第1話:雨の贈り物
1、
「今日の東京の降水確率は午前午後ともに0%です」
朝、出掛けに見た天気予報のお姉さんは確かにそう言っていた。
だから、何も気にせず、いつものように手ぶらでバイトに出かけたのだ。
なのに。
なのに‥。
「‥なに‥これ?」
午後四時までのパン屋のバイトを終え、夕飯の材料を買いに立ち寄った駅前のスーパーから出た笹野真依を待っていたのは、目の前の舗道を濡らし始めた大粒の雨だった。
「最悪‥」
三月も半ばを過ぎたとはいえ、まだまだ『春』というには肌寒い日々が続いている。
真依は、自分の体の丈夫さにはそれなりに自信があったけれど、好き好んで、冷たさの残る雨に打たれながら歩くなんて妙な趣味は、残念ながら持ち合わせていなかった。
そもそも、万が一、風邪でも引いてバイトを休むハメになってしまったら、ただでさえギリギリの生活があっという間に破綻しかねないんだから、冗談では済まされない。
さて、どうしたものか‥。
真依は、食材が詰まったビニール袋を片手に提げて、スーパーのひさしの下に立ち、目の前のアスファルトが雨の色に染まって行く様子をじっと眺めた。
だけど、すぐに止みそうな気配は‥それこそ『0%』だ。
かといって、予想外の雨にビニール傘を買って帰れるほど、真依の生活費に余裕は無い。
「‥ふぅ」
気の短さと、諦めの早さにも、真依は自信があった。
一つ、ため息にも似た深呼吸をすると、羽織っていたお気に入りのパーカーのフードをパサッと頭に被せ、靴紐の結び目を確認して、一気に雨の舗道へと駈け出した。
雑踏の中、あちこちで開き始めた傘の花の間をまるで縫うように駈け抜け、軽い足取りでM駅前のメインストリートを商店街の方向へと向かう。
走り出してすぐに、買ったばかりの特売の卵のパックの存在を思い出して、ビニール袋を両手で胸の前に抱え直した。
おかげでちょっと走りにくかったけど、ゆで卵にしてから『おでん』に入れるつもりだったから、割ったり、ヒビを入れてしまったりする訳にはいかなかったのだ。
卵が入ってない『おでん』なんて、そんなの絶対に『おでん』じゃない! と、真依は断固として思っていた。
好みで買ったワンサイズ上のゆったりとしたパーカーのフードは、真依の頭には大きすぎて視界の邪魔をしてくれた上に、前方からの風を受けてすぐに頭から外れてしまったので早々と諦め、ショートカットの黒髪を湿った冷たい風になびかせて走った。
真依が昨年の末からお世話になっているアパートの部屋からM駅までは、のんびり歩いて十五分、軽く走って七、八分といった所だ。
駅から南にまっすぐ伸びる商店街の中を突っ切って、アパートから一番近いコンビニの角を曲がるのが最短距離。
でも、今日ばかりは、そのコースは鬼門である。
傘を差して夕飯の買出しに出てきたオバさまたちの群れが、真依のスムーズな前進を阻むに違いない。
というか、実を言うと、つい先週もほとんど同じシチュエーションで雨に降られて、その時は散々な目に遭ってしまっていたので、雨の夕方には絶対に商店街を走り抜けない! と、真依は心に決めていた。
だから、手前の交差点で早めに右折して、商店街から一本離れた、普段は通らない裏道を走る事にした。
パシャッ、
パシャッ‥。
路面に溜まり始めた雨水を、履き古した空色のスニーカーで軽く跳ね上げながら、車一台がようやく通れるような細い小道を駈け抜ける。
裏道は、裏道なだけあって、所々古くなって傷んだ舗装が窪み、そこに早くも水溜りが出来始めてしまっていた。
直す必要が有るんだか無いんだか判らないような道路を、毎年毎年掘り返してる予算があるんなら、このへんのデコボコどうにかしてよ‥まったく。
心の中でグチりながら、半ば諦めつつ、スニーカーの中に雨水が染み込んで行く嫌な感じに顔をしかめる。
帰ったら、すぐに靴洗って乾かさないとヤバイな‥。
なんせ、靴なんてこれ一足しか持ってない。
服だってほとんど持っていないから、マメに洗濯しないといけない。
だから、今のアパートに引っ越して来てからというもの、真依は雨の日が大っ嫌いになってしまった。
まぁ、もとからあまり好きな訳でもなかったから、それはそれで別に良いのだけれど、なんにせよ、雨のたびに、服が‥、靴が‥、と心配しなければいけないような生活には、いささかうんざりして来ている。
「もっとバイト増やそうかな‥」
水溜りを避けて走りながら、誰にとも無くつぶやく。
でも、中学を出たばかりで進学もしていない自分を雇ってくれる所なんて、そうそう在るわけがない。
今のバイト先だって、頼み込んで雇ってもらうのにどれだけ苦労したことか。
学歴社会は崩壊した、なんて、学歴も肩書きも有る偉そうな人がTVで言ってたけど、学歴は無いより有った方が何かと楽なんだよね、やっぱり。
一日も早く、自分一人で、自分だけの力で生きて行きたい、そう思って家を飛び出した真依だったけれど、現実の社会は、真依が考えていたよりもずっとずっと弱者と貧乏人に冷たい、乾燥して味気の無くなった、もうただ油っこいだけの残り物のピザみたいなものだった。
どうせ誰も手を付けずに、そのうちゴミ箱行きになるのが関の山‥。
こんな世の中で頑張って生きて行く事に、一体どんな意味があるんだろう。
雨の中、傘も差さずに、特売の卵のパックが入ったビニール袋を大事そうに抱えて走っている自分が、何だか急に虚しくなって来てしまった。
そのうえ、
「うわ‥」
落ち込みそうになった真依の心に追い討ちをかけるみたいに、アパートと駅の中間にある大きな児童公園の前に差し掛かった所で急に雨が強くなって来た。
「やばっ」
土砂降りの予感に、真依は迷わず公園の中へと駈け込んだ。
公園の隅に、東屋のような屋根付きの休憩所があるのが見えたのだ。
ぬかるんだグラウンドを、泥水を撥ね上げながら全力疾走。
真依が東屋の屋根の下に飛び込んだのとほとんど同時に、物凄い音をたてて、一メートル先も見えないくらいの土砂降りの雨が落ちてきた。
(我ながら良い勘してる‥)
いくら、これから部屋に帰るだけとはいえ、こんな叩きつける滝みたいな集中豪雨の中を、ずぶ濡れになって駈け抜けるなんて、そんなの絶対に御免だった。
ただでさえ、ちょっとブルーになってるっていうのに、これで万が一、転んだり車に水を撥ねられたりして泥まみれにでもなったら、すぐには立ち直れそうに無い。
しばらくの間、屋根の下から外の雨の様子を眺めていた真依だったけれど、激しい豪雨は、全く収まる気配を見せてくれなかった。
仕方なく、ベンチに座って雨宿りをしようと、ふと東屋の中に視線を巡らす。
すると、東屋の四隅に配置されたベンチの、真依とは対角線の隅で、うずくまって眠っている人がいるのに気が付いた。
(うわ‥ホームレスの人かな‥)
真依は、一瞬、外に出ようかとも思ったけれど、雨はますます激しさを増す一方だったし、よくよく考えてみれば、寝てる人が一人いるくらいの事、それほど気にする必要も無い気がしたので、とりあえず、その人を起こさないように一番離れたベンチの隅に、そっと座る事にした。
ざぁざぁ、
ざぁざぁ‥。
目を閉じて、激しい雨音にじっと耳を澄ます。
結構な距離を走って火照っていた体が、次第に冷えて行くが分かった。
濡れた髪から顔に滴って来る雨水をパーカーの袖で拭ったけれど、服の方も真依が思っていたよりずっと濡れていた。
絞れそうなほどでは無かったけれど、着ていてすぐに乾くような濡れ方でも無い。
濡れたジーンズが腿に張り付く感触が気持ち悪くて、真依は眉をしかめた。
布地のスニーカーの中には、もう足の指を動かすだけでグチュグチュと音がしそうなくらいに雨水が染みている。
なんだか‥、急に、何もかも嫌になって来た。
あたしは‥いったい何をやってるんだろう‥。
あちこちから辛気臭い雨の匂いがして、ますます真依の気分を滅入らせる。
真依が嫌いな雨の匂い‥。
この匂いは、いつも嫌な記憶ばかり思い起こさせる。
思い出したくもない、くだらない記憶ばかり‥。
目を閉じ、うつむいたまま、どれくらいの間そうしていただろう。
『かさっ‥』
感傷に浸っていた真依の耳に、雨音に混じって微かな衣ずれの音が聞こえた。
(‥起きちゃったのかな)
真依は顔を上げて、向かいの隅の様子を恐る恐るうかがった。
ホームレスの人と二人きりで雨宿りするのなんて、もちろん生まれて初めての事だったし、もし、何か危なそうな感じだったら、すぐにでも逃げ出そうと思ってた。
でも、
「‥っ?!」
そこには、虚ろな瞳にぼんやりと真依を映す一人の少女がいた。
(え‥?!)
ホームレスだって勝手に思い込んでた人が女の子?!
う、ううん‥、女の子のホームレスがいたって可笑しくは無いか。
でも、どう見てもまだ中学生くらいにしか見えないし‥。
「‥‥」
向こうがじっと見つめてくるから、こちらも何だか視線を外せずに、真依は、じっ‥と少女に見入ってしまった。
ボロ切れみたいな薄汚れた冬物のコートの下には、よれよれのスウェット。
丈が合わないのか、裾を外側に折って履いた色のあせたジーンズには、所々擦り切れて大きな穴が開いている。
肩に少しかかるくらいの、柔らかそうなストレートの黒髪。
大人しそうな、大きくて黒目がちな瞳。
見るからにやつれて青白く沈んだ顔色と、色を無くした薄い唇。
一瞬、『家出少女』って言葉も頭に浮かんだけれど、とてもそんな雰囲気には見えなかった。
どちらかというと、遭難して山の中を何日も彷徨った後だって言った方が、まだ自然に見える気がした。
荷物も、小さなナップサック一つだけしか見当たらないし‥、一体、この子は何なんだろう‥。
「あの‥」
意を決して、真依が少女に声をかけた。
何故だか分からなかったけれど、このまま放っておいちゃいけないような気がした。
今、声をかけずに立ち去ったら、ずっと後悔しそうな、そんな気がしたのだ。
真依の声に、少女の瞳が小さく揺れた。
それから、少女は、何か言おうするみたいに口を開きかけた。‥けれど、
ぱたり‥。
少女は、そこで力尽きてしまったかのように、弱々しく、ぐったりとベンチに倒れ込んでしまった。
「ちょ、ちょっと?!」
三月二十五日、月曜日。
夕方、雨の公園で偶然、行き倒れに遭遇。その最期を看取りました‥なんて、そんなの洒落にもならない。
「ねぇ、大丈夫?!」
真依は、びっくりして少女の傍に駈け寄ると、少女の肩をつかんでガクガクと揺さ振った。
「ねぇ?!」
返事が無い事に不安になり、顔から血の気が引いて行くような感覚に襲われて、真依は思わず少女の胸元に耳を当て、心臓の鼓動を確かめようとした。
だけど、そんな真依の耳に聴こえて来たのは、
『ぐぅ‥‥きゅるる‥‥』
お腹のあたりから弱々しく響く、まるで小動物の鳴き声のような音‥。
「‥は‥?」
あんまりナイスタイミングなお約束に、真依が目をパチパチさせながら絶句していると、
「‥大丈夫‥です‥」
ぼんやりとした瞳に真依を映しながら、少女が力無くつぶやいた。
「ど‥、どこが『大丈夫』なのよ!」
まったく、なんて人騒がせな子なんだろう。
呆れるやら、ホッとするやらで、真依は大きなため息をつき、頬をふくらませた。
それから、真依はちょっと考えて、外の雨の様子をうかがった。
雨はいつの間にか小雨になっていた。
真依は、もう少し止むのを待とうかとも思ったけれど、またいつ強く降り出すか分からなかったし、ここから真依の部屋までなら五分もかからない距離だ。
「ね、歩ける?」
ベンチから腰を上げて少女の前に立つと、真依は尋ねた。
「‥?」
少女は不思議そうに真依を見上げた。
「ちょっと付いて来て」
「え‥?」
「いいから来なさい!」
言うなり、真依は少女の手を引いて無理やり立ち上がらせ、そのまま東屋から外に連れ出した。
どうして、そんな事をしてしまったのか、それは真依にもよく分からなかった。
ただ、ご飯ぐらいなら食べさせてあげても良い‥、ううん、どうしても食べさせてあげたいって、何故だか、そう思ってしまったのだ。
でも、普段の真依なら、そんな赤の他人と自分から積極的に関わり合いになるような煩わしい事をするハズが無かった。
それは真依自身が誰よりも一番良く分かっていたハズなのだ。
なのに、どうして‥。
『そうしたかったからそうした』
後からいくら考えても、それ以外の理由なんて他に何にも見つからなかった。
ぱらぱらと小雨の降る中、真依は後ろを振り返ろうともせずに、少女の手を引いて黙々と歩いた。
右手にはスーパーのビニール袋、左手には少女の手のひら。
少女の足取りは不安定で危なっかしかったけれど、それでも、素直に真依の後をゆっくりと歩いて付いて来てくれた。
お互い、一言も話さずに、ただ歩き続けた。
少女は空腹で何かを話す元気なんて無かったのだろうし、真依は、自分の予想外の行動に、ちょっとだけ混乱しそうになっていた。
少女の手は思ったよりもずっと細くて、小さくて、そして、あたたかかった。
しばらく歩くと、住宅街の中に一棟の古びたアパートが見えてきた。
この木造二階建ての年季の入ったアパートの一室が真依の部屋だ。
聞いた話によると、昭和初期に建てられたイギリス風建築という事らしいのだけれど、あちこち傷みが激しいうえに、何度となくリフォームが繰り返されて、今はもう『何風』なのやら分からない、摩訶不思議な古アパートへと変わり果ててしまっていた。
「ボロいアパートでしょ?」
ミシミシと恐ろしげな音を立てる外階段を上がり、真依は二階の自分の部屋の前へと少女を案内した。
それから、思い出したように、ずっと繋ぎっぱなしだった少女の手を離して、ジーンズのポケットから鍵を取り出そうした。
だけど少女は、ぼぉっと真依の顔を見つめたまま、真依の手を握り締めて、離そうとしてくれない。
「ね、もう離してもいいよ」
「あっ‥」
真依に言われて、ようやく気が付いたように、少女はあわてて真依の手を離すと、青白かった頬を少しだけ赤く染めてうつむいた。
「ほら、入って」
湿ったジーンズのポケットから苦労して部屋の鍵を取り出すと、ドアを開け、少女の背中を軽く押すようにして部屋の中へと案内した。
赤茶けた木の床が渋く光る六畳の洋間に、三畳のダイニングが付いた小さな部屋。
リフォームされた真新しいキッチンには三口のガスコンロ。
バスとトイレは別々で、バスルームの隣りには洗面所を兼ねた脱衣室があった。
玄関から入って突き当たりが、南向きのテラスに出るサッシになっていて、向かって右の壁際に木製のシンプルなシングルベッド、左には三人掛けのゆったりとしたソファー、部屋の真ん中にはちゃぶ台のような足の短い丸テーブルが置いてある。
「はい」
洋間で窓の外を見ながら所在なげに立ち尽くしていた少女に、真依が脱衣室からタオルを投げて渡した。
「わっ‥」
パサッと、いきなり後ろから顔にかかったタオルに驚き、そのまま、よろよろっと背中からソファーに倒れこむ少女。
「こっちに来て、顔と手洗って、うがいして」
真依は少女を手招きして脱衣室に呼び、だぶだぶのコートを脱がせて洗面をさせた。
洗面が終わった少女が洋間に戻ると、自分は、雨の中を走ってびしょ濡れになった服を着換えて、そのまま洗濯機にかけ、それから、ショートカットの髪をタオルで拭いながらキッチンへと向かった。
「今、ご飯炊くから少し待っててね」
言いながら冷蔵庫を開け、買って来た食材を配置を考えながら几帳面に収めていく。
けれど、また、少女からの反応が無い。
真依は、ふと、後ろを振り向いて洋間の様子をうかがった。
すると、少女はいつの間にかソファーの上で丸くなって気持ち良さそうに眠ってしまっていた。
「あは‥」
なんだか、迷子の仔猫でも拾って来たみたいな気分。
よっぽど疲れてたのかな‥。
事情は分からなかったけれど、ただ雨宿りをしていたようには見えなかった。
やっぱり家出? それとも‥。
ううん、止めよう、そんな事は詮索したって仕方が無い。少女が話したければ自分で話すだろうし、話したくないのなら、無理に訊く必要なんて無いもの。
どうせ、ご飯が終わったらサヨナラなのだから、そんな事どうだって良いのだ。
真依は自分を納得させるように頭を軽く左右に振ると、自分のベッドから毛布を持ち上げて少女の体にそっと掛け、少女を起こさないように静かに夕飯の仕度を始めた。
とりあえず、自分と少女、二人分のお米を研いで炊飯器にセットし、それから、何を作ろうかちょっとだけ考えて、特売の卵を四個と、同じく、曜日サービスで安かった鶏もも肉、それからキッチンに残っていた玉ねぎを用意した。
まず玉ねぎを細めの櫛切りにし、鶏もも肉はスジを切ってから一口大に切る、最後に卵を割って軽く溶かした。
ほんの二、三分で下準備は完了。
さすがに毎日自炊していると、勝手に手際が良くなってしまう。
ご飯が炊けるまでの間、真依は泥だらけになったスニーカーをバスルームで念入りに洗って干し、それから、ダイニングの小さなテーブルで読みかけだった文庫本の続きを読んで静かに過ごした。
ほどなく、炊飯器からの湯気が収まった。
真依は、本に栞を挟んでテーブルに置くとキッチンに向かい、小さな片手鍋にお湯を沸かし始めた。
ガスを点けてから、ふと思い出して、戸棚から乾燥わかめの袋を取り出す。
そして、隣のコンロでは、初めての給料で奮発して買った真依の家宝、チタン製の炒め鍋に薄く水を張り、玉ねぎに火を通し始めた。
真依のキッチンには、この他に、煮込み料理用の両手鍋が一つあるだけなので、この三つの鍋で出来る範囲の料理を、あれこれ工夫しながら作るしかない。
まぁ、焼き料理やオーブン料理以外なら、大抵は問題無く作れるので、それほど困りはしないのだけれど。
そういえば‥、と、真依は思った。
一人暮らしを始めてからずっと、食費を節約するために否応無く自炊をしていたけれど、自分以外の誰かのために料理を作るのなんて、もしかすると、これが初めてかもしれない。
ううん、どう考えたってこれが初めてだ。
‥なんだか不思議な気持ち。
そこはかとなく、嬉しいような、それでいて、ちょっと緊張してるような‥。
何なんだろ‥この気持ち。
ソファーの上で小さな寝息を立てている、あの名前も知らない少女と初めて目が合った瞬間から、真依には自分の心が少しずつ分からなくなり始めてしまったような気がしていた。
「ほら、起きて」
真依はソファーの上にかがみ込み、少女の体をゆさゆさと揺さ振った。
「‥ん‥‥」
うっすらと瞼を開けて、少女がぼんやりと真依をその瞳に映した。
「ご飯だよ」
「‥‥‥?」
寝ぼけているのか、何を言われているのか分からないような様子で、じっと真依の目を見つめる少女。
「ほら、冷めちゃうでしょ」
真依は少女から毛布を剥ぎ取ると、その細っこい両手を引いて、少女の体をソファーの上に起こさせた。
少女は、まだ、何が何だか分かっていないようだったけれど、目の前のテーブルに並べられたささやかなご馳走を目にすると、驚いたみたいにテーブルの上の料理と真依の顔とを代わる代わるに見比べた。
特売の卵と鶏肉に、余り物の玉ねぎで作った、トロリと半熟で熱々の親子丼。
少しだけ余らせた卵と玉ねぎに乾燥わかめを入れたお味噌汁。
昨日の夜作ったほうれん草のおひたしと、ブロッコリーと茹で卵入りのマカロニポテトサラダに、おととい初挑戦して大成功だった筑前煮の残りもテーブルに並べた。
真依は少女の隣りに腰掛けると、割り箸をパキッと割った。
まともなお箸が一膳しか無かったから、少女に自分の愛用の杉箸を使ってもらい、自分は前にコンビニでもらって使っていなかった割り箸を使う事にしたのだ。
「さ、食べていいよ」
真依に促されて小さくうなずくと、少女はそっとお箸を持って、親子丼のどんぶりに手をかけようとした。 けれど、
「ちょっと待った!」
そんな少女の手を、いきなり上から握って押さえながら、真依は少し強めの口調で言った。
ビクッとして、怯えたように真依の瞳の色をうかがう少女。
そんな少女の過敏な反応に半分驚き、半分苦笑させられながらも、真依はまるでお行儀の悪い子供に諭すように続けた。
「食べる前には『いただきます』でしょ?」
そう言う真依自身でさえ、一人で食事をするようになってからは、久しく口にする事が無かった言葉。
でも、誰かと一緒に食事する時には、やっぱりこの言葉が無いと落ち着かない気がした。
「はい‥、あ、あの‥、いただきます‥」
まるで初めて話す言葉みたいに、ぎこちなく『いただきます』をすると、少女は静かに親子丼のどんぶりを持ち、お世辞にも上手とは言えない箸使いで、ゆっくりと一口分を掬い上げ、そっと口に運んだ。
「わぁ‥」
口に入れた途端、少女が小さな声を漏らした。
「あ‥、口に合わなかった?」
生まれて初めて他人に振舞った手料理。
真依は自分の料理が不味いと思った事は無かったけれど、自分の味覚に絶対の自信なんて無かったし、料理だって、誰かに教わった訳じゃなくて、本やTVを参考にして、ほとんど自己流で覚えたようなものだった。
もしかして、食べられないくらい不味かったのだろうか‥。
真依は、なんだか急に不安になってしまって、眉をひそめながら尋ねた。
けれど、少女は、あわてて顔を左右に振ると、
「ううん! おいしいです!」
こっちがびっくりするくらい真剣に、まっすぐに、真依を見て言った。
それから、うつむいてじっと親子丼を見つめ、もう一口、ゆっくりと口に運んだ。
「おいしい‥」
下を向いたままの少女の顔から、急にぽろぽろと涙の粒がこぼれ落ち、色褪せたジーンズの上に、いくつもの小さな染みが水玉模様のように広がった。
「な‥、何も泣かなくても」
真依が驚いて声を掛けると、あわてたように少女はスウェットの袖でゴシゴシと涙をぬぐった。
「ご、ごめんなさい‥」
「いや、謝らなくても良いけどさ‥」
一体、どうしたって言うんだろう。
特売の卵と鶏肉で作った親子丼が、泣くほど美味しいわけなんて無いのに‥。
それから、少女は、ゆっくりと心の奥まで味わってるみたいに、時間を掛けて食べた。
時々振り向いては真依の顔を見ながら、嬉しいのか、それとも悲しいのか、泣きそうな顔で真依の手料理を食べ続けた。
先に食べ終わってしまった真依は、少女がゆっくりと食べる様子を、何とは無しに眺めていたのだけれど、ふいに思い出したように尋ねた。
「名前は何て言うの?」
「‥‥?」
丼ぶりから顔を上げて、少女が真依を見た。
「あんたの名前」
真依に言われ、あわてたように丼ぶりをテーブルに置くと、両手を膝の上に揃えて緊張したようにピンと背すじを伸ばし、少女が口を開いた。
「あ‥、あの‥、倉内桃名‥です」
「‥桃名?」
心地良い響き‥。
初めて聞いたハズなのに、まるでずっと前から知ってる友達の名前みたいに、何の違和感も無く、真依の中の少女のイメージにぴったりと当て嵌まった。
「あたしは笹野真依、『真依』でいいよ」
「真依‥‥ちゃん?」
じっと真依を見つめたまま、少女が小さくつぶやいた。
その何気ない響きに、真依は、自分の心臓がドクンと、聞いた事も無いような大きな音を立てて鳴ったのを聴いた。
急にドキドキと鼓動が速くなって行くのを感じて、わけも分からないままに、あわてて少女から目を逸らした。
(な‥、なに? 今の??)
真依の様子に、不思議そうに小さく首をかしげる少女。
「は、早く食べないと冷めちゃうよ」
顔が勝手に熱くなって行くのを感じながら、早口で誤魔化すようにそう言うのが、その時の真依には精一杯だった。
少女が食べ終わり、一息つくのを待ってから、真依は空いた食器を手に立ち上がった。
「え‥っと、モモ、後片付け手伝ってくれる?」
「はい」
お腹が満たされて、少しだけ元気を取り戻した様子の少女も、食器を持って、真依の後ろをキッチンへと向かった。
と、そこで気が付いたように、少女が顔を上げた。
「あ‥、あの、今『モモ』って‥?」
「ん? 嫌だった?」
「い、いえ‥、そんなふうに呼ばれたの初めてだったから‥」
「そう? 誰でも考えそうなニックネームだと思うけど‥。桃名って、なんかちょっと発音しづらいし」
苦笑しながら言った真依に、
「ニックネーム‥」
少女は、びっくりしたような、それでいて、なんだか嬉しそうな様子で頬を染めてうつむいた。
‥この子は、ホントに、一体どんな生活をしていたんだろう。
最初は、ご飯だけ食べさせたらすぐにサヨナラするつもりだったのに、いつの間にか、真依はモモの事をもっともっと知りたくて仕方がなくなってしまっていた。
「ねぇ、あたし、十五歳なんだけど、モモっていくつ?」
キッチンで洗い物をして、隣でモモに食器を拭いてもらいながら尋ねた。
「あの‥、わたしも十五歳です」
慣れない様子でお皿を拭きながら、モモが嬉しそうに小さく微笑んだ。
「あ、そうなんだ」
ずっと年下だと思ってたけど、同い年かぁ‥。
真依は、まじまじと、まだ幼さの残るモモの顔を眺めた。
ついさっきまでぼんやりとしていた大きな黒目がちの瞳には、いつの間にか明るい光が戻り、青白かった頬も、暖かい部屋と食事のおかげか、綺麗な薄桃色に染まっていた。
だけど、
「じゃあ、今、高校一年?」
そんな真依の何気ない問い掛けに、モモはまた急に顔色を曇らせると、ポツリとつぶやいた。
「ううん‥、あの‥、受験しなかったから‥」
「へ‥? じゃあ就職?」
今時、そんな子もいるんだ‥、なんて、自分だって受験を考えもしなかったくせに、真依は思ってしまった。
けれど、モモはますます顔を曇らせて答えた。
「ううん‥、何にも‥」
「何にも‥って、それじゃホントのプーなの?」
「‥ぷー?」
不思議そうに首をかしげるモモ。
「プータロー、何にもしないでブラブラしてる人のこと」
「うん‥、そうだね‥。わたし‥‥、ぷー‥」
視線を落としたまま、泣き笑いみたいな表情でモモはつぶやいた。
「別に、家出してるわけじゃないんでしょ?」
「うん‥、もう、お家は無くなっちゃったから‥‥」
「え?!」
真依は耳を疑った。
一体、この子は何を言ってるんだろうか。
家が無くなった‥って、火事‥とか?
それとも、借金が返せなくて差し押さえられちゃった‥とか?
いろんなシチュエーションが真依の頭の中を駈け巡った。でも、モモの口から聞こえて来たのは、とても予想なんて出来ない言葉だった。
「範子さんが‥、義務教育までは面倒を見るけど、後は知らないって‥」
「は?」
真依はポカンと口を開けたまま、じっとモモの顔を覗き込んだ。
「範子さん‥って?」
「範子さんは、お母さんの妹なの‥」
母親の妹ってことは、叔母さん?
けれど、どうしてここで叔母さんの話が出て来るんだろう。
「範子さんはいいけど、親はどうしたの?」
真依はモモの答えを待った。
けれど、モモはいつまでたっても口をつぐんだまま、何も話そうとはしなかった。
しばらく、無言のまま流し台に向かっていた二人だったけれど、やがて真依が先に口を開いた。
「‥わかった、無理には訊かない‥」
そうだ。
他人にあれこれ問いただされるのなんて、真依だって御免だもの。
でも‥。
それなのに、真依はモモの事がもっと知りたくて仕方がなかった。
そして、もう少しだけでも良いから、モモと一緒にいたかった‥。
食事の後片付けが終わると、真依とモモはソファーで食休みをした。
二人とも、何か話したいような様子だったけれど、何を話して良いものか分からなくて、ソファーに並んで腰掛けたまま、黙って、お互いの様子をそわそわとうかがっていた。
少しの沈黙の後、真依が意を決して尋ねた。
「あ、あのさ、モモ。泊まるトコはあるの?」
「‥え? あ‥、‥‥はい‥」
急に訊かれて口篭もりながらも、笑顔を作ってモモが答えた。けれど、その曖昧な微笑みの理由が分からない真依じゃなかった。
「無いんでしょ?」
「‥え‥‥」
驚いたような顔で、モモが真依の瞳を見つめた。
それから、ゆっくりと視線を落とすと、膝の上に置いた手の甲を見つめながら、小さく一言つぶやいた。
「‥‥うん‥」
か細い声と、一瞬見せた不安そうな横顔。
でも、すぐに顔を上げると、モモはまた笑顔を作って真依を見た。
「だけど、大丈夫です」
そんなモモの言葉に眉をひそめると、真依はいきなり身を乗り出して、モモの瞳をじーっと覗き込んだ。
「あ‥あの‥」
顔がくっつきそうなくらい近くから見つめられて、あわあわ‥と口をパクパクさせながら、顔を真っ赤に染めるモモ。
「‥何が『大丈夫』よ、そんな不安そうな目して」
真依が唇を尖らせながら、モモのおデコをちょんっと指でつついた。
「あ‥」
言われて、あわててぎゅっと目を閉じるモモ。
「あは」
その様子があんまり可愛くて、ちょっぴり可笑しくて、真依は不意に微笑まされてしまった。
「あのさ、とりあえず二、三日ならウチに泊めてあげられると思うけど」
そう続けた真依に、モモはびっくりしたように顔を上げ、一瞬、また泣きそうな顔を見せた。
そして、それから、何かを堪えるみたいに膝の上で手をぎゅっと握り締めて、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫‥です‥、これ以上ご迷惑かけられないから‥」
言い終わると、ゆっくりとソファーから立ち上がり、少しだけ淋しそうに微笑む。
それは‥、さよならの合図。
「そう‥」
ほとんど無意識に、立ち上がったモモの手を引いてもう一度ソファーに引き戻そうとしてしまった真依だったけれど、ハッと気が付いて、伸ばしかけた手を静かに下ろした。
そうだ‥、本人が望んでいない事を無理に押し付けるなんて、そんなこと絶対に出来ない。
「わかった。でも、気を付けなよ。お腹減ったらまた来てもいいんだからね」
「‥ありがとう‥」
ご飯、とっても美味しかったです。
そう言って淋しそうな微笑みを残すと、モモはコートを羽織り、玄関へと向かった。
真依はモモを部屋の外まで見送り、別れ際、一度だけ、そっとモモの柔らかな髪を撫でた。
少しだけくすぐったそうに微笑んで、その黒目がちな瞳に真依を映すモモ。
「‥さようなら‥」
「うん‥」
それから、ふいに目を閉じると、そのままクルリと後ろを振り向き、モモは階段を降りてアパートから出て行った。
もうすっかり暗くなってしまった雨上がりの舗道を、こちらを振り返ることも無く、とぼとぼと歩いて行くモモ。
その後ろ姿を二階の廊下からぼんやりと眺めながら、真依は、次第に胸が苦しくなって行くのを感じていた。
まるで、心臓を湿ったロープで徐々に締め付けられて行くような感覚‥。
だんだん、息をするのも苦しくなって、油断したら涙がこぼれてしまいそうだった。
膝が小刻みに震え始めて立っていられなくなり、真依はしゃがみんだ。
(‥なんなのよ‥もう‥‥)
後から後から、波のように押し寄せては真依を混乱させる正体不明の感情。
泣きたくなんてないのに、勝手に込み上げてくる涙。
でも、それでも真依は、手すりの柵の隙間から、モモの後ろ姿をいつまでもいつまでも遠く見えなくなるまで、ずっと眺めていた。
いつまでも、いつまでも‥。
ずっと、ずっと。
2、
「しまった‥」
真依が昆布ダシの素を買い忘れていたのに気が付いたのは、明日からしばらく食べるつもりで少し多めに仕込んでいた『おでん』に入れる大根と卵を下茹でしている真っ最中の事だった。
今ごろ気付くなんて、真依らしくもない。
真依らしくも無いといえば‥、ついさっき、大根のかつら剥きをしている時に、真依の記憶に有る限りでは生まれて初めて、包丁を滑らせて指を少し切ってしまった。
別に意識してるわけじゃないのに、ふと気が付くとモモの事ばかり考えて、ぼぉ‥っとしてしまっている自分がいた。
(やめやめ!)
そうだ。いくら考えたって、きっともう会う機会なんて有る訳ないんだから、考えるだけ無駄に決まってる。
変な子だったから、ちょっと気になってるだけ。
一晩寝て明日になれば、綺麗さっぱり忘れて、またいつも通りの真依に戻れる。
モモだって、疲れたらきっと自分の家に帰って、何事も無かったみたいに普段の生活に戻って行くんだ。
家が無くなっただなんて、そんなドラマみたいな事、十五歳の女の子にそうそう起こるハズが無いもの。
「よしっ」
真依は顔を両手でパンっと叩いて気合を入れ直した。
BGMも無い部屋に一人でいるから余計な事を考えちゃうんだ。
気分転換も兼ねて、ひとっ走りコンビニまで昆布ダシの素を買いに行ってこよう。
コンビニに置いてあるかどうかは分からないけれど、スーパーまで足をのばすにしても、どうせコンビニは通り道。覗いてみて損は無い。
真依は部屋着のスウェット姿のまま、まだ少しも乾いていないスニーカーに裸足を突っ込んで、部屋から飛び出した。
ドアを開けて外に出ると、雨雲はもうすっかり東の空に流れてしまったようで、モモを見送った時には見えていなかった月が、いつの間にか煌々と夜空の真ん中に輝いていた。
真依は、月と街灯に明るく照らされた舗道を、のんびりと歩いてコンビニへ向かった。
けれど、予想外の寒さに、いつの間にか『のんびり』が早足になり、それがそのうち小走りへと変わってしまった。
雨が上がっても以前として湿り気を帯びたままの冷たい夜風が、無遠慮に服の中にまで忍び込んで来るおかげで、あまりの肌寒さに鳥肌が立ってしまう。
アパートを出て一分も経たないうちに、真依はコートでも羽織ってくれば良かったと後悔した。
そして、やっぱり考えてしまうのはあの少女の事。
(寒くて震えてるんじゃないかな‥モモ‥)
スウェットの下には何も着ていないみたいだったし、コートだって、どうみてもそれほど暖かそうには見えなかった。
『大丈夫』
その言葉を信じて、伸ばしかけた手を下ろした真依だったけれど、やっぱり無理にでも引き止めておけば良かったのかもしれない‥。
(また、会えるかな‥)
会いたい。
こんなに誰かと会いたいって思ったこと、今まで無かった。
それも、今日初めて会った、まだ名前くらいしか知らない子なのに‥。
別れ際のモモの淋しそうな笑顔が、いくら走っても頭から離れてくれない。
小走りが早歩きになり、やがて真依は立ち止まって、遥か頭上で輝く月を見上げた。
「‥ねぇ、そこからなら見えるでしょ、モモがどこにいるか教えてよ‥」
白い息を洩らしながら、小さく呟く。でも、月はただじっとそこに浮かんでいるだけで、何も教えてはくれなかった。
「けち‥」
唇を尖らせて月に八つ当たり。
それから静かに視線を落とし、真依はまたゆっくりと歩き始めた。
頬を、冷たい風がひんやりと撫でながら通り過ぎて行く‥。
「あたし‥いったい何やってんだろね‥‥」
なんだか、もう、自分が自分じゃなくなってしまったような気がした。
やがて、三分も経たないうちに、コンビニの明かりが見えて来た。
ホントに近い。
もし、このコンビニが無かったとしても、真依のアパートから半径五百メートルの範囲内に確実に三、四軒はコンビニがあるのだから、コンビニが沢山あるのが都会暮らしの一番のメリットだって言っても、過言じゃないような気すらする。
と、
「‥ん?」
次第に近付くコンビニの明かりの中、コンビニ前の路上で、男と女らしき大小二つの影が、何か言い合いながら揉み合っているような様子が見えた。
(やだな‥痴話喧嘩かな‥)
最近もニュースで喧嘩の仲裁に入った人が刺されたって話を聞いたばかりだ。
通りすがりに巻き込まれでもしたら洒落にもならない。
真依は顔をしかめ、様子をうかがいながら、ゆっくりとコンビニに向かった。
入口横の駐輪スペースの隅に、そこそこ背の高い若い男と、背の低い女の子、二人の姿が、次第にはっきりと見えてくる。
なんだか、言い争っているというよりも、男の方が一方的に女の子に詰め寄っているような感じだ。
「い‥?!」
思わず真依の口からひきつったような声が漏れた。
だ、だって、その女の子‥。
「‥モモ?! 何やってんのよ‥」
コンビニの照明に照らされたその横顔は、忘れもしないモモの顔。
真依は呆然と呟きながら、無意識に走り寄ろうとしてしまって、二、三歩進んだ所であわてて自分の足にブレーキをかけると、二人に気付かれないように素早くコンビニの横側に回り込んだ。
建物の角から、そっと顔を半分だけ覗かせて様子をうかがう。
一体、どうしたというのだろう?
どう見たって、前からの知り合いのようには見えなかった。
男の方は、遠くから見ても柄が悪そうだったけれど、近くで見ると尚さら頭の悪そうな見るからにヤンキー風の茶髪男だった。
この寒いのに、アロハ一枚で平気な顔をしてる段階で、とてもまともな神経をしてるとは思えない。
その茶髪男が、モモの両肩に手を載せて、なにやら話し掛けている様子だ。
「あ‥、あの、離して下さい‥」
モモの不安そうな、か細い声が、途切れ途切れに聞こえて来た。
「こんな所で座り込んでてさー、どうせ泊まる所無いんでしょー? だからさー、オレんちに泊めてやるって言ってんのよー?」
茶髪男の、悪寒が走るような軽薄な猫なで声が聞こえて、真依は眉間に思い切り皺を寄せた。
知らずに瞳に殺気が宿ってしまうのが押さえられず、両脇で握り締めた手をブルブルと震わせる。
男の手がモモの肩を鷲掴みにして引き寄せようとするのが見えて、真依はもう一秒も我慢できずに飛び出そうとした。次の瞬間、
「や‥っ」
モモが身を捩って逃げた拍子に、すぐ傍に停めてあった自転車が勢いよく倒れ‥、
『ガッシャーン!』
ハンドルの先端が、男のサンダル履きの足の上を、ものの見事に直撃した。
「ぐっ‥! 痛ってぇ!!」
大げさな悲鳴を上げて飛び上がり、顔を歪める茶髪男。そして、何を思ったのか、
「てめぇ!!」
いきなり両手を振り上げると、物凄い形相でモモに掴みかかった。
瞬間、何かを考えるよりも早く、真依は反射的に飛び出し、男の背後から物凄い勢いで走り寄った。
肩を掴んでモモの体を壁際に追い込もうとする茶髪男。
真依は走り寄った勢いのまま、手前に止めてあった原付バイクの座席シートに左足を掛け、それを踏み台にしてジャンプすると、右膝を立てた姿勢で体ごと茶髪男めがけて突っ込んだ。
「‥っ!?」
『グシャッ!!』
何かが砕けるような鈍い音を立てながら、男の後頭部に真依の右膝がめり込んだ。
『ガツッ!!』
更に、その勢いでコンビニの壁に顔面から激突してしまい、真依の膝と壁に、前後から顔をプレスされてしまった茶髪男は、そのままズルズル‥と、壁に顔を擦りながらスローモーションのように地面に崩れ落ちた。
「わ‥」
一瞬の出来事に、ポカンと口を開けたまま目を丸くしてるモモ。
「何やってんの!ほら、逃げるよ!」
真依は強引にモモの手を引いて、全力で走り出した。
「ま、真依ちゃん?!」
突然現れた真依の顔を、モモは一瞬、泣きそうな目で見た。
グイッと物凄い勢いで手をひっぱられて、足をもつれさせそうにしながらも、なんとか真依の後ろに付いてくるモモ。
真依とモモは、しっかりと手を繋ぎ合ったまま、星空の下を必死に走り続けた。
どこまでも、どこまでも、冷たい風を切って走る二人の行方を、煌々と輝く月だけが静かに見守っていた。
「ふー、参った」
アパートの自分の部屋に駈け込み、後ろ手にドアをバタンと勢いよく閉めて、はぁはぁと肩で息をしながら、真依がホッと大きく息をついた。
「うん‥」
真依の隣では、モモが頬を紅潮させて、苦しそうに息をついている。
そんなモモを見ていたら、真依は何だか急にどうしようも無く腹が立ってきて、思わず大きな声を出してしまった。
「あんたねぇ!」
急に怒鳴られて、ビクッと肩をすくめ、泣きそうな目で真依を見上げるモモ。
その瞳に、またもやドキリとさせられ、真依は一瞬口篭もってしまった。
「ま‥、まあいいわ。とにかく、あんたの『大丈夫』がちっとも大丈夫じゃないって事は、よーく分かった」
「‥ごめんなさい‥」
しょぼんと肩を落とすモモ。その様子は、反省しているというよりも、また真依に面倒をかけてしまった事の方をが気になっているような、そんな感じに見えた。
「ふー」
真依は腕組みをして目を閉じると、ため息を一つ吐いた。それから、
「ちょっとあたしと一緒に来なさい」
有無を言わさずモモの手を引いて、今閉めたばかりのドア開け、もう一度部屋の外へと連れ出した。
不思議そうに後を付いて来るモモと一緒に階段を下り、アパート一階の右端の部屋の前に立つ。
『コンコンコン』
ノックノック。
どうしてノックなのかというと、このアパート、インターホンどころか、チャイムすら付いていないのだから他に仕方がない。
「みゆきちゃんいるー?」
真依の呼びかけに、
「ほーい」
返事と共にドアが開き、真依よりもやや背の高いショートカットの少女が、ひょこっと顔をのぞかせた。
真依よりも少しだけ年上に見える細身の少女は、特大のポテトチップス(のり塩)の袋を抱え、口の周りには青のりとポテチの欠けらを付けていた。
「‥‥‥」
その様子を見て何かを言おうと口を開きかけた真依だったけれど、やっぱり、すぐに思い直して口をつぐんだ。
けれど『みゆきちゃん』は、そんな真依に不満そうに口を尖らせる。
「なに? その嫌そうな顔」
「なんでもない」
言ったって無駄な事は言わない。
他人が好きでやってる事には、自分に迷惑が掛からない以上、口は出さない。
真依は今までずっとそうして生きてきたし、これからも同じようにして生きて行くつもりなのだから。
けれど、みゆきちゃんは真依の瞳をじっと見たまま急にニヤリと笑うと、何を思ったのか、青のりとポテチの油でベタベタになった手でいきなり真依のほっぺたをムニムニとつまんでくれたのだ。
「な、なにすんのよ!」
あわててみゆきちゃんの手を振り払う真依に、
「ありがと」
そう言ってみゆきちゃんが笑った。
「は?」
「『またお菓子ばっかり食べて、たまにはちゃんとご飯食べないと体壊しても知らないんだからね!』‥と、みゆきの体を心配する真依なのであった。まる」
「なっ?!」
いきなり図星をさされて、真依は何も言い返せずにパクパクと口を動かした。
「真依ちんが作ってくれるんなら、ちゃんとご飯食べれるんだけどなぁ」
「や、やだよっ! なんであたしがみゆきちゃんの食事当番しなきゃいけないの!?」
「つれないなぁ、あたしと真依ちんの仲だっていうのに‥」
およよ‥と芝居じみた泣き真似をしながら真依の腕に抱きついてくるみゆきちゃんを、苦虫を噛み潰したような顔で払い除ける真依。
そんな『相変わらず』の真依に、みゆきちゃんの大きな目が楽しそうに細められた。
「なはは。そんで、どうしたの? 真依ちんが自分からあたしんトコ来るなんて」
「‥あ、そうだ」
真依は、言われて思い出したようにモモの方を振り向くと、
「モモ、ちょっとこっち来て」
ドアの影でおどおどと二人の様子をうかがっていたモモの腕を引いて、みゆきちゃんの前に、はい、と差し出した。
「ありゃ?! 真依ちんどしたの? この可愛い子」
興味津々といった感じで玄関の上がり口から身を乗り出し、モモに見入るみゆきちゃん。
「あのさ、この子、わけ有りで泊まるトコ無いみたいなんだけど‥、ここにしばらく置いてもらえない?」
「なるる、真依ちんの推薦かぁ」
ふむふむ、と、一人で納得したようにうなずくと、みゆきちゃんはモモに話し掛けた。
「はじめまして。モモちゃんっていうの?」
「は、はじめまして‥。倉内桃名‥です」
「おっけー。じゃあモモちゃん、こんな所でもなんだし、ちょっと上がってくれる」
言われて、自分が置かれてる状況もよくわからないまま、モモは靴を脱いで素直にみゆきちゃんの部屋に上がり込んだ。
その後に続いて真依が玄関に入ろうとした所で、みゆきちゃんがそっけなく言った。
「あ、真依ちんは別にいいよ」
は? いきなり何言ってんの?
モモを初対面のみゆきちゃんの部屋に一人で上がらせて自分だけ帰るなんて、そんな事できるわけ無いじゃない。
「上がらせてもらいます‥」
真依は無遠慮にズカズカと部屋に上がり込みながら、すれ違いざまに、みゆきちゃんをキッと睨みつけた。
そんな真依に、みゆきちゃんがボソリと呟いたのを、真依の耳は聞き逃さなかった。
「そう? ‥残念」
「なにぃ?!」
真依は眉間に皺を寄せ、拳をギリギリと握り締めて、みゆきちゃんに詰め寄った。
みゆきちゃんは、正直言って、ちょっと‥いや、かなりスキンシップが激しすぎる。
嫌なものは嫌とハッキリ拒絶する真依みたいなタイプには、それほど実害は無いけど、見るからに大人しそうなモモに、真依に対して普段しているのと同じような事をするつもりだったら、そんなの絶対に許さない! と、真依は思った。
けれど、みゆきちゃんは、そんな真依の殺気を帯びた物騒な眼差しに、ニコニコと穏やかな笑顔を返すと、さっきと同じ手で真依の黒髪をわしゃわしゃと掻き混ぜて言った。
「なはは。やっぱ真依ちん面白くて好き」
「は‥?」
人が真面目に怒ってるのに、何言ってんのよ‥、バカにして。
だいたい、こんなあたしのどこが面白いっての?
このアパートに来るまでは、クールだとか、生真面目だとか、そんなことばっかり言われてたのに、ここの住人たちときたら、自分が一般常識からズレてるのを棚に上げて、真依の事をよってたかって『面白い』扱いしてくれる。
「まぁまぁ、そう熱くならないで、その辺にテキトーに座って下さいな」
何だか納得が行かなかったけれど、ここで揉めてても仕方ない。
それに、わざわざみゆきちゃんと喧嘩しに来たわけじゃなくて、本題はモモの件なのだから、ここは言う事を聞いておいた方が良さそうだ。
真依は、まだ頬を少し膨らませてブスっとしたまま、みゆきちゃんに促されてベッドの端に腰掛けた。
モモはコートを脱がされ、みゆきちゃんのパソコンデスクの肘掛椅子に、診察を受ける患者さんのように座らされて、その前にみゆきちゃんが立った。
「うーむ、どれどれ‥」
みゆきちゃんはそう言うと、身をかがめて、まじまじとモモの顔を覗き込んだ。
ふむふむ‥と、うなずきながら、モモのあごの先に手をかけて右に左に顔を振り向かせ、それが終わると今度は、三歩後ろに下がってまじまじとモモの全身を眺め回した。
恥ずかしいのか、それとも怯えているのか、モモは落ち着かない様子で目を泳がせては、時折、真依の方をちらちらとうかがった。
「モモちゃん、ちょっと立ってみて」
「は、はい」
言われて素直に立ち上がるモモ。
「後ろ向いてー」
腕組みして、片手をあごに当てながら、みゆきちゃんが至極真面目な顔で言った。
「はい」
言われた通り素直に後ろを振り向くモモ。
「右向いてー」
「はい」
また、素直に右を振り向くモモ。
「左向いてー」
「はい」
またまた、素直に左を振り向くモモ。
「上着脱いでー」
「はい」
またまたまた素直に‥‥、って!?
「わっ!? こらこらホントに脱がないの!! みゆきちゃんも何させんのよ!!」
真依はあわてて、言われた通りに上着を脱ごうとスウェットの裾を掴んだモモの小さな手を、その上から握って押さえた。
「あ‥、ごめんなさい‥」
言われてやっと気付いたように、顔を真っ赤にするモモ。
「あはは、ごめんごめん」
笑って誤魔化しながら、ちっ、邪魔が入ったか‥、なんて呟いてるみゆきちゃんに、また頭に血が昇りそうになってしまったけど、真依が何か言うよりも早く、何事も無かったかのようにみゆきちゃんが話を先に進めてしまった。
「んー、じゃあ、ちょっと踊ってみてくれる?」
「‥え?」
モモが、言われたことの意味を必死に理解しようとしているような複雑な表情をして、真依とみゆきちゃんの顔を交互に見た。
だけど真依だって、いきなり予想外のみゆきちゃんの台詞に面食らって、思わず呆然としてしまっていた。
「ほら、早く早く」
勝手に、ワン・ツー・スリー・フォー、ワン・ツー‥、と手を叩いて拍子を取り始めたみゆきちゃん。
「は‥、はい」
何が何だかまるで分からない様子で、おろおろとしながらも、みゆきちゃんに急かされ、手拍子のリズムに合わせて、その場で軽くジャンプをし始めたモモ。
いったい何が始めるんだろう、と、思わず眺めてしまった真依の目の前で、今度は手拍子に合わせて両手を胸の前でクロスさせ、その手を、肘を少し曲げたまま両脇に振り上げると、かかとを付けたまま爪先を外側に向けて軽く膝を曲げ、それと同時に力こぶをつくるような仕草で、両腕を上げ下げし始めた。
(ちょ、ちょっと‥)
止めようか止めまいか迷ってる真依の目の前で、どうしたら良いのか分からない様子で顔を真っ赤にしたモモが、ガニ股を開いて曲げた腕を上げ下げする、同じ動作を繰り返してる。
う‥、これは‥、見てる方も恥ずかしい‥。
でも、これって、なんだかどこかで見たことがあるような動きだ。
(えーっと、なんだっけかな‥)
首をかしげた真依の頭の中に、軽快なピアノの伴奏に合わせて、やたらハキハキとした男性の声が、軽いノイズ混じりに流れ始めた。
『手足の曲げ伸ばしー。
振り上げて、曲げ伸ばして、曲げ伸ばして振り下ろす。
ごー、ろく、しち、はち。いち、に、さん‥』
そうだ、これは間違いなくラジオ体操、しかも‥よりにもよって一番恥ずかしいラジオ体操第二の二、手足の曲げ伸ばし、通称『ゴリラ』に間違いない。
真依はこれをするのが嫌でラジオ体操が大嫌いになったくらいなのだから、忘れるはずもない。
「ぶっ‥、あははははははははは!!」
手拍子をしながら、必死に笑いをこらえてたみゆきちゃんが、もう堪え切れないって感じで思い切り吹き出し、おなかを抱えて床の上を転げ始めた。
それでも、言われたからには何かし続けないといけないと思ったのか、モモは顔を真っ赤にして必死に手足を動かしている。
さすがにうろ覚えだったのか、最初はラジオ体操だったものに、いつの間にか摩訶不思議な動きが混じり始めて、それがそのうち、なんだか幼稚園のお遊戯みたいな間の抜けた踊りになってしまった。
BMGも無しに、顔を真っ赤にして、一生懸命手足を動かしてるモモの姿が、モモには悪いけど、可愛くて、可笑しくて、もう少しだけ見ていたくなってしまって、真依はほとんど無意識に、ぼぉっとモモの踊りに見入ってしまった。
だけど、
「やめーーー!」
モモの泣きそうな顔に、ハッと我に帰って、あわてて終了の合図を出した。
真依の号令に、ピタっと動きを止めるモモ。
「みゆきちゃん遊び過ぎ!」
「あはははは、ごめーん」
爆笑しながら悪気の欠けらも無さそうに謝ると、みゆきちゃんは床の上に座り込んで、ひーひーと苦しそうにお腹を押さえた。
真依は、はぁはぁと息を上げてるモモをもう一度椅子に座らせ、目に焼き付いてしまったモモのラジオ体操姿に思わず緩んでしまいそうになる頬を、歯をくいしばってぎゅっと引き締めながら、あらためてみゆきちゃんに尋ねた。
「それで、さっきの話なんだけど‥」
「合格!」
真依が言い終わるよりも早い、みゆきちゃんの即答。
「へ?」
「いいよ、合格。可愛くて面白い」
笑いすぎて出てきた涙を指で拭いながら、みゆきちゃんが満足そうに言った。
「ホントにいいの?」
「おうよ。我らがプー荘の管理人、みゆき様が合格って言ってるんだから、のーぷろぶれむ‥‥だけど」
「だけど?」
「真依ちんも分かってると思うけど、空き部屋は無いから真依ちんの部屋で同居だよ」
当然、といった顔でみゆきちゃんが告げた。
「あっ‥」
言われて初めて気がついた‥。
勢いで、すっかり空き部屋があるものだと思い込んでたけど、よく考えたらどの部屋にもちゃんと住人がいるじゃないか。
(あたし‥、ホントにボケちゃったのかな‥)
なんだかもう、今日の真依はとことん調子狂いまくりだ。
「はい、真依ちんが連れて来たんだから、ちゃんと責任は取りましょうねー」
気が抜けたようにベッドに座り込んだ真依の頭を、みゆきちゃんがグリグリと撫でた。
「あ、あの‥、わたしは大丈夫ですから‥、あの‥」
「モモは黙ってて!」
椅子から身を乗り出して『大丈夫』と言うモモを一喝すると、真依は真剣な顔でみゆきちゃんに告げた。
「この子はあたしが責任を持って預かります。だから‥」
「おっけー!それじゃモモちゃん、これからよろしくね」
また真依が全部言い終わるより先に、みゆきちゃんはニコっと表情を崩してモモに手を差し出した。
「あたしは御幸知、みゆきでも、トモでも、好きな方で呼んで」
「あ‥‥」
差し出された手を反射的に握り返しながら、モモがポカンと口を開けた。
「どうしたの?」
やっぱり、こんなボロアパートで訳も分からないまま真依なんかと一緒に住むのは嫌だって言うのだろうか。
(そっか‥、そうだよね‥)
いきなり、そんな事勝手に決められても困っちゃうよね‥。
お互い、何の事情も知らないのに、余計なお節介なんて邪魔なだけだもんね‥。
それくらい、真依にだって分かってる。
分かってる‥。
なのに、なんで勝手に涙がこみ上げて来るんだろう。
(なんなのよ! もう!!)
ゴチャゴチャした気持ちが頭の中を渦巻いて、目の前がくらくらして来た。
立っていられなくなって、真依はへなへなとベッドに座り込んでしまった。
けれど、そんな真依の気持ちを知ってか知らずか、のんびりとした口調で、モモが続けた言葉に、今度は真依の方がポカンと口を開けさせられてしまった。
「あの‥みゆきさんって、苗字だったんですね‥」
真依は、あらためて思った。
やっぱり、この子もどこか少しズレてるみたいだ‥。
「それじゃ、さっそく我らがプー荘のご案内を兼ねてみんなと顔合わせに行こっか」
ひとしきり落ち着くと、みゆきちゃんが立ち上がって言った。
「あの、『プー荘』って‥?」
椅子から立ち上がって、不思議そうに首をかしげるモモ。
「ん‥と、このアパートの名前。本当の名前はバレーなんちゃらって言うんだけど‥」
「ヴァレ・ドゥ・ラ・ロワール」
口篭もったみゆきちゃんに、真依がすかさずフォローを入れた。
「そうそう、それ」
よく覚えてたねぇ、なんて、感心したように言うみゆきちゃん。
ていうか、管理人がそれでいいの?
「ほら、なんだかややこしい名前だし、どう見てもなんたらロワールって感じじゃないでしょ? このボロアパート」
だいたい、イギリス建築のくせに『ロワール』とか言ってるのも意味わかんないし、って、みゆきちゃんが苦笑まじりにぼやいた。
「真依ちん、家賃の話とか、もう話した?」
「ううん、まだ。みゆきちゃんに話してもらう方がいいかと思って」
「おっけー」
それじゃモモちゃん、と、みゆきちゃんがモモに向かい合って説明を始めた。
「このアパートは、匿名の奇特な大家さんのご好意で、夢多き乙女たちに自由価格で提供して頂いているのです。で、プーな子ばっかり住んでるから『プー荘』、分かりやすいでしょ?」
「え‥と、自由価格‥?」
モモが頭の上に『?』を浮かべて聞き返した。
「うん、お金に余裕がある人が『気持ち』で払ってくれればそれでOKって事。 まぁ、見ての通りのボロアパートだし、基本的にタダみたいなもんだから、モモちゃんも気兼ねしないで居座ってくれちゃって良いからね」
「え‥、お家賃無しでも良いんですか?」
モモがポカンと口を開けて驚いたように尋ねた。
「うん、でも、誰でも住めるわけじゃないのよ」
そう言うと、みゆきちゃんは、ふふん、と、偉そうに胸を張った。
「管理人のみゆき様のきびしーい審査に合格した魅力的な子だけが住むことを許されるのです」
それを聞いて、モモが困ったように眉をひそめた。
「あの‥、わたし‥ちっとも魅力的なんかじゃないです‥」
でも、みゆきちゃんは真面目な顔して一言。
「モモちゃんは魅力的です!‥以上」
「え‥」
「もう、あんまり可愛すぎて思わず押し倒したくなっちゃうくらい」
言うが早いか正面からモモに飛び付いて、そのまま、ばふっ、とベッドに押し倒した。
「きゃっ」
モモの小さな悲鳴と、
『バキッ!』
「ぎゃわっ」
手近にあったハードカバーの本の角で、真依に後頭部を殴られたみゆきちゃんの叫び声が重なって、なんとも奇妙な音が部屋に響いた。
「モモ、おいで」
後頭部を両手でおさえてベッドにうずくまるみゆきちゃんを冷たく一瞥すると、真依はモモの両手を引いてベッドから引き起こした。
「バカは放っておいて、あたしが案内してあげるから」
「は、はい‥」
心配そうにみゆきちゃんを振り返るモモの手を引いて、玄関に向かう。
「いい、油断したらみゆきちゃんには何されるか分かんないんだから、絶対に気を抜いちゃダメだよ」
「うぅ‥、真依ちんひどい‥」
「えっ?!」
モモがいるはずの場所から予想外の声が聞こえて、ぎょっとして振り向くと、いつの間にかモモと入れ替わってみゆきちゃんが真依に手を引かれてるじゃないか。
ずっとモモの手を握ってたはずなのに、一体どんな技を使ったんだろう‥。
みゆきちゃんの後ろを見ると、モモがみゆきちゃんに手を引かれている。
真依は、もう何が何だか分からなくなってしまって、ただ呆然とみゆきちゃんの顔を眺めるしか出来なかった。
ただ一つ確実なのは、油断してなくても、みゆきちゃんには何をされるか分からないって事だと、真依は額に冷や汗を浮かべながら思った。
「はい、まず一〇一号室、つまりこの部屋は、あたし、御幸知の部屋であります」
玄関から出た所で、あらためまして、と、みゆきちゃんが自己紹介をした。
「職業はヒ・ミ・ツ‥、で、歳も内緒‥。だけど、今年からお酒を飲んでも怒られなくなりました」
「え‥‥」
モモが目を丸くしてポカンとみゆきちゃんを見上げた。
「ホント‥、そーゆー歳には見えないよね、良い意味でも悪い意味でも‥」
真依も、最初に聞いた時にはちょっと信じられなかった。だって、どう見たって自分と同じか、せいぜい一個上くらいにしか見えないんだもん。
しかも、あちこちの学校の制服を集めて着るのが趣味みたいで、最初に会った時にもセーラー服姿だったものだから、真依はしばらくの間ずっとみゆきちゃんは高校生だと思い込んでたくらいなのだ。
「はい、次いくよー」
みゆきちゃんは自分の話題はさっさと切り上げて、左隣の部屋に向かった。
「一〇二号室。ここの住人はユイ‥吉川結っていうんだけど、今はちょっと遠くに出かけてるから、帰ってきたらまた紹介するね」
「はい‥」
モモは、きっかわゆい、きっかわゆい、と、口の中で繰り返しながら小さくうなずいた。
「っていうか、帰ってきてる時のほうが少ないんだけどね」
苦笑しながら、みゆきちゃんは次の部屋に向かった。
一〇三号室と書いてある部屋の前に立つと、ゴンゴンと大きくノックをして、
「マキちゃんいるー?」
大声でドア越しに呼びかけた。
‥‥。
‥‥。
三十秒ほどしてから、ガチャっとドアが開き、
「ん‥、なぁに〜?」
眠たそうに瞼を擦りながら、寝癖だらけのボサボサ頭で、薄い茶色に髪を染めた女の子が顔を出した。この部屋の住人、マキさんだ。
「新入りちゃんのご紹介です」
はい、と、モモの肩をつかんで、マキさんの目の前に立たせるみゆきちゃん。
「あ‥、あの、倉内桃名です。よろしくお願いしますっ」
「あ〜、はい、よろしく〜」
バタン‥。
あからさまに寝起きの声でそれだけ言うと、あくびをしながらマキさんはドアを閉めてしまった。
「あ、あのっ‥」
自分が何か気に障るような事でもしてしまったと思ったのか、モモが泣きそうな目で振り返った。
「水森牧、あんな感じの子です」
やれやれ、と、苦笑するみゆきちゃん。
「大丈夫だよ、モモ。あの人はいつもあんなだから」
真依が言うのもなんだけれど、マキさんは無愛想でマイペースだ。
歌手を目指してバンド活動をしてるって話を誰かから伝え聞いた覚えがあるけど、真依の記憶の中のマキさんは、いつも眠そうでダルそうな、『無気力』って顔に書いてあるマキさんだけだった。
「はい、次、ここはプー荘の備品とか、みんなの不要品とか、いろいろ詰め込んである倉庫。中はすごい事になってるから開けちゃダメ」
一階の左端の部屋の前で、みゆきちゃんが通せんぼの格好をして言った。
真依は、このアパートに住んで四ヶ月になるけれど、その真依ですら、一度もこの倉庫の中を見たことは無かった。
まぁ、見せて欲しいって言えば見せてくれるんだろうけど、そんな汚い物置をわざわざ見学するほど、真依は物好きではない。
「それじゃ二階に行こう」
みゆきちゃんを先頭に、その後ろにモモ、しんがりは真依の順番で階段を上がり、二階の右端の二〇一号室、階段の脇の部屋のドアをノックした。
コンコン。
「はーい」
すぐに返事があって、ガチャっとドアが開いた。
「トモちゃん、真依ちゃん。あれ? その子は?」
料理をしていたのだろう、黒い真っ直ぐなロングヘアーを後ろで一つに結わえた、エプロン姿の『菜摘さん』が、ひょこっと顔を出した。
「今日から真依ちんの部屋に一緒に住むことになったモモちゃん」
「は、はじめまして。倉内桃名です、よろしくお願いしますっ」
と、
『ゴンッ!』
あわててお辞儀をしたモモが、開いたドアの角に勢い良くおデコをぶつけてしまった。
「う‥」
よほど痛かったのか、涙目になって両手でおデコを押さえるモモ。
「わ、大丈夫?」
いきなりの『ご挨拶』に驚いて、玄関の上がり口から身を乗り出した菜摘さんだったけれど、
「わ、わ、わ」
今度は自分がバランスを崩して、前のめりになりながら、と、と、と、っと、スリッパ履きのまま外に出て来てしまって、
「ごめ〜ん」
ドスン。
そのまま、目の前にいたモモを巻き添えにして、二人で、もつれ合いながら廊下に倒れ込んでしまった。
「あははははは」
めちゃくちゃ嬉しそうに大爆笑するみゆきちゃん。
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
真依が心配そうに二人を覗き込んだけど、二人とも、廊下に尻餅をついたまま、可笑しそうに笑い合っていた。
「ごめんね。大丈夫?」
「あ、はい、平気です」
モモの少し赤くなったおデコを、優しくさすってあげながら、菜摘さんが言った。
「柵間菜摘です、よろしくねモモちゃん」
「はい」
嬉しそうに微笑むモモ。
菜摘さんは、モモの手を引いて一緒に立ち上がると、服に付いた埃を手で払ってあげながら、ニコニコと笑って言った。
「お隣りだから、気が向いたらいつでも遊びに来てね」
「は、はいっ」
菜摘さんに負けないくらいニコニコと微笑んで、少しだけ元気良く答えるモモ。
と、なんだか焦げ臭いような匂いがどこかから漂って来たような気がして、真依は鼻をクンクンと鳴らした。
「ねぇ、なんだか焦げ臭くない?」
「え?」
真依に言われて、思い出したように菜摘さんがキッチンを振り返った。
「きゃ〜、カルボナーラが焦げてる〜〜」
情けない声で悲鳴を上げながら、あわててコンロの火を止める菜摘さん。
「えーん、せっかく美味しく出来てたのにぃ‥」
「ご、ごめんなさい‥」
自分のせいだと思って、しょげ返るモモに、
「ううん、モモちゃんのせいじゃないよ、私がぼーっとしてたから‥」
『カルボナーラ炭焼き人風』が『炭風味のカルボナーラ』になっちゃった‥、なんて、ガックリと肩を落とし、菜摘さんは苦笑した。
「うう‥、また作り直さなきゃ‥」
あんまり話す機会が無かったから、ずっと普通の人だと思ってたけれど、菜摘さんも菜摘さんで、それなりにプー荘に『相応しい』人なんだなぁって、真依は変な意味で関心してしまったのであった。
「はい、次〜」
今度は菜摘さんの部屋の隣、真依の部屋の前で、みゆきちゃんが立ち止まった。
「ここが真依ちんとモモちゃんの愛の巣になる二〇二号室です‥って、いだだだ〜〜!」
真依は、みゆきちゃんの両頬を、ギリギリと音がしそうなくらいつねり上げた
「な・に・を・い・う」
ギロっと睨みつけながら、低い声。
「痛ったいなぁ、もう、真依ちんは冗談通じないんだから」
「それが分かってるんなら、そんな事言わなきゃいいでしょーが!」
「あはは、照れちゃって、もー、真依ちん可愛い」
「‥‥‥」
無言でもう一度頬をちぎれそうなくらいつねってあげた。
「だだだ、ごめんなざい〜〜〜」
廊下でそんな事をやっていると、
「ねーねー、なにやってるのぉ?」
モモの肩の上に、後ろからひょこっと、モモと同じくらいの背の栗色の髪の女の子が顔をのぞかせた。
「わっ」
いきなりで驚いたのか、びくっとして、心臓の辺りを押さえながら、目をパチパチさせてるモモ。
「ナーノ、ちょうど良かった。新入りちゃんだよ」
みゆきちゃんが『ナーノ』の腕を引っ張って、モモの正面に据えた。
「こちら、二〇三号室のナーノ、本名は‥えーと‥なんだっけ?」
「えっとねぇ‥‥‥」
唇に人差し指の先を当てて、首をかしげるナーノ。
「あれ?なんだっけ?」
「こらこら」
「にゃは、冗談だよん。雪村那々乃と申しまする。『ナーノ』って呼んでね、えっと‥」
「あ、倉内桃名‥です。よろしくお願いします」
ゴツンッ!!
「わっ」
火花が散りそうなくらい大きな音を立てて、モモのおデコがナーノのおデコを直撃した。
「ご、ごめんなさいっ」
あんまり物凄い音に自分でもびっくりしたのか、涙目になりながら、あわてて謝るモモ。
だけど、ヘッドバッドをくらったナーノはといえば、
「あは、あはははははははははははは」
よっぽど可笑しかったのか、それとも衝撃で本当におかしくなってしまったのか、壊れたオモチャみたいに笑い出してしまった。
「モモ‥あんた、何回同じ事すれば気が済むの」
「‥ごめんなさい‥」
真依の呆れ顔に、今にも泣き出してしまいそうな様子でしょげ返るモモ。
「あはははははははは」
「ナーノもいつまでも笑ってるんじゃないの」
真依のウェストに後ろから抱き付いて、バカみたいに笑い続けてるナーノの頭をコツンと小突く。と、
「むぅー」
今度は急にスイッチが切れたみたいに笑うのをやめて、まじまじとモモの姿を観察し始めた。
そして、何を思ったのか、
「ちょっと来て」
言うが早いか、モモの手を引いて自分の部屋の中に連れて行ってしまった。
「ちょ、ちょっと‥」
あわてる真依に、みゆきちゃんが笑う。
「だいじょぶだいじょぶ、いつものアレだよ」
「アレって‥、‥‥アレ?」
そういえば、真依も引っ越してきて早々に、アレの洗礼を受けてしまった記憶がある。
アレというのは、その‥、なんというか‥。
「おまたせー」
ほんの数分も経たないうちに、ナーノの部屋のドアが開いて、ナーノと、もう一人、見覚えの無い格好をした少女が現れた。
「え‥‥」
真依はポカンと口を開けて、一瞬言葉を失ってしまった。
いや、目の前に出てきた少女は、間違いなくモモなんだけど、さっきまでのモモとは見違えるくらいに印象が変わってて、なんていうか、その‥、正直、見とれてしまうくらいに可愛かった。
さっきまで着てた薄汚れた服はどこかに消えてしまって、パリッと糊の効いた真っ白いシャツに、白と黒と桃色の変形チェック柄のネクタイ、その上に丈の長いゆったりとしたグレーチェックのネルシャツをコートみたいに羽織っていて、下は膝上丈のちょっと変わったデザインのシンプルな黒いスカートに、白のハイソックスを履いていた。
髪も、さっきまでの無造作なセミロングを、きちんと梳かして、後ろの高めの位置で二つに分けて、リボンでゆるく束ねてあった。
「わお、すっごい可愛くなってるじゃん。さっすがナーノ」
そう、アレというのは、コレの事なのだ。
ナーノは服やアクセサリーを作って女の子のスタイリングをするのが三度の飯よりも好きって断言して憚らない子なのである。
真依も初めて会った時に強引に部屋に連れ込まれて、抵抗する暇も無く着換えさせられてしまった苦々しい思い出がある‥。
「えへへー、可愛いでしょー? 着せててボクも嬉しくなっちゃった」
幸せそうに声を弾ませるナーノ。
「あ、あの‥」
いったい自分の身に何が起きたのか理解出来ずに、モモが不安そうに真依を見た。
「ほら、真依ちんも可愛いって言ってあげなよ」
「ばっ、ばか、なんで‥そんな‥」
真依がモゴモゴと口の中で言ってると、みゆきちゃんがモモの耳元で、真依に聞こえよがしに囁いた。
「見てごらんモモちゃん、モモちゃんがあんまり可愛いから真依ちん困っちゃってるよ」
「え‥」
「だから!誰もそんな事言ってないでしょ」
プイッと顔を背けて口を尖らせる真依。
「‥うん」
そんな真依をどう思ったのか、モモがうつむいて小さく呟いた。
「いーじゃん、可愛いものは可愛いんだからさー」
ナーノがほっぺたを膨らませて真依を睨む。
それから、モモを振り向くと、一気に表情を崩してニコっと笑った。
「モモちゃんはボクとほとんど同じサイズだから、ボクの服で着たいのがあったらどれでも好きに着てくれると嬉しいな」
あ、でも、モモちゃんの方がカップサイズは少し大きいかなぁ‥、なんて、ちょっと悔しそうに呟く。
そんなナーノに、みゆきちゃんが笑いながら言った。
「え? ナーノはカップなんかどこにも無いじゃん」
「あ、そっかぁ‥」
のん気に笑い声を上げそうになったナーノだったけれど、
「‥って、こらぁーーー!!」
一瞬遅れて、言われた事の意味に気付き、両手を振り回してみゆきちゃんを追い回し始めた。
ドタドタと音を立てて、狭い廊下を駈け回り、階段を降りて下に行ったかと思えば、また上がってきたり、まさしく上へ下への大騒ぎ。
ホント、二人ともまるで子供みたい‥。
真依は、はぁ‥、と、疲れたようなため息を洩らした。
隣をちらりとうかがうと、モモがじっと真依を見ていた。
黒目がちなその瞳に、廊下の蛍光灯の明かりが映って、とても綺麗だった。
何度、目が合っても、その度にドキリとさせられてしまうのは、どうしてなんだろう‥。
目が合っても、ただじっと見つめてくるモモに、なんだか気恥ずかしくなってしまって、真依が先に視線を逸らした。
「‥可愛い」
「え‥?」
モモが、びっくりしたような顔で真依を見た。
だけど、真依だって、ふいに自分の口から飛び出した言葉が信じられなくて、手で口元を押さえて呆然としてしまった。
「‥真依ちゃん‥」
どうしていいのか分からないって様子で、モモがもじもじと真依のスウェットの袖にそっと触れた。
そっと目だけ動かして隣を見ると、モモはうつむいて顔を真っ赤にしてる。
その様子がまた可愛くて、真依の方も、もうどうしていいのか分からなくなってしまった。
「あー、真依ちん、モモちゃん泣かせてるー」
「わっ」
いつの間に戻ってきたのか、みゆきちゃんが真依の後ろにひょこっと姿を現した。
「あ、‥あの、わたし、泣いてないです」
あわててモモがみゆきちゃんに言った。
「うん、知ってるよ」
「え‥」
あっけらかんと言うみゆきちゃんに、ポカンと口を開けるモモ。
んー、モモちゃんも冗談が通じないタイプだねぇ、なんて、しみじみと呟いてるみゆきちゃん。
「あれ? ナーノは?」
真依が気が付いて訊ねた。
「ハーゲンダッツのクッキー&クリームで許してもらった。今あたしの部屋で食べてる」
「あはは‥」
なるほど、ナーノが機嫌損ねた時にはアイスクリームが効果的らしい。
「それじゃ、最後の部屋いきましょか?」
そう言うと、みゆきちゃんは二階の左端の部屋の前に立った。
スカートのポケットから鍵を取り出してドアを開けると、二人を玄関に残して、先に部屋に上がり込み、部屋の真ん中にぶらさがっている蛍光灯の紐をカチッと引っ張った。
柔らかな昼白色の蛍光灯の明かりの下に、畳が八枚‥つまり、八畳の和室が現れる。
「ここは談話室。まあ、つまりダベリ場ですな」
真依とモモも、靴を脱いで畳の上に上がった。
この部屋も、もともとは真依の部屋と同じ赤茶けて渋く光る木の床だったらしいんだけど、畳でゴロゴロしたい!っていう管理人みゆき様のご希望で、わざわざ和室にリフォームしてしまったって話を、前に菜摘さんから聞いた事があった。
元々、人が住むために作られたわけじゃないので、お風呂もトイレも付いていない。
その代わり、見事なまでに和室にミスマッチな洋風のキッチンの設備は、驚くほど贅沢に整っていて、自分の部屋には電子レンジもオーブンも無い真依は、何度かここの物を使わせてもらった事があった。
「真依ちんは、いつもバイトに出かける前にTVの天気予報を見に来るだけで、あんまり遊びに来てくれないんだけど、朝と夜は大抵誰かいるから、暇な時には遊びに来てね」
出来れば真依ちんも一緒に連れてね、と、みゆきちゃんはモモにウィンクした。
元々あまりTVを見ないうえに、TVを買う余裕なんて有るわけも無い真依の部屋にはTVが無い。
だから、バイトに行く仕度をして部屋を出た後、談話室に立ち寄って天気予報をチェックしてからアパートを出るのが、真依の習慣になっていた。
「設備はいろいろ揃ってるから、好きに使っていいよ。TVにミニコンポにゲーム機にパソコン。インターネットも繋いであるし、もちろんビデオデッキもあるよ」
そう言うと、TVとビデオ共有のリモコンを手にとって、ピッピッと適当にボタンを押してみせるみゆきちゃん。
すると、偶然なのか、意図してそうしたのか、TVの画面がパチッと点いて、ブラウン管に良く見覚えのある番組の映像が映った。
真依が朝八時からのパン屋のバイトに行く前に必ず見るニュース番組の映像だ。
あれ‥? でも、今、何時?
「これ‥、朝のニュース番組だよね?」
みゆきちゃんに訊ねながら、ビデオデッキのデジタル時計に目を遣ると、ちょうど午後八時半になった所だった。
「うん、そうだねぇ」
みゆきちゃんの声に、TVから流れる女性アナウンサーの声が重なった。
『今日の東京の降水確率は午前午後ともに0%です』
(え‥?!)
「ちょ、ちょっと待って、なに、これ?!」
「へ?」
すっとぼけた声を出すみゆきちゃん。
「あ、これ? この間、特集で美味しいラーメン屋の紹介してたから録画しておいたの」
録画‥‥‥って‥。
そ、それじゃ、あたしが今朝見た天気予報は‥。
「みゆきー!! あんた絶対、今日雨になるって知ってて、わざとあたしにこれ見せたんでしょ!!」
真依は、みゆきちゃんの服の襟元を掴んで、首がもげそうなくらいガクガクと激しく揺さ振った。
「ひ、ひどい‥、真依ちん、あたしがそんな事すると思ってるのね‥」
およよ‥、と、白々し過ぎる泣き真似に、
「思ってる!!」
ゴゴゴ‥。
真依の殺気を帯びたオーラが、ゆらゆらと揺らめいた。
覚悟は良いでしょうねぇ、とばかりに、バキボキと音を立てて指を鳴らす。
「モモちゃん、見ての通り真依ちんは怒りっぽいから気をつけてね」
まるで他人事のように、人指し指を立ててモモに解説してくれるみゆきちゃん。
「いつもあんたが怒らせてるんでしょうが!」
「いーじゃん、だって、傘持ってなかったおかげでモモちゃんと知り合えたんでしょ?」
「それとこれとは話が別!!」
真依は目を据わらせてみゆきちゃんに詰め寄った。
これは、クッキー&クリームくらいじゃ許してあげないんだからーー!!
「あ、あの‥、わたし‥‥」
みゆきちゃんの部屋の冷蔵庫から真依が好きなバニラと、モモの希望のストロベリーのハーゲンダッツを強奪して、二人で真依の部屋に戻ると、モモが何か言いたそうに、おどおどと口を開いた。
「いいよ」
「え‥?」
「モモがこの部屋を嫌になるまでは、ここに居てもいいよ」
「あ‥」
真依の言葉に安心したのか、モモは急に緊張が解けたようにペタリと床に座り込んでしまった。
そんなモモの前にしゃがみ、視線を合わせて髪をそっと撫でてあげながら、真依が優しく言い聞かせるように言った。
「だけど、二つだけ約束‥。まず一つは、自分の事には自分で責任を持つこと」
「はい‥」
「二つめは、他人に必要以上に干渉しない事。モモもそうだと思うけど、みんな多かれ少なかれ事情があってここに居るわけだから、余計な詮索はしないのがお約束」
モモはじっと真依の目を見て、真依の言葉に耳を傾けていた。
「分かった?」
「はい」
「よろしい」
真依はモモの頭をポンっと撫でて立ち上がった。
「それじゃ、アイスは後にしてそろそろ寝よっか?」
真依は、実の所まだ全然眠くなかったのだけれど、先ほどから、勝手に落ちてくる瞼を一生懸命持ち上げようとしてるモモの様子に気付いていた。
モモがいつから『家が無くなってしまった』のかは分からなかったけれど、疲れている様子なのは分かっていたから、モモには何よりもまずゆっくり休んでもらいたかった。
「先にお風呂入っちゃって良いよ。お湯貯めながら入っちゃっていいから。あたしは料理の途中だったから、そっちの続きしないと」
「‥はい」
「着換えは持ってる?」
「あの‥下着だけ‥」
「んー、それじゃ、あたしの寝巻き用のスウェットでいい? 嫌だったらナーノの部屋行けば何かもらえると思うけど‥」
「う、ううん。あ‥あの、真依ちゃんのが‥いいな‥」
嬉しいような、ちょっと困ったような、複雑な表情で頬を染めるモモ。
そんなモモの表情が、どうしてか嬉しくて、ドキドキしてしまって、真依はそっけなく顔を背けて、ついつい事務的な口調になってしまう。
「だ、脱衣室の棚に置いてあるのなら、どれ着てもいいよ。バスタオルも、好きなの使っちゃって良いから」
「うん‥ありがとう‥」
モモは、じっと真依を見つめて嬉しそうに瞳を細めた。
「ん、いいから早く入ってきなさい」
「はい‥」
小さくうなずくと、モモは自分のナップサックの中から歯磨きセットと換えの下着を取り出して、とてとてと脱衣室に入って行った。
モモがお風呂に入ってる間に、真依はお隣の菜摘さんに昆布ダシの素を分けてもらっておでんの仕込みを終え、それと同時に明日のバイトに持っていくお弁当の準備をした。
研いで炊飯器にタイマーセットしたお米は、もちろんモモと二人分だ。
一人で食べるつもりで作ったおでんだったけれど、冷蔵庫にしまっておいて三日は食べるつもりで作っていたから、モモと二人で食べるにしても、量の心配は無かった。
そういえば‥、モモは好き嫌いとかあるのかな?
食べられない物があるのなら、早目に訊いておかないといけない。
何が得意で、何が苦手なのかも訊いておかないと、家事の分担が上手く出来ないだろうし、趣味の話も少しは訊いておきたかった。
モモの事を、少しずつでも良いから、もっともっと沢山知りたいと思った。
「お風呂あがりました‥」
体中からほんのりと湯気を上げて、だぶだぶのスウェット姿でモモが脱衣室のドアを開けた。
そのスウェットからのぞく胸元と、薄桃色に火照った頬が、また真依の心臓をドキリと跳ね上げさせる。
「あの‥」
じっと見られて、ますます頬を赤く染めるモモにつられて、まだお風呂に入っていない真依まで、のぼせたように頬が熱くなってしまった。
「あ、‥と、それじゃあたしもお風呂入るね。モモは眠かったら先に寝ちゃってもいいよ」
照れ隠しのように早口でまくしたてる真依。でもモモは微笑みながら答えた。
「いえ、待ってます」
「そう? でも、TVも無いし、暇でしょ?」
「あ‥、わたし、あんまりTVは見ないんです。本を読む方が好きだから‥」
そう言うと、モモは自分のナップサックの中から、一冊の文庫本を取り出した。
「あたしもTVはダメ、見てると何だか疲れちゃって。だから部屋にいる時は本ばっかり読んでるんだ」
「わ、一緒‥」
「うん、一緒だね」
なんだか、そんな小さな事まで嬉しくて、真依は胸が高鳴るのを押さえられなかった。
「あ‥」
急にモモが声を洩らした。
「ん、なに?」
「お風呂冷めちゃう‥」
「あは、そうだね」
真依は苦笑しながらうなずいた。
モモの会話のテンポをだんだん自然に感じられるようになってる自分が、なんだか少し可笑しくて、たくさん嬉しかった。
「それじゃお風呂入ってくるから、眠かったらホント無理しないで寝ちゃってね。ベッドでもソファーでも、好きな方使っていいから」
「あ‥、わたし、ソファーでいいです」
「そう? それじゃ、布団はどうしよっか‥」
真依のベッドには安物の羽毛掛け布団が一枚と、毛布が一枚しか無かった。
「んー、それじゃ、あたしは毛布だけで大丈夫だから、モモが布団使って」
「だめっ」
「え‥」
初めて聞くモモの拒絶の声に、真依は驚いて口を開けたまま、ぼぉっとモモを眺めてしまった。だけど、
「だめです、わたし、見た目より丈夫なんです、だから‥」
そんなモモの言葉に頬を緩めさせられてしまった。
「‥ん、分かった。それじゃ、寒くないように少しだけ暖房付けるね」
「うん‥、ありがとう、真依ちゃん‥」
真依がいつもより少し早目にお風呂から上がり、バスタオルで髪を拭いながら脱衣室を出ると、モモはソファーに腰掛けて文庫本を読みながら、約束通りまだ起きていてくれた。
それから、少しだけ他愛も無いおしゃべりをしたけれど、すぐにモモの目がとろんとしてきたので、真依は、まだ平気だと子供のように唇を尖らせるモモを、そっとソファーに寝かし付け、ベッドから持ってきた毛布を首の下までしっかりと掛けてあげた。
「‥‥」
黒目がちの瞳を眠たそうに細めながら、モモがじ‥っと真依の目を見上げた。
「なに?」
「あ‥、あの」
もごもご‥と、恥ずかしそうに何か呟くモモ。それから、意を決したようにコクンと小さく喉を鳴らし、真依を真っ直ぐに見て微笑みながら言った。
「お、おやすみなさい‥真依ちゃん」
「うん‥、おやすみ」
真依は、モモの額にかかった前髪をそっと撫で付けてあげてから、パチっと部屋の明かりを消して、自分もベッドに潜り込んだ。
愛用の大きな縦長の抱き枕を抱きしめて、ゴロンと横になる。
今日は何だかいろいろあって、真依もちょっと疲れていた。
だから、きっとすぐに眠れる‥、そう思っていたのだ。
なのに、どういうわけか、いつまで経っても眠りは真依の元を訪れてくれなかった。
どうしよう‥‥。
このままベッドで目を閉じていても、なんだか眠れそうな気がしなかった。
ダイニングの明かりだけ付けて、読みかけの文庫本でも読もうかな‥。
そう思って、そっとベッドから身を起こそうとした、その時。
『ドスン!』
すぐ傍で何か大きな物が床に落ちるような鈍い音が聴こえた。
何事かと思って、あわてて飛び起き、パチっと部屋の明かりを点ける。すると‥。
「うわ‥」
テーブルとソファーの間の床の上に、うつ伏せに寝そべるモモの姿‥。
その位置と姿勢からすると、寝返りを打った拍子にソファーから落ちてしまったようだ。
しかも、あんなに派手な音を立てておきながら、本人は床の上で気持ち良さように寝息を立てている。
どうやら、一度熟睡すると滅多な事では起きないタイプみたいだ。
「しょうがないなぁ‥」
さすがに、朝まで冷たい木の床の上に寝かせておくわけにもいかない。
真依はテーブルをダイニングの方へ少し押しやり、モモの体を転がして仰向けに戻すと、背中と膝の裏側に手を差し入れ、よっこらしょっと持ち上げて、そっとソファーの上にモモを寝かせた。
モモの細い躯は、想像していた以上に軽くて、力んで持ち上げようとした真依が思わず拍子抜けしてしまうほどだった。
安心しきったようなモモの寝顔を見ながら、毛布をモモの体にそっと掛け直すと、真依はもう一度部屋の明かりを消し、今度はベッドに戻らずにダイニングへと向かった。
キッチンの明かりだけを付けて、ダイニングのテーブルで読みかけの文庫本を開く。
けれど、どういうわけか今日に限って、なかなか文章に集中出来なかった。
(‥‥‥だめだ‥)
いくらページをめくっても、何にも頭に入って来ない。
真依は早々に諦めて、眉をひそめながら文庫本をパタリと閉じた。
元々、真依はあまり寝付きが良い方では無かった。
明かりを消して布団に入ってからも、いろんな考えが次から次へと浮かんで来てしまって、二、三時間眠りにつけないなんてのはよくある事だった。
それも、そんな時に浮かぶ事なんて、ロクな物じゃない。
大抵は嫌な思い出や、失敗した出来事への後悔。
あの時こうしておけば良かった‥、とか、どうしてあんな事を言ってしまったんだろう‥とか、そんなのばっかり‥。
そのうえ、最近は、生活や将来への不安まで頭の中を駈け巡ってしまって、何時間も布団の中で呻吟する事も珍しくは無かった。
真依はテーブルに突っ伏して、顔をテーブルに載せたまま、ソファーで心地良さげに寝息を立ててるモモを恨めしげに眺めた。
と、そんな真依の目の前で、モモが急にコロンと寝返りを打った。
(え‥?!)
『ドスン!!』
鈍い音を立てながら床に転げ落ちるモモ。
「わっ?!」
真依はあわてて駈け寄ると、床に膝をついてモモの顔を覗き込んだ。
一回目よりも豪快な音だったし、モロに頭から落ちてしまったように見えた。
なのに、モモは安心しきったような顔で、すやすやと寝息を立てている。
「モモ‥」
真依は、呆れて、ふーっと大きなため息をついた。
起きてる時は気弱そうなくせに、一度熟睡したらこんなに図太くなるなんて想像もしなかった。
でも、なんにしても、ソファーなんかじゃ、モモの寝相には耐え切れないって事は判明してしまった。
真依は仕方なく自分のベッドにモモを担ぎ上げると、自分はソファーで眠る事にした。
寝相が悪いといっても、さすがにベッドから落ちるほどでは無いだろう。
もう一度キッチンと部屋の明かりを消すと、真依は毛布を被ってソファーに横になった。
ソファーにも、毛布にも、まだほんのりとモモの体温が残っていて、真依はそれだけで自然と心が安らいで行くような、不思議な気持ちになった。
ほのかに甘い、やさしい匂いがする‥。
これがモモの匂いなのかな‥。
(ん‥、なんだか眠れそう‥)
そう思って、毛布を首の上まで引っ張り上げた瞬間だった。
『ズダーン!!』
物凄い音が床に響いた。
「なにっ?!」
あわてて跳ね起き、壁に手を這わせて照明のスイッチを押した。
二、三度点滅してから点いた蛍光灯の明かりの下に、信じられないような光景が照らし出された。
「‥‥‥」
一瞬、絶句して立ち尽くした真依。だけど、
「‥‥ぷっ」
笑っちゃいけないと思いつつも、吹き出さずにはいられなかった。
だって、モモったら、下半身をベッドの上に残したまま、顔面から床に垂直に落ちてるんだもん。
「ちょっと、大丈夫?」
笑いを堪えながらモモの傍にしゃがんで、真依は様子をうかがった。
よっぽどすごい勢いで床と正面衝突したらしく、モモのおデコと鼻の頭は見事なくらい真っ赤になっていた。
幸い鼻血は出ていないようだったけど、それにしても、この状態でもまだ平気な顔して寝ていられるモモには、呆れるを通り越して、もう感心するしかなかった。
でも‥、これで起きないとなると、もし熟睡してる時に火事にでもなったら、まず確実に眠ったまま昇天してしまうに違いない。
(こわ‥)
真依は、これからは今まで以上に火の後始末には注意しようと、心から思った。
と、まぁ、それはそれとして、今、問題なのはモモの寝場所だ。
一体どうしたものだろう‥。
諦めて、このまま床に寝させた方がモモの身のためのような気もするけど、こんな冷たくて堅い床に寝させるのは、やっぱり絶対に嫌だ。
(あ‥、そうか‥)
真依は閃いた。
モモの安全な睡眠を確保できる確実な方法。
真依は、ずり落ちていたモモの体を持ち上げてベッドに戻すと、壁とベッドの間の隙間が無くなるように、ベッドを押して壁際にぴったりとくっつけた。
それから、モモの体をゴロリと転がしてベッドの左、壁際の方に寝かせ、普通の枕のようにベッドの端に置いた抱き枕の左半分にモモの頭をそっと載せる。
そして、もう一度部屋の照明を落とすと、ベッドの余ったスペースに自分が潜り込み、抱き枕の右半分に顔をうずめた。
真依は寝付きは悪かったけれど、寝相の良さなら折り紙付きだ。
ベッドから落ちた事なんて一度も無かったし、寝た時の位置と起きた時の位置が違う事すら滅多になかった。
つまり、真依の体がベッドの転落防止柵代わりってわけだ。
さすがに、人一人の体を乗り越えてまでベッドから落ちれるほど、モモの寝相が超人的だとは思えなかったし、これで落ちるとしたら、もう真依にはどうしようもない。
それに、いずれにしてもモモが自分のベッド(絶対に柵付き)を手に入れるまでの非常手段。
さすがにシングルベッドに二人は少し狭かったけれど、真依もモモも標準体型よりだいぶ細かったおかげで、息苦しいって程ではなかった。
手足を思い切り伸ばすのは無理だとしても、寝返りくらいなら普通に打てたし、熟睡してるモモがどう感じているのかは分からなかったけど、少なくても真依にとっては少しも不快ではなかった。
(‥あったかい‥)
こんな不思議な心地良さ、生まれて初めてのような気がした。
モモが真依の方に小さくコロンと寝返りを打った。
モモの小さな手が真依の肩に触れ、やわらかな太ももの感触がスウェットの布地越しに伝わって来る。
モモの寝息が頬を微かにくすぐるのが気持ちよくて、真依は瞳を閉じたまま少しだけ頬を緩めた。
ほんのりと微かに甘い匂いがする‥。
甘くて、やさしい匂い。
真依と同じシャンプーとボディソープを使ったはずなのに、どうしてモモはこんなに良い匂いがするんだろう‥。
ぼんやりとした心地良い眠気の中で、真依はだんだん何も考えられなくなって行った。
やわらかくて‥甘くて‥あったかい‥。
不思議な感覚と安心に包まれて、いつの間にか真依には深い眠りが訪れていた。