精霊のいたずら
脳を掻き回されるような不快感と、脈動ごとに叩きつけられる激しい頭痛を感じ、意識が朦朧とする。
苦しさに喘ぎ吐き出した声が絶叫となり、抑えきれない魔力の波動が室内に吹き荒れた。
すぐに慌ただしいざわめきが聞こえ、複数の足音が近づいて来る。異変を察知した屋敷の者達が駆けつけて来るのを感じて、過去に引きずられる意識を無理やりに追い払おうと、踠くようにして頭を掴んだ。
自分が今どんな状況に置かれているのか、先程まで何をしていたのか。――――記憶のつながりが上手くいかない。
「お兄様、落ち着いてくださいませ。どうなされたのです」
聞こえてきたティアの声に、激しさを増す頭痛を堪え視線を動かす。
すると、上げた目線の先に腕にちらばる小さな歯型が飛び込んできた。
時が止まったかのような一瞬のあと、昨日のことが鮮明に甦る。
かすかに甘さをふくんだ彼女の肌や血の匂いと共に。
引きはがされる憤りと焦燥。
拘束される屈辱。
他者に心を砕くことへの嫉妬。
自分だけを見てほしいという渇望。
開かれない扉に対する困惑、淋しさ。
自分を邪魔する者への激しい怒りからの癇癪。
ぷつりと肌を噛み破る感触と、口の中に広がる血の味。
――悲しそうに細められた瞳からこぼれる、涙。
――――あ、ず…さ?
……そう、だ。
アズサ。
次第にはっきりとしてきた記憶をかき抱くかのようにして、両手で自分の腕をきつく掴んだ。この記憶を、もう何があっても手放したりなどしたくない、そう思いながら。
狂おしい程の後悔と喜びが入り混じった感情の後には、ここにいないアズサの事だけが疑問に残る。咄嗟に、自分と同じようにベルニアからの干渉を受けたのではないかとの焦燥に苛まれる。
だが、荷造りまでして出掛けた彼女が、何も言わずにどこかへ行くことなど考えにくい。
じっとりと滲む脂汗と、胃の底から込み上げてくるような吐き気をこらえ、ティアに向かって問い質す。
「……どこだ」
「え?」
「……あいつを、どこへ……私から、離すなと……あれほど……」
「――!お兄様、思い出されたのですか!?」
無邪気に嬉しそうな声を上げるティア。
アズサの気配が追えないことに、まったく気付いていない妹の様子に苛立ちがつのる。その思いを俯瞰するかのように、これまであまり感じることのなかった感情が起こることに微かな違和感も感じていた。
記憶を取り戻したばかりで、まだうまく感情が抑制できていないのだろうか。
そう冷静に見つめられる自分がいる一方で、考えることの全てに不安を感じ、焦燥感に逸る気持ちが抑えられないもう一人の自分がいる。
「バル…すぐ……、……ベル…アが……」
視界の中にバルドの姿を認め、少し安堵して口を開いたが、言いたいことを言い終える前に視界が黒く塗りつぶされた。そのまま身体にも力が入らなくなり、ティアの細い腕に倒れ込むと同時に意識が途切れる。
脳が回復に力を注ぐあいだ、記憶を失くしアズサと過ごしていた日々を夢に見た。
不承不承という様子で世話を始めたアズサの表情が、時を追うごとに変化して行く。
作り笑いから、苦笑へ。
呆れたような顔から、微笑みへ。
不安げな表情から、慈愛のこもった笑顔へ。
何でもない事を褒められ、たくさんの愛情を与えられた。些細なことに一喜一憂するアズサの豊かな表情に、次第につられて行く幼い自分。
――だが、最後に見た彼女の表情は、悲しげな泣き顔だった。
切ないような恥ずかしいような。何とも言い難い感情に苛まれていると、最後にアズサのそばにチラつく気に食わない魔力の存在をはっきりと思い出した。
私の記憶を操作した元凶。
アズサに流れる魔力の中に紛れ込んでいる、異物。
そして、涼しい顔で他人から魔力をかすめ取っていた泥棒竜……!
「あんのクソ精霊とクソ竜、ゆるさない、絶対ゆるさないぞ!次に見つけたら……潰す。叩いて捻って握り潰してやる!」
復讐を声高に叫び、目が覚めたことを自覚する。
目覚めたのは、今では見慣れているアズサと自分の部屋だった。ベッドの上で天蓋を見上げた状態のまま、すぐに魔力検知で気に食わない奴らの魔力を探る。
ベルニアの位置に変化がないことを確認して、一先ずそれ以上の干渉はやめた。
重要なのは残るもう一つの方だ。
アズサの魔力は巧妙に隠されているが、隠している本人が行使している魔法には、微かな残滓が落とされることをもう知っている。
――見つけた。
捜していた魔力は国内で見つかった。ティルグニアの南西方面、ドワーフ領のあたりに忌々しい魔力の残滓がある。
腹立たしいことに、あいつがアズサを隠しているおかげであのクソ竜にはまだ気付かれていないようだ。今後、またベルニアが干渉してくる可能性がないとも限らない。
早く追いかけなければという焦りが湧き上がる。
勢いよくベッドから半身を起こすと、小さすぎる自分の手に気付いて、無性に苛立ち眉間に皺を寄せた。
あの日以来、ベルニアに横取りされ続けていた魔力。
気付かぬ間に搾取されていた繋がりが魔力の逆流でうまいこと切れてくれたおかげで、今は魔力回路が正常に戻っている。
深く呼吸をして気持ちを落ち着かせ、成長した自分を思い浮かべ魔法を行使した。今ある魔力の半分を成長に使うよう意識して。
だが、驚くほどの速さで魔力がなくなっていく。自分が思い浮かべていたような身体の大きさにはならないままに、魔法の効果が止まってしまった。
……あまり無駄遣いはできないな。
体内に残る力を量り、まだほとんど魔力が戻っていないことを自覚する。
「バルド、すぐにここを発つ。ついてこい」
もともと厳めしい顔を、更に顰めた表情で床に跪いているバルドに声を掛けると、いつも通りの返事が返ってくる。
それと同時に、アニヤの重い拳骨が脳天へと落ちてきた。
「ぐっ……。何をする、アニヤ……!痛いではないかっ」
同じように拳骨をくらったバルドと共にアニヤを見上げる。病みあがりになんてことを、と声をあげるもアニヤの静かな怒りの表情を見て口を閉ざす。
反論を許さない乳母の雰囲気に、素直に頷いておく。
……この状態のアニヤを下手に刺激すると、あとが長くなるからな。
アニヤを敵に回して、この後ティアに転送を頼めなくなるのも痛い。まだ自分で転移魔法を繰り返すような魔力の余裕はなかった。
半ば強引に身支度を整えられ、見覚えのある古い部屋着に袖を通した後は、ティアの待つ談話室へと呼び出された。
ティアの人形をとった姿に今更ながら微かな喜びが胸に浮かぶが、それを分かち合う間もなく、アニヤ達による談判が始まった。
遅れてやってきたノックスからも散々小言を食らうはめになり、うんざりする。
バルドからも同じことを聞きだしたはずなのに、ベルニアとのやり取りから今ここに至るまでの経緯を詳細に報告させられた。面倒くさい。
ティアは私の報告が終わって他の連中の小言が始まると、『疲れましたわ』と言って盛大な溜め息を吐くと、薄い紗のような光で全身を覆う魔法を使って見せた。
布を取り払うかのように光が消えて行くと、蒼色のベロア生地が張られたソファの上に、見慣れた妹の姿が現れる。
……人前で平然と変化するのもどうかと思うが、なぜ、わざわざ紫電雪豹の姿になる?
何のためらいもなく呪われた姿に戻った妹の様子を面食らいながら眺めていると、ティアの金紫の双眸がこちらへ向き、鋭い視線を送って来た。
妹とはいえ、不躾な視線に不快な思いをさせてしまったのだろうかと内心でうろたえる。
だが、つい妹の姿を目で追ってしまうのは、人の形をとったティアの姿に母上の面影が濃いせいだ。気まずさに視線を泳がせていると、ティアが微かに苦笑したように見えた。
アズサに任せていた間、拳を振るわなかったアニヤの鬼の形相が降臨したのは、知らぬ間にベルニアによって私が魔法を仕掛けられていたと報告した時だ。
この報告にはバルドも驚き、悔しそうな顔を見せた。
アニヤだけでなく、ノックスからも叱責を受けているバルドを眺める。
ふいを突かれたとはいえ自分でも気付かなかったこと、バルドに見抜けというのは無理があるだろう。
頭の上がらない二人からの怒りを一身に受けているバルドを多少不憫に思うが、自分の話が終わった以上、ここで時間を無駄にする必要もない。
アズサの許へ向かおうと腰を浮かしかけたとき、背筋を凍えさせるような声が届いた。
「お兄様、人ごとのようにお話を聞き流していらっしゃるようですわね。……これまでの酷過ぎる言動について、わたくしに何か仰られることはございませんの?」
「…………。」
……忘れてた。母上の竪琴、思いっきり押し倒して壊したんだったな。
昔から感情が激しく動いた時にだけ魔力が爆発的に上昇していた我が妹。
シヤの泉へと赴いたあの日に魔力が解放されてしばらくは、随分と失敗を繰り返していたというのに。この半年でよくここまで完璧に魔力を操作できるようになったものだと喜ばしく思う。
……ヨロコバシイはずなのだが、おかしいな。
この逃げ出したいような恐怖感はなんなのか。
まだ赤子同然になっていた時の感覚が抜けきらないのか、妹の迫力が増しているのか。判断はつかない。
……いや、うん、そんなに毛を逆立てて魔力を放出せずとも、話し合えばわかりあえるはずだ。落ち着け?我が妹よ。
なんとかならないものかといつも通りの微笑みをティアへ向けると、なぜだか室内の魔道具が不具合を起こし点滅を始めた。
「お顔の造詣が整った方の笑顔に騙されてはいけないのだと言うアズサの言葉を、わたくし、今やっと理解致しましたわ」
「……は?」
「もう、誤魔化し笑いなどわたくしには通用致しませんのよ!」
そんなつもりではない、と反論しようとしたが、思い返せばいくつか思い当ることも無くはない。
「……目が泳ぎましたわね。最近わたくし、視線の動きや表情から心の動きを読む勉強をしておりますの。とりあえず、お兄様がまったく反省なさっていらっしゃらない事はわかりましたわ」
「は……?」
執政に当たるのならば、人の顔色を読む勉強をすることは必須だが、今回の件がなぜそんな風に曲解されるのか。しかもその偏見に満ちたアズサの言葉はなんなんだ。
理解が追いつかず周りを見渡せば、アニヤは横を向き肩を震わせ口元を覆っている。
その横と後ろでは感慨深いとでも言いたげに深く頷いている男二人と、気の毒そうな目を向けてくるバルドがいるだけだ。どいつもこいつも役立ちそうにない。
その後、制御しきれずに漏れ出た魔力を揺らめかせ、雷電を迸らせるティアの怒りを心からの謝罪で何とか静まらせたあとでやっと、シャムロックの爺様を探して里を出たというアズサの情報を教えてもらえたのだった。
足元に落ちていた小石を蹴り上げれば、その小石は赤い光を放ったあとで、微かな破砕音を立てはじけるように砕け散った。
さらさらと落ちて行く透明な砂は、土に還り、また命を育むひとつの要素となる。
予定外の寄り道で街道をはずれて進む深い森の中。地面に転がるくすんだ色の石を見つけるたびに、その小石を蹴り上げて行く。
靴先が触れると同時に微量の魔力を送り込んだ小さな魔石は、石自身が持つ魔力と反応して微かな光を灯す。
外部からの要因で魔石そのものが持つ魔力容量の限界を超えると、どんな硬質な魔石も簡単に形を失い、なんの価値もない砂礫へと変わってしまう。
クズ石とされるこの魔石は、比較的魔力の高い動植物たちのなれの果てだ。
生まれ持つ魔力が少ない為、全ての物が魔石化するわけではないが、どんなに小さく質の悪いクズ石でも魔石は魔石。
このまま地面に転がっていてもいつかは大地に吸収されるか魔獣の餌になる。
だが、これに少し魔力を込めて増幅させてやると、破裂する瞬間に魔力が倍増して還元されるため、見つけるたびに蹴っておくのが習慣となっていた。
……子どもの頃の習慣というのは、一度思い出すと身体が勝手に動いてしまうものらしい。
「このあたりはクズ石が多いですね」
「お前んとこの鍛冶連中がオモチャの試用実験でもしたんだろ」
「……ありえますね。以前はもっと里に近い場所でやっていたと思うのですが」
大方、迷惑な実験を続けているうちに、里の近くに生き物が寄りつかなくなったのだろう。
そのおかげか、余所に比べてこの周辺から上がって来る魔獣被害の報告は少ない。
だが、その代わりに質の良い魔鉱石が採れなくなってきているからどうにかしろ、とドワーフの長からはた迷惑な陳情が上がって来る。
作った武器を実験でバカみたいに振るったり、魔坑を広げ採取するばかりで自分たちが減らしている資源を大地へ還元していないのだから自業自得だろうと言えば、バルドが豪快に笑った。
「里の連中は、いい素材を見つければ一目散に鍛冶場へ走り、いい道具を造ればすぐに出来を確かめなければ気が済まない。先人が造った物を越えるべく、目的の素材を手に入れるためならどこへでも行くし、地下を渡り歩いて他国の鉱山にも平気で潜ってしまうような者ばかりですから」
ドワーフの若手筆頭のくせに、反省の色が全く無い。
昔、その種族性の為に外交問題にまで発展した罪歴を持つ現ドワーフの長は、先代の王にとある条件を突き付けられて一悶着起こしている。今となっては笑い話にもならんような話だが、そんな問題をしょっちゅう起こされてはこっちが迷惑だ。
父上は、長の奥方が話の分かる御仁だったことが唯一の救いだったと言っていた。だが、あの奥方がそもそもの発端だったとはもう知る由もなく逝ってしまわれた。お人好しな面が強かった父上のこと、その方が幸せだったと私も思う。
背後にぴたりとついて来るバルドを供に、今歩いている場所は王都から南南西に下ったティルグニアの辺境地。
世界中央に位置する賢竜の領地やフィフニア王国との国境にも近いこの土地には、バルドの祖父母や親戚の住まうドワーフ領がある。
昨日の夕暮れ前に里を出て急ぎ進んでいたところ、ここではあまり見かけない魔獣が出たと思ったら、口の達者な人間の子どもだった。
危うく剣を振り抜きそうになったバルドを風を使って吹き飛ばしたのは、あの半獣の子どものせいであって私のせいではない。なのに、新調したばかりの鎧が壊れたから、時間が出来たら素材を取りに行く約束をさせられている。
気に入った物に対する執着が激しいところがバルドの面倒くさいところである。
……理不尽だ。
包帯でぐるぐる巻きになっているチビにどうしても着いてきてくれ、と泣きつかれた時には、熱心に”どうとく”とかいう話をしていたアズサの顔が浮かび、無下にもできず仕方なく様子を見てやることにした。
アズサの言うことが一番だった幼心の私には、ノックスの言う小を捨てて大を取るなんて帝王学は悪だった。
元に戻った今の私にはそんな潔癖さなど残っていないが、アズサとすごした半年ほどの記憶に今の言動が引っ張られてしまう自分がいる。
受け入れがたい事に、感情面ではまだ取り乱すこともあるし、自分の取りたいと思う行動に多少の不満はあるのだが、後悔はない。
まぁ、それで仕方なく見に行ったら余分な魔力を使わされたあげく、全て治してやったというのに、エルフの方がいつになっても目を覚まさないものだから、今度はチビの方が眠ってしまい無防備な奴らを放置できずにあそこで野宿する羽目になったのには、流石に怒りが込み上げた。
アズサの倫理観は、彼女の国では常識だったんだろう。この世界でもその価値観が否定される事は無い。
だが、よほど恵まれた環境の中で育ってきたのだろうということが、彼女の言動からもわかる。金はもちろんのこと、食うのにも、寝る場所にも困ったことなどないのだと察することが出来た。
そういう意味では私もティアもそう変わらない。
しかし、そこでアズサが世間知らずで、世の中の汚い部分や暗い部分を知らないのかと言えばそうではなかった。どこまで社会の裏の部分を知っているのかなど聞いた訳ではないが、彼女には清濁を合わせ呑む器量がある。
綺麗事だけではない、アズサのそういった部分や人懐っこさが下町の連中にも受け入れられる根柢のところでもあるのだろう。
明け方近くになってやっと目覚めたトーチャと話し、健康状態も確認し旅に必要そうな最低限のことはしてやって早々に別れている。
だが、いまだ私は目的地に到着していない。
目指しているのはドワーフ領との境、山を下った先にあるザナス領を治める男爵家の屋敷である。
元ザナス男爵家の三女、サイファ・オルゴン。
以前、ベルベントス夫人と共に茶会へ参加していた女性は、今は西軍で騎士を務めているオルゴンの妻だ。アズサの許へ相談に来たオルゴン夫人とその赤子の事を、彼女がずっと気に掛けていたのは知っていた。
今回、素材探しに出たシャムロックの爺様を追いかけているはずのアズサが、正反対の場所で目撃されたと報告があがっても、その場所自体にはそれほどの驚きはなかった。
アズサの行動に大体見当がつくようになっているのも、これまでのたゆまぬ観察の成果だと言えよう。
「この先にドワーフ領最後の村があります。そこで馬の手配をしましょう」
「ふん、上手く馬が手に入ればいいがな」
「そうですね。もし馬が手に入らなければ一晩宿をとる方がよろしいかも知れません」
「その辺りの采配は任せる。さすがにこの身体では一晩中歩くのは無理そうだ」
短い手足を振って見せれば、バルドが何か言いたげな様子を見せていたが、結局何も言わずに村を目指して歩き続けた。
世界の中央に位置する大地は、創世の竜が治める地。
峻岳に囲まれたその領地を守るように存在する四つの国。
この世界に広がる大地には、それぞれ国の礎となる竜が眠っている。そして、そのうちの一頭である黒竜はここティルグニアの礎にはもう存在しない。
だが、世界中央から地中深くを流れる竜脈は、竜の有無にかかわらず、そのままの形で残されていた。
根を張るかのごとく地下に広がっているのは、竜脈と呼ばれる目には見えない管。そこに魔力が流れることでこの世界の大地は安定を保っている。
竜脈を流れるうちに分解されていく魔力は、様々な形をとり、やがて魔素となってまた地上へと表出する。
その魔素から生まれた瘴気を精霊が摂り込むことで魔力が生まれ、それがまた大地へと還っていく。
その循環の仕組みが、この世界の理。
精霊のいなくなった大地を安定させるためには、精霊の代わりに大地へ魔力を送り込むことが必要だった。その真実にようやく辿りつき、各国で大地への魔力奉納が行われるようになったのは、母上が身罷られたあの年のこと。
あえて確認するような事でもないが、今現在この瞬間にもこの大地の下に巡っている魔力は、私が昨年奉納の儀式で献上したものである。
そう、他の誰でもない私が、私の魔力を大地へ分けてやった。
なのに、だ!
また、林の奥から霧が流れてきたのを見て、悪態が口を衝いて出るのを我慢できない。
「くっそ、私の魔力でこんなにぴんぴん元気でいられるのだから、嫌がらせばかりしてないで、少しはこっちの役に立ったらどうなんだ!」
木々の隙間を縫うように広がって来る白い靄。それに気付いたバルドも、歩く速度を上げた私に合わせて少し歩幅を広くしてついて来た。
「森に文句を言ってもどうにもならないでしょう。落ち着いてください」
斜め後ろからバルドの呆れたような声が返るが、その間にも徐々に濃霧が森の中を侵食して行く。こちらを追いかけて来るかのように音もなく忍び寄ってくる霧に、苛立ちが増す。
一度苛立つと、何もかもが苛々してくるのだからおかしなものだ。口を開けば、心のうちに溜め込んでいた鬱憤がだだ漏れて行く。
「これが落ち着いていられるか!そもそも、こんなことになってるのは全部アズサのせいだ!こちらに連絡もいれず、勝手にドワーフの里から一人でほいほい出掛けたと思ったら、シャムロックの爺様がいる所とは反対方向で目撃情報が上がったんだぞ?ちょっと寄り道~、とか言って鼻歌まじりに出かけた先で、いらぬ苦労をしているとしか思えないのは私だけか!?」
「ははは、……主はアズサ殿の生態について、かなり詳しくなられているようですな。僭越ながら、私もそのように思えます」
シヤの泉に辿りつくまでの騎士からの報告で、似たようなことを聞いていたのだろう。アズサをなぜか過大評価しているバルドにも反論は出来ないようだ。
もはや駆け足といってもいい速さで移動していたが、段々と見通しが悪くなっている。
私が森へ向けて文句をつけているのは、気が違ったわけでも、闇雲に八つ当たりをしているわけでもない。この辺り一帯にいる精霊や動物達が、明らかに、アズサの後を追うこちらを邪魔しているのを感じるのだ。
今のように目眩ましに霧を発生させたり、突然大雨を降らせたり、いつの間にか川が出来ていて回り道をせざるおえない状況になるとか、嫌がらせにも程がある。
時にはこの時期にはいないはずの虫が大量発生していたり、冬眠とは関係なく眠りについていたはずの動物たちまでが列をなして前を横切ったり、私の行く先々で鳥が糞を落としてきたり……!
……悪意しか感じないだろ!!
「あんのクソ精霊が何か悪知恵を働かせているんだろうが、その悪知恵に乗る方も乗る方だ!この際言っておくが、お前らが暢気にしていられるのは私のお陰なんだぞ!?私の助けになるどころか、行く先を阻むなんてどういう了見なんだ!」
濃霧に包まれて行く森に向かって大声を張り上げるが、それに応答があるわけではない。ただ、楽しくて仕方ない、とでもいうような生き物たちの気配を感じるだけだ。
「バカにしやがってぇぇぇぇっ!」
悔しくて足元のクズ魔石をがんがん壊していると、バルドがハンカチを差し出して来る。
……泣いてなんかないっ。ちょっと目が霞んだだけだ!
「精霊のいたずらにも困ったものですね。少し、霧が晴れるのを待ちましょう。視界が完全に閉ざされた状態で進めば、方向を見失います」
周りを振り返った時にはもう、手の届く範囲以外の物は霧に包まれ見えなくなっていた。
「本当に落ち着いてください。悪意をもって精霊を動かすことなどできぬのはご承知でしょう?精霊も、そして、もし大地が何がしかの力を働かせていたとしても、あれらは純粋な思いに沿うのだと教えられました。鉱山で働く者達の導は大地そのものですからね」
これが悪意ではないとすれば、何なのか。私には理解できない。差し出された物を突き返そうとしたが、ふわりと漂う温かな感覚に、思わず手が伸びた。
「……なんだ、このハンカチ。アズサの刺繍が入ってるじゃないか。私はこんなのもらってない」
まじまじと見てバルドの差し出してきたハンカチを広げると、アズサのよく刺している魔除けの刺繍とは少し形の違う模様が目に入る。
六つの角がある籠目模様とは違い、これは角が五つだ。
「これは迷子用のお守りだと言っていましたね。元の場所にちゃんと戻って来られるようにと、よく山で行方不明になるウカの服に刺されていた模様だと記憶しております」
「……迷子用の加護が必要なのは、自分じゃないのかと突っ込みたくなるな」
いつだってふらふら、ふらふらと下町や山を行ったり来たりして一番危なっかしいのはアズサだと思う。
私が目を離せないのもそのせいだ。屋敷で大人しくしてくれていれば安心できるものを……。
しかしどうやら、そう思っていたのは私だけではなかったらしい。
「ええ、ですから、今回の旅立ちに際しまして子どもらからアズサ殿にこの刺繍を自分の衣装に施すよう諭されていたのですよ。それで、簡単だからといくつかハンカチにも刺繍して懇意にしている北軍騎士団へいただけたのです」
「お前は、北軍所属じゃないだろう」
自分が持っていない模様のハンカチを一瞥した後、バルドを半眼で見あげた。
「……差し上げませんよ?」
「…………。」
どうやら、春の異動任務に赴いた後で無事に帰って来られるようにという加護が籠められているらしい。
……うらやましい。
「大事なものなら、他人になど貸すな!……っふぐっ」
自分で言った言葉が、胸に突き刺さる。
……あいつら、本当に返さなかったら地の底までも追いかけて行ってやるからな。
記憶が戻ったあの日、ティアがドワーフの里を訪れアズサの安否を確認したそうだが、里長との大事な予定があるため、居場所は教えられないと門前払いを食らわされたらしい。
仕方なく、アズサが戻ったら連絡を入れて欲しいとの旨を口頭で残したものの、そのまま連絡が来ることはなかったのだと、ティアは憤慨していた。
次にアニヤがドワーフの里と連絡をとった時には、すでにアズサは里を出た後。
王都を出発する時に、アズサの行方が分からなくなった段階で国中のギルドに探し人を依頼しているとティアからは報告をうけている。
各地にいる商人ギルドの連中からアズサの風体に似通った目撃情報がもたらされたのは、ドワーフ領から程近い場所にある件の男爵領の町だった。
その方向へ進むたび、こうして邪魔が入る。
目当ての人物と一匹はこの方向にいると分かってはいるが気に食わない。
どうやっているのかは判らないが、ドワーフの里で魔力の残滓を確認したあとから、あのクソ精霊が魔法を使った痕跡が見つけられないのだ。アズサの魔力を隠したまま、見た目には分からない何かで魔法を行使しているのだろうとは思う。
……本当に悪知恵の働く奴だ!
「ここでは濡れてしまいます。少し戻った辺りの木陰でやり過ごしましょう」
辺りは乳白色の霧に包まれ、一歩先も見えない。隣に立つバルドの姿でさえも半身が霞んでいる。肌をなでるように移動して行く濃霧の湿気により、身につけた衣服の重さが増していた。