉しそうに目を細めた。

 そんなお姉さんは、遠くから見ても綺麗だったけど、近くで見れば尚更で、モモがびっくりしてしまうくらい綺麗だった。

 モモよりも頭一つ高いスラリとした長身に、長い手足。

 切れ長のクールな瞳に、整った鼻と桃色の薄い唇。

 白いブラウスの上から黒いエプロンドレスを着たその姿は、まるで動き出した西洋人形のようだった。

 一人だけ周りの風景から完全に浮き上がっていて、なんだか違う世界から紛れ込んでしまった人みたい‥。

「ね、お名前は何て言うの?」

「あ、あの‥、モモ‥。‥倉内桃名‥です」

 怯えながらも、素直に答えてしまったモモに、お姉さんは微笑んで言った。

「モモちゃんね。私は池野翠いけのみどり、『翠』でいいわ」

「翠‥さん?」

「うん」

 モモが名前を呼ぶと、翠さんは切れ長の目を可愛く細めた。

「ね、モモちゃん。気に入った子はいるかな?」

「え‥?」

 なんの事かと思ったモモだったけれど、手を引いてワゴンの前に連れて来られると、目を輝かせて頬をゆるめてしまった。

「わぁ‥」

 だって、とっても可愛い動物のぬいぐるみが、モモをお出迎えしてくれたんだもん。

 ウサギに、ネコに、ブタさんにゾウさん、それからそれから、モモの知らない、不思議な生き物のぬいぐるみもあった。

 みんな、二つの黒いつぶらな瞳で、モモの事をじっと見ていて、見られてるモモの方がなんだかちょっと恥ずかしくなってしまうくらいだった。

「どうかな?」

「はい‥、すっごく可愛いです」

 今度は、モモの方が、語尾に「♪」が付きそうなくらい嬉しそうに答えた。

「どの子が一番好き?」

 そう訊かれて、モモはあらためて、じぃっとみんなの瞳を見つめた。

 じっ‥‥‥っと見つめてると、一匹だけ目をキラキラと輝かせてモモを見てる子がいた。

 モモは、その子にニコっと微笑んであげると、

「この子です」

 翠さんを振り返って、そう答えた。

 そんなモモの様子を、少し驚いたように、嬉しそうに眺めてた翠さんは、モモの答えにニコニコと笑って、

「じゃあ、貰ってくれるかな?」

 事も無げにそう言ったのだ。

「え‥と、あの‥、でも、お金が‥‥」

 急にそんな事を言われて戸惑ってしまったモモに、翠さんは笑って答えた。

「いいわよ、お金なんて。ぬいぐるみだって人と同じ、好きで大切にしてくれる人の傍にいるのが一番幸せだもの」

「え‥、でも‥‥」

「この子のこと、嫌い?」

 そう言って、翠さんはモモが選んだ小さなブタさんのぬいぐるみを持ち上げ、モモの鼻先に突きつけた。

「そんな‥、嫌いなんかじゃ無いです‥」

「じゃあ決まり!」

 はい、と、翠さんがモモの手の中にぬいぐるみを押し付けた。

「あ‥、あのっ」

「もうその子は、モモちゃんの所に行けるって思い込んじゃってるよ。今さら捨てちゃうの?」

「あ‥あぅ‥‥」

 モモは何も言い返せなくなってしまって、胸に抱えたブタさんをじっと見つめた。

 ブタさんは、モモの腕の中で本当に嬉しそうな顔をしてて、そんなブタさんが愛しくて、モモはなんだか急にブタさんを離したくなくなってしまった。

「うふふ、モモちゃんよろしくね」

「はい‥‥あの‥」

 ありがとう‥、って、モモはブタさんをぎゅっとしながら翠さんに微笑んだ。

 それから、まだこの状況が理解しきれないで、半分ぼぉっとした頭の中で、みゆきさんが言ってた「何か良い事がある」って、この事だったのかなぁ‥って、ぼんやりと思った。

 と、そんなモモを楽しげに眺めていた翠さんが、ふいに、ワゴンの隣の折り畳み椅子のおじいさんに声をかけた。

「お師匠、ちょっとモモちゃんの事描いてよ。どうせお客さんいないんだし」

 そんな翠さんに、白い髭を生やした白髪のおじいさんが、真っ白な眉毛を不機嫌そうにひそめた。

「こら、「客がいない」は余計じゃ」

「いいからいいから、はいモモちゃんはここ座って」

 そんな『お師匠さん』の事なんて気にも留めずに、翠さんはモモの肩を押して、お師匠さんの向かいの折り畳み椅子に腰を下ろさせた。

 見ると、お師匠さんの手にはスケッチブックと絵筆。

 その傍には絵の具が載ったパレットと、何本も筆が入った水差しがあって、正面には

『似顔絵、十五分、千円〜』って小さな木の看板が立ててあった。

「あ‥、あの‥」

 どうしていいのか分からずに、翠さんを見上げたモモに、

「動くでない」

 急にお師匠さんが低い声で唸った。

「は、はいっ」

 モモはあわてて背すじをピンっと伸ばし、まっすぐにお師匠さんの方を向いた。

 すると、お師匠さんが、ふ‥、と表情を緩めてモモに言った。

「ふふ、そんなにしゃっちょこばらんでも大丈夫じゃ」

「しゃ‥、しゃっちょこばる?」

 何を言われているのかは分からなかったけど、気難しそうなおじいさんの口から出た言葉の響きが、なんだかとっても可笑しくて、モモは思わず微笑んでしまった。

「ふふ」

 そんなモモの笑顔に、お師匠さんが目尻にたくさん皺を寄せて、やさしい目をして笑ってくれた。

 怖そうだなぁって思ってた顔が、急に可愛く見えて、モモはちょっとびっくりしてしまった。

 モモは、ブタさんを抱きしめたまま折り畳み椅子に腰掛けて、お師匠さんがスケッチブックに絵筆を走らせる様子をじっと眺めた。

 翠さんは、お客さんらしい小さな女の子とお母さんの二人連れに声を掛けられて、しばらくの間その応対をしていたのだけれど、やがて、女の子がウサギさんのぬいぐるみを幸せそうに抱きしめて帰って行くと、ニコニコしながらモモの隣に戻ってきた。

 それから急に、何かを思い出したような顔をして、そういえば‥と尋ねた。

「さっきは何だか、元気なさそうな感じだったけど、何か悩み事でも有ったの?」

 急にそんな風に訊ねられて驚いてしまったモモだったけれど、翠さんに優しい目でじっと見つめられたら、なんだか話さずにはいられなくなってしまって、アルバイトを探してるんだけど全然見つからないんですって、素直に話してしまった。

「えー、こんな良い子なのに、みんな見る目無いわねー」

「そんな‥。わたし、良い子なんかじゃありません‥」

 真依ちゃんにも、みんなにも、迷惑を掛けてばっかりなのに、わたしが良い子なハズなんて無いもん‥。

 そう思って、また落ち込みかけてしまったモモだったけれど、

「ほら、出来た」

 そんなモモの目の前に、お師匠さんがスケッチブックを一枚切り取って、差し出してくれた。

「わぁ‥」

 そこには、ブタさんを抱えたモモが幸せそうに笑っている姿が、とっても綺麗な色使いで可愛く描かれていて、モモは、ぱあっと顔を輝かせた。

 落ち込みそうになってた事なんてすっかり忘れて、一瞬でその絵に見入ってしまった。

 そこに描かれているのが自分だなんて、信じられないくらい可愛い少女が、これまた可愛いブタさんを抱きしめて、今、世界で一番幸せなのはわたしだよ、って顔でニコニコと笑ってる。

 たった一枚の絵が、こんなに嬉しい気持ちにさせてくれるなんて思ってもみなかったから、モモは思わず感激して泣きそうになってしまった。

「あの‥、何かわたしにお礼をさせて下さい」

 モモはしばらく考えてから、真剣な目をしてお願いした。

 だって、こんなに幸せな気持ちにさせてもらったのに、このまま『ありがとう』だけで帰るなんて出来ないって思ったから‥。

「わしはもう貰ってしまったから良い」

 お師匠さんは、不思議な事を言って、目尻に皺を寄せた。

 モモが、何の事だろう‥って思って頭の中で一生懸命考えていると、翠さんが、そうねぇ‥、と、口元に手を当てて何か考える仕草をしてから、いたずらっぽく笑って言った。

「じゃあ、私の似顔絵でも描いてもらおうかな」

「え‥?!」

 そ、そんなの無理‥って言う暇もくれずに、翠さんはモモにスケッチブックと色鉛筆を手渡し、目の前にパレットと、絵筆を入れた水差しを並べてくれた。

「あ、あの‥」

 と、戸惑うモモの目の前で、翠さんはモデルさんみたいにポーズをとってニコっと笑った。

(うう‥‥)

 もう、とても「描けません」なんて言えなくなってしまって、モモはおずおずと色鉛筆を握り、スケッチブックに向かって線を走らせ始めるしかなかった。

 元々、絵を描くのは大好きだったモモだけど、『お礼』になるほど上手いなんて、これっぽっちも思っていなかったし、喜んでもらえるように描ける自信なんて全然無かったから、正直どうしようかと思ってしまった。

 だけど、描いてるうちに不思議と楽しくなってしまって、モモはいつの間にかニコニコしながら作業に没頭してしまい、気が付いた時には、色鉛筆の線の上にパステルカラーの水彩絵の具で明るく色まで付いた、翠さんの似顔絵が完成してしまっていた。

「あの、出来ました‥」

 モモはスケッチブックを翠さんの方に向けて、おずおずと差し出した。

 楽しくてあっという間に描いてしまったけれど、翠さんに喜んでもらえる自信なんて無かったから、とってもドキドキした。だけど、

「わっ、わっ、すごい良いよこれ」

 翠さんは、目をパチパチさせながら、びっくりした顔をして、飛び上がりそうに喜んでくれたのだ。

「独特の味があってすごく可愛いし、それにモモちゃんっぽくて、何だかとってもあったかい感じ‥」

 そう言って、嬉しそうにじーっとスケッチブックを眺めてから、

「お師匠より上手いんじゃないの?」

 そんなとんでもない事を言いながら、翠さんはお師匠さんにスケッチブックを見せた。

 お師匠さんは、少し驚いたような顔をしてから、嬉しそうに微笑んで、ずいぶん長い間スケッチブックを見つめていた。

「時間もそんなに掛からなかったし、いけるんじゃない?」

 そんな事を言いながら、翠さんが何か納得したように一人でうなずいた。

「ねぇ、モモちゃん。もしよかったら一緒にやってみない?」

「え‥。あ、あの‥‥」

(それって‥、もしかして‥‥)

「モモちゃんの絵は、きっと誰かを幸せに出来る絵だと思うよ」

 一緒にやってみない? と、翠さんはもう一度モモに訊ねた。

(わ‥、わたしの絵が‥、誰かを幸せに‥‥?)

 いきなりそんな事を言われて、半分パニックになってしまったモモの頭の中を、いろんな想いがぐるぐると駈け巡った。

 こんなわたしの絵でも、もしかしたら誰かを幸せに出来るかもしれない‥。

 誰かが、わたしの絵で喜んでくれるかもしれない‥。

 わたしにも、誰かの心を、少しだけ幸せにしてあげる事ができるかもしれないんだ‥。

 そう思ったら、もう居ても立ってもいられなくなってしまって、モモは顔を上げて、しっかりとした口調で答えてしまった。

「はいっ。やってみたいです」


4、


「なに、このブタ?」

 アルバイトから帰ってきた真依ちゃんが、ベッドの上にいたブタさんを見て、怪訝そうに眉をひそめた。

「あ、あのね‥」

 モモは、どこから話そうかと思って、すこし考えた後、みゆきさんと一緒に出かけてからの出来事を思い出し思い出し、真依ちゃんに話した。

 そして、話の終わりに、モモが似顔絵描きを始めたいって話をおずおずと切り出すと、真依ちゃんは一言だけ答えてくれた。

「ふーん、モモがそうしたいんなら、そうすれば?」

 とくに興味も無さそうな感じで、なんだかつまらなそうな顔の真依ちゃんだったけれど、真依ちゃんのこんな顔は、モモの事を心配してくれてる時の顔なんだって、いつの間にかモモには自然にそう感じられるようになってしまった。

 だから、そんな真依ちゃんが嬉しくて、モモは「大丈夫だよ」って想いを込めて、真依ちゃんに小さく微笑んだ。

「で、こいつの名前は?」

 そんなモモの笑顔に、真依ちゃんが急に顔を逸らして、ブタさんの方を見た。

「え‥」

(そっか‥、名前を付けてあげなきゃ‥)

 さすが真依ちゃん、って思って、モモは訊ねた。

「まだ決めて無いんだけど、真依ちゃんはどんなのがいい?」

「んー、『ミスター・ブー』とか?」

 真依ちゃんがいたずらっぽく笑って言った。

「えー、やだよぉ。それに、この子、女の子だもん」

 翠さんは何も言ってなかったけど、モモには可愛い小さな女の子のブタさんに見えたんだもん。

「じゃあ、『ブー子』」

「こら、真剣に考えてよぉ‥」

 モモはちょっとだけ唇を尖らせて、両手で持ったブタさんの鼻先を、真依ちゃんの鼻の頭に、ふにっ‥と、くっつけた。

「あはっ、ごめん」

 くすぐったそうに笑う真依ちゃん。

 それから、真依ちゃんはモモから受け取ったブタさんを胸の前に抱えると、少し考えるような仕草をしてから言った。

「んー、キミの名前は『ペティ』だ」

「わ‥」

 モモは、びっくりしたように真依ちゃんを見た。だって‥。

「嫌?」

「ううん、可愛いっ。ありがとう真依ちゃん‥」

 ブタさんのイメージにぴったりの可愛い名前だったんだもん。

「えへへ。よかったねペティ」

 そう言って撫でてあげると、ペティが真依ちゃんの腕の中でニコって笑ったように見えて、モモは嬉しくなってしまった。


 次の日、真依ちゃんに貸してもらったお金を初めて使って、モモはスケッチブックと、色鉛筆と、水彩絵の具付きの小さなパレットと絵筆のセットを買った。

 水差しは、空いたミネラルウォーターの小さなペットボトルをみゆきさんから貰って、それを代わりにする事にした。蓋もついてるし、水を入れたまま持ち運ぶのも簡単で、とっても便利だった。

 お師匠さんと翠さんがM駅の南口でお店を出すのは毎週月水金曜日だったから、その日には欠かさずに朝から駅に出かけて二人が来るのを待ち、お師匠さんに絵の事をいろいろ教わったり、翠さんとお話したりしながら過ごした。

 一週間が経つ頃には、お師匠さんは、モモの絵ならもうちゃんとお金を取って良いって言ってくれたのだけど、モモにはそんな自信が無かったから、プー荘と同じ『自由価格』で似顔絵を描かせてもらう事にした。

 もちろん、気に入ってもらえなかったら、お金はいりませんって言って描かせてもらったのだけれど、それでも、モモに似顔絵を描かせてくれた何人かの人は、みんな嬉しそうにお金を払って絵を受け取ってくれて、モモはもう、泣きそうに感激してしまった。

 翠さんたちがお休みの日には、モモは一人であちこちに出かけて、いろんなものをスケッチした。

 たまにナーノやみゆきさんも散歩がてらに付き合ってくれたし、真依ちゃんがお休みの日には、お部屋で真依ちゃんをいっぱいいっぱいスケッチさせてもらった。

 真依ちゃんは、外に出かけるのよりも、お部屋でのんびりと本を読んでる方が好きなんだって知ったのは、つい最近の事だった。

 言われてみれば、真依ちゃんと二人で外に出かけた事なんて、ほとんどと言って良いほど無かった。

 モモは真依ちゃんの隣にいられるのなら、そこが何処だって構わないくらい嬉しかったから、そんな事にはちっとも気が付かなかったのだ。


「わ、これ可愛い」

 モモのスケッチブックを捲っていた真依ちゃんが、急に微笑んで声を上げた。

 どの絵の事かな‥って、モモは嬉しくなりながら、真依ちゃんの後ろに回り込んだ。

 肩越しにスケッチブックを覗き込むと、そのページには、こちらを向いてキョトンとしてる仔猫の絵。

「あ、この子はね、いつも児童公園の辺りにいる子なの。野良猫だけど、とっても可愛いんだよ」

 えへへ‥、って、モモは照れたように笑いながら、真依ちゃんに教えてあげた。

「あたし、猫って好きなんだ‥」

 真依ちゃんはそう言って、ニコニコと笑った。だけど、

「えっ、えっ、じゃあ‥」

 って、真依ちゃんの腕をとって、期待でいっぱいの目をしたモモを、真依ちゃんは困ったように見て、それから、

「ダメ」

 って、モモの考えを見透かしたように言った。

「え‥?」

「動物は絶対に飼わないよ」

 そう言って、真依ちゃんは眉間に皺を寄せ、モモから顔をそむけた。

「絶対に死なない動物だったら飼ってもいいけど、そうじゃないのは嫌」

「え‥‥」

 真依ちゃんの言葉にびっくりして、呆けたように声を洩らしてしまったモモに、

「嫌なものは嫌なの!」

 真依ちゃんは目をぎゅって閉じて、怒ったように声を荒げた。

 つらそうにうつむいて、唇をかみしめる真依ちゃんの姿に、モモまでなんだか胸の辺りがぎゅ‥って苦しくなって、もう何も言葉が出なくなってしまった。

 ただ、後ろから真依ちゃんをそっと抱きしめて、腕の中で小さく震えてる真依ちゃんを感じてるしか出来なかったモモだけど、そんなモモの腕に、真依ちゃんが少しだけ甘えるみたいに頬を寄せてくれたのが嬉しくて、今度は胸の辺りがきゅうってなってしまった。

 嬉しくて、悲しくて、苦しくて、もう訳が分からなくなってしまいそうだったけれど、真依ちゃんの躯の温もりが、次第にモモを安心させて少しずつ落ち着かせてくれた。

「モモ‥」

 真依ちゃんがそっとささやいた。

 その柔らかな声に、モモは真依ちゃんの肩から顔を上げ、じっと真依ちゃんを見つめた。

 そんなモモに、

「ありがとう‥」

 そう言って微笑んでくれた涙混じりの真依ちゃんの笑顔は、モモが今まで見た中で一番可愛くて、一番綺麗で、モモはどうしていいのか分からなくなってしまって、もう一度、真依ちゃんをぎゅっと抱きしめて、肩に顔をうずめてしまった。

 優しくモモの髪を撫でてくれる真依ちゃんの手の感触を感じながら、ぼんやりとした頭の中でただ一つ分かったこと、それは、今日の真依ちゃんの笑顔は、きっと一生忘れないモモの宝物になるって事だけだった。


5、


「おかえりなさい」

 隣町のK駅前の花屋でバイトを終えた帰り、M駅の自動改札を抜けた所でモモの声を聞いたような気がして、真依はふと立ち止まった。

 振り向くと案の定、スーパーのビニール袋を提げたモモが、真依のすぐ後ろにちょこんと立っていた。

「モモ‥、待ってたの?」

「うん、お買い物のついで。そろそろ真依ちゃん帰ってくる頃かなって思って」

 えへへ‥って、少し恥ずかしそうに瞳を細めて笑うモモが愛しくて、嬉しくて、真依はバイトでヘトヘトになっていた心と体が、急に羽根が生えたみたいに軽くなって行くような気がした。

「一緒に帰ろ」

「ん」

 真依は、そっけなく返事をすると、モモの手からスーパーのビニール袋をひったくって、自分の手に提げ、モモの隣に立って歩き始めた。

 だって、その買い物袋は、真依が今朝頼んだ夕飯の材料の買出しに間違いなかったから、真依は、自分が持つのが当然だと思ったのだ。

 だけど、モモは何だか嬉しそうに微笑んで「ありがと‥」って、言ってくれた。

 その仕草があんまり可愛くて、真依は思わずぼぉっと見とれて、手に提げた袋を落としそうになってしまった。

 もう、何百時間も一緒の時を過ごしたっていうのに、いつまでたっても、ふいに見せられるモモの仕草や表情にドキドキしてしまう自分がなんだか悔しくて、真依は唇を尖らせると、ちょっとだけ恨めしげにモモを見た。

 そんな真依の気持ちなんて知るよしもないモモは、

「あのね、今日はね‥」

 って、嬉しそうに今日の出来事を真依に話して聞かせ始めた。

 最近、モモはよく話すようになった。

 始めの頃は、こちらから何か言わないとずっと黙ったままで、自分から話をする事なんて全然無かったのに、この頃は、まるで小学校に入ったばかりの子供が、学校であった事を母親に話して聞かせるみたいに、その日の出来事を真依に楽しそうに話してくれるようになっていた。

「なんだか嬉しそうだね」

 無邪気に微笑みながら話すモモの横顔を眺めながら、真依が目を細めて言った。

「うん‥」

 モモが歩きながら真依を振り向いてうなずき、それから本当に嬉しそうに頬を緩めた。

「こんなわたしの絵でも、喜んでくれる人がいるんだもん‥」

 すごく幸せなの‥、って、モモが泣きそうな顔をして、小さくうつむいた。

 それから、急に気が付いたように真依の顔を申し訳無さそうに見上げると、

「ごめんね‥、真依ちゃん。わたし‥あんまりお金稼げなくて‥」

 そんな事を言った。

「バカ‥」

 真依はモモのおデコをコツンと叩くと、苦笑しながらモモの瞳を覗き込んだ。

「そんな事気にしなくていいのよ、あたしはあたしで好きにやってるんだから、モモはモモで好きにやればいいの。お金なんて、生活できるだけあれば良いんだから、」

「でも‥」

 口篭もるモモに、真依は真面目な顔をして続けた。

「前にも言ったでしょ、一人でも二人でも、そんなに変わらないって。別にモモが来てからあたしの出費がいきなり増えたわけじゃないし、モモに公共料金と食費入れてもらってからは、かえって前より楽になってるくらいなんだから」

「ほんと‥?」

「あたしはモモに嘘付いた事は無いよ」

 真依の言葉に、モモが本当に嬉しそうに瞳を細めた。

 そんなモモの笑顔にドキリとした瞬間、真依は、あ、そうだ‥、と、思い出した。

「ね、バイト先で映画のチケット貰ったんだけど、一緒に行く?」

「え‥」

 いきなり別次元から飛び出して来たような真依の台詞に、呆けたようにモモの口が開きっぱなしになってしまった。

「い、嫌なら別にいいんだよ!」

 かぁ‥っと、勝手に熱くなってくる自分の頬に戸惑って、真依は思わずつっけんどんに言い放ってしまった。

 言ってから、しまった‥と思った真依だったけれど、

「ううんっ!」

 モモは珍しく強い口調で真依に答えた。

「行くっ! 真依ちゃんと一緒に行きたい!」

 絶対に連れて行って! とでも言わんばかりに、真依の腕にぎゅっと抱き付いて、真剣な表情で真依を見上げるモモ。

 こんなに真剣なモモの顔を見たのは初めてだったから、真依は驚いてポカンとしてしまった。

 黙ったままの真依に、次第に不安で泣きそうな目になってしまったモモだったけれど、やがて、真依の口から出た言葉に、ぱあっと顔を輝かせると、真依の腕に頬を寄せて、幸せそうに瞳を細めた。


「それじゃ、今度の日曜に出掛けよっか?」


6、


「待って、もうちょっと‥」

 すっかり身支度を整え終わった真依の前で、モモが持ち前の不器用さを発揮して、なかなか髪のリボンを結べずに四苦八苦していた。

 日曜日の午前九時。

 遅めの朝食を取った後、二人は一緒に出かける準備を始めたのだけれど、ほんの数分ですっかり出かける用意が終わった真依に対して、モモは、着て行く服を何度も着たり脱いだりしながら選ぶだけでも相当の時間をくってしまっていた。

 昨日の晩も、なかなか眠れないような様子だったし、今朝は今朝で、日が昇る前から起きていたようだった。

 なにも映画を観に行くくらいで、そんなに興奮しなくて良いのに‥と、真依は思ったのだけれど、その真依だって、なんだかドキドキしてしまって、ロクに眠れてはいなかったのだから『おあいこ』だ。

「貸して、あたしがやったげる」

 とうとう見かねて、真依はモモからリボンを奪い取った。

「わ‥」

「ほら、まっすぐ前向いて」

 真依はモモの髪をブラシでもう一度梳かし直し、それから、モモが一番気に入っている様子で、いつもしている髪型。初めてナーノに会った時に勝手に結ばれてしまった、あの髪型と同じように、手早くリボンを結んであげた。

 柔らかくてクセの無い、サラサラの綺麗な黒髪の手触りが気持ち良くて、真依は思わずモモの髪に頬を寄せてしまいそうだった。

(モモの髪って、こんなに綺麗だったんだ‥)

 明るい中、こんなに近くで、まじまじと眺めたのなんて初めてだった。

 性格に似たのか、真依の強情な髪とは大違い。

「真依ちゃん‥?」

 髪に触れたまま、じっと黙って動かない真依に、モモが不安そうに声をかけた。

「あ‥、ごめん。これでいいのかな?」

 テーブルの上に載せた鏡に映ったモモに、真依が訊ねると、

「うん。ばっちり」

 鏡の中のモモは嬉しそうに微笑んでくれた。


 真依とモモは、M駅から電車に乗って、すぐ隣のK駅に出かけた。

 K駅の周辺は、ファッションやインテリア関係のお店、大きなデパート、お洒落なカフェなどがあちこちに点在してるおかげで、M駅前よりも遥かに発展していて、休日ともなると、学生を中心に若者たちでごった返していた。

 もちろん、映画館もいくつかあって、真依がチケットをもらった映画は、その中でも一番大きな映画館で上映されているはずだった。


「わぁ‥、すごい人‥」

 K駅から出た途端、モモは目を丸くして声を洩らした。

「うん、絶対にはぐれないように付いて来てよ」

 そう言うと、真依はモモの手をしっかりと引いて雑踏の中へと踏み出した。

 いや‥、踏み出そうとした。途端。

「こんにちはー」

 見知らぬ男が爽やか振ろうとして失敗したような間抜けな声を掛けながら、真依の進路を塞ぐように人ごみから飛び出して来た。

「こ、こんにちは‥」

 モモが、びっくりしながらも挨拶を交わしてしまったけれど、真依はそんなモモの手をグイっと引っ張ると、男を無視してショッピングモールのアーケードの方へと向かって歩き始めた。

「ねぇ、ねぇ、ちょっと待ってよ。これからどこ行くの?」

 男が、しつこく真依の前に回りこんで話し掛けてくる。

 そのあまりのうざったさと不快感に、真依はギロリと殺気すら漂わせた視線を男に突き刺し、モモの手を引くと全力疾走で人波の中に分けて入った。

「モモに声かけるんなら分かるけど、どうしてあたしなのよ」

 目が悪いんじゃないの? って、悪態をつきながら、真依は肩で息をした。

「だって、真依ちゃんすっごく可愛いもん、当たり前だよぉ」

 モモも、はぁはぁと息をしながら、それでもなんだか楽しそうに真依を見た。

 真依ちゃんと初めて会った日みたいだね‥なんて呟いて、嬉しそうに目なんか細めてる。

「なに言ってんのよ、あたしが可愛いわけ無いじゃない。モモは‥、その‥‥、可愛いけどさ‥‥」

 あ‥、あたし何いってんだろ‥、って、顔を真っ赤にして目をそらした真依に、

「わ、わたしは可愛くなんてないもん。可愛いのは真依ちゃん! 真依ちゃんは自分で気付いてないだけだよ」

 モモも顔を真っ赤にして抗議した。

 その様子が、あんまり真剣だったものだから、真依はなんだか嬉しいような、可笑しいような、不思議な気持ちになって、頬を緩めてしまった。

「あは、ありがと。でも、モモこそ、もっと自分に自信持ちなよね。少なくても、あたしはモモが可愛いと思ってるんだから」

 微笑みながら、それでも真依は真剣に言った。

「ホ‥、ホントに?」

 真っ赤な顔をまっすぐ真依に向けて、今にもとろけだしそうにモモが頬を緩めた。

 そんなモモが可愛すぎて、真依の心臓はまたバクバクと鳴り始めてしまった。

「うん。か‥、可愛いよ」

 思わずどもってしまった真依に、

「あ、今ちょっと迷ったぁ」

 モモが目を細めたまま唇を尖らせた。

「あは、ばれた?」

「わ、真依ちゃんひどーい」

「あはは、冗談だよ」

 真依は照れ隠しのように小さく笑うと、モモの髪をそっと撫でてあげた。

「ふふ‥」

 気持ち良さそうに目を細めるモモは、やっぱり、真依の目には誰よりも可愛く見えた。

(モモ‥、あたしは本当にモモが一番可愛いって思ってるんだからね‥‥)


「あ、ついでだから、ここ寄ってこ」

 映画館に向かう途中、真依はモモの手を引いてインテリアと雑貨の専門デパートに立ち寄ることにした。

 ずっと、真依のお茶碗とお箸をモモに使ってもらっていたのだけれど、ちょうど良い機会だから、モモに自分で好きな食器を選んでもらおうと思ったのだ。

「映画に付き合ってくれた代わりにあたしが買ってあげる。どれでも好きなの選んでいいよ」

 4階の台所用品フロアの食器コーナーにモモを連れて行くと、真依はモモの手を離してそう言った。

 けれど、モモは棚に並んだ食器ではなく、何故か真依の事をじっと見つめたのだ。

「わたし、真依ちゃんとお揃いのがいいな‥」

(え‥?)

「そ‥、それじゃどっちが自分のだか見分けが付かないじゃん」

 そう言って口を尖らせた真依だったけれど、

「‥ダメ?」

 って、モモに、じ‥っと見られると、もう何も言えなかった。

「べ、別に良いけどさ‥」

「えへへ‥。ありがと、真依ちゃん‥」

 幸い、真依がこの店で食器を揃えてから、まだ半年も経っていなかったおかげで、真依と同じお茶碗とお箸はすぐに見つかった。

 どれも、そんなに高いものじゃなかったし、ついでだからと、同じ丼ぶりと味噌汁茶碗も一緒に買ってあげる事にした。

 モモは、店員さんに丁寧に包装して紙袋に入れてもらった食器を大切そうに胸に抱えて、本当に本当に幸せそうだった。


 その後も、モモと一緒に生活用品をあれこれと見て歩いて、下着と靴下を買い足し、それから、ブックセンターに立ち寄って本の物色をして、それからようやく映画館に向かって上映時間のチェックをした。

 けれど、次の上映時間までは、まだしばらくあったし、モモと一緒のウィンドショッピングがあんまり楽しくて、すっかり忘れてしまっていたけれど、いつ間にかお昼を過ぎて午後二時近くになっていたから、遅めの昼食を取りながら時間を潰す事にした。

 真依は、花屋のバイトで週に三回はこの街に来ているのだけれど、必ずお弁当持参だったから、どこのお店が美味しいのかなんて全く分からなかった。

 だから、モモに気に入ったお店を選んでもらう事にして、二人でキョロキョロと辺りを見回しながらアーケードの中をのんびりと歩く事にした。

 途中でまた、可愛い小物が並んだ輸入雑貨店や、変わった服が置いてあるお店に寄り道してしまった真依とモモだったけれど、やがて、一軒の小洒落た喫茶店の前でモモが足を止めた。

『軽食と紅茶のお店 ベルファスト』

 お店の木の看板には、可愛らしい文字でそう書かれていた。

 じーっと、お店の様子をうかがいながら、そわそわと真依の方を見るモモに、

「ここにしよっか?」

「え‥」

「ほら、入るよ」

 そう言いながら、そっと背中押して、一緒にドアをくぐった。

 チリンチリン。

 ドアの上に付いたベルが小さく鳴って、それに気付いた可愛い制服姿のウェイトレスさんが‥。

 あ‥、あれ‥‥?

「わっ、わっ、いらっしゃーい」

「な、菜摘さん?!」

 どうして‥?! って思ってから、真依は、しまった‥と顔をしかめた。

 そういえばK駅の喫茶店でもアルバイトしてるって聞いた事があったのだ。

 こんな事なら、お店の名前をちゃんと聞いておけば良かったって、今さら後悔してしまった真依だけれど、そんな真依の隣で、菜摘さんの姿にびっくりしながらも嬉しそうにしてるモモを見たら、まぁいいか‥って思えてきて、そのまま菜摘さんに案内された席に腰を落ち着ける事にした。

 だけど、それは失敗だった‥。

 だって、菜摘さんったら、席に二人を案内してお冷を置くや否や、周りに聞こえそうな声でとんでもない事を言ってくれたのだ。

「ね、ね、どうしたの、二人して? あ、そっか、デートだぁ!」

 ぶっ‥!

 真依は口に含みかけたお冷を噴き出しそうになって、あわてておしぼりを口に当てた。

「ち、違っ‥」

 否定しようとする真依なんてお構いなしに、

「うふふ、嬉しいなぁ、二人して来てくれるなんて。今日は私が奢っちゃうから、好きなだけ注文してね」

 なんて、勝手な事を言うと、また他の客さんの接客に行ってしまったのだ。

(デ‥、デート‥?)

 いや、違う、ただ二人で映画を見に来て、そのついでにウィンドーショッピングしてただけなんだから、こんなのデートじゃない! って、真依は心の中で誰にともなく言い訳してみた。

 だって、そうでもしないと、胸のドキドキが収まってくれそうになかったのだ。


 それから、モモは目を輝かせてじっくりと写真付きのメニューを吟味し、特製のハムとチーズと薄焼き卵が挟まったサクサクで熱々のホットサンドに、サラダとデザートと飲み物が付いた『ベルファストスペシャル!』を注文して、デザートは謹製まごころプリン、飲み物はロイヤルミルクティーを選んだ。

 真依は、BLTサンドとアイスミルクに、デザートは紅茶のシフォンケーキ。

 甘いものが苦手ってわけではなかったけれど、甘すぎる物はあんまり好きじゃなかったから、真依はこんな時には生クリ−ム別添えのシフォンケーキを注文する事が多かった。

 本当は『有機育成地鶏の有精卵のみを使用』って書いてあった謹製まごころプリンにも心引かれるものがあったのだけれど、同じ物を注文してもつまらないかな‥って思って、そっちはモモに譲ることにした。

 さっき見てきた雑貨店の話をモモとしながら待っていると、ほんの十分もしないうちに、菜摘さんが二人分の料理と飲み物をまとめて持って来てくれた。

 どうやら、他のお客さんの注文を飛ばして先に持ってきてくれたみたいで、菜摘さんはいたずらっぽくウィンクをしながら「お待ちどうさま」って微笑んだ。

 菜摘さんは、最初はとんでもない事を言って真依を困らせたけど、それから後は真依とモモを構わずに、そっとしておいてくれたから、二人はのんびりとおしゃべりをしながら、楽しく食事することができた。

 モモのホットサンドと、真依のBLTサンドを一切れずつ交換して食べたけれど、どちらもとっても美味しくて、真依はなんだか少し悔しくなってしまい、これは、サンドウィッチもちゃんと研究して美味しく作れるようにならねば! って、思った。

 デザートのプリンとシフォンケーキも、少しずつ交換して食べたけれど、これもまた、どちらも美味しくて、ほっぺたがとろけてしまいそうで、真依は思わずモモと顔を見合わせて微笑んでしまった。

 そして、モモのこんな嬉しそうな顔が見られるんなら、これからもたまには外食しても良いかなぁ‥って、真依は思った。

 食べ終わって、少し休んだ後、真依が会計をしようとレジに向かうと、菜摘さんとは違う店員さんに「もう会計は済んでいるようですが‥」って言われてしまった。

 やられた‥と思って振り向くと、奥の席で注文をとっていた菜摘さんが、真依にウィンクをしながらグッと親指を立てた。

(もう、覚えてなさいよ!)

 今度、食べきれないくらい『おでん』を作って、菜摘さんに差し入れしてやろうって、真依は心に決めたのだった。


 映画館に着いたのは、ちょうど前の回の上映が終わって入れ替えが始まった所だった。

 モモが映画館に来るのは初めてだって言うのを聞いて、真依は中央の一番前のブロックの前から十列目くらい席を確保して、二人で並んで座った。

 その位置からだと、ちょっと見上げるような感じで、首が少し疲れてちゃうかな‥とは思ったけど、せっかくだから大画面の迫力を味合わせてあげようと思ったのだ。

 映画は、最近話題になっていたハリウッドのアクション映画で、派手なカーチェイスや、ものすごい爆破シーンが次から次へと続いて、普段あまり映画なんて観ない真依は、まるでジェットコースターに乗ってるような気分になってしまった。

 モモは、もしかするとこんな映画は苦手なんじゃないかな‥って、少し心配になった真依は、隣のモモの様子をうかがった。けれど、薄闇の中でモモは、「わ‥」とか「きゃ‥」とか、小さな声を上げながら、食い入るようにスクリーンを見つめていた。

 そんなモモのくるくると変わる表情が可笑しくて、愛しくて、真依は途中からスクリーンに流れる映像なんてすっかり忘れて、モモの事ばかり見ていた。

 クライマックスの大爆発からの脱出のシーンでは、ハラハラした顔で、瞬きもせずにスクリーンを眺めていたモモが、我慢できなくなったように汗ばんだ手で真依の手をぎゅって握り締めて来た。

 急に手を握られて、一瞬、驚いた真依だったけれど、その仕草と、モモの真剣な顔が、あんまり可愛くて、そんなモモの手を握り返すと、そっと指と指を絡めた。

 結局、ラストシーンが終わってエンディングが流れ始めても、お互いに手を離すタイミングを逃してしまったように、ずっと二人は手を繋いだままでいた。

 その手を離してしまうのが惜しいように、どちらからも手を離そうとはしなかった。

 出来る事ならば、このままずっと手を繋いでいられたら良いのに‥って、真依は半ば本気でそう思ってしまっていた。


 映画館を出ると、手を繋いだまま夕暮れの街を歩き、駅の方に向かった。

 もうすっかり日が落ちて、街にはネオンが瞬き始めていた。

 五月を迎えて、夜の空気もすっかり暖かくなり、街中には半袖の人の姿も、ちらほらと見かけるようになっていた。

 メインストリートの雑踏を避けるように、真依はバイトで通い慣れた細い横道を、モモと二人でのんびりと歩いた。

 モモの手のひらは、初めて会った日と同じように、小さくて、温かかった。

「えへへ‥、こんなに幸せでいいのかな‥わたし」

 モモが、少しだけ真依の方に寄り添って、じっと真依の瞳を見上げながら言った。

「な‥、何いってんの。これくらいの幸せなら、そこら中のみんなが味わってるわよ」

 いきなりそんな事を言われて、どう答えていいのか分からずに、真依はそっけなくそう言った。けれど、モモはそんな真依の戸惑いを分かってくれたように小さく微笑み、

「そんなこと無いもん。わたし、きっと今、世界中でいちばん幸せだよ‥」

 そう言って、真依の腕をぎゅっと抱きしめてくれたのだ。

 真依は、そんなモモが愛しくて、嬉しくて、もうドキドキが止まらなくなってしまった。

 勝手に涙がこみ上げてきて、目の前のモモの笑顔が滲んで見えた。

 だけど‥。

 モモは、そっと真依の腕を離すと、うつむいて急に表情を暗くしてしまったのだ。

「‥‥どうしたの‥、モモ?」

 その様子に気付いて、真依は立ち止まり、モモの顔を覗き込みながら訊ねた。

 今日は柄にも無くはしゃぎ過ぎていたから、体調でも崩してしまったのかと思ったのだ。

 けれど、モモはじっと地面を見つめたまま、誰にともなく小さく呟いた。

「範子さん‥どうしてるかなぁ‥‥」

(え‥?!)

「な、なんで急にそんな事言うの?! やめてよ! 範子さんって、モモの事追い出した人なんでしょ?!」

 真依は、驚いて、繋いでいた手を離し、両手でモモの肩を掴んだ。

「うん‥、でも‥」

「でもじゃない!! そんな人の事、お願いだから忘れて!」

 モモの細い肩をガクガクと揺さぶり、真依は眉間に皺を寄せて詰め寄った。

 けれど、そんな真依に、モモは睫毛を伏せて言ったのだ。

「無理だよ‥。範子さんは、ずっと、わたしのたった一人の家族だったんだもん‥」

「家族? それが何だっていうの?!」

 真依は不快そうに顔をしかめて、声を荒げた。

 そんな真依の様子をどう思ったのか、モモがじっと真依の瞳を覗き込んで訊ねた。

「‥真依ちゃんも、家族は大切でしょ?」

 けれど、真依はモモの視線から逃げるように目を逸らし、無感情に答えた。

「そんなもの、あたしにはもういない」

「え‥」

「あんなの親じゃないし、向こうだってあたしの事を子供だとは思ってない」

「そ、そんな事ない!きっとお父さんもお母さんも、真依ちゃんのこと大好きだって思ってるよ」

 真依の言葉を聞いて、モモが泣きそうに顔を歪め、必死に抗議した。

 けれど、真依はそんなモモの顔をまっすぐに見れず、うつむいて吐き捨てるように言った。

「何も知らないくせに、そんな勝手な事言わないで! 好きだとか愛してるとか、そんないい加減な言葉、あたしは絶対に信じたりしない!!」

 モモが、驚いたように呆然と真依を見つめた。

 真依は、両手の拳を、音がしそうなくらいにきつく握り締め、唇を噛みしめた。

 長い‥長い沈黙の後、あ‥、あのね‥、と、モモが震える声でモモに訊ねた。

「‥‥真依ちゃんは‥今まで誰かを好きになったこと‥ないの‥?」

 真依は顔を上げ、冷静を装って答えた。

「いなかったし、これからだってきっと誰も好きになったりしない」

「‥‥」

 モモは、何も言えなくなったような様子で黙り込んでしまった。

 そんなモモに、今度は真依が訊ね返した。

「モモは‥誰か好きになった事あるの‥?」

 驚いたように真依を見上げたモモ。

「わたしは‥‥」

 そこまで言って一度口をつぐみ、しばらくの間、答えるのを迷っているような様子のモモだったけれど、やがて小さく口を開いた。

「‥わたしは誰も好きになっちゃいけないから‥」

「は? なに言ってんの?」

 真依は、眉間に思い切り皺を寄せて、口を尖らせた。モモが何かの冗談を言っているのだと思ったのだ。

 だけどモモは、苦しそうに顔を歪めて話を続けた。

「範子さんが‥」

「また範子さん?!」

(もう! いい加減にしてよ!!)

「うん‥、範子さんがね‥、わたしのお父さんは、好きになった人をみんな不幸にしてしまった人だから、お父さんの血を引いてるわたしも‥きっと同じ事を繰り返すんだって‥。‥だから‥、誰かを不幸にしたくなかったら‥、わたしは‥誰も‥‥好きになっちゃ‥いけないんだ‥って‥‥‥」

 最後の方は、もう涙混じりになってしまって、よく聞き取れなかったけれど、その言葉は、とても嘘や冗談なんかには聞こえなかった。

 そんな酷い事を言える人がこの世に存在しているなんて、信じたくなかったけれど、それでも、モモが範子さんにそう言われたっていうのは事実だとしか思えなかった。

「‥‥それ‥、本気にしてるの?」

 真依が怒りを押し殺したような声で訊ねると、モモは泣くのを必死に我慢しているような顔で小さく頷いた。

「バカ!! そんなの気にする必要なんて、これっぽっちも無いんだからね!」

「え‥‥」

 いきなり怒鳴り付けられてびっくりしたのか、それとも、真依の言葉に驚いたのか、モモが呆けたような目で真依を見上げた。

 真依は本気で怒っていた。

 ハラワタが煮え繰り返るっていうのは、こんな感じなんじゃないかって思った。

 もう、怒りすぎて気分が悪くなってしまうくらいだった。

 一体、何の権利があってそんな訳の分からない事が言えるのだろう。

 いや、そんな理不尽な事を他人に言う権利、この世の誰にだってあるわけがない。

「人を好きになるのも、嫌いになるのも、そんなのはモモが自分で決める事だよ‥。誰かが勝手に決める事じゃ無い‥」

 真剣な瞳で、真依が言い聞かせるようにして話すと、モモは何も言わずに、ただじっと真依の言葉に耳を澄ませた。

「いい? もし、モモが誰かを好きになりたいって思うんなら、一度好きになってみれば良いんだよ。それで、もしもその人が不幸になっちゃったんなら、その時にもう一度モモが自分で考えてみれば良い事なんだから」

 そうすれば、範子さんが言ってた事が本当かどうか分かるでしょ? と、真依はモモに真面目な顔で言った。

「‥ほ、ほんとにそう思う‥?」

 モモの瞳が、不安と期待で揺れ動いたのが分かった。

「ん‥。モモに好きになられて不幸になれる人なんて、そう滅多にはいないと思うけどね‥」

「ほんとに‥?」

「くどい! あたしはモモに嘘は付かないって言ったでしょ」

 その真依の言葉に、モモは、また泣き出しそうに顔をゆがめた。

 そしてそれから、真剣な瞳で、真剣な口調で、真依をじっと見据えて言った。

「‥‥じゃあ、真依ちゃんのこと好きになっても良い‥?」

「ば‥、ばかっ」

 真依は、ほとんど反射的にそう言ってしまった。

 だってまさか、そんな事を言われるなんて思ってもみなかったから、心の準備なんて出来てなかったし、どう答えたら良いのか分からなかったのだ。

「あ、あたしは「好き」とかそんなの信じないって、さっき言ったでしょ! あたしなんか好きになってる暇があるんなら、もっと格好良くて素敵な、頼り甲斐のある男の子の事を好きになりなさい!」

 思ってもいない言葉が、勝手に口をついて出た。その言葉に、

「どうして?」

 と、モモが悲しそうな顔をして、揺れる瞳に真依を映した。

「どうしても!!」

 真依は、そんなモモの瞳から逃げるように顔を背けた。

「そっか‥」

 悲しそうに目を伏せたモモの瞳から、堪えきれなくなったように、ポロリ‥と、大きな涙が一粒こぼれ、音を立てて舗道の上に落ちた。

 そして、涙混じりの声で、モモはこう言ったのだ。


「でも‥、わたし、真依ちゃんのこと好きになりたいな‥」

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