天つみ空に照る月の ―斎宮―
いつきのみや【斎宮】
古代・中世において代々の天皇の即位ごとに、天照大神の御杖代として伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女または女王。斎内親王、略して斎王。さいぐう。いわいのみや。いつきのみこ。またその居所である宮殿施設のこと。
深く眠っていた耳朶に、雨の降る静かな水音が入り込んでくる。
心地よいまどろみに目を閉じたまま、安堵を覚えた。
ここずっと、雨の訪れを待っていたのだ。
皆、寒気ばかりに目を向けるが、例年に比べ今年は明らかに雨量が少ない。植物の芽吹きが悪いのも、大地が乾燥し地力が弱っているためだ。
この事に気付いている官吏が、都にどれほど居ようか。
危機感を覚えたのは、雪解けを待たずに山肌から消えて行く雪を見てのこと。小さな沢や沼地では水量が徐々に減っている。このまま夏を迎えれば、過去に起きた旱魃の再来ともなりかねない。
そう、危惧していたのだが。
この雨がしばらく降り続いてくれれば、枯れた地も次第に力を取り戻して行くだろう。
湿った土の匂いを吸い込んで、夢心地のうちに身じろぎすれば、胸元から唸るような声があがった。
「ぅ…ん……」
一息に目が覚め、咄嗟に跳び退こうとするも、身体がずしりと重く体勢を崩す。
「……な!?」
それでもなんとか上体をあげ視線を落とせば、胸元の白毛に埋もれていた黒髪がさらりと流れた。
その時になってようやく、自分が何者かによって拘束されていることに気付かされる。
――この姿を、人に?
そのことに思い当り動揺する。慌てて相手を振り払おうと身体に力をいれるも、両前足の関節を極められており身動きが取れない。
「くっ……!」
後ろ足に力を込め立ち上がろうとしたが、今度は腹から背中にかけてを絞めつけられ拘束される。斯くなる上はと気を放ち、力を使おうとしたその刹那。
「……んん、だめ、……もうちょっと」
「…………。」
耳に届いたのは、まだ童子と思われる高い声。
……童子?
怪訝に思い、攻撃しようと高めていた気の動きを止める。
改めて自分の体を意識すれば、胸元にしがみついている相手からぎゅうぎゅうと締め付けられてはいるものの、不思議と苦しくはない。
よくよく耳を澄ませば、小さな寝息にも気付く。こちらにしがみ付いている大きさから考えても、丈がそれほどない事は確かだった。
まるで山蛭のように密着し、剥がそうとすると毛根ごと引っ張られる感覚に顔をしかめる。
だがそれ以上の何かがあるわけでもなく、毛皮に埋もれ姿の見えない相手は、ただ寝ているだけのようだった。
押し黙り気配を探るうち、乱れた気が少しずつ落ち着きを取り戻して行く。
関節は動かしづらいが、手先は拘束されておらず腰より下も自由がきいた。
まずは体勢を立てなおそうと慎重に動いてみれば、容易く起き上がることも出来る。だが、こちらの腹にへばり付いている童子の身体が離れる様子はない。
そうこうするうちに、風がかたかたと戸板を鳴らし、隙間風が吹きこんだ。
すると、拘束する力が増して、ふたたび四肢に緊張が走る。
続いて発された情けない言葉に、思考が追いつかず固まった。
「……さむいぃ…」
さらさらと降り注ぐ雨音に、屋根から伝った滴が水たまりへ落ちる音が重なる。辺りは雨に音を吸い取られ、ひっそりと静まりかえっていた。
人の世と一線隔されたこの場所は、森厳な山の気に満ちている。耳を澄ましても、外に余所人の気配はない。
――ひたすらにこちらの懐へもぐりこみ、暖を取ろうとする童子以外のものは。
目覚めた場所は、崩れかけの祠の中だった。
もう随分と手入れがされておらず、朽ち果てるのを待っているような、打ち捨てられた小さな屋代。
古めかしさを感じさせるこの祠は、天井にも床板にも腐れが目立つ。
あげく、外れかけた観音扉の隙間からは、ひどく冷たい風が間を置かず吹き込んでいた。
風が吹き込むその度に、胸元をまさぐってくる童子に溜め息をつき、尾を寄せる。
忍び寄る冷気が遮られたのを感じたか、腹に回されていた足の力が少し弛んだ。
「……寒くはないようだな」
何の気も無しにぽつりと呟くと、それに小さな応えが返る。
「……ん、ありがと」
「っ目覚めて……!?」
驚きに身をよじると、童子が情けない声をあげた。
「はぅっ、ダメ、動かないで。寒くて死んじゃう!」
「うぐっ、は…なせ、いちいち関節を極めるな!」
こちらが発した怒声にピクリと反応した童子は、腕に込めていた力をゆるゆると外した。
上体を離しこちらを見上げて来るその顔は、声から想像していたほど幼くもない。
歳は十二、三とでもいったところか。貴族であれば元服していてもおかしくない年頃だ。
目覚めた童子は、こちらの獣姿に物怖じすることなく、まっすぐに視線を合わせてくる。その目に、わかりやすく好奇心を覗かせて。
黙ったまま見据えていると童子は名残を惜しむように手を放し、隙間だらけの板敷きの上で正座して見せた。
その姿は素肌に白小袖一枚という出で立ちで、袴は外れかけた壁板にひっかけてあり、裾からのぞく素足が寒々しさを感じさせる。
寒いというのならもっと着こむべきだと言いたかったが、どうやら雨に濡れて乾かしている最中らしい。濡れて濃色になった衣が袴と一緒に並べかけられている。
寒さに震える童子の肌は、陽の光を浴びたことがないとでも言うような白皙だった。小さく引き絞られた唇は化粧を施しているのでもないだろうに朱く色づいている。
稚児というには大きいが、その手の好き者にでも見つかれば恰好の餌食となりそうな姿だ。この容姿であれば、どこで拐かされてもおかしくない。
いかにも無防備な相手をじっと観察していると、童子は所在なさげに視線を落とした。眉尻を下げ、時々こちらの機嫌を探るようなその姿に稚さを感じる。
「ごめんなさい、痛かったよね?でも、寝てる間にどこかへ行かれちゃったら、また捜すの大変だし。寒いの我慢できなかったし……」
別段、痛みを感じていた訳ではない。だが、童子は申し訳なさそうに謝罪を繰り返しながらも、距離をつめて来る。
狙いは大方、こちらの毛皮か。暖を求めてでもいるのだろう。
この童子はもう少し警戒心を持つべきだと思い、口を開いた。
「そもそも、このような場所で寝ること自体間違っている。賊にでも襲われたらどうするつもりだ」
今度は声で威嚇しないよう、ゆっくりと。
……?まて、なぜ私が見ず知らずのこ奴に気を使って説教などしなければならんのだ。
なぜだか、警戒心を持つようになってもらわねば困る、と考えている自分に首を傾げる。自分でもよくわからない心の動きに不可解さが涌いた。
しかしこの言を聞いた童子は、あからさまにむすりとしてみせる。かと思えば、気遣わしげにこちらの身体を見まわしてきたりと忙しない。
続けてその口から出た言葉は、予想外の物だった。
「だって、雨宿り出来そうなところがここしかなかったんだもん。もう、なんでこんな山奥にひとりで倒れてたの?わたしが見つけてなかったら、どうなってたことか。……苦しいところとか、痛いところはない?」
こちらへまっすぐ向けられる言葉と思いに、偽りはない。寄せられる、労わりの心。わかりやすい表情の変化も、見ていて心地のよいものだった。
心配気な表情を見せる童子には、先程こちらの声に委縮していた名残もない。
童子の言葉を思い返し、改めて自分の身体を意識する。
こちらが童子に晒している姿は、全身に白い毛を纏った獣の姿。それもこの童子の倍はあろうかという体躯だ。
言葉を交わせると言えど獣は獣、隠していたとしても鋭い牙や爪があることが解らぬわけではあるまい。
この姿に畏れも抱かず、こうして話しかけられる者がどれだけ居ようか。
目を見て話しかけて来るだけでも恐れ知らずだというのに、童子はこの姿に対し何も感じていないように振舞ってくる。
いや、振舞っているのではない、恐怖を感じていないのだ。
それがなぜなのか訊ねてみたい気もしたが、その疑問を口に出すことは憚られた。
何かが面白くないと感じつつ、意識を身の内に向ける。すると、確かにあったはずの倦怠感や、破裂するまでに膨れ上がっていた力が安定しているのに気付き、目を見張った。
「……どこにも、問題はないようだ」
いや、それだけでない。どこか不愉快な閉塞感をも感じるのだが、それが何であるのか訳が分からず首を傾げる。
苛つくままに尾を振るい身の内を見分していると、間の抜けた声があがった。
「よかったぁ。その様子だと、それほど心配することもなかったみたいだね。まさか、こんなとこに来てまで名付けをすることになるなんて思わなかったし。本当によかったよ、何にも問題なくて」
童子はあからさまに安堵した様子を見せているが、こちらはそうはいかない。
「待て。お前今、何と言った?」
こ奴が話した言葉の中に、聞き捨てならない言が含まれてはいなかっただろうか。
聞き違いならばそれでいい。だがしかし、不審に思って聞き返すと、童子はあっけらかんととんでもない事を言い出した。
「うん?大丈夫、大丈夫。わたしもさぁ、最初試しにやってみたら何にも起こらなかったから、やっぱり無理だって諦めようとしたの。もう、名前がついてる人に重ねて名付けなんて出来ないんだろうって。でもあなたが名前を教えてくれたでしょ?だから、ニーニャの時と同じようにやってみたの。そしたら、出来ちゃったんだよねぇ」
「……は?」
「役所でも申請さえすれば、名前って後からでも替えられるらしいし」
ぼそぼそと呟きを洩らし、童子はさもわかった風に頷いた。
「漢字の読みを変換しただけで、大したことはしてないんだよ?なのに、こんなに効果があるなんてビックリ。名付けで長生きできるって、本当だったんだねぇ」
などと興奮気味に語った童子は、同意を求めるかのように目を輝かせこちらを見ている。
「……お前の、言っている事が理解出来ん。もっとわかるように話せ」
「うん?具体的にどんな風に名付けをしたかって事?」
口元に指を当て、童子は記憶を巡らすように視線をあげた。
「あの時、意識が戻って名前を教えてくれたでしょ?あの後、あなたから漢字まで聞きだすのはすごく大変だったけど、聞いて正解だったね」
ふと、朦朧とした意識の中で、叫ぶ様な声を聞き、激しく揺すぶられた記憶が思い出されてくる。
……あの時確か、容赦なく頬も張られたような……。
童子の話す声を聞きながら、途切れた記憶の欠片を手繰っていると、ふいに名を呼ばれた気がした。それと同時に、身体に異変が起こる。
「すぐ死んじゃいそうだと思って焦ってたから、とっさに名前を音読みにかえて、元気になりそうな漢字を当ててみたんだよね。あっ、そうか、使った文字も知りた…ムグッ」
「言うな!!」
童子から声に出してその名が紡がる前に、慌てて口を塞ぐ。
背筋がざわめき、髭がぴりぴりと震えている。こそばゆさにも似た何かが全身を巡っていた。
……くそっ!
しん、と祠の中に静寂が満ちる。
それまで喋り続けていた童子の声が止むと、外の雨音が耳につく。前足で押さえつけた童子には、それ以上言葉を発するそぶりはない。
とっさに床へ抑え込んでしまった童子の上で、悔しさに歯噛みした。しばらく唸っていると、逆立っていた毛が次第に落ち着いてくる。
童子はと言えば、こちらが怒りを込めて睨んでいるというのに、その顔に何やら嬉しげな笑みを浮かべていた。
……この状況でも恐れを抱かないだと?一体何を考えて…。
童子の思念を察知し、瞬時に前肢を退いた。
すると、頬を染めにやけていた童子の顔が残念そうなものに変わる。そのままゆっくりと起き上がった童子は、両手を広げこちらに差し出してきた。
「あのね、お願いがあるんだけど。もう一回、もふ…」
「貴様、それ以上こちらに寄れば、痛い目を見る事になるぞ」
相手から発される浮かれたような桃色の気を冷めた視線で見下していると、童子はすぐにその口を閉ざした。
こちらの拒絶を正しく理解しているようでしょんぼりと肩を落としているが、そんなもの、こちらの知ったことではない。
しばらく睨みつけ少し大人しくなったところで、警戒は解かないままに質問を繰り返す。
先程の言葉を有耶無耶にしておく訳にはいかない。今の現象が、本当にこ奴のせいなのか確かめるためにも。
「……もう一度確認する。貴様、私に何をしたと言ったんだ」
「もふ……いえ、ごめんなさい。したい事じゃなくって、したことね」
怒りを滲ませた視線を送ると、童子は慌てて姿勢を正した。
「え――っとさ?……”名付け”って言ってもわたしが勝手にやったことだし、気にしなくていいんだよ?絶対にあなたがあの名前を名乗らなきゃいけないってことでは……え?どうしたの!?」
再度襲ってきた痺れるような感覚を堪え、隙間だらけの木板の床に突っ伏し、己の運命を呪う。
……まさか、このような童子にしてやられる日が来ようとは……!
「貴様、何の目的があってこのようなことをした」
口に出してもいないのに、相手がこちらの名を思い浮かべただけでこの様だ。これは間違いなく縛られている。
それを確信し、伏せたまま睨みあげると、童子は驚いたように目を見開いた。次いで何かに思い当ったように目を泳がすと、気まずげに細く白い指先で床板にのの字を描きはじめる。
「だって、本当に今にも死んじゃいそうだったんだよ?前にいた場所で、名付けをしてもらうのとそうじゃないのとじゃ、寿命が違うって話を聞いたことがあったから。ダメでもともと、あの時はあれしか思い浮かばなかったし。……あの、やっぱり、わたし何かやらかしたのかな……?」
しどろもどろに言い訳し、ちらちらとこちらを見てくる童子を厳しく見据える。
童子の黒髪は、今はぼさぼさになっているが、もとはしっかりとした美豆良結だったのだろう。干されている童水干も雨に濡れ、泥にまみれてはいるが、とても仕立ての良いものだ。
これは裕福な邸で、家人にしっかりと世話をされている証拠。
童子の姿を見れば仕える側でないことは容易に想像がつく。
仕事慣れしていないのが一目でわかる綺麗な手指が、それを証明していた。
……賀茂の政敵にあたる、公家の子息か?
なぜ、このような童子にしてやられることになったのか。胸中を悔しさが渦巻く。
だが、不可解な事がひとつある。
この童子が発する気には乱れが無い。その澱みない、どこまでも真っすぐに開かれている童子の思念が、裏を読むこちらの心をかき乱していた。
少なくとも、この童子自身には悪意の欠片もないのだ。
「お前は、誰に指示を受けてここにいる。そいつは何者で、何が目的だ。名を縛って私に何をさせようというのだ」
背後にいる者の影を臭わせ、わざと唸り声をあげ威嚇して見ても、返るのは困ったような反応ばかり。
「……えっと、すごく怒ってる……よね。ごめんなさい」
「……自分が何を仕出かしたのかも理解しておらぬくせに、謝罪で誤魔化せると思うなよ。私は、訳を言えと言っている」
こちらの言葉に所在なく肩を落とした童子は、ぽつぽつと事情を語り始めた。
「えっとね、わたしはあるお爺さんから、白狐を捜して欲しいって頼まれたの。平安京から離れた場所に一人で暮らしてる、木彫りが趣味のお爺さんなんだけど……知ってる?」
童子の意表をつくような話の内容に目を瞬き、すぐに眉間へ皺を寄せる。覗うように視線を送ってくる童子は、こちらの反応を見て『やっぱり知らないよね』と息を吐いた。
……木彫りが趣味の老人だと?
そのような者と知り合った覚えがない。
……しかも、そいつが捜しているのは白狐、か。
胡散臭い話だが、この童子を見る限りこれも嘘ではないようだ。
その”白狐”という条件だけで、どうやって見つけたのかという事は一先ず置いておくにしても、自分の正体が露見している訳ではないと判断し、内心で少し安堵する。
思考を一段落させ見上げると、こちらの様子をじっと見つめていた童子と目が合った。その途端、ふにゃりと笑ったその表情からは、それまであった反省の色が消えている。
……私がお前のことを許したという訳ではないぞ!?
こちらが少し気を抜いたと察した様子の童子に、苛立ちを覚える。
手をついて身を乗り出してきた童子は、勢いに乗ってまくしたてるように話し始めた。
「本当はね、わたしもそのお爺さんにお願いがあってお家を訪ねたんだ。だけど、やり残したことがいっぱいあるからって断られたんだよ!でもこっちだって、せっかくここまで来て手ぶらで帰るって訳にはいかないじゃない?だから食い下がってみたの。そうしたら、お爺さんの”心残り”をわたしが代わりに晴らせたら頼みを聞いてやってもいいって話になってさっ」
そのまま、童子はずりずりと距離を縮めて来る。
その目の動きも伝わってくる気配も、話す言葉が虚言ではない事を知らせていた。
「近い」
前足で目の前に迫った額をぐっと押し返すと、口元を緩ませた童子が人懐こい笑顔を見せ、大人しく一歩下がっていく。
……こ奴には警戒心が足りな……いや、最初からそんなもの無かったか。
「愚か者が。怪我をしたく無ければそれ以上近づくな」
溜め息をこぼし、呆れた視線を向けたと言うのに、童子は懲りた様子もなく満面の笑みを浮かべた。
……頭がおかしいのか。
阿呆でも馬鹿でもどうでもいいが、この童子が愚かである事は間違い無い。
信じ難い事に、この童子は自分が何を仕出かしたのか、本当に理解していないのだ。しかし、悪気が無いから罪が無い訳ではない。
いくら考えても、この頭の緩い童子に依頼したという老人に見当がつかず、質問を重ねた。
「お前、出自は?どこの手の者だ」
その老人の背景を探ろうと考えての質問だったが、目を瞬いて『しゅつじ?』と繰り返した童子の様子から、今度は言葉の意味すら理解していないのが伝わってくる。
思い出そうとして左に眼球を動かし、途中から右に変わり、黙ったままなにやら思案しているその姿に頭を抱えた。
相手が誰であろうと、この童子には隠し事など出来そうにない。分かり易さもここまで来ると、疑う事すら馬鹿馬鹿しくなってくる。
「わたしはねぇ、東京生まれの東京育ちだよ。お爺ちゃんはむかし、三重の方に住んでたって聞いたことがあるけど。もう、向こうに親戚はいないんだよね」
「…………。」
私が聞きたい出自とは明らかに違う方向性の話になっているのはわかるが、話している本人が気付いている様子はない。
相手の程度に合わせてやらんことには話が進みそうにもない、とそう結論づけた。
仕方なく、話の文脈からあたりをつけて話の先を促して行く。
「……とうきょうやみえ、とは土地の名か。どの辺りになる」
「三重県……京都からそんなに遠くないけど……。あ、伊勢神宮があるところだよ。お伊勢さんならこの時代にもあるでしょ?」
……伊勢国か。
もう一方は不二の山の向こうだと言われ、武蔵国辺りの事を差しているのだろうと予想する。
何のことを話しているのか不明な点は多いが、この童子が伊勢に連なる者だとわかり、一先ずの納得を覚えた。
あの辺りには、平安京の大内裏と同じく各地から特能を持つ一族が集められている。
私が隠れ住んでいたこの山も伊勢の国に程近く、人が迷いやすいと禁足地にされいる土地だ。何も知らずに奥へ進めば、獣も避けて通る別階層へと繋がる神域となる。
この山から生きて戻れるかどうかはその者の資質によるだろう。
特能を持つ一族のように、ここへは修験を目的とした者が出入りすることがないわけではない。峰をいくつか超えれば伊勢詣に使われる道とも繋がっている。
この場所に足を踏み入れてまともでいられるということ自体、この童子にも何某かの才があるということなのだから。
こちらが黙り込むと、童子がおずおずと話しかけて来た。
「あの、やっぱりわたしが名付けをしたことで、何か不都合があったんだよね?」
「……不都合だと?」
これは、そんな言葉で言い表せるほど軽い事柄ではない。
名を縛られるということは、相手に命を握られるのと同義。名を縛られた者は、基本的に縛った術者の命令には逆らえなくなる。――縛った相手が死に至るまで。
名を取り戻すには術者が死ぬほか術は無い。逃れたいのであれば、相手を殺すことが最善だ。
何もわからず力を行使したこの童子の様子ならば、虫を払うのと大差ない。
だが、再度反省の色を見せ、目の前でしゅんと項垂れた童子の姿を見ていると、気勢が殺がれた。どうしてか、この童子が自分に何か危害を加えようとしているとは考えにくいのもある。
そも、この童子に出会っていなければ、死んでいたかも知れぬ身だ。
身の内を巡る、正常に戻った気の動きと閉塞感。
それを認め、ひとつ唸って立ち上がる。
「お前、名は」
「え?」
「お前の名だ。お前だけこちらの名を知っているなど、不公平だろう」
問われた言葉の意味を理解すると、嬉しそうに笑った童子が訳の分からない問答を始めた。
「この身体の持ち主とわたしの名前、どっちが知りたい?」
「……………。」
意味が分からない。
……こちらをおちょくっているのか。……いや、こ奴は本気だ。
先程も疑問に感じた気がするが、こ奴は頭がおかしいのか。そうだ、間違い無くおかしい。
童子の話を聞いていると、何かを深く考えるのも馬鹿らしくなってくる。
「……両方、聞いておこうか」
守永梓だと名乗った童子の話に、気が遠くなり眩暈を覚えた。
名乗りを終えた梓は、そのまま自分語りを始めている。
自分は異なる時、異なる世界からやってきた者だと言う。さらには、他者の身体を使って私を助けに来たのだとのたまった。
……なんなんだ、その荒唐無稽な話は。
「というわけで、この身体は借り物なの。だから絶対無傷で返さなくちゃいけないんだよ。じゃないと、髪を切ってまで身体を借してくれたこの子に会わせる顔がないもん」
「……髪を切っただと?」
話しながら髪に触れ、髪型が乱れているのを確認した梓は、手なれた様子で紐解くと後ろ手でひとくくりにした。
最後にするりとその手から流れた黒髪は、胸下までの長さに切りそろえられている。
「うん、生まれた時から伸ばしてたって言うし、もったいないって止めたんだけどね。このままじゃ思うように動けないだろうからって。せっちゃんてすんごく、良い子なんだよ。家の人に頼んでこうして動きやすい服も探してくれてさ。あ、ちなみに今着てる着物は、せっちゃんのお兄ちゃんが昔着てたやつなんだって」
話の道筋から察するに、どうやらこ奴、自分は女だとそう言いたいらしい。だが、そんなに思いきりよく髪を切ることのできる女人があの京にいるものか。
本人は至って真面目な様子だが、真実味に欠ける梓の凹凸に乏しい薄い身体を見下ろした後で、壁に干された童水干へと一瞥を送る。
よく見れば、水干に使われている布地は風通しの良い夏用の穀織ではなく、厚手の綾織物のようだった。元は素色をしていたようだが、泥にまみれていてその紋様ははっきりしない。
その横にはこちらもまた、何をどうしてここまで皺が寄ったのかという茶褐色に薄汚れた帷子が干してある。だがこちらの衣には、泥汚れを免れた部分もあるようだ。
水濡れも他の物に比べればそれほど酷くはないようで、元の色地が見えている。
若年は濃い色を着用し、老年は薄い色を着る習わしがある。
薄汚れた濃色に興味を失い素通りしようとした視線に、だが何か、引っかかる物を覚えた。
「――?」
もう一度視線を戻し目を凝らせば、そこに見止めた色と紋様に息を呑む。
帷子へ細やかに浮き織りされた紋様は雲鶴文。赤茶だと思い込んでいた衣は、袴の中に隠れる部分から下が美しい濃紫に染め上げられていた。
双方ともに、とある血を継ぐ一族だけに着用が許された物である。
怪訝に思い近寄って、泥色に染まる童水干を裏返して見ると、そこにはくっきりと織り込まれた小葵文があった。もともとの生地は光沢のある白、そこに色目の違う白糸で繊細な織りが施されている。
紫は禁色。階位を満たした者ならば許しをもらえば、身につけることは可能だが、その許される身分を持つ者が童水干を身につけるような齢であるはずが無い。
そもそも、この紋を身につけられる資格を持つ方が、童水干などといった目下の着る物に袖を通すなどと言う事がありえ無い。であるからして、この紋様があしらわれた童水干が存在している事自体おかしいのだ。
――その地位にある者が、『あれが着たい』と着道楽でもしたのではないかぎり。
至った考えにまさかと思い、乾いた笑いがもれる。
このような事を考えた己自身に呆れ、首を振った。
「あ、せっちゃんて、この身体の持ち主の子ね。本当は斉子っていう名前なんだけど、お父さんが亡くなってからは、お母さんとも離れてお屋敷に一人淋しく…」
「こ、この愚か者――!皇女の名をそのように気軽に口にする奴があるか!」
こちらの焦ったような怒声にも、梓は首を傾げるのみ。
その何も理解していない姿に、どっと疲れが押し寄せて来る。
病を得て崩御された先代の天皇に、年頃の内親王が遺されていたことは知っている。本来は身内しか知ることのない、その諱も。
昨年の秋、世話になっていた邸を飛び出す前に家人から聞かされていたからだ。
それは、神宮に仕える現斎王の母君がもう永くはないだろうという話の中でのこと。それも、次代の斎の宮としてあげられた候補者のひとりとしてだった。
「お前が、雅子内親王の妹宮だと?いや、まさか、こんなことあるはずが……」
昔助けた公達の倅。
あいつが、止めろと言っても出仕先で見聞きしたことをこっちにまで聞かせてくるので、普通では知る術のない皇女の名まで耳に入っていた。
斎王である雅子内親王の退出が決まれば、次の斎の宮を決めるための亀卜が早々に行われる。
あいつの耳に入るぐらいだ。
私が邸を出ているこの冬の間に、十中八九、母君は亡くなられているはず。今はもう春、後任の選出がされていることは疑う余地もない。
……いや、だとしても、こんな話があってたまるか。偶然だ。偶然。
たとえ、諱が先帝の遺児である内親王と同じであったとしても、境遇が似ていたとしても。名など、流行りに乗って似たり寄ったりのものが付けられることは珍しくもない。
考え過ぎだとつよく首を振り、嫌な予感を払おうとした。
「あれ、せっちゃんのお義姉さんの事知ってるの?多分、次にお義姉さんのやってたお勤めに選ばれるのは自分だから、どこかに籠らなきゃいけなくなるんだって言ってたんだけど、ちょっとだけ身体を貸して欲しいってお願いしたら快く…」
「ふ、ふざけるな――!お、お前、さっさと宮城に戻れ!なぜこのような場所にいる!すでに卜定が行われていなきゃおかしいんだ。その身体が本当に斉子内親王だと言うのなら、今頃初斎院入りして潔斎に入っているはずだろうが!?」
梓が嘘を吐いていないからと言って、この話が本当だと言う確証があるわけでもない。
だというのに、こ奴の言っていることが事実であると確信し、思わず怒鳴り声をあげていた。
初斎院:卜定で定められた宮城内にある便宜の場所。大内裏の殿舎(雅楽寮、宮内省、主殿寮、左右近衛府など時々により異なる)が潔斎所となる。斎宮は初斎院で1年間斎戒生活を送るとされているがもっと短くなる場合も多い。
潔斎:神仏に仕えるため、酒肉や男女の交わりを避け、けがれた物に触れず、心身を清らかにしておくこと。