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梓弓  作者: 長月 夜半
第一章 十六夜
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女達の噂話 Ⅰ


 日の出前、朝靄のけぶる山並みはひっそりと佇み、白けて行く薄青の空が夜闇に沈んでいた木々の輪郭をはっきりとさせていった。

 薄闇の中、静かに開門された王都ティルグの正面門からは農作業に出かけて行く男達がぽつりぽつりと影を落としている。


 水路の上域にある水飲み場で水に手を差し込み顔を洗うと、凍りつくような冷たさがピリリと肌に滲みた。横にある井戸では下働きの者が水を汲み上げ、硬く絞った布を馬番に手渡している。


「夜も明けぬうちからすまないな」


 受け取った布で馬を丁寧に擦り上げている馬番は、少し笑って首を振っただけで黙々と仕事をこなしていく。まだ暗いうちから連れだされ、先程まで寝ぼけた様子のあった愛馬も、馬番に世話をされるうち気持ちよさそうに尾を揺らしていた。

 全身を覆う黒色の毛並みにも艶がでて、大分身体も温まってきているようだ。


 鼻面にある褐色の毛を撫でると、目を閉じて擦りつけてくる甘えた姿は、仔馬の頃と変わらぬものだった。


「最後に蹄鉄を確認しよったら鞍をつけるんで、バルド様はちっくと離れちょってください」


「あぁ、頼む」


 年老いた馬番が馴れた手つきで前足を叩くと、青鹿毛(あおかげ)の馬は素直に足をあげて待つ。

 いつもながら、見事な連携だ。

 蹄鉄を確認し、緩んでいる物は取り外され、余分な蹄を削って新しい蹄鉄へと換えられて行く。


 そんな馬番の仕事に身惚れていると、街の女達が洗濯物を片手に洗濯場へとやってきた。

 城下の街中を流れる水路の何か所かに、こうした水場や洗濯場が設けられている。


 裏通りの石畳から階段を下り、程良く間隔をとって並んだ彼女らが、泥にまみれた衣服を冷たい流れの中に浸けこんでいくのが見てとれた。

 挨拶を交わす声がひと段落する間もなく、女達は口々に互いに持ち寄った話の種を披露しあっていく。






「ねぇ、聞いた?また獣雑(けものま)じりが産まれたんだって」


「また?どこの子?」


 洗濯場は下町に住む女達の社交場だ。

 話題の中心はもっぱら獣雑じりについて。下町では”半獣”ではなく、その見た目から”獣雑じり”と呼ばれることが多い。


 二十五年前から突然生まれ始めた獣雑じりの赤子。当初、異形の子どもを産んだ女は魔物扱いされ、赤子もろとも処刑された。

 世間の目を恐れてひた隠しにされていた獣雑じりの赤子だが、三月もたたないうちに処刑された母子の数は王都近辺だけでも百を超えていたと予想される。


 ここティルグニアの王都では、実態を把握するまでにかなりの時間がかかった。家族内や離れた領地、農村ごとに隠ぺいされた情報が届くのが遅れたことが原因だ。

 だが、そもそも王都では半獣の産まれる割合が少なかった。そのため、役人の耳に入るよりも先に奇怪な噂話として下々の間で広まっていた。

 そして、処刑が行われれば行われるほど、それを嘲笑(あざわら)うかのように半獣の出生は増えて行ったのだ。


 茶褐色の髪をした女が、十分に水の浸み込んだ泥まみれのズボンを棒で叩き始めたのを皮切りに、そこかしこで洗濯物を叩く水音が響き始める。


「うちから四通り先の毛皮商人の家の嫁だよ。あそこにうちの従姉妹が勤めててさ、産声が聞こえたはずなのに大旦那が使用人頭に死産だったと話すのを聞いたんだってさ」


 半獣が生まれ始めて三月が過ぎ、下町だけでなく上流階級の間でも次々と獣雑じりが産まれるようになると人の口に戸を立てることにも限界が訪れた。


 人々の不安と恐怖が高まる中、各国の対応は様々だった。


 半獣の存在を一切認めないと宣言したのは南国ベルニア。

 北に位置する我が国ティルグニアでは、数年前に半獣を国民の一員として認める事が宣言された。

 東国と西国は当初、半獣を忌避する姿勢をとっていたが、近年ではその態度を改めて我が国の後を追随し始めている。


 洗濯棒を跳ね上げる女達は次々と衣を叩いては流水に晒し、また叩く。繰り返すうちに段々と泥が水に流れ出なくなり、後から洗い場にやってきた者との差で水路の水が泥の流れと透明な水の層になって流れて行く。

 女達は作業の手を止めることなく、噂話に興じていた。


「あのお嫁さん、離縁を迫られて家をおん出されたって聞いたけどそんな理由だったの……気の毒にね」


「あの業突く張りで嫁いびりの酷かった姑、”獣と密通したあばずれ女”って言って追い出したらしいよ」


 体格のいい女は濡れた手でほつれて顔にかかった髪を耳に掛けると、呆れたような声をあげた。その横に座る女は洗い終わった服を絞りながら、嫌な臭いでもかいだかのように渋面を作っている。


「まったくバカバカしい!ほんとにおぞましい事を考えるもんだよ。どうやったら獣と子どもが作れるって言うのさ」


「自分の嫁も庇えないような亭主なんざ、こっちから願い下げさ!」


 ほんとだほんとだ、と合いの手を打つように女達の失笑が飛び交う。


「あの性悪婆さん、嫁を(おとし)めたくてしょうがないのよ。傷つけられればなんでもよかったに決まってるさ」


「……だけどさぁ、あたいは怖いよ。獣雑じりを産んだ女をそんな目で見る奴が多いんでしょ?」


 年若い女は我が身の事を考えたのだろう、笑ってばかりもいられないと年嵩の者達に不安を打ち明けている。


「世の中には(ことわり)の分からない奴もいるんだよ。うちの周りじゃ、そんな話を笑ってするような下卑た男ばかりだけどね!……それよりさぁ、聞いとくれよ。昨日の晩、旦那の弟の嫁が気をおかしくして病院に入れられたって聞かされて家じゃ大騒ぎだったんだよ」


「そりゃ、気の毒に」


 一通り洗い物の終わった女が立ち上がり、ぎこちない動きで腰を両手で支え、軽く伸びをした。洗濯ものが山になっていた桶には、女たちの手で器用に絞られて巻貝のようになった衣服が積まれている。


「まぁ、産んだ子どもが獣だったら私だっておかしくなるよ」


 ()()気がおかしくなったのか、ということは伏せて話されていたのに年嵩の女はすぐに気付いたようだ。


「……子どもは旦那の弟が捨てに行ったってさ」


「どこに?」


「あぁ、知ってる。最近、国が出したって言うあの()()()だろ?役所の人間が獣雑じりが産まれるのを監視してるんだよ。うちのが、役人が街中の腹ぼて女を探し回ってるって酒の肴に喋ってるのを聞いたからね」


 半獣の保護を決めた年、ティルグニアでは産まれた半獣を処分する事を禁じる触れを出した。だが、その情報も未だ全ての国民に行き渡ってはいない。

 下町では男の中には政治に興味を持つ者もいるが、それでもまだまだ半数にも満たず、女に至っては更に数が少ない。家庭の雑事に追われてその余裕が持てないのかもしれない。


 下町の男の社交場は酒場だ。酒を酌み交わしつつ情報交換が行われているが、そこに寄りつく女は商売女くらいだろう。

 日々の暮らしに追われる民達に、如何にして正確な情報を広げて行くかは役所の者が頭を悩ませている事案だ。


 わたしは水を飲む馬の背を撫でていた手を止め、そっと息を吐いた。

 上流からは下がよく見通せるし声もよく聞こえるが、下流からはこちらは見えないようだ。女達は自分達の話を聞いている者がいることになど気付きもしない。


「……お役所に引き取られた子どもは、どうなるの?」


 不安気に皆の話に耳を傾け、質問をしたのは若い娘だった。


「役所から赤子が馬車に乗せられて連れてかれるのを見たって人がいたよ。……まぁ、良い扱いを受けるなんてことありえないだろ。捨てたが最後、忘れるのが一番さ」


 皆がその言葉に反応を反せず黙りこむ。中には俯き、洗濯の手に力が籠る者もいた。側にいた女が痛ましげにその女の方をみている。


「わざわざ役人が生かして集めているんだから、どこかへ売られることも殺されることも無いだろ?だけど、一生罪人のように閉じ込められるとか、あたいじゃ考えもつかないような恐ろしい目に遭わされるんじゃないかね」


 女の馬鹿げた言葉を聞いて、強く拳を握り込む。手綱を握り締める私の手に力が入ったのを察して馬が耳をそばだて、水を飲むのを一時中断して身震いした。


 そんな訳があるか、と声を張り上げて怒鳴りつけたい衝動にかられる。しかし、今それをして何になるのかと自分に言い聞かせ、唇を引き結んで堪えた。

 息を吐き出し、仕上げの毛づくろいをしていた馬番にそろそろ終わらせるよう指示を出す。


「……私、自分が子どもを持つのが怖い。産まれた子が獣雑じりだったらと思うと…」


「みんなそうだよ、だから、国中で出産率が下がってるって」


「……竜なんていなくなればいいのに」


 ぽつりと呟いた若い女の言葉に、剣呑な眼差しを向け(たしな)めたのはこの中では一番年老いた女だった。


「―――やめときな。竜に聞こえたらどうするんだい」


 獣雑じりが産まれ初めて二十五年が経つ。だが、未だにその原因を究明出来ている者はいない。人々の間では、(まこと)しやかに語られる”竜の予言”という噂だけが根拠もなく広まっている。


「竜の予言のせいでこんなことになってるんでしょ?あんたは思わないわけ?全部竜のせいだって」


「それはさ……」


「でも……」


 女達の反応はどれも芳しくなく、返す言葉も歯切れが悪い。





 この世界には五頭の竜が棲んでいる。だが、実際にその姿を自分の目で見た人間は数少ない。


 伝説の中に(うた)われる竜はどれも、人に災厄をもたらす存在として語られ、竜の言葉には言霊が宿ると云われていた。

 人に災厄を起こす竜はその怒りを”予言”という形で口に乗せ、言霊となったその予言は現実のものとなって人々に降りかかるのだという。

 竜の怒りを買う、とは身の破滅を意味する言葉として遣われている。


「竜を怒らせたのはあのヒッツェンて戦犯でしょ?なんであいつらの罪を私達が(かぶ)らなきゃなんないのよ」


 此度(こたび)、竜の予言を呼び込み半獣を生み出す原因となったのは、世界を混乱に巻き込んだ先の戦争だといわれていた。


 三十年程前、南国の一領主だったヒッツェンは権力を欲し、自身の持つ多大な魔力を旗印に国中から王に叛意を持つ者を集めた。彼らは祖国であるベルニア王国に牙をむき、瞬く間に王権を手に入れた。

 この世界に衝撃をもたらしたその戦争は自国内に留まらず、世界を巻き込む一大事へとその様相を呈した。


 ヒッツェンは己の欲望を満たすために”力”を欲し、皆が畏れ敬い、慈しみ、大切に守ってきた”精霊”を殺してその強大な魔力を奪っていった。


 後に”精霊狩り”と呼ばれるその行為は自国内に留まらず、世界中の聖地が被害に遭い、次々に精霊が奪われた。

 南国の戦乱に気を取られていた三国がその事実に気付いた時には、既に精霊は狩りつくされ姿を消した後だった。


 なぜ、それほど容易に自国の精霊を蹂躙し尽くされるまで気がつかなかったのか。

 各国が躍起になってその方法を探ったが、既にヒッツェンは(たお)された後で、どの国でも謎に包まれたままである。


 膨大な魔力を保有し世界にその恩恵を与えていた精霊の消滅によって、世界に満たされていた魔力は枯渇状態に陥った。

 更に、精霊のいなくなった聖地は濃度の高い瘴気で覆われるようになり、その瘴気は自然を穢れさせた。聖地から溢れだすように発生する瘴気は生き物を狂化させ、大地を(むしば)み、今なおその範囲を拡大させている。


「あんな奴の事、言うだけムダムダ。それに、竜にとったらあたいら人間なんてみんな虫けらと同じなんでしょうよ」


「あぁ!そうよねぇ、私にだってアリの顔の違いなんてわかんないもの」


「……(あり)?」


 ……蟻。確かに、アレの顔の違いなぞわからんな。


 疑問だったことがやっと分かってすっきりしたとでも言いたげな女の笑顔に、その場の空気が一瞬静まり、どっと笑いが起こった。


 思わずつられて笑いそうになり、なんとか口を押さえとどめる。

 どうやら鞍を取りつけていた馬番も今の話を聞いていたようだ。身を小さくして真っ赤な顔を伏せ、小刻みに震えている。


「あんた何いってんの?もう、ほんとにバカなんだからっ!」


 甲高い声で笑う女たちはひと笑いするとまた、別の話題を見つけ楽しげに喋り続けた。

 向かいの通りを歩く人影がこちらを窺っている。通りの向こうまで女達の高笑いする声が響いたか。


 女達の明るさに、沈んでいた気分が少し拭われたように思う。いや、ここの女達は不安をごまかすためにわざとそうして笑いあっているのかもしれない。


 気を取り直した馬番に、準備の完了を告げられた。急ぎ馬を整えて貰うことになったが、なんとか出立できそうだと安堵の息を吐く。

 作業を終えた馬番は手早く道具を片づけると、下働きの者とともに屋敷へ帰った。


 鞍周りに水や糧袋(りょうたい)が装着されているのを確認し、旅支度の整った青鹿毛に跨る。市街地を抜け正門へと向かうべく馬首を大通りへと巡らせれば、女達の明るい声は次第に遠ざかっていった。







 近年、王都では子どもの出生率が低下の一途を辿っていた。


 先日、その調査を行っている文官から半獣の出生率が二割を超え、少しずつ上昇の気配がみられるとの報告がなされた。

 風の噂に南国ベルニアにおいては半獣の出生率が八割を超えたとの噂も聞く。一体何でそこまでに増えたのか、と渡りの商人からその話を聞いていた酒場の男達は首を傾げていた。


 我が国でも最初の数年は半獣の出生率が見る間に上がり、人々は恐慌状態に陥った。だが、それに歯止めをかけたのが王女の提案であったと知る者はほとんどいない。

 民に至っては半獣が産まれるのが()()()()()()()という事実を知る者すら、ほぼいないだろう。


 多くの者が知るのは、産まれながら病に侵され一度も屋敷の部屋から外へ出たこともないという虚弱な王女のこと。その世間知らずなはずの王女の一言から、半獣の保護計画は始まった。


 数年前、王女殿下から側仕えを通し議会に『殺さずに、育ててみては』という意見が出された。

 当初は、誰も相手にしなかった意見。だが、我が主はそれを聞くとすぐに王女殿下と謁見し、半獣の保護に向けて動き出した。多くの反対意見を押し切った強行策に、一時宮廷は騒然となった。


 しかし、愚策だ正気の沙汰ではないと口さがない意見を言う者達の予想に反して、成果はすぐに表れた。

 各領地に設置した施設で、産まれた半獣を引き取り育てるうち、半獣の出生率が急速に減少したのだ。

 正しくは、ティルグニアの人口における半獣の割合が一定のラインに達してから、純粋な人間の子どもが産まれる割合が増えた。


 その結果を受け、宮廷内は施設建設を有意義なものと認め、それが王女殿下の功績となった。

 国内の大きな領地から順に保護施設を増やしていき半獣の保護に努めた今は、出生率を二割までで食い止める事に成功している。

 更に詳しい検証を行えばはっきりするだろうが、不慮の事故や病気で亡くなる半獣の子どもの数を補うように半獣が産まれることはある。だが今のところ問題のない範囲といえよう。


 我が国で発見した半獣の出生減少の成果は他国へもすぐに情報を開示した。

 それを受け、東と西の両国は半獣を排斥する構えを解いたと聞く。その対応は我が国ほど徹底は出来ていないまでも出生率の改善傾向にはあるようだ。


 しかし、未だに生まれた半獣の処分を徹底して続けているらしい南の国では、ほぼ人の子が産まれなくなった地があると伝え聞く。

 人口が減った彼の国付近では、()()()犯罪が横行していると噂されている。だが、彼の国とは国境を隣としないため情報が少なく、その現状は定かではない。


 今はまだ。


 これから長い距離を走ってもらわねばならない馬の(たてがみ)を一撫でし、大門を守る兵士達に行き先を告げて長いアーチを(くぐ)る。

 それを抜けると目の前には朝靄に沈む田畑が広がった。


 右手に見える稜線と雲の間から朝日がゆっくりと顔を出し、朝靄に閉ざされた田園地帯を照らし出して行く。光に照らされてみれば、すでに腰を曲げて働く男達の姿がそこかしこにあった。


 一つ息を吐いて進む先を見据え、手綱を取る手に力を込める。首を振り鼻を震わせる馬をなだめて橋を渡ると、そのまま国境門の方向へ馬首を巡らし気合と共に疾走した。


 ――これから私は、国境で保護された半獣の子どもを引き取りに行かねばならない。


 既に半数以上が衰弱死しているとの報告がある。彼ら自身のためにも、この世界の未来のためにも、彼らを一人でも多く生きてここまで連れて来るのが私に与えられた任務だ。


 片道でも三日半かかる行程。

 あちらからは三日前に出発しているとの報告を昨夕受けたが、どれほどの子どもを助けてやれるかはわからない。向こうは途中、いくつかの村や町で馬を取り換えながら強行軍で進んでいると聞く。

 一刻も早く合流してやりたいという思いが湧き上がる。


 たとえ死に掛けでも王都まで生きて連れて来てしまえば、その後の心配はいらないだろう。あとは彼らの体力と時間との勝負になる。


 我が主の思惑が上手く運ぶことを精霊に祈る。

 馬の腹を両足でしっかりと固定して前傾姿勢を取り、勢いよく掛け声をあげて更に速度を上げて馬車道を走り抜けた。

















「バルド」


「は、ここに控えております」


 無人だった背後の部屋に人の気配が生じた。

 声のぬしは幼い頃より仕えてきた我が主君。執務室の扉前で警護に当たっていた私は、返事をしてすぐに扉を開け入室する。


「召喚の儀はいかがでした、か……?これは、一体何事ですか」


 目の前にあった光景に思わず声を詰まらせた私へ向かって、主は平然とした様子で答えた。


「問題ない。泣き疲れて眠っているだけだ」


「いやいやいや、お待ちください大問題です!なぜ、泣くような事態になったのですか!?」


 主君の言い分が理解できない。

 いや、よく考えてみれば、この方の言動に対し理解できる事の方が少なくはあるのだが。


 私はペテリュグ家の長子として生まれ、彼の乳兄弟として幼い頃より側で仕えてきた。

 現在では騎士団長の大任を拝しているのだが、本来ならばそこで側近としては退き、新たな側近を迎えるはずであった。だが、主がそれを頑なに拒否したため、現在も騎士団長と側近の二足の草鞋(わらじ)をはいている。


 日々多忙を極めているが、我が主はそれを考慮して休みをくれるような方でもなく、ご自身すらほぼ休みなく働き詰めの毎日を送っていた。このところはずっと、相次ぐ問題の処理と今日の日を迎えるための準備に追われながら。

 今夜は救世主となる者を召喚魔法によって呼び出し、助力を乞うという計画だったはずだ。


 それが、なぜこんなことに……。


 冷たい視線を足元に転がっているものに向けている主へ非難の目を向けるが、この方がそんなものを気にするはずもなく、いつもと変わらぬ無表情で室内に沈黙が落ちる。


 主の足元には、黒髪の子どもが倒れ伏していた。

 子どもの服装はひと目で質の良さが分かる光沢のあるブラウスに、身体の線を顕わにする縫製のしっかりした下履き。何の素材で出来ているのか不明だが、足には変わった靴を履いている。


「この子どもが、我々の救世主となられるお方ですか。ずいぶんと若い。それにティルグニアでは見かけぬ変わった衣装を身に着けておられますね」


 思いも寄らなかった展開に困惑しつつも、救いをもたらすとされる相手に関心を寄せずにはいられない。助け起こすことも忘れ、相手を見分していた。

 この場面を母上に見られていたならば、”このバカ息子”と叱責を受けていた事は間違いない。


「あぁ、私もそれには驚いた。どうやらあの魔法陣はこの者を異世界から召喚したようだ。異界から引き寄せる前にこの者の世界を垣間見たが、空恐ろしくも不思議な美しさを感じさせる場所だったが。……道理で、必要な魔力を溜めるのにあれほどの時間がかかった訳だ」


「異世界!?それに、驚いたって、どこから呼び出されるのかご存じなかったのですか。主が行使された魔法ですよね?」


「召喚の魔法陣は母が用意したもので、私はそこに必要な魔力を流し込んだだけだ」


 つまらなそうに子どもを見下ろす主の表情には、感情の一切が感じられない。

 過去に、宮廷魔術師たちが総力を尽くしてもあの魔法陣を起動させることが出来なかったというのに。今までこの方が己の力を誇示するような姿は見たことがなかった。


 絨毯に伏し目覚める様子のない子どもから、興味を失ったようにこちらを向いた主は、平然と人で為しのような計画を述べた。


「この子ども、あまりに幼すぎて現状認識が追いつかないようだ。気が動転していたせいもあるのだろうが、話が進まない。きっとこのまま目を覚ましても同じことの繰り返しだろう。時間の無駄だ。仕方がないからな、この者が大事にしている物を利用してこの世界に留まりたくなるよう仕向けて行くことにする。手伝え、バルド」


「……は?し、仕方ないとはなんですか。誠意を持って事情をお話しするべきでは?気が動転するのは当たり前でしょう、異世界に召喚されたのですよ!?」


 子どもだと認識されているのであれば、もっと気遣ってやってしかるべき。そう考えた私は主のあまりにも情け容赦のない冷酷なもの言いに、意義を申し立てた。


「こんな状況に陥れば誰であろうと、度肝をぬかれますよ。それに、こちらは助けていただく側でしょう。謀略を立ててこの幼い子どもを罠に嵌めるような卑怯な真似は、たとえ主の命令であっても承服致しかねます。時間をかけて会話を重ねれば、子どもと言えどきっと理解してもらえるはずです」


 だが主は、そんなこちらの憤りなど気にもとめる様子がない。

 これまでもそうだった。この方が意見を聞くのは我が母と妹君くらいのもの。

 主とは長い時間を共に過ごしてきたが、それを聞きいれるかどうかは兎も角として、彼女達の意見以外に耳を貸している姿を見たことが無い。

 昔は、今は亡きお母上の言葉だけには従順であったというが、中々に信じ難い話である。


 鋭い視線を一端伏せた主は、こちらに胡乱な視線を向けると、口元を皮肉気に上げた。


「面倒だ。それにその余裕もないようだぞ。バルド、お前これを見ても同じことが言えるのか?」


 視線と仕草で主が示した先は、ご自分が身につけている上着の袖、そしてその視線は更に下に落とされた。見れば、長い袖の中に手の平が中ほどまで隠れている。視線を追うように足元を確認すると、ズボンの裾が床についているのが見て取れた。


「なぜ、大きい衣装をお召しになっているのです。わざわざお召し替えになられたのですか?」


 不思議に思い疑問を投げかければ、温度の低い声が返った。


「そのような意味のない事をこの私がするとでも?」


 鋭い視線を向けられ、姿勢を正す。漂ってくる冷え冷えとした気配に緊張の糸が張った。漂う魔力の波動に身体が硬直する。どうやら本日の主は、いつも以上に機嫌が宜しくないらしい。


 渋面を作って抗議する私に、主はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、魔力による威嚇をやめた。そのまま短く嘆息すると、手近な長椅子の背に軽く腰を寄りかからせている。

 やる気がなさそうなのはいつものことだが、何かに寄りかかるという仕草は、この方にはあまり見られない行動だ。


「……大分、お疲れになられたご様子ですね」


「召喚魔法に魔力を根こそぎ持って行かれた。この身体を維持するのに必要な魔力でさえ足りなくなっている。今は魔力が回復するのにも時間がかかるご時世だからな。何か不測の事態が起こった時に対処する余裕も無いぞ、どうする?」


 酷薄な笑みを浮かべた主の姿を見て、背筋にヒヤリとしたものが走る。


 この世界は魔力によって成り立っている。永く安定してきた自然界における魔力の循環。しかし、先の戦争を引き起こした男によって精霊が失われた事で、世界を循環していた魔力が歪み、大地に異変が起きた。


 人の手により歪められた自然は台風・地震・洪水・干ばつなどの天変地異を引き起こすのだ。

 それらを鎮めるために各国の魔法使いは総出で対応に当たっている。だが、我が国はその制御のほとんどを主の魔力で補っていた。


 前王が亡くなられて間もなくの頃、周囲の制止を聞かず、召喚の儀を行おうとした宮廷の魔法使い達は、魔法陣の起動に失敗し、以来、魔力が上手く操作できなくなった。

 国中から魔力の高い者が集められて結成される宮廷魔術師のほとんどが力を失い、この国は一時絶望の淵に落とされたと聞く。


 我が国で一番の魔力保有者であり、世界にも並ぶ者は無いといわれる我が主。この方はその甚大な魔力を、惜しみなく国の安定のために注ぎ込んでいる。

 主の魔力が尽きれば、我が国は魔力の枯渇によって狂った自然の脅威に曝されるだろうことは想像に難くない。

 焦りを覚えた私は、主の側に寄り、無事を確かめずにはいられなかった。


「何を呑気に仰っておられるのです!お体に不調は!?魔力が枯渇状態にあるという事ですか?すぐに、回復薬をご用意いたします」


「いらん、鬱陶しい。その回復薬ですら瘴気に侵された粗悪品ではないか。私にはそれほどの効果はない、無駄だ」


 頭や肩に触れる私の手を煩わしげに振り払い、眉をひそめる主に怒りがこみ上げる。


「……それでも、何もしないよりはましでしょう。少しはご自分の身体の事を考えてください。貴方が倒れられたら、妹君が貴方様の後釜に据えられる事となるのですよ」


 一瞬虚を付かれたように目を見張り、口を引き結んだ主の顔はその不満を隠しもせずに仏頂面になる。感情を見せたその表情は、少し幼げなものだった。


 主の顔は肖像画を見る限り、今は亡き父王によく似ておられる。

 整った目鼻立ちの、28歳という年相応に見える容貌は、過去に一度だけ嫌々ながらに参加された舞踏会で、ご令嬢や妙齢のご婦人からの熱い視線を一身に集めていた。


 だが、主の価値はその顔立ちではない。

 主の真価は、他者と一線を隔す、その膨大な魔力にある。

 揺らめくような輝きを放つ金緑色の双眸に、青銀の髪。その瞳に宿す金や頭髪を彩る銀は魔力の強さの証。この方が身の内に持つ魔力は、母親ゆずり。亡くなられた王妃も、それは美しい銀の髪と金の双眸をされていたと、事あるごとに母から聞かされていた。

 

 私の言い分をしぶしぶ受け入れた主は、用意した魔力回復薬に手を伸ばし服用してくれた。


 身体を維持する魔力は削られたが、まだ枯渇状態にはなっていないと言う主の表情からは、それが嘘かどうかまで判断する事は出来ない。わかったとしても、私にはこれ以上の事をして差し上げられない。


 妹君の事を持ちださなければ、ご自身の身体を大事にしてほしいと考える私の意見など容易く切り捨てられただろう。そんな自分を不甲斐なく思う。


「取り敢えず、この子どもはアニヤの許へ運ぶ。バルド、お前には明朝、東国の国境門へ向かってもらう。そのつもりで準備を整えろ」


 空になった薬包を片付けていると、主から今後の指示が伝えられた。指示のあったその話の内容に心当たりを覚え、記憶を探る。


「母上の許へ、ですか。それに、東の国境ということは例の奴隷商の()()の件でしょうか。それならば、報告の行き違いがあったらしく新たな情報が入っております。辺境領では対処できる者も、ひき受け先も見つからず保護したその足で王都へ向けて馬車が出発したとの事です。書かれてあった日付によると、三日前にあちらを出ているようなのでこちらへは明日の午後には到着する予定だと思われますね」


「そうか、ならば尚のこと好都合。その者らをお前が先導してアニヤの許へ導け。命さえあればお前の母ならばなんとかするだろう。私が動けぬ今、我が国では彼女にしか出来ぬことだ」


 手を握ったり開けたりする動作をしながら、そう告げる主の表情はいつも通り冷めたものに戻っている。だが、その内心では力及ばぬ己を苛んでおられるのだろう。


 その姿を見て、こちらの頭も冷えた。

 どんな方法を持ってしても救世主殿には我が国、ひいてはこの世界を救っていただかなくてはならないのだ。しかし、まだその意図が汲み取りきれず主に疑問を投げかけた。


「母上ならば必ずやご期待に添うことでしょう。しかし、なぜ救世主殿を母の許へ連れて行くのですか?あの場所ではこの世界の現状やこちらの要望を伝えるには不適当かと思われますが」


「救世主殿は子どもが好きだそうだ」


「……は?」


「この歳で異常な性癖があるとは思えんのでな、言葉のままだろう」


 ……いや、そんなことは考えもつきませんでしたが!?


 冗談にしても酷い言いようの主に渋面を向け、内心で反論したが、主の視線はずっと顔色の悪い子どもの方へと向けられていた。

 深く呼吸して気を取り直し、いかにもこの方が考えそうな手が思い浮かんだので確認してみる。


「あの離宮に住む子どもらと会わせて同情を得ようとお考えですか」


 母上が保護している子ども達は、破綻しつつあるこの世界の歪みそのものではある。

 だが、彼らを見ただけで何かが変わるとも思えない。ちゃんとした説明と誠意をもった対応をする方が良いのではないだろうかと考え、目で問うように視線を向けた。


「離宮の子ども達では、この世界の現状を伝えるのには役不足だろう」


 どうやら、主も同じ考えではあるらしい。


「それで、奴隷商の積荷ですか。……長い付き合いながら、本当に貴方の考える策には容赦がない。このように幼い救世主殿が嫌悪感を示され、助力を拒否なさったらどうなさるおつもりですか」


 そうは思ったが、しかし救世主殿が子ども達の現状を憂いてその気になってくれるのならば、それもまた間違いではないのだろう、と己を納得させようと試みる。

 だが、目を細め冷笑をその整った顔に浮かべた我が主は、またしても信じられない考えを口にした。


「やる気になるまで繰り返すだけのこと。この者に悪印象を与えた情報を消して、また違う方向から試せばよい」


 この方が幼いころによく見せていた不敵な笑い。

 久々に見たその顔と、言われた内容に頭を抱えた。久しく目にしていないこの方の本来の姿が、だぶって見えた気がする。


「……それは、記憶を操作する魔法を行使する、と仰られているのですか?あの魔法は禁術でしょう。それにあの魔法には多くの魔力が必要なはずです」


 今の発言を慎重に確認する私に対し、だが主は一切悪びれた様子もなく信じられないことを口にした。


「あぁ、想定外に魔力を消費した。一度で済めばよいがな」


 開いた口が塞がらないとはこのことだろう。

 あまりの衝撃に(しばら)く二の句を継げずにいたが、我に返ると猛烈な怒りが込み上げてきた。


「何をなさっておいでなんですか貴方は!禁術を使ってご自身の魔力を枯渇状態にまで削るなんて信じられません!しかも、駄目なら消してやり直すなんて、どこの子どもですか!!」


 私の言葉に無表情でこちらを見る主は、その端正な顔に似合わぬ反論をしてきた。


「こいつが悪い。煩く泣き喚いたあげく、私を誘拐犯扱いしたのだからな」


 大きな子どもがここに居た。


 ……どうやら我が主は大層ご立腹だったようです。

















 計画の発端は置いておくとして、現状は(おおむ)ね主の思惑通りに進んでいる。


 救世主殿に子ども達の置かれている現状を目の当たりにしていただくことは出来た。

 奴隷商から保護した子ども達の姿も見てもらい、彼らの命も辛うじて繋ぎとめられている。


 何も知らせないまま大仕事を引き受けてくださった事には申し訳なく思うが、母上もあの方の正体については、うすうす気付かれてはいるように思う。

 母上からはあの方についての話も、少し聞かせてもらっている。彼の方は半獣に対して忌避感が無いばかりか、子ども達を愛し気に見つめていたという話だ。

 母上には今回の件で無理をさせてしまったが、あとでしっかり感謝を伝えたいと心に誓う。


 今、私の目前には、泣きはらした目をした我が国では珍しい黒髪黒目の子どもが立っている。

 私が連れてきた半死半生の子ども達を見て大きな衝撃を受けたようだったが、治癒後は懸命に世話をしていたと聞く。

 このように幼くとも、半獣達の悲惨な姿を見て目を背けずに向き合う強さは流石、世界を救う力をその身に秘めた救世主殿だと感じさせられた。


 昨晩、主に命じられてこの離宮まで運びこんだ、(いとけな)い寝顔をさらしていた救世主殿。腕の中に抱え上げられたその身体は小さく、何とも頼りなさげな様子をしていた。


 だが、今私の目前に立つこの方からは、力強い生命力を感じる。黒い双眸に光を宿す姿からは瑣末(さまつ)な事など物ともしない意志の強さが感じられた。

 このまっすぐな瞳を持つ者に対峙した瞬間、私の胸にこの方とは真摯に向き合わなければならないという思いが強く涌く。


 助力が欲しいのならば、こちらも正直にまっすぐ向き合わなければならない。

 そう確信し、姿勢を正してこの世界を救う力を持つこの方と正面から向き合う覚悟を決めたのだった。


















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