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梓弓  作者: 長月 夜半
第二章 朧月
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メイの溜め息


「捨てて来い」


 昨夜(ゆうべ)、眠りの浅くなっていた梓が部屋の外でちんけな鳥を拾った。

 黒ずんだ青羽を持つこの雛は、一見して鳥に()()()が、本性はいわば術師の思念体。蹴散らそうと思えば容易い。


「役立たずは邪魔なだけだ」


 籠の中で寝こけている使役鳥を睨み据え、この場で打ち消してやろうかと考えた。

 なんでも拾ってくる悪癖も状況を見て控えて貰わねば、これからの旅程の差し障りとなる。


 だが、梓が手放しそうにないのが問題だ。


 両手で籠を抱え込み、心配気な表情で中を覗きこんでいた梓が、困ったような顔でこちらを見あげてきた。

 昨夜はこれを抱え込んでいるうちにぐっすりと眠れたようだ。昨日に比べ、顔色が大分良くなっている。


 他に使い道のないこいつも、温石(おんじゃく)程度には役に立ったらしい。

 だが、愚か者が放ったこの使い魔が朝になっても動かないせいで、梓は朝からこの男爵邸を駆け回ることになった。やれ、水だ、やれ、籠だと甲斐甲斐しく世話を焼いているうちはまだ良かったが、旅仕度を整え、やることがなくなってからは、つきっきりになって眉をひそめている。


 成長を再開した梓の四肢は徐々に丈を伸ばし、体もまろみを帯びてきた。

 短髪だった頭も、射干玉(ぬばたま)のような黒髪が肩にかかるほどに伸びている。


「うん。なんか弱ってるみたいだし、出来ればゆっくり休ませてあげたいのは山々なんだけどさ?ここに置いて行ったら絶対、サイファさんの迷惑になると思うんだよね」


 ちらちらとこちらの機嫌を覗いながら、連れて行く理由を考えている梓。だが、そもそもの論点が合っていない。

 夢見が悪くなるほど心労を抱えているというのに、自分からまた荷物を抱え込もうとする性格は一体誰に似たのか。このような愚か者など捨ておけと何度言おうとも、冗談だと思っている節がある。

 お人好しも、ここまで来ると呆れるほかない。


 我々は今、鍛冶のところへ弓弦を届ける旅の道程にいる。

 梓はこいつを置いて行くことなど考えもしていなかったのだろう。共に連れて行こうとして籠を譲り受けていた事は知っている。だが、ただ寝ているだけの荷物を持って歩くことに賛成などするはずがない。


 見たところこの使役鳥、形は留めているが繋がりは途切れた状態のようだ。大方、術師本人が正体もなく眠っているのだろう。本当にどうしようもない愚か者だ。

 ここにいる以上、まだ術師との糸は切れていない。だが、昨日まであった監視の目は感じなくなっている。言ってみれば、今が好機。今ならば、気付かれぬうちに姿を眩ますことが可能だ。


 どう言い含めようか考え、ふと視線をあげたところで口を噤む。


 籠の中の雛を見ている梓の表情は、とても和らいだものだった。

 あの屋敷にいる時から、自らに課した役目を成し遂げようとずっと緊張していた姿が今は見られない。何やらにやけた笑いを浮かべている梓の肩からは、余計な力が抜けている。

 やっと、いつもの調子を取り戻したようだ。


 こんな場所に連れて来られ、こいつらと関わらなければ、余計な傷を負うことも無かっただろうに。


 ……迷惑ばかり被っているというのに、すっかり絆されおって。


 以前にも、この愚か者の使い魔が梓に接触して来たことがあった。

 梓は悪態をついてあしらっていたが、本心では無事に戻ってきたことを喜んでいたのを知っている。

 お人好しの梓に代わり、私からちょっとした意趣返しをしておいてやったが、もうその効果も切れたようだ。

 しぶとく追いすがって来る愚か者の姿が思い浮かび、腹立たしさが再燃してくる。


 梓はあの愚か者が他国へ出向いた後、すぐに戻らぬことを気に掛けていた。自分が彼奴(あやつ)を危険な場所に送りだしたのだと思いこみ、責任を感じて落ち込んでいたのだ。


 さらに遠地より戻ってからも、あの愚か者が縮んだ姿に心を痛めていた。内心での様々な葛藤はあったようだが、傍から見てもこれ以上ないほどに尽くしていたことはわかるだろう。まぁ、半分以上はもともとの性格によるところが大きいのだが。


 この娘はなにか勘違いしているようだが、そもそも迷惑をかけられているのは此方の方。はじめから、この国で起こることに梓は何の責もない。

 梓にとっての利が無いのであれば、すべて投げ打ち、家に戻ることだけに専念すればよいのだ。


 だが、そちらの方がこの娘には難しいのだろうな……。


 眠る雛の青羽を撫でている梓の表情を見て、……諦めの境地に至った。


「……もう、梓の好きにしろ。素材を探しに旅立った鍛冶のところへ急ぐのだろう?愚図愚図してまた出発し損ねても知らんぞ」


「はーい」


 許しを得たことに安堵した梓がぱっと顔を上げ、手を伸ばし私を定位置に収めた。

 そのまま軽い足取りで荷物を背負う梓の顔には、ここ数日見られなかった屈託のない笑みが浮かんでいた。













「捨てて来い」


 胸の前で手を組んだメイがサイドテーブルの上で仁王立ちしている。


 ――――ハムスターの短い手では指を組むのがせいぜいで、大変微笑ましいポーズとなっていたが、本人は気付いてない。


「役立たずは邪魔なだけだ」


 つぶらな黒い瞳は剣呑に細められ、カゴの中で寝ている黒いヒヨコを睨みつけていた。

 怒られるだろうなぁとは予想していたけれど、やはり怒られた。なんでもかんでも拾ってくるんじゃないと父に叱られた小学生時代が甦って、ちょっとほっこりする。

 ベッドに腰掛けながらカゴを抱え直し、上目遣いにメイを見て弁明を試みた。


「うん。なんか弱ってるみたいだし、出来ればゆっくり休ませてあげたいのは山々なんだけどさ?ここに置いて行ったら絶対、サイファさんの迷惑になると思うんだよね」


 多分、具合が悪いからと言って置いて行っても目が覚めたら追いかけて来るだろう。そうなると、この子が急にいなくなっただなんだと迷惑をかける未来しか見えない。

 朝になっても目を覚まさないヒヨコは、拾った時よりも大分毛艶が良くなっているけど、ずっと眠ったまま動く気配はない。


 わたしがトイレに立っても追いかけて来ないどころか、何も反応がないのを見て心配になり、朝から目が離せなくなっていた。赤ん坊のときだって、離れたらすぐに目を覚ましていたのに……おかしい。


 ……はっ。これは、わたしの方がちょっとおかしくなってるの?


 わたしの中の常識がぼっちゃま仕様になりつつあることに気付いて、……もう苦笑いするしかない。

 爆睡しているヒヨコは今、可愛いカゴに入っている。男爵家で昔使っていたというお古を譲ってもらったのだ。目隠しの布も取りつけて、大変わたし好みの装いとなっていた。


 これなら山で猛禽類に襲われる心配もないでしょ。……ぷぷっ。

 

 ナイスなチョイスに満足してカゴを抱えながらニヤついていると、メイが不満げにぷすっと鼻を鳴らした。


「……もう、梓の好きにしろ。素材を探しに旅立った鍛冶のところへ急ぐのだろう?愚図愚図してまた出発し損ねても知らんぞ」


「はーい」


 わりとあっさりお許しが出たことにほっとして、メイを胸のポケットに入れ身支度を整えた。

 鼻歌交じりにリュックを背負って階段を下りると、エントランスの左右に男爵家の人たちが並んでこちらを見上げていることに気付き、慌てて声をかける。


「わざわざ見送りに出てくれていたんですか?お待たせしてごめんなさい。お気遣いありがとうございます」


 お世話になった人達一人ひとりに視線を合わせて挨拶をすると、みんなも笑顔で応えてくれた。

 最後に向き合ったサイファの腕の中では、まんまるムチムチの赤ちゃんが幸せそうに眠っている。抱いている彼女自身も、あの時とは見違えるほど柔らかな笑みを湛えていた。


 ガリガリで鬱々だった彼女はもういない。

 実家に帰った彼女は、この二カ月ほどで桃色の髪が良く似合う色白ふくふくボディのおっとりさんになっていた。彼女のちょっとつり目がちな明るい瑠璃色の瞳はノルンとよく似ている。


 実は、彼女がもともとぽっちゃりさんだったのだと知ったのは、男爵家に来て再開してからだった。悪阻(つわり)が酷くて、その後も色々なことが重なって激やせしていたそうだ。

 ユイミアが心配して連れて来たのも、あまりの彼女の変貌ぶりに驚いたからだったのだろう。


「アズサ様、本当にもう出発してしまわれますの?もっとアズサ様のお話をお伺いしたかったのに残念ですわ。これほどお急ぎでなければ、もっとちゃんとしたおもてなしをさせて頂けましたのに」


 実家に戻ってからはすぐに精神状態も戻ったらしく、やっぱりユイミアと友達なんだなぁと思わせる優しい雰囲気の女性になっていた。

 抱いている赤ちゃんに向けられた彼女のおだやかな笑顔を、なにより嬉しく思う。


「もう。あの子ったら、辺境伯から出されていた招集要請は解除されたっていうのに、なぜすぐに帰って来ないのかしら。あれほど行くのを嫌がっていたのに、外へ出た途端に帰って来ないだなんて。じいは療養のための秘湯巡りに行ってしまったし……。本当に困ったわ」


 ぷりぷりと怒っている姿もなごみ系でしかない。

 頬にあてたもみじまんじゅうを彷彿とさせる彼女の手に見入りながら、サイファの話をうんうんと聞いた。


 彼女には、旅の案内役にわたしに付き添わせたいと考えていた人がいたようだ。

 そのアニスと言う人が出先から戻って来ない事を気にしているらしいが、突然訪ねて二泊もさせて貰ったわたしとしては、もう男爵家にはかなりお世話になっているのでこれ以上は申し訳ないと思っている。

 しょんぼりするサイファの可愛らしい様子に癒されながら、感謝を伝えた。


「いえいえ、十分良くしていただきましたから。サイファさんと赤ちゃんの元気そうな様子が見られて本当によかったです。もともと一人と一匹の旅でしたし、馬車を出して頂けるだけでとても感謝しているんです。みなさん、二日間本当にお世話になりました!サイファさんのお友だちにもよろしく伝えてくださいね」


 子持ちのご夫人方は昨日の夕方には家に帰って行った。

 そう何日も屋敷を空けてはいられないって、そりゃそうだ。二日間遊び倒した子ども達も色々発散した母も、いい笑顔で帰って行ったので思い残すこともない。

 連れも一匹増えて、ちょっとだけ心強くなったし。


 ……寝こけてて、何の役にも立ちそうにないけどね。


「こちらへいらした時よりも、お元気になられたご様子ですわね。なんだか、足取りまで軽くなられたようですわ」


 こちらを見て目をパチパチと瞬かせていたサイファが、嬉しそうにふわりと笑顔を浮かべた。


「そうですか?荷物は増えたんですけどねぇ」


 手に持ったカゴを持ちあげておどけてみせると、屋敷の人達からもクスクスと笑いが聞こえてきた。この屋敷の人達はとても仲が良くて、主従というよりも家族という感じがする。離宮の雰囲気とよく似ていた。


「ふふふ、これならば安心して送り出せますわ。アズサ様の旅が実り多きものであるよう、また、御身のご無事をお祈りしております」


 名残を惜しんでくれる男爵家のみんなに見送られながら、手配してもらった馬車に乗り込んで門扉をくぐり抜けた。

 道が整備されている場所までは送ってくれるというので、大助かりだ。

 道に迷わなくてすむのが素晴らしい。


 旅に必要な物はここへ着く前に町で買っておいたので、取り敢えずの心配はない。野宿とかは出来れば勘弁してほしいのが本音ではあるけれど。


 そっと目隠しの布をめくりあげ、カゴの中に敷き詰めた布の上に黒いヒヨコが寝ているのを確認してメイに声をかけた。


「メイは他に行きたいところはない?」


 問いかけに返ってきた声は、まだちょっと不機嫌そうだった。


「ない。それよりもドワーフの長に貰った護身具は身に着けているか?」


 メイに確認されて胸元を探ると、白金の鎖の先に通してある琥珀色のペンダントトップが鈴音のような可愛らしい音を立てた。


「うん、大丈夫。ちゃんとあるよ。このお守り、そんなに御利益(ごりやく)があるの?」


 もらい物だけど、メイはこれが大層お気に召したらしい。


「その護身具を身に着けていれば目くらましになる。獣にも気付かれにくいし、穢れからも梓の身を護ってくれている。それがあれば、この愚か者から離れたくなった時にも逃げ切れるだろう」


 ……逃げ切れるって。


 これがそんなすぐれものだったとは驚きだ。

 わたしには琥珀にしか見えないこの宝石。かなり貴重な石だそうで、精霊の力が宿っているのだとか。


 ……見た目にはほんとに琥珀にしか見えないんだけどね。


 ドワーフの里で職人さんに加工してもらったアクサセリは、石なのに触れると鳴る不思議なペンダントになった。

 出来具合を吟味された後は、気前よくくれたのでありがたく身につけている。みんなが貴重品だと言ってザワついていたのに、流石ドワーフの里長。太っ腹である。


「別にわたし、この子から逃げるために離宮を出たわけじゃないけどね?温泉にも入ったし、心配ごともひとつ解消したし、メイの言うとおり思い切って寄り道して良かったよ」


 ちょっと道には迷ったけど、ヒッチハイクで色んな人と知り合いになったり、行った先で買い物も出来た。商人達からの情報で鷹便を使って手紙を出せることも教えてもらえたので、ティア王女に旅程の変更も伝えられてよかったよかった。


 旅の買い出しにあたって、いままで溜め込んでいた宝石類の買い取り査定を頼んだら、自分が結構な小金持ちになっていたことを知った。

 離宮で裁縫仕事の報酬として受け取っていた宝石類がとんでもない値段の代物だったらしい。


 手製のオムツカバーとか、背守りの刺繍を依頼されたご夫人方からもらっていた報酬だけど、石で払うからと言われて価値も分からず安易に受け取っていたのだ。宝石類なんて興味がなかったから、あんなに高価な品だったとは気づかなかった。


 全部合わせたら日本円にしてウン十万。

 目ん玉飛び出るかと思った。半年の稼ぎとしては上々過ぎる金額だろう。

 換金する時に因縁でもつけられたらどうしようかと思ったけど、そんなことも起こらなかった。


 ……この国って、結構治安がいいんだよね。


 王都だって見た目は素朴だけど、ちゃんと下町まで住みやすく整備されているし、見て回った限りでは他の領地も平和そうな感じだ。柄の悪い人はいたけど。

 バルドから以前聞いていた緑の旗を探して、ちゃんとディキシーの支店で換金してもらうことができたというのも大きいのかもしれない。

 旅からもどったら、彼女たちにはお土産と感謝の言葉を忘れないようにしようと決めている。


 ヒヨコは、まだ目を覚ます様子がいない。

 カゴの隙間から指を差し込みヒヨコの羽毛に触れ、存在を確認するように撫でた。群青色の羽毛はつやつやとしていて滑らかな肌触りがする。


 ぷすっと鼻を鳴らす音がして下を見ると、メイがまたつぶらな瞳を細めてヒヨコを睨んでいた。メイの不機嫌そうな顔を見てなごんでいたら、大事なことを思い出した。

 メイの餌が減ったから、そろそろ補充しておきたいと思っていたのだ。


「お山に着いたら、メイのごはんも採って行こうね」


「……そうだな、ドワーフ領の辺りはいい餌場だった。これから向かう先もあの調子で魔石が落ちていると助かる」


 そう、これも驚きだったのだが、なんとメイの主食は木の実という訳ではないらしい。魔力を多く含んでいれば、取敢えずなんでも食べられるのだと教えてもらった。

 わたしが採取した木の実を食べてくれなかったのは、『魔素が抜けているから栄養にならない』という理由だったのだ。そして、ウカの集めた物には良質の魔力が含まれていた、ということらしい。


 それだって代用品なんだと言っていたけど、本当なら何が一番食べたいのかは教えてもらえなかった。そのうち聞きだしてプレゼントしてあげたいと思っている。いつもお世話になってるし。


 ……ウカ、キミの収穫物は今度から買い取りさせてもらうから許してね。


 心の中で謝罪して、前方に広がる山並みを見た。

 王都よりも暖かいこの地方では、比較的雪解けも早いようだ。特にドワーフ領の辺りは地下に温泉が流れているせいか、山間部でもほとんど雪で困ることはなかった。


 山に緑の多いドワーフ領の向こうには、雪をかぶったままの白い連峰がそびえている。

 あれはもしかしてエベレスト級の山ではないのかと踏んでいるが、詳しい事はわからない。


 シャムロック爺のいる場所は、ティルグニアと中央領の境にある峡谷付近。

 一応、地図を書いてもらったのだが、山の中を描いた地図に何を見いだせばいいのかわからなかった。

 地図が読めないとかそういうレベルの話ではない。並んだ木と洞窟の穴がいくつかと、川しか書いてないんだもの。

 いざとなれば、きっと賢いメイがなんとかしてくれるはずだと信じている。


 たしか、前にバルドが川岸で拾った流木で弓を創ったと言っていたはず。もしかしたら、木を拾った場所がその辺りなのかもしれない。

 あの辺りだったら川沿いを歩いているか、洞窟に潜っているかのどっちかじゃないか?というかなり怪しい情報だけど。里のみんなに『帰りを待っているより行った方が早い』、と言われて追いかけることに決めたのだ。


「……もう崖は登りたくないんだけど、洞窟なら何とかなるよね?」


 洞窟なんてニュースや写真でしか見たことないけど、崖登りよりは安全だと思いたい。

 夏の涼しいお出かけスポットで洞窟とか地下の施設見学が人気だと言っていたのを思い出し、寒い事を予測して防寒具は買っておいた。

 町のお店で聞いたけど、竜の(ねぐら)なんて洞窟は聞いたことがないと言われてそれ以上のリサーチができなかったのである。


「…………。」


 メイは黙り込んだまま、返事をしてくれなかった。














 昨年の秋、バルド様から一人の子どもを紹介された。

 アズサと名乗ったそのぼんは少し間抜けなところのある奴じゃったが、人の目をまっすぐに見て話す物怖じしない様子が好ましい子どもじゃった。


 そこでワシは一張りの弓を依頼され、引き受けることを承諾した。


 バルド様は、そのぼんには精霊の泉を浄化させる力があるのだと言い、シヤの泉で弓を素引きした話をして聞かせた。

 じゃが、それはなんとも信じ難い話じゃった。

 何より、ドワーフの創り手の一人として真偽の不確かな物を()()()()()()()()作ろうとするその心根が許せんかった。

 ワシは引き下がる様子のないバルド様を立てることで、取敢えずその場を収めることにした。


 ……まぁ、正直なところを言えば、あのアズサという子どもが語った和弓や、破魔の効果がある弓にも興味を引かれとったんじゃがな。


 ワシはその翌日、早速シヤの泉を訪れて話の信憑性を確かめることにした。


 精霊が姿を消して二十余年、ベルニアから来た一人の貴族の愚かな目論みによって聖域を侵され、精霊を失うことになったあの戦。

 あの時の屈辱を忘れることなどできはせん。

 あれからずっと、里の者たちでなんとか浄化を試みようと様々手を尽くして来たが、大地の怒りが静まる様子はみられんかった。


 ドワーフの護ってきたセッカの泉は今、大地の怒りがそのまま表出したような状態じゃ。

 若造ではうかつに足を踏み入れることさえ出来ぬじゃろう。


 聖域を浄化し、世界を本来あるべき姿に戻す。

 バルド様の言葉を疑いたくはないが、本当にそんなことのできる人間がいるなどとは、到底信じられるものではなかった。


 じゃが、黒山に到着したワシは、想像以上の変化に驚かされた。

 彼の山は夏前に漆の採取で分け入った時とは、佇まいもそこにある空気さえもすべてが変わっておったのじゃ。


「こりゃ、たまげたわい……」


 新緑の季節にも死んだように静かじゃった山が、息を吹き返したかのように風にさざめき、木々の隙間から大地へと陽光を通し清浄な気を放っておる。

 鳥や獣の鳴き声、羽ばたきがそこかしこから聞こえて来た。


 地面を掘って見れば黒くしっとりとした上質な土がある。

 穢れた植物は枯れ落ちて生まれ変わり、秋だと言うのに腐葉土になりつつある落ち葉を押し上げて小さな二葉が芽吹いていた。


 山にはびこっていた瘴気は薄まり、微かではあるが確かに精霊の気配が感じられる。


「……話し半分に聞いとったんじゃがのう」


 年甲斐もなく、熱いものが込み上げて視界が揺れた。


 精霊狩りなどと言う蛮行を、謀らずも許してしまった己に対する怒りが、目の前に広がる光景で涙と共に解かされて行くような思いがする。


 泉の周りには、様々な動物たちが寄り集まり足を休めていた。

 動物達の穏やかな光景を見ているうちに、心が凪いでいるのを感じた。


 シヤの泉は生命の泉。

 生きとし生けるものをその懐に受け入れる。聖域は動物たちが最期の時を迎えるために訪れる安息の地でもあった。


「すべてのものに安らぎを与え、命を育む……か」


 この世界に存在する聖域は、精霊の性質や土地柄によって受けられる恩恵も違う。

 中でも、このシヤの泉は癒しの恩恵が強い。


 水の精霊の加護が働いているこの黒山は、豊富な種類の薬草が生息し、薬効の高さからティルグニア王国の特産品として他国での知名度も高い。

 今じゃ薬屋も大分数を減らしておるようじゃが、それでも他国に劣ることなどありはせん。


 その名声も精霊の恩恵が得られなくなった近頃では、別の方面に傾きつつあったが。


 ……正式に王位を継がれてからは、好きなことをする余裕なぞなかったものなぁ。


 幼いながらも懸命に己の責務を果たしてきた主従の姿が思い浮かんだ。


 水辺で戯れる動物達に目を向ければ、夫婦(つがい)が多いことに気がつく。互いに毛繕いあい、睦まじく体を擦りつけあっておる。

 耳を澄ませば、そこかしこで小鳥や動物達の求愛の歌が響いておった。


「山に住むこいつらの方が賢かったか。さぁて、ワシもこうしちゃおれんな」


 今まで鳴りを顰めていていた動物達も、本能で今ならば子を育てられると感じ取っておるのじゃろう。年々数を減らして来た動物たち。来年の春にはきっと、ここにいる夫婦達の仔らであふれ、賑やかになるに違いない。


「……んん?そういや、バルド様の出来そこないの弓でこれだけの効果が出たということじゃったか。負けちゃおれん。弓が仕上がった暁には、アズサにセッカの泉を真っ先に浄化してもらうぞい!カッカッカッ!!」


 道すがら馴染みの材木商に寄り、すでに十分乾燥されておる、加工を待つだけの材木を買い付けた。バルド様が所望されたのは丸木弓。木材以外の素材は一切取り入れない簡素な弓をということじゃった。

 じゃが、バルド様の求める弓はただの弓ではない。


 万物を浄化する、聖性を持つ弓。

 精霊に代わって穢れを掃うそれは、この世界を生み出した賢竜の領域に踏み込むような代物だ。

 

「素引きによって起こる弦音(つるね)、か」


 アズサはそれを鳴弦と呼んだ。あやつの国言葉では弦の鳴きとも表現するらしい。


「弦の鳴く音……。鳴き声……?」


 つらつらと物思いに耽りながら、里への道を急ぐ。

 荷馬車の上には何本もの木材がはみ出し、道の小石に車輪が弾むたび、がらんがらんと、よく乾いて軽くなった木の音が響いた。


 試してみようと考えている木材のいくつかは手に入れられておる。

 じゃが、問題は弦の方。バルド様から預かった弦の端材は、ワシやガルロックも知らぬ、未知の素材じゃった。


「弓弦の方は、里の連中に期待するしかないのう」


 ようやく里へ到着した時には、晴れた空に風花が舞っておった。

















*温石…湯たんぽ、懐炉

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