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思い出した喜び

 悟は走って家へと逃げ帰った。

 どこをどう走ったかは覚えていない。

 順爺は追いかけてなどいなかったのだが、悟自身が何かに追われているような不安を覚え、直接家に帰ることができなかったのだ。

 そして家に着いたのも束の間、彼は新しい問題にぶち当たっていた。


「やっべえ……どうしよう……」


 悟は今日二度目の台詞を呟いた。

 一度目はボールを順爺の家に入れてしまった為に、そして二度目は、順爺の家から紙束を持ちだしてしまった為に出た言葉だ。

 とりあえず紙束の存在に気づいた後、悟は自身の部屋に戻ったのだが、問題は何も解決していない。


「これどうするんだよ……絶対怒鳴られるじゃん……!」


 どうもこうもない。

 悟に残された選択は、紙束を返すか返さないかだけだ。


「もういっそのこと、闇に葬ってしまおうか……」


 順爺は近所の有名人であるが、悟はただの近所に住む子どもだ。

 順爺が悟のことを知らない可能性は大いにある。

 このまま何も言いださず、紙束を隠し通しておけば、知らぬ存ぜぬを貫き通すこともできそうである。


「そもそもこの紙束って何なんだ? 結局さっきは中身を見そびれちゃったけど……」


 悟はこの紙束が妙に気になっていた。

 まるで魔力とでも呼ぶべき何らかの超常的な力が働いて、自身を突き動かしていたとさえ感じているようだ。

 そんな、他人に伝えることが難しい感覚的な思いは、今も活きているようで、無意識の内に悟は紙束をめくり始める。


「『ミスティア戦記』?」


 一枚めくると、紙にはデカデカとした文字でそう書かれていた。

 小説好きならば、何らかのタイトルであろうということくらいは予想できたであろうが、悟は生粋の読書嫌いだった。

 彼の読む本といえば、週刊の少年漫画や国語の教科書くらいであり、ライトノベルや小説サイトなどは存在すら知らない。

 だからこそ何の偏見もなく、次のページを開いていく。


「うわ……文字だらけだよ」


 しかしその純粋な視点も、読書嫌いの彼が次のページにびっしりと書かれた文字を見れば、それだけで苦手意識へと代わる。

 読書嫌いにとって、トウモロコシのように整然と並んでいる文字は、見るだけでアレルギー反応のようなモノを起こす。


 意味もなくイライラしたり、猛烈な睡魔に襲われたりと体にも悪影響を及ぼす可能性すらあるのだ。

 だから、真の読書嫌いであるのなら、悟はここでその紙束を手放すべきだった。

 しかし、彼は自身が誤って持ってきてしまったモノに対する、礼儀とでもいうべき感情が湧きあがっていたのだ。


 このままこれをなかったことにするのは簡単なことだ。

 だが、これが『あのおじいさんにとってはとても価値があるモノだとしたら……』と考えると、その紙束を無に帰すことが、どうしてもできなくなってしまったのだ。


「少しだけ……読んでみるか……」


 悟はチカチカする視界に晒されながら、冒頭を読み進める。


 紙束に描かれていたのは、世にいう異世界転生のテンプレ作品で、小説家になろうでソレ系統の作品を漁っている人からすれば、「どこかで聞いたような話だ」と一笑に付されるようなモノであった。

 しかし、悟にとってはそうではなかった。


 もちろんこういった作品に慣れ親しんでいなかったからという理由もあるが、主人公という絶対的な力を持った存在が、物事を容易に解決していく姿は、彼にとってはまさに壮観だったのだ。


 気づいたときには、紙束は最後のページになっていた。

 悟の心に心地よい読了感と、続きを渇望する熱い飢餓感が去来する。

 異世界の事情に巻き込まれていく主人公と、自身の意の及ばない異世界の魅力に、悟はどっぷりと浸かってしまったのだ。


「続きが……見たい!」


 悟の心に一つの決意が生まれた瞬間であった。






「……よっし!」


 悟は心を落ち着けてインターホンを鳴らす。

 家の中にピンポーンという甲高い音が響き渡るのを微かに感じながら、目的の人物が出てくるのを待つ。


「…………」


 しかし、三十秒ほど経っても誰も出てこない。


「……こうなったら!」


 悟は引き戸をガラガラと横へスライドさせ、そこから顔を突っ込んで、家の中の様子を窺う。

 その空間にはシンとした静けさが漂っており、生命の反応をまるで感じられなかった。


 悟はごくりと自身の唾で喉を潤す。

 彼は今になって、早まった行動をしてしまったような気がして、少しだけ後悔していた。

 だが、ここまで来たなら最後までやるしかない。


「す、すいませーん……! おじいさん、いますかー?」


 やはり返事はないし、誰かが出てくるような雰囲気もない。


(また中に入ってみるしかないかな?)


 悟はそう考え、引き戸を開けて家の中へと体を滑り込ませる。


「なにをしとるんじゃ、お主は?」

「う、うひゃああああぁあぁぁぁ!」


 ふいに後ろからかけられた声に驚き、悟は無様に叫んで、玄関に身を投げ出す。

 悟が振りかえると、順爺は買い物袋を両手に持って、悟を見下ろしていた。

 どうやら順爺は買い物に出かけていたようだ。どおりで悟が呼んでも出てこないはずである。

 悟を見下ろす順爺と順爺を見上げる悟……昨日と同じく、再び時が止まったように二人は見つめ合った。


 今回最初に動いたのは順爺であった。


「お主……もしかして、昨日家に入ってきた子どもか? わしの作……紙束を持っていった……」

「あ、はい、そうです」


 悟は順爺の質問に素直に応える。

 動転していた気が、一周回って冷静になってしまったようだ。


「まさか昨日の今日でくるとはな……」


 順爺は小さな声でポツリと呟く。


(……? どうしたんだろう?)


 悟は順爺の言葉に不自然さを感じた。

 何故かというと、順爺の言葉の裏に悟を責め立てるような感情が一切なく、むしろ残念に思う気持ちが強くにじみ出ていたからだ。

 まるで悟に戻ってきて欲しくなかったかのように。


「それで、お主は何をしにきたんだ?」


 そんな悟にとって不可解な表情を霧散させ、順爺は悟をギロリと睨みつけた。


「あ、えっと、これを……」


 悟は昨日持って帰った紙束を、順爺に恐る恐る差し出す。


「わざわざ返しに来るとはな……。それで? どうしてあの部屋にいたんだ?」


 悟は昨日の出来事をできる限りこと細かに、順爺へと伝え、謝罪する。


「……ごめんなさい」


 殊勝な態度の悟を見て、順爺は一つ溜息を吐いた。


「……なるほどな。分かった、鍵を開けていたわしも悪かったしな。許すから、その紙を置いてとっとと帰れ」


 犬猫を追い払うように、手をヒラヒラさせて順爺は悟を帰らせようとした。


「そ、そんな……! ちょっと待って下さいよ!」


 しかし、悟はこの家に、ただ謝罪をしにきたわけではない。

 確かにそれも目的の一つであることには変わりないが、彼にはもっと重大な要件があったのだ。


「なんだ? まだ何かあるのか? 謝罪の品とかはいらんぞ、子どもがそこまで気を使うことはない」


 順爺は悟が気を使っているのかと思い、そう発言したのだろうが、そんなモノは無論用意してあるはずもない。


「いえ、違います! この続きを……この続きを俺に見せて下さい!」


 悟は紙束を掲げ、自身の抑えきれない気持ちを現すかのように、バンバンとはたく。


「つ、続きを見せろ……?」


 順爺は予想もしていなかった言葉に驚き、ただ悟の言った言葉をオウム返しすることしかできなかった。


「はい!」


 悟はキラキラとした目を順爺に向けながら返事をする。

 順爺の返答が肯定であることを信じて疑っていないようだ。


「何故そのようなことを……」


 順爺には分からなかった。

 その紙束に書かれていたのは、取るに足らないと言われた文章だ。

 海千山千という作品の中にある内の一つ。

 そんなモノの続きを見たいという悟の考えが、順爺には理解不能だったのだ。

 しかし、悟はそんな順爺の考えを「知ったことか!」と言わんばかりに吹き飛ばす。


「面白かったからです! 続きが気になって気になって仕方ないんです!」


 一点の曇りもない悟の瞳と偽りのない言葉に、順爺は自身の心の底から湧きあがってくる熱いモノを感じ取っていた。


「そ、そうか……面白かったか……!」


 最高級の和牛を噛みしめるように、極上のワインを味わうように、順爺は何度も何度も悟の言葉を反芻する。

 快楽を与える脳内麻薬が、順爺の体内で何十年振りかに発生した。

 文章を描く人間にとって、直接言葉で伝えられる称賛は、何物にも変えがたい快楽を生みだすモノだ。

 それが例え、子どものモノであってもだ。


「く、くくくっ、くわっはっはっは! よし、良かろう。お主にわしの冒険譚を見せてやろう!」


 順爺は快楽に身を委ね、心からこみあげてくる笑い声を抑えきれずに漏れださせ、あっさりと悟の提案を受け入れた。


「本当ですか?!」


 悟は飛びかからんばかりの勢いで、順爺との距離を縮めた。

 そこでようやく順爺も少し落ち着きを取り戻すが、先程の言葉を撤回するつもりはない。

 これはいわゆるポーズなのだから。


「ああ、本当だ。だがな……いくつか条件がある」


 本当は条件などつける必要はない。そうするつもりもない。

 だが、順爺は安易に、そして言われるがままに、要求を受け入れれることを、ただ単純に許容できなかっただけなのだから。


「条件……ですか?」


 順爺は無言でうなずき、右手を悟の方に突き出して人差し指を立てる

 悟はどんな難題を突きつけられるのかと緊張し、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「まず一つ。読んだ感想をキチンとわしに言うこと。あとそうだな……その感想はどこか分かりやすい所に書いておくこと」


 次に順爺は中指を立てた。


「二つ目。お主はまだ子供だ。余計な気を使わないで、普段通りの言葉を使うこと。そして最後は……」


 順爺は薬指を立てて、ニヤリと口角を上げただけの男らしい微笑みを悟に向ける。


「……お主の名を教えることだ。できるか?」


 順爺の条件が頭に浸透していくにつれ、悟の表情も喜びへと変わっていく。


「う、うん! できるよ!」

「そうか。ならお主の名は?」

「俺の名前は悟です……じゃなくて、悟だ!」

「ああ、それでいい」


 順爺は悟の威勢のいい返答に笑みを深くする。


「あっと……おじいさんのことはなんて呼べばいい?」


 おじいちゃんでは、悟自身の祖父と被ってしまい、少し違和感が生じてしまう。

 できれば特別な愛称があった方が、彼自身呼びやすいと思ったから出た言葉であった。


「そうじゃな……わしのことは順爺とでも呼んでくれ」


 少しだけ考えた後、順爺は自身の呼び名を決めた。

 これこそ『順爺』が誕生した瞬間であった。


「順爺……もしかして、その物語に出てくる勇者ジュンって順爺のこと?!」


 勇者ジュンはミスティア戦記における主人公で、彼の特徴と順爺の接点を感じた悟は思わず尋ねていた。


「……ああ、良く分かったな」

「す、すげえ! じゃあ順爺は異世界から帰ってきたってこと?」

「ああ、そういうことになるな」

「マジか……」


 悟の目に順爺への尊敬の念が宿った。

 順爺はその目を見て、少しだけ後ろめたい気持ちを感じ、無意識に悟から目を逸らしたが、悟は順爺のそんな心の機微には気付かない。


「ねえ順爺! 早く順爺の冒険の話を見せてよ! 俺はその為に来たんだからさ」


 こみ上げる気持ちをこらえ切れなくなり、悟は順爺の服の袖を引っ張って急かす。

 順爺は悟の発言と行動に少し呆れたようだったが、気分を害してはいない。

 自身の話を面白いと言ってくれた喜びが、それほどまでに大きかったということだろう。


「分かった、分かった。こっちの部屋だ、ついて来い」

「うん!」


 順爺の後を、悟が追っていく。

 一歩一歩進んでいく中、悟の頭には、これから見せられるであろう冒険への期待感と、続きへの想像が際限なく膨らんでいくのであった。



 これが少年と老人、二人の出会い。

 こうして二人の不思議な関係が始まった。

 このお話は……過去を引きずるおじいさんと、未来への希望にあふれた子どもの、夢にまつわる物語――

お疲れ様です。読んでいただきありがとうございます。

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