ティアとの出会い
一通りの話を聞き終え、一瞬気が遠くなって目を閉じる。
次に目を開けた時、それまで張り付けていた笑顔を消した。もう表情を取り繕う気にもなれない。
まだ何か熱く語り続けてくるバルドは、私の表情の変化には気づきもしないようだ。そんな彼に気を遣って対応するのもバカバカしく思う。
ローテーブルを挟んだ正面の長椅子に腰かける彼は、真剣な表情で私に”世界を救って欲しい”と訴えている。
彼は入室してすぐわたしに席をすすめ、『真実をお話して対等な立場で語り合いたい』と切り出した。
結果からいえば、聞きたかった事、疑問だった事はすべて聞けたと言えよう。
大人しく彼の話を聞いていたわたしの感想はただ一言に尽きる。
「ふざけんな」
「は、何か仰いましたでしょうか救世主殿」
わたしの小さな呟きを聞きもらさずに反応を返す姿はなるほど、確かにわたしとちゃんと向き合って話し合いたいという態度は伝わって来る。
だったら、わたしの表情にも気付けと言ってやりたい。
この人は自分達がやらかした事を反省して謝罪しているのではない。
建前上必要だから代わりに謝罪の言葉を口にしているだけで、自分がこれだけ真摯に向き合ってるんだから、自分に都合のいい方向へ話が行くはずだ、と確信しているようにも見える。
子どもに言い含めるような物言いといい、なんだかよくわからないが非常にわたしを不愉快にさせる表情を時々のぞかせる。
だけど、それも今更だ。わたしは最低限の礼儀を残し、建前や社交辞令を挟む事をやめることにした。
「ふざけるな、と言いましたが聞こえませんでした?」
「!……いえ、聞こえております救世主殿」
わたしの言葉に、彼は冷や水を浴びたような驚きの表情をみせた。
彼に冷たい視線を向けたまま、鼻で笑ってしまう。
「わたしの事馬鹿にしてるんですか?それとも、本当にわたしの意思を尊重しようとでも?だったらその呼び方、不愉快なんでやめてもらえます?」
本当は呼び方だけじゃなく、この人の視線も話し方も不愉快だがそれを指摘するのもめんどくさい。
「いいえ、馬鹿にするなんて滅相もないことです。御不快な思いをさせていたとは、失礼を致しました。では、何とお呼びすれば宜しいでしょうか?」
わたしの冷ややかな対応にもめげず、ぐいぐい来るバルドにイラッとする。しかも、また何やら不愉快な表情を浮かべてるし。
なんで、犯罪者の仲間に被害者であるわたしが名乗らなければならないのか。
魔法を使ってわたしを誘拐した上に、記憶まで消しておいて”対等”?
ふざけんな。
その上、この人達はわたしに何かをさせたいらしい。
……本当に馬鹿なんじゃないの?
「あなたは名前も知らない人間を救世主と呼んで、自分達の未来を委ねようとしているんですか?他力本願もここまで来るといっそバカバカし過ぎて笑えますね」
緊張で嫌な音を立てる心臓が今にも飛び出しそうだ。
正直にいえば、こんな話し方をすれば相手の癇に障って、酷い目に遭うんじゃないかとも考える。だけど、このまま黙ってなんていられない。
わたしは冷たく汗ばんだ手をきつく握りしめた。
そもそも、一般人のわたしに何が出来ると思ってるんだろうか。自分達の期待に何を夢見ているのだろう。
抑えきれない感情がふつふつとこみ上げてくる。
視線を泳がすバルドの手が、彼の膝の上で震え始めたのがみえた。
やっと、自分達の犯した罪の重さにでも気付いたのだろうか。彼の厳めしい顔が俯き加減になり、何かを考えるように黙っている。
「そちらが対等に話したいと言うなら、今すぐわたしの記憶を元に戻してください」
記憶を弄られている時点で対等でも何でもない、とわたしが言えば、バルドは『それに関しては重々承知しております』と頷き、一度目を伏せた。
「大変申しあげにくいのですが今すぐ、というのは難しいかと思われます。貴方様の記憶を戻せるのは、記憶に干渉した本人にしかできないのです。ですが、今回その魔法を行使した我が主は、大幅に魔力を使い過ぎて枯渇一歩手前のような状態にあります。貴方様のお怒りはごもっともです。しかし今は、主に魔力を回復させる時間をいただきたいのです。どうか、何卒其ご理解願いたい」
少し困ったような顔で言い訳を並べるバルドに苛立ちが増す。
何とかわたしを宥め、言い含めようと……。
……うん?
わたしは思考の途中で苛立ちの原因に気付き、ショックを受けた。
こめかみがピクピクしてきたのを手で押さえてやりすごし、目の前に座るバルドを見上げる。そう気付いて彼を見ればイヤでもわかる。
感心したように頷いて微笑ましく口元を上げる様子は、こんな子どもが立派な話し方をするようになったもんだ。……という父性に満ちた顔だった。
なんかむかつくと思ったら、中高のあたりに自分の父親がよく見せた表情だ。
彼に対してわたしが辛辣な物言いをすれば、困った子だと生温かい目を向けられるのにも覚えがある。
それは生前、わたしが我がままを言った時によく見せた祖父の反応を彷彿とさせるものだった。
……明らかに子ども扱いされてる!
その事実に口を結び、プルプルと怒りに震える体を抑えた。
何とも言い難い鬱憤を胸から追いだすように、息を吐いて彼を睨みつける。
子ども扱いはやめろと騒ぐのは、この手合いには効かない事を経験上知っている。
しかも、本当の大人は子ども扱いされても怒ったりしない、と友人から指摘された事がある。子ども扱いか、馬鹿にされているのかぐらいはすぐわかるのだ。
厳つい顔をしたこの男は、子ども好きを隠しきれないゆるんだ表情をしているし、それが私に向けられたものでなければ”いいひと認定”間違いなしの顔だ。
そう、いいひとなんだろう。何せあのアニヤの息子だし、その辺はあまり疑いたくもない。
だけど、それとこれとは別。
子どもだと思われていようが、言うべき事は言わなくてはならない。それに、自分の老け顔を棚に上げてわたしを子ども扱いするとは許せないものがある。
アニヤに聞いてこの人が私の一個上だという事は知っているのだ。後でしっかり事実を受け入れさせようと心に決め、まずは本当に大事なことから片付けなければと姿勢を正した。
「なぜ、容赦してもらえると思えるのか解りません。そもそも、後ろ暗いことがあるから記憶を消すなんて事をしでかしたんじゃないんですか。わたしが何をされたのかも記憶にないのに、あなた方を信用できると思っているんですか?」
抑えきれない苛立ちのままに言葉が吐き出していく。それに、魔力の枯渇?なんてこっちの知った事ではないし、それがどういう状態なのかなんてわたしにはわからない。
「そ、それは、ですが、ご安心ください。我が主が人に言えぬような行いを貴方様にしているはずがございません。そこだけは、私が保証致します!!」
余りの愚かさ加減に失笑がもれた。
「ハッ、安心?お話になりませんね。わたしをここに呼び寄せたっていう人はどこにいるんですか。あなただけに謝罪を押しつけて高みの見物ですか。忙しい方のようですけど、わたしにとっては大事なことなんです。その人でなければどうする事も出来ないなら、直接その人と話したいです」
私の機嫌が悪いのをやっと感じ取ったのか、バルドはしきりに視線を泳がせている。
「その、ですね、我が主はただいま所用で席を外しておりまして……。貴方様との話合いは、主より命を受けた私が一任されております。ご不満に思うこともございましょうが、ひとまず私から今後の見通しについてご説明をば……」
彼はわたしの方を向き、先程までの(わたしにとっては)失礼極まりない表情を改めて真摯に話しだした。しかし、視線を逸らした一瞬の目の動きをわたしは見逃さない。
その視線からピンときた。
「いいえ、わたしはその人と直接話します。その人、今この屋敷にいますよね?お二階の貴賓室にいるんじゃないですか?」
バルドの視線の方向と部屋の配置から貴賓室に当たりをつけたが、正解だったようだ。
「な、なぜ。はっ!?よもや救世主殿は検知の力にも優れていらっしゃるのですか。お見逸れいたしました。そのような小さなお身体に見合わぬ威圧感もさることながら、素晴らしい能力をお持ちのようだ」
……いあつかん?なんだそれは。
彼はなぜか突然畏まったような態度に変わり、わたしに変な能力があると誤解しはじめた。
……もうヤダこの人。
なんか色々と面倒くさいので放置することを決める。
『ですが…』となおも言い募ろうとするので、イライラが頂点に達したわたしは行儀悪く立ちあがり、ドアを力任せに開けて飛び出した。
暗闇に沈み始めた廊下を一気に走り抜け、二階への階段を駆け上がる。
「あ、あ、あ、アズサ殿ぉぉぉ!?お、お待ちくださいぃぃぃ…!」
と言うバルドの声が遠く聞こえた時にはもう、貴賓室の扉を叩きこじ開けていた。
……つーか、わたしの名前知ってんじゃんか。
貴賓室の扉には花をかたどった彫刻が施されている。
扉に手をかけたわたしは、手の平を押し返すような反発を感じて背筋にぞわっとした悪寒を覚え、無性に苛立った。
「開きなさいよ!」
半ばやけくそに大声で叫んで両手で扉の取っ手を引くと、手の下にあった何かが弾けるような軽い衝撃が伝わり、簡単に扉が開いた。
開け放った扉の向こうには煌々と明りが灯されていて、壁の白さに反射して眩しいほどだ。
部屋から漏れ出た光が廊下の床を四角く照らし、室内との明暗差で背後の闇が濃くなったようにも思える。
目の前には白と薄紫で統一された可愛らしくも優美で気品ある部屋が広がっていた。
部屋の中央には扉に向かうように大きなハープが置かれ、右手には花の意匠が施された丸いテーブルとおそろいのソファ。テーブルの上にはティーカップに入ったお茶が湯気を立てている。
テーブルを取り囲むように置かれたソファの上には、大きな体躯の猫がいた。手足をその身の下に置き、凛とした様子でこちらを見ている。
……ノルウェージャン・フォレストキャット!?
こちらを見据え静かに佇み、黒く長い体毛でその身を覆う大きな猫の存在に目を瞬く。何度か瞬きを繰り返し、見とれているうちに、頭に上っていた血が降りていく。
……そういえば、ここ、王女様の離宮って言ってたっけ。
一つひとつが一級品と分かる品々は清楚と言うのがピッタリで、この部屋の主の品格までが伝わってくるようだ。まさしく、プリンセスが登場しそうな部屋だと思う。
わたしの六畳の和室部屋とは比べ物にならないまばゆさ。そして、この、震えるほどの趣味の良さ!!越えることのできない女子力の壁を感じる。
気が抜けていたわたしは、背後から伸びてきた手に肩を押され飛び上がった。
「おい」
「ひぎゃぁぁぁぁっ!!」
「……うるさい。障壁を破って入って来る不審者が何者かと思えば。……そなたはもう少し静かに生きられないのか」
涙目で後ろを振り返ると、足元からゆっくり部屋の明かりに照らされ室内へ入って来る男がいた。
全身に明かりが届く位置までくると、その男の青い髪が光を受けてきらきらと銀色に輝いて見える。
男の顔には何の感情も浮かんでいないように見えたが、その口調からわたしに対する敵意を感じた。しかも初対面のはずなのに、わたしを知っているようなこの感じ?
そんな人物の心当たりは一人しかない。
わたしをこんな目に遭わせた張本人。そのことに思い当り、わたしの怒りは再点火された。
スタスタと大きな猫のいる対面の席に向かって歩く男の後を、わたしはダンダンと足音を立ててついていく。
「わたしの記憶を元に戻して!この誘拐犯!!」
長い足を持て余したように席に座った男に、仁王立ちになって立ち向かう。
男はちらりとこちらに視線を向けた後、悪びれた様子も無く呟いた。
「チッ、バルドが失敗したか。仕方ない、もう一度……」
「イヤ――――!!近寄るなっ!このバカ――!!ヘンタイ!犯罪者――っ!!」
男が立ちあがろうと身じろぎしたので、大声を上げ部屋の隅まで脱兎のごとく逃げる。
わたしの反応に固まった男と、瞬間的にふわふわの毛をビリビリと逆立てた猫は、そのつぶらな瞳を丸くしてこちらを見ていた。
壁に背を預け、へっぴり腰になって唸り声をあげ威嚇していると、開けっぱなしの扉の外には人だかりが出来ていた。
そこに女性の声で一喝が入る。
「何大騒ぎをしてるんだい!ほら、あんたらも。食事は済ませたのかい?早く行かないと冷めちまうよ。ほらほら、行った行った!」
入口に集っていた野次馬な子ども達は、こちらをチラチラと気にしながら夜ごはんに向かっていった。
その後ろからアニヤの姿が見えた途端、わたしは彼女の許へ走り寄り、その胸へと飛び込んだ。
「ひ、ひぐ。あにやざん~…」
「うっわ、なんだい!?一体何があったんだいアズサ……?」
彼女の元気そうな姿を見た途端、今日一日張りつめていたものが涙と共に溢れだしてしまう。
情緒不安定になっていたわたしは、子どものように彼女に縋りつき、バルドから聞いた話をすべて話していた。
「とんっでもない、碌でなし共だね!」
鼻水をすするわたしの頭をゆっくりと宥めるように撫で、アニヤがため息をついた。なぜか彼女が申し訳なさそうに眉を下げているのだろう。
「済まなかったねぇ、アズサ。あたしの育て方が悪かったばかりに、あんたに辛い思いをさせたようだ。この二人の性根を叩き直してやりたいが、あんたが受けた仕打ちを時間を巻き戻してやり直させることはできないもの。本当にバカ息子達が迷惑をかけて申し訳ないことをしたよ」
……バルドだけじゃなく、こっちの青ギンパツ兄ちゃんも貴女が育てたとな!?
信じられない思いで前を見る。そこには、母であるアニヤの命令で床に跪かされているバルドと、その横で腕を組んでそっぽを向いている男がいる。
鼻をすすりながら見ていたら、青銀髪の方が半眼になってこっちを睨みつけてきた。
その瞬間、わたしは二人を見る目を蔑みの目でに変えて、一番の要求を突き付けた。
こいつらに同情の余地はない。
「アニヤさんが責任を感じなくていいんです。いい大人なのに親にまで迷惑をかけて尻拭いさせているこの二人が悪いんですから。それより、わたしの記憶を元に戻して、早く家に帰してください!」
だが、期待に反してわたしの思いを決定的に打ち砕いたのはアニヤだった。
「アズサ、本当にごめんよ。今すぐにあんたを家に帰してやりたいが、現実問題出来ないんだよ」
「そんな!」
「召喚魔法に使われた魔力は、二つの方法で賄われていたんだ。この方が20年以上かけて余力を溜めてきたものと、この国のおもだった強力な魔獣を集め、生贄とする事でやっと集めたものだ。また同じように魔力を溜めたり集めようと思えば、……相当な時間がかかるんだよ」
ショックのあまり、唇が小さく震えた。
膝の上で固く握りしめた拳に力が籠り、指先が冷たくなって行くのを感じる。
……20年かけて貯めた?
「そんな、じゃあ、わたしはいつ帰れるかも分からないってことなんですか?」
震えるわたしの拳の上に、そっとアニヤの温かい手がおかれた。
温かい手に慰めを感じていると、ずっと傍観するようにソファに座っていた、立派な体格に気品さえ漂ってくるような猫がローテーブルの間を音も無くすり抜けこちらへやってきた。
近くでよく見れば、黒だと思われた体毛は濃い紫色をしている。
冬の寒さを凌ぐためのふかふかの体毛に身を包んだ猫は、その体の質量など感じさせない、しなやかな動きでわたしの腕に頬を擦り寄せてくる。
その動きに合わせて、弾力がありながらふわりとした毛並みの感触と温かさを感じた。
アニヤと一匹のこちらを気遣う気持ちに、酷い寒気と震えが少しずつ引いていくような気がする。
「慰めてくれるの?ありがとう、にゃんこ」
わたしが感謝の思いを伝えると、その言葉にピシッと猫が硬直した。
側にいる3人も緊張したような顔で息をのみ、こちらを凝視してくる。
真っ先にその沈黙を破ったのはアニヤだった。
「あ、あのね、アズサ?その、”にゃんこ”というのは…」
「……?にゃんこは、猫という名前のどうぶ…」
わたしの言葉を遮るように、テーブルに手をついたアニヤが勢いよく立ちあがった。
「アズサ!……お、おなか、そう、お腹が空いたんじゃないかい!?そうだよ、もうこんな時間だ、食事にしよう。今、屋敷の者に支度させるから一緒に食堂まで行こうじゃないか。話はそれからにしよう!」
名案だ、とばかりにバルドが首を縦に振ってカクカクしている。その横に立つ男はじっと猫を見つめているが、気持ち身体が後ろに反っている気がする。
……ごはんかぁ。
胃のあたりを押さえて、お昼ご飯を思い出す。正直あまり食欲がわいてこない。なので食事を断ろうと視線を上げると、すぐ横から小さな溜め息が聞こえてきた。
「皆、それほど緊張しなくともよいのです。わたくしだって分別は持ち合わせておりますわ」
シンと静かな室内に、凛とした若い女性の声が響いた。
誰か入ってきたのかと、とっさに扉を見ても花のあしらわれた重厚な扉は先程バルドが入室した時から閉じられたままだ。
周囲を見渡すと、みんながわたしの隣を凝視している。
わたしの隣に座る大きくて存在感のある猫は、そのどっしりとした肉厚の左腕を上げて少し毛づくろいをすると透き通るアメジストのような瞳でわたしを見上げた。
改めて、あまりの存在感に胸がうち震える。
猫は一瞬、青ギンパツの方に鋭い視線を送った後、ふさふさのまつげを瞬き、こちらに真剣な目を向けてきた。
「兄が大変な失礼を致しました。わたくしからもお詫びをさせてくださいませ。兄はわたくし達のために貴方様を召喚なさったのです」
……ね、ねこがしゃべってる?
目をこすって二度見するが、濃い紫色の艶めくような毛並みをした猫は、わたしから視線を逸らさずその骨太な前足を立てて座り、じっとこちらを見つめている。
「貴方様の前でこの身を晒し、お目汚しする無礼をお許しくださいませ。このような形をしておりますが、わたくしはティルグニア王国の第一王女、ティアと申します。どうぞお見知り置きくださいませ。よろしければ、貴方様のお名前をお教え願えますでしょうか?」
彼女が小首を傾げると深い紫の毛並みがふわりと動く。
猫が動くたび静電気が起こるのか、弾力のありそうな毛並みがほわほわと浮き上がるように動いている。
両手を震える唇にあて、喋るにゃんこ、もとい、王女様に見入っていたわたしだが、ゴホンという誰かの咳払いではっと我に返り、名乗りかえした。
「はっ!?うわ、わたしのお名前は守…いや違う。んん、えっとわたしは、アズサ・モリナガです」
もっと何か言うべきだっただろうか、だけど今は叫び出しそうな衝動を堪えるので精いっぱいなのだ。
自分の手首をきつく掴んでその衝動をやりすごし、震える腕に気付かれないようそっと身を引いた。
名前を聞いた王女は、目を細め口元をほころばせ優しく微笑んだ。
そのままソファから音も無くおりると、太く長い尻尾を優雅に振りながら、もといた自分の席に戻ってわたしに向き合った。
遠ざかる彼女の揺れる毛並みを見つめて、胸が切なくなる。
「アズサ様、わたくしのことはティアとお呼びくださいませ。本来であれば本名を名乗るべきなのですが、わたくしには現在名乗るべき名がございませんの。王家のしきたりにより、この世界の王は即位と共に自国の名をその身に戴き、その名に受け継がれると云われる古の力を糧として治世を治めて行きます。ですから、王位継承権を持つわたくしには女性という意味をもつ”ティア”という仮りの名がつけられておりますの」
「あ、はい?えっと、ティア…さんですね。あっ、わたしの事もアズサと呼んでください」
他の事に気を取られ上の空だったわたしは、聞き慣れない単語の羅列を聞き流してしまった。若干気まずく目が泳いでしまう。でもまあ、なんとかなるだろう。
「ありがとう存じますアズサ様。では、わたくしからも此度の事を改めて謝罪させてくださいませ。そして、なぜ兄が召喚の儀を行うことになったのかをアズサ様には知っていただきたいのです」
ティア王女は、意を決したように話し始めた。
「こちらの身勝手な願いから、アズサ様にご迷惑をお掛けしましたこと、本当に申し訳なく思っております。ですが、これだけは弁解させていただきたいのです。兄は決して私利私欲のために召喚を行ったのではありません。すべてはこのわたくしのため、ひいては半獣としてこの世に生を受けた皆のためなのです」
アメジストの瞳を悲しげに伏せながら話す彼女の姿は、儚げな印象を与えてくる。うん、隣にいたらヤバかった。
「アズサ様は、わたくしがこのような獣の姿であることにさぞ驚かれた事でしょうね。わたくしは、この屋敷に保護された子ども達と同じ半獣です。人としての部分がかけらもないわたくしは、半獣と呼ばれることも相応しくはないでしょう。人の言葉を理解し、話せる以外は獣そのものですもの」
辛そうな顔をして自虐的な言葉を紡ぐティア王女の姿に腰を上げかけたとき、先に動いたのはアニヤだった。
「姫様!何を仰いますか、あなたは先王と王妃の間にお生まれになった、歴としたこの国の王女殿下です!そのようにご自分を卑下するのはおやめくださいと申しておりますのに……!」
「王女殿下、何もご心配はいりません。アズサ殿がこの世界の救世主となって、この地を浄化してくだされば人としての本来のお姿を取り戻すことが出来るはずです」
立ち上がりかけていたアニヤの隣で、絨毯に膝をついているバルドが余計なことを言った。
「お黙りなさい、バルド。お兄様に続き、お前までもがアズサ様のお心を厭わせること、わたくしは赦しません。わたくし達は己の事に必死になるあまり、召喚される方に対しての配慮に欠けておりました。その上、お兄様のなさった禁術である記憶操作の行使など、人の道に反しております。何をお考えになっていたのですか、お兄様……」
ティア王女が哀しげな声を出している。首を傾け、青ギンパツを上目遣いに見上げるその姿に胸がしめつけられる。
胸元を抑え堪えていると、その話題にはアニヤも身を乗り出した。
「それは私も是非聞かせて頂きたいですわ、陛下?一国の王ともあろう御人がこのような稚い者に対して禁術を使うなど考えられない事ですもの。本来であればお側に仕える者が一番にお諫めする立場でしょうに、今まで何をしていたのでしょうね、陛下の側近は……!」
アニヤの鋭い眼光と迫力に、わたしまで身震いする。
……アニヤさん、怒ると怖い。
まあ、当たり前のことなんだけど。
息子であるバルドも、叱られた子どものように唇を引き結んで身を小さくしている。
そこでみんなの視線がだんまりを決め込んでいる青ギンパツの男に向かった。
しかしこの男、この国の王様だったとは……。
さっきちょびっとだけ失礼な態度を取ったけど大丈夫だろうか。
窺うように長身の男を見上げてみる。
女性陣に鋭い視線を向けられている20歳過ぎ位の王様は、覇気のない表情だが均整のとれた顔立ちをしている。
ちらっとわたしの方を見たが、すぐに目を逸らしていた。
……なんか、こんなの見覚えあるな。
友達を泣かせて怒られた子が、素直に謝れずいつまでも壁際でいじいじしてる……みたいな。
大人なのにいじけた子どものような印象を受ける青ギンパツをみて、アニヤは苛立ちをあらわにし、ティア王女は不思議なものを見るように小首を傾げた。
つぶらな瞳を細め何ごとか考えている彼女の姿に、思わず溜め息がでる。
「お兄様?後ろ暗いところが無いのであれば、何を置いてもまずはアズサ様の信頼を回復させることが重要だと思われませんか?元の世界にすぐに還して差し上げることは叶わないのですから。それとも、まさか……?」
「坊ちゃま!!まさか、アズサに何かなさったのですか!?」
「えぇ!?やっぱりわたし、なんかされてた!?」
思わず女性陣の猛攻撃を受けた若き王様は、盛大に顔をしかめて反論した。
「そんなことはしていない。勝手な憶測で私を悪人に仕立てるのはやめてもらおうか。……そなた達、そんな目でこちらを見るな。私に疚しい事なぞひとつもない!」
半眼になった女性陣の視線から逃れるように一度手を振って視線を振り払い、青ギンパツはわたしを見た。
眉を寄せじっと見返すと、視線がちょっと泳いでいたが観念したかのように目を合わせ話し始めた。
「アズサ・モリナガをこの地に呼び寄せた事は我々だけでなく、この世界にとって必要な事だった。これについては謝罪と懇願はしても後悔はない。そして、召喚の儀と共にこちらへやってきたそなたに、私は真摯に向き合うべく話し合おうと努力はした。だが、そなたには私の話を聞く意思が感じられないばかりか話し半ばで意識を失ってしまった」
目を眇めた彼は、不満そうにわたしを見ている。不満なのはこっちの方だっちゅーの。
「記憶が無いのでわかりません。話し方に誠意と真剣さが足りなかったんじゃないですか?」
ハッと鼻で笑ってやったら王様のこめかみがヒクッと動いた。
おもむろに腕を組んでこちらに一歩近づいてくるその挑発的な態度に触発されて、わたしも仁王立ちになって臨戦態勢をとった。
向かい合って睨みを利かせながら話を続ける。
「……次に目を覚ました時にもまた同じような恐慌状態では、そなたの精神にも悪いのではと危惧したのだ。それであのような禁術を行使することとなった。精神的にダメージを与えまいとした私の気遣いだったが、そなたにはまったく必要なかったようだな」
「それはそれは、おかしな話ですねぇ。わたしをそんな精神状態に追い込んだ張本人に言われてもまったく真実味がございませんが?嫌なことがあったら記憶を消してやり直せるなんて、気に入らない結果の出たゲームを何回でもやり直すなんて。そんな子どもじみたことをして喜ぶのは、この場には貴方しかいないんじゃないですかぁ?」
じりじりと詰め寄って顎を突き出し、ドスを利かせながら青ギンパツ兄ちゃんを威嚇する。
敵も一瞬たじろぐように身を逸らせたが、踏ん張ってわたしを見下ろす角度を深め、顔を突き合わせるようなぎりぎりの距離で黒い笑顔を浮かべた。
「しかし、それが功を奏したではないか。今のそなたならばこの世界の子どもを助けてやりたいと感じているのではないのか?それとも、子ども達やティアの事を何も知らぬまま、分かろうともしないままに追い詰められ泣き暮らした方が良かったというのか?そなたにはティア達を救う力があるのに?」
不覚ながらその言葉にわたしは呑まれてしまった。悔しくて唇を噛む。
「……私はティアと共に半獣の子どもの命を救っている。そなたは、残された一年で何を為す?それとも、自分にはそんな力はないと言い張って、何も為さずにただ子ども達を見捨てるか?」
「……わたしに、何が出来るって言うんですか。アニヤさんのように傷を癒してあげるような特別な力なんてないし、わたしの世界には魔法なんて存在しないんです。わたし、なんにも出来ないんですけど!?」
悔しさに拳を握って思い出すのは、昼間出会った子ども達、そして……。
視線をソファの上に座ってこちらを心配そうに見ているティア王女に向ける。
「ティアさん……。貴女がその、猫の姿をしているのは、他の子どもと同じように半獣だからなんですか?産まれたときから、その姿で?」
「そうですわ。わたくしを身籠っていた母が直接その身に呪いを受けたのです。呪いを受けた母が産み落としたのは獣化が激しく人の部分を残さぬ獣の仔でした。出産の場に居合わせたアニヤが証人です。父によってすぐに緘口令が敷かれ、母の死後、わたくしは離宮で育てられました。このような姿ですから、街はおろか、この屋敷の外にも出た事がございません。ですが今は、この屋敷で同じ境遇の子ども達を手助けすることができるようになり、とても誇らしい気持ちなのです」
透き通ったアメジストの瞳を細め、誇らしげに笑うティア王女の姿はとても満足気だ。それに続けて、アニヤも私に向かって思いを語る。
「アズサ、大きな期待をされても困るって気持ちはあたしにもわかるよ。こんなこと言っても、あたしらの為に都合よく運ばせようとしているとしか受け取られないかも知れない。だけど言わせておくれね。何もできないからしないのと、何もできなかったとしても、出来る事を探してみようとするのじゃ全然違うと思わないかい?」
わたしは、俯いた後でもう一度目の前の人物を見上げた。彼からはもう先程までの挑発的な態度は感じられず、姿勢を正して静かな目でわたしを見下ろしていた。
「記憶は、いつ戻してくれるんですか」
「…………。」
おい、なぜ目を逸らす。
胸倉を掴んで揺さぶってやろうかと思った時、そっぽを向いたまま返事が返ってきた。
「明日の朝、目覚める時には記憶が戻っているようにする」
なぜか少し口を尖らせ、機嫌がよくなさそうな雰囲気を醸し出している。
彼には何か、わたしに思い出して欲しくない事があるのだろうか?不信感がまたむくむくと芽生えてきた時、ティア王女から疑問の声が上がった。
「お兄様、わたくし少し不思議に思うことがございますの。お兄様は先程アズサ様に、残された1年で何をなさるか、と仰いましたよね?それは、1年後にアズサ様はご自分の世界へお還りになれる、という意味ですか?20数年かけて溜めたお兄様の魔力が後1年でどうにかなると?」
その言葉に、わたしはぱっと長身の男を期待の目で見上げた。彼はわたしの視線を受けて不本意そうに頷いてみせた。
「20数年かかったのは私が幼く魔力の量が少なかったからだ。……そなたがこの地を浄化し、私が魔力の消費を節約して溜めることができば、1年後には必要な魔力が用意できるだろう」
……ふんふん、浄化するのが必須条件だ、と。
「……はあ!?わたしがそれを出来なかったらどうなるんですか!」
わたしが狼狽えると、男は機嫌が良さそうな表情を浮かべて平然ととんでもない数字を叩き出した。
「10年はかかると思った方がいい。私はそれでも一向に構わぬがな。そのうちにここが気に入れば、好きなだけ留まれば良い」
愉しそうに目元を綻ばせる男の鬼畜な王様発言に、ぷつりとわたしの中の何かが切れた。
次の日、ベッドの上で気持ちよく目覚めたわたしは青ギンパツ男との出会いをすっかり思い出していた。
あれほど心配した”変な事”もされておらず、とりわけ禁術の魔法を使ってまで消すようなやり取りがあったとは思えない。
まぁ、記憶が戻ったんだからいいやと思うことにした。なんとも爽快な気持ちをこのままにしておくのがもったいなくて、散歩のお誘いをしに貴賓室にいるティア王女の下へと軽い足取りで向かったのだった。
[証言1 バルド]
私は見た。
今まで見たことも無いような笑顔を浮かべ愉しそうに話している主と、その笑顔を引き出した子ども。
和やかに見えたその次の瞬間、子どもは目に見えぬような早さで腰を落とし、腹の前に構えた左腕を後ろへ引くと同時、床を蹴り伸びあがるように脇に引いていた右拳を斜め上向きに突き出した。
それは正面にある肉壁に見事命中。
あとから聞いた話では、拳ではなく掌底を打ちこんでいたそうだ。見事、鳩尾に極まった掌低は目の前の肉壁を吹き飛ばし、相手の意識も刈り取った。
その時の子どもの目には肉壁としか認識されていなかった我が主。
本来であれば身を呈して守らなければならないお方だが、命に別条も無かったし、お怒りは甘んじて受けよう。
母上だとて、子どものしたことだと笑って大目に見ても文句は仰られないだろう。
あの坊ちゃま大事の過保護な母上が癒しの術を施さなかったくらいだ。
それにしても、アズサ殿には特別な能力があると見込んだ私の目に狂いはなかった。
あの小柄な身体でありながら、立ち昇るような気を出すとは、侮れない。
騎士団長として多くの素材を見てきた私ですら震えが走るほどだったのだから。
将来が楽しみな子どもとの出会いを、好ましく思った一場面であった。