表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
梓弓  作者: 長月 夜半
第二章 朧月
55/57

天つみ空に照る月の ―神遊― 


 ひとひらの花弁が鼻先をかすめて行く。


 ――左近の橘、右近の桜、梅、藤、紅梅、梨に桐。


 南庭へ降り注ぐ花弁は、内裏に植えられた花木から咲いては散り、風に舞う。

 はらはらと舞い落ちては視界を彩る花霞。その向こうに見えるのは、笑みを交わす娘たちの姿。褪せた景色は、雲間からそそぐ陽光に照らされて刻一刻と鮮やかなものへ塗り替えられている。


 風に舞い上がる花弁が、時を遅れて訪れた春を都の(そら)へと届けて行った。















 守る衛侍のない朱雀(すざく)門をくぐり抜け、朝堂院の入り口である応天門を右へ向かった。

 朝堂院は帝や官たちが朝議を開くための場所であり、隔壁の最奥には大極殿が控えている。


 応天門から続く塀に沿って進み角を曲がれば、右辺は太政官や中務(なかつかさ)省、陰陽寮などの舎屋が建ち並ぶ一角となる。そこをさらに行くと内裏の入り口である建礼門が見えた。


 その先にあるのが承明門。承明門をくぐれば、正面に建つ大きな建物が紫宸殿。左右の塀にはさらに月華日華の門がある。

 ここは内裏の南に位置する庭。紫宸殿は大極殿が使えぬ際の仮朝の場とされることも、また即位礼などが執り行われる殿舎でもある。


 朱雀門からここまで、誰に誰何されることなく辿りつく事ができた。それが可能となったのも、衛侍はおろか人の姿がどこにもなかったためだ。


 都入りを果たした我々が目にしたものは、色褪せた空虚な町並みだった。

 そもそも、老人の家から都に足を踏み入れるまでの間、我々一行以外、人の姿はもとより動物の姿も目にしていない。


 見覚えのある家屋に馴染みの通り。どれをとっても自分の知る都と寸分違わぬものだが、まるで影の中に入ったかのような感覚がある。

 生きるものが排除された隠世(かくりよ)の世界。ここでは存在するものすべてに生気が感じられない。




 釜から立ち昇る湯気の向こうには、小袖に緋袴、その上に千早(ちはや)を纏う斉子内親王の姿があった。

 目の前で湯気をたてている湯立釜や火を熾すための道具類、内親王が身に着けているものも同様、これらすべてこの大内裏のうちで用意したものになる。


 すべてを錦で誂えた装束は、いずれ伊勢か加茂へ群行することが定められている内親王のため、以前より仕立てられていたものだと言う。

 頭髪は大垂髪(ひたたれがみ)にするには短すぎたため、軽くあげた前髪に黄楊(つげ)の櫛を添え挿しするにとどめ、流した髪は後ろで軽く結ばれていた。


 湯立釜を前に緊張した面持ちを見せていた娘が、呼吸を整え顔を上げる。

 手にした手草葉(たぐさば)を湯に浸し、前後左右、中央へと順を追って振り上げ、清めの手順が踏まれて行くのを見守った。


「……あちっ、あっっつ、あっつい!」


「口を(つつし)め、もう一度やり直しだ」


「うぅ…」


 不満げに口を結んだ梓は、情けない顔で湯の張られた釜を睨んでいる。だがすぐに表情を改めると、大人しく作業に戻る姿勢を見せた。


 外見は内親王の姿そのまま、口を噤んでいればそれなりに見える。しかし、口を開いた途端にこうだ。

 何より、生まれながらに振る舞いを身につけて来られた内親王とは違い、梓には落ち着きも恥じらいもない。唯一の救いは、やる気と行動力だけはあるということか。


 袖を気にしながら手を伸ばした梓を見ていると、動作が先程よりも緩やかなものとなっている。どうやら少し冷めるのを待つ、ということに気付いたか、教えられたかでもしたらしい。


 明るい表情で再びやる気を戻したその様子に呆れつつ、南庭を見渡す。

 庭のあちらこちらに散らばる影は、老人の小屋から着いて来た動物たちのもの。自由に走り回るものから、のんびり佇むものまで様々だ。


 こちらの斜め後ろでは、ひょうたん徳利に括られた紐を肩から下げた老人が、地べたにあぐらをかいて座っていた。彼の老人はここへ到着してからずっと、何をするでもなく見物の姿勢をとっている。




 私は梓の話を聞き出したあの後すぐに、行動を起こした。

 だが時すでに遅く、獣像はその場から忽然と姿を消し、飾り棚には共に供えられていた(さかき)だけが残されていた。

 この時点で、寄り代を祓いこの結界を壊す、と言う手はとれなくなった。そこですぐさま呪印を結び名を呼んでもみたが、それにも反応は返らない。


 逃げられた、と意気消沈して外へ出てみれば、まだそこには動物然としたものらが(たむろ)し、平然と梓を囲んでいるではないか。

 まったく訳が解らない、逃げたのではなかったのか。そう憤ったものの、こうして留まっているのならまだ打つ手はある。


 そう奮起し、現在こうして手間暇かけて場を整えているのは、最後のひと柱を喚び出すため。

 これほど広大な神域をあの僅かな時間で創り上げる。そんな力を持つものが、あの場にいるとは到底思えなかった。

 恐らく、まだ姿を見せていないひと柱こそがこの結界を創り上げている元凶だろう。





 今、梓が手にしている青々とした手草葉は、老人の家に残されていた榊の葉。

 榊の文字は木と(かみ)とから成り、神に供える木の意を表し、儀式に於いては寄り代とされる事も多い。何かに使えれば、とあの場で懐へ忍ばせて来たのは正解だった。


 内裏の入り口である建礼門も承明門も、双方ともに開門され前の通りまで見通せるようになっている。門から紫宸殿までの庭にも、路を塞ぐようなものは何もない。


 場の確認を終え向き直ると、梓が紫宸殿の前階段から数歩先へ進んだ辺りに立っていた。目が合ったのを確認し、ひとつ頷いて見せれば、緊張を孕んだ頷きが返る。


 門を仮の鳥居とし、そこからの道を仮の参道として整え、場も清めてある。梓が禊ぎを終えた今、すべての準備は整った。


 これより行うは、神降ろし。

 まだ姿を見せていない、最後のひと柱を迎えるための儀式である。




――おく山や と山の峰の榊葉を 今手に取りて御座を清むる




 こちらの詠み出しに合わせ、梓が一歩を踏み出した。




――ひさかたの 天のむかしの神あそひ いまも雲井にうたふるなるかな




 これは、神迎えの儀式で詠まれる一般的な神楽歌。

 神代の時、岩屋の奥に隠れてしまった神を誘い出すため、アメノウズメノミコトが舞いを奉納したと記紀には遺されている。奉納された舞いを見て、集った神たちが宴を楽しむという場面。

 隠れた神が外で”笑い()らぐ”ものたちの姿に気を引かれ、岩屋の奥から出て来るという神話に因んで構成されたものになる。




――青木(あおにぎ)の 手草の枝をおり持ちて 参れば開く天の岩屋戸




 梓の舞いに合わせ、千早に付けられた菊かざりから伸びた紐が揺れ動き、右旋回から左への旋廻に移れば、同じ朱色の組み紐でゆるく結ばれた髪が踊った。




――榊葉や立まふ袖の追い風に なひかぬ神はあらしとそおもふ




 梓は内親王をこの状況に巻き込んだ事を気に病んでいた。

 故に、こちらの提示した案を一も二もなく了承し、ここに至るまで弱音も吐かずに大人しく舞いの稽古に励み、今こうして立派に舞い手を担っている。




――天地地祇(てんちちぎ) 八百万()神達を 此の神床へ迎え奉じむ




 舞いの動きは、猨女君(さるめのきみ)の舞いを実際に目にした事のある内親王に指導を任せた。

 内親王にしてみれば、既に梓という魂をその身に降ろしている状態だ。それがこの儀式にどう影響するのかは試してみるまで判らない。


 梓の舞いが少しずつ滑らかになって行くのを見届け、視界の端で南庭を一瞥する。

 庭のわきに控え、舞い手へ静かに目を向けているものたちは、梓が舞い始めるとその邪魔をしないようにとでもいうように、庭の隅に寄っていた。


 微動だにせず梓を注視しているそれらを静かに見据え、次の(うた)を詠みあげて行く。




――(くわう)(かく)神に 千代の御神楽(みかぐら)参らする ()め聞こし召せ玉の宝殿




 こちらは外来の神である客神(まろうどのかみ)を迎える神楽哥(かぐらうた)


 最後のひと柱を客神と見立てる事としたのは、この地を統べる天皇家の氏神が天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っていることを考慮しての事。

 それに加え内親王からこの哥を勧められたからに他ならない。

 彼の皇女(みこ)は、この哥をそらで暗じられるほど気に召しているらしい。




――いや高神客神の御前(みまへ)には いやかほよきみここそ舞ひ遊へ いや宿所は何国(いつく)と問ふたれは いやまつかさきなるとひおとこ




 神を迎える事を(かしこ)みながらも、こちらに迎え入れる用意のある宮がどれほどあるかを詠いあげ、これでもかと言うほどの数の宮をあげつらった後にやっと、結びとなる小節を詠む。




――次第とうしの宮々に あまねくあそひを参らする あなうれし あなよろこはし如此あらは 不問語(とはすかた)りは我そしる




 旋廻が速さを増して行く舞いを固唾を呑んで見守る。

 すべてを詠み終えればもう後は、内親王と梓に任せる他ない。だが――いや、やはりと言うべきか、最後のひと柱が姿を現すような気配はない。

 しばしのあいだ梓の舞いを見届け、休止の声を掛けた。


「梓、もういい」


 こちらの言葉に、旋廻の動きをゆっくりと止めた梓が向きなおる。眉尻を下げた顔には、申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。


「やっぱりダメだった?」


「ああ、だが始めからそう簡単に事が運ぶとは考えていない。まだ始めたばかりだ、気にせず休め」


 肩を落としこちらへ歩み寄って来る梓にそう告げると、力ない苦笑が返る。


「役に立てなくてごめんね。わたしがちゃんと身体から出られれば、せっちゃんが本物の神楽舞を舞えたのにねぇ」


 ――何を指して本物とするか。


 資質のみをみれば、この地の精霊がこぞって応じようとするほどの魂を持つ人間など、私の知る限りこれまで存在しなかった。梓はそれを理解していない。


 梓の胸のうちにあるのは、内親王へ身体を返せない事に対する後ろめたさ。

 だがそれ故に、己の力の無さを強く感じもするのだろう。


「詮無い事を嘆いても仕方無かろうよ。私がやった名付けも効果を成さなかったのだから、お前ばかりが無力を感じている訳でもない」


 素っ気なくそう返せば、袴の裾を折りこんで隣にしゃがみこんだ梓が不思議そうな顔で問うてきた。


「キツネくん、名付けなんていつしてたの?」


「翁の家へ着いて早々に」


 呪をのせた名付けで、あれらの力を抑えたはずだった。

 だが、いざ下そうと術を試しても、纏わせたはずの呪縛は効果を発揮せず、使役の術は失敗に終わっている。

 こちらの言を耳にして眉根を寄せた梓に、困惑と猜疑の色が浮かぶ。


「……え、ちょっと待って。ねぇ、まさかと思うけど、あそこで数えてた数があのこ達の名前だった、とか言わないよね?」


 恐る恐るといった問いかけに、庭に散る動物たちへと視線を向け、頷きを返す。


「数ならば、一番短い言葉と音の組合せで表せる上、忘れる事もそう無いからな」


 呪縛をかけ損ねたのは、名にうまく(しゅ)をのせられなかったためだろうか。梓の舞にしても、神楽を簡略化し過ぎた事に難があったかも知れぬ。


 失敗に終わった結果を省みてつらつらと次の手段を考じていると、隣からじわりと不快な思念が漂った。


「……ない、ないでしょそれは。あんなに可愛いこたちになんで数なの!せっかく名前を付けるんだったら、数にしたってもっと組み合わせとか読み方を工夫するとかあるよね!?」


 心底呆れた、と言うような雰囲気を醸し出す梓を横目に見て、鼻を鳴らす。


「名と言っても便宜上のものだ。それがどのようなものであろうと使役するのに問題などない」


 仮に凝った名を付けたとして、使役する際にわざわざそれを口にする機会など無いのだから意味もない。

 そう付け加えれば、こちらを見る梓の目が半眼になった。


「そんな事言ってるから、呼んでも返事してもらえないんだよ」


「……何の話をしている」


「わたしは絶対、その名前が気に入らないから返事をしてくれないんだと思うけど」 


「だから何の話だと言っている。返事をするとかしないとか、そういう問題ではない」


 返事をしてもらえない、という表現自体が間違っている。

 名を縛って使役するという事は、己の下に従えるという事。そこあるのは力関係のみ。使役出来るか、出来ないかは術者の技量によるものだ。

 だがそれを言っても、梓は納得しなかった。


「えぇー、本当に?……あ、それとも、キツネくんの時みたいにあのこ達にも、もうちゃんと名前が付いてるとか?」


「は?」


 ……他の名だと?


 思いもよらない梓の言にしばし黙考していると、隣から溜め息が聞こえてきた。


「でもそれだと、キツネくんと違ってあのこ達はおしゃべり出来そうにもないし、訊き出すのは無理っぽいかー。残念だねぇ」


 膝の上に肘をついていた梓だが、そこで何かを思いついたらしく、姿勢を正すと目を瞬かせた。


「でもそっか、あのこ達ともっと仲良くなれば、ここから帰してくれる気になるかも?……うん、わたしちょっと行って来よっかな!コミュニケーションをとる方法は何も言葉だけじゃないもんねっ!」


 ぶつぶつと何かを呟いていたかと思えば、にんまりと笑った梓が跳ねるように立ち上がり、気の抜けるような声をあげて駆け出した。


「おーい、みんなー!わたしと一緒にあっそびーましょー!」


「…………。」


 梓は近くに居た牛の背を通りすがりに撫で、跳ねまわっていたウサギを背後から抱き上げようとして逃げられている。さらにその足元に居た白ヘビをじっと見て手を伸ばしたところへ、背後から突っ込んで来たウリ坊に撥ねられた。


「うぎゃっ!?」


 その反動で前へつんのめった梓の足元から白ヘビが逃げ出し、体勢を立て直した梓が背後を振り返った時にはもう、犯人は別方向へ遁走したあとだった。


「こらあ、まて――っ!」


「おりょ?もう(はや)まつりに飽くれたんか。ほれ娘っ子(びー)、ぼさっとしちょらんでもっと早う駆けずらんと、捕まるもんも捕まらんさー」


「あっ、お爺ちゃん、いいとこに!このこ達が間違って門の外へ出て行かないように見ててー」


「おー、任しちょけ。びーもよそ見しちょると怪我(あやまち)するぞー」


 そう声を掛けひょうたんを掲げた老人に、手を振って応えた梓がまた駆け出して行く。


 必死になって犬や馬に追い付こうとするも、さらに加わった鶏や猿に追い抜かされている。取り残された梓が袴をたくし上げたのを見て大きく嘆息し、引きつる額を押さえつけた。


「まったく、お前たちは何をしているのだ」


 遠巻きに耳をそばだてていた動物もその遊びに参加して行く中、息を切らした様子の梓が足を止める。どうやら小休憩をはさむ事にしたようだ。

 そのうちに、周囲を機嫌よさげに跳ねまわるものたちに話掛ける梓の、気の抜けたような声が聞こえて来た。


「あー、みんなありがとねぇ。キツネくんを助けられたのも、おじいちゃんが行く気になってくれたのも、全部みんながいてくれたおかげだよ。本当にありがとう」


 感謝の言葉を掛けながら動物たちを撫でる梓からは、それらが原因でこの場に閉じ込められている、という事が抜け落ちているらしい。

 神霊たちを見る梓の目には、責める色や不満の色などかけらもない。


「お礼と言ってはなんだけど、キミ達が満足するまで遊び倒すから、気が済んだら帰らせてよね!」


 いや、流石にこの愚かな娘も、すべてを忘れている訳では無かったようだ。


 誘うように飛び出したイヌを追って梓が駆け出せば、他の動物たちもそれに続く。

 笑いながら追っていたかと思えば、逃げる側、逃げていたかと思えば撫でに行く、という無秩序な有様が南庭で繰り広げられていた。


 参道として作りあげた儀式の場も、こうなっては形無しだ。縦横無尽に駆け回り遊ぶ梓らの姿に、諦めが湧く。


 そのうちに、興奮したイヌが跳ねまわるように庭の中央に躍り出た。

 くるくると回り続けるイヌは、どうやら己の尾をつかまえようとでもしているらしい。それに気付いた梓が笑い、後を追う。


 梓に続いた動物たちが庭の中央へ集まると、その場が賑やかになった。

 押し合いへし合いするうちに、中心に空いた隙間へ押し出されるようにして梓が立つ。騒ぎの中からは、まるで動物たちと会話でもしているかのような梓の声が聞こえていた。


「え、もう一回?さっきみたいにしろって?くるくるが気に入ったの?あはは、いいよ。じゃあ、一緒に廻ろうか」


 その足元にはさきほど尾を追って回っていたイヌがいる。どうやら梓はイヌに話し掛けていたらしい。


 始め一方向へ回っていた回転を、目がまわったと笑う梓が逆方向に変える。右旋から左旋へと切り替え廻り続けるその動きが、次第に舞いの動きへと重なった。


 楽しげに舞う梓と、それを囲んで周囲を跳ねまわる動物たちの姿を眺めているうち、鼓膜が微かな音を拾う。


 耳を澄ませば、微かだった音がやがてはっきりとした旋律となって耳に届いた。




『 あめ つち ほし そら 』 




 そっと踏み出された一歩が、音もなく地面へ下ろされ、手にした採物(とりもの)が緩やかな動作で風を凪ぐ。

 細く高い声音が辺りに響き、口遊む言葉に合わせ舞いの動きもゆっくりとしたものに変わっていた。




『 やま かは みね たに 』




 梓が詠い出したのはあめつちの(ことば)と言われる誦文(ずもん)

 これは仮名48字からなり、一部の者の間では子どもの手習いや漢字音の手本として使われている詞だった。


 詞にのせられて伝わる思いは、ともにある喜びと感謝の心。


 滑らかに廻る舞い手の袖が、ふわりと風を含んではさらりと下る。動きの一つ一つが、まるで時の歩みが緩やかになったかのような光景となって目に焼き付けられて行く。




『 くも きり むろ こけ 』




 詞が繰り返されるたび、鼓膜を震わす痺れが強くなる。


 龍笛にも似たその音にいつからか鈴の音が加わり、詞を詠む涼やかな声に高く澄んだ声音が重なった。

 その違和感に目を凝らせば、舞い手の姿に揺らぎが生じている。姿がずれて重なったような光景に目を見張れば、くるりと旋回した背に浮かぶ淡い光が見えた。


 目の錯覚か、とひとつ瞬くうちに、目を開けた時にはもう、重なっていたはずのそれは二つに分かたれていた。




『 ひと いぬ うへ すゑ 』




 同じ装束に身を包み、寸分違わぬ所作で舞う二人の娘。


 左辺で舞う娘の容姿は斉子内親王のもの。だがもう一方、内親王の右辺には、肩までの髪を結びもせず風になびかせ舞う娘の姿があった。

 黒髪を風に遊ばせて、楽しげな笑みを浮かべ舞う娘の顔は、初めて目にする人物だ。だというのに、この娘の浮かべる表情は、今ではよく見知ったものだった。


 ……これが、本来の梓の姿か。




『 ゆわ さる おふせよ えのきのえたを なれゐて 』




 姿や背丈においては内親王とそれほどの差異はない。

 まだ落とされず残されている眉に、伏せ気味の瞼にかかる長い睫毛。その下に隠れる黒目勝ちな双瞳と形のよい鼻。

 目鼻立ちは、京で見る誰のものよりはっきりとしているように見えた。

 笑みの形をつくる梓の唇だけが、粛々とした表情を崩さない内親王のものとは対照的となっている。 


 場に聞こえるこの鈴の音は、一体何処から聴こえてくるものか。

 榊には鈴など付いていない。だと言うのに、娘らの手にする榊葉が振るわれるたび、鈴の音が響き渡る。


 耳にこころよい不可思議な楽の音が、清らかな旋律となって内裏の庭へと広がって行った。




『――あめ つち ほし そら …』




 詞がまた繰り返しに入り、旋廻の切り替えで榊葉が大きく振るわれると、ひときわ大きな鈴の音が高く響いた。


「そしゃ、ためらってやってくりょよ」


 耳元で聞こえた声に息を呑み、振り向けば、老人がいたはずの場所にはひょうたん徳利がひとつ転がっていた。

 怪訝に思い周囲を見まわすも、老人の姿はどこにもない。


 ……翁は何処に。


 一瞬の逡巡の後に、急いで前へと向きなおる。

 そうして見上げた視線の先では、先程までそこにあった地支たちの姿がかき消え、梓の足元からは無数の淡い緑光が立ち昇り始めていた。





 はじめ霞のようだった緑光が、揺れ動き、()り集まって結合し、生き物の輪郭を持って行く。


 大小の獣の輪郭を得た光が、跳ねまわっては舞い手の周りを巡っていた。


 それがぶつかり重なり合ううちに大地が鳴動し、動物たちが呑み込まれ沈んで行くのと同時、淡い光を放つ地表から次々と草木が伸びあがってくる。


 見る間に生長して行く草木に蕾がつき、花が咲く。

 実を付け熟し、腐り落ち、枯れて地に返るとまた、淡い光の粒へと変じて行った。


 緑光に包まれ舞い続けていた梓が、ふと、天を仰ぐように両手をあげ採物を掲げる。すると、梓の足元から一際強い光が放たれ、耳をつんざく轟音とともに地上からまばゆい柱が立ちあがる。


 勢いよく上空へと伸びあがった黄金の柱。

 全長を彩る金色(こんじき)の玉鱗が、朝日に燃ゆる稲穂のごとき輝きを放ち、くねる姿態を見せつけるように上昇して行った。


 しなやかな動きで天を昇るその姿に、感嘆の吐息がこぼれる。

 

「……勾陣(こうちん)


 京の中心を守る十二天将の一。土神、勾陣。

 その姿は金色の蛇だと云われている。


 探していた最後のひと柱が土中にいたとは、道理で見つからぬわけである。


 獣像を模した外見に惑わされ、地支と見紛いその本質を見極め損ねたか。

 自嘲しようとしたところで、はたと気付く。


 ……待てよ。


 だとすれば、紀伊の山で出会ったあれの本性も、馬ではないということになる。

 だが、地支の姿をとっているのだから、あの獣像が寄り代であることに間違いはないはずだ。


 ……ならば。


 馬は午。(うま)の方は南の方角にあり、五行は火気。

 占術に使う六壬式盤上において、午の方位にいる十二天将と言えば……。


「朱雀、か」


 南方を守護する四神の一にして南の守護神。火神の神鳥、朱雀。


 それが解ればこちらも道理、高く翔ぶはずである。


 (ことごと)く、梓の読みは正しかったらしい。己の至らなさに、もう笑うしかないではないか。


「……あぁ、完全にこちらの敗けだな」


 あれは、自分には手の届かない存在だ。


 ――今は、まだ。


 如何なるものをも畏れ憂えさせる凶将の鳴動に、耳に感じていた痺れは激しい痛みへと変じていた。

 天高く上昇を続けた金色の蛇が、降りそそぐ光と同化し姿が(おぼろ)になったのを見送って、知らず詰めていた息を吐く。


 都一帯に広がった光の柱が収縮して行くと共に、曇天の隙間からやわらかな陽光が射して来た。ひと筋ふた筋と降りて来る光を見上げていれば、鼻先を白いものがかすめて行く。


 その来し方を確かめようと視線を下ろせば、風に舞う花弁が目にとまる。


 白に薄紅、若紫、やや紫みのある淡い紅色と、瞬きごとに数を増す花弁とともに、甘やかな香りが鼻孔をくすぐった。


 季節に遅れた花々は、蕾さえ付けることの叶わなかった鬱憤を晴らすかの如く、見事に咲いては舞い落ちる。


 花弁で霞がかった内裏の庭に、笑い合う娘らの姿が見えた。

 手にした榊葉で口元を隠して微笑みを浮かべているのは斉子内親王。それに対する梓はと言えば、あいかわらずの大口で屈託なく笑っている。


 笑う梓の手に榊葉は無く、代わりにその左手は胸の前で包み込むように握られていた。


 遅れて、周囲がやけに静かな事に気付く。

 目の前では、笑い合う二人の娘が何事か言葉を交わしている。その周辺では地上に落ちた花弁が風に舞いあげられる様子があるが、微かな風音さえこちらの耳には届いて来ない。


 どうやら、先程の轟音で聴覚がおかしくなっているらしい。しかも、耳が聞こえないのは私だけのようだ。

 鋭敏に過ぎる己の聴覚に舌打ちしていると、内親王と言葉を交わしていた梓が、何かを捜すように周囲を見まわした。


 一度通り過ぎ、またこちらを見て止まった目を見返すと、一瞬の驚きのあとに親しげな笑みが浮かんだ。

 今ではもうすっかり見慣れた警戒心のかけらもない緩みきった顔だが、ここに来てまたこの娘は桃色の気配を漂わせている。


 榊葉の影で何やらこそこそと話しながらこちらへ歩み寄って来る娘二人を呆れて見ていると、手の届く程の距離を取った梓が正面で立ち止まり、楚々と動いた内親王は私の斜め後ろに控えるように立った。


 同じ目線にある梓のにやけた笑いをうんざりと見やれば、梓の口がはくはくと動く。

 向けられた言葉を音として捉える事は出来ないが、口の動きや表情、気配を読めば意思の疎通に問題はない。


 ――色々とありがとう。晴明(はるあきら)くんにも大変お世話になりました。わたしが言うのもなんだけど、せっちゃんのことよろしくね。


 この娘にはもう、内親王を邸に送り届けるには残された時が足りぬのだろう。

 了承の意をもって頷きを返すと、梓から何やら複雑な気配が漂った。


 ――あのね、さっきからなんか後ろから引っ張られてる感じがするんだよね。だけど、……これはどうしたもんかねえ。


 眉根を下げてこちらを見る梓からは、不安や焦燥、困惑のようなものが透けて見える。

 この期に及んでまだ何かあるのか。

 嘆息し、不安げな梓の頭上に手を差し伸べれば、驚きに目が見開かれた。


 予想はしていたが、今の梓に触れようとしても、こちらの手が何かに触れるような感触はない。憑坐(よりまし)であった内親王の身体から離魂した梓にはもう、実体が無いのだからそれも当然の事だろう。


 それでもしばらく頭部を撫でるようにしてやると、笑みを作ろうとした梓の表情が歪む。


「……何を泣く事がある。まだやり残した事があるのなら、言ってみろ。ここまで来れば厄介事があと一つ二つ増えたとて変わらぬだろうよ」


 助け船のつもりで声を掛けたはずなのに、この愚か者はなぜ涙の滲んだ目でこちらを睨みつけてくるのか。訳がわからない。

 気に入らなかったのかと手を下ろせば、不満げな気配が増した。


 河豚(ふぐ)のように頬を膨らませた梓の顔を呆れて見ていると、左拳に添えられていた手が外されこちらへと伸びてくる。

 だが、こちらの(たもと)を掴もうとした手は、袖に触れる事無くすり抜けた。


 梓の眉がむっとひそめられ、自棄になったように動かされた手がこちらを掴もうと動いている。だが、その手はすかすかと空を切るばかり。


「……まったく、何をしているのだお前は。もう用は済んだのだろう。帰れるうちに帰らねば、今度こそ戻れなくなるぞ」


 その言が効いたのか、梓の手の動きが止まる。

 だが、こちらを見据えた目には……意味のわからぬ怒りが籠っていた。


 ――帰ろうよ。


 向けられた強い視線と言葉に、訳が解らず困り果て梓を見る。


 ――そうだよ、全部終わったんだよ。ここですることはもう無いの。だからさ、もう帰ろう。


 続けられた言葉と共に、梓の胸中には不安や焦燥が増して行く。

 それを受け、湧き上がって来た感情に悪態を吐きたくなった。


 ……くそっ、なんだこれは。


 もやもやとした何かが胸を蠢いているような感覚がある。


 なぜお前が帰ろうなどと私を誘うのか、どう考えてもおかしいだろう。

 そう冷静に考える一方で、梓に向かって足を踏み出したい衝動があった。この衝動は、名を縛られているために起こる作用だとでも言うのか。


 共に在りたいと思う気持ちと、この場に留まらねばならぬという感情の揺れに動揺し、拳を握る。


 どうするか、結論を出したつもりなどない。

 だが、知らず前へ出ようとした勢いを止める者がいた。振り返れば、こちらの袖を引く斉子内親王の凪いだ双眸と視線が合う。


 ゆっくりとした瞬きのあとに、左右へ振られた(こうべ)を見て、留まらねばならぬのだという気持ちが強くなる。

 すると唐突に、痺れを切らしたような激しい思念が頭に響き、額を強く小突かれたような衝撃が襲った。


()()、急いでよ!ぐずぐずしないで出てきて、もう帰るんだってば!』


 内親王のものより少し高い声音が聞こえたと同時、また一際高い鈴の音が響く。

 身体から何かが抜け出して行く感覚に目を見開き、驚くうちに、眼前に現れた白銀の影が梓へ向かって飛び出して行くのを目を見開いたまま見送った。


 こちらへ向かって伸ばされていた梓の手が、白銀を受け止めるように抱え込む。その勢いのままこちらへ向けられた背中には、淡く光を放つ紋様が浮かんでいた。


 白い光を宿す線が描くのは、無限の連鎖を繰り返すとされる五芒星。


 白光に揺らめくその星を捉えたのは一瞬の事。それが見えなくなったと思った時にはもう、梓の姿も、白銀の影も、この場からかき消えていた。





 静まり返った庭に一陣の風が吹き抜ける。あたり一面に広がっていた花弁が巻き上げられると、痕跡を浚うように舞いあがった花弁が、都の空へ吸い込まれるように天高く昇って行った。


「帰ったか……」


 誰に向けたものでもない呟きに、背後から同意の気配が返る。振り返れば、袖を摘まんだままの体勢をとっていた内親王が、恥じたように手を引いた。目の前にいる皇女の顔にはもう、あれに憑依さていた時のような笑みはない。


 あの娘は本当に、元の場所へと還る事が出来たのだろうか。そんな懸念が頭を掠めるが、もうこちらにしてやれる事など何もない。


 消えつつある都を覆う結界がどこまで持つかを確認するように周囲を見渡せば、南庭の庭に植えられた橘の木に、青い小さな果実が生っていた。

 その変化を見て自然と口角があがる。だが、安堵するにはまだ早い。


「衛侍に捕まっては敵いませぬ。急ぎ、ここから出ましょう」


 風が水の気配を運んでいる。そのうちに雨も降りだす事だろう。

 これで今年も無事に過ごせそうだと思考を巡らせていると、はい、と応える小さな声が耳に届いた。


 差し出した手に重ねられた内親王の手を引き、内裏を後にする。


 晴れ空のもと、降りだした雨が大地をしとどに濡らして行く。

 内親王の邸へ辿りついた頃にはもう、平安京のそこかしこに常の喧騒が戻っていた。


















 ――承平六年五月十一日、醍醐天皇第十七皇女斉子内親王は、齢十六にして斎宮(さいぐう)卜定(ぼくじょう)を受けるも、群行はおろか野宮入りすることすらなく、斎王(こう)が報じられた。


 同年九月、前斎王の姪である徽子(きし)女王が斎宮卜定を受けた。


 それから十年の後。

 天慶九年四月二十日、村上天皇即位にあたり恩赦を与えられた者らの中には、斎宮に仕えた女房の名があった。


 齢八で斎宮卜定を受けた徽子女王の野宮入りから伊勢への群行、退出まで。

 十年の長きに渡り仕えていた女房であったが、徽子女王が帰京するに至っても一人斎宮に残されていた。


 だが、徽子女王をはじめとした嘆願の声もあり、醍醐天皇第十四皇子であった村上天皇の情けを受け、恩赦を与えられた女房はようやく野に下る事を赦された。






 ――晩婚ではあったが男児二人を儲けたその女房の表情は、歳を重ねるごとに豊かになり、ただ一人心通わせたという“友”によく似たものへと変わって行くことになる。


















【久方の 天つみ空に照る月の 失せなむ日こそ 我が恋止まめ】


「空から月が無くなる日でも来ない限り、私があなたを思う気持ちがなくなることなどありえない」

月がなくなる日はこないでしょう。だから、私があなたを思う気持ちがなくなるなんて事はありえないですよ。






かみずさ【神遊】

神遊び。神楽におなじ。神に奉納するため奏される歌舞。


猨女君(さるめのきみ):巫女として祭祀に携わっていた女官の称号。

誦文ずもん:呪文を唱えること。また、その文句。

笑いゑらぐ:えらぐ=喜ぶ。「楽しみ笑う」意。

ためらってやってくりょよ:身体に気を付けて、お元気で、という意味合いのあいさつ言葉。


参考・引用文献

☆日本庶民文化資料集成 第一巻神楽・舞楽

☆斎宮-伊勢斎王たちの生きた古代史-

☆飛騨高山 匠の里

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ