竜の予言
闇を払い、黎明の空が音もなく広がって行きます。
窓辺に置かれた椅子の上から夜が明けて行く様を見送っていると、硝子に映り込む自分の姿が目に入りました。
大きくピンと張った三角の耳に、身体を濃い紫色の長毛で覆われた四足の獣。
その姿は、雪に覆われた大地で恐れられる雪原の王者。
山深い地に棲まう獣の知識に長けた者ならば、この獣を紫電雪豹と呼び、近づこうとするような愚か者はいないでしょう。
けれど、この姿はまだ幼獣のそれです。
本来であれば紫電雪豹の成体は2mを超えるものも珍しくなく、20年以上を生きて、幼体のままというのは通常ならばあり得ない事。ですが、わたくしにとっては成長が遅れている事を幸い、と思うべきなのでしょう。
わたくしが成獣の姿になればきっと、もうこの離宮で暮らす事も人間社会の中で生きて行くことも難しくなるのでしょうから。
――その制御しきれぬ魔力の大きさゆえに。
わたくしはティア・ティルグニア。
今日も眠れぬ夜を過ごし、一晩中、夜空を彩る星影を見ていました。
この国の第一王女でありながら、半獣として産まれ落ちたわたくしは、対外的には産まれながらの病弱ゆえに寝室から出る事も出来ずに臥せっている事になっています。
完全なる獣の姿を衆目にさらし、いたずらに民の不安を煽る事は出来ません。そして、その度胸もわたくしは持ち合わせていないのです。
王族としてこの世に生を受けた身でありながら、本来ならば果たすべき責務も果たせない、そんな不甲斐ない自分に落ち込む毎日をずっと過ごしておりました。世界が困窮に喘ぎ苦しむ現状を聞き及びながら、何も出来ずにいたのです。
そのような暗澹とした日々も、終わりを告げようとしています。
一昨日の晩、この国で召喚の儀が執り行われ、一人の若者が召されました。その方こそ、竜によって呪われたこの地を救うため使わされた、我々の希望なのです。
わたくしのような半獣が生まれる事となった始まりは、竜の怒りに触れたためだと聞かされています。
竜の呪いは人間に災いをもたらし、”半獣”という歪な存在を生み出しました。
昨晩わたくしは、計らずもお兄様の召喚なされたアズサ・モリナガ様とお会いすることが叶いました。
お兄様のお話によれば、アズサ様という方は感情表現が豊かな方で、お兄様を前にしても物怖じしない強さをお持ちなのだとか。ですがその反面、暗闇を恐れる繊細な方だとも。
子ども達を慈しみ、育てる事をお仕事とされているとのことでした。
わたくしはその話を伺って、アニヤを思い浮かべました。
実際にお会いしてみて、その予想は少し違ったようだと気付きましたが……。
黒髪黒目のあの方は、見た目相応に幼いところを持ちながらも、自分の意見をはっきりと述べられる意志の強さをお持ちでした。
――救世主。
けれどあの方には、わたくしが思い描いていたほどの特別なところはありませんでした。本当にありふれた成人前のやんちゃな子ども、というのが正直なわたしの意見です。
そしてわたくしは相対して初めて、相手の方にも思いがあるのだと言う事実に改めて気付かされたのです。我が国の思惑のみでこの世界に喚び寄せてしまった事を、深く反省を致しました。
元の世界には大切にするご家族も生活もおありでしたでしょうに。
その時気になったのは、お兄様の反応です。
普段あまり感情を表に出されず、人に関心を持つこともなかったお兄様にしてはアズサ様の事を大変気にされているご様子でした。
今思えば、わたくしがアズサ様の人となりを伺っていた時も、やけに描写が詳しかったように思います。瞳の色やその装い、一番驚かれたのは髪の短さだったとか。
確かにかなり短く整えられた髪型でしたが、わたくしにはそれほど驚くようなことのようには思えませんでした。この国に長髪の男性が多いのは事実ですが、バルドのように短く刈りあげた者もいるのです。それに、アズサ様の活発さを感じさせる清潔感のある髪型は、あの方にとても似合っていましたから。
多少の違和感はあったものの、普段の客観的な視点だけでなくお兄様の主観が入ったお話が楽しくて、あの時は夢中になってしまいました。
我々の救世主となる方ですもの、特別なのは当たり前の事……と違和感をそのままにしたのがわたくしの間違いだったのです。
あの時、しっかりとお兄様を問い詰めておけば、アズサ様を人の機微に疎いバルドとの話し合いの場などへ赴かせずにすんだものを……。
バルドは子どもに対しては驚くほどの寛容さを持ちますが、『子どもはすべて無垢であり、希望のかたまりだと思いこんでいる』とはお兄様の言です。彼は思いこみが激しく、話を独自解釈するきらいがあります。騎士団ではその名を他国にまで轟かせるほどの猛将だというのに。
お兄様は昔からわたくしにはあまり本音を見せないところがおありでした。
それは、わたくしに負い目があるからなのだろう、と悲しい気持ちを抑えて参りました。お兄様はわたくしが半獣に産まれた事をご自分の力が足りなかったせいだと思われている節があります。
それもあって、お兄様をこれ以上苦しませてはならないと自分を諫め、今まではただ黙って受け入れてきたのです。
まさか、アズサ様に禁術を使い、都合が悪いと見るやそれを上書きなさろうと画策していらっしゃったなんて。いくら敬愛するお兄様でも許せる事ではございません。
涙ながらに語るアズサ様からバルドとお兄様のお話を伺って、『これだから男には任せておけない』というアニヤの口癖が実感として初めて理解できたのです。
この世界は先の戦争によって精霊を失いました。
精霊を失った大地は魔力の循環が滞り、瘴気を生むようになりました。その瘴気た植物や大気、あらゆるものを穢れさせ、それによって獣達は狂化。森でしか採れない貴重な薬草なども、次第に効力が低くなっていきました。
そうして、均衡の崩れた自然はあっという間に天変地異を引き起こし、世界を恐慌状態に陥いらせたのです。
天候の異常による農作物の被害から始まった異変は、次第に干ばつや洪水など被害を拡大させていきました。それと同時に地震が頻発し、活火山のみならず休火山であったはずの山々も噴煙を上げ始めました。
その様な中で人々は、藁にもすがる思いだったでしょう。伝承に遺されたものの存在を探し始めたのです。
危機に瀕した各国が自国の伝承を頼りに、国中に触れを出しました。国中から武才のある者、智慧のある者、魔法を使いこなす者など貴賎を問わず募ったのです。
今ではその姿を見た者のない伝説の存在。
その姿は長大な蛇のようであるとも、巨大な翼を持つ蜥蜴のようであるとも伝えられ、予言を告げるように呪いをかけ、天候を操り天変地異を引き起こすとされる”竜”。
その存在を求め、数えきれない者達が世界を駆け回る事となりました。
結論からいえば竜は見つかりました。
驚く事に我がティルグニアの地に竜が降り立ったのだそうです。ですが、竜が見つかったと同時に我々人間は、竜の呪いを受けました。予言と言う名の呪いを。
その当時を知る者はあまり多くを語ろうとはしません。
竜との邂逅によって人々は瘴気を抑える術を得て、天変地異を鎮めることができました。その天変地異を抑えるための儀式は今なお続けられています。
現状の王族、宮廷内の魔力保持者の大きな役割は、その儀式を続ける事だと言っても過言ではないでしょう。
そして、そのおかげで今も世界は崩壊することなく存在する事が出来ています。ですが、竜の怒りを買い呪いを受けた事もまた事実。
世界を救ったはずの竜は、人間という種に背を向けて高らかに叫んだのです。
『穢れた大地に蔓延りし悪しき人の血は息絶えぬ、
偉大なる魔を司る王の降臨と共にこの世の理は正されん』
人間が絶滅するという言葉を吐き、魔を司る王なるものの降臨を予言した竜はそのまま大地に溶けるように姿を消したそうです。
古の昔より竜の予言によって辛苦を舐めてきたとされる人々は、竜を避けようのない災厄として受け入れてきたと我が国の古文書には遺されています。わたくしが今読んでいる書物には、そのことがはっきりと書き込まれていました。
長く続く歴史の中、その事実を本当の意味では理解しないままに、竜を求めてしまったのです。
当時わたくしを身籠っていた王妃である母は、竜が予言を下したその場に居合わせてその身に深い呪いを受け、わたくしを産み落とされた後で天に召されました。
それからずっと、わたくしはこの離宮で育てられ、今なおこの身に降りかかった呪いを解くことも出来ずに、ただ安穏とお兄様を始めとした身近な方々に守られ生かされています。
その後、人間の滅亡を望んだ竜によって、その状態に差はあれどわたくしのような獣の姿を持つ子どもが産まれるようになりました。
市井では獣雑じりと呼ばれる赤子たち。
わたくしには、ずっと懸念を抱いている事があります。
お母様が一番深い呪いを受けたということは、わたくしのこの完全なる獣の姿こそが、予言を下した竜の望む”人間の行く末”なのではないのかと。
半獣の子どもが産まれる割合が僅かではあるものの、年々上がっているとのお話をわたくしはお兄様から伺いました。
こうやって少しずつ人間の子が産まれなくなり、人という種が絶滅していくのではないかという絶望的な考えを振り払えないのです。
……この身だけでなく、心までもが人でなくなる時がいつか来るのでしょうか?
そんな不安に怯え、お兄様だけに王族としての重責を背負わせている後ろめたさに打ちひしがれていた時、一筋の光がわたくしの道を拓きました。
幼き頃より乳母として仕え、その後も良き話し相手として離宮を訪れてくれていたアニヤによって、わたくしは王国民による半獣達への迫害の事実を知りました。
その多くは、産まれ落ちてすぐに処刑されているのだと。
運良く生き延びても迫害や虐待を受ける者、奴隷として売買される者達の話は、わたくし自身も半獣の身として他人事ではありません。ですが、何か自分にもできることがないかと考えても、焦燥にただ心を乱されるだけで、すぐには良い案など浮かびませんでした。
そんなわたくしに、アニヤからそっと打ち明けられた話がありました。
数年前より、アニヤの屋敷で自分の手の及ぶ範囲のなかで半獣の子どもを保護し育てているというのです。
アニヤにはお兄様に仕えているバルドの他にも、3人の娘がおりましたがそれぞれ婚姻して家を出ています。ご夫君を早くに亡くされている彼女の屋敷には、古くから彼女に仕える信頼のおける者だけが今も残されていたからこそ、出来た事でしょう。
アニヤは人々から忌避され、心身ともに傷つき、親からも見放されてしまった子ども達を放ってはおけなかったのです。
自分の我儘で付き合わされている哀れな子ども達なのだ、と当の彼女は言いましたが、それも愛情深いアニヤらしい言葉です。
話を聞き終えたわたくしは、知らず涙をこぼしておりました。
わたくしだけが安全な場所で守られていた時に、同じ境遇の子ども達が殺されていたという事を知った衝撃に加え、わたくしが母とも慕う彼女がその半獣の子ども達の命を守り、育ててくれていた事に深い喜びを覚えたのです。
アニヤによって助けられた半獣の子ども達を通して、わたくしの心までもが救われたようでした。
王女としての地位を持ちながら、何も為せない不甲斐なさを嘆くだけの自分。そんな弱さに負けていたわたくしの側で、力強く己の信念を持って行動する彼女の姿は、雲間より差し込む天上から届けられた光、わたくしの道標となりました。
わたくしはすぐに、アニヤやセバスに協力を求めて行動を開始しました。
わたくしが王女であるからこそ出来る事。
そうして多くの権力者の集う宮廷会議に提案したのが、半獣の保護活動でした。アニヤ達によって集めて貰った情報を元に、半獣の出生率の差の原因を探ったわたくしたちは一つの事に思い当ったのです。
なぜ、王都では他領に比べ半獣の出生率が低いのか。
思い当る原因は二つありました。一つは、より強い呪いを受けたわたくしの存在。もう一つはアニヤによって助けられた半獣の子ども達の存在です。
そしてわたくし達はある賭けをしました。わたくしにしか試す事の出来ない賭けを。
それは半獣を減らさない事で半獣の出生率が変わるのではないか、という一種の望みともいえる実験。この場に集う者の中で宮廷会議において、発言を許される地位を持つわたくしだけに出来る事。
もちろんその場には代理人を立てることになりますが、それはセバスが引き受けてくれました。
国の安定を図るための国政を手掛け、その身を削るような膨大な魔力をこの地に注ぐ重責を担い、更に召喚の儀を行うために国内を駆け回り魔獣を集める多忙なお兄様やバルドには、何も告げずに事を運びました。
よく考えてみれば、何の実績も無い病弱な王女の言葉など戯言として一笑にふされることなど気付きそうなものです。事実、アニヤやセバスにもそれは分かっていたのでしょう。それでも、わたくしの意思を尊重して後押しをしてくれました。
何の反応も返ってこないと諦めかけた時、バルドを引き連れたお兄様がこの離宮を訪れました。
半獣を生かしてみてはどうか、と投げかけたわたくしの議案は、お兄様が興味を示してくださった事で、国を挙げての改革を起こす事となりました。
それまで以上に多忙を極めることとなったお兄様やバルド。その手から取りこぼされた王都の半獣保護施設をわたくしの離宮に置く事となったのも、わたくしにとっては嬉しい事でした。
わたくしにも微力ながら出来る事を見つけられたのですから。
ふいに響いたノックの音で、わたくしは現実に引き戻されました。視線を扉へ向けると聞き馴染んだ執事の声が耳に届きます。
「セバスです。失礼いたします」
いつの間にか東の空は白み渡っていました。じきに朝日が顔を出す時間でしょう。随分長い間、ぼんやりと過ごしてしまったようです。
「殿下、おはようございます。昨夜はあまり眠れなかったご様子ですね。薬草茶をご用意させていただきました、どうぞお召し上がりください」
心配する言葉とは裏腹に、表情には優しげな笑顔を浮かべた執事を見ると、彼の目許にも疲労の影が見えました。どうやらセバスも昨夜は眠れぬ夜を過ごしたようです。
「ありがとうセバス。何だか目が冴えてしまったものだから、空を見ていたの。貴方が来てくれたのだもの、本を読みたいわ。用意してくださるかしら」
わたくしの言葉にセバスは軽く礼をし、すぐに隣室から読みかけの本とわたしくしが読書をするための器具を運び込みます。
それは本を持ってページをめくることが難しいわたくしのために、わたくしが8歳を迎える誕生日プレゼントにとバルドが作ってくれたもの。『姫殿下のために一生懸命考えた』と言いながら差し出されたこのプレゼントはわたくしにとって、その年一番の贈り物でした。
今も愛用している読書板に手を滑らせるたび、粗削りでも丁寧に磨かれた木目を感じて、思わず笑顔がこぼれます。これはわたくしの宝物なのです。
この獣の身体では出来ない事の方が多く、少しでもやりたい事がやりやすくなるようにと皆が心を砕いてくれるため、様々な工夫がこの屋敷の各所に施されています。
それらを使う度に感謝の気持ちとほんの少しの悲しみが胸に迫る事は、誰にも内緒のわたしくしの本音です。
「支度が整いました。お待たせを致しました、どうぞご確認ください」
椅子から身を躍らせ、絨毯の敷き詰められた床に着地。風を切るように音も無く移動し、ローテーブルに身を乗り出して後足で立って、読みかけの段落を確認しました。
「これでいいわ。ありがとう、朝食までは本を読んで過ごします。下がってかまわないわ」
それは竜の予言について記された予言の書。古い言い回しで書かれたその本は、理解するのに時間がかかります。
「朝食にご希望はございますか?」
「ええ、いつも通りにスープだけお願い」
「かしこまりました。では、下がらせていただきます。御用の際は呼び鈴を鳴らしてお呼びください」
セバスが物音を立てずに下がっていくのを気配で感じながら、読みかけの文章へと目を走らせます。
過去に起こった悲劇を後世に伝えるために先人が遺した記録、それはもうボロボロであちこちが痛んでいました。いつか、わたくしの手で現代語になおしてみたいものです。
わたくしは獣の手をちらりと見てひとつ溜め息を吐き、文章へと意識を集中させて行きました。
朝日が部屋に差し込み、室内が温かくなってきた頃、思いもよらない訪問者がわたくしの部屋の扉をたたきました。
その方はわたくしが眠れない夜を過ごす原因となった人物です。
昨夜、アズサ様はわたくしの姿を目にして震えあがっていました。
その内心を悟らせまいと緊張した面持ちでなお、気さくに話そうと努力されている姿は、わたくしには好ましく映っていたのですけれど。
ですが、やはりわたくしは忌避される存在であるのだと痛感させられ、少なからず気落ちしていたのです。
産まれた時から側にいてくれた人たち以外で、初めて自分の姿を晒したのがアズサ様です。好かれる事は無理でも、悪感情を持たせる事はするまいと思っていたわたくしの誓いは、脆くも崩れてしまったのです。
アズサ様はお兄様が床に伏した後、わたくしどもに向き合いました。思うところは沢山あったでしょうに微笑まれてこう仰られたのです。
「これから1年、色々とお世話になります。わたしにできる事を一つでも多く見つけて、みんなが笑顔でいられるように、やれることをやってみます。至らない事ばかりだと思いますが……ティアさん、アニヤさん、バルドさん、どうぞよろしくお願いします」
深く腰を折られて礼を尽くすようなアズサ様のお姿。その小さな体躯に凛とした佇まいは、清浄な空気を纏われているようにも感じられました。
その後は、疲れたからと食事も摂らずにそのままお休みになられたアズサ様が、まさかわたくしの下を訪れになるなんて、予想もしておりませんでした。
お兄様によって異世界からこの地へと召喚されたアズサ・モリナガ様。この方は、我々の救いであり希望でもあります。部屋にはわたくし一人きり。ここには今、助言してくれる者はおりません。
すぐに返事もできずにいると、『あ、しまった。まだ寝てる……?うっわ、どうしよう、ドア叩いたの無かった事にならないかな……!?』という声が聞こえた後に、扉をさするような音が聞こえます。
わたくしは思わず口元をほころばせ、意を決して応えを返しました。
「……そのお声は、アズサ様でしょうか?」
朝の散歩にお誘いくださったアズサ様に申し訳なくも、お断りをいれたわたくしの不敬をあの方は許してくださいました。
そして、素敵な花束まで届けてくださったのです。
その後、朝食をご一緒させていただき、食後のお茶の時間には夢のような一時を過ごしたわたくしはすっかりアズサ様の事を敬愛していました。
この方とお話していると、わたくしの胸で長年燻っていた重く薄暗い澱のようなものが、晴れていくような気がするのです。
そのせいか、視界さえ明るくなったような気になるのが不思議です。今まで感じた事のない高揚感が身の内から溢れ湧き上がってくるのです。
情けなくも、アズサ様がわたくしの事を御不快に思われていらっしゃるのではないか、とわたくしは率直に申し上げました。お兄様に続いてこれ以上アズサ様を御不快にさせる前に、はっきりと確認したかったのです。
ですが、わたくしの自虐的な疑問に対してアズサ様は、親愛の情をお示しくださいました。
わたくしの前で膝を折り、壊れ物でも扱うようにわたくしの手をとったアズサ様は、優しくキスを贈ってくださったのです。
……――――ッ!
それは言葉には言い表せないほどの衝撃。普通のご令嬢には日常的な事でも、わたくしにとっては初めての体験でした。
アズサ様の大きく黒い瞳は優し気で、幼さの残るその日に焼けた容貌は凛々しく、茶目っ気を含んだ魅力的な表情は、深い愛情にあふれていらっしゃいました。
まるで、物語に登場する王子様のようなその仕草にわたくしはすっかり、呆けてしまったようです。
恥ずかしながら、左手に触れる甘い吐息に頭がくらくらしてしまって、あとのことをよく覚えていません。
我に返った時にはアズサ様は席を外され、すでに退室された後でした。そして、いつの間に来たのでしょう、バルドがこの室内にいました。
訊ねれば、アズサ様は昨日運び込まれた子ども達を見舞いに行かれたそうです。
その後はバルドと共に王都の領地内にある元は聖地と呼ばれた精霊の棲まう泉、”シヤの泉”へと視察へ向かわれる予定なのだそうです。
まずはこの国の現状を見ていただくのと、アズサ様に秘められたお力がどのようなものなのかを近くで見守り、実力を遺憾なく発揮していただくための補助役としてバルドが付けられるとのこと。
正直、彼をアズサ様に付けておくのは不安もありますが、バルドはこの国一番の武勇を誇る騎士団長です。身の安全を第一に考えれば、彼の発言への不快は我慢していただくほかないでしょう。
バルドはその暇乞いのためにわたくしの部屋を訪れていたようです。
「バルド、貴方の率いる騎士団をわたくしは信頼しております。アズサ様に危険など決して及ばぬよう、しっかりと守って差し上げてくださいませ!」
「はっ!王女殿下の信頼を損なわぬよう、このバルド尽力させていただきます。王女殿下におかれましても、何卒ご自愛くださいますように」
なぜか終始上機嫌のバルドは普段以上に明るい声でそう言い残し、屋敷を後にしました。その様子を見て不安になるのはわたくしだけでしょうか……。
騎士団長でもあるバルドは一度王城へ出仕して準備を整えてから、こちらへアズサ様をお迎えに来るとのことです。アズサ様がこの屋敷を一時でも離れると思うと何やら胸の辺りがざわめきます。
昨晩は入室時からお兄様のなさりように怒りをあらわにし、最後にはお兄様に対し”鉄拳制裁”なるものを行ったと仰られたアズサ様の表情は、憑き物が落ちたようにすっきりとされておりました。
アズサ様に対して行ったお兄様の所業を考えれば、この国の王とはいえ、そんなもので許してしまわれるのは何だか申し訳ないほどです。
昨晩のお兄様はアズサ様と話される時、普段決してわたくしには見せないような姿や言葉遣いをされておりました。
……そして、あの愉しそうなお顔。
意地の悪い言葉の裏に何かを隠しているのは間違いなさそうです。アズサ様の記憶を消してまでお兄様が隠そうとされた事とは一体。
……気になりますわね。
ふふっと漏れた笑い声に自分で驚き、固まってしまいました。
わたくし、今すごく楽しい気分です。
胸元を押さえ目を瞑って鼓動を意識すると、とても心が凪いでいるのを感じます。
「わたくしも、アズサ様と一緒に行けたらよいのに……」
思わず口から出た言葉に、また驚きました。外に出る事は怖い。けれど、それにも増してアズサ様と共にいたいという気持ちが、心の奥から湧きあがって来るのです。
「ご一緒にお出かけになられてはいかがですか?」
そう言ってセバスはわたくしに、微笑ましい物を見るような表情を向けました。彼が、わたくしに外出を提案した事に驚きを隠せません。
「……けれど、セバス。わたくしは外に出る事が恐ろしいのです。あれから随分と時が経つというのに、あの時の恐怖が忘れられません」
わたくしがまだ幼いころ、お兄様が離宮へいらしたときにだけ一緒に庭園で過ごす時間が、わたくしの一番の楽しみでした。
ところがある日、外に出るのが嬉しくて誰よりも先に庭へと出てしまったわたくしは、空から来た襲撃者に攫われたのです。
それは王都周辺に生息する鳥でした。
わたくしも部屋の窓から遠目に何度か見たことがある、全身に黒い羽を持つ黒鳥。ですが、その大きさがあれほどの物だったとは、近づくまでは知りませんでした。
その頃まだアニヤの両手に納まる程の大きさしかなかったわたくしは、覆いかぶさるように黒い羽を広げ下降してくる黒鳥の鋭い鉤爪に、為す術も無く掴みあげられました。
あまりの恐怖に声も出せず目を閉じていたわたくしが次に感じたのは浮遊感。
知らぬ間に黒鳥の爪から放たれていたわたくしの身体は、宙に舞っておりました。無意識に身体を丸めクルクルとその身が回転して落ちてゆくのをただ堪えて。地上に近づくにつれ、地面に叩きつけられるイメージを持っていたわたくしの予想を裏切り、見事にその腕に抱きとめてくれたのはアニヤでした。
お兄様は後の事をバルドに任せて黒鳥を追ったそうです。空を飛ぶ様な真似が出来るものは他にいませんでしたから。
そのバルドは、と言えばわたくしが落ちて来るのをただじっと見つめていたとかで、アニヤからの叱責を受ける声がわたくしの記憶にも残っています。わたくしを助けに動かなかったバルドに詰め寄る母にバルドが答えた内容はもう、呆れるしかありませんでした。
姫殿下の身体能力を見極めたかった、というバルドの言い分を聞いてアニヤがさらに激昂した事は言うまでもありません。
……あら?いつの間にか思考が逸れていましたね。
とにかくそれ以来、わたくしは外に出る事が怖くなり屋敷の中にこもり続けているのです。
「殿下の心に深い傷跡を残してしまった事、従者一同悔やんでおります。殿下はその後も陛下の度重なるお誘いも頑なに拒まれておいででした。ですがこのセバス、先程のお二人のご様子をみて、この方ならば貴女様を救ってくださるのではと感じたのでございます。アズサ様にご相談してみてはいかがでしょうか?あの方であれば、お嬢様のお心を軽くする方法を考えてくださるのではないかと」
一度言葉を切って、セバスは沈んでいた視線を上げ、わたくしに柔らかな笑みを見せました。
「今日でなくともよいのです。明日の朝でも、一月後でも、王女殿下ご自身がお心を決められたときに、庭園や外の景色の美しさやその感動を伝えあう方がアズサ様であられたら、お嬢様も喜ばしいのではないかと愚考致したのでございます」
確かに、花々の美しさや季節のうつろいをアズサ様と共に見る事が出来たらどんなに素敵でしょう。精霊の棲まうシヤの泉へだって、訪れてみたいと何度考えた事でしょうか。
わたくしはアズサ様の触れた自分の左手に右手を添え、胸の前でそっと包みこみました。
先程アズサ様に触れられたときの温もりが、まだ残っているような錯覚を覚えます。何よりも、わたくしを包み込むようなアズサ様の思いやりに溢れた優しげな瞳が、わたくしの背を後押ししてくれるのです。
「そう、ですわね。わたくし、アズサ様にご相談申し上げてみますわ。セバス、アズサ様とお会いできるように取り計らってくださいませ」
「かしこまりました」
セバスは胸に拳をあて、一礼すると退室して行きました。その横顔がとても嬉しそうな笑顔だったのが、またわたくしの胸をほのかに温かくさせたのでした。