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梓弓  作者: 長月 夜半
第二章 朧月
50/57

天つみ空に照る月の ―縁起―

えんぎ【縁起】

《「因縁生起」の略》

1 吉凶の前触れ。兆し。前兆。

2 物事の起こり。起源や由来。


 湖底に出現した魔法陣によって飛ばされた先。

 そこは、墨壺を覗きこんだかのような暗闇に包まれた場所だった。


 私の視界の中には、独りでぽつんとしゃがみこむ、小さな梓の姿があった。


 その姿は事故に遭った当時のまま、頭や手足には痛々しさを感じさせる白い布が巻かれている。小さな手で目だけを覆って泣く幼子の姿に、胸を痛めた当時の記憶が甦る。


 梓がどんなに泣こうとも、もう以前のように寄り添い慰めてやることができなくなった、あの夏のはじめのこと。見えざるものの姿が見えなくなった梓には、もうこちらの声が届くこともなくなった。

 己自身、そう納得していたはずだ。


 だが、そうとはわかっていても、梓が独りで泣く姿を目にすると、胸に重苦しさを感じずにはいられなかった。


――泣くな、梓。


 小さな明かりを灯していても、夢殿の中でまでうなされ苦しむその寝姿に、幾度となくかけた言葉。


――お前が恐れるものなど、ここには居らぬ。


 闇を恐れて泣く梓の枕辺で、いくらかけても届かなかったその思いが、この梓には届いた。


――だって、いないのよ。


 返って来た(いら)えに少しの驚き覚えたが、すぐにその因へと思い当たる。


 いま目の前にいる梓は、己の心が見せている幻なのだ。どうやらこの旅の路程の中で、私は時間のはざまに捕らわれているらしい。


 幼い梓の姿は、己の過去の記憶が表出しているにすぎない。

 それがわかったからといって、この場ではどうする事も出来はしないだろう。自分の力でここにいるわけではない以上、このまま流れに任せるしかあるまい。


 この状況に諦めを覚え、どうやら何かを探している様子の梓に言葉をかけてみることにした。


――何が、いないのだ。


 これは己の幻想。ならばこの返答にも大方の予想はついた。


――わんわが、いないのよ。


 あの当時、心の底に抱いていた薄寂(うすさび)しさ。


 こうして日々成長して行く梓の姿を見守り、心ゆるされていくことに確かな喜びがあった。

 だからこそ見えない事を納得はしていても、時の経過とともにこちらの存在を忘れて行く梓の姿に、一抹の寂しさを感じずにはいられなかったのだ。


――目には見えずとも、私はずっと梓のそばにいる。


 あの時も、目に映らぬものたちを恐れて泣く梓に、そう伝えてやりたかった。


 届けたくとも届かなかった思いを口にすると、目を覆い隠していた梓の手がはずされた。泣きはらした梓の顔が、不思議そうにこちらを見上げてくる。


――ほんとう?もうどっかに、いっちゃわない?


 確かめるように紡がれる問いかけに、嘘偽りなく心からの思いで応えて行く。


――ああ。たとえ言葉を交わすことが叶わずとも、これからもずっとお前の傍にいる。だから、もう泣くな。


 こちらの言葉に、安心しきって笑み崩れた梓にはもう、顔の半分を覆っていた白い布は見当たらない。その姿に満足を覚えると、薄墨に塗りつぶされるようにして幼い梓の姿が消え去った。





 その場に残されたのは無限に広がる漆黒の闇。そこに己の意識だけがたゆたっている。

 自身の存在さえ不確かな場所。ここでは、意識さえ向ければ全方向をも臨むことができるようだ。


 暖かい光に照らされるようにしてそこにあった梓の姿がなくなると、周囲の闇がただの闇では無かったことに気付く。

 目の前に広がる光景に驚き、しばしのあいだ見入っていた。


 このような景色を、己の目で観られる日がこようとは。


 ここは、天上の世界。地上から遠く遠く離れた、――宇宙(そら)

 数え切れぬほどに見上げて来た星周り。それに加え、地上にいては見ることの叶わない星々の全容が、眼前に広がっている。


 緑や赤、白く明滅する星々の輝き。

 漆黒の空にあまたの天体が縦横無尽に散らばり、より集まった星雲が美しい色の光を放っていた。

 かたや、その広い宇宙の一角には、何の光を映すこともない、そこだけを切り取ったかのような漆黒の闇が存在する。


 思いがけず行き逢った僥倖に、我を忘れ天体の観察に勤しんでいると、突然、乱れた感情の波が押し寄せてきた。


――どこにいるの、メイ!


 届けられた思念は、自分を呼ぶ梓のもの。

 だが、聞こえて来る梓の声に先程までの幼さはない。


 恐怖に振り切れそうなほどの感情の波。梓の思念を通して伝わってくるそれは、自分と梓の繋がりがしっかりと保たれていることの証左でもある。

 そのことに安堵しつつ、この状況に困惑している梓へ向けて落ち着くよう思念を返した。


――恐れることはない。ここは我らがよく知る場所だ。













 突然、視界が闇に閉ざされた。競り上がってくるような恐怖が抑えきれなくなってメイを呼ぶ。すると、拍子抜けするほど早く、いつも通りの落ち着いた声が返ってきた。


――メイ!?


――ああ、そうだ。


 メイからの返事があったことにほっとして、張りつめていた緊張が緩んで行く。


 気づいたら、真っ暗な場所にいた。上下の区別さえつかないこの暗闇で、ひとりきり。

 池に浸かって目を瞑り、開けたとたんに真っ暗闇って、パニックにならない方がおかしいだろう。


 ……手も足も見えないってなんですか。っていうか、わたしの身体どこいった!?


 風を感じることも、温度や匂いさえ感じさせない空間。瞬きの必要も、呼吸をしている感覚もない。

 まるで何かに包まれて夢を見ているような不思議な感じだけがある。重たい身体を脱ぎ捨てて、意識だけがここにある、そんな感覚。

 

 だけど、そのどれよりも、目の前にある暗闇が怖かった。闇の中にいる、()()が。

 暗闇のその奥、そこから()()がこちらを見てるという感覚は、幼いころから感じているものだ。


 でも、今はもう怖いと思う気持ちが嘘のように退いている。

 メイが、応えてくれたから。


 聞き慣れたメイの声に安心して、色々と考える余裕が出てきた。


 あの洞窟で思う存分泣いてすっきりしたころ、メイが小さな手で頭を撫でてくれた。たったそれだけのこと。だけど、頭を撫でてくれるその感触が、わたしの震えを止めてくれたのだ。

 そこから奮起して、メイがいるなら真っ暗なのもなんとかなる、と思えるようになった自分を褒めてやりたい。


 メイの白い姿を捜して周囲を見まわすうちに、冷静に自分の置かれた状況を見ることができるようになっていた。


 なんでだかわからないけど、自分が宇宙っぽいところにいるらしいということは理解する。動転している間は真っ暗だと思いこんでいた景色が、今はすっかり星空に変わっていた。


 でも、相変わらず自分の身体は見えない。メイだって、声は聞こえて来るのに姿はどこにも見あたらなかった。


――ねぇメイ、一体どこにいるの?姿が見えないんだけど。……あとさ、わたしの身体が透明になってる気がするのって、気のせいだよね?


 透明というか、存在感がナイというか。身体自体がナイというか……。

 気のせいだと言って欲しいという気持ちをこめてみたが、わたしが期待するような答えは返って来なかった。


――あの世界を離れこの場所へ来るためには、このような姿で飛ばすしか(すべ)がなかったのだろうな。こちらからも、梓の姿は見えていない。だが、お前がそばにいることは感じられる。


――あ、わたしもメイが応えてくれてからは、なんかすっごい近くにメイを感じるよ?


――梓が今感じているのは、私が放つ気の一部だろう。あちらの世界では、狭義の意味あいで魔力とも呼ばれていたものだ。


――へ~。


 メイが説明してくれても、さっぱり訳がわからない。でも流石はメイだ。このわけのわからないような状況でも、この子はちゃんと理解できているらしい。


 感心しながら相槌を返すと、メイからなんだか可哀相な子をみるような気配が伝わってきた。


――……まぁ、わからずとも問題はなかろう。そんなことより、梓もよく見ておくといい。このように稀有なものを見られる機会はそう滅多にないぞ。


 正直、最近は説明されてもわからない事の方が多いのだ。

 悔しいが、この反応も甘んじて受け入れておこう。


 ……うん、訳のわからない話より、いつもはそっけないメイが今はものすごく興奮しているらしい、ということの方が気になるよね。


 メイから伝わってくる、感情のほとばしり。

 例えるならば、子どもが『見て見て!』と主張してくる感じに近い。


 プラス、『尊い』的な一種の陶酔……?


――メイ、宇宙が好きなの?


 そして、それがメイの感情なのだと、なぜだかわかってしまう不思議な感じ。


――……嫌いではない。宇宙(そら)というよりも、星周りが気になる。


 ほしまわり……。うん、やっぱりよくわからない。でもどうやら、かなり星が好きそうだということはわかった。メイのそわそわした感じが伝わってきて、こんな状況なのになんだかおかしくなってしまう。


 メイに見るよう促された場所は、わたしが恐怖を感じていた暗闇そのもの。星空の中にある漆黒の空間だった。


 そこへ意識を向けたわたしの視界に飛び込んできたのは、闇の上を淡い緑光が踊るように広がって行く光景。

 音もなく、立ち昇るような緑光が、闇の上を薄衣(うすぎぬ)をゆらめかせるように漂っている。煙のようにも、雲のようにも見えるそれが消えては広がり、また消えては流れて行く。


 それを見ているうちに、その緑光が真っ暗な球体をなぞるように移動していることに気づいた。


――あれは、赤気(せっき)と呼ばれるものだ。……美しいな。


 いま、メイから伝わってくるイメージは赤。

 なんで赤なんだ、緑色なのに。そう疑問に感じていると、すかさずメイから返事がきた。


――あれは観る環境によって色が変化するらしい。


――へぇ、そうなんだ。


 どうやらメイには、わたしの考えていることが”伝えよう”と思わなくても伝わっているらしい。さっきからメイが考えていることもなんとなく分かるし、その逆もまた同じ、ということなのだろう。


 まぁ、別にいいか。と思ったその時、思わぬ言葉が返ってきた。


――鳥獣の感情は大体分かると伝えたはずだ。


――…………。


 なんということでしょう。

 メイには一体いつからわたしの考えがダダ漏れていたというのか……。


 衝撃の事実に地味にダメージを受けるが、結局思考を放棄した(どうでもよくなった)わたしは、ぼんやり目の前のものを眺めることにした。


 その間にも、緑色のあわい光はどんどん移動して消えて行き、またその球体をした部分だけが真っ暗になったと思った頃、闇の向こうにほのかな青い光を感じた。


 はじめは青、だけどそれはすぐに白い光に変わり、やがて強烈な光となってあたりを照らし出して行く。眩し過ぎる光は、球体を覆う膜へ吸い込まれるように光を拡散させていった。

 強い光の中にゆっくりと照らし出されたのは、わたしのよく知る星。


――あれっ、地球!?


 理解した瞬間、喜びが胸に湧いた。だけど、続くメイの言葉で困惑する。


――ああ。だが、ここはまだお前の還るべき場所では無い。


――え?


 ここは地球。なのにわたしの還る場所ではない。

 じゃあ、あの地球はなんだっていうんですか。


 ……まあ、もうずっと分かんない事だらけだし。なるようにしかならないよね。


 何度目かもわからない諦め気分で視線を遠目に送る。海の色を映して青く輝く地球が、なんとまぁきれいだこと。

 それは写真で見たものよりも、鮮やかな青い光を放っているように見えた。


 ぼんやりと淡く発光する地球を見つめていると、メイから緊張したような気配が伝わってくる。


――今のうちに、梓へ伝えておきたいことがある。


 今までとは違う真剣な様子に、黙って耳を傾けた。


――この先、私は梓と意思を交わすことが出来なくなるだろう。そばを離れるわけではないが、恐らく、これからお前が向かう先では力を貸すことも出来ない。


 いつも通りの淡々としたメイの言葉。

 だけどそこには、わたしを心配する気持ちがこめられている。


――この先は、わたし一人の力で乗り切るしかないってことなんだね。


 メイと会話が出来ないと言われたことに、不安はある。

 だけど、メイの言葉を聞きながらその思いを感じているうちに、それがわたし一人でやりきらなければならない事なんだと、すんなり納得できた。


 そもそも、引き受けたのはわたしなんだから、今更手伝ってもらえないと言われたところで、文句を言うつもりもナイ。……ないったらナイ。


――その通り、ここから先は梓が自分の力で為さねばならぬのだ。……迷い、行き詰った時は、今まで自分のして来たことを振り返るがいい。梓がしてきたことはすべて、お前自身の力で成したことだという自覚を持て。梓ならば、必ず成し遂げられる。


 目の前に浮かぶ、青く輝く美しい地球。

 その一番近くには、いつのまにか月が姿をあらわしていた。


 地球にゆっくりと寄り添うように巡る月を見つめながら、穏やかな気持ちでメイの言葉に相槌を返していく。


――まずは、梓と波長の合う存在を見つけることが肝要になる。


――うん。


 話を聞く間にも、少しずつ小さくなっていくメイの声。


――お前一人で出来ない事は、助力を請うのだ。


――うん。


 だけど、メイの気配はわたしから少しも離れてはいない。


――梓は決して一人では無い。畏れず、進め。 


――うん、わかった。わたし、出来るだけ頑張ってみる。だから、メイはずっとわたしのそばにいるって約束してね。


 その呼びかけに、メイが微かに笑ったような気がした。

 それきり、メイからの反応はなくなる。




 目の前を、流れ星が通り過ぎて行く。

 それをきっかけに、尾をひく光の群となった星達がわたしに降るように動き出した。


――流星群……ううん、ちがう、これは……。


 いくつもの光の線が集中し繋がって、膨らむように輝きを放ち、視界が真っ白に染まっていく。


 光の波が高速となって駆け抜ける中で、意識が後ろへ引っ張られるような感覚のあとには、視界がぼやけて暗くなっていくのを感じた。


 だけどもう、その暗さに恐怖を感じない。


 だって、わたしのそばにはメイがいる。


 突然引き込まれた世界で出会った、小さな白い生き物。

 始めはただそこにいるだけと、他人事のように受け止めていた存在。


 でもそのうちに、わたしからずっと離れずにいるのだという事を知る。何かをするわけでもなく、ずっと一緒にいて、話しかければ応えてくれる。


 今ではもう、わたしの心の拠り所となっている、小さな命。


 声なんて聞こえなくても。


 メイが近くにいてくれるのだと、ちゃんと感じられる。


 ただそれだけのことが、なんだか泣けてくるぐらいに嬉しくて。








 わたしに、前へ進む勇気をくれていた。
























 ――時は承平6年、春。


 この年、列島は例年にない寒波に晒されていた。

 厚い雲に陽光は遮られ、北からの風は季節外れの雪を運んでくる。植え月を前にしての日照不足は、この年の不作を予感させるものだった。


 弥生もなかばを過ぎたというのに、桜はおろか梅や桃さえつぼみをかたく閉ざしたままでいる。

 平安京の内裏もその例にもれず、なかなか気配を見せない芽吹きの季節の到来を、都中の者が心待ちにしていた。


 先年の冬、伊勢の斎王(さいおう)の母君が亡くなられ、それを期に雅子(がし)内親王は斎宮(いつきのみや)を退出される事が決まった。

 だが、その後任を占うために行われる亀卜(きぼく)に結果が出たという知らせのないまま、年が明けている。


 噂好きな者たちの間では、幼くして今上帝(きんじょうてい)となられた主上には、天意がないのではないかとの陰口が飛び交い、下々の間にも斎宮の後任が定まらぬ故に、天照大神(あまてらすおおみかみ)がお怒りになられていらっしゃるに違いない、だから春の訪れがないのだ、などという雑言が広まって行く。


 そのような中行われた亀卜。朝廷では結果のでた甲羅を囲み、話し合う場が設けられていた。

 だが、卜占(ぼくせん)の結果を見分する場に集った者達は、皆一様にその結果に眉をひそめている。


 亀卜(きぼく)とは、亀の甲にあらかじめ一定の線を描き、焼き現れる縦横の(もん)によって吉凶を占うもの。その場には神祇官(じんぎかん)だけでなく、陰陽寮(おんみょうりょう)の者たちも同席し、持ち込まれた亀甲の前に注目していた。


 亀卜は陰陽寮で行う式占(しきせん)と併用され、官寮がその判を異にするときは、特に官卜に従う例がある。そのため、時にはこうして部署の違う者らが意見を述べ合う場が設けられている。


「……やはり、此度も同じ結果となりましたね」


 亀甲を囲む中には、陰陽頭(おんみょうのかみ)に付き添ってこの場に立ち会った陰陽師がいた。

 だが、(さき)の主上からの覚えもめでたく、官からの信も厚いこの男にさえ、この占から先を読むことは難しいことだった。


「ああ、だがもうこれ以上亀卜の結果を先延ばしにするわけには行かぬでしょう」


 その男の言に、周囲は首肯し同意の意を示す。


神祇伯(かみづかさのかみ)さま」


 亀甲を広げ見せていた卜部(うらべ)の者が神祇官(じんぎかん)の長に声をかけると、黒い袍を身に纏う年嵩の男が重々しく頷いてみせた。


「何度繰り返してもこの結果が出るのだ。このお双方に御杖代(みつえしろ)としての資質があることに違いはなかろう」


「では、先の取り決め通り、よりお力の強い内親王へ卜定(ぼくじょう)を行う、ということでよろしいか」


 そこに異を唱える者はない。

 だが、その場に居合わせた者たちの表情に、納得の色はなかった。


 男達の視線の先には、ぱくりと二つに分かれ、ひびの入った亀甲がある。

 そこに焼き現れた縦横の(もん)は、神の御杖代として選ばれし皇女(ひめ)がそれぞれ一人ずついることを示していた。


 この()が吉兆であるのか凶兆であるのかは、この場にいる誰にも予想のつかないものである。


 だが、民に広がる不安を鎮めるためにも、早々に神宮へ仕える皇女を、と迫られていた官らはこの答えを持って、主上への奏上を行うこととした。


 新たな斎宮の決定を受け、そのお役目に選ばれた皇女の邸には、定例通りに斎宮(さいぐう)卜定(ぼくじょう)を告げるための勅使が遣わされた。

 それと同時に、伊勢神宮にも奉幣使が遣わされ、斎宮はただちに潔斎に入られる決まりとなっている。


 ――本来ならば。


 だが、文を携えた勅使が選ばれた皇女の邸に着いた時、そこに皇女の姿はなかった。


 邸の中に踏み込んだ勅使が目にした物は、畏れもあらわに泣き伏す家人たち。

 すすり泣く女房どもを後にして几帳を押しのけた先に見たものは、(もぬけ)の殻になった御帳台であった。


 主のいない畳の上に置かれたひとつの桐の箱。そこに納められていたものは、ひと房に束ねられた、長く艶やかな黒髪だった。


 邸のどこを捜しても、(さき)の天皇皇女、斉子(せし)内親王の姿はない。

 斎宮卜定を受けるはずだった皇女はその日、人々の前から忽然と姿を消した。


















 雨のそぼ降る山腹に、打ち捨てられた(ほこら)がひっそりと佇んでいる。祠へ続く険しい山道には、雨を凌げる場所を探して移動する、大きな獣の影があった。

 だがよく見れば、その獣の下には二足歩行する人の足がある。


 それは童水干(わらわすいかん)を身に纏った童子(こども)が、自分よりも体格のいい獣をその背に負って歩く姿であった。

 童子は祠を見据え、雨を凌ぐための場所を求めて懸命に斜面を登っている。

 

 ぬかるんだ土に足をとられ体勢を崩しそうになった時、獣の白い毛皮の下から、童子の艶やかな黒髪がさらりと顔をのぞかせた。


「……がんばれっ」


 息を切らしながらも懸命に獣へと話しかける童子の声は、高く澄んでいる。歩きにくい斜面を必死になって進む童子の体躯は、ひどく華奢なものだった。

 それでも、気を失って重みを増している獣の身体をゆすっては、必死に体勢を整え一歩一歩、歩を進めて行く。


 童子の身に着けている童水干(わらわすいかん)は、見事な錦織。ひと目で仕立ての良さがわかるものだった。その顔立ちの良さもあいまって、良家の子女であることは一目瞭然。


 その童子の整った(かんばせ)はいま、泥と汗にまみれている。

 だが、白皙の面に真剣な表情を覗かせるその姿には、汚れなど目に入らないほどのひたむきさが感じられた。


 紅をひいているわけでもないのに赤く染まる唇からは、苦しげな呼吸が繰り返され、吐き出された吐息が外気との温度差に白く変化していく。


 一歩進むたび、みずらに結った豊かな黒髪が揺れて、童子の顔が垣間見える。

 もともとの肌の白さゆえか、曇り空の下では童子の顔色はより一層、青白いものに見えた。


「……死んじゃ、ダメっ」


 童子と背中に背負われた獣とは、上等な絹織物でひとつに結ばれている。決して落とさぬようにと、童子なりに工夫を凝らしているのが見て取れた。


 縛り付けている織物はきしみ、童子の肩に食い込んでいる。これでは酷い痛みがあるだろう。だが、童子は歯を食い縛るように獣の後足を抱え直しては、声をあげ続けた。


「もうちょっとだからっ」


 跳ねた泥で自分が汚れるのも構わずに、童子は背負うた獣を一心に励ましている。


「すぐに、温かくしてあげるから、がんばって……っ!」


 雨をしのぐ場所として、童子は道中に見つけていたこの(ほこら)まで登って来ることを決めた。

 ここまでずっと山道をかけずり回って来た童子の草履は、すでにぼろぼろの状態だ。そうして、やっとのことで祠に到着したが、背負われている獣からは何の反応も返らない。


 今にも外れそうな観音扉を開け放った童子は、そのままの勢いでまろぶように祠へと入りこむ。


 祠の中は存外広く、童子とこの獣程度ならば雨を凌げる程の広さはある。

 すぐに背から獣を下ろした童子は、自分の汚れた草履と(くつした)をはずすと、背負うのに使っていた上等な絹織物で獣の身体を拭い始めた。


 その(きぬ)が濡れて役に立たなくなれば、次は自分の身に纏っている水干と単を脱ぎ、惜しげもなく上等の衣で水気を拭っていく。


「ほら、目を開けて。元気出してよ」


 獣の身体を温めるように拭い続ける童子は、肌小袖(はだぎ)を一枚身につけただけのしどけない姿をしている。外は冬の寒さだというのに、童子はそれを気にするそぶりもなく懸命に獣の世話を焼いては、必死になって声をかけ続けた。


 最初に獣の姿を見つけた時、この獣の意識はまだわずかに残されていた。だが、二度目に訪れた時には虫の息。

 あわてて背負い、突然の雨に振られて向かった先がこの場所だ。

 雨に濡れ、次第に失われて行く獣の体温に、童子はひどく己を責めた。


「ごめん、ごめんね。遅くなって、ごめん……」


 獣の身体を擦り上げる童子の目には、涙が浮かんでいる。

 童子は泥まみれの自分に構う(いとま)すら惜しみ、今日出会ったばかりの獣に心を砕いていた。


「……やだ…っ」 


 徐々に呼吸が浅くなって行く獣の姿を見て、擦る手を止めた童子は、力なく目を閉じている獣を抱え込んだ。


「お願いだから、死なないで……!」


 大粒の涙がぽつりと落ちる。

 童子は獣の胸に顔を埋め、少しでも自分の体温を分け与えようと、その細い身体で獣をしっかりと包み込んでいた。


 童子が唱え続けたのは、目を覚まして、元気になって、という素朴で単純な祈りの言葉。常ならば人の発した言葉など、その場に響いて終わるもの。


 だがこの童子の紡ぐ言葉には確かな力があった。

 言の葉に乗せて送られた気の波動が、死に瀕する獣へと沁み込んで行く。それはやがて、生きる気力を失いかけていた獣の身体にゆっくりと温もりを与えていった。
















 疲れ果てていた。どうしようもなく疲れ果て、木の洞で身体を休めれば、もう立ち上がる気力など湧いては来なかった。そうして丸まり、長いこと眠っていたところに、光が差した。


 それは、すべてを包み込むような、暖かい光だった。


 陽の光が差したのだろうか。もう夜が明けたのか、と心の片隅にそう思うが、いまのこの身体では瞼を開けて確認することも出来そうにない。

 何をすることも億劫で、ただひたすらに眠っていたかった。

 結局なんの行動も起こさぬまま横たわっていると、陶器の鈴を鳴らしたような高く澄んだ硬質な音響く。


 心地の良いその音に耳を奪われていると、そこへ、やわらかな声が落ちてきた。


「ねぇキミ、大丈夫?怪我してるの?」


 声にはこちらを心配する色がある。

 だが、この場所に人が訪れるはずがない。ましてや、今のこの姿を思えば、こんな姿の己を心配する者などありはしない。

 自分ならば、一瞥もくれずに捨て置くだろう。


「あ――…、そうだった。このままじゃ触ることもできないのか。……どうしよう」


 何かが頬をかすめるような温かな感触があったが、それきり、その気配は遠ざかり、己の意識も遠のいた。


 次に誰かの声が聞こえた時は、それは切羽詰まったような、懇願するような響きとなっていた。

 だが今も、必死になって呼びかけてくるその声に応えることはできなかった。


 朦朧とする意識の中で、ただされるがままに身体を引き起こされる感覚だけがある。自分にはもう、その手を払う力も、言葉を紡ぐ余力さえも残ってはいなかった。






 生まれて来なければよかったと、幾度思ったことか。

 ここは自分のいるべき場所ではないと、常にそう感じ生きてきた。


 いまはもう、それもどうでもいい事のように思える。


 年を経るごとに身の内にある力が大きくなっていくのを、ずっと、隠すように生きて来た。

 幼いながらに、己の力が他者とは違う異質なものだと、存在自体が望まれてはいないのだと、父の背からも腫れものを扱うかのような家人の様子からも伝わった。


 思えばあの日、通りすがりの公達(きんだち)に道案内を頼まれたのが運の尽きだったのだろう。

 ほんの気の迷いだった。その人間の命を助けたことは。


 そのせいで、他者にこの力を悟られることになった。

 その上どうして知ったのか、居場所のなかった自分を預かろう、とその人間は申し出た。私を持て余していた父はひとつ返事でそれを受け入れたが、私はそれを悲しい事だとは感じなかった。


 その公達が勤める先。そこは、末端ではあるが父も所属している場所だった。

 それを知った時、この人間は私の持つ力を手中におさめたいのだ、と理解した。


 理解はしたが、思い通りになってやる義理などこちらにはない。

 そう思い、出仕することを拒み続けたあげくの、この様だ。


 歳を重ね、日ごと増幅する力を御しきれなくなった今。

 自分はもう、人の世では生きることが難しい存在になれ果てた。


 いまこうして、このような(なり)で死に向かおうとしているのも、自業自得といえばそうなのだろう。

 自分に差し伸べられる手を拒み続けた。

 善意で手を差し伸べようなどという者が、いるはずがないのだと。


 心から人を信じることなど、到底出来はしなかった。だからこれまで、自分から助けを求めることをしたこともない。


 奇異の者を見る目。

 蔑み、畏れる目。

 憐れみの目。

 そばに近づいて来る者たちからの、期待の目。


 そのすべてから逃れたいと願った罰が、この姿だというのか。


 力を欲しいと思ったことなど、一度もない。

 こんな力など、無ければよかったのだ。






 懇願してくる、必死な声。


「ねぇ、起きて、目を覚まして!」


 ぽつり、と頬に温かいものが触れた。


「お願いだから!」


 つよく抱きしめられる感覚。


「死なないで!」


 その腕から、さすられた場所から、温もりが広がって行く。

 己の身体を包む腕に力がこもるたび、胸のあたりが温められるような、不思議な感覚を覚えた。


 声を聞くたび、とても懐かしい様な、泣きたくなる様な、せつないものが胸をかすめる。

 どうしても、その声の主が誰なのかを確かめたくて、喉を絞るように声をあげていた。


「……だ…れ……?」


「っ!……キミ、しゃべれるの!?」


 姿を見ようと試みるが、瞼が持ちあがることはなかった。

 次第に熱を帯びてきた身体は、先程までとはまた違っただるさを訴えている。意識を保とうとするだけのことが、これほど困難に感じるとは。


 ただ、開かれたままの耳朶だけが、その声を届けてくれる。


「ねぇ、なまえ!あなたの名前を教えて!早く!!」


 ……なまえ?


 忌み嫌ってきた己の名。


 だが、この声の主がそれを知りたいと、そう言うのであれば教えてもいいと、そう感じた。

 最期に温かさをくれた、この声の主に。


「………わたしの、……名…は……」


 その浅はかな考えが後に、何を引き起こすのかなど思いもよらず。


「……はる…あ……きら」


 口にしたのは、己の(いみな)


「はるあきら、です…」


 霞む意識の中で名を告げた後に感じたものは、不思議な充足感。やがて襲ってきた眠気に、抗えなくなる。

 そのまま暖かな温もりに包まれて、気付けば、心地よい眠りへと落ちていた。




















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