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第2話:優しい夜

1、


 ひんやりとした朝の気配に、モモは、ぼんやりと瞼を開けた。

 カーテンの隙間から差し込んだ一筋の光が、朝の訪れを知らせるようにモモの顔を照らす。そのまぶしさに、モモは小さく寝返りを打って、顔を横に背けた。その途端。

「わっ?!」

 鼻と鼻がくっつきそうなくらい近くに真依ちゃんの綺麗な寝顔が見えて、モモはあわててベッドの上に跳ね起きた。

 寝起きの心臓が急にバクバクと大騒ぎし始めてしまって、その音で真依ちゃんが起きてしまうんじゃないかと思ったモモは、両手で心臓の上を押さえながら、一体なにがどうなって、こうなってしまったのか、まだ寝ぼけてぼんやりとしてる頭で必死に考えてみた。

 でも、いくら思い出そうとしても、昨日の夜、ソファーに横になって、真依ちゃんに

『おやすみなさい』した後の事は、ちっとも思い出せない。

(わたし‥、どうしてベッドの上にいるんだろう‥)

 まさか‥寝ぼけて潜り込んじゃったのかなぁ‥。

 もし、そうだったらどうしよう‥、と、モモは顔を真っ赤に染めながら、泣きそうな顔で下を向いた。

 そうだ、何か思い出すかもしれない、と、両手の拳で自分の頭をグリグリと刺激してみたけど、やっぱり何にも思い出せなかった。

 結局どうしようもなくなって、モモは、すぐ隣ですやすやと寝息を立ててる真依ちゃんの寝顔に、じっと見入ってしまった。

 ‥なんて綺麗なんだろう。

 透きとおるみたいに真っ白な肌。

 長い睫毛。

 淡いピンク色の整った唇。

 ロングにしたらきっと似合いそうな艶やかな黒髪。

 今は気持ち良さそうに閉じられてるけど、くるくると表情を変える大きな瞳や、しなやかな手足、すっきりとしたアゴのラインから耳たぶの形まで、真依ちゃんは何もかもが、とっても、とっても綺麗だった。

「‥‥ん、おはよ」

 まるでモモの視線に起こされてしまったみたいに、真依ちゃんが薄っすらと瞳を開けて、ゴシゴシと瞼をこすった。

「お、おはようございます‥」

 モモはあわててベッドの上に正座し直し、真っ赤になりながらうつむいた。

 ベッドから飛び降りようかとも思ったのだけれど、真依ちゃんが隣で寝ていたから身動きが取れなかった。

「あ‥、あの‥、ごめんなさいっ」

 どうしてベッドに上がってしまったのかは分からなかったけれど、真依ちゃんのベッドに潜り込んでしまったのは隠しようも無い事実だったから、謝らなきゃいけないと思った。

 だけど、真依ちゃんは、ベッドに起き上がって、ふぁ‥っと一つ大きなアクビをするとそんなモモを見て微笑んでくれたのだ。

「モモの寝相、凄すぎ‥」

「え‥?」

「覚えてないの? あ、寝てたんだから当たり前か‥」

 鼻の頭に可愛く皺を寄せて苦笑すると、真依ちゃんは、昨晩のモモの寝相がどんなにひどかったのかを、時々、思い出し笑いをまじえながら、楽しそうに話してくれた。

「ご、ごめんなさいっ」

 その話を聞いてモモは、それならまだ寝ぼけて潜り込んじゃった方が良かったんじゃないかって思ってしまった。

 だって、眠ってる間にまで、何度も真依ちゃんに迷惑を掛けてしまったなんて、自分が情けなくて悲しくなってしまう。

「いいって。別にそんな迷惑でもなかったし」

 真依ちゃん優しいから、そう言ってくれるけど、モモはやっぱり自分が許せなかった。

 どうして、わたしって、いつも誰かに迷惑を掛けないと生きていけないんだろう‥。

 こんなだから、きっと範子さんも、いつもわたしに怒ってたんだ。

 範子さんの言う通り、わたしなんていない方がみんなの為なんだって、モモは自分でもそう思わずにはいられなかった。


「あ、そうそう‥」

 真依ちゃんがキッチンで朝食の仕度をしながら、真依ちゃんに言われてテラスで洗濯物を干していたモモの方を振り向いて言った。

 外の空気は、ひんやりと冷たかったけれど、見上げると雲一つ無い青空が広がっていた。

 この分なら、今日は雨の心配はなさそうだ。

 電線の上では小鳥が楽しそうにさえずり合っていて、モモは思わず微笑みながら、手を休めて野鳥観察をしてしまっていた。

 東京といっても、M駅の辺りにはまだまだ緑が残っているのだ。

 まぁ‥おかげで怖いカラスもたくさんいるけど‥。

「ね、とりあえず家事は分担しよ?」

 モモが、小鳥から目を離して真依ちゃんの方を振り向くと、おたまを持って鍋の中をゆっくりと混ぜていた真依ちゃんが、首だけモモの方に向けて言った。

「あたしは、月曜と火曜は朝八時から夕方四時まで駅前のパン屋、水木金曜は午後一時から夕方六時まで隣町の花屋でバイトがあるから、出来れば週の始めの方はモモに家事してもらえると助かるかな」

「はい‥。えっと‥、がんばります」

 いかにも自信無さそうに、モモは曖昧にうなずいた。

「‥まぁ、がんばらなくても普通にやってくれれば良いけど、ちなみに家事の経験は?」

「無いです‥」

「料理とか、洗濯とか、手伝った事くらいはあるでしょ?」

「‥いえ」

 真依ちゃんが手を休めてモモの方を振り向き、思いっきり眉をひそめた。

「あのさ‥、モモって、どこかのお金持ちのお嬢様?」

「ううん、あの‥、えっと‥、何もするなって‥‥範子さんが‥」

「は? 何それ?」

 ますます眉をひそめて眉間に皺を寄せる真依ちゃんに、モモは困ったように答えた。

「あの‥、悪い意味で空気みたいな存在だから、何もしちゃダメだって‥」

「ちょ‥、ちょっと、なんなのよそれ!?」

 真依ちゃんが、もう我慢出来ないって顔をして、コンロの鍋を置き去りに、ドスドスとモモの方に歩いてきた。

 肩に手を掛けられ、怒ってるみたいな真剣な瞳でじっと見つめられて、モモは真依ちゃんの目を見つめ返しながら、震える声で続けた。

 こんな話、今まで誰にも言ったこと無かったのだけれど、真依ちゃんの目を見ていたら、どうしても真依ちゃんに聞いてもらいたくて仕方なくなってしまったのだ。

「あ、あのね‥、口を利いちゃいけないし、音を立ててもダメなの‥。出来るだけ、範子さんの視界に入らないようにしないといけないの‥」

「なっ‥‥」

 モモの言葉に、真依ちゃんは大きく目を見開いて、何か言おうとするみたいに、口をパクパクと動かしたけれど、何を言っていいのか分からないような様子で、ただモモの瞳を見つめるだけだった。

 けれど、モモが思い出したように顔を上げて、

「あ、でも、お風呂掃除とトイレ掃除はさせてもらってました」

 そう、嬉しそうに話すと、もう堪え切れなくなったように、モモの小さな肩をぎゅっと両手で抱きしめて、少しだけ泣いているような声でモモにささやいた。

「いいよ‥。あたしが教えてあげるから‥」

「‥‥ほんと‥?」

 急に抱きしめられたドキドキと、真依ちゃんが家事を教えてくれるって事のドキドキが一緒になって、モモはもう心臓がパンクしちゃうんじゃないかって思った。

 嬉しくて、嬉しくて、勝手に涙があふれて来ちゃうのが我慢できなかった。

「うん、家事なんてそんなに難しい事じゃないよ‥、やる気さえあれば何とかなるもん」

 真依ちゃんがモモの体を離して、モモの両手をきゅっと握りながら言った。

「とりあえず、今日はこれからバイトがあるから、帰ってきてから料理教えてあげる。 だから、それまでに部屋の掃除だけしておいてくれる?」

「はいっ」

 モモは精一杯の笑顔で、真依ちゃんに答えた。

 そして、真依ちゃんに喜んでもらえるくらい綺麗に掃除をしようって、心の中でぎゅっと拳を握り締めたのだった。


 モモが初体験の洗濯干しに手間取ってる間に、真依ちゃんが洋間のテーブルに準備してくれた朝食を、モモと真依ちゃん、二人してソファーに腰掛けてゆっくりと食べ、それから二人並んで洗面所で歯磨きをした後、真依ちゃんがアルバイトに出かける準備を始めた。

「はい」

 出掛けにいきなり、真依ちゃんがバンダナで包んだ両手に収まるくらいの四角い包みをモモに差し出した。

 キョトンとしながら受け取るモモに、真依ちゃんがボソリと言った。

「お弁当」

「え‥?」

「一個作るのも二個作るのも、そんなに変わんないから」

 視線を逸らして、どうしてか唇を尖らせる真依ちゃん。

「ありがとう‥」

 モモは、また泣きそうになるのを必死に我慢して、微笑もうとしたのだけれど、上手く行かなくて、泣き笑いのような表情で真依ちゃんを見上げた。

「うん‥」

 そんなモモを優しい瞳に映して、真依ちゃんはそっとモモの頭を撫でてくれた。

 それから、あ、そういえば‥、と、真依ちゃんが思い出したように言った。

「お金は持ってる?」

「はい‥、えっと、範子さんが千円貸してくれて‥電車賃使っちゃったから、あと六百二十円‥」

 真依ちゃんが、なんともいえない顔をして眉をひそめた。

 それから、また少し怒ったような口調でモモに言った。

「ちょっとお財布出して」

 言われた通りにモモがナップサックから小さな財布を取り出すと、真依ちゃんはそれを手にとって、もう片方の手でジーンズのお尻ポケットから自分の黒い二つ折りの財布を出し、

「あ、あのっ‥」

 おろおろしてるモモの目の前で、その中から千円札を三枚取り出すと、有無を言わさずモモの財布にそれを詰め込んだ。

「いい、貸してあげるだけだからね、バイト見つけてお給料もらえるようになったら返してよね」

「う、うん‥」

 どうしていいのか分からずに、中身が何倍にもなって返ってきた財布を困ったような顔で受け取るモモ。

「‥‥あの、バイトって?」

「お金が無いんなら働くしかないでしょ、家賃は一応タダでもOKだけど、光熱費と水道代は掛かるし、食費だってバカにならないんだからね」

「あ‥、そっか‥‥そうだよね‥」

 そんな事にも気付けなかった自分が、急に情けなくなって、モモはうつむいてガックリと肩を落とした。

 自分でもよく分からないうちに、このアパートで真依ちゃんと一緒に暮らせる事になって、ただもう、ずっとドキドキの連続で、余計な事なんて何にも考えられないで、ぼぉっと真依ちゃんの事ばかり見ていた。

 真依ちゃんはきっと、モモのためにいろんな事を考えていてくれたのに、モモは‥。

 そう思ったら、情けなくて、真依ちゃんに申し訳なくて、涙が出てきた。

「うん‥、わたし、バイトする!」

 モモは両手を胸の前でぎゅっと握り締めて、決意した。

 自分がアルバイトするなんて、考えたこともなかったけれど、それで真依ちゃんの傍にいられるのなら、どんなにつらい仕事でも絶対にがんばろうって、モモは思った。

「中卒のプーがバイト探すのって、すっごーく大変なんだから、甘く見ちゃダメだからね」

 真依ちゃんが、真剣な顔でモモの瞳を覗き込みながら言った。

 そう言われて、もともと無かった自信が、さらに無くなってしまいそうになったモモだったけれど、

「がんばれ」

 真依ちゃんは微笑みながら励ますようにモモの頭を撫でてくれた。

 そんな真依ちゃんの優しい瞳を見ていたら、なんだか、自分もちゃんとアルバイトを見つけられそうな気がしてきて‥、ううん、絶対にちゃんと働いて、真依ちゃんとここで一緒に暮らすんだって、そんな気持ちが心の奥の方から湧き上がってきて、モモは、何が何でもがんばろうって、そう心に誓った。

「それじゃ、バイト行ってくるね」

 そう言って、モモの頭から手を離すと、真依ちゃんは自分のお弁当を入れたスーパーのビニール袋を手に提げて、玄関のドアを開けた。

「はい‥」

 急に、自分だけ置いていかれるような淋しさがこみ上げてきて、モモはすがるような目で真依ちゃんを見てしまった。

「こら、元気無いなぁ。もうちょっと元気良く『いってらっしゃい』くらい言ってよ」

 苦笑しながら、手を伸ばしてもう一度モモの頭をポンポンと撫でてくれる真依ちゃん。

「あ‥、あの‥、い‥いってらっしゃい」

「うん、いってきます」

 ニコっと笑って、真依ちゃんは出かけて行った。

 モモは、ドアが閉まってもまだ玄関に立って、呆けたように真依ちゃんが出て行ったドアをじっと見つめていた。

「‥いってらっしゃい」

 えへへ‥。

 もう一度小さく口に出してみて、そのささやかな言葉の余韻に、モモは幸せそうに微笑んだ。

 胸がきゅうって音を立てて鳴ったような気がした。

 嬉しくて、幸せで、モモはなんだか昨日からずっと夢の続きを見ているような気分だった。


 その日の午前中、モモは真依ちゃんに頼まれた部屋の掃除を、一生懸命して過ごした。

 まず、お風呂とトイレをピカピカになるまで磨いて、それから、お部屋の片付けをした。

 真依ちゃんのお部屋は、物も少ないし、もともと几帳面に整頓されていたから、軽い拭き掃除だけで綺麗になってしまったのだけれど、モモは、赤茶色の渋い床を、顔が映りそうなくらい、何度も何度も丁寧に雑巾で磨いた。

 壁の時計が十一時を回った頃、コンコン、とドアが音を立てて、外からみゆきさんの声が聞こえた。

「モモちゃん居るー?」

「はーい」

 雑巾を持ったまま、てててっと走り寄ってドアを開けると、どこかの学校の制服みたいな服を着たみゆきさんが立っていた。

「お、おはようございます」

「おはよん」

 みゆきさんはニコっと笑って、モモの肩に手を載せると、

「ね、モモちゃん、一緒にお散歩行こ?」

「え‥?」

「モモちゃん、まだこの街の事よく分からないでしょ? だから、お散歩ついでに案内してあげようかと思って」

 そう言って、もう一度ニコニコと笑った。

「あ、はい‥、よろしくお願いしますっ」

 お部屋の掃除は、もうすっかり終わっていたし、アルバイト探しのためにも、この街の事を少しでも多く知っておきたかった。

 それに、誰かにお散歩に誘われたのなんて初めてだったから、嬉しくなってしまって、モモは二つ返事でみゆきさんの誘いをOKした。

 外でみゆきさんに待っていてもらって、あわてて寝巻きのスウェットから、昨日ナーノちゃんに着せてもらった服に着換える。

 それから、もし、モモが帰るよりも早く真依ちゃんが帰ってきたら、また心配させてしまうかもしれないと思って、電話台の上にあったメモ用紙を一枚取ると、ダイニングのテーブルの上に走り書きしたメモを置いた。


『真依ちゃんへ

 みゆきさんに街を案内してもらってきます。

                     モモより 』


 それから、慣れないリボンに苦戦しながら髪をまとめ、真依ちゃんが作ってくれたお弁当をナップサックに入れると、モモはドアを開けて外に出た。

 と、そこでモモは気が付いて、急に泣きそうな顔をしてガックリと肩を落とした。

「あ‥、あの、やっぱり、わたし行けません‥」

 だって、わたし‥。

「はい、これでしょ?」

 みゆきさんがニコっと笑ってモモの目の前に二本の鍵が付いたリングキーホルダーをぶら下げた。

「わ‥」

 びっくりしたように、キーホルダーとみゆきさんの顔を見比べるモモ。

 みゆきさんは、その鍵の片方を持つと、ドアの鍵穴に差し込んで、カチャリと鍵を掛け、目を丸くしてるモモの手にキーホルダーごと手渡した。

「手で持つトコが丸い方がモモちゃんの部屋の鍵で、四角い方が談話室の鍵ね、無くしちゃダメだよ」

「は、はいっ」

 生まれて初めて持った自分の鍵の感触に、モモはどうしていいのか分からないくらい嬉しくなってしまって、ただ胸の前に両手でキーホルダーをぎゅうっと握り締めた。

 ここにいてもいいんだって、真依ちゃんと一緒に暮らしてもいいんだって、そんな実感が急に湧いてきて、モモは涙がこぼれるのを我慢できなかった。


 キーホルダーをナップサックの内ポケットにしっかりと仕舞うと、モモはみゆきさんの後に付いて階段を降りた。

 空には春先の太陽がさんさんと輝いて、外はポカポカと暖かくなっていた。

「あ、やっほーモモちゃん、みゆきっちゃん」

 陽気な声をかけられて振り向くと、ナーノちゃんがアパートの前で掃き掃除をしていた。

「やほー、ごくろうさま、ナーノ」

「こんにちは、ナーノちゃん」

 と、いきなりナーノちゃんがびっくりするくらい大きな声で叫んだ。

「ストップ!!」

「わっ?!」

 驚いて飛び上がったモモに、ナーノちゃんが口を尖らせて言った。

「『ナーノちゃん』はダメだよぉ。『ナーノ』って呼んで」

「え‥」

「『ナーノ』って、よ・ん・で」

「あの‥、えっと‥」

 わ、わ、どうしよう。

 ニックネームでも、呼び捨てにするのなんて出来ないよぉ‥。

 でも、目の前で瞳を輝かせてわくわくしてるナーノちゃんを見てたら、とても嫌だなんて言えなくて、モモは困ってしまった。

「は、はい。え‥、え‥と、ナーノ‥‥ちゃん」

「だめ!!」

「ナ‥‥、ナーノ‥‥‥ちゃ‥」

「だめっ! モモちゃんのいじわるーー」

「ううー、いじわるなのはナーノの方だよぉ」

 泣きそうになりながらそう言ってしまった後、あ‥、っと思ってモモはポカンと口を開けた。

 でも、そんなモモに、ナーノが本当に嬉しそうに笑ってくれた。

「おっけーだよ」

 ニコニコと満足そうなナーノに、モモもなんだか嬉しくなってしまった。

「ねぇねぇ、それで、二人してどこ行くの?」

「おさ‥」

 ‥んぽって言おうと思ったら、みゆきさんが‥

「デートに決まってんじゃん!」

 わ、わ、いつの間にそんな‥、で、でーとだなんて。

「わー、いいなぁ、ボクも一緒に行くー」

「おう、ついてこーい」

「わーい、じゃあ準備してくるからちょっと待ってて」

 言うや否や、竹ボウキを放り投げて、階段を駈け上がるナーノ。

 と、上がりかけて、何か忘れ物でもしたのか、また戻って来て、

「モモちゃんも準備しよー」

 返事も聞かずにモモの手を引っ張り、ものすごい勢いで階段を上がり始めてしまった。


 五分後、プー荘の前には、また新しいモモの姿があった。

 黒地のカラフルなプリントTシャツの上に、大きめサイズの生成りのコットンシャツを、袖を外側に大きく折って羽織り、左の胸ポケットの前には何やら可愛いらしいロゴマークが入った桃色の大きな缶バッヂがキラキラと光ってる。

 下は、大きなサイドポケットの付いた、ゆったりとしたカーキ色のカーゴパンツに、アイボリーの靴紐の、こげ茶色のバスケットシューズ。

 せっかく苦労してリボンで二つにまとめた髪は、ナーノに梳かし直され、首の後ろで短い尻尾みたいに一つに結ばれて、少し斜め気味に目深に被らされたデニム地のキャスケットの鍔の下から、前髪ともみ上げだけが見えていた。

「んふふー、今日はボクとお揃いの色違いだよ」

 そう言ってニコニコと笑うナーノは、モモと同じデザインの服と帽子の色違い。

「うん、可愛い可愛い。なんか、二人並んでると、どこかのアイドルユニットみたい」

「でしょでしょ。いっそこのままモモちゃんとデビューしちゃおっかなー」

 なんて、楽しそうに盛り上がってる二人をよそに、モモは、自分がどんな格好になっているのかすらもよく分からないで、ポカンと口を開けたまま、自分の着てる服に視線を巡らすばかりだった。

 でも、嫌な気持ちなんて全然しなかったし、いろんな服を着せてもらえるのは、なんだかとっても楽しくて、嬉しかった。

 そして、ぼんやりと思った。

 この格好も真依ちゃんにも見てもらえたらいいな‥って。


 それから、みゆきさんと、ナーノと、モモ、三人で一緒に駅前の商店街に出かけて、いろんなお店を見て回った。

 服屋さんに、ケーキ屋さんに、CD屋さんが入ってるレンタルビデオショップ。

 ドラッグストアーに、電器屋さんに、本屋さん。

 それから、それから、みゆきさんとナーノに手を引かれて、通り沿いにあるお店を、片っ端から一軒一軒のぞいて回った。

 いくつかのお店の店先にはアルバイト募集の貼り紙が貼ってあって、その貼り紙を見つける度に、モモは立ち止まり、じーっと目をこらして募集内容を読んでみた。

 でも、どの貼り紙にも『高卒十八歳以上』とか『大卒〜三十歳位まで』とか、そんな事は書いてあっても、『中卒十五歳以上』なんて書いてある貼り紙は一枚も無かった。

(やっぱり、わたしに出来るアルバイトなんて無いんじゃないかなぁ‥)

 商店街の駅側の端まで歩いてきた所で、モモは小さなため息をつきながら、ガックリと肩を落とした。

 そんなモモを見て何か思ったのか、それともただの気紛れなのか、みゆきさんが唐突に言った。

「あ、そうだ。真依ちんがバイトしてるところ見たい?」

「え‥? あ、見たいっ、見たいです」

 落ち込みかけてたくせに、『真依』って響きに体が勝手に反応したみたいに、ぱあっと顔をほころばせると、モモはみゆきさんの服の袖を掴んで目を輝かせた。

「じゃ、行っちゃおー。ホントは仕事の邪魔だから来るなって言われてるんだけどね」

「えっ?!」

「平気平気、邪魔しなきゃ良いんだし、モモちゃんが一緒なら真依ちんもきっと怒らないよ」

 どうしようか迷ってしまったモモだったけれど、そんなモモの気持ちなんか全くお構い無しのみゆきさんとナーノに手を片方ずつ引かれて、モモはずるずると駅前の方に連れて行かれてしまった。


「わぁ‥」

 モモは、ガラス越しに見る真依ちゃんの姿に思わず声を洩らしてしまった。

 駅前のビルの一階に入っている、ちょっとお洒落なパン屋さん。

 そのお店の中で、真依ちゃんはシックで可愛いモノトーンのエプロンみたいな制服を着て、忙しそうに行き来していた。

 二、三人の同じ制服を着た店員さんと一緒に、焼き上がったパンを棚に並べたり、会計のレジを打ったり、店内の喫茶スペースにコーヒーを運んだり、いろんな仕事を一生懸命にしていた。

「真依ちゃん‥」

 モモはガラスに手をついて、じっと真依ちゃんの動きを追いかけた。

 いつまでも見続けていたいくらい、真依ちゃんは可愛くて‥格好良かった。

 働いている真依ちゃんの真剣な横顔。

 お客さんに向けられる、精一杯の笑顔。

 そのどちらからも、真依ちゃんが、このバイトを一生懸命頑張ってるんだって気持ちが伝わってきて、モモは、もう、どうしようもないくらいに感動してしまった。

 そして、自分もあんなふうに働いてみたいって、強く、強く思った。

「お昼時で混んでるみたいだし、邪魔しちゃいけないから、パンだけ買って公園でお昼にしよっか? みゆきさんが奢っちゃうよん」

 かがみ込んで、ガラスに顔がくっつきそうなくらい熱心に真依ちゃんの仕事ぶりを見学してたモモの背中を、トントンと叩いて、みゆきさんが言った。

「わーい」

 モモの代わりに、ナーノが両手をあげてニコニコと喜んだ。

 そんなナーノにつられて一緒に両手を上げそうになってしまったモモだけど、そう、モモの背中のナップサックには、真依ちゃんが作ってくれた大切なお弁当が入っているのだ。

「あ‥、あの、ごめんなさい、わたし、お弁当が‥」

 モモは、照れくさそうな、申し訳なさそうな、複雑な顔をしてみゆきさん謝った。

「お、準備良いねぇ。じゃあ、モモちゃんにはジュースとデザート買ったげるね」

 そう言って、みゆきさんは迷いもせずにお店の中に入って行った。

 モモとナーノも、その後について自動ドアをくぐる。

 お店に入った途端、焼きたてのパンの香ばしい匂いに包まれて、モモはクンクンと小さく鼻を鳴らした。

 ちょうどお昼時で、店内は制服姿のOLさんや、スーツ姿のサラリーマンで賑わっていて、モモはキョロキョロとしているうちに、いつの間にか真依ちゃんの姿を見失ってしまった。

 でも、「来るな」って言われてたんなら、顔を合わせない方がきっと良いんだよね‥って、そう思うと、なんだか少しだけホッとしてしまう。

 みゆきさんとナーノは、お気に入りのパンを二つずつ選んでトレーに載せ、それから、冷蔵庫を開けて、みんなそれぞれ飲み物を選び、最後にショーケースに入ったデザートを選んだ。

 モモは、苺が載った小さなレアチーズケーキとパックの牛乳を選んだ。

「あ‥、と、モモちゃん会計して来てくれる?」

 急に思いついたみたいにそう言って、みゆきさんがトレーと財布をモモに手渡した。

「え‥、あの‥」

 どうしていいのか分からずにおろおろとしていると、

「これ持って、あそこのレジに並んでお金払って」

 レジの方向を指差すと、トンっとモモの背中を押して送り出し、みゆきさんとナーノは一足先に混雑した店内から外に出て行ってしまった。

 わ‥どうしよう‥、って困惑しながらも、言われた通りに会計の列の後ろに並んで、順番を待つモモ。

 あと三人‥。

 あと二人‥。

 あと一人‥。

 やっとレジが空いて、モモは、パンやジュースが載ったトレーを会計のカウンターの上にそっと置いた。

 みゆきさんから預かったお財布を両手に持って、店員さんの顔を見上げる。

 と、そこでようやく気が付いて、

「わっ‥‥」

 モモは「わ」の形にポカンと口を開けたまま呆けたみたいに固まってしまった。

 だって、だって、目の前のレジに真依ちゃんが立ってたんだもん。

「モっ‥‥」

 真依ちゃんの方も、キャスケットの鍔の下から現れた予想外のモモの顔にびっくりしたみたいで、大きな声を出しそうになって、あわてて自分で自分の口を押さえた。

 カウンターの上のトレーなんて目に入らないような様子で、どうしたらいいのか分からなくなってしまったみたいに、顔を赤く染めてただじっとモモを見つめる真依ちゃん。

 近くで見るエプロン制服姿の真依ちゃんは、もうドキドキが止まらなくなっちゃいそうなくらい綺麗で、可愛くて‥、お財布をぎゅっと握り締めたままモモも動けなくなってしまった。

 賑やかなお店の中で、真依ちゃんとモモ、二人の時間だけが止まってしまったみたいだった。

『ゴホン』

 後ろに並んでたおじさんの、不機嫌そうな咳払いで、ようやく魔法が解けたみたいに真依ちゃんはあわててレジを打ち始めた。

 と、そこでハッとしたようにモモの顔をもう一度見て、それから何かを探すみたいに、キョロキョロと辺りを見回し始めた。

 すぐに、ガラスの外で笑いながら小さく手を振るみゆきさんとナーノの姿を見つけると、真依ちゃんは苦虫を噛み潰したような顔をして眉間に物凄い皺を寄せた。

 トングで挟んでビニール袋に入れようとしてたみゆきさんのクリームパンが、潰れて中身が出ちゃうんじゃないかってくらい、ワナワナと手を震わせてる真依ちゃんに、

「‥ご、ごめんなさい‥」

 モモはあわてて、真依ちゃんにだけ聞こえるように小さな声で謝った。

 だって、来るなって真依ちゃんが言ってたのを知ってたのに、みゆきさんとナーノに連れて来られたとはいえ、勝手に来てしまったモモが悪いのだから‥。

 だけど、真依ちゃんは、そんなモモに視線を戻すと、急に、ふっと表情を緩めて、しょうがないなぁ‥って顔をして微笑んでくれた。

 まるで、モモは悪くないよ‥って言ってくれてるみたいな気がして、モモは思わずホッとして頬をゆるめてしまった。

「千五百七十五円になります‥」

 レジを打ち終わると、真依ちゃんが店員さんの口調で言った。

 モモがみゆきさんのお財布から千円札を二枚取り出して真依ちゃんに渡すと、真依ちゃんはそれを受け取って、慣れた手つきでお釣りの小銭をレジから取り出し、

「四百二十五円のお釣りになります」

 そう言って、左手でモモの手を取り、右手でモモの小さな手にしっかり握らせるみたいにしてお釣りを手渡してくれた。

 そんな仕草と、真依ちゃんの手のぬくもりが嬉しくて、モモはまたじっと真依ちゃんを見つめてしまったのだけれど、後ろのおじさんがイライラしたようにパンのトレーをレジの前に割り込ませたので、あわててお財布をカーゴパンツのサイドポケットに入れて、パンとジュースそれぞれ別の袋と、デザートが入った小さな紙の箱を抱え、レジの前から離れた。

 真依ちゃんはそんなモモにもう一度微笑みながら、店員さんの口調でこう言ってくれた。

「ありがとうございました。またお越し下さいませ」


 モモがお店から出ると、自動ドアの横でみゆきさんとナーノが待ち構えていた。

「モモちゃんすごーい。あんな顔の真依ちゃん見たの、ボク、はじめてだよ。ちょっと驚いちゃった‥」

 目をパチクリさせて、信じられないって顔のナーノ。

「あはは。いやぁ、可愛かったねぇ」

 みゆきさんも満足そうにニコニコと笑って、モモの頭をキャスケットの上からポンポンと撫でてくれた。

 モモには何の事だかよく分からなかったけれど、言われた通りちゃんとお会計を済ませられたし、真依ちゃんにも会えて、とっても嬉しかった。


 それから、駅の近くの大きな公園の池のほとりのベンチに並んで腰掛けて、みゆきさんと、ナーノと、モモ、三人でお昼ご飯を食べた。

 自分のお財布を出して、デザートと牛乳のお金を払おうとしたモモだったけど、逆にみゆきさんにお駄賃だって言われて財布の中に五百円玉を放り込まれそうになってしまって、あわてて財布をポケットにしまった。


「うわ〜、美味しそう‥。自分で作ったの?」

 みゆきさんが、モモのお弁当をまじまじと覗き込んで言った。

「えへへ‥、真依ちゃんが作ってくれたんです」

 モモが、恥ずかしそうに、だけど、ちょっとだけ自慢するみたいに呟いた。

 だって、嬉しくて、嬉しくて、どうしようもなかったんだもん。

「いいなぁ、真依ちんがお弁当作ってくれるなんて、モモちゃんよっぽど気に入られたんだね」

「え‥」

 お弁当にお箸をつけようとした所で、モモが驚いたように振り向いた。

 だって、勝手に押しかけちゃったようなものだったし、迷惑ばっかりかけちゃってるのに、こんなモモを真依ちゃんが気に入ってくれてるだなんて‥。

「真依ちんは他人に何かするのも、されるのも、基本的に大嫌いだからね‥。自分から他人に何かしてあげるのなんて、うちに来てから初めてじゃないのかな」

「そうなんですか‥」

 モモはびっくりして、思わずお箸を落っことしそうになってしまった。

 あんなに優しくて、いろいろとモモに気を使ってくれる真依ちゃんが、人に何かしてあげるのが嫌いだなんて‥、そんなの信じられなかった。

「そうなんです。だから、真依ちんの事よろしくね、モモちゃん」

「え?」

 またまた、予想外の事を言われて、モモはもう混乱しそうになってしまった。

 真依ちゃんに、「モモちゃんをよろしくね」って言ってくれるのなら分かるけど、どうして、こんなモモに「真依ちゃんをよろしく」なのだろう?

 みゆきさんが、真面目な、優しい目をして続けた。

「本当は繊細で優しい子なんだけど、ちょっと天邪鬼な所があるし、たまに機嫌が悪くなって、おヘソ曲げちゃったりするかもしれないけど、見捨てないでやってね」

「そ、そんな‥、見捨てるだなんて‥」

 見捨てられちゃう事はあるかもしれないけど‥、モモが真依ちゃんを見捨てるだなんて、そんな事ぜったいにあるわけが無い、って、モモは心から思った。

 真剣な顔でみゆきさんを見るモモに、みゆきさんはカスタードがたっぷり詰まったクリームパンを頬張りながら、満足そうに笑った。

「モモちゃんはホントに良い子だねぇ」


 池の上を優雅に泳いでる鴨や白鳥を眺めながら、のんびりとお昼ご飯を済ませると、モモたち三人は、また散歩の続きに戻った。

 線路を渡り、駅の北側を散策。

 それから駅前に戻って駅ビルの中を見て歩き、帰り際には、もう一度、商店街でウィンドーショッピングをしながら、日が暮れるまで三人でゆっくりとお散歩を楽しんだ。

 みゆきちゃんもナーノも、優しくて、面白くて、楽しい時間があっという間に過ぎて行ってしまった。

 そして、もし出来る事なら、いつか真依ちゃんとも一緒に、こんな風にお散歩をしてみたいな‥って、モモは心からそう思ったのだった。


2、


 カチャッ。

 初めて持った自分の鍵で、ドキドキしながら部屋のドアを開けると、先に帰っていた真依ちゃんが、キッチンから顔を出していきなり口を尖らせた。

「こら、やり直し!」

「えっ‥?」

 鍵の開け方を間違ってしまったのかと思って、キーホルダーを見つめながら戸惑ってしまったモモに、

「あんたは、一々言わないと分かんないの? 帰ってきたら、まず『ただいま』でしょ」

 呆れたように真依ちゃんは言って、モモの背中を押して廊下に追い出し、バタンとドアを閉めてしまった。

 モモは、おろおろとしながらも、廊下でキャスケットを脱いで手に抱え、小さく深呼吸をしてから、もう一度カチャッと静かにドア開けた。

「‥た、ただいま」

 恐る恐る顔を覗かせるモモ。そんなモモを、

「おかえり」

 真依ちゃんはニコっと笑って出迎えてくれた。

 嬉しかった‥、

 どうしてか分からないくらい嬉しくて、また勝手に涙があふれた。

「こら、また泣く‥。なんだかあたしが苛めてるみたいじゃない」

「ご‥ごめんなさい」

「だから、謝らなくていいって、もう‥」

 困ったように小さく眉を寄せながら、しょうがないなぁって顔をして、真依ちゃんは、モモの髪をそっと撫でてくれた。

 その手から、真依ちゃんの優しさが伝わってくるみたいで、モモは幸せで、幸せで、知らないうちに頬がゆるんでしまって、もうどうする事もできなかった。

「あ、そうそう」

 玄関の上がり口に座って靴紐を解いていたモモに、真依ちゃんが思い出したように言った。

「掃除ありがとね、めちゃめちゃ綺麗になっててビックリした」

 モモは、やったぁ!って心の中で小さくガッツポーズをした。

 だって、真依ちゃんを驚かせるくらい綺麗に掃除しようと思って頑張ったんだもん。

 たとえお世辞でも、真依ちゃんにそう言ってもらえて、モモは飛び上がりそうなくらい嬉しかった。

「えへへ‥。トイレとお風呂も見てくれた?」

「ん、まだ見てないけど‥」

 あたしも今帰ってきたトコだし、って言いながら、真依ちゃんはトイレの照明のスイッチを押して、ドアをカチャッと開けた。

「わ、すっごい‥」

 まぶしいくらいにピカピカの洋式便器がお出迎えして、真依ちゃんはあんぐりと口を開けたまま目をパチパチとさせた。

「やるじゃんモモ、えらい!」

 真依ちゃんに頭を撫でられて、モモは、えへへ‥、ってくすぐったそうに笑った。

 なんて嬉しいんだろう‥。

 がんばってお掃除して、本当に良かったって思えた。

 真依ちゃんが喜んでくれる事なら、どんな事だって頑張れてしまいそうな、モモは、そんな気がした。


3、


「いいから、そっちでテレビでも見てて!」

 夕暮の談話室に真依の怒鳴り声が響いた。

 キッチンに立つ真依の右隣には、慣れない手つきで一生懸命、ピーラーで人参の皮をむいているモモの姿。

 でも、真依が怒鳴ったのは、もちろん、そんなモモに対してでは無い。

 手伝いたいっていうからキッチンに入れたのに、いつの間にかジャガイモでお手玉やキャッチボールをし始めてしまった、ナーノとみゆきちゃんを怒鳴りつけたのだ。


 今朝、バイトの出がけに天気予報を見に立ち寄った談話室で、真依は菜摘さんに「今日の夜、モモちゃんの入居歓迎会しましょ」って提案をされた。

 真依が昨年の末にプー荘に引っ越してきた時にも、菜摘さんたちは入居歓迎会なるものを企画してくれたのだけれど、その頃の真依は、とてもそれどころでは無かったし、いきなり知らない人たちに歓迎される筋合いなんか無いと思って、断っていた。

 だけど、どういうわけか、モモの入居歓迎会の話は、素直にOKしてしまった。

 自分の事じゃないから‥真依には断る資格なんて無い、って思ったのかもしれない。

 それとも、この四ヶ月の間に、真依の考え方が変わり始めてしまったと云うのだろうか‥‥。

 ううん‥、人の心が、そんなに簡単に変われるものじゃ無いって事を、真依は良く知っていた。

 たぶん、気まぐれ。

 モモを部屋に連れて来てご飯を食べさせたのも。

 モモを一緒の部屋に住まわせる事にしたのも。

 みんな、みんな、ただの気まぐれに違いない‥。

 だって、そうでも思わないと、真依には自分の行動が納得出来なかったのだ。

 包丁でジャガイモの皮を剥きながら、真依はちらりとモモの様子をうかがった。

 ピーラーでしゅるしゅると人参の皮を剥き続けるモモの横顔は本当に嬉しそうで、見ているこっちまで思わず楽しくなって来てしまう。

 けれど、真依は、また思わず怒鳴ってしまった。

「あっち行ってよ、もうっ!!」

 今度は、モモの手から奪った剥きかけの人参を頭の上に持って『赤鬼ごっこ』を始めたナーノとみゆきちゃんに、真依はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまった。

 包丁を振りかざして、ギロリと睨みつける真依。

 さすがにナーノとみゆきちゃんも身の危険を感じたのか、顔を見合わせて何やらブツブツと不満そうに呟きながら、すごすごと和室の方に戻って行った。

「ふぅ‥」

 そんな二人を大きなため息で見送って、真依はモモに話し掛けた。

「どう、料理楽しい?」

「はい」

 振り向いて、満面の笑顔で真依に答えるモモ。

 思わず、そんなモモの髪を撫でてあげたくなってしまった真依だったれど、残念ながら今は右手に包丁、左手にはジャガイモだ。

「わ‥、真依ちゃんって、モモちゃんには優しいんだぁ」

 真依の左隣で玉ねぎを炒めてた菜摘さんが、驚いたような声で嬉しそうに言った。

「べ、別に優しくなんてしてないでしょ」

 口を尖らせて反論する真依。

 だって本当に、優しくしてるつもりなんて無いんだから。

「へぇー」

 身を乗り出して、真依の顔をまじまじと覗き込んでくる菜摘さん。

「なに?」

「ううん、なんでもー」

 意味有りげに瞳を細める菜摘さんが、なんだか無性に気に障った真依だったけれど、

「っ‥」

 小さく声を洩らしたモモに、あわてて振り向いた。すると、

「ちょ、ちょっと、どうやって切ったのよ?!」

 いきなり包丁を握らせるのは危ないかと思って、子供でも使える安全なピーラーを持たせておいたのに、どういうわけか、人参を持ったモモの左手の小指の先がちょっと切れて、そこに真っ赤な血が小さな丸い玉のようになっていた。

 少し鈍くさいし、不器用っぽいなぁとは思ってたけど、それでもまさか、ピーラーで手を切ってしまうなんて‥。

「ま‥、真依ちゃん‥‥」

 モモが顔を真っ赤にして、呆けたような虚ろな瞳で真依を見た。

 これくらいの傷で、そんな顔する事ないのに‥、って思った真依だったけれど、

(‥?!)

 急に口に中に広がった血の味に驚いて、初めて自分がしてる事に気が付いた。

 だって、だって、真依ったら、モモの小さな手をとって、怪我した小指の先を口に含み、舌先でちろちろと舐めていたのだ。

「も、もう! ぼーっとしてるからだよ」

 あわててモモの手を離し、真依は動揺してるのを隠すみたいに、怒ったように唇を尖らせた。

 だけど、なかなか口の中から消えてくれないモモの血の味と、指先の舌触りが、真依の心臓をバクバクと壊れそうなくらいに激しく鼓動させて、真依はモモの顔をまっすぐに見れなくなってしまった。

「あたしの部屋の電話台の下に薬箱があるから、自分で絆創膏貼ってきなさい」

 つっけんどんにそう言うと、再びジャガイモの皮むきを始める振りをする真依。

「はい‥」

 まだ呆けたような目をしたモモは、危なっかしい足取りで、とてとてと談話室を出て行った。

「‥もう」

 いつまでたってもドキドキが収まらない自分に腹が立って、真依は眉をひそめた。

 そんな真依の頭を、菜摘さんが二、三度『よしよし』をするみたいに、撫でてくれた。

「な‥、なに?」

 菜摘さんにそんな事をされたのは初めてだったから、真依は何事かと思って戸惑ってしまった。

 けれど、菜摘さんは何にも言わずに、ただ、嬉しそうに微笑むだけだった。


 入居歓迎会のメインはカレーだ。

 いや、メインがカレーというよりは、カレー以外何も無いって言った方が正解かもしれない。

 なんでも、みゆきちゃんの話だと、プー荘では入居歓迎会に必ずカレーパーティをするって伝統が代々受け継がれているらしい。

 入居者みんなで一緒に料理を作って親睦を図ろうっていうのが、そもそもの目的だったらしいんだけれど、いつの頃からか、世の中には料理が出来る女の子と、料理をしない女の子の、二種類の女の子が存在するようになってしまって、今ではもう伝統も形無しといった所だった。

 今日にしたって、カレーを作ってるのは真依と菜摘さん、それに見習いのモモの三人だけで、みゆきちゃんとナーノは遊んでるだけだし、マキさんに至っては、まだ起きてすら来ない。

 小指に不器用に絆創膏を巻いて戻ってきたモモに、ガスコンロの使い方や、火を使う時の注意を教えながら、真依がカレーを仕上げていくと、そのうちアパート中に漂い始めたカレーの匂いに誘われたように、マキさんも談話室にやって来た。

 あいかわらずダルそうで眠たそうだったけれど、夜になって次第に活動時間帯に入って来たのか、そのうちに少しずつ目がパッチリして来たように真依には見えた。

 カレーが出来上がる頃になると、みんなもう待ち切れなくなってしまったのか、からっぽのお皿をスプーンで叩いたり、回したり、頭に載せて踊ったりと、バカ騒ぎを始めてしまって、また真依に雷を落とされてしまった。

 本当にみんな、なんでこんなに大人げ無いんだろう‥。

 そんなみんなとは対照的に、真依の隣で目を輝かせて大人しくカレーの鍋を見つめてるモモの姿が、なんだかとても愛しく見えて、真依はそっと目を細めてしまった。


 完成したカレーは、みんなに大好評だった。

 談話室のキッチンにあった一番大きな鍋いっぱいに作って、お米だってMAXの五合半も炊いたのに、みんなよほど空腹だったのか、あっという間に減って行って、三十分も経つ頃には、鍋も炊飯器も空っぽになってしまっていた。

 真依は、少しだけ大盛りに一皿食べただけで満腹になってしまったので、途中からはもう、半分呆れながら、みゆきちゃんやナーノ、予想外にたくさん食べてる菜摘さんの食欲をぼんやりと眺めるしかなかった。

 マキさんは普通に食べ終わると、無言で立ち上がって、挨拶をするようにモモの頭をポンポンと叩き、そのまま談話室を出て行ってしまった。

 また部屋に帰って寝るのかな‥って思った真依だったけれど、それでも、一粒も残さずに食べてくれたマキさんが、なんだか嬉しかった。

 楽しそうに話しながら、いつまでも手を休めずに食べ続けてる食欲魔人三人を見て、少しだけ残念そうに自分のお腹に手を当てたモモだったけど、それでも、初めて自分も参加して作ったカレーがよっぽど嬉しかったのか、真依の隣でずっとニコニコと満足そうに笑っていた。

 だから、真依は、これからも少しずつモモに料理を教えてあげようって、そう思って、モモの手を膝の上できゅって握ったのだった。


「じゃあ、UNOで負けた人が食器の後片付けで、一番先に上がった人が、モモちゃんにキスしてもらえるってのはどう?」

 畳の上に寝そべって、もう食べられない‥って唸ってたナーノが、いきなりヒョイっと体を起こして、唐突に言った。

「なっ、何が「じゃあ」なのよ! そんなのダメに決まってんでしょ?!」

 いきなり訳の分からない事を提案されて、真依が焦ったように叫んだ。

 そんな真依の声に、

「おお? 早くも独占欲だねぇ」

「独り占めだなんて、そんなのずるいよぉー」

 みゆきちゃんがニヤリと笑い、ナーノはぶーぶーと口を尖らせた。

「ばっ、ばか! そんなんじゃないよ」

「あは、真っ赤になっちゃって、真依ちゃん可愛いー」

「ちがうって言ってんだろ!」

 ばきっ! と鈍く乾いた音がナーノのおデコから響いた。

「あんまりしつこいとグーで殴るよ」

「いったーい! もう殴ってるじゃんかぁ」

 ぐすっと目を潤ませながら、両手を上げてプンプンと抗議するナーノ。

 と、そんな二人を見ていたモモが、

「あはっ」

 可笑しくてたまらないって顔で、楽しそうに声をあげて笑った。

「あー! モモちゃんが笑ったぁ」

「え‥、あっ、ごめんなさい」

 怒られたのかと思って、あわてて謝るモモに、

「違うよぉ、怒ってるんじゃないの、モモちゃんが今みたいに笑うの見たの、初めてだっ

たから」

 ナーノがニコニコと笑って言った。

「そのままでも可愛いけど、笑うとすっごく可愛い!ホントに天使みたいだよ。ね、真依

ちゃん?」

「‥うん」

 急に同意を求められて、真依は思わず素直に返事をしてしまった。

 だって‥、可愛かったのだ‥。

 見たこともないくらいにまぶしくて、可愛い笑顔だった。

 そんな真依の返事に、モモが驚いたように振り向いた。

 モモの黒目がちの瞳にじっと見つめられると、真依は何だか吸い込まれてしまいそうな気持ちになって、瞬きも出来なかった。

 と、

『ちゅっ』

(‥‥え‥?!)

 真依は一瞬、自分の目を疑った。

 だって、真依の目の前で、モモのほっぺたに、いきなりナーノが唇をくっつけたのだ。

「な、な、な、なにやってんだよーーー!?」

 真依の裏返った叫び声がアパート中に響き渡って、古びた建物が小さく震えた。

「ちゅーだよ?」

 キョトンとして真依を見るナーノ。

「ちゅーだよ‥って、なんでっ?!!」

「だって、可愛かったんだもん」

 ボガッ!! と砕けそうな音がナーノの側頭部から響いた。

「いだーーい!真依ちゃん本気で殴ったーー!!」

「殴られるような事したのは誰だっ!!」

 真依は半分取り乱しそうになりながら、本気で怒ってた。

 だって、だって、真依だってそんなこと‥‥。

「あれれ? もしかして、真依ちゃんまだちゅーしてなかったの? だって、昨日は同じベッドでお休みしたんでしょ?」

「あ、あれは仕方なくそうなっただけで、最初からそうしたくてそうしたわけじゃ無い‥ってゆーか、なんでナーノが知ってるのよ?!」

「ご‥、ごめんなさい‥」

 真依とナーノに挟まれて縮こまってたモモが、申し訳なさそうに真依を見上げた。

「あのね‥、モモ」

 どうしてそんな事をベラベラとしゃべっちゃうのかな、キミは‥。

「あ‥、あの‥‥」

 ごめんなさい‥と、泣きそうな顔でますます縮こまってしまったモモ。

「嬉しかったんだよ‥。ね、モモちゃん?」

 みゆきちゃんが、どうしてか真依の髪をわしゃわしゃと掻き混ぜながら言った。

(え‥‥)

 一瞬、ドキっとして真依はモモを振り向いた。

 でも、みゆきちゃんは、すぐにこう続けて、カラカラと笑いやがったのだ。

「まぁ、あたしが『ベッド狭くて大変だったでしょ?』ってカマかけたら、すぐに引っ掛かってくれただけなんだけどねー」

 ワナワナと拳を震わせる真依。そして、

「みゆきーーーーっ!!」

 またまた、真依の雄叫びが星空の下のプー荘を震わせたのであった。


4、


 真依ちゃんは今日も、モモに、先にお風呂に入っていいよって言ってくれた。

 でも、モモは、せっかくピカピカになったお風呂に、どうしても真依ちゃんに一番最初に入ってもらいたくて、真依ちゃんにお願いして先に入ってもらった。

 真依ちゃんが上がった後の、まだ湯気とシャンプーの香りでいっぱいのバスルームにドキドキしながら、体を洗ってお湯につかり、真依ちゃんの事をぼんやりと考えているうちに、いつのまにか長湯をしてしまったモモは、のぼせそうになってフラフラと脱衣室から出てきた。

 そんなモモに、真依ちゃんが何気なく言った言葉は、モモの火照った顔をますます赤く染めさせてしまった。

「はい、モモはこっちね」

「え‥」

 だって、ベッドに寝そべって雑誌を捲ってた真依ちゃんの指先は、自分のすぐ隣りを指差してたんだもん‥。

(わ、わ、わたし、今日も真依ちゃんの隣で眠っていいの?)

 モモはそれが信じられなくて、ポカンと口を開けたまま、その場にぼぉっと立ち尽くしてしまった。

 そんなモモを見てどう思ったのか、真依ちゃんが小さく眉をひそめた。

「文句は無し!仕方ないでしょ、モモが柵付きのベッド買うまでは、こうでもしないとあたしが安心して眠れないんだから」

 プイっと顔を背けて口を尖らせる真依ちゃん。

「‥ごめんなさい」

 モモは申し訳なさそうにうつむいた。

(そっか‥そうだよね‥、真依ちゃんだって、本当はわたしなんかと一緒に寝たくないんだよね‥)

 そう思ったら、急に胸がぎゅうっと苦しくなってしまって、モモは涙をこぼしてしまいそうになった。

「もう遅いし、寝よ」

 真依ちゃんがベッドから降りて立ち上がり、雑誌をテーブルの上に置いた。

 それから、

「ほら、先に上がって」

 そう言って、モモの背中を押してベッドの上に上がらせた。

 少し硬めにのマットレスの上に、生成りのコットンのシーツ。

 ベッドの壁際の方に横になり、静かに布団に潜り込むと、枕からも、布団からも、とっても優しい良い匂いがした。

 思わず、仔犬のように小さく鼻を鳴らしてしまうモモ。

 真依ちゃんの匂いだ‥。

 そう思うと、それだけで嬉しくて勝手に頬が緩んでしまう。

 でも、さっきの真依ちゃんの言葉が急に頭の中でリフレインして、また胸がぎゅうってなってしまった。

 真依ちゃんが照明のスイッチを切り、モモの隣にゴソゴソと潜り込んできた。

 こんな時に何を話したらいいのかなんて全然分からなくて、モモはただ暗闇の中で、じっと真依ちゃんが呼吸する微かな音に耳を澄ませるだけだった。

 真依ちゃんも、仰向けになったまま目を閉じて、寝ているのか、起きているのか分からない様子。でも、

「‥真依ちゃん」

 モモが、申し訳なさそうな声でささやくと、首だけ動かして、真依ちゃんがモモの方に顔を向けてくれたのが分かった。

「ん‥なに?」

「わたし‥、がんばってお仕事見つけて、早くベッド買うね‥」

 暗闇の中で、頬に真依ちゃんの吐息を感じながら、そこにあるはずの真依ちゃんの瞳に、じっと目を凝らして、モモが一生懸命言った。

 しばらく、身動き一つしないでモモを見つめてる様子だった真依ちゃんだけれど、やがてコロンと寝返りを打つと、モモに背を向けた。

「‥‥別に、あたしは‥」

 このままでも良いけど‥。

 モモの耳には、真依ちゃんがそう呟いたように聞こえてしまった。

「え‥?」

 自分の耳が信じられなくて、聞き直したモモに、

「は、早く寝なさいって言ったの!」

 あわてた様子で、怒ったみたいに言う真依ちゃん。

「‥‥えへへ」

 そんな真依ちゃんが、なんだかとっても可愛くて、モモは思わず頬を緩めてしまった。

「‥‥なに笑ってんのよ‥ばか」

 真依ちゃんが、困ったようにつぶやいた。

 ダメだよ、真依ちゃん‥。だって、もう聴こえちゃったんだもん。

 モモは、体を真依ちゃんの方に向けて、両手の平で、そっと真依ちゃんの背中に触れた。

 スウェット越しに感じる真依ちゃんの体温が、手の平からモモの体の中に流れ込んで来るような感じがして、モモはさっきまで痛かった胸の辺りが急にポカポカしてくるみたいだった。

「そ、そういえば、今朝、電車賃がどうこうって言ってたけど、電車でM駅に来たの?」

 急に、真依ちゃんが焦ったように話題を換えた。

 あんまり急だったからキョトンとしてしまったモモだけれど、

「うん‥」

 と、小さく頷いた。

「‥それじゃ、M市に住んでた訳じゃないんだ?」

 また、コロンと寝返りを打って、モモに顔を向ける真依ちゃん。

「うん、H市から電車に乗って‥」

「H市? 結構遠いじゃない。どうしてわざわざM市なんかに来たの?」

 H駅からM駅は、乗り換え無しで行き来できるのだけれど、快速電車でも片道三十分以上かかってしまう距離なのだ。

「‥昔、お母さんとお父さんと一緒に住んでたから‥」

「え‥」

 モモの淋しそうな小さな呟きを聞いて、真依ちゃんが何も言えなくなったみたいに黙り込んでしまった。

 何か言ってあげたいのに、何を言っていいのか分からない‥。

 何か訊きたいのに、どうやって訊けば良いのか分からない‥、そんな沈黙。

「‥でも‥、もう、お家‥‥無くなっちゃってた‥」

 かすれて消え入りそうな声で、モモが呟いた。

 真依ちゃんが、隣で小さく息を飲むのが分かった。

 ずっと、ずっと前、確かにモモの家があったはずの場所は、更地にされて駐車場になってしまっていた。

 でも、仮に、もしそこに家が残っていたとしても、もうそこにはモモのお父さんもお母さんもいるはずは無かった。

 それは、モモだってよく分かっていた。

 だけど‥、それでも、モモには他に行く所なんて無かったから‥。

「モモ‥」

 暗闇の中で、じっと、黙ってモモの瞳を見つめていた真依ちゃんが、そっとモモの名前を呼んだ。

 コツン‥。

 真依ちゃんのおデコが、モモにおデコにそっと触れた。

 真依ちゃんの震える吐息を感じて、モモは、どうしていいのか分からずに、そっと瞳を閉じた。

 そんなモモに、真依ちゃんが真剣な、優しい声で囁いてくれた。

「ここがモモの家だよ‥」

(え‥‥)

 モモは呆けたように目を開け、ほんの数センチ前にぼんやりと見える真依ちゃんの瞳を、瞬きもせずに見つめて、頭の中で真依ちゃんの言葉を繰り返してみた。

 ここがモモの家だよ‥。

 ここが‥モモの‥‥。

 そうしたら、急に体が震え出してしまって、もうどうする事も出来なくなってしまった。

「真依‥ちゃん‥」

 勝手に涙があふれ出して、涙まじりの声で真依ちゃんの名前を呼んだ。

 真依ちゃんの手が優しくモモの肩を抱き寄せると、モモは急に体中の力が抜けたようになってしまって、我慢しきれずに、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしてしまった。

 後から後から涙が頬を伝い、ぽたぽたと枕に落ちた。

 目の中に溜まった涙が鼻の方にまで入ってきて、モモはずずっと鼻をすすりながら、こんな顔、真依ちゃんに見られたくないって、思わず下を向いて枕に顔をうずめてしまった。

「わっ、こら、枕で鼻かんじゃダメー!」

「あ、ごべんなさい‥」

 あわてて顔を上げながら、モモは、ものすごい鼻声で謝った。

「あはっ」

 そんなモモに、真依ちゃんが可笑しそうに笑った。

「もう‥。ほら、顔こっち向けて」

 言われた通りに真依ちゃんの方に顔をむけると、

「わ‥」

 鼻に、何だか柔らかい紙みたいな物が当たってびっくりしけれど、モモは、すぐにそれがティッシュだって気が付いた。

「はい。ちーん」

 モモの鼻にティッシュを当てて、片方の鼻の穴を押さえながら、真依ちゃんが、子供に言うみたいに優しく言った。

「あは」

 そんな真依ちゃんが、なんだかとっても可愛くて、愛しくて、

『ちーん』

 ちょっと恥ずかしかったけど、モモは真依ちゃんに甘えてしまった。

 暗くて、真依ちゃんがどんな顔してるのか見えなかったのは残念だったけど、モモは、優しく微笑んでくれてる真依ちゃんを勝手に想像して、顔をほころばせてしまった。

 それから、モモと真依ちゃんは、どちらからともなく布団の中で手を繋いで、『おやすみさない』をした。

 こんなに幸せな気持ちで迎える眠りは、モモにとって生まれて初めてだった。

 そして、いつまでも、いつまでも、このまま真依ちゃんと一緒に眠っていられたら良いのにって、モモは心からそう願ってしまったのだった。

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