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梓弓  作者: 長月 夜半
第二章 朧月
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竜の塒


 ゆっさゆっさと揺さぶられる振動に何かを踏みしめる音、規則的で力強い息遣いが耳に届く。意識が眠りから浮上するなか、身動ぎしようと意識して手足の自由が利かないことに気付いた。


 周囲を警戒し、目に張り付いたような重い瞼を押し上げた視界の中に映ったのは、うすぼんやりとした白い景色だけだった。


「……っ」


 声をあげようにも、口の中が乾燥していて思うような音にならない。魔力検知で周囲の様子を探ろうとしても、窮屈な閉塞感が邪魔をして力が使えなかった。

 認識できたのは、いつも変わらず側にある馴れた魔力がひとつだけ。


「グッ……ゲホッ……ハッ、ガハッ……!」


 なんとか声をあげようとして失敗し、激しく咳込む。吸い込んだ空気の冷たさに、喉が委縮したのだ。

 咳込んだことで、こちらの様子に気づいたバルドが声をかけて来た。


「おや、やっとお目覚めになりましたか」


「バ…ル……」


「はい、お待ちください。すぐにそこから降ろします」


 バルドの声はとても近くに聞こえたが、どこから聞こえてくるのかわからない。息を整えている間にも、何かを踏みしめる音が続いていた。


 胸の奥から吐き出した呼気が、大気に白いものをくゆらせ流れていく。


「……さ、むぃ」


 鼻先に感じる痛みと、肌に感じる感覚を口にするとバルドの笑声が響いた。


「はっはっはっ、鍛錬が足りませんね。これしき寒いうちに入らんでしょう」


 バルドの弾んだような声と共に視界が一気に下がる。

 無造作に地面に降ろされた衝撃のあとで、上から覆いかぶさるように、見慣れた顔がこちらを見下ろしてきた。

 バルドの姿が全体的に白くなっているように見える。防寒具では覆いきれなかった眉毛や髪には、霜がおりていた。


 ……もう竜の領地に入っているのか。


 最後の記憶は、グランニアを出た馬車の中で横になったところまでだ。ここが竜の領地だとすれば、随分と長い間眠っていたことになる。


 ……アズサは無事にシャムロックと合流できただろうか。


 頭上に立ったバルドが動くと、シュルシュルと紐を外す音が聞こえた。そのまま両手で持ち上げられる感覚があったが、自分ではまだ身動きがとれない状態だ。

 顔の向きが変わると、今いる急斜面のてっぺんに紫雲で覆われた山の頂が見えた。


 もうここまで来てしまえば、(ねぐら)までそれほどの距離はない。

 この場所で魔力の検知をすることは無意味だと気づき、深く息を吐いて苛立ちを抑え込みながら、アズサの捜索を諦めた。


 その間にもバルドによって布地が次々と外されて行く。

 その様子をぼんやりと眺め、自分が毛布やローブで簀巻(すま)きにされていたことを悟った。


「まずは水と食事を口に入れましょう。いくらなんでも寝過ぎです。いつから食事を摂っていないと思っているんですか。いい加減死にますよ」


 大量に巻かれていた布から解放されると、身体を締め付けるような閉塞感からは解放されて周囲の雪景色がよく見えた。と同時に全身を寒さが襲う。


 目覚めた時、視界に映った白いものはうす曇りの空だったらしい。

 私は寝ている間にバルドによって簀巻きにされた上、荷物の上にがっちりと固定されていたようだ。そのまま一度は雪上に下ろされたが、体幹を保てずに倒れていく。それを確認したバルドによって、また担がれることになった。


 力なく肩に乗せられ、嘆息する。


 まずは、この身体をどうにかしなければならないようだ。

 感覚の鈍くなった手足を意識しながら、バルドへ問いかけた。


「こ…こは、りゅう…の……わた……は、ど…くらい…ねて」


 言葉が上手く出て来ない。

 こちらの身体がカタカタと震え始めたのを確認したバルドは、背負い袋の中から大きな灯火具を取り出し、袋から大きめの魔石を手に取った。


「ええ、もう竜の領地に入っていますよ。移動の途中でティア王女がふもとまで送ってくださったので、存外はやくにここまで来られました。すぐに湯を沸かしますから、しばらくお待ちください」


「そ…か」


 ティアが転送をしてくれたのなら、実際にかかる時間よりは大分短縮されているはずだ。少し憂いが晴れて肩の力を抜こうとしたが、身体は寒さに強張ったまま勝手に震えている。


 雪をはらい、岩を背に座らされるが、倦怠感とこわばりが酷くて手足は一向にいうことをきかない。それに加え、目を開けていようと思うのにじっとしていると瞼が下がって来る始末だ。

 目の前で話しているバルドの声すら、なんだか遠く感じられた。


 バルドが灯火具に魔石を嵌め込むと、賦与していた効果が現れはじめる。

 すぐに、暖かい風が頬をかすめるように流れて来た。


「ドワーフの里を出てからは携帯食と水を少し口にしただけで、討伐中は水しか飲んでいませんでしたからね。すぐに何か口にいれましょう」


 灯火具を置いた場所から、地面を覆っていた雪が見る間に蒸発して消えていく。

 魔石の力に応じて、暖かい空気の幕が一定の範囲に広がった。円形状にぽっかりと空いた地面には、乾いた土肌が姿を見せ背にしていた大岩も露出している。


 バルドが使っている灯火具は、むかし、宮城に施している魔法を応用してじい様たちと造った暖房と保温の効果を持たせたオモチャのひとつだ。

 消費される魔石の燃費が悪いので、売り物にはならないと言われたガラクタだが、バルドが拾ってたまに使っている。


 灯火具のおかげで少し周囲が温まってくると眠気が引いていき、やがて空腹を感じるようになった。


 湯が湧くのを待ち、指先を動かしている間にもバルドからは小言が届いてくる。

 何度注意しても言うことを聞かないからこうなるのだ、とぐだぐだ話し続ける声にうんざりしながら、震える手でコップを受け取り、ぬるま湯を口に含んだ。

 食事を渡されても匙が持てなかったので、仕方なくバルドが差し出す匙をちびちびと口に入れていく。


 出された食事は灯火具の余熱で雪を溶かし沸かした湯を、炒った雑穀粉にかけて練ったもの。

 腹もちもよく、栄養価の高い携帯食だ。

 この携帯食は粉っぽくて美味いとは言えない代物なので、普段の私はあまり好んで口にしない。


 だが食べやすいようゆるめに練られたこの食事が、今はとても甘く、美味しいもののように感じられた。

 用意された一食分を食べ終えた頃には、手足の強張りもとけてぽかぽかと温まっていた。


「大分血色が良くなりましたね。そろそろ起きてもらわねばと考えていたので丁度良かったです。どうやら同じところを巡らされているようでして」


「……私はどのぐらい寝ていた?」


「討伐が終わって馬車に乗ってすぐですから、大体二日半といったところでしょうか。曇っているので判りにくいですが、今は昼ですよ」


 バルドは自分の食事をさっと済ませると、手慣れた様子で使った食器を雪で拭い片付けていく。霜が降りて白くなっていたバルドの頭も、今はすっかりいつもの姿に戻っていた。


「そうか……」


 風をうけ、山肌をすべるように移動する雲が灯火具の範囲を避けるように通り過ぎていく。


 周囲は雪で覆われた傾斜地で、木々はほぼない。もう少し下の方では、背の高い木々がてっぺんまで覆われるような土地なのだが、ここでは時折り起こる強風に湿気の少ない雪が浚われて、バルドの歩いていた場所は膝丈ほどの積雪程度になっている。


 視界はあまり良くはない。この場所からでは厚い雲に覆われたふもとの方は見ることはかなわなかった。


 だが、塒のあるこの山頂付近はいつもこんなもの。ここはもう大分標高の高い位置で、頂上はすぐそこだ。

 竜の塒のある場所は、いつも通り雲の中に隠れていた。


 竜の領地では磁場が狂いやすい上、魔力検知出来るものが限られてしまう。

 永い間、竜が住処としてきたこの土地には、竜の魔力が浸みついているために、小さな魔力など、すぐに覆い隠されてしまうのだ。


「……アズサの許へ飛ばしておいた使い魔は消えているようだ。こっちは竜の塒が近いせいで魔力検知もきかない。お前はどうだ?」


「いくらか生き物の気配は感じられます。もっと近づかねば人数の特定は難しいですが、少し離れた場所に大きい気配もいくつかありますね。きっとシャムロック爺とアズサ殿が先に着いているのでしょう」


 長くこの地にとどまると、魔力の高くない生き物は竜の魔力に()てられて感覚を見失うことになる。それに加え、磁場の狂いに翻弄され、帰らぬ冒険者たちの捜索依頼が出ることも少なくない。


 もう一度バルドが歩いてできた足跡に目をやれば、一度この辺りを通った形跡がある。雪に残された自分の足跡を見つけ、方向修正したのだと思われる痕跡だ。

 だが、それも頂上へ向かうのとは少し違う斜め方向に下がるものだった。


 バルドはすでに方向感覚を狂わされているようだ。

 私にはバルド程の気配察知能力はないが、余程の事が無ければ竜の残滓などに惑わされることはない。だが、こうして人の気配があると聞けば、アズサのいる場所に確かに近づいているのだという感覚を強めてくれる。


 バルドの能力を少しだけうらやましく思い、魔力だけに頼り切りも良くないと反省した。そのうち私もこれを身に付けようと思う。


「塒まではもう近い、お前の足でまっすぐ向かえばそう時間もかからない。だが、山頂へ近づけば近づくほどに魔力を帯びた雲が行く先を隠してくるからな。路頭に迷いたくなければはぐれないよう注意することだ」


「本当に、主は人が変わられましたね。流石、アズサ殿です。あの傍若無人でやる気皆無の主をこうまで変えるとは……」


「そうか、達者でな。お前はこの地で一生魔獣狩りでもして暮らせばいい」


「いや、以前の主なら何も言わずに置いて行っただろうと思っただけですよ。まぁ、たとえ置いて行かれても、すぐに後を追うのでご安心ください。この私が、方向感覚を鈍らされた程度で帰れなくなるはずがないでしょう」


 話しながら荷物をまとめ終えると、それまでのニヤニヤ笑いを収めたバルドが、厳つい顔をさらに渋面にして膝を詰めて来た。


 ……その顔で詰め寄って来るな、うっとうしい!


「それはそうと、ひとつお伺いしたいと思っていたのですが、主はいつ竜の塒へ来られたのです?私の目を掻い潜り、ここまで一体何をしに来られたのでしょうか?」


 じっとりとした半眼で顔を突き出してくるバルドを、片手で追い払う。

 そもそも、バルドに咎められるような事ではない。

 だが、事情を話さなければ気になった事はずっと言い続けるのだ。この面倒くさい男は。


「むかし、母上に連れられて来たことがあるだけだ。お前が考えているような狩り(あそび)で来たわけではない!」


 竜の塒には、父上がいない時を見計らって宮城を抜けだした母上に、何度か手をひかれて来たような記憶がある。

 母上と二人で訪れたのは確か、ティアが腹にいると教えられる前のことだったか。

 最後に一人でここへ飛ばされた時のことは、……もう思い出したくもない。


 バルドは自分が見習いになる前の話だと納得すると、何事もなかったかのように身体を引いた。


「うちの爺さんとシャムロック爺も大昔に竜の塒へ行ったことがあるようなのですが、自分は今回が初めてです。もし余裕があれば万年草を一輪でも持って帰りたいところですね」


 竜の塒に咲く万年草は、貴水晶で出来ている。その花実も同じだ。

 竜の魔力を吸い上げて咲く花には特別な効力があると信じられていて、売りに出されれば希少価値の高さから、そこそこの額にはなるだろう。


 だが、あの場所に入れる者自体がそうはいないのだ。あの花が売りに出されるような事は今後も起こらない。

 本当に必要とする者にしか手に入らないのだと、そう教えられている。


 バルドはまだ見ぬ素材を想像でもしているのだろう、愉しそうに塒とは別の方を見て頷いていた。

 その様子に溜め息を吐いて、体内の魔力を確認する。


 魔力はほぼ回復しているようだが握る手に力が入らなかった。むくんで痺れたような感覚の手から視線をあげると、バルドが腰袋から黄色い液体の入った小瓶を取り、差し出してきた。


「食事を摂ったあとならば、こちらを飲ませても良いと言われておりますので、どうぞ」


「……なんだこれは」

 

「最近開発された水薬です。宮廷医官のフィロン師と薬師見習いをしているアロエの二人が協力して作った試薬品です。私も試しましたが、これがなかなか……。効果は保証しますよ。手持ちの傷回復薬は使いきってしまいましたが、滋養強壮薬とその他の常備薬は残っています。これは滋養強壮薬の方です」


 バルドが小瓶を揺らすと、中の液体が水音を立てた。


 ……試薬だと?


 あやしすぎる。

 フィロン爺のこちらを試すようなにやけた顔が思い浮かび、飲む気になれなかった。


「アズサ殿の許へ早く着きたいのでしょう?」


「……くっ、よこせ!」


 力の入らない手を差し出すと、バルドが蓋を開けて手の平に乗せた。


 顔に近づけた途端、強い酒気が立ち昇る。

 すぐあとに様々な生薬の匂いが追いかけて来た。


「うっ……」


「割とイケますよ」


「酒ならなんでもいいお前と一緒にするな!」


 結局鼻を摘まんで飲んだが、すぐに効き目は現れた。

 身体の動きを確認する間にも、バルドから寝ている間にあった事柄の報告を受けていく。


「あ、そうでした。ティア王女がグランニアでの報告を聞きに来られた際に書簡をお預かりしております。ベルニアの内部状況に関する報告ですね。ベルニア各地でおかしな噂が流れているようですよ」


 全身がポカポカして、飛んでも跳ねても問題ないようだ。だが、急に動き過ぎたせいか、頭がぐらぐらする。

 それに、なんだかいてもたってもいられなくにゃってきた。


「あちらでは病人や怪我人が出て手の施しようがなくなると、忽然と姿を消すのだとか。周囲を探しても死体は見つからず、その者達が寝ていた場所には宙に浮かぶ青い炎が現れるのだそうです。引き続き調査は進めていくようですが、それに伴い隣国と…」


「よそのことらど、どうれもいい」


「……は?何と仰い…」


「うぃっく、……バルろ、すぐにここを発つろ」


「……少し、薬が強すぎましたかね。あ、そういえば、子どもには大人の半量だと注意を受けたような……」


「う~、おそい、わらしはさきに行くかららっ!?」


「お、お待ちください!すぐに出られますから!」


 バルろをおいてとんで行こうと思ったのらが、視界がぶれて足がふらつく。


「地震?……じしん……大地震の警告で自信を亡くした王自身、そのまま傾国にオチ言った―…プ――ッ!クスクスクス!」


 ……はぁ、わらったら、なんかつかれた。がくがくと、膝まれいっしょに笑ってる……ぐふっ。


 仕方がらいろれ、バルろのしょった荷物の上にろって行くことにきめた。


「体力は回復したのでしょう?ご自分でお歩きにならねば、鍛錬になりませんよ」


「だあれが、たんれんらどするって言った。わらしが歩くと雪に埋もれるらろうが?ムダ(ばらし)はいいから、いけ、バルろ!ひっく、…………バルろ~、つまらんから歌れもうたえ~…」


 わしわしと荷物を掴んれ上まで登ると、なかなかいいながめになったが、景色が白くてけしからん……あれ……ちょっとおしかったかな?


 ……ムゥ。


 そこにちょうろあった物をばしばし叩いてると、叩いた物が溜め息をついた。


「……アズサ殿に見つかる前になんとかせねば……」


 このあと、酔い覚ましにと考えたバルドによって、雪に埋めらることになる。

 紫雲のけぶる登頂部に届こうかという頃には、酔いなどすっかり醒めていた。






「ックシュン……!」


「風邪ですか?日ごろの鍛錬が足りないからですよ」


「うるさい!誰のせいだと思ってる!?もうお前は余計な事は何もするな!!」


 濡れた衣服を乾燥させながら雪を溶かし道を作って進んでいたが、手持ちの魔石が切れたので灯火具に直接魔力を送りこむ。


 岩棚が重なった勾配(こうばい)の急な道も、雪に困ることがないため普通の登山と変わりない。

 崖では足場があるところまで先に飛び、バルドを待つ。その繰り返し。


 バルドに着けてある紐をぴろぴろと遊ばせながら、待つことしばし。目に見える範囲の最後の崖をバルドが登り終えたようで、岩を掴む手が見えた。


 そのまま山頂を覆う雲の部分に足を踏み入れると、視界はすべて雲で遮断されてしまう。ここまで来ると、バルドの感覚はもうあてにならなくなっていた。


「バルド」


「はい」


 ぴんと張った紐を引いて声をかけるとバルドが足を止める。


「どこへ行こうとしてるんだ、お前は」


「あちらの方に珍しい石があるので、少し見てこようかと」


「その一歩先は崖だ。……めんどくさいな。おい、もっと紐を短くしろ。あと、お前はもう目を閉じて、余計な事は考えず大人しくついてこい」


 紐を手繰ってこちらに戻ってきたバルドの姿を確認すると、歩くのに邪魔にならない程度に紐を固定したバルドが、またあさっての方向を見ていた。


「ほお。では、あちらに見える気がする雪豹も幻なんですか。……なんとも惜しい。では、私は瞑想に入りますので、目的地についたら教えてください」


「…………。」


 静かになったバルドに返事もせず、数段先にある崖の上を睨みつける。

 バルドの見ていた方向とは逆だが、一瞬薄まった紫雲の中に、頂上付近にある物がかすかに姿を現していた。


 離れた場所からでも巨大だとわかる大きな木の影。

 その巨樹が枝葉を広げている陰影が雲の中に映し出され、その崖の先端からは一匹の獣がこちらを見下ろしていた。


 雪豹ではない。

 これまで見たことのない白銀の毛並みをした獣だ。

 一瞬視線が合ったと感じた瞬間、またすぐに濃さを増した紫雲の中にその姿はのみこまれていった。


 ……討伐するには厄介そうな相手だな。


 だが、あれがこちらを襲ってくるような気配はなかった。


 この場では魔力を量ることは叶わないが、あのこちらを見下したような冷やかな金黒の双眸。……気に食わない獣だが、あちらが邪魔してこない限り、今はあんな面倒そうな奴に構っている暇はない。


 バルドに教えるともっと面倒くさいことになるので、余計な情報は与えないことにして先を急いだ。

 比較的なだらかになった道をしばらく行くと、辺りを漂う雲にすべてが遮断されたような空間に入り、自分たちの靴音さえ耳に入って来なくなる。


 ここまでずっと目印にしてきた魔力が目前に迫り、バルドに声をかけようとした寸前で、周囲の様子が一変した。






 先程までの紫雲が嘘のように霧散し、それと入れ替わるようにして舞う膨大な水煙。


 ぽっかりと姿を見せたのは、火山噴火で出来あがった地形にある湖だった。それに映る蒼穹の空には雲一つない。


 その湖の中央に形成された小規模な島には、天に枝葉を伸ばす白けた巨木が生えている。

 あれが、私がここまで目印にしてきた竜の止り木だ。


 痛いほどに耳朶を叩くのは、竜の塒を取り囲む大瀑布を落とす滝の音。

 私達の足元、外輪山の岩壁から吹き出す水が、この聖域に絶えることのない清流を送り続けている。


 中央の巨木は大地に深く根を張っていた。

 所狭しと土からはみ出すほどに成長したその根は、大瀑布のような滝から落ちる水を吸い上げようと、水中へ足先を伸ばしている。


「これが、竜の塒……」


 周囲の変容に気付いた様子のバルドが、目前に広がる光景に驚きの声を上げる。

 だが、私の目は竜の止まり木から伸びた根が、水面につかる場所に釘づけにされていた。


 そこには、私が知る物よりも数段強い白光を身にまとう人物がいた。











「 梓 」












 梓の肩口に戻り名を呼ぶと、緊張に強張っていた身体が跳ねた。


「メイ!もう、驚かさないでよ~…」


 縋るように伸ばされた手に包まれるのを受け入れ、不安そうに毛並みを撫でて来る梓へ向け、見て来たことを報告する。


「あの愚か者の姿を見て来たが、ピンシャンしていたぞ。まったく、お前がそこまであの愚か者に心を配る気が知れん」


「メイが帰ってくるのが早いからびっくりしたけど、もう近くに来てたの?」


 盛大な不満を感じつつ頷いて見せると、梓はあからさまにほっとした様子を見せた。

 だが、その身体から緊張が抜けることはない。


「そっか、……元気そうなら良かった。これで気兼ねなく行けそうだよ」


 シャムロックによって竜の塒だと教えられていたこの山頂は、日本で言えば洞爺カルデラの形に近い地形をしていた。

 噴火によってできたくぼ地に水溜まりの湖がある姿がよく似ている。


 だが、異なる部分も多い。

 その外輪となる壁からはどこから溢れて来るとも知れぬ水が滝を造り、中央火口丘には湖の半分を隠す傘のように一本の巨木が枝葉を広げていた。


 土地の主によって結界が張られているこの場所には、周囲を囲む滝から落ちる水滴がぶつかりあい、清浄な空気が流れている。


 中央に佇んでいる白けた枝葉を持つ霊木には、古い傷痕があった。

 眉を顰めるほどに酷いその傷は一体誰がつけたものなのか、裂傷や焦げた跡が痛々しく残されている。


 竜の塒と呼ばれるこの場所へ辿りつけたのは二人だったが、今ここにいることを許されているのは梓のみ。この場にシャムロックの姿はない。


「うっ、またあの声が聞こえて来た」


「……今度は何と言って来たんだ」


「もうずっと同じこと言ってる。『覚悟はいいか』って」


「……もう一度言うが、お前がこんなことをしなくてはならぬ義務などない。やめたければ、返事をしなければいいだけだ」


「……んーん、メイのお陰であの子の安否も確認できたし、腹も決まったよ。――女梓、いっちょやったる!ここまできたら、異世界転移だろうがお化けだろうがかかって来いってのよ!」


 ……こういう性質が、奴らに目をつけられる大きな因なのかも知れぬな。


「ぷすっ」


「ちょっとメイ、今気の抜けるような可愛い音ださないでよ。せっかくの緊張感が台無しだよっ」


 そう言いながらも、微かに震える指先でこちらの身体を定位置に収めた梓は、胸ポケットに手を添えたまま息を整え始めた。


「――はい。覚悟、出来ましたよ。それで私は次に何をしたらいいんですかね」


 虚空へ向かうように投げかけられた言葉に、常人(つねびと)の耳に届く音は返ってこない。

 梓にだけ届けられるその声は、梓にしか聞き取れない(たぐい)のものだった。


 この土地の(ヌシ)によって拒絶されたシャムロックは、今は洞窟の中を彷徨わされてでもいるのだろう。


 シャムロックはこの霊木に手をかけた途端、弾かれた。

 あの者が振り下ろした斧は今もそこに転がっている。やっきになって次に手にした(のこぎり)ごと、シャムロックはこの場から姿を消されてしまっていた。


 一人取り残された梓のもとに、その声は下りて来た。


 梓の口から語られるその存在を疑うことはしなかった。

 梓から伝えられるその言葉を、黙って聞いた。


 これは一方的に下りて来るもの。

 梓が応えなければそれで終わる。

 だが、ひとたび耳を傾け応えてしまえば、もう後には引き返せない。


 声の主は、梓にこの霊木を扱える者の存在を語りかけて来た。

 その者を呼べば、破魔の力を持つ弓の素材を手に入れることが叶うということだ。


 だがそれには問題が二つあった。

 一つはこの場所がその者が存在している階層とは別の場所にあるということ。


 梓はその限られた者を階層を越えて呼ぶために、その者がいる場所まで迎えに行かねばならないのだと言う。


 ……無事に、梓が戻れるという保証はどこにもないのだ。


 予想される危険を伝えたが、梓から返って来た言葉は想像通りのものだった。


「だけど、私がこの木が切れる人を連れて来なくちゃ、弓が出来あがらないって言うんだもん。もう、行くっきゃないじゃない?……でも、ちょっと待ってもらえないかな」


 そう言った梓の心残りとやらが、あの愚か者の安否だった。

 清めの塩をかけて消したのは梓だったが、半透明状態で姿を消したあの愚か者がどうしているかとずっと気にかけていたのだ。


 その憂いが解消された梓は、声の主の言うがままに湖へと足を踏み入れて行く。


 ……こうなるだろうことは解っていたが、本当に愚かな娘だ。


 湖面を伝って打ち寄せる波紋を打ち消すように、梓を中心に波紋が起きる。

 一歩、また一歩と進むうち、清浄な水で(すす)がれるように、梓が身に纏っていた殻がはがれ落ちて行く。


 梓の身体が腰の高さまで湖面に浸かり、禊ぎの形が整った。


 最後に梓の身を守るためにかけた、一番はじめのまじないが漱がれた時、この場にあった結界がほどかれた。


 空を覆っていた暗雲が消え、青空が顔をのぞかせる。


 梓のいる湖底に以前目にしたものと似たような円形魔法陣が浮かび上がろうとした刹那、梓の名を叫ぶ声が響き――――…











 世界のすべてが暗転した。


















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