二人の出会い
「やっべえ……どうしよう……」
公園で野球をしていたら、怖いおじいさんの家にボールが入り込む。
昔のアニメならいざ知らず、現代においてこんなことが起こりうるなんてことを、彼らは全く考えていなかった。
危機管理意識が足りないと、大人達は批判しそうだが、当人である子ども達にとってはどうでもいい話だ。
「ど、どうするよ……あの家は、不味いだろ……」
「お、俺のせいじゃないからな! あのボールはお前のなんだから、お前が取りに行けよな!」
「あ、待てよ!」
悟は一目散に逃げていく友人達の背中に呼び掛けるが、彼らは止まることなく去っていく。
伸ばした手が行き場をなくして、高度を下げていく。
「はあ……どうしよ……このまま帰って良いかなぁ?」
呟いては見たが、元からそんな選択肢はない。
あのボールは親に無理を言って買ってもらったモノだった。
母親に「失くしたらもう何も買ってあげないからね!」と言われていた手前、失くしたなどと言ってしまったら、怒られるだけでは済まないことは想像に難くない。
(……別に悪いことをした訳じゃないし、何かが壊れたような音もしなかった……。バレない内に帰れば大丈夫か)
悟は意を決して、近所で偏屈爺さんと呼ばれている人の家へと向かった。
心臓はドクドクとうるさいほどに弾んでいるし、かいている汗は夏の暑さのせいだけではないだろう。
目的地が近づくにつれ、歩みは遅くなっていく。
おじいさんの家に行きたくないという思いと、おじいさんに見つかりたくないという思いの、両方の意見が上手く重なり合った形だ。
しかし、玄関先にたどり着いて庭先が見えてくると、二つの思いは相反する。
ここまで来たからには早く取りに言った方がいいのではという思いと、やっぱり帰ろうかなという思いが、彼の歩みを止めてしまったのだ。
だがここにいたままでは、やはり偏屈爺さんに見つかってしまう。
悟は大きく深呼吸して、素早く庭先に滑り込んでいく。
(ここら辺にあると思うんだけど……)
せわしなく庭を見渡すが、目的のモノが落ちているようには見えない。
しゃがんでみたり、寝そべって見たりしてみるが、やはり一向に見つかる気配はない。
心にジクジクとした焦りを感じる中、悟がふとおじいさんの家に目を向けると、引き戸が開いているのが見えた。
その隙間はだいたいサッカーボール一つくらいなら通りそうである。
悟の探しているモノは野球ボールだ。ならば確実に通るだろう。
悟はもしやと思い、急いで引き戸に近寄った。目を凝らして家をのぞき見る。
すると、家の中は暗く、最初は何も見えなかったが、目が段々と慣れてくると、悟は丁度座布団の上にボールが鎮座しているのを確認することができた。
「あっぶねぇ……! ドアが開いてなかったら、割れてたかもしれないじゃん……!」
おそらく座布団も、その場になければ家の中を蹂躙していた可能性があるが、悟の頭はそこまで回っていなかった。
早く帰りたい。おじいさんに見つかりたくない。という気持ちが彼の判断を少し鈍らせていたからかもしれない。
「とりあえず……取るだけ、取るだけだから……!」
自身へと言い聞かせながら、悟は乱暴に靴を脱ぎ、ボールと同じようにおじいさんの家へと転がるように入り込んでいく。
(不思議な匂いだな……)
ちなみに、部屋に充満していた香りはイグサである。悟は今まで和室に縁がなかったので分からないようだ。
匂いに少し気を取られつつも、その手に戻ったボールを見つめ、悟は一つ安堵の溜息を吐く。
「よし、後は見つかる前に帰れれば、万事解決だ」
ボールが戻って少し余裕が出たのか、悟は部屋を軽く見渡した。
その部屋は机と座布団が置いてあるだけの殺風景な部屋だった。
机の上には原稿用紙をホッチキスで留めた紙束が、いくつか整然と置かれている。
(なんだろう、これ……)
理由は分からないが、何故か悟はその紙束がとても気になった。早く帰らなければならないはずなのに、彼の心を捉えて離さないのだ。
悟は欲望の赴くままにその紙束を一つ手に取り、片手でページをめくる。
「お主はなにをしとるんだ?」
紙がパラリとめくれた瞬間、悟の背中に声がかかり、その声のする方へ悟は鋭敏な動きで振り向いた。
当然のことではあるが、悟の目に映ったのは、彼自身も何度か見たことがある偏屈爺さん……順爺だった。
彼は少し離れたところで悟を上から見下ろしている。
「…………」
「…………」
しばらく両者は微動だにせず、互いに見つめ合っていたが、先に動いたのは悟だった。
「う、うわあああぁぁああぁぁあ!」
悟は一目散に逃げ出した。
こんなときなのにも関わらず、悟の頭には冷静な部分もあるようで、先程彼を置いて家に帰った友人の姿が自身と重なり、彼らの気持ちが少しだけ理解できたような気がしていた。
「お、おい、待たんか!」
順爺が声をかけるが、悟は止まらない。今の悟には他人の声に耳を貸す余裕など一片たりとも残ってはいなかった。
一目散に自身が侵入してきた引き戸へと向かい、靴に足を滑り込ませて脱兎する。
「待たんかというておるのに……」
悟のいなくなった部屋の中で、順爺は力なく呟いた。
残りの紙束を見つめ直し、順爺は「またつまらん邪魔が入ったな」と文句を口にしたが、内心では安堵していた。
順爺は今から、この――彼にとっての――紙クズ達を処分しようとしていたのだ。
それを邪魔した悟を恨むでもなく、順爺は心の中でポツリと呟いた。
「また先延ばしにできるな」と。
お疲れ様です。
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