書簡
緑濃い森はその様相を一変させ、霧に覆われた迷いの森へと化していた。耳に届いていた虫の音も、今は静けさの中に沈みこんでいる。
バルドが示したのは、先程通り過ぎて来たばかりの巨木だった。
何本かの木々がより合わさって生育したような針葉樹からは、力強い魔力の光が放たれている。その魔力を辿って道を戻る途中、なんとなく一歩左に寄って歩くと、背後から『ポトリ』と水音がした。
「…………。」
うんざりとした気分で横を仰ぎ見れば、バルドが頭上に掲げていた盾を下ろすところだった。下ろされた鈍色の盾には白と黒の斑がついている。
落ちて来たのは鳥のフン。
バルドが鳥のフン被害に遭うのはこれでもう三度目だ。その全てをしっかり盾で防いでいるあたり、落ちて来るのがわかっていてそこを通っているのがわかる。
察知しているのだから避けて通ればいいものを、護衛だからと一定の距離以上離れない姿を褒めるべきなのか。
落ちて来るフンを気にした様子もなく、見上げた霧の薄い部分から上空を飛び去って行った鳥影を見送るバルドは愉しげに目を細めていた。
「しかし、この辺りの魔獣もすっかり大人しくなっておりますな。これもひとえにアズサ殿のおかげですね」
バルドの言うように、里からここまで大した魔獣の姿を見ていない。精霊の気配が少し感じられるのもアズサが関わっているというので間違いはないだろう。
だが、ここに魔獣が少ないのはお前のとこの鍛冶バカどものおかげだとは言わずにおいた。
この地域で中級相当の強さを持つ双頭狐と出くわしたトーチャたちが不運だったのだ。
「……あぁ、ここなら雨露も凌げそうだ」
巨大樹の根元に辿りつき足を止めると、周囲の霧はまた濃さを増していた。先程垣間見えた青空も既に見えなくなっている。袖を伸ばすように枝葉を広げる木の下では、霧が枝葉を濡らして水滴となり、根元から少し離れた場所に落ちては地面を濡らしていた。
土の香りや水の匂い、踏みつけてきた雑草から立ち昇る濃い緑の香りを吸い込めば、身体の中に大地の精気が採り込まれて行くのを感じる。
こちらが里へ到着した時、里はお祭り騒ぎの真っ最中だった。
アズサがドワーフの里に滞在したのはたったの一日半。
バルドが捕まえた婆様によると、アズサは一日目の夜に到着したあと、三日目の朝には里を発っていたらしい。
「アズサ様は若様のコレじゃったんかいな!これで里も安泰ですわのう。カッカッカッカッ!!」
緑髪の剛毛を天高く三つ編みにした婆様は豪快に笑っていた。
小指をたててしわくちゃの顔をにたりと歪めさせた婆様に、殺意が芽生えたのは仕方がないことだったと思う。
「――――断じて違うっ!!」
「違います。ばあ様、勘弁してくださいよ、私にはそういう趣味はありません」
……バルドめ、趣味じゃないとはどういう意味だ。
婆様の不愉快な妄想に腹を立てた私の横で、バルドが溜め息を吐いている。
失礼な物言いをするこいつをあとで締め上げてやると決意した時、お祭り騒ぎの集団の中から一人の酔っ払いがやって来た。
「はれぇ?バルドしゃまじゃないれすか!?いつ帰ってきたんすかぁ!聞いて下はいよお。でんへつが生まれたんれふよぉ?」
へべれけになっているのは、頭から指先まで真っ赤になったドワーフの男だった。
髭自慢の男達の中で、少し貧弱でまばらな生え方をしている髭を見るに、まだ若いのだろうということが察せられた。
長時間炉に向かっているこの里の者たちは、女も男も往々にして色が黒くて肌が堅いので、見た目では年齢が読みにくい。
「お~い、誰か!この軟弱者を泉に叩きこんでこい!!」
集団の中から慌てたように飛び出して来た恰幅のいい男が、へべれけになった男の首根っこを掴んで追い払う。現れたのは豊かな黄土色の髭を持つ身ぎれいな男だった。
近くで呑んでいた他の酔っ払い達に担がれ、へべれけ男が連行されて行く。それを見届けこちらへ向き直った男は、毛色は違うがバルドに少し似た顔立ちをしていた。
この男も浴びるほどに呑んでいたのだろう。酒臭さが漂っているが、酔ってはいないようだった。
「いやぁバルド様、久しぶりの里帰りだというのに申し訳ありません。ガキンチョが見苦しいところをお見せいたしました。めでたくも聖域が浄化されましたので、祝杯をあげていたところなのです。この度は、精霊の祝福を受けし大地の申し子様と引き合わせていただき、アニヤ様には感謝してもしきれません。あとで大奥様からの手紙と共に御所望の品をお届けにあがりたいと考えております旨、お伝えいただけますか?」
……聖域の浄化だと?
それと一緒に耳慣れないおかしな呼び名を聞いた気がした。
ちらりと酒宴に興じる里の者達の声に耳をすまし、不穏な予感を覚えて眉間に皺を寄せていると、バルドも理解しがたい言葉だったのか、目をぱちぱちと瞬かせていた。
「……あぁ、承知した。伯父上、お久しぶりです。母上にはそう伝えておきましょう。こちらも聞きたいことがあるのですが、伯父上が言っているのは、アズサ殿の事で間違いないですか?」
「えぇ、もちろん。今代稀に見る逸材ですな、あの方は!あの喧嘩っ早いところも魅力的ですが、何より精霊を従わせるほどの器量をお持ちだ。血気盛んな若者がすでに何人か名乗りをあげておりますよ!がっはっはっ!今年は良い年になりそうですなっ。いやぁ、めでたい!」
「な、名乗りだと!?一体何のことだ、バルド!」
「……ガルド伯父上、まさかとは思うが、アズサ殿を秤にかけたのですか?」
男の発言に渋面を作ったバルドだが、その目には隠しきれない好奇の色が見て取れた。
「長殿とちょっとありましてね。大分異例な形とはなりましたが、いやぁ、若様にもアズサ様の見事な雄姿をお見せしたかった!もうあの方の事は、長殿が里の一員だとお認めになられましたからね。見ての通り若いもんがはりきっておりますので、アズサ様が戻られる時には争奪戦となるでしょうなぁ!いやぁ、次が愉しみだ」
「ゆ、雄姿?争奪戦!?こいつは何を言っているんだ、バルド!!」
ローブを掴んで揺さぶると、バルドも興味津々で話を聞きだそうとしていた。
「伯父上、アズサ殿の行方についても詳しくお伺いしたいのですがお時間をいただいても…」
背後ではドンチャン騒ぎをしながら酒樽を煽って倒れ込んで行く男どもが雄叫びをあげている。酒盛りをする酔っ払い達の歌に、アズサの名前が入っているのは気のせいではなさそうだ。
……なんで一日や二日でこんなに馴染んでるんだ、あいつは!!
どうやらアズサがドワーフの里でも何かをやらかした、ということは理解した。
彼女は一日半のうちにドワーフの聖域を浄化して、里のやつらを誑かして出て行ったらしい。
聖域を浄化したというのであれば、アズサが持て囃される対象となるのは無理もない事だとはわかる。
基本的に鍛冶を生業とするドワーフの民にとって、大地を支える精霊は信仰の対象にもひとしい存在なのだ。
「おや、書簡が来たようですね。どちらでしょう」
眼光を鋭くしたガルドが上空を見上げると、そこには大きく羽を広げて滑空する鳥影があった。
里の上を大きく旋回し、まっすぐバルドのところに降りて来た鷹につけられていたのは、ティアからの書簡だった。
書簡に書かれていたアズサの目撃情報を確認して、私達は早々に里を出ることを決めた。
バルドはもっと詳しく話を聞きたかったようだが、アズサの居場所がわかった以上、ここに留まる意味が無い。
出立前の離宮では、結局もろもろの残務処理(半年間放置していた政務)をきれいに片付けるまで解放してもらえなかった。
私が解放されたのは、アズサが屋敷を発ってから四日目の昼過ぎのこと。
アニヤによって荷造りされた荷物を渡され、先程ようやくティアに里へ転送してもらうことが叶ったのだ。
今は一刻の時間も惜しいと、急いで里を出ようとした……のだが。
ぼんやりと思考に耽っているうちに霧は霧雨となり、森の中は徐々に緑濃い景色を取り戻していた。濃霧の中に漂っていた魔素も薄れ、魔力検知が容易になり方向感覚も正常に戻っている。
里での話を聞いてからずっと気にかかっていたのはアズサの体調だった。
シヤの泉での時のように、無理をしたのでなければいいと思う。
霧の晴れた森の中には、陽の光が木々の間から差し込み、さらさらとした霧雨が降り注ぐ光景が映し出されている。
森の動物たちも活動を始めたようだ。
近くの梢からは、美しいさえずりと共に黄色い鳥が羽ばたいて行く。
清浄な大気と地気を取り戻しつつある森を歩いているうちに、少しずつ私の魔力も回復している。それに加え、道中ずっとクズ魔石を壊して歩いたおかげで、使いこんでいる分の魔力も十分に補われているようだ。
精霊の気配が薄くなっていく中、ふとドワーフの里でアズサが浄化したという泉のことが気になった。なぜアズサがそこに足を踏み入れることを許されたのかも疑問だったのだ。
すっかり視界の晴れた大樹の下で、視線を隣に向ければバルドが熱心に盾を磨いていた。
「私はまだ見たことがないが、ドワーフの守る聖域とはどんな場所なんだ?アズサはドワーフの聖域に足を踏み入れたんだろ」
バルドは輝きを取り戻した盾を満足気に眺めつつ磨き布を懐へしまうと、こちらの質問に目を瞬かせ顎に手をやって思案するそぶりを見せた。
「……そうですねぇ。どんな、と一言では語れぬ場所ではありますが……」
精霊の棲む聖域には大きさや性質など、その土地によって差がある。
シヤの泉はこの国において一番価値が高いとされる聖域だが、大きさだけで言えば湖と呼んでも差し支えないものも存在するのだ。
魔素の生じる量や地域の特性、精霊の種類において差がある聖域の中でも、ドワーフなど古くからそこにいる種族が守っている瘴気だまりは、情報が秘匿されていて外部の者には立ち入りが禁止されているはずだった。
「初めて目にする者にとってはおぞましくもあり、価値を知る者にはこの世の至宝であるとも言えますね。私も”ドワーフの勲し”には幾度か参加したことがありますが、あれは本当に精神的にも肉体的にもキツイものです。アズサ殿が見事にあの秤をくぐり抜けたという雄姿がこの目で見られなかった事が口惜しいですな」
……ドワーフの勲し?
なぜ泉の話からアズサが参加したという秤の話になるのか。
口惜しいと語るバルドの口調からは、不満げな雰囲気が感じとれる。それだけ、そのイサオシとやらで見られるものが価値ある物だということか。
「アズサの受けた秤とやらがその”勲し”ってやつなのか、はじめて聞くな。なんだそれは」
「ドワーフの者達で剛の者を競い合わせる古くからある鍛錬法です。喧嘩っ早い年寄り連中がよく若い奴らに絡んで始まるのですが、要はドワーフとしての目利きと技、忍耐力、胆力を推し量る催しですよ」
「……アズサはあの職人どもに勝ったのか?ドワーフの鍛錬法で?」
ドワーフの者たちは偏屈で頑固で意地っ張りな奴らが多くて、はっきり言って扱いが面倒くさい。その上、それぞれが変なところで誇り高いから厄介なのだ。
見上げたバルドのニヤついている愉しそうな雰囲気を見るに、相当にキツイ内容なんだろうということが推測できた。
……鍛冶としての訓練など受けた事もないあいつが、職人魂のかたまりの様な奴ら相手に目利きと技、忍耐力や、胆力を競って勝っただと?
意味がわからない。
「どんな勝負をしたのか知りたいが、聞きたくないような気もするのはなんでだろうな……」
溜め息まじりに呟くと、生き生きとしたバルドの声が返ってきた。
「あ、勝負の内容は主と言えど部外者には教えられませんからね。アズサ殿が”ドワーフの勲し”を受けることになった経緯は存じませんが、本来ならば外部の者があの秤に参加を認められる条件は一つだけです。その内容も当事者にしか教えられぬ規則です……が、どうしてもというのなら吝かではありません。条件を呑んでくだされば主にもお教えいたしましょう!」
「……お前が乗り気なのが気に食わん。アズサが無事なのだから、知らないままで一向に構わない。さぁ、雨も晴れた。行くぞ」
こちらが話に乗って来なかったのが面白くなかったようだが、愉しそうな顔をいつもの厳つい顔に戻したバルドは短い返事で応え、歩き出した私の後をついて来た。
こうして私達が地道に歩いている理由は、ドワーフの里に一頭も馬がいなかったからである。
馬を手配しようと馬屋に行ったら、馬房がもぬけの殻だったのだ。
平身低頭で謝罪してくる馬丁の話によれば、馬が暴れて手がつけられなくなったために里山へ草を食みに行かせてしまったのだそうな。
私達が里に到着するほんの少し前の話である。
その時には、あからさまな嘘を吐くものだと思っていたのだが、押し問答も面倒なので無視して里を出て来た。
今思えば、あれが精霊から受けた嫌がらせの始まりだったのだ。
そういう訳で徒歩で山を下っているのだが、こうして魔力の回復も出来ている現状を見れば悪いことばかりではないのだが、素直には喜べない。
アズサの許へ着くまでに一体どれほどの時間がかかるのかが問題だ。
こうしてのんびりしていると、また厄介事が起こりそうで嫌な予感がする。
「……おや、また王都からの知らせが届いたようですよ」
「…………。」
バルドの声で空を見上げると、すっかり晴れた青空を鷹が旋回していた。すぐに木の陰から出て、陽の光を反射する水たまりを避けながら広い場所へと移動する。
素早く革布を巻き付けたバルドが腕を上げて待つ。鷹は大きく羽を広げ降下してくると革布の巻かれた左拳へ止まった。
鷹の足には円筒状の木が括りつけてある。
バルドはすぐにそれを取り外し書簡を懐へ差しこむと、間を置かずに鷹を乗せたままの左拳を背後から前方へ向かって勢いよく振り上げた。
その勢いを助走として羽合わせた鷹は、あっという間に空高く飛び上がって行った。
鷹がしっかりと風に乗ったのを見送ると、書簡を割って中にさっと目を通したバルドが一瞬口角を上げ、すぐにいつも通りの渋面へと戻す。
「今度はノディアクス宰相様からの書簡でした。どうぞ、ご確認ください」
澄ました顔で書簡をこちらへ差し出すバルドに、イヤな予感しかしない。
……これはダメだ。絶対に面倒くさいやつだ。
嫌々手紙を受け取り、くるんと丸まっていて少し読みにくい書面に目を通した。
手紙には流暢な文字で彩られた、遠まわしで分かりにくい言葉が書き連ねてある。ノックスが書いた仰々しい貴族言葉は解読するのが面倒なうえ、内容はこの上なく酷いものだった。
「……クソ面倒くさい。これ、手違いで受け取らなかった事に…」
「いけません。我が国の騎士団長として、その命令は断固拒否させていただきます」
世界のすべてがアズサの許へ向かわせないように動いているとしか思えない状況に、その場でがくりと膝を落とし、手をついて項垂れた。
ファフニア王国との国境線沿いに位置するエルテンス辺境伯領には、常にない緊張感が漂っていた。
それは夜明け前、国境にある物見櫓に詰めていた兵士が緊急を知らせる鐘を打ち鳴らしたことから始まった。
響き渡る警鐘で飛び起きた辺境伯領の者達が見たのは、まだ日も昇らぬ夜空を赤く染める大火。遠目にも大火事だとわかるその様子に、ファフニア側の国境警備隊へ連絡を取った辺境伯が得た情報は信じ難いものだった。
――――魔獣による急襲。
ファフニアからもたらされた情報によれば、その大火も魔獣の起こしたものであり、現在は宮廷騎士団が指揮を執って討伐に当たっているという。
だが、山向こうに見える黒煙は絶え間なく立ち昇り続け、収束するどころか範囲を広げているように見えた。
「王都には報告を?」
広間に集められた面々の中、耳に通る凛とした低い声が目の前に立つ城主に向かって問いかけた。その声に応えたのは、少し疲れた様子が見て取れる初老の男性。
この城の主である、エルテンス辺境伯その人だ。
「ええ、もちろん。ファフニアからの情報を得てすぐ、山火事の連絡と魔獣の出現についての報告は入れてありますよ。だが、警戒値を上げた方がよさそうですな……。今一度、王都へ連絡を…」
日が昇るのを待ち辺境伯の名のもとに招請されたのは、大領地ベルベントスに駐屯していた西軍騎士団の精鋭たちだ。
その他、エルテンス辺境伯の呼びかけを受けたギルドを通し、周辺にいる冒険者たちにも招集が掛けられている。エルテンス城の門前には、騎士に冒険者、近隣に住まう貴族の抱える私兵など多くの者が続々と集結していた。
「エルテンス様!ファフニア国境警備隊より続報が送られて来ました!」
「見せろ!――――…これは……」
兵士が持ってきた書状を取り次いだ侍従から、奪うようにして書簡を手に取ったエルテンス伯の顔色が見る間に変わって行く。広間にいる者たちが固唾を呑んで見守るなか、苦々しい表情を浮かべ顔をあげた辺境伯の重い声が響いた。
「――――ファフニア王国より、我が国に対して注意喚起が入った。現在ファフニアの領土を蹂躙している複数の魔獣が、まっすぐにこちらの国境へ向かっているそうだ。至急、王都へ報告を!集まっている者達はただちにコルノ平野へ移動を開始する!」
エルテンス城の広間を解放した臨時指令室に、男達の勇ましい声が響き渡った。
次々と飛ばされる指示に反応して、一人、二人と部屋の中から人が減って行くのを見送る。ただ、茫然としながら大荷物と背後に並んだ若者たちの前で立ちつくしていると、横から力強く肩を叩かれた。
「おい、呆けている場合じゃないぞ。すぐに移動を開始する。必要な荷物はこちらで運ぶから指示してくれ」
「ヴィニアス隊長……」
僕に声を掛けて来たのは、ヴィニアス・ボーエン。先程、エルテンス辺境伯と会話を交わしていた相手、西軍騎士団の隊長を務めているお方だ。
銅色の長髪を一つにくくり、褐色に焼けた肌は彼の精悍な顔立ちに更に深みを与え、刻み込まれた傷痕からは激戦をくぐり抜けてきたという勇猛さが感じられる。
力強い眼力を放ち、じっとこちらを見つめて来る灰色の瞳に腰が引けてしまう。
頭から被っていたローブを首元で強く引き絞って身を縮こまらせ、何とも気まずい思いで視線を落とした。
おかしい、どうして僕がこんなすごい人の隣に立ってるんだろう……。
きらびやかな内装が施された辺境伯の屋敷。
いつでも軽食が摂れるようにと炊き出しが行われている食堂からは、こんな状況だというのに食欲を刺激するいい匂いが漂ってくるのがなんだかおかしい。まったく笑えないけど。
広間には戦闘用の鎧を装備した騎士たち、辺境伯に仕えている身ぎれいな衣装に身を包んだ側近たちがいるほか、自分の後ろには子どもが迷い込んだのかというほどに若い魔術師たちが並んでいる。
彼らに比べれば二十歳の僕はまだ年齢が行っている方だ。
どう考えても自分がこの場にいるのは場違いだとしか思えない。それなのに、魔力の量が他の人より少し多いというだけで、ここに集められた魔術師たちの統括責任者を任されてしまったのだ。
こんなに大勢の人達を見るのも初めてだというのに、一体自分にどうしろというのか。
主である領主様には、『魔法陣をいくつか張って帰ってくるだけの簡単なお仕事』と言われてしぶしぶ引き受けただけのに、到着してみればとんでもない。
余所から派遣されて来た魔術師たちのほとんどが、最近見習いから上がったばかりの新人だと言うのだ。
確かに、彼らにとっては魔法陣を張るだけの簡単なお仕事になるだろう。
だって、それしか出来ないんだから。
「……今すぐおうちに帰りたい……」
こんなに胃が痛くなる思いをするなんて聞いてない。今はただ、あの落ち着く暗い研究室の中に引きこもりたい。それしか考えられなかった。
ぎゅっと自前の青いローブの帽子を強く手繰り寄せ現実逃避するうちに、僕はうっかり思ったことを口走っていたらしい。
気付けばヴィニアス隊長の野太い拳で肩を掴まれていた。隊長の野趣あふれるお顔が間近に迫っている。口は笑みの形をとっているのに、目が笑ってない。
「ははは、面白い冗談だ。ザナス領で有名な、期待の若手と噂されている魔術師は君だろう?アニス君」
「ひぃぃぃっ!?そ、そんな噂きいたことないですからっ。僕が今回ここに来たのも、お師匠様がぎっくり腰を患ったせいで……!」
顔をのけ反らせた拍子に背後の様子が視界に入った。いつの間にやら後ろで山積みにされていた鞄が消えている。
どうやらヴィニアス隊長に捕まっている間に、有能な騎士達によって荷物が運びだされていたらしい。僕のうしろで待機していた新人たちも各自、自分が持ってきた鞄を手に移動を始めている。ウキウキそわそわ、その瞳にわかりやすい野心を覗かせて。
……やめて!?その一旗揚げてやるぞ、みたいな感じっ!それ絶対、無事に帰ってこれないやつだよね!?
「僕らに出来る事なんて、騎士の方達のお邪魔をしない程度に罠をしかける程度ですから!余計な事は決してしいたしませんし、してほしくないんですぅぅぅっ!」
虎の威を借りて、やる気満々な新人君たちに教育的指導をお願いしたかったのに、返って来た思いもかけない言葉に戦慄が走った。
「いいや、アニス君、謙遜は好くない。話は聞いてるよ。君には存分に力を発揮してもらうからね。さぁ、もう時間もないようだ。君の荷物はここにあるだけで良かったね?では、出発しよう!遅れるな!!」
「「 ハッ! 」」
「ひぃぃぃぃぃっ!?僕には責任者なんて、ほんとに無理なんですってばぁぁぁぁ――――っ!」
隊長の傍に控えていた筋肉自慢な騎士の方々にがっちりと両脇を固められた僕に、逃げる隙があるはずもなく、覚悟を決める余裕すら与えてもらえないままに戦場へと駆り出されていた。
コルノ平野で陣営を組んだ騎士団と、冒険者や兵士、私兵たちで構成された討伐部隊が集結した。非戦闘員である魔術師たちは、魔獣を迎え撃つ準備が整ったのをみて後方支援組に入れられている。
第一陣が山の中へ踏み込んでから約半時ほどが経ったが、戦況はあまり思わしくないようだった。
「ヴィニアス隊長!第一陣として前線に立っていた半数の者が熱傷を受けて、二陣の者達と交代いたしました!冒険者らには各個、逃げて来る魔獣の討伐に当たらせておりますが、私兵や辺境伯側の兵士が参加してなお、手が足りていない状況です!」
「……どこからこれだけの数の魔獣が出て来たんだ。そもそも数が多すぎるのが問題だが、ファフニアに生息しているはずのないものまで報告に上がっている。討伐に手間がかかるのもそのせいだろう。雑魚には構わず、魔力の高い魔獣に絞って討伐するしかない。ともかく、あいつの近くにいる魔獣だけでも確実に仕留めて行け。これ以上ヤツに餌を与えるな!」
「ハッ!」
ヴィニアス隊長は前線へと戻って行った連絡役の騎士を見送りながら、騒音轟く山並みを睨むように見据えている。
僕はと言えば、先程まで平野から山際までをかけずり回っていたおかげで、へろへろになっていた。
新人たちが持ち寄ってきた魔法陣は、すでに魔獣の通る軌道予測に沿ってあちらこちらに仕掛けてある。だけど、百を越える魔獣と動物達が入り乱れる中では罠としての機能が十分に発揮されていないのが実情だ。
魔獣の強さに対して威力が小さいことも、大きな敗因となっている。
被害の予測がつかない時点で派遣されて来たのだ、押しだした側が出し渋りをした責任を問うて、彼らを責めるわけにもいかなかった。
「あぁ、また結界が壊された……。あんな出来そこないの魔法陣じゃ、足止めにもならならいよ……」
威力は無くても数に任せてなんとかならないかな、と淡い期待を抱いていたのだけど、ガラクタ魔法陣はどこまでいってもガラクタ以上には成り得なかった。
新人君たちが満を持して用意して来た魔法陣を見た僕は、魂が口から出ていたんじゃないかと思うほどの衝撃を受けた。
絶望、と言ってもいい。一瞬気が遠くなったのは間違いない。
彼らの出して来た魔法陣の出来の悪さに怒りさえ覚えた僕は、彼らを当てにするのをやめて、少し離れた場所に結界と罠の魔法陣を配置した。
もちろん、西軍騎士団の人達にどこに置けばいいのか指示を仰いだうえでだ。
どこに仕掛ければ効果的かなんて僕が知っているわけがない。
僕は幼いころに引き取られた領主様のお屋敷からほぼ出たことが無い、いわゆる囲われ者の身。買い出しにだって滅多に外へ出る事もない、自他共に認める引きこもり。
こんな状況でもなければ、絶対にこんな場所にいる事なんてなかったと断言できる。
しかしある意味、新人君たちの姿に絶望したおかげでここまで開き直ることが出来たとも言えた。
僕が引きこもりなことを暴露して、仕掛けの相談をしても騎士の人達は嫌な顔一つせず快く協力してくれたのが大きかった。
何を勘違いしたのかわからないが、魔法陣を配置するために屈強な男達に指示を出して奔走させている姿に感心した新人君たちが、素直に僕の言うことを聞いてくれたのも背中を押してくれた。
……絶対バカにされると思ってたのに、……良かった。キツイこと言われたら立ち直れないとこだったもの。
「実力がなくても、使い方を間違えなければなんとかなるもんだな……」
「そうだな」
自嘲のつもりで言った言葉に返事が返った事に驚いて振り向くと、ヴィニアス隊長が横に並んで立っていた。
「彼らもよく働いてくれている。アニス殿の仕掛けた魔法陣がしっかりと仕事をしてくれているおかげで、こちらも闘いやすくなった。君が来てくれて本当に助かったよ」
ここへきて、隊長の僕に対する呼称が”くん”から”どの”に変わっているのに気付いて畏れ慄き、気がつかないふりをしながら頬を伝う汗を拭った。
「……あの子達にいま頼んでいる作業が終わったら、先に帰してあげてください。彼らにはもう出来る事はないでしょうから……」
おそるおそるお願いをしてみると、それは快く承諾してもらえた。
「承知した。では、何人か護衛をつけて城へ戻すよう手配しておく。我々もその作業が済み次第移動を開始しよう」
「はい。じゃあとりあえず、準備のできた魔術具だけでもみんなに配ってください。もっと早くに渡せたら良かったんですけど……」
両手に納まる大きさの革袋いっぱいに詰め込まれているのは、小さな魔石のついた耳環だった。
調整の終わった最後の一つを革袋の中に入れてヴィニアス隊長へ差し出すと、彼は仰々しくも思えるそぶりで受け取り、瞼を伏せて礼を言った。
この革袋は金や貴石を入れるための銭袋と同じもの。旅先などで魔石を狙った魔獣からの被害を少なくするため魔力の気配を遮断する素材で出来ている。
隊長は革袋の中身を確認したあと、大きく頷いて袋の紐をきっちりと締め、横に立つ騎士の一人に手渡していた。受け取った騎士は先程、魔法陣の配置に尽力してくれたうちの一人だ。
「これを耳に填めればいいのですね?これほどの防具を提供していただけるなど、思いも寄りませんでした。アニス殿、防具を頂くのに決して遅いなどということはありません。これから出陣する第二陣の者達から順に配りますから、熱傷を負う者が少なくなるのはありがたいことです」
騎士は軽く敬礼の姿勢を取って謝意を示し、足早に去って行った。彼の言葉には暗に、戦いが長引きそうだとの思いが込められていることが伝わってくる。
確かにこの防具によって戦線を離脱する者は減るかもしれない。だけど、あれを装備したからと言ってあの化け物に勝てるか、と言えばそうは思えなかった。
「アニス殿、他の魔術師たちの作業が終わったようだ。急いで風上に移動しましょう」
「……はい」
多方面からの報告を受け、指示を飛ばしているヴィニアス隊長に声を掛けられて素直に頷きをかえした。
夜明け前の空に散らばる、小さな星を映したかのようなローブの帽子を目深にかぶり直す。
焦げ臭いにおいに顔をしかめながら、時を追うごとに炎の勢いが増していく山火事の様子を眺めた。
奇跡的にあの魔獣が討伐されたとしても、焼け野原になった森はすぐには元には戻ることはないだろう。この炎を一刻も早く消さなければならないのに、消火に割く余裕がどこにもないことに胸が痛んだ。
火を避けて進むなか、春によく吹き荒れる暴風が一帯を襲っていた。
強風に煽られた炎はさらに勢いを増し、あっという間に周囲を燃え盛る炎と煙に囲まれてしまう。
「一時的な避難場所として結界の魔法陣を出しましたが、このままここにいては息が出来なくなります。皆さん、煙を吸い込まないように気をつけてください!」
一度、屋敷の地下室でボヤを出した経験から、煙にまかれる体験をしていたことが役に立つ日が来ようとは。
領主様とお師匠様には怒られたが、なんでも経験はしておくものだ。
飲み水として持参していた水袋から少量の水を出して、水を含ませた布で鼻と口を覆っていると、同行していた騎士達もそれぞれ口元を布で覆っていた。
「アニス殿は魔法陣の中で待機していてください。我々は進路を拓いて参ります」
火がすぐそこまで迫っているなか、重い装備を身につけている彼らの方がよほど動きづらいだろうに、騎士達は率先して結界を出て行った。
「足手まといになって、すみません……」
僕の足がもっと早かったら、ここまで火に囲まれる事もなかっただろう。
現に、隊長が率いて行った人達はとっくにここにはいない。体力のない僕に合わせて、護衛として残ってくれた三人の騎士達が逃げ遅れているのだ。
「どうかお気になさらず。アニス殿の防具のお陰で、火への耐性が格段に上がっておりますからね。これしきの熱さなど気にもなりません」
それは、どういうことだろう。
ローブしか身につけてない僕が熱さで死にそうに苦しんでるのに、重装備をつけて歩くこの人達が熱くないとは。本当に同じ人間なのだろうか……。
少し失礼なことを考えていたが、僕が熱さでぼんやりしているうちに、彼らは本当になんでもない事のように燃え草となりそうな枝葉や下草を刈り取って戻ってきた。
騎士三人の煤で汚れた笑顔がやけに眩しく感じる。
「さぁ、先を急ぎましょう。少しは歩きやすくなったかと」
「あ……」
彼らの方へ向かい感謝の言葉を紡ごうとした時、白煙の漂う藪の中から一匹の小さな魔獣が飛び出して来た。僕が驚いているうちに、三人の騎士達が周りを固めてくれる。
しかし、さらにその後ろから大型の魔獣がものすごい速さで藪から躍り出た。
こちらの気配を察して足を止めた小さな魔獣に向かって大きく開かれたあぎと。目で追うのもやっとという速さで動いた魔獣が、爆兎と呼ばれる小さな魔獣をその大きく開かれた赤い口で一口で呑みこんだ。
一瞬の出来事に、僕は声を上げる事も出来ず、ただ目を見開いていた。