穢れた世界
薄暗闇の中、広い回廊に響く靴音。
前を行く女の銀髪は、闇のなかであっても淡い光を放っている。
後をついて歩けば、この場の澱んだような空気の中にある焦げ臭さや獣臭、きつい腐臭が鼻につく。微かだが、硫黄の臭いも感じられた。
生温い風を通す窓に目をやれば、瀟洒な窓枠はどれも破壊され、硝子が散乱している。
回廊に立つ規則的な柱影の先、廊下の隅に転がっている黒い塊が何なのか、気にしたところで既に息がないのは触れずともわかった。
「……動物に食い荒らされているのか。いつから放置してるんだ?」
問いかけをするも、前を行く女からの返事はない。
――微かに、嗤ったような気配があっただけ。
『生きることに飽いているのならば、我と共にこないか?そなたの望み、叶うやもしれんぞ』
――そんな言葉で自分に声を掛けてきたのは、銀に朱をのせた髪色の妖艶な女だった。
身にまとう衣服は心もとない薄布で、腰帯やアクセサリーに使われている金細工がシャラシャラと微かな音を立てていた。
一目見て、TPOもわきまえずコスプレ姿で歩き回るおかしな奴だと思った。
職場の屋上で一服していたところに突然現れた女の言葉など無視すればいい。だが、外聞が悪かった。周囲を見渡してそっと溜め息を落とし、電子煙草をケースに戻す。
「何かご用でしょうか。失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
つくり笑いを浮かべ、愛想を振りまく。
いつものことだ。たとえ疲れていようが、機嫌が悪かろうが、それを表に出すことは許されない。自分の感情を優先すれば、すべてが破綻するのだ。
わずかな信用など、一瞬の不快感で不信に変わる。
表面だけ取り繕っておけば、作った仮面の裏で何を考えているのかなど他人にわかりはしない。目を細め、口角を上げるだけで人は笑っていると勘違いしてくれる。
それでいい。それが世渡りだろう。
このおかしな女に言ってやろうか。俺は飽きているのではない、絶望しているのだと。全てを破壊したくて仕方がないのだと。……その時、周りにいる連中は何を思うのか。
――くだらない。今更俺が何をしようとも、世界は何も変わりはしない。この社会を破壊する、実際はそんな度胸も持ち合わせちゃいない。ちっぽけな俺にはちっぽけなことしか出来ない。出来ることよりも、自分の手からこぼれ落ちるものの方が遥かに多いなんてわかってる。
だから、今こうしてぐずぐずと泥に埋まり、足元から腐るように生きているのだ。
俺は自分の願いが叶う時など永遠に訪れはしない事を知っている。自分でそれを手放したのだから。
『――ふっ、おもしろいな。では、こうしよう。そなたの思うような世界を与えようではないか。我から望むことはたった一つ。その一つを犯さなければ、あとはそなたの思うがままだ。やりたいことをやりたいように、人目を気にする事も、利害を気にする事もなく為したいことを成せばいい。……ただ哀しいことに、穢れている世界だがな』
地上から上がってきたビル風に煽られ、前ボタンを留めていない白衣が音をたてて翻る。周囲からも突然の突風に騒ぐ声が聞こえた。だが、目の前に立つ女の衣装はなんの動きも見せていない。
うっすらと嗤う女の姿が薄気味悪くなり、この場を離れようと腰を上げる。
「すみません、やはり人違いではないでしょうか。よろしければ総合受付までご案内しますよ。今日、ご家族はご一緒ですか?」
『あまり悠長にしている暇はないのだ。この力にも限界がある。さぁ、そなたが持って行きたいと思う物、大切なものや思い入れのある場所を思い浮かべろ。そなたへの特別手当だ。すべて一緒に運んでやる』
「……今、専門の者を呼びます。少し待って…」
女に言われた言葉に反応した訳でもないのに、ふっと自宅や研究室、ロッカーなどの記憶が引きずり出されるように脳裏を巡った。
一瞬、くらりと眩暈を感じてベンチから上げかけていた腰が地面に落ちる。
陽が翳り、暗闇に閉ざされたと感じた瞬間、鼻をつく異臭に眉根を寄せた。嗅いだ事のある臭い。だが、その時よりもずっと、きつい臭いだった。
暗闇の中でも、女との距離感は変わっていない。
起き上がろうとして地面に触れた手に違和感を覚えた。探るように床を擦り視線を落とすと、手をついている床がざらりとしたコンクリートから、冷たくつるりとした感触に変わっていることに気付く。まるで、磨き上げられた大理石のような感触。
「……なんだ?……ここはどこだ」
暗さに目が慣れて来ると、自分のいる場所が建物の中だとわかった。
太い柱が左右対称に並び、中央には大きな通路。外は夜にでもなったかのように暗く、それよりも暗いこの場所には窓からわずかな光源が差しこんでいた。
すぐに、額や首筋にじっとりとした汗が浮かんでくる。
時折動く生温かい風は、不快さを増すだけで涼しさなど感じさせない。
視線を巡らせていると女の後方に鈍く光る物を見つけ、視線を向ける。女はこちらの問いかけに応えないまま、その鈍い光の方へ歩き出していた。
「ついてこい」
先程までの膜がかかったようなものではない、鮮明な女の声が耳に届く。
そのまま通路の奥にある台座へと向かった女は、その一歩手前で足を止めた。振り返った女が馬鹿にしたような、呆れたような顔をしてこちらを見ている。
「いつまで腰を抜かしておる。はよう参れ」
立ちあがろうにも、手にも足にも力が入らない。ぞわぞわとした感覚が全身を襲い、微かに手足が震えていた。
だが、女が手を上げた次の瞬間、突然身体が軽くなり知らぬ間に立ちあがっていた。自分にはまったくその意思が無いのに、勝手に足が前へ進んで行く。
……なんだ、これは。どうなってる!?
こちらの戸惑いなど気にした様子もなく背後の黒い塊に視線を移した女は、温度を感じさせない目でそれを見ていた。
「これは愚かな王だったもの。これからは、この城もこの国もすべてお前の物だ。好きにするがいい、それを成す力も貸そう。我の望みを妨げる行い以外はすべてがそなたの望むままだ」
冷たさを感じさせる横顔がこちらを向くと、女の目には微かな笑みが浮かべられていた。
「さぁ、そなたの持つ知識と発想で、我の憂いを払え。我が望むはただ一つ。この地にこれ以上の穢れを出さぬこと。死の穢れなどもうこれ以上一つとして許さない。すぐにどうにかせねば、この地を皮切りに世界が崩壊してしまうのだ。……そんなことになっては、かかさまに申し訳がたたぬからの」
薄く笑う女の口から出た言葉は、莫迦莫迦しい幻想だった。
そんなことなどありえない、空想の産物だ。それが可能ならば、俺は今こうして苦しんでなどいなかっただろう。
ふと、子どもの頃に遊んだ光景が甦った。
それとともに、その遊びのルールが引き出されて行く。
……まただ、また勝手に記憶が頭をよぎる。
頭の中をかき混ぜられているような不快感と、脳を揺さぶられたかのような吐き気に襲われる。勝手に行われる記憶の回想に気が遠くなった頃、女の声が聞こえた。
「……呆れた。そなたの世界ではそのように愚かな事を考える者がおるのか。しかし、見目が悪いにも程があるであろうに。……だが、そうだな、それでもまぁ出来なくはない。少し、改変する必要はあるか……。随分な魔力が必要とされるだろうが、まぁ、当てはある。しかし、契約だけはあの場所でないと無理だろうな。汚らわしいが、仕方ないの」
女は一瞬、遠くを見つめるような視線を窓の向こうへ向かって送り、次いで、目を細め回廊の奥を静かに見た。
俺にとって、女の言っていることは意味がわからないものでしかない。
だが、わからないはずなのに、先程頭をよぎって行った記憶の話をしているのだと、そう感じている自分がいた。
現実でアレが再現されるとなれば、見目が悪いどころの騒ぎじゃない。そもそもが実現不可能なこと。この女の望みなど、叶うはずもない話だった。
女の向こう、正面にある豪華な椅子には黒い塊があった。
その上部には朱色の宝石がついた白銀に輝く冠がななめに被されている。女は先程、コレを王だと言った。だとすれば、これは人のなれの果てであり、この場所は玉座なのか。
焦げて煤けた玉座は、焼ける前の面影など残ってはいない。
そこに寄り掛かるようにして傾いている黒い塊は、風が吹くたびにほろほろと灰になって削られていた。
焼け焦げて消炭となった黒い塊が崩れて行くのを、ぼんやり見ていると女がまた歩き出す。今度はこちらについてこいとは言わずに。
気付けば、手足はもう自由に動くようになっていた。
一瞬どうするか考え、何も言わず、女の後をついて行くことにする。
進むほどに闇が濃さを増す、回廊のその奥へ。
故郷の空を覆う黒雲は、もう長いこと太陽からの光を遮っていた。
雨は洪水を呼び、多すぎる雨に困らされたかと思えば日照りが続く。その繰り返しで田畑の作物は育たず、常に青々とした葉をつけていた山の木々でさえも枯れた姿を晒すようになった。
異変を感じるようになったのは昨年の夏前だったか。
幸いなことに瘴気を受けて土の中で眠りについている動物を探せば、多くの者は空腹を凌げた。ただしそれを得るためには、深い森の中で狂化した魔獣と出くわす危険性と隣り合わせになる。
希望の薄い日々を、それでもなんとか生きていた。
――弱者だと思っていた者達から、突然の襲撃を受けるまでは。
「トーちゃん……!トーちゃん!!……待ってて、いま助けを呼んで来るから。……っ……えっ……グスッ。……すぐ、連れて来るから」
土地勘のない森の中、人里を探していた俺達は双頭狐に襲われた。
相手は魔獣とはいえ、まだ比較的小さい個体。なんとか帰り討ちには出来たものの、奴の牙から受けた毒の効果が焼けるような痛みをもたらし、後には麻痺が侵食してきた。
なんとか安全な場所へ向かおうとするも、とうとう力尽きた俺は大木に寄りかかり動けなくなっていた。
傍らで泣きじゃくっていたニールが、立ち上がったのが気配で感じられる。
「………―――…」
行くな、と言おうとしたが、その言葉が音となって出る事はなかった。喉元まで上がってきた麻痺が呼吸を阻害している。
ぼやける視界の中で、走り去って行くニールの足音だけが耳に届いたのを最後に、意識を失った。
ギルドに登録して日銭を稼ぐ日々を送っていた俺は、その日もいくつかの討伐依頼と魔石の採取を目的にフェイアの森へ足を運ぶことに決めていた。
大物の魔獣討伐には団体を組むこともあるが、基本的に俺は一人で動くことが多い。面倒なしがらみを気にせず自由気ままに生きるのは楽だった。
「トーチャ!あんた、また魔獣討伐依頼だけ受けたんだって?たまには俺達が受けてる賊討伐にも参加したらどうだ」
何日か分の食料を詰めた荷を背負い、宿屋の扉を開けて出て行こうとした俺に話しかけてきたのは、同じギルドに所属しているディタだ。若くて血気盛んなこいつは俺がすることが気に入らないらしく、よくこうやって絡まれる。
「集団行動は苦手なんだ。やるべきことはやってる。文句を言われる筋合いはないな」
「あっ、待てよ!」
ギルドから時々招集を受ける大物討伐や災害時にある救援作業などの依頼は、基本的に断ることが許されない。世界中を巡り歩く冒険者達が国に税金を払わないことの代償に課せられている義務だからだ。
ディタが俺の後を追って一緒に外までついてくるが、気にせず町の入口へと歩いた。
「……最近、またフェイアの森に近隣の人族が出入りしてるらしいんだ。トーチャには引き続きそっちを気に掛けて欲しいって、長から言付かってる」
振り返らずに片手を少しあげて了承の意を示すと、ディタはそれ以上追いかけて来なかった。
今思えば、この時ディタの指摘で賊討伐の依頼に参加していれば、あんな面倒なことに巻き込まれる事も無かったのだ。
中央の領土にかかる大森林、フェイアの森の浅いところで獲物を見つけた俺は12匹の一角ネズミを討伐し、素材の回収と肉の解体をしていた。
黙々と作業をこなす中、その声は聞こえてきた。
『…ァ――…、アァ――…』
「……幼獣か?」
子育て中の獣は気が荒い。不用意に近づかないようその場を離れようとした時、頭丈まである草むらに獣が走る音と動きがあった。
解体のため手にしていた両刃の短剣を拭って腰鞘に戻し、背負っていた剣を構えて魔獣の襲撃に備える。
森のざわめきだけが聞こえる静寂の中、目の前の草むらからはとんでもない大物が姿を現した。
草を分けて地面を踏みつけるのは漆黒の毛皮。その野太い丸太の様な腕がひとたび人を襲えば、首の骨など簡単に持って行かれる。
「なんで、こんな所にお前がいるんだよ……」
舌打ちしたい気持ちで膝を曲げ、腰を落とし身構える。
目の前に現れたのは討伐難易度上位にいる緋ノ羽熊だった。
こいつは正確には魔獣ではないが、他所の土地で遭遇すれば命はないと言われる部類の獣だ。だが、このフェイアの森で、俺がこいつと遭遇するのは初めてのこと。
緋ノ羽熊の赤い瞳にじっと視線を固定され、緊張が走る。相手が口に咥えているものに気付いてはいるが、自分自身の安全さえ危うい状況では為すすべもない。
……人の子か?もうすでに、誰かが襲われていたんだな。
上半身を熊の口に咥えられているためよく見えないが、何も身につけていない下半身は確かに人のそれだった。視線だけで確認していると、先程聞こえた泣き声がまた聞こえてくる。
くぐもった力ない声は、熊の方から聞こえた。
「……まだ、生きてやがるのか。捕まえた獲物を俺に見せつけて、お前は何がしたいんだ」
苛立ちまぎれにそう呟けば、熊はふいと頭を下げ、口に咥えていた子どもを地面に置いた。子どもの頭部をひとなめしたそいつは、後ろを向くとそのまま振り返ることなく繁みの向こうへ去って行く。
何が起きているのかわからず、茫然と俺よりも遥かに上背のある緋ノ羽熊の後ろ姿を見送る。
周囲から熊の気配がなくなると、それまで息を潜めたかのように静かに感じていた森の喧騒が耳に届いた。
「あぁ…ぅ、……あぁ――ん……、ぁ――…」
弱々しい泣き声を上げる子どもだが、横たえられた身体を動かすことはない。
周囲の安全を確認した後、地面に転がっている子どもへ慎重に近づいて行った。
「……これは、酷いな」
思った通り人族の子で間違いない。だがそれは、上半身を灰茶の毛で覆われた獣雑じりの子どもだった。
子どもの身体を仰向けにさせると、顔面も胸から頭部に至るまでのすべてが獣状態であることがわかる。目ヤニで固く閉じた瞼は開かないようだ。ただ鼻先を動かし、周囲の臭いを嗅いでいる。眉間に皺を寄せて泣くその表情は人のそれに近いが、その姿は、先程見た緋ノ羽熊と酷似したものだった。
「人に捨てられたこいつを、あの熊が拾った……?莫迦な、獣だぞ!?」
自分の思いつきを自分で否定する。それでも、あの緋ノ羽熊がこの子どもを喰わずにここへ置いて行った事は間違いない。
「熱い……」
子どもの身体は熱を持っていた。半身がむき出しになっている肌には無数の発疹が確認できる。何かの病だということが見て取れた。
「……まさか、あの熊、俺にこいつを助けろって?冗談じゃねぇ。人の子なんぞ知ったことか」
このままここへ置いておけば、そのうちに別の獣がやってきてこの子どもは淘汰される。病もちの獲物を喰う愚かな獣がいなければ、このままここで死を迎えるだけのこと。
踵を返し、作業中だった一角ネズミの方へ足を向ける。
すると、解体場のすぐ向こうの繁みの中で、黒い獣が座ってこちらを見ていた。一瞬の緊張に身が強張るが、すぐにそれが先程の緋ノ羽熊ではなくその幼獣だと気付く。
毛色が先程の獣雑じりよりも少し濃いようだが、瓜二つの顔だ。
「あの母熊の仔か……?だが、こいつだけってことは……そうか……」
緋ノ羽熊は一度の出産で二頭の仔を産む。しかし、ここに一頭しか見当たらないところを見ると、何かがあってもう一頭を亡くしたのだろう。
「……運のいいガキだな」
仔が一頭抜けた穴にあの母熊が人族の子を受け入れたなど、本来ならばありえない。
だが、現実として今目の前にいる仔熊はじっと俺の後ろを心配気に見ているようだった。気配を追うように周囲を警戒してみると、やはり、先程去って行った母熊もまだ遠くへは行っていないことがわかる。
「ちっ、俺があのガキを引き取るまで見てるつもりかよ!?」
背負っていた荷を下ろし、比較的きれいだと思われる大きめの布を取り出した。振り返り、乱暴とも思える勢いで子どもの身体を布でぐるぐる巻きにした後、解体途中だった肉を手に取り作業をざっと終わらせる。
全ての荷物を片付けた頃には、繁みの端にいた仔熊は姿を消し、母熊の気配ももう分からなくなっていた。
「……まだ生きてる、か」
布に包まれた子どもは声を上げることをやめ、眠りについたようだった。だが、その呼吸は浅く、熱を孕んでいる。
「宿屋のおばちゃんになんて言われるか。……追い出されたら、お前のせいだからな」
町に一軒しかない宿屋から追い出されるなど、冗談では済まされない。
一人ならまだしも、こんな病気持ちの獣雑じりの子どもを抱え、次の街へ移動するなど考えたくもなかった。
子どもをロープで自分の身体に括りつけ、全ての荷を背負い歩き出す。しばらく進んだ後、フェイアの森を振り返り大声で叫んでおくことにした。
「拾うまではしてやるが、このあとこいつが死んでも俺を怨むんじゃねぇぞ!森のヌシの願いだとしても、俺は癒しの力なんぞ持ってねぇんだからな!?」
森の傍から張り上げた声は、あの母熊のもとまで届いただろうか。
そもそも言葉を理解できるはずもない存在に悪態をつきながら、予定よりも大分早い帰路についた。
子どもを町に連れ帰ると、予想を覆す歓迎っぷりで獣雑じりの子どもは迎えられた。
フェイアの森の賢者と呼ばれる緋ノ羽熊から託された子どもが、たとえ人族の捨てた獣雑じりだったとしても、町の人々は受け入れたのだ。
さらに古い言葉で”賢い男”であるという意味のニールという名まで与え、同族の子どもと同じように育てられることになった。
その後見人に俺が指名された事は未だ納得のいかない話であるが。
だが、平穏な日々はそう長くは続かなかった。
干ばつが起こったと思えば、大量の雨が降り注ぐ。木が枯れて土肌のもろくなった大地や地割れを起こしていた場所では頻繁に地滑りが起こり、洪水によって村や町がのみ込まれたところも少なくない。
干ばつと洪水を交互に繰り返し、不作続きのあげく病気まで流行り出す始末。俺達が住むこの辺境地でも小さな地震が頻繁に起こり、煙を立ち昇らせる山が増えていた。
「あっ、やっぱりここにあった!トーちゃん、ハチミツあったよ~!」
「俺はトーちゃんじゃねぇ!トーチャだ!!」
何度言っても直らない俺の呼び名は、町人達にまでからかわれることが多くなり、このやり取りも何度目になるか忘れた。
近頃は生き物の生態系が少しずつ変化していて、巣作りの場所も変わっていたりと食糧を確保することが難しくなっている。
今まで、このあたりに生息するミツバチは地面の中に巣を作るものが多かったが、近頃じゃ地面に巣を作る生き物が減っている。環境に合わせて生きるのに必死なのは俺達だけではないようだ。
「お前、半身は生身なんだからあまり近づきすぎんなよ……って、おい!」
言ったそばから木のうろに自分の熊手を突っ込んで巣蜜に手を伸ばしたニール。
彼の胸から上は灰色の毛に覆われた熊の外見で、胸から下は人間と同じものだ。硬い毛に覆われた場所は保護されるが、腹部から下はそうではない。
「だいじょうぶだよ。このくらい。オレたちよくハチミツとって食べてたもん」
俺が拾った当初、こいつはまだ3歳ほどでしかなく意味をなす言葉も話せなかった。
だが、こちらの言うことをじっと聞いているようなそぶりがあり、元気になってすぐに大まかな意思の疎通が出来たのは驚きだった。
言葉を覚えた後でこいつから聞いた話では、あの母熊の言いたい事も大まかに感じられていたらしい。
流石は森の賢者の息子だと、その身に得た能力を大切にしろと言われながらニールは育った。
名付けられたその名の意味を体現するように、あっという間に言葉を覚えて行ったこいつは今じゃ俺よりも勘がするどく、物ごとをよく考え、見ていた。
「やっぱり、雨がおおいときは背の高い木のあなにすを作ってるんだね。雨ですが流されないためなのかなぁ。あんまり活動してる動物もいないから、敵になる奴なんてオレ達くらいだからすぐに見つかる場所に作っちゃったのかも。あ、ここのハチミツも少しのこしといてね。ハチだって冬ごしのためにエサがなくちゃかわいそうだもん」
昆虫の中にも、比較的瘴気に強い種のやつもいる。瘴気を吸って穢れた花から魔素を取り込み、体内で魔力の濃縮された蜜の練成をするのだ。
この地域にしか生息しない魔食い蜂は貴重な素材を生み出す存在だった。
ニールは熊手で器用に巨大な巣蜜を3分の2ほど収穫すると採取箱へ入れ、手についた残りの蜜を嬉しそうになめている。
食糧不足の今では、手に入れた食材は町のみんなで分けるのが当たり前になっていた。魔石や素材は個人の物だが、食料は老人や病人、子を抱える者などにも行きわたるよう町のギルドが調整している。
甘味はもちろん、果物だって手に入りにくい近頃では、このハチミツは町民たちにも大層喜ばれるはずだ。
中央の領土を背にした俺達の領地は、希少な獣や魔獣が姿を現すことで有名だった。それを目当てに集まる他種族の冒険者も多い。
面倒なことに、そいつらを狙って横からかすめ取ろうとする盗賊や、奴隷売買目的の人攫いも現れるのが常だった。
人目を避けるような後ろ暗い奴らは、こうした山奥を通る。ついでとばかりに攫われる俺達種族の被害者も少なからずいた。それがここ何年も起こるものだから、警戒を強めているところだった。
ギルドを通しての討伐依頼がここ何件も増えているのは、おんな子どもを乗せた人攫いの馬車を見かけたら討伐し、攫われた者達を返還してほしいというものが多くなっていたからだ。
ここに限らず、他国で攫われる者の多くが人族ではないという。世情を考えれば犯人となる種族は明白だったが、異種族の婚姻が少なからずある現状、種族という枠組みだけで犯人を特定することは難しい。
闇は、世界中に広がりを見せている。
奴隷商やそれと手を組んだ盗賊は、討伐してもひっきりなしに現れる。潰しても潰しても湧いてくる虫のようなものだ。
俺は自領の者達を守ることには力を貸すが、きりのない賊の討伐依頼は無視している。
ディタのような奴らは熱心に仕事をこなして何人もの被害者を救出しているが、それもひいては自分達のためだと考えているようだ。自分達が誠意を見せれば、相手も同じだけの誠意を返してくれるだなどと夢見がちなことを考えているらしい。
そんはずないのに。
現に俺によく懐いていた子ども達も未だに帰ってはこないのだから。
――こんな毎日が続いたのも、王都での話が耳に届くまでの事だった。
木の香漂う酒場の一角に集まった俺達は、渡りの商人から王都の現状を聞きだしていた。
『情報屋』としての側面を持つ渡りの商人たちは、どの町でも重宝がられ、今では世界中に拠点を持つ商業ギルドがその手綱を握っている。
情報の信憑性もさることながら、警戒すべき情報等に関してはすぐさま拡散させてくれるため、俺達の様な辺境地に住む種族にはありがたい存在だ。中には、煙たがる奴もいるようだが。
「王都の方はどうなんだ?騎士団の派遣はどうなってる?」
「あぁ、いい話はないな。ここ1年で王都の治安が一気に悪くなっただろ?今じゃ王都全体がピリピリした雰囲気で、騎士団は王都周辺で起こる問題で手いっぱいさ。そもそも、若手が少なすぎる。騎士団なんていったって、みんな年寄りばかりだ。盗賊や人攫いの為にこんな辺境地まで騎士を回す余裕なぞ、ベルニア騎士団にはないだろ。……こいつはまだ裏がとれてない話だが、高位の貴族に買収されてる奴らも多い。例の人攫いの件でも片棒を担いでる奴が上にいるってのは本当らしいしな」
「やっぱり、人族の血がうすい貴族連中が犯人か。種族の違う者同士の婚姻には制約が多いからな。こちらの長宛に宮廷から打診が来た事はあったが、最近人族にはもう嫁に出したのがいたからな。こちらとてそうそう流出はさせられん。それを、人攫いで無理やり……。許せねぇな」
持っていた酒瓶を机に叩きつけるように置いた店主は、すまんと詫びてこぼれた酒を拭き、人数分のグラスを並べてカウンターへ戻った。
人攫いの横行はもう大分前から問題になっている。
人族で子どもが増やせなくなった時から、この国での人口減少は年々深刻化していた。後継者不足に喘ぐ人族が何を考えたのかなど、子どもでも気付くだろう。
――他種族と子を設ければいいのだと。
それでも獣雑じりが生れる確率は半々だという。
だが、少数部族の者達は人族ほど多産ではない。外への流出を防ぐのも、種を守るためには必要な策だった。混じり過ぎれば血が薄くなる。現に外へ出た者達の能力は代を追うごとに下がっていた。
酒が皆に行きわたったのを確認し、グラスを打ち合わせる。
「……それにな、他所から来た連中の中にゃ、王都を覆う黒い靄が見えるって言う奴まで出てるんだ。それが瘴気なんじゃないかってもっぱらの噂だ」
「は?王都で瘴気だと?王都に新たな瘴気だまりが生まれたってのか?」
王都で瘴気が発生していると言う男の言葉の意味が分からず、集まったもの達は皆首を傾げた。
新たな瘴気だまりが生れたなんて話を、俺達が知る長い歴史の中でも聞いたことがなかったからだ。そんな俺達を見て、商人の男は肩を竦めて見せた。
「俺だって意味がわからないと思ったさ。だけどな、俺自信も王都で息苦しいと感じる日ほど、町の連中の気が荒れていた。そういう日は犯罪率も上がって酷いもんだったよ。暴力沙汰は毎度のことで、商売にもならねぇからさっさと切り上げてきたのさ。で、王都を離れたら……俺にも見えたんだ。王都一体を覆ってるという黒い靄ってのがよ」
視覚化するほどの瘴気が王都にあふれている。すぐには信じられない話だったが、話の途中から考え込んでいた仲間の一人が焦ったような口調で男に問いかけた。
「おい、大地への魔力奉納は上手くいったとお触れが出てたが、本当に儀式の方は大丈夫だったのか?日照りと長雨の繰り返しで今年の実りは絶望的だ。去年もぎりぎりの収穫量だったんだぞ。このままじゃ冬を越せるかどうかも危うい。国は俺達を助けてくれる気はあるのか!?」
しん、と静まり返った酒場の中では誰もが最悪の想像をしていた。
「……王はずっと国民の前に姿を見せていない」
手酌で蜂蜜酒を注ぎたした男は、苦々しげに息を吐きながらそう言った。
「……ヒッツェンの野郎が精霊狩りなんてマネを仕出かさなければ、今の王にだって治世は執れたはずだ。だが、魔力の欠乏したこの世界で、今一番望まれているのは高い魔力を持つ者。王位の継承で多少の魔力増強が叶ったとしても、もとがもとだ。宮廷内じゃ、現王を馬鹿にしてる奴が多い。……前王の側近が全員殺されちまった王宮にゃ、碌な奴が残っていなかったんだろうな」
蔑んだ目をグラスへ向けた商人の男は、琥珀色の酒をぐいと煽り、きつい酒に顔をしかめた。
「今の王は前の大戦でヒッツェンを倒し功績を上げたから継承したんだろ。英雄じゃないか。貴族になめてかかる奴らがいても、多くの民から慕われてたんじゃないのか?」
まだ年若いディタが疑問を口にすると、それには隣に座る古参の冒険者が答えた。
「あの王が王位を継いですぐ、人族では子どもに獣雑じりが生れるようになっただろうが?それを王の治世の所為だという奴らが現れて、宮廷では相当叩かれたらしい。中には竜の呪いだと言う奴もいたがな。……もともと下っ端の騎士爵だけを持つ貴族だったあの王には、突然押し付けられた王座や政治なんて向いてなかったのさ。だが、問題はその後だ。己に都合の良い話ばかりする悪臣の言を信じた王は、獣雑じりで産まれた子だけならまだしも、産んだ女まで次々に殺し続けた。民の反感を買うのは当たり前だろうが」
数年前から、ベルニアでは人族の子どもの姿を見ることがなくなっていた。それに比例して、若い人族の女の姿も。この国では獣雑じりの子は産まれたらすぐに処刑することが決められており、それを産んだ女にも罰が与えられる。
清めと称して産後すぐに精霊の泉に入れられ、その多くが産褥熱で死を迎えているという話だ。
処刑を率先して行っていた領主たちは、多くの怨みを買っている。それを命令した王もまた然り。領民からの襲撃を恐れ、外も歩けない状態だと語った。
「民にまで反旗を翻された王は、心を病んでるんだとよ。王宮で雑用を任されてるって侍女が買い出しのついでに俺んとこに来て、教えてくれたんだ」
誰もいない宮廷の壁に向かって、王が呟いていた言葉。
『もう、私は誰の言うことも信じない。私が信じられるのはベルニア様だけ。そうでしょう?さぁ、貴女様をこの地に再びお迎え致します。その際にはこの世で最も赤く、最も尊ばれるものを貴女様へ奉納いたしましょう』
「……気が触れているのか?」
「さぁな。だが、警戒はしておくべきだ。ギルドの方からはいつものように手をまわしてある。ベルニア国内の主要な者達にはこの情報は流れてるよ。俺はこのあと隣国に渡って各国のギルドにも現状を伝えてくるから、お前らはここの領主と長に伝達を頼む」
「わかった。……ベルニアは荒れるな」
「あぁ、準備を怠るなよ」
空になったグラスをテーブルに置いた男は、そのまま酒場を後にした。
その後、辺境地に住む各種族の長達が動き出した時には、すでに何もかもが手遅れだった。
禍々しい瘴気が蔓延する王都へ乗り込んだ彼らが目にしたのは、血の生贄によって穢された儀式の場。そして、玉座の継承を受けているおかげで生き延びている王だった。
儀式場の穢れはもう誰の手にも負えない状態で、大きな魔力を持つ長達でさえ長い時間その場に留まる事は出来なかったという。
宮廷には無数の屍が転がり、血にまみれた王は玉座に座り、虚ろな目で何事かを呟いていたらしい。
その昔、英雄と称えられた武の王はその手ですべてのものを壊してしまった。
国も、臣も、民も、己自身でさえ。
長達は狂った王を無視して、急ぎ王都に生き残った者達を瘴気の少ない場所へと避難させることに尽力したという。
だが、直後に襲った大地震で活発化した火山の噴火と地割れが起こり、多くの命が失われた。
灰の舞う中、必死の救助活動が行われ、無事逃げ伸びた者達はちりぢりになって保護されていった。
隣国の国境に近い者にはそちらへ救援要請を願い、辺境地まで移動出来そうな者達には移動手段を手配した。
今、この辺境の町にも周辺の村にも、多くの難民が避難してきている。受け入れる側の者達ですら、食べる物に困っているというのにだ。
数日が経ち、避難して来た人族がニールの存在に気付いた時、奴らはニールに蔑みの目を向け、嫌悪し、恐怖の対象とした。
自分達が口にしている食糧のほとんどを、あいつが見つけていることも知らぬ愚かな奴ら。
俺にはそれが許せなかった。
だが、ニールは、あいつは……。