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梓弓  作者: 長月 夜半
第二章 朧月
52/57

天つみ空に照る月の ―憑坐―

よりまし【憑坐】


神霊の依代よりしろとしての人間。

神の依りますところとして、その神意を託宣として伝えるもの。


 気付けば雨は止んでいた。

 もう少し降り続いて欲しいと言うのが本音ではある。だが今は、先を急げることを喜ぶべきか。


 話し合いの末、梓には斉子(せし)内親王の身をこれ以上損なう事なく帰すことを約束させている。しかしその前に、梓は私に老人の許へ同行し、約束が果たされたことを証明して欲しいと訴えた。


 こちらとしても、白狐を捜すよう依頼したという老人の事は気になる。利害の一致を見たところで雨が止んだ事を告げると、梓はすぐに出発しようと言い出し、帯を解き始めた。

 

「……お前には、恥じらいというものが無いのか」


 視界を塞ぐように眉間を揉みこんで苦言を呈すが、相手に響いた様子は無い。


「え、なんで今更?」


「何が今更だ、この愚か者。皇女(ひめ)の身をぞんざいに扱うなと言っただろう」


「あ、大丈夫、大丈夫。せっちゃんも気にしてないから」


 口ではそう言いつつもこちらに背を向けた梓は、くつろげた前合わせを整え、手慣れた様子で着付けていった。あっけらかんとした物言いに不満は覚えるが、ひとまずほっと息を吐く。


「内親王の意識はそこにあるのか。だが、これまでずっと私と話しているのは()りついているお前の方だろう?」


「憑りつくって酷くない?それじゃあ、まるでわたしが……」


 きっちりと小袖を直した梓が振り返り、こちらの言に文句を垂れた。だが、すぐにはっと息を呑むように目を見開くと、おろおろと落ち着きを失くす。


 ……よもや、自分が皇女の身体に憑依しているという自覚も無かったのではあるまいな。


「ち、ちょっと待って?ままま、まさかわたし、せっちゃんのとこに入れてもらえるまで、お、お、おばぉおばばばっ!?」


 奇妙な声を出し、こちらへにじり寄って座り込んだ梓は、身体を小刻みに震わせて硬く拳を握りしめている。


「……どうせそれもまた、何も考えずに仕出かしたのだろう。もういい、お前が迂闊(うかつ)な愚か者だと言う事は十分理解した。もう余計な事は考えるな、面倒が増えるだけだ」


 呆れまじりに溜め息を落とし、尾で梓の顔をはたいてやると珍妙な声は止んだ。

 しばらくそうしているうちに、膝上で血の気が失せるほどに握りこまれていた手が緩み、震えも治まる。


 だが、また梓から性懲りもなく桃色の気が立ち昇って来るのを感じ、すぐさま尾を引いた。追い縋るような情けない声は無視して、梓へ向き直り状態の確認を続けて行く。


「それで、今お前たちはどのように意識を分けているのだ」


「うぅ、いけず。もうちょっとデレてくれも……ごめんなさい、ちゃんとします」


 よく見えるよう爪を立ててやると、梓は姿勢を改め正座した。


「……えっと、最初はせっちゃんがわたしの言ってる事を代弁してくれてたんだよね。でも、今はもうタイムロスなくわたしが喋ってる気がする。せっちゃんの考えてる事は伝わってくるけど、一歩下がって好きにさせてくれてる感じかな?」


「身体の方はどうなっている。お前が主導権を握っているようにしか見えないが」


「うん、急いでたから走って欲しかったんだけどさ、せっちゃん走ったことないって言うし。わたしが走った方がいいだろうって任せてくれたから、好きに動いちゃってるの。体型が似てるからかな、なんかもう自分の身体と変わらないよね。ほら、せっちゃんも『御心のままに』って言ってるし」


 ……それは、お前に意識ごと身体を乗っ取られている、という事ではないのか。


「言っておくが、それで内親王の意識があるという確証には()らんぞ。結局のところすべてお前が喋っているのだからな」


「あ――…、せっちゃんの奥ゆかしさが伝わらないなんて、残念だよ」


 ……残念なのは、お前の頭だろう。


 梓は少し考えるそぶりを見せ、目を伏せた。その様子を怪訝に思って見ていると、それまで梓の顔に浮かんでいた表情が消えて行く。

 次に瞼が持ち上げられた時、こちらをまっすぐに見つめてくる目は、湖面のように凪いだものとなっていた。

 身を包む気配も凛とした緊張感あるものに変わり、しっかりと合わされた黒い瞳の奥深く、そこに意志の強さを感じる。


 目の前に座る娘は、それまで自分と話していた者とは別人のようだ。まとう気配からして、違う人格が表出しているのだと理解する。


「……何か、私に仰りたい事はありますか」


 中にいる(あずさ)を刺激しないよう言葉を選び、感情を探る為かけた言葉に、だが斉子内親王はゆっくりと首を左右へ振った。その顔には、静かな笑みが浮かべられている。

 それは、この娘が納得の上でこうしているのだと悟らせるには、十分な仕草だった。


 なぜ、内親王がこのような怪しい(やから)に自分の身を貸し与えようなどと考えたのか、理解し難い。だが……。


皇女(ひめ)がそう望むのであれば、これ以上私から言う事はない。この度助けて頂いた恩義に感謝する。いつかお返し致しましょう」


 そう言って目礼すると、安堵したような気配を纏わせた内親王はそっと目を伏せた。

 次に目が合った時にはもう、その儚げな笑みは消え、梓の笑いを堪えるような表情へと変わっている。


「うへへっ、恥ずかしいからもう代わってだって。ね?せっちゃんてすごく奥ゆかしくて可愛いかったでしょ?」


「……その姿で、にやけた顔をするのは止めてやれ」


 今の今まで半信半疑だった梓の言。この変化が目の前で行われたもので無ければ、全てを信じる事はなかったかもしれない。


 ……なるほど、これが神霊に仕える皇女(みこ)の力か。


 その健やかで清らかな心と(からだ)をもって神を祀る役目を担う皇女。

 それは今の世には無くてはならない存在だ。

 祀っている対象が、放っておけば祟りを起こしかねない存在なればこそ、古来よりそれを鎮める乙女があてがわれて来たのだから。


 だが実際のところ、斎王の任に就く皇女が持つとされる異能については、ずっと作り話だと考えていた。

 神霊と人との仲を介し授ける”神託”だの、霊魂を招き寄せ、その思いを伝える”口寄せ”などといった物は、神の威信を笠に着て人民を誘導しようとする為政者が行わせる偽りであると。


 ……これまで意思の疎通が可能となるほど理性を持った神霊や霊魂に、出くわしたことが無かったからな。


 未だに緩んだ顔でこちらを見ている梓の姿に、溜め息を吐く。

 しかしこの状況を目の当たりにすれば、これがこの次期斎王に備わっている力なのだと、認めざるを得ない。いや、この力を持つ身であるからこそ、代々の皇女がその役目を背負わされて来たのだと言うべきか。


 ……やはり力など、持っていても碌な事にはならないな。


「じゃあ、せっちゃんの気持ちも確認したことだし、急いで着替えちゃお!……あー、まだ生乾きだぁ」


 文句を言いながら袴を手に取った梓はそれを履く為に、もともと短い裾を更にたくし上げ、あられもない姿を晒していた。

 こ奴には何を言っても無駄。それを悟ってその場を後にする。


 身支度が整うまで外で待つ事にして扉を閉じると、高床造(たかゆかづく)りになっている祠の(きざはし)がすぐ目の前にあった。それを下ろうとしたところで、ある物に気付き足を止める。


「これは……」


 階の下段、その中央に置かれていたのは、両手の平に収まる程の丸石だ。

 石自体はどこにでもあるような物だが、この石には意図的な細工が施されている。


「結界を、張っていたのか」


 青草で編まれた縄が括りつけられている石。そこに施された(まじな)いへ目を凝らす。

 石と同様、青草自体もこの辺りに生えているものだ。

 だがその網目の一筋一筋、結び目の一つ一つが、この場の(さかい)を強固なものとし、内と外の世界を見事に隔てていた。


 狐の姿に転変したこの身であれど、神域に長く居過ぎれば神気に()てられ、少なからずその影響を受ける。

 そも、力の制御が利かなくなったのも、神域へ度々入り、長く居過ぎたのが大元の因だろう。


 もしあの場で命を終えていたなら恐らく、失くしていたのは人の生。次に目覚めた時には人で在ったことなど忘れ、ただの妖狐として存在していたに違いない。

 それは、私の本意とするところでは無かった。


 ……そこに考えが及ばぬほど、神気に侵されていたという事だな。


 祠に施されている結界は”(とど)め石”。

 本来、石を使った結界はこういった神域へ無闇に入らぬよう、その手前に施されることが多い。しかしこの結界は、祠を特定域として侵入するすべてのものを阻むように、空間が閉じられている。


 この場にあった物を使う事で、巧みに山の気配を取り込んで祠を覆い隠していた。道理で、今の今まで気配に気付かぬわけだ。


「力が安定したのも、この結界のおかげという事か。……一応、礼は言っておく。手間を掛けさせたな」


 忍び寄る気配に声を掛ければ、不満そうな声が返った。


「うぬぅ、バレてたか」


 梓は背後からこちらに伸ばしていた手を引っ込めると、隣へ腰を下ろした。その身にはすでに童水干が着こまれている。


 後ろへひと括りに流された黒髪は、切ったと言うのが惜しまれるほど真っ直ぐで艶があった。

 しかし、括紐(くくりひも)で絞りあげられた袖と袴が、中にいる人格の残念さを醸し出している。むき出しの腕と脛はより一層肌の白さを見せつけるものだが、そこに色めく要素などかけらもない。


「もう、ここは気付いてても知らんぷりするとこでしょ?」


「なんだ、その意味のわからぬ主張は」


 梓はわざとらしく膨らませていた頬を笑みに変えると、足元に置かれた止め石に手を伸ばした。


「物申したい事は多いが、助けてもらった事については感謝している。その結界を施したのもお前だろう」


「うん、寝る前にちょっとやってみたの。この止め石が結界だって教えてくれたのは、お茶飲み友達だったお爺ちゃんなんだ。『この先には入ったらあきまへん』っていう(しるし)だから、覚えておくといいって言われたの」


 梓は草の結び目を突いた後で、懐かしむように石を撫でた。


「ここで休むのに、気休めぐらいにはなるかなと思ってさ。……まさか自分が、お茶席や境内の道案内以外でこれを置く日が来るなんて思ってなかったけどね」


「これが気休め?……それは嫌味か。この結界は私が普段使っているものより数段精度が高いぞ」


「……はい?」


 そんな結界を気休めと言われては、こちらの立つ瀬が無い。

 謙遜も行き過ぎれば、人を不快にさせるもの。鼻を鳴らして冷めた目を向ければ、梓は戸惑うような顔をした。


「ちょっと待って。え?この止め石が気休めじゃなく、本当に結界になってるって言ってるの?」


 ……何を今更。


「この結界だけでは無い。お前が私に掛けてくれた(まじな)いもよく効いた。あのように簡略したものであれほどの効果を発揮させるなど、人は見かけに()らぬとはよく言ったものよ」


 私に行使した名縛りに至っては、極悪の域。その後の使い道について何も知識が無さそうだという事がせめてもの救いか。

 皮肉を言ってもう一度鼻を鳴らしてやると、梓は黙り込み視線を石に落とした。


 ……少しばかり、言い過ぎたか。


 横顔を見て、薄っすらとした記憶の中から梓の(まじな)いを思い起こしていると、怪訝に眉をひそめた顔がこちらを向いた。


「……なんか、言ってることがよく解んなくなって来たんだけど。何の話をしてたんだっけ?」


 梓が首を傾げたので、つられてこちらも首を傾げる。


「お前の行使した結界と(まじな)いの話だろう。……お前まさか、自分で唱えた癒しの(まじな)いを覚えてないと抜かすのか?」


「癒しのおまじない……。あぁ、あれか。痛いの痛いの飛んで行けってやつ?」


「そう、それだ」


 なんとも直接的な(まじな)(ことば)である。だが、梓や斎の内親王にはそれで十分という事なのだろう。

 あの時、泣きながらこちらの背を擦り、消え入りそうな声で紡がれた言葉や(まじな)いが私の身体を癒し、抜けかけていた魂の半分を引き戻したのだ。


「全文を(うた)っている訳ではないが、やはり都で流行っているものと同じだな」


 以前、西の市で目にした光景。

 泣く子の膝には擦り傷が出来ていて、転んだ我が子に母が(まじな)いを唱えていた。

 もちろん、常人が施した形だけの(まじな)いに劇的な変化など起こるわけもなく、傷を治すには至らない。だがそのすぐ後に、笑顔を浮かべまた走り出した子の姿が印象に残っている。


「全文……あぁ、あっちのお山に飛んで行けーとか、ママのところに飛んで来ーいとか?」


「まま?」


「お母さんのこと」


「ああ、そう言う…」


 ……それでは他者にその苦痛を移す(たが)え言葉になってしまうだろうが。


 後者は母の心情を唱ったものなのだろうが、それはすべきでない。

 この一見無害そうな梓でもこのような術を知っていたのか、と衝撃を覚えたが、考えてみればこちらも似たような非道をされていたなと思いつく。


 しかし、平然とした顔でそれを言っている梓を見て、首を振る。


 ……こ奴は絶対に解っていない。


「そのような愚かな真似は止めておけ。お前の言ったそれは、市井の奴らが唱えていた文句から、元の言葉に手が加えられたものだろう。面白おかしくすれば良いというものでは無い。その護法の始まりの(ことば)は、”知仁武勇ちじんぶゆう御代(ごよ)御財(みたから)”と唱えるのだ」


 市井では大抵その後に、梓が唱えていた文言が続けられる。


 意味としては、情け深くも武勇ましい天地(あめつち)の神々よ、とその御財(みたから)である霊験を(あが)める祈祷を唱えていることになる。

 御財は御宝。御宝を護法と重ね、重複させた短い詞の中に、思念を籠める事に意味がある。

 そこへ更に、自分の成したい思念を乗せる事で悪しきものを調伏したり身を固めたりといった法力へと変えるのだ。


「ちぢんぶゆう……あ、わかった!そこから”ちちんぷいぷい~”って変化してったんだ。あのおまじないの語源なんて、今まで考えた事もなかったなぁ」


 こちらの話へ感心したように頷く梓のその姿に、なんとも言えぬ情けなさを覚えたが、ひとまず話が片付いたと見て息をつく。


「さぁ、お喋りはここまでだ。そろそろ出発しよう。その結界は解いて行った方がいい、次にここへ訪れる者が現れた時、祠を見つけられなくなるからな」


「どういうこと?」


 梓は結界石を抱えたまま目を瞬かせていた。


「?どういう事とはどういう……」


 こてりと首を傾げ、こちらを見ている梓のその阿呆面を見て悟る。


「……まさかお前、本当に気休めだと思ってやっていたのか」


「おまじないが、気休め以外のなんだっていうの」


 真面目くさった表情でそう答えた梓の顔が、憎たらしく見えた。


「納得がいかん。なぜそれほど無知なのに術の精度ばかり高いんだ。……お前、そのうち痛い目を見るぞ」


「ちょっと待って、なんでそんなこと言うの!?止め石のおまじないをこっくりさんみたいに言うの止めて!?」


 手の上に乗せた止め石を見て、恐れおののく梓の姿に嘆息する。


「……こっくりさんとはなんだ。いや、いい。危険だと感じるのなら、お前はそれに絶対手を出すのではないぞ。(まじな)いには危険な物があると言う話だ。その意味も知らずに手を出すのは愚か者のする事だと言ったんだ」


 こ奴と話していると、話が明後日の方へ向かって行くのはなぜなのか。

 苦悩しつつ、口を開く。


「”()()ない”とは本来、”ある()()き事を行う”という呪術の事。人が自分だけの力ではどうする事も出来ない事を、力あるものの助けを借りて叶えようと編みだした術だ」


 不可能を可能にする呪術は誰しもが行えるわけではない。神霊や精霊に呼びかける事の出来る者だけが、その力を借り受けることが出来る。

 どれほど長い成句を唱えても、精霊や神霊に呼びかける才に恵まれた者で無ければ、その力を借り受ける事は叶わない。


 霊験を持たぬ常人がその才を手に入れようとして、己を限界まで追い込むというような修業が行われているが、それをしたとしても力を手に入れられるのはほんの一握りの者のみ。

 だが、常人の身でも出来る事が無いわけではない。


「願いを言の葉に乗せて唱えるだけでは足りない。人の手による行い自体にも意味がある」


 生物の紡ぎ出す言葉には力が宿る。その行動もまた然り。

 それは生物から湧き起こる感情にこそ、力があるからだ。そうでなければ、なぜ睨まれただけで足が竦んだり、肌を寄せただけで心が休まるのか。


 それは決して一方的なものではない。双方にそれぞれの感情があってのこと。

 そこに籠められた思念(おもい)があるからだ。


 すべてを超越した”無”でもない限り、その理から外れることはない。

 この世にあるものはすべからく、それぞれに干渉し合っているのだから。


「言葉や行動に思いを乗せると言う事は、何も特別な事ではない。人は誰しも、他者へ干渉しうる力を持っている。だが、たとえば傷を完治させるという行いは人知を超えたものになる。人知を超えた行いは、人知を超えたものにしか為し得ない。だから精霊に呼びかけるのだ、力を貸してくれとな」


 梓の言う気休めとは、母のつたない(まじな)いで子の心が休まり笑顔になったあの状態を意味しているのだろう。

 だが、真に力あるものがそれを行えば、それは現実に不可能を可能とする。


 梓が身に着けている泥のついた草鞋を見て、丁度いいと思いつく。


「お前が履いている下沓(したぐつ)草鞋(ぞうり)を脱いで、こちらへ足を寄越してみろ」


「足?」


「愚図愚図するな、素足を出せと言ったのだ」


 梓は訝しげな顔で草鞋を脱ぎ、素足を並べてこちらへ向けた。


 生まれてこの方、山登りなどした事がない内親王の白くやわらかな足には、草鞋の紐で擦れたあとが痛々しく残されている。

 見たところ、両足のどちらにも無数のみみず腫れと水疱の潰れた傷が出来ていた。


「傷があるのに汚れた下沓を履く奴があるか、愚か者め。少し触れるぞ、痛ければすぐに言え」


 触れると言っても、前足をかざすようにそっと置いただけ。痛みを感じさせるほどではないはずだ。

 念を込めれば、足の甲にゆっくりと熱が広がって行く。


 ここが結界の中でなければ、早々に治せただろう。結界の外には、そこらじゅうに精霊が漂っているのだから。

 だがこの結界は、私の身体を休める為だけに作られたと言ってもいい、私だけの浄域だ。ここには必要以上の神気は入り込んで来ない。


 自分の力だけで癒しを行うには少しの時を要し、やがて熱が引いて行くのを感じ前足を下ろした。


「もう草鞋を履いていいぞ」


 梓は傷が癒えた事に驚いた様子を見せ、疑問を口にする。


「……靴擦れが治ってる。ねぇ?今のはおまじないを唱えてないけど、どうやって治したの?」


「慣れれば言葉は重要では無くなる。お前だとて言葉を省略していただろう。私にも少しは霊験が備わっているからな。精霊の力を借りずともこれくらいの事は出来る」


 苦々しい心の内を隠し視線を逸らすと、ふわりと柔らかな気配に包まれた。


「ありがとうって、せっちゃんが伝えて欲しいって」


 とっさに逃げそびれたのは、梓からおかしな気色が立ち昇っていなかったせいだ。

 まるでこちらの心を見透かしたかのような行動に、しばし言葉を探した。


「……抱きつく必要はないだろう。それよりも先を急ぐぞ、今度はお前の番だ。仕度を整えたら、石に施した術を解いてみろ」


「うっ、ほ、ほんとに何か見えない壁が出来てるの?ビニールハウスみたいな?」


「お前が何を差しているのか解らぬが、”見えない壁”とは上手いこと言ったものだ。ほら、早くしろ人里へ下りる前に日が暮れてしまうぞ」


 梓を急かして草鞋を履かせ、やり方を指南する。  

 もう一度、草縄の結ばれた丸石を手に乗せた梓は、緊張した面持ちで石を睨んでいた。


「その草縄の結び目に手を添えて、『(ほど)け』と念じるだけだ」


「ほどけ?……あぁ、解けろって意…味……」


 梓が自分で口にした言葉の意味を理解したと同時、結ばれていた草縄がはらりと落ちた。結界が解かれた事で、神気を含んだ風が祠へ向かって流れ込み、清浄な風が毛並みを撫でて行く。


 そこから起きた風に煽られ、重なり合った梢がさざめくように音をたて、まとっていた露を散らした。

 静けさの中にも、小さなものたちの息づくさやかな音が聞こえてくる。


「場の空気が変わったのが解るか」


「……わかる。これを置いた時は、達成感っていうか、何か少しほっとしたなぁぐらいにしか思わなかったんだけど。なくなって見るとなんだかすごく、心細い感じ。でも……、このお山の澄んだ空気は好き」


 石を地面へ戻し祠前の草地に立った梓は、目を閉じ深く呼吸している。

 不安定なこの身には強すぎた濃密な神気だが、こちらの身体が元通り回復した今は、山の気をすんなり身の内に取り込むことが出来た。


 しかし、普段であればそこら中に漂っているはずの精霊たちが姿を現さない事に違和感を覚える。


「……おかしいな。いつもなら、鬱陶しいぐらいに精霊が寄って来るのだが」


 怪訝に思って呟くと、梓がこちらを振りかえった。


「ここにも精霊がいるの?それってやっぱり光ってたりする!?」


 妙にはしゃいだ様子の梓は、雑木林の向こうへ探るような視線を送っている。

 だが、少なくとも見える範囲に精霊の気配はない。


「光を放っているものに、色の付いたもの、様々だな。たまに無色透明って奴もいる。種類によっては蟲のように羽を持ったものも見掛けるな」


 精霊の中でも木や火、風、土、水の精霊といったものは大抵どこにでも居る。

 だが、多くの精霊は神域に棲んでいるため、山奥でしかその姿が見られない。


 神霊ともなれば、好き勝手に階層を移動しているため、滅多に同じ場所に現れる事がない。

 たまに気まぐれで里に降りて来る厄介なのもいるが、大抵は祀っておけばそのうち宿替えし姿を消す。


 近頃では、力ある大きな神霊はこの地に降りて来ることが無くなっているようだ。神代の時代から比べれば、今この地に残されている神域など、僅かな物でしかないのだろう。


「……あのさ、ちょっと聞いてもいい?」


「なんだ」


「わたし、こっちに来てから蛍みたいに光る虫がいっぱい見えるようになったんだけど、アレってこの時代にはよくいる虫なんだよね?まさかあの虫が精霊ってわけじゃ…」


 梓の言葉はこちらへ向けられているが、その視線は雑木林へ送られている。


「都の近くで見たのなら、木霊か風の精霊だろう。だが、その辺りの夏虫と一緒にするな。木や風の精霊といえど、あれは高次元の生き物なのだぞ。(まじな)いに力を貸してくれるのは、ああいった身近な精霊だ。機嫌を損ねるような物言いは止めておけ」


「……ちなみに、ご機嫌を損ねるとどうなるの?」


「祟る」


「!?」


 目をいっぱいに見開いた梓は、おろおろと周囲を見回した。


 こ奴は本当に考えていることが解り易い。

 思考や気を読むまでもなく、考えが透けて見える。……かと思えば想定外の言動をしたりと突拍子もないのだが。

 そのどれもが、自分にとって不愉快というほどの物ではなかった。


「あの、わたし、こっちに来てからさ、ソレがね?いっぱい(たか)って来るもんだから、虫かと思ってあっち行けって追い払っちゃったんだけど、だ、大丈夫かな?」


「これからは気を付ける事だな。お前の(まじな)いに力を貸してくれていたのだから、今のところは問題なかろう。……多分な」


「多分とか怖いからやめて!?」


「ふっ、冗談だ。精霊自体は祟ったりしない。お前が追い払った時の言葉が(まじな)いとして効いているのだろうよ。呼べば集まって来るだろうが、今は遊んでいる暇はない。都からここまで来るにしても、相当時間がかかったはずだ」


「あ、ううん。ここまでは馬に乗ってきたから、あっという間に来れたの」


 その返答を聞いて拍子抜けする。なぜもっと早くそれを言わないのか。

 内心憤りつつ、馬があるという話に先行きの明るさを感じた。


「そうか、ならば都まで戻るのにもそれほど苦労は無いな。すぐにその馬を取りに行こう。どこへ繋いである?」


「……え?」


 意外な事を訊かれた、とばかりに目を瞬いている梓へ半眼を向ける。


「……まさかお前、乗ってきた馬を繋ぎもせずに放置したのか」


 目を泳がせた梓はぎこちなく首を雑木林に向けて動かし、焦ったような声を上げた。


「お、お爺ちゃんのとこへ行く前に、あのこを捜さなきゃ!」


 梓は懸命になって周囲に首を巡らせているが、馬はおろか他の動物の気配もない。普通の馬が私の倒れていた場所までこの山を登ってこれたと言うだけでも、驚くほどの胆力だ。

 だが、普通の生き物がずっとこの場所に留まっていられる訳がない。


「その馬は諦めるしかないだろう。もうどこかへ逃げて…」


 焦りに駆られた梓には、こちらの言う事など耳に入らぬようだ。大きく息を吸い込むと、腹の底から声を張り上げた。


「おうまさ――ん!どこにいるの――!?もどってきてぇぇぇぇっっ!!」


 最後は『お願いだから――』と涙混じりになっていた梓の、その情けない声を聞いて大きく息を吐く。


 ……呼んで戻って来るような馬なぞ、いるわけが…。


 しかしこちらの予想に反し、霧にけぶる雑木林の向こうから猛然と突っ込んでくる気配があった。

 あっと言う間もなくそれが近づき、梓の耳にもその足音が届くのに時間はかからない。


「あ、うそっ。戻ってきてくれたかも!?あぁっ、やっぱり!良かったぁ、お爺ちゃんに怒られちゃうとこだった!!」


 驚くような俊足で雑木林を抜け姿を現したのは、一頭の牡馬。

 息一つ乱さず常歩(なみあし)まで速度を殺し、こちらへ近づいて来る。


 輝くような白い毛並みと漆黒の毛並みが混在するそれは、鶴にも似たその白黒の馬体から”鶴斑毛(つるぶちげ)”とも呼ばれる珍しい馬だ。その文様が瑞兆であると一部の者の間では人気が高い。


 その馬体には大層煌びやかな唐鞍皆具(からくらかいぐ)がとり着けられていた。

 金の飾りが惜しげもなく馬具に施されている。あれだけでも相当な重さがあるだろう。だのに、馬がそれを気にした様子もないのは、今の走りを見ていてもわかる。


 雑木林を抜けて目の前に現れた馬は、神々しいまでの神気を漂わせていた。――つまり、普通の馬では無い。


 祠の前に蔓延る草をかきわけ、ためらう事なく鼻面に手を伸ばした梓は、馬の頭部を抱え込んでその毛並みを撫でつけていた。


「うわぁぁん!ほんとにごめんねぇ、ほったらかしにしてぇ」


 取り乱した梓の声にも臆さぬ馬は、嬉しそうに鼻を鳴らし激しい抱擁を受け入れた。 

 呆気に取られその姿を目で追っていると、(けぶ)るような長い睫の間から覗いた馬の瞳と視線が合う。


 こちらへ向けられた黒瑪瑙(めのう)のようなその瞳には、冷やかにこちらを見下す色があった。その高圧的な態度に、顔の筋肉が引きつる。


「……お前、本当に()()に乗れるのか?」


 梓へ向かってそう問いかけた途端、馬の耳がぴくりと跳ねた。鼻息を荒くしたかと思えば、後足で地面を蹴っている。

 目の前の牡馬は敵愾心丸出しでこちらを睨んでいるが、梓がそれを気にするそぶりは無い。

 そしてまた、知りたい事とは方向性の違う返答が返って来るのだ。


「乗馬はあんまり得意じゃないんだけど、このこ賢いから心配いらないよ。それに、ゆっくり歩いてるように見えて、お尻が痛くなる前に目的地に着いちゃう俊足の持ち主なんだから。早く仲間のところに帰りたかっただろうに、わたしのこと待っててくれたの?ほんとにありがとねぇ」


 老人の住む家には、他にも()()()()動物が飼われているらしい。

 この馬の仲間とは、一体どんな生き物なのか。嫌な予感しかしない。


 自分の方が上位だとでも言わんばかりに睨みつけて来る牡馬に、こちらも睨みを効かせる。

 隙を見せれば、何をされてもおかしくない相手だ。


 梓は今もこちらの睨み合いには気付かず、能天気にその動物たちの”かわいらしさ”について語っていた。


 ……もふもふのひつじとは何だ、白いトラネコとはまさか?


 そんなこちらの心の内などまったく解さない梓は、愛おしげに馬の(たてがみ)を撫でつけている。


「すべすべの手触り最高だわぁ。ねぇ?またお爺ちゃんのとこまで乗せてくれる?」


 梓の呼びかけに喜色あふれる(いななき)きで返した牡馬は、こちらへの態度とは打って変り、甘えるように梓へ鼻面を擦り寄せた。


「ふふっ、よろしくね。あ、でもまだ病み上がりだし、そんなに急がなくても……」


 梓が私に気遣う気配を漂わせた途端、鼻を鳴らした馬が馬鹿にするような思念を送ってきた。梓の横で鼻を伸ばす牡馬の姿に苛つき、こめかみが疼く。


「休息は十分とれた。すぐに出るぞ」


「そう?じゃあ、ゆっくり走ってもらえるようお願いして…」


「ブヒヒンッ」


「必要無いっ」


 歯をかちかちとすり合わせた牡馬の、嘲笑するような(いなな)きを遮り踵を返す。


 ……何が神駒だ、何が神の使役する馬だ!


「くそっ、吠え面かかせてやる」


「わっ!?ちょっと待ってよ!わたしまだ乗ってな…」


 草地を蹴って駆け出すと、梓の焦ったような声が聞こえたが、それを構わず都へと進路をとる。

 神霊だか何だか知らないが、偉そうな態度を取るぐらいだ。余程自分の足に自信があるのだろう。だが速さならばこちらとて負ける気はない。


 無性に苛立つ気持ちと、どこか落ち着かない心地のまま風を切るように地を駆けた。するとすぐに、背後から梓と奴の気配が追って来る。

 そう思った刹那、なんの苦もなくぴたりと横に着けた馬が後ろ足で立ち、前脚を踏みならすように踊り上がった。


「もう、置いてくなんて酷いよ!」


 梓の文句が聞こえたと同時、一際甲高い(いなな)きをあげた馬に先を越され、次のひと翔けでその場に取り残される。まっすぐ都の方向へ姿を消した馬の姿を、茫然と見送った。


「……地に足が着いていないのは、反則だろうが」


 こんな姿を見せつけられれば、奴が上位だと主張するのにも頷いてしまいそうになる。

 梓を乗せ天翔けた勝気な牡馬は、(まさ)しく神の速さを誇る神馬(しんめ)だった。


「くくっ」


 込み上げるものを堪え切れず、笑声が漏れる。


「いいだろう。速さはお前の勝ちと認めてやる」


 後に残された神気を辿り梓の居る場所を目指すその足は、高揚する気分を表すように軽やかに地を駆けた。


「――だが、負けを認めるのは足の速さだけだ。いつかその高い鼻っ柱を折ってやる!」


 眼前に映る景色は、雨の恵みを受け美しく輝く大地。曇天の空を仰げば、梓が向かった先の雲間から一筋、光の落ちる地が見えた。


 昨秋、この道を駆けた足は重く、もう帰らぬと定めた往路。

 だが今、京へ向かう足取りは軽く、心は晴れ晴れとしていた。


 高揚する内心を抑え、天から地へとまっすぐに伸びる光の柱を目指して進む。


 ……人を蔑み、憐れみ、恐れ、壁を作っていたのはどちらの方だ。


 心が透けて見える事により、全てを理解したような気で何をかもを遠ざけていた己の、なんと小さな事か。


 一時の安らぎを求める為に逃げる事を繰り返し、やがては転変した狐の姿から戻れなくなり気付いた事。それは、人にはもう戻れぬかも知れぬという焦燥。


 ……人の世から逃げた自分が、なぜ人に執着する?


 答えなど決まっている。


 人は、愚かだ。

 私利私欲に走る者もいれば、心を傾けた者の為ならばその痛みさえ引き受けようとする母もいる。

 自分たちの感情を押しつける面倒な親子や、他者の都合のため生き霊の姿になってまで階層を飛び越えやって来る者まで。


「まったく、人という生き物は、呆れるほどに自由だな」


 愚かで、自由だ。見ているこちらが羨ましくなるほどに。


 自然と、口角が上がる。


「……急ごう」


 なればこそ、あれほど面白いものを見逃す手はない。


「私が着くまで何処かへ消えてくれるなよ?」


 斯く言う己自身、人として、未知に胸が躍るという初めての感覚を心から楽しんでいた。



















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