幻獣
風に煽られ、大小の塵となって降り注ぐ灰。
刻一刻と延焼の広がって行く山を祈るような思いで見ていると、ひときわ強い風が背後から吹き荒れた。ローブの纏わりつく身体が風圧によって持っていかれそうになり、強く目を瞑ってやり過ごす。
風が弱まったのを感じて目を開けると、生暖かい風が収穫を待つ作物の葉をなぎ倒すように吹きぬけていった。コルノ平野を吹き過ぎていった風は正面にそびえる小高い山にぶつかり、炎と黒煙の立ちこめる木々の隙間をぬうように峰の向こうへ流れて行く。
風が黒煙を押し流したその隙間から、のそりと動く影が見えた。
煙の切れ間から姿を見せた魔獣は、驚くほどに巨大だった。
揺らめく黒い炎に覆われた魔獣を見たものからどよめきが起こり、男達はガチャガチャと不快な音をたてながら武器を手に臨戦態勢を取っていく。
物騒な音が響く中、小さな呟きが各所から聞こえてくる。
「なんだ、あの化け物は!」
「くそっ、火事を起こしていたのはあいつか……!」
こちらに暗灰色の背中を見せている魔獣は、底なしの深層に広がる闇のような炎を身に纏っていた。魔獣が通った道は炭化した木々の残骸が残るだけの焼け野原となっている。
この場所からは魔獣の後ろ姿しか見えないが、四足で重い震動を起こしながら進む魔獣の地響きがここまで届いていた。
後方へ引き返すように斜面を進む姿に、緊張に押し殺していた息をゆっくりと吐き出した。こちらへ来る様子のないことを見て取った兵士たちも、ためらいがちに武器を下ろして行く。
そもそも、僕は陣営の中でも最後方に位置する場所にいるのだ。魔獣との間に距離も人垣もある。一人ではない状況に安堵を覚える自分に気づいて苦笑した。
……ずっと、他人と関わるのが嫌いだと思ってたけど、ちょっと違うのかも。
ほんの数時間足らずで仲良くなれた騎士達の顔や、まだ幼い見習い達の顔を思い浮かべてもいやな感じはしない。
バクバクと鳴る心臓を押さえ、ゆっくり息を吸い込んで周囲に並ぶ騎士達を見ると、ちらほら顔見知りになった人達の姿がみつかった。
……うん、やっぱり一人じゃない方が心強いな。何より、この場にいる誰よりも強い人間が横にいるしね。
隣に立つヴィニアス隊長の手は、腰に佩いた剣の柄に置かれている。大変うらやましい事に、強風に吹かれても揺るぎもしない彼は、片方の手で顎を撫でて怪訝そうに眉を顰めていた。
「あちらへわざとおびき寄せられているのか?……斜面では闘いにくいだろうに」
声に誰かを案じるような響きを感じてぱっと思い浮かんだのは、先程出会った黒剣の騎士の姿だった。魔獣を見据えている隊長に問いかけようとしたところで、周囲から困惑の声が広がっていく。
「魔獣が足を止めたぞ……?」
「おい、あそこに誰かいる!」
「!?……あいつら、あんなところに!」
怒りの籠った声が次々と寄せられる中、兵士達の視線の先に目を凝らすと、魔獣のいる場所から少し離れた木々の隙間に魔力が高められた光を見た。
「魔法攻撃か。……他国の冒険者だな」
この国では、魔法使いが冒険者になることは珍しい。
命の危険を冒さなくとも、魔術師としての働き口が多いからだ。報酬次第では高額で雇われる者もいるが、うちの国ではそれもあまりない。
それはティルグニアの魔法使いに、普通の魔術師自体少ないことが大きな理由でもある。
斜面の下から魔獣に向かって放たれた魔法は、どうやら水系魔法のようだ。
だが、あれっぽっちの威力では到底致命傷になどならないだろう。その証拠に、次々と放たれる攻撃は魔獣に触れることなく黒炎の手前で霧散している。
「炎に対して水属性の攻撃というのは間違ってはいないが……。あれでは”竜の怒りを買う”だけだな」
火は水に弱い。
だけど、あの魔法では炎の勢いを止めるだけの威力が足りていないのは明らかだった。
そこへ、魔獣の異変に気付いた兵士から焦った声が上がる。
「まずいぞ、奴らあれで魔獣の注意を引いちまった!」
「えっ!?」
視線を戻すと後方の気配に気付いた魔獣が、威嚇音を放ちながらゆっくりと方向を転換させているところだった。
その動きでこちらへ向くことになった魔獣の姿が、僕の目にもはっきりと確認できる。
「くっそ、あんな魔獣見たことないぞ!フィフニアの奴ら、あんなものどこから出してきやがったんだ!」
空を仰ぐようにその長い鼻面を上げた魔獣が、再度の威嚇音を放った。
鼻の左右には天に向かって伸びる二段の牙が生えている。
頭を下げ、頭部の両側についている大きな襞状の耳が前後に振られると、全身に纏った炎が煽られ、黒炎がまき散らされていく。
「……そんな、まさか……」
思わず呟いた言葉にヴィニアス隊長が反応した。
「あの魔獣を知っているのか!?教えてくれ、あいつは何なんだ!」
肩を掴まれた僕は、釘づけになっていた視線を隊長に向けた。
どう、答えればいいのか、答えに窮する。知っていると言っても、知識だけのことなのだ。
「……あれは、魔獣じゃない」
唾を飲み込もうとして失敗し、喉だけが大袈裟にコクリと動くのを感じながら必死になって記憶を掘り起こす。
「……以前読んだ文献に、あの生き物の姿に当てはまる記述を読んだことがあって。おそらくあれは、ベルニアの奥地に棲むと云われる”炎舞象”です」
ヴィニアス隊長は本に書かれていた内容だと聞いても、僕をバカにしたりはしなかった。
”僕の言葉を信じてくれる”という信頼がこの人には持てる。だから、話してみようという気持ちになれた。
「ベルニアの……炎舞象?そのような名は聞いたことがない。アニス殿の言うとおりならば、今回ファフニアから来た魔獣の中には、ベルニアから流れて来たものがいると言うことか!?」
ヴィニアス隊長の張りあげた声で、近くにいた者達の間に動揺が走った。
口々に、思い返してみれば、そう言われれば、と討伐した魔獣の生息域について話が広がっていく。
白金鬼羊はファフニア限定の魔獣だが、金剛蛇は南の熱帯地域に多くみられる。火山口付近でも発見されることがあるが、南に近いほどその分布は高くなるのだ。
僕らの会話に注目している彼らの目にたじろぎながらも、彼らにも聞こえるよう腹に力を込めて声をだした。
「僕が見た古文書には、【大きな耳、長い鼻と牙を持つ、花喰牛に似た獣。清き炎を身に纏う、精霊に愛されし幻の獣】という記述がありました。……本に書かれた容姿と合致する点が多いのと、今まで確認されている生き物の中に似た姿のものがないのを考えても、炎舞象に間違いはないと思います」
――――ベルニアの霊山、キサに棲むと云われる伝説の獣。
「あれは魔獣じゃない、幻獣なんです」
僕がこれまで読んだ本は、すべて師匠が所有している蔵書だ。
師匠は宮廷魔術師として仕官していた時に、王家の所蔵する本や巻き物を閲覧させてもらえる立場にいた。当時の上司に気に入られて書き写す許可までもらっていたらしく、個人的にもかなりの冊量を所有している。
幻獣についての記録があったのは、創世記の後に書かれた、【創世の竜とその眷族】という古文書だ。
「――――あれが幻獣?」
人々の間にざわめきが起こる。
ゆっくりとした動きで、もう一度炎舞象の姿を確認したヴィニアス隊長からは怒気が発されていた。
「ベルニアの奴らめ、何を考えている!竜の眷族までもを穢すなど、どこまで落ちぶれたら気が済むのだ……!」
幻獣は賢竜ベルニアの記述の中にだけ登場する生き物だ。
古文書によく登場するような幻獣は、神秘性を持って描かれることが多く、子どもの寝物語になっているものも多い。
今目の前で暴れているアレが幻獣だなんて知れ渡った日には、子どもの夢が壊れる……というより悪夢になるかもしれない。
竜に愛されし稀なる獣として、精霊とともに民からも愛されている幻獣。
ベルニアの眷族として書き残されている幻獣は複数いる。
寝物語には、らせん状の角を持つ一角獣は聖なる乙女を見分けるだとか、路に迷った子どもを助けてくれる黒犬なんて話もあった。
中でも僕が一番好きなのは、金の炎を身にまとう幻獣、不死鳥だ。
炎の中に飛び込んで甦るだなんて、羽に何か効果があるのか、その身の内に持つと云われる赤い魔石に特殊な効果があるのか……。
大人になった今ですら、考えるだけでわくわくさせてくれる存在なのだ。
あの獣が幻獣だと言うことが周囲に伝わると、獣を見つめる男達の目に熱が籠る。興奮と憐憫の混じった視線が送られているようだ。
彼らも子どもの頃、父や母から聞かされた寝物語に登場する幻獣に、胸躍らせて来たに違いない……。
故郷の山が炎によって無残に焼かれ、刻々と懐かしい面影を失って行く。
悪夢のような光景に耐えきれず、その元凶にひと泡ふかせてやろうと思ったのが運の尽きだった。
「くそっ!炎の勢いが強くてこれ以上近づけねぇぞ。ユリア、ここからでも届くか?」
「……ラッシュ、やっぱり引き返そうよ」
「ここまで来たんだ。逃げるにしても、一矢報いるぐらいはしてぇ。このままじゃ、収まりがつかねぇんだよ」
ユリアはしぶしぶと言った様子で指輪に加工された魔石を握り、詠唱を始めた。
俺達、”夜明けのカラス団”の仲間は三人。
弓と剣を得物とする俺と、魔法使いのユリア、それから姉であるユリアの防御を担当しているヘイズだ。
ここエルテンス領は俺の出身地で、普段はファフニアに拠点を置いて活動している。
今回はたまたま、物品購入のためこちらへ訪れている間に魔獣の襲撃を受けたのだ。
騎士団の命令に背いてまで山へ戻ったのは、ファフニア出身のこの姉弟が残して来た家族のことを心配したからだった。
もともとはファフニアへ戻るという話だったのだ。
だが、どうせなら襲撃して来た大物にひと泡吹かせてやろうと嘯いた俺の言葉を、横で聞いていた奴がいやがった。
そいつは俺達が魔獣討伐を目的にしていると勘違いした馬鹿で、私欲に目がくらんだ愚か者だ。
……まぁ、俺たちだってあわよくば討伐する気でいたんだけどな。
敵がこれほどの大物だったとは計算外もいいとこだ。騎士団がさっさと撤退を決めたのも、きっと賢い策があってのことだったのだろう……。
と、ユリアの魔法が失敗したのを見て後悔した。
「ダメ!私の魔法なんて全然効かないよ!わかったでしょう?魔力量が桁違いなんだよ」
青い光が放たれ、水系魔法で作りだされた水槍が敵に向かって飛び出していた。だが、その攻撃は魔獣の身体に当たる前に、周囲に漂っている黒い炎によって霧散する。
「魔力の量なんて見た目じゃわかんねーよ!」
番えた弓を構えながら強がりを言ってみるが、狙い通りに風を切った矢はユリアの魔法同様、ぞっとするような黒い炎の前に消えて行った。
「あんたみたいな筋肉バカにはわかんなくても、私は怖くて仕方がないんだってば!!」
掠らないどころか、魔獣に気付かれもしない自分の攻撃に舌打ちが出る。
「もう、言いあってる場合じゃないでしょうが!ラッシュ、もう気はすんだだろ?歯が立たないのはわかったんだし、矢も中らないんだから、はやく逃げ…」
ユリアを真ん中に挟んで、左側を守っていたヘイズの声が不自然に途切れた。
不審に感じて振り向けば、髪を鷲掴みにされ、首に剣を突き付けられているヘイズがいた。
逆手に持った長剣でヘイズを拘束しているのは、俺達について撤退の列から抜け出た私兵だ。
ぎらぎらとした目を見開いて熱り立つ私兵の目は、どこか焦点を失くしているように見える。
「ふざけるな!お遊びじゃねぇんだ。こんなところまで来て、尻尾巻いて逃げるわけには行かねぇんだよ!俺は武勲をたてて、新しい領主様に取りたてて貰うんだ!……おい、魔法使いの女、お前は俺の言うとおりにしろ。大人しく従わなければ、こいつの首を今すぐに跳ねてやる」
「……何を言ってるの。あなたも見ていたでしょ!私の魔法じゃ、あの魔獣には……!」
「うるせぇ!なんでもいい、やれ!あいつを殺せ!!てめぇも死にてぇのか!」
「……っ」
ヘイズの喉元に当てられていた剣が横に滑り、首筋に赤い筋が走った。薄皮一枚というには出血量が多すぎる。
容赦なく力が込められた剣をもう一度構えなおした男が嫌らしい嗤いを浮かべていた。ユリアが恐怖を見せた事で優位にでも立ったつもりか。
ヘイズの首から滴り落ちる血液が、ぱたぱたと地面に落ちていく。
「やめて!やる、やるから……」
血を見たユリアが動揺しながら俺に視線を送ってきた。
泣きそうな顔をしている彼女の手には、購入したばかりの指輪型魔術具が握りしめられている。先程放った水属性の魔法は、この魔術具を使って増幅したものだ。それでも攻撃が効かなかったのだから、同じ魔法を繰り返しても結果は目に見えている。
「……ユリア、落ち着け」
大丈夫だ。
隙をついて、俺がヘイズを助ける。
俺の視線からその思いを感じ取ったユリアは、不安げな表情はそのままにその蒼い目に力を込めて歩きだした。足場を定めると、こちらに気付かず背を見せている魔獣へと向かい、ゆっくりと詠唱をはじめた。
「俺が、俺が私兵長になるはずだったんだ。あの男の息子が王女の専属護衛騎士だと……?ふざけるな腐れ貴族め!今までどれだけ俺が裏で手をまわしてやったと思ってやがる……」
狂気じみた呟きをもらす男の視線はユリアに固定されている。俺はそっと死角に入り、二回目の水槍が放たれた瞬間に気配を絶った。
魔法の結果は予想通り。
二発目の攻撃も魔獣の身体に届くこと無く霧散した。それを視界の端に留めながら木の影に隠れ、隙を見計らう。
だが、ユリアの失敗に激怒した男が剣を振りかざし、悲劇は起こった。
「てめぇ、ふざけんじゃねぇ!」
「ガハッ……」
コプリ、という水音と共に、大量の血液がヘイズの喉と口から溢れ出た。
「きゃあああああっ!ヘイズ、ヘイズ――――っ!!」
ユリアの叫び声が響いても、剣を掲げた男の目に灯った狂気の炎は消えていなかった。
その場で地面に座り込んだユリア。
力を失くしたヘイズの身体がずるりと崩れ、掴まれていた髪は重みを増した重力に耐えきれなかったようで髪のちぎれる音と共に奴の指からすり抜けた。男の指にはヘイズの水色の髪が何本も握られている。
舌打ちをした男がヘイズから離れたのを見て、慌ててヘイズの許へ駆けよった。
「ヘイズ!」
膝から崩れ落ちるようにして地面に横たわったヘイズからは、ヒューヒューという微かな喘鳴が聞こえていた。
横倒しになったヘイズの蒼い瞳と視線が合ったが、それも一瞬のこと。すぐに焦点が合わなくなる。
ヘイズは自分で喉を押さえこんで止血を試みているが、次々と溢れだす出血は押さえても大した効果が出ていない。
俺は急いで腰につけている荷袋から止血薬を取り出した。
常備している軟膏などでこの傷が癒えるとは思えない。それでも、何もせずに見ている事など出来なかった。
「貴様、何を座ってやがるんだ!俺様のために働くのがそんなに嫌なら、お前も殺してやる!!」
「いやああああっ!」
ユリアの叫びに反応し振り向くと、男がユリアに向かって剣を振り上げていた。
「チッ」
舌打ちと共に咄嗟に投擲した小刀が男の手首に突き刺さる。
「がぁっ!?」
ヘイズの腰に並んでいるもう一本の小刀を抜き取りながら声を張り上げた。
「ユリア!逃げろ!!」
小刀は男の手首を貫通していた。
男が絶叫しながら長剣を落としたのを見て、ユリアはその場から逃げだした。
ほっと安堵の息を吐いた時、魔獣の威嚇音が耳をつんざいた。
地面が揺れ、ぐらりと体勢を崩す。地面が揺れ動くような振動は、魔獣が動いた余波だ。
「まずいぞ、魔獣がこっちに気付いちまった……くそっ!」
「ヘイズ!!」
狂ったように悪態を吐いている男を避けて来たユリアが弟の横に跪いた。
俺が塗っていた軟膏をひったくるようにしてとりあげると、たっぷりと手にとって傷口に塗布していく。
脈動に合わせて溢れて来る血液のせいで、上手く傷口に塗り込めないと気付いたユリアは顔を歪めて泣き叫んだ。
「ヘイズ、ヘイズ……!お願い、息をしてよぉ……っ!」
ヘイズの顔色はどす黒い紫色へと変色してきている。
喉を切りつけられたせいで、呼吸が出来ていないのは一目瞭然だった。流れ出した血液がこぽりこぽりと口から溢れだし、ヘイズは上を向くような白目になっている。
イヤな予感を振り払って、するべきことに集中した。
腕に巻きつけてあった布に止血薬を塗り込み、ヘイズの首に絞めつけない程度に巻きつけてやる。血まみれになった手を拭うことも忘れ、ユリアに向かって指示を出す。
「ユリア!俺がヘイズを担いで山を下る。お前は殿について魔法でなんとか時間稼ぎをしてくれ!」
「……うっ、ひっく、私の魔法じゃ、効かないんだってば……。でも、できるだけ時間を稼ぐから!お願いだから、ヘイズを助けて……!」
泣き濡らした顔のまま立ち上がったユリアは、短い水色の髪をなびかせて魔獣に向かって立ちふさがった。
黒炎をあげる魔獣を睨みつけ、素早く腰の荷袋から黄ばんだ紙を抜き取り地面に広げていく。丸まっていたのが嘘のようにぴたりと地面に張り付いたのは、魔法陣が描かれた羊皮紙だ。
書き起こしてある術式は簡易結界。彼女が一人で戦わなければならなくなった時のための保険に用意しておいた高級品だ。
魔法陣に彼女の淡い水色の魔力が注がれると、羊皮紙に描かれていた魔法陣が地面に焼きつき微かな光を灯す。
役目を果たし、白紙に戻った羊皮紙がくるりと丸まって斜面を転がっていった。
ユリアは簡易結界が上手く作動したのを確認し、続けて周囲の水を集める魔法の詠唱をはじめた。
「大地を潤す水の精霊よ、我が呼びかけに応え、大地の抱きし水を我に与えたまえ…」
ユリアが詠唱を終える前に急いでヘイズの下に潜りこみ、背中に乗せる。
「大いなる水の流れよ、我の意に応えよ。彼の者の頭上より水の恵みを!」
血糊でぬるつく手を拭いながら懇願するように声を掛けた。
「ヘイズ、苦しいだろうが少し我慢してくれ!」
もう聞こえてはいないかもしれない。だけど、必死になって声をかけ続け、ヘイズを担ぎ立ち上がった。その時。
「うおおおおおおっ!!」
小刀を抜き取った手で長剣を拾った男が、何事かを叫び魔獣に向かって走り出していた。
両手で掲げた剣を振りまわし、魔獣に向かっていく男は正気を失っているようにしか見えない。だが、そんなことはどうでもいい。
今は、自分たちが逃げることに集中するんだ!
「よし、時間稼ぎはあいつにやってもらう!俺達は逃げるぞ!」
ユリアの魔法は完成しているようだった。
何もないように見える空間から寄り集まってきた水分が、回転しながら一つのかたまりとなっている。魔法陣の上に集まった水が中心に集まり、大きな水球を作り上げていた。
「先に行って!私はこれをあいつにぶつけてから追いかけるわ!」
ユリアに頷きを返し、走り出そうと足を踏み出した瞬間、視界の中に光が散った。
何が起きたのか分からないまま、気付いた時には視界が横になっていた。苦しさに耐えきれず、ハッと息を吐きだすと脳天まで突き上げられるような痛みが襲った。
呻き声が出た頃になって、土の匂いに気付き、自分の赤茶色の髪が顔にかかり視界の半分を覆っているのがわかった。自分が地面に倒れたのだと認識する。
…………俺は……当て身をくらった、のか……?
チカチカと光が明滅するはっきりとしない視界の中、脅すような低い男の声が聞こえた。
「女、その魔法を解除してもらおう。大人しく投降せよ」
不穏なその声に、湿った落ち葉に半分埋まっていた顔を動かして視線を動かすと、少し先にユリアとローブを纏った大柄な男が見えた。
男の足元には何かが転がっている。
声を上げようとして失敗し、えづいたように咳込むと口の中に鉄臭さが広がっていく。
あの男、今走って行ったはずじゃ……?
ローブの男の足元に転がっているのは、狂ったように長剣を振りまわしていた私兵の男だった。尻を突き上げた体勢のまま、ぴくりとも動かない様子から気を失っているのだと察する。
ユリアに向き合っている男が纏う群青色のローブは見覚えのあるものだった。
――――あれは、王宮官吏のローブだ。
先程、魔獣討伐軍の指揮を執っていた人間の中にも、同じローブを身につけていた者がいたはず。そうぼんやりと考えていると、ユリアの怒気を含んだ声が聞こえた。
「あなた、ラッシュに何をしたの!?彼はヘイズを、弟を助けてくれようとしていたのに!魔獣がこちらへ向かっているのよ、攻撃して何が悪いっていうのよ!騎士団だって戦わずに撤退したくせに、偉そうに言わないで!!」
ユリアの叫び声と共に、魔獣へ向かって速度を増した水球がここから離れていく。
「聞き分けのないことを……」
溜め息を吐き、癇に障る仕草で頭を振った男。それを見て、ユリアは侮蔑のこもった目を向けているようだった。
しかし、すぐに状況が変わる。
バシッ、という何かが弾かれたような音と共に、ユリアが送りだしたはずの魔法が跳ね返され、大量の水が降ってきた。
驚いた一同が視線を魔獣に向けると、そこには黄色い光を放つ大きな半円が出来あがっていた。
「なっ、結界!?まさか、あんたがこの魔獣を操って……!」
ユリアが男へ不審な目を向けて攻撃を仕掛けようと動いた瞬間、空気を震わす大音声が響いた。
「静まれ!!」
男から放たれた覇気がビリビリと肌を刺す。男の気にあてられたユリアは身動きが取れなくなっていた。
「女、これ以上手間を掛けさせるな。どちらが正しいかはすぐにわかる」
ローブの男が視線を上げた先には、強力な結界に囲まれた魔獣の姿があった。
先程の水で火が消え、炭化していた木々は崩れ落ち、魔獣の異様な姿が露わになっている。
その巨体に黒炎を揺らめかせているのは、長い鼻と立派な牙を持つ獣だった。
ユリアは結界によって魔法で集めた水が防がれたために動揺しているようだが、俺の目にはあの魔獣が捕らわれているように見える。
結界の中にいる魔獣は耳をつんざくような威嚇音をあげると、魔法で作られた壁に向かって激しく体当たりをはじめた。
「……うそ、あんな馬鹿みたいな魔力量の魔獣を結界内に留めておくなんて、信じられない」
状況を見て落ち着きを取り戻した様子のユリアは、茫然とその光景を見ていた。
「まずいな」
突然耳元で聞こえた低い声に息を呑んで視線を動かすと、いつの間に移動して来たのだろうか。ローブの男が片膝を立て腰を下ろしていた。
男の膝下には、横倒しになったヘイズの身体がある。
「ぐっ……!ヘイズ…」
ヘイズの状態を忘れ、時間を無駄にしていたことに気付き慌てて起きようとして呻いた。身体を動かすと腹部に引きつるような痛みが走る。
横倒しになっていたヘイズを仰向けにした男は、腰につけた荷袋からうす緑色の液体の入った小瓶を取り出した。
「怪我人がいるのだ、愚図ついている暇はない。お前はそこで伸びている愚か者を担いで先に行け!」
横にいる俺には目もくれず、男は更に何本か瓶を取り出しながらこちらに指示を出して来た。
「……ぐっ、簡単に言ってくれる。くそっ、あとで覚えてろよ」
未だに光るものがチラつく視界の中、なんとか立ち上がり、気絶して泡を吹いている男を背中に担ぎあげヘイズの許へ戻る。
ローブ姿の男は腰袋の中から取り出した小瓶の中身を、ヘイズの喉元に振りかけた。すると、それまで止まらなかった出血が見る間に止まっていく。
「すごい……」
いつの間にかヘイズの横にはユリアも膝をついていて、男に指示されるまま、完全に意識を失ったヘイズの首に新しい清潔な布を巻いていた。
男はヘイズの全身を一瞥し、他に傷が無いのを確認すると残りの一本のふたを開けた。
首の下に手を入れ、力なく開いた口の中にその液体を流し込む。小瓶を捨てた男は無造作に自分の指をヘイズの口の中に入れて舌を押し、薬が喉の奥へと流れたのを確認して立ち上がった。
その場で軽々とヘイズを肩に担ぎあげ無言で走り出したので、慌てて俺達もその後を追う。
「山を降りたらその愚か者は騎士団へ身柄を拘束するように伝えろ。お前達からも事情を聞かねばならんが、この怪我人は血を失い過ぎている。すぐに救護班の許へ行ったほうがいい」
「……弟は助かりますか?」
山道をローブを翻して滑るように進む男は、必死になって後を追うユリアへ向けてひとつ頷きを返し、柔和さを含んだ声で応えてくれた。
「先程使った水薬は、私が知る中で最も腕の良い薬師が調合したものだ。心配はいらない、安静にしていれば必ず良くなる」
担がれているヘイズの顔色はどす黒いものから、雪のように真っ白なものに変わっている。乱暴に薬を流し込まれた時でさえ、何の反応も見せなかったのだ。
傍から見ている限りでは、息があるのかどうかすら確信がもてない顔色だ。
だが、ユリアは男の言ったことを信じたようで、力の抜け切った顔で涙を拭いながら頷いている。
息も絶え絶えに一気に斜面を下っていると、藪の向こうから走って来る黒鎧の男達が見えた。
「ペテリュグ団長!こちらにいらっしゃいましたか!」
斜面を下りきると、4人の騎士に囲まれた。どうやら彼らは俺達を捜していたらしい。
「あぁ、遅くなってすまない。この怪我人はお前達に頼む。至急、医術師のいる救護班の許へ運んでやってくれ。大量の血を失っている。詳細はこちらにいる仲間に聞けばわかるはずだ」
「「「「 ハッ! 」」」」
駆け寄った騎士のひとりにヘイズを預けた男は、山の中へ踵を返し疾走して行った。
「……団長ってまさか、彼ってあのバルド・ペテリュグ!?」
「くっそ、……やっぱり、ただもんじゃなかった……」
その名を聞き、力が抜けて視界がぐらんと揺れた。
男の正体を知った途端、ここまで堪えていた腹部の痛みを耐えきれなくなった俺は、意識のない二人と同様、騎士団に抱えられて下山することになった。
「見ろ、誰かが結界を張ったぞ!」
「子どもだ、結界の上に子どもが浮いてる!なんだってあんなところに!?誰か、助けを……!」
突如現れた結界の魔法陣は、ぶつかってきた小さな水球を黄色く光る半円形の壁で弾いた。術式が描かれた結界壁は一瞬白く反応したが、すぐ元に戻る。
結界の中に炎舞象が閉じ込められたおかげか、周囲の火の勢いが見る間に引いていく。視界を邪魔していた黒煙が薄れるにつれ、結界の上にぽつんと浮いている人影を認識することが出来た。
結界の本来の使い方は外からの攻撃を防ぐもの。
だが、目の前の結界は魔法陣の術式がそのまま、内包するものの縛めとなっている。
……間違いない、あの子だ!
「ヴィニアス隊長!先程僕らを助けてくれた、バルドという騎士はどんな方なんですか?あの方と一緒にいた少年のことを、何かご存じではありませんか!?」
僕の問いかけに、意外なことを聞いたとでもいうように眉をあげた隊長は、騎士の正体を教えてくれた。
「あぁ、アニス殿はバルド様にお会いするのは初めてだったか。あの方はティルグニア騎士団団長、バルド・ペテリュグ様だ。……しかし、一緒にいた少年って…」
……バルドさんが団長!?
口元を押さえたヴィニアス隊長は視線を山へと戻し、なぜだか肩を震わせ始めた。
楽しそうな隊長に反して、バルドさんの正体が騎士団長だと聞かされた僕はぐらりと気が遠くなるような思いだった。
あの時、自分が何か失礼なことをしてはいなかったかと、思い返すだけで冷や汗が止まらない。
ティルグニア騎士団長、バルド・ペテリュグ。彼は数多の武勇伝を持つ英雄だ。
自国での活躍はもちろんだが、彼は他国での英雄譚の方が多いかもしれない。その理由となるのが、騎士見習いの頃から他国の秘境を練り歩いて武者修行の旅を……って、違う!僕が本当に知りたいのは……!
「隊長!笑ってないで教えてください!今、あの魔法陣の上に浮いている少年です!あの子は一体、何者なんですか!?」
「くっくっくっ、アニス殿、よく見ておいたほうがいい。こんな幸運、滅多にないぞ」
笑いを押し殺し、真剣な表情に戻ったヴィニアス隊長に促され山に意識を戻すと、魔獣を包み込んでいる結界が赤く変色していた。
どうやらあの少年は行使する魔法の属性を変えたらしい。
……結界を維持したまま、属性の術式変更って。あの子、本当に器用すぎるよね!?
土系の守りから火系の灼熱へとその様相を変えた魔法陣は、熱した鉄鉱石のように赤々と光り輝いている。中の魔獣が体当たりをするたびに白く明滅しているが、半円形の壁が壊れる気配は微塵も感じられない。
「流石だな、一瞬で術式を書き換えられるとは。だが、炎に耐性のある魔獣に対して効果があるのか……?」
激流のように送り出される魔力で、結界の中に熱が溜めこまれて行くのがわかる。
鉄が焼けるような、暮れる夕日にも似た光が熱を伝えてくる半円の結界。そこから立ち昇る熱気で周囲が揺らいで見えた。
あの少年は熱くはないのだろうか。
同じ場所に浮いたまま動く様子のない彼の表情は、遠過ぎて伺い知ることなどできない。
はじめ、もがくように暴れていた炎舞象は光に飲み込まれ、やがて見えなくなった。
どれだけの時間が経っただろうか。
目の前の光景に見入っていた観衆は静まり返っていた。吹き荒れていた風はやわらかなものとなり、頬を優しくなでて行く。
すっかり反応を示さなくなった結界は、灰のように白く変色し風に吹かれる様に消えてなくなった。あとに残されたのは、真っ黒に焼けただれた山肌と大きな白い塊のみ。
吹く風に甘い花のような香りを感じた気がして空を見上げると、額にぽつりと冷たい何かが触れた。
それは次第に水量を増やし、やがてさらさらとした雨に変わる。
「……天気雨?」
雨が降ってきたことに気付いた周囲の者から『雨だ!!』と歓声が上がって行く。
「この雨で山火事も終息だ。朝からご苦労だったな、アニス殿」
肩をばしっと叩かれた僕は、よろめきながら目を瞬いた。
「終わり?でも、まだ山火事が……」
延焼を続ける森林火災は炎の広がりを防ぐため、木を大量に伐採するなどして対応するのが基本だ。燃え草を失くしてそこで被害を食い止める。だが、そんなものは必要ないのだと、目の前に広がる光景を見て理解した。
『ワァ――――……』っと波紋が広がるように人々の歓声が高まった。山並みを包み込むように降る雨が、炎を白煙へと変えて行く。
魔獣の襲撃による山火事は、国境砦を抱えるエルテンス辺境伯領が有する三つの山を延焼させたが、大きな被害の爪痕を刻まれたファフニアの惨状とは比べ物にならない軽さで済んだ。
エルテンス領の山並みにかかった二重の虹は、朝から続いた事態への終息を人々に伝えるように、優しい光をティルグニアとファフニアへ届けていた。