体調不良
「……三十八度、完全に風邪ね。夏風邪はバカがひくっていうけど……逆に勉強をしすぎたせいかしらね?」
温度計を確認した後、悟の額に手を当てながら、悟の母が呟いた。
悟は一週間前まで、毎日のように朝から夕方まで遊びに出かけていたが、ここ最近は鬼気迫るような勢いで勉強に明け暮れていた。
普段は勉強しろと言ってもしないのに、どういう風の吹き回しかと悟の母も不思議に思っていたのだが、病気になったとなれば無理をさせる訳にもいかない。
「しばらくは安静にしてなさい」
悟の母はそう言うと、彼の部屋を後にした。
「……こんなときに風邪かぁ……」
今日は約束の一週間目だ。
悟にとっては久しぶりにミスティア戦記の続きが見られる日で、この日の為に全ての宿題を終わらせていたのだ。
「黙って出て行こうかな……」
そんな考えが頭をよぎるが、すぐに却下する。
そんなことをすれば親になんて言われるか分からないし、万全の体調でなければミスティア戦記を楽しめないのではないかという思いもあったからだ。
「折角頑張ったのに……」
まるで波打ち際に作った砂の城が波にさらわれてしまったかのように、悟は今までの努力の全てが失われてしまったかのような気持ちを抱いた。
「どうしよう……順爺に今日は行けないって伝えないと……」
とは思うが、順爺に対する連絡手段はない。
悟は彼の家の電話番号すら――いや、悟は順爺のことを一切知らないのだ。
彼のフルネームも、好きな食べ物も、どんな人生を送っていたのかも……間接的にはミスティア戦記から知ることができるが、その全てが本当のことかは分からない。
(順爺は俺のことを、どう思っているんだろう)
ふとそんな考えが悟の頭をよぎる。
悟は今頃になって順爺と対話したことがなかったに気づいた。
悟はミスティア戦記に描かれている内容を見ることで、順爺のことを一方的に知ったような気になっていたが、「自分自身は今まで彼に自分のことを伝えようとしただろうか?」と疑問に思う。
今にして思えば、最初に会ったときだって、とてもじゃないが良い印象を与えた覚えはない。
悟は不法侵入をして、順爺の家から逃げ出したのだ。
それだけ聞けば、悟はただの小悪党である。
(もし今日行かなければ、もしかしたら順爺は僕に愛想をつかすんじゃ……)
病気のせいで弱気になっているのか、悟の思考はどんどん落ち込んでいき、もうじっと待っていることなんてできなくなってしまっていた。
「行かなきゃ……順爺のとこに……!」
ただ「風邪をひいたからミスティア戦記を見ることができない」と言いに行くだけだ。
母親に見つからない内に戻ってくれば、怒られることもない。
そう自身へと言い聞かせて、悟は起き上がる。
ぐらりと揺れる視界の中で、とりあえず服を着替える。
病人にとってはそれだけで重労働だ。呼吸の間隔が短くなり、浅い呼吸を何度も繰り返す。
着替え終え、少しだけ休憩した後、鈍い痛みを発し続けている頭を抱えながら、自身の部屋を後にする。
静かに外に出ると、うだるような暑さを一身に受け、フラフラとバランスを崩しながら、一歩、また一歩と順爺の家へと近付いていく。
何度も倒れそうになりながら、塀伝いに道を進んでいくと、やっとのことで順爺の家が見えてきた。
いつもは五分程度の道のりなのに、今の悟にとっては東京から大阪間よりも遠く感じていた。
「やっと……着いた……!」
悟はいつものようにガラガラと引き戸を開ける。
いつもは何も感じないのに、今はその音すら悟にとってはわずらわしく感じられた。
大きな声を出すことすら辛いので、心の中で順爺に謝罪しながら、家の中を這いつくばって進んでいく。
最早立っていることすら彼には辛いのだ。
順爺に伝えなければ……その一心で彼はどんどん進んでいく。
唐突にガラガラとどこかの引き戸が開く。
悟にもその音は聞こえていたようだ。
(……?)
悟はどこの扉が開いたのかと周りを見渡すが、胴上げをされているかのような浮遊感を感じて視界が定まらない。
(良かった……)
しかし、この家にいるのは順爺だけだと思い至ると、悟は自身の目的を達したような気分になり、満足して意識を手放した。
体が振りまわされるような感覚の中、悟は誰かが必死に呼び掛けて、体を揺さぶっているのを感じた。
しかし、そんな行動に全く意味はなく、海に沈んでいく石のように、悟の意識はゆっくりと深いところに落ちていく。
それからしばらくの間、悟の意識が戻ることはなかった。
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