癇癪
紫水宮の廊下に響く泣き声。
堅く閉ざされた扉を必死になって叩くのは一人の幼子だ。
扉へ縋りつくようにして許しを請う様は、幼子にとって、まるでこの世の終わりというほどだった。
「あずしゃ、あずしゃぁぁ…あぁぁん、あけてぇ、あけてよう。もうしないからぁぁ…あぁぁん」
昨年の年の瀬。
その一年を感謝し、翌年の幸いを願う禊ぎが行われた。
一年の穢れを祓い、新しい年を迎えるその儀式は、その年の最後の日に夜通し行われる。
それも戦乱のあとからは形骸化され、ただの年中行事になり果て、魔獣が頻繁に出没していた近年はずっと中止されていた。
だが、精霊が復活の兆しを見せる中行われた儀式は、大成功を収めることとなった。
穢れを祓い、来る年の無病息災を精霊に願う禊ぎ。
禊ぎの場にはまず王族が入り、次に臣下や民へと全ての者が向かうと決められている。その為、王族とその側近は一年最後の日、陽が昇る前にシヤの泉を訪れるよう定められていた。
真夜中に王都を発った我々は、道中の雪に多少の手間取りはあったものの、王女殿下の助けを借りて無事、夜の明けぬうちにシヤの泉へと辿りついた。
黒山はそのほとんどを一面の雪に覆われていたが、泉周辺は結界に護られ凍てつくことはない。冬の泉はその恩恵を受けようとやってくる小動物達で溢れていた。
一応、護衛騎士はみな武器を携行していたが、そこに魔獣の姿は見られない。
浄化されたシヤの泉だけでなく、この黒山ではもう何か月も魔獣の姿が見られなくなっていた。
この場には離宮の子ども達も一緒に禊ぎを済ませるべく同行している。彼らは冬越しをする動物達に囲まれながらの禊ぎをはしゃぎ喜んでいた。
離宮の者達が見守る中、片時も離れたがらぬ主を抱え参加されたアズサ殿が、先頭を切って儀式を行うことになった。
そしてお二人が泉に足を沈めていくと、不思議な現象が起きたのだ。
泉から立ち昇る溢れんばかりの光。
水底から湧き上がる緑光の群れは、夜闇に沈んでいた辺りの森を淡く照らし、その場を包み込んでいった。
初めて見るその光景に、息をのんだのは三十よりも若い者のみ。年嵩の者達は懐かしむような目に涙を湛え歓喜の声を上げた。
『精霊の祝福だ』と。
儀式を終えた日から、主の魔力は少しずつ回復し始めている。母上によれば、現在は生まれてから五年ほどの姿に成長されているそうだ。
儀式から一月と少し、めきめきと成長されている我が主。だが、元通りに戻られるまでにはまだまだ時間がかかりそうだと感じる今日この頃。
――背後から近寄る人の気配を感じ振り向くと、こちらを一直線に目指し歩いてくる王女殿下と目があった。
「お兄様は一体何をしでかしたのです?」
護衛のベルベントスを従えた王女殿下は、城から戻ったばかりなのだろう。気合の入った盛装をされている。
落ち着いた赤葡萄色の衣装に身を包むその姿は、前王妃の面影が強いらしい。このところ懐かしむようにそう口にする母上の姿を、よく目にするようになった。
蜘蛛の糸を思わせるような輝く紫銀の髪は、腰の高さほどに切りそろえられ、瞳は先日ディキシーの店で見た、討伐難度の最高位に指定されている魔獣から採れた魔石と同じ金紫色だ。
王女殿下の困った者を見るような視線はまっすぐに、扉を叩いている幼子に向けられている。だが、すぐにこちらへ戻された鋭い眼光に、何と答えるべきか逡巡した。
主の大泣きは日常茶飯事だが、その側にいつも寄り添ってくれている者が今はいない。
彼の方は今、主が叩いている扉の向こうに籠城中である。
「いや、まぁ、その、今はあのように心も体も幼児化しておりますゆえ、ご本人としては不可抗力と申しましょうか…」
「バルド、はっきり報告なさい。お兄様は、何をしてアズサを怒らせたのです?」
名高い名工が鍛え上げた剣を思わせる、その白刃のような顔に怒りをのせた王女殿下から、ピリピリとした気配が漂ってくる。
日々美しく、逞しくなっていく王女殿下の姿に思わず笑みがこぼれた。
「バルド、わたくしが笑ってごまかされるとでも?」
すぐに表情筋を引き締め、背筋を伸ばす。
王女殿下の背後で肩を震わせる愚か者には、後でしっかり指導を施すこととしよう。
王女殿下は主があのお姿で戻られてから変わられた。
ご自身の魔力操作に自信のなかった頃とは何もかもが違う。その眼差しや、身に纏う覇気、そのお姿さえも。
王女殿下を相手にしてしらをきり通すのは不可能と白旗をあげ、泣きじゃくる主の背に視線を送り、心の中で謝罪した。
……黙っていても、他者の口から露見するでしょうしな。
「ちがうもんっ、あずしゃはボクだけのあずしゃらのっ!おいてったらダメっ」
下っ足らずなお喋りも大分聞き取れる単語が増えた。だが、少し前まで何を言っているのかわからなかった内容がはっきりと聞き取れるようになった今、この幼子を見る大半の者の目は残念なものを見るそれへと変わっている。
「毎回毎回、おんなじこと言わせんなよ。便所ぐらい一人で行かせてやれって。めんどくせぇなぁ。ほら、捕まえててやるから行ってこいよ」
聞き分けのない主の身体を後ろから抱え上げ足止めを買って出たのは、私が弓を贈った少年だ。ここ数カ月でぐんぐんと身長を伸ばした彼は、もう少年と言うには大きすぎるか。
彼は現在、騎士見習いとして宮城へ通ううちの一人となっている。
「うぅぅ。ありがとう、ユーゴ!絶対放さないでね。この子、ドアをこじ開けてでも突破してこようとするから!」
切羽詰まった様子のアズサ殿は、がっちりと掴まれ、じたばたと喚き立てる主に『待ってて!』と言い残し、走って行った。
「あじゅにゃぁぁぁぁっぁぁぁぁ――――…!ぃやにゃぁぁぁぁっぁぁぁ――――…!!」
顔中から色々とダダ漏れさせている我が主。通り過ぎる者たちはみな、引きつった苦笑を浮かべ去って行く。
今生の別れかというような大音声で泣き喚く姿は毎度のこと。
母上や王女殿下がいればまだ少しは押さえもきくのだが、それ以外の者の言うことなど耳に入らない。アズサ殿の言うことはほぼ何でも聞くのに、彼の方が側を離れると察知するだけでこのように手がつけられなくなるのだ。
「――…と、いう一幕がございまして」
「えぇ、いつものことね。それで?アズサはそのぐらいで引きこもったりしないでしょう」
「……………。」
「ふ――…。しゅっきりしゅっきり。ありがとう、ユーゴ。おかげで間にあったよ。危ないとこだった……って、うわー…何これ、虐待?」
小用から戻られたアズサ殿は、目の前の光景にドン引きしていた。私自身、自分で手伝っておいてなんだが、これはどうかと思う惨状だ。
手や口を布で縛られ床に転がされている主は、アズサ殿が戻って来た事で大人しくなっていた。
先程まで狂った魔獣のように手がつけられなかったというのに。涙の溜まった目でアズサ殿を嬉しげに見上げているこの方は、傍から見れば憐れな子どもにしか見えないだろう。
「ちげ――しっ!見てみろよ、こいつ容赦なく噛みついてきたんだぞ!?そのうえ、物騒な魔法陣まで出して舌っ足らずな詠唱はじめやがって。だから仕方なくふさいだんだよっ!もう俺はしらねぇ、ほどくのはお前がやれっ!」
ユーゴの腕には小さな噛み後が無数に散らばっている。私の腕の方にも、押さえる際につけられた歯型がくっきりと残され……出血していた。
記憶は戻っていないのに、人を見て噛む強さを決めている所がまた野生的だと思う。
幼いなりに、どこまでやったら見限られるかをわかっているのだろう。
ユーゴの傷痕を見て溜め息を落としたアズサ殿は、申し訳なさそうにハンカチを差し出し、表情を歪めた。
「本当にごめん。すぐ傷の手当てを……、ニーニャにお願いしていいの?ごめんね、ありがとう」
アズサ殿は傷の上に当てられたハンカチを見つめ、哀しそうに謝罪を繰り返した。
気にする程のものじゃないとそっけなく言ったユーゴは、泣きそうな顔をしてハンカチで腕を押さえる妹分のニーニャとともに去っていった。
そもそもは、あの少女が困りはてるアズサ殿を助けようとして私とユーゴを呼び出し、彼が怪我を負ったのだ。
ニーニャはそれを気に病んでいるのだろう。
母上方の生まれ故郷で”賢女”という意味を持つ名を与えられた少女は、利発で優しい女性へと育っているようだ。
何度も謝罪し、心配そうに彼らを見送ったアズサ殿は、曇った表情で主の許へと戻って来た。
「……ほら、起きて」
アズサ殿は膝をつくと、主の小さな頭を抱え込むように腕をまわし、猿轡をはずし始めた。じっとアズサ殿の動きを目で追っていた主は、膝立ちになって拘束を解かれるのを待っている。
一瞬、その目に何やら冷たい物が混じったのを感じた。
「ほんとにさぁ、姿が見えないって言ってもお屋敷の中にはいるんだから、そんなに心配しなくてもだいじょう…」
人を咬んではいけないと諭し、後頭部にある結び目を解いたアズサ殿は、目の前の子どもが急に立ち上がったことに驚き、僅かに身を引いた。
その時、信じられない事が起こった。 ……いや、信じられないことをされた、の間違いか。
「ぷちゅ」
「……そのまましばらく呆けられていらっしゃいましたが、突然走りだされて現在に至ります」
事実をありのままに報告し終えると、王女殿下は目頭を押さえ天を仰がれた。
背後の護衛は腹を抱え震えている。
……こいつには叩き直しが必要なようだな。
「…………お兄様…………。もう、わたくし庇う気も起こりませんわ。しっかり反省なさればよろしいのです。えぇ、もう、アズサの思うままに張り付けでも、お尻叩きでも。バルド、これ以上お兄様がアズサを不愉快にさせる前に、捕まえておきなさい。わたくしのお部屋で反省させます。あぁ、お仕置きとして魔力遮断の魔術具でも付けてさしあげて」
「……承知致しました」
「うにゃぁぁぁっぁぁっぁああ!!!あじゅにゃぁぁっぁぁぁ!!あげでぇぇぇぇ!!ここ、あげでようぅぅうぅぅっえぇぇ…」
いつになったら、我が主の記憶が元に戻るのか。待ち遠しくもあり、怖ろしくもある。
……出来ることならば、幼子の時の記憶は覚えていないと言う方向でお戻りになっては頂けないだろうか。
懐から魔力遮断の魔術具を取り出し、扉を叩きすぎて真っ赤になっている主の左腕に、パチリと嵌め込む。
信じられない物を見た、という顔で私を睨みつけた幼子の金緑色の瞳が揺らぐと、主はそのまま気を失った。
地面に伏す前にその小さな身体を持ちあげ肩に乗せる。
小さな生き物の持ち方については母上にも注意を受けたため、出来るだけ触れぬよう自分から遠ざけて持つのは止めていた。
主の身体も今は以前ほどフニャフニャではないが、それでもまだ潰れそうで気味が悪い。
鎧の上からならば硬さも気にならないのでそのまま担いで運ぼうとすると、王女殿下から溜め息がこぼれ聞こえた。
……不甲斐ない兄君に落胆しているのだろうな。お気の毒なことだ。
身体をくの字に曲げて呼吸困難を起こしている馬鹿が目に入り、この愚か者が任務中家に帰れないことが一番の責め苦だと言っていたのを思い出す。
残雪の残る標高の高い山を巡り己の限界に挑む訓練は、ここ何年も行われていないものだが、頭のネジが緩んだこいつにはいい鍛錬になるだろう。
この数時間後、騎士団名物地獄の雪中合宿が決定された。
―――…翌日の紫水宮にはそれぞれの感情のもと、幼子と北軍騎士団員の悲痛な叫びが響き渡ることとなる。
――わたしに、この仕事は向いていなかった。
この頃、そんなことばかり考える。
出来る限り心を込めて育ててきたつもりでいた。良かれと思ったことは全て試したし、早期回復のために記憶を呼び覚ますような学習も取り入れた。
時には心を鬼にして千尋の谷からつき落とすような事もした。(※ぼっちゃまにとっての谷であって決して過度なしつけではない)
何がいけなかったのだろう。
どうしたら良かったのだろう。
最近は溜め息ばかりが増えている。
坊ちゃまの身体が大きくなってきたから集団の中に放り込んで、泣こうが喚こうが他の子と平等にしようとしたのがまずかったのだろうか。 ……ハイハイしか出来ないはずの子がベビーベッドを脱出して来た時には本当に怖かった。
何とかわたし以外の人との関わりを増やしていこうと、他の子のお世話と交代してもらったら、引っ掻きや噛みつきが始まった。 ……おもに引っ掻かれ、噛みつかれているのはバルドだけど。
取り敢えず一端落ち着けと、赤ちゃん部屋で他の子と場所は共有しながらもわたしと離れずに過ごすように戻してみた。
そうしたら問題行動は減っけど、今度はべったり離れなくなった。その後は自分で動くとわたしを追いかけやすいと気付いたらしく、高速ハイハイから、怖ろしい早さで(振り返ったら)立って歩ける様になってた。
……いかん、冷静になれ自分!
その頃になるとお喋りも上手になって、記憶が戻るのも近いのではと周りが期待の目を向けて来るようになったんだけど、それがわたしには訳のわからんプレッシャーになった。 おもに宰相さんからのアイコンタクトが凄まじい熱を帯びている件については、アニヤに被害届を出したら離宮であまり顔を見なくなったけど。
……もう本当にさ、ぼっちゃまのストーカー体質はでかくても小さくても変わらないのにね。どうせ同じことになるなら思い出してからにしろっての!(※ヤサぐれ中)
ゲフンゲフン、……はぁ。
バルドからの勧めで始めた魔法の勉強。あれは酷かった。恐ろしい事に、あのぼっちゃまは、癇癪を起こすと魔法でやり返そうとするような、犯罪者予備軍になりつつある。
危険だから教えるのをやめようと訴えれば、わたしが気付いていなかっただけで、ちょっと前から魔法を勝手に使っていたから教えない方が危険だと説得されたし。(※ベッドからは飛んで出ていたらしい)
成長が加速している今は、さらに酷い。
わたしが可愛い子ちゃんをモフろうものなら相手に体当たりしたり、噛みついたり、睨んだりする。ちなみに睨むだけですむのは女の子だけ。
「ひどい、ひどすぎる!わたしの育児に混沌しか感じられない件について、誰か、誰か、励ましの声を……!」
さっきから部屋の隅っこで膝を抱えてうじうじ悩んでいるわたしは考えた。こんな時、先輩や友人ならどうするのだろうか、と。
……きっとリフレッシュして来いって言われるんだよ。
でも、わたしが半日そばを離れただけで、なぜかぼっちゃまは縮んでいる。
「なんで?なんでなの?わたしがいない間に一体何をやらかしてるの……!?」
半休をもらっただけで離宮の人達の顔色が悪くなってる件について、気にせず休めと言われても、どうやったら気にせずにいられると言うのだ。
一進一退、三歩進んで二歩下がる……。それがいつまで続くのか。
ここにきてからもう半年が過ぎている。1年という区切りはもう諦めた方がいいのか……。
「そんなのいやぁ!」
――最近思うことがある。
……このままじゃわたし、家に帰るころにはボロボロじゃね?
病んでる保育士に需要は残されているのだろうか。
このところ、わたしの癒しを邪魔するぼっちゃまのせいでストレスは溜まるばかりだ。
「一人の時間は別にいらないけど、癒しの時間がないのは無理なのよ……!」
ティア王女は変身魔法で人の姿を保てるようになった途端に、王宮からの呼び出しが増えて大忙し。
丹仁愛は勉強がしたいって言い始めて、この世界の高等教育なるものを茶シマ…いや、今は乂累か。ガイル達と一緒に習いに行っている。
もちろん毎日佑護の送り迎えつき。
男の子も女の子も、どんどん心も体も成長して、赤ちゃん部屋の子も少しずつ入れ替えがあって、周囲はみんな変わって行くのに、ぼっちゃまの内面は止まったまま。
身体が大きくなっても、心が追いついていない。
他者を排除してわたしだけを求めるあの子を見ていると、つらいのだ。
「どうして、人を傷つけてまでわたしを追うのかな」
……わたしが信用されていないから?わたしがあの子とちゃんと向き合えてないから、問題を起させてるの?
「うぅ、メイぃ―…どうしたらいいと思う?」
頭上に向かって話しかけると、小さな欠伸が聞こえてきた。
どうやら今は起きているらしい。
しばらく待っていると、小さな足が頭から肩へと降りて、膝こぞうの上に来てくれた。
真っ白な毛並みにつぶらな黒い瞳。背中には格子模様が浮き出ていて、見ようによっては障子のようだ。だって、背景白いし。
呆れたといわんばかりの半眼でわたしを見上げるメイから、低い声が聞こえて来る。
「……あのような阿呆、捨ておけと何度も言ってるだろうが。ここを出て別の場所へ行けばいい」
年が明けてから、突然お喋りをするようになったメイは物言いが厳しい。そして外見にそぐわない、じじくさい喋り方をする。
だけど、ゆっくりと低い声で話すその話し方は、なんだかすごく安心できるのだ。
「そうね、旅、いいね。海に行きたい。砂浜でティアさんときゃっきゃ、うふふしたい……」
「……そうではない」
ぷすっと鼻息を漏らしたメイにほんのちょっと癒されて、笑えた。
……あれこれと考えず遊びに出掛けられるような性格だったら、もっと上手にあの子を育てられるのかな?
「お前のはアレだ、何と言ったか、先日赤子を連れて駆けこんできた女人と同じだろう。……呪いーぜ、だったか?お前もそれだ」
……鈍いぜ?……あぁ、育児ノイローゼのことかな?
先日、この屋敷に赤ちゃんを抱えて掛け込んで来たのは、ユイミアと彼女のお友達であるお貴族様だった。
サイファという名の彼女の婚家は、お貴族様だけどあまり裕福ではないようで、乳母を雇えず自分で子育てをしているらしい。
実家は遠く、同居の義父母は子ども嫌い。旦那は地方に派遣されている西軍騎士団の方で……、と家庭事情を余すことなく話したあと、彼女はこう言った。
「わたくし、子育てにこれほど苛立たされるなどと思ってもみませんでしたのよっ!赤ちゃんが天使だなどと誰が言ったのかしら!お茶会へ行く時間もないし、子どものお買い物をするのにも許可が必要。義父母は口は出すけど、手は貸さない。気にするのは外聞だけで、子育てについて相談する方が欲しいと言えばみっともない、恥ずかしいマネをするなと実家の悪口を言われる始末。いつ帰るかもわからない、当てにできない伴侶など何の役に立つと言うのでしょう!?わたくし、もう、限界ですっ。実家に、実家に帰りたいぃ……」
色々吐き出したあと、さめざめと泣きだした彼女は完全に育児ノイローゼ。
目の下の隈とやせ細った身体。食欲不振に、めまい、吐き気、睡眠障害。
赤ちゃんが泣いても無視しているのか、聞こえていないのか、涙が止まった後はぼんやり呆けていた。その姿は本当に可哀相だとは思うけど……。
「帰ればいいんじゃないですか?」
泣いている赤ん坊を、ユイミアの侍女兼乳母をしているシャナが抱き上げた。
一緒に過ごしたのは短い間だったけど、シャナともお友だちになっている。彼女がご実家で営んでいる染物屋さんを紹介してくれたこともあり、シャナの両親にはかなり良くしてもらっているのだ。
……刺繍糸が卸値価格の上に、お得意様割引きがきくんだよね。
シャナが慣れた手つきでサイファの赤ちゃんを泣きやませてくれているけど、サイファ自身はぼんやりと空を見つめるだけで自分の子に反応を示さなかった。
「実家に帰って楽になるのなら、里帰りすればいいじゃないですか」
「えっ、里帰りですか……!?」
ユイミアの座るソファの横には可愛らしい揺りかごが置かれ、その中では双子がよく寝ている。他の子の泣き声など全く気にならないらしい。流石、ナグの子。
少し慌てた様子のユイミアは、わたしが彼女の友人に離婚を勧めていると勘違いしたようだ。
「旦那さんも、今サイファさんの実家の近くに駐屯してるんでしょ?赤ちゃんの顔を見せに行くって口実で、実家に立ち寄ればどうですか?そのままちょっと療養する方向で。確か、バルド団長のご実家もその近くの領地でしたよね?美味しい物もいっぱいあるって聞きました。体調を治すにはうってつけじゃないですか」
ティルグニアの地図をざっくり思い浮かべながら、距離を測る。
……やっぱりちょっと遠いかな。
だけど、山の幸、川の幸、美味しい地酒に御主人の近く。一番のポイントは実家に帰れるというところ。
「けれどアズサ様、騎士団のお仕事を邪魔するわけには……」
ユイミアが眉根を寄せて心配そうに、チラチラと友人を見ながらそれは出来ないという。騎士の妻の鑑のようなお人だ。
「騎士にも休みが無いわけじゃないし、嫁と子どもが来てくれたら、ナグだったら泣いて喜ぶと思いますけど?あぁ、あと、もしかしたら移動時間の分も療養に当てられるかも知れません。お願いしてみましょうか?」
直接顔を合わせた事はないけれど、ユイミアもティア王女が得意になった魔法を知っている。あ、ナグの名誉の為に言っておくが、彼が家で話しているわけではない。
去年、ユイミアと会ってる時にちょっとしたハプニングがあっただけ。
……ティアさんのためにみんなには内緒にしてるんだけどね。恥ずかしがって泣き出したマイディアは可愛かったなぁ。ぬふふ。
「まさか、王女殿下に!?そんな、いけませ…」
「ぜひ、お願い致しますっ!!」
顔色を青くしたユイミアの横で、サイファがほんのちょっとだけ表情を明るくしてぶつぶつと何か言いながら帰って行った。
もちろん赤ちゃんもちゃんと連れて帰らせたからね。よかったよかった。
突然の訪問だったが、帰るのも突然だった。
しかしまぁ、彼女の呟きの中にお酒の銘柄が入っていたところを見ると、あの方のストレスの原因は家庭の事情以外にもありそうだと察している。
恐縮するユイミアを宥め馬車に乗せて送りだせば、外は晴天。もう春がそこまで来ていた。
ずっと足にしがみついていたぼっちゃまを抱っこしてティアさんの許へ。
その翌日、彼女は愛する夫(と地酒)を求め実家へ旅立ったのだった。
「……で、どの辺が同じ?」
「のいろーぜは気鬱の病だと言ったのはお前だろうが。……そうだな、梓には別の言い方のほうが納得しやすいか。あの愚かな子どもは、以前は乳母に育てられたと言っていただろう。お前が頑張らなくても、あいつは勝手に育つ。捨ておけ」
「…………。」
ぐうの音も出ない。
メイの言ってる事は正しい。正しいのだけど、保育士として過ごして来たわたしのちっぽけなあれこれがそれをなかなか受け止められないのだ……。
またうじうじと絨毯をほじくっているとメイがぺしぺしと膝を叩いてきた。
「莫迦者が。私の言った事でまた気を落とすなど、お前は本当に面倒な奴だな」
「面目ない。……メイが愚痴につきあってくれるから、すごく助かってるの。ありがとね、メイ」
精霊の祝福だ。精霊が復活しただのと大騒ぎになった昨年の暮れ、みんなが何に興奮しているのかわからないわたしを置き去りに、周囲ははげしく盛り上がっていた。
興奮冷めやらぬ中、次にティア王女が泉に入ることになったが、それもまた騒ぎを大きくした。
そもそも極寒の中、泉に入るってどんな苦行だと思っていたけど、水がほんのり温かく感じて驚いていたのだが、それよりも驚いたのはティア王女の変身だった。
雪豹姿の彼女がつるんと泉の中に沈んだと思ったら、浮かんできたのは絶世の美女だったのだから驚きもする。
思わず坊ちゃまをバルドに向かってパスして、シーツ片手に泉へ飛び込んじゃったから、少しあの子には申し訳ないことをしたと思うけど、仕方ない。
……すっぽんぽんのヴィーナスを放ってはおけないでしょ?
実はちょっと前から、魔法で人の姿に変化が出来ていたと聞いて更に驚いたけど、嬉しい驚きだもの。
あれから忙しくなって竪琴を弾く機会はあまりないらしいと聞いている。でも、これからいくらでも弾けるからいいのだと嬉しそうに笑っていた彼女を思い出す。
そのあとで、もう一つ驚かされたのがメイが突然喋りだした事。
初めて喋りかけて来た時は思わず壁に投げつけちゃったけど、今ではいい相棒になっている。愚痴もきいてくれるし、なんだかんだと優しいし。
「……あれ、そういえばやたらと静かじゃない?あのぼっちゃま、少しは反省してるのかしら。嫌がらせに鼻水くっつけて来るなんて、乙女をなんだと思ってやがるんだか……!」
……本当に腹立たしい男だ……!あんにゃろう、わたしのファーストキスをしょっぱい思い出にしやがって!許すまじ、大きくなったら覚えとけよ!?
「……あの愚か者はさっきまで泣き喚いていたが、王女が連れて行った。気にせず昼寝でもしていればいい」
「ティアさん帰って来たんだ。……泣いてないならよかった」
ぷすんと不満げに鼻を鳴らしたメイにもう一度ぺちりと叩かれた。ぜんぜん痛くないけど。
「……お前も愚かだ」
「ふふ~、メイに言われるとなんか嬉しい。おじいちゃんに言われてるみたい」
メイを両手ですくいあげ、ふにふにと頬を寄せた。
……物足りない。
「メイがもっと両手でしがみ付けるくらい大きかったら言うことないのに……」
下唇を出して不満を口にすると、メイが微かに笑った気がする。
「お前が成熟すれば、そのうちそうなるかも知れんな」
「えっ、ちょっと待って。これでもわたし、大人なんですけど!」
最近また髪が伸びて少し鬱陶しくなってきている。切ろうとするとやめろとメイに言われるからまだ切ってないけど。
「……いい。お前はそのままが幸せだろう」
「うん?……メイがおっきくなってくれるなら、未成熟の女と言われようとも、モフ愛の為に熟女を目指して努力するよ?」
まずはバストアップだろうか。
「本当に残念な娘だな、お前は……」
あの我がままぼっちゃまもメイにだけは手を出せない。普段は姿が見えないしね。
こうやってメイに愚痴を聞いてもらってる時間をモフモフタイムに出来るなら、わたしのストレスは格段に解消されることだろう。……ただし、メイが抱き枕サイズになればの話だ。
出来ればトリプルサイズでお願いしたい。
「ふふっ、なんかちょっとすっきりした。じゃあ、ぼっちゃまを迎えに行くかぁ」
何も言わずにポケットの中へ納まったメイは、いつも通りの毛毬になって眠ってしまった。
ドアを開けるとすぐに、周囲の喧騒が耳に届いてくる。
「……また騒いでる。あんだけ喚いてて、よく体力が持つもんだわ」
いっそ感心しながら、胸ポケットをなでる。
「わたしを休ませてくれるために、魔法で音を聞こえなくしてくれてたのね。ありがと、大好きだよメイ」
大声で喚き散らす理不尽な言葉を聞きながらティア王女の部屋へ顔を出すと、久しぶりに見るノックス宰相とぼっちゃまが対峙していた。
こちらに背を向けているぼっちゃまは、まだわたしに気付かないようだ。
いつもならすぐに走って来るのに。
「うるさいうるさいっ、お前たちのゆうことなんかしらないっ。あずさはボクといっしょじゃなきゃダメなのっ。早くこれをはずせ!」
「聞き分けのない事を仰るものではありません。以前の陛下がご幼少のおりにはもっと分別をお持ちでした。なぜそのようなお振る舞いをなさるのか!人や物に当たるのはお止めなさい。妹君を哀しませてまで、貴方様はどうなされたいのですか」
部屋の中央にはティア王女が立っていた。
彼女の足元には、横倒しになった竪琴。いつも部屋の中央に置かれていた素敵な竪琴は、繊細な彫刻が施されていた木の部分が割れて無残に壊れていた。
美しく均等に並んでいた銀色の弦は弛み、外れて垂れ下がっている。――この竪琴はもう楽器としての役割を果たさないだろう。
「……うるさいっ!!お前らなんか、どっかいっちゃえ!」
バルドに肩を掴まれ、押さえ付けられている彼が癇癪を起して叫ぶたび、左手に嵌っている見慣れない腕輪がぎしぎしと悲鳴を上げ、光っているのに気付いた。
それにピシリと罅が入ったのが見えて、とっさに目を守ろうと差し伸べた腕に鋭い痛みが走る。
「アズサ殿!?」
バルドの上げた声で、驚きに瞠られた目がわたしを見た。
そのままゆっくりと下げられた視線が、口元へと下りる。
かすかに震えた彼の口元から流れる赤い液体。力を失っていく唇に反して、皮膚に食い込んだ小さな歯列は中々抜けない。
ぽたりと落ちた滴を見て、慌てたバルドによって彼の口が開かれると、小さな噛み痕がはっきりと顕わになった。
流れ出る血を見つめ、茫然としている彼をじっと見つめて問いかける。
「なにがそんなに不満なの?」
目からこぼれた熱い滴が、絨毯に染みをつくった。
傷が痛いわけじゃない。ただ、悲しくなっただけ。
ぱたぱたと傷口から滴る水音をききながら、部屋が汚れる、とどこかで思った。
噛み痕を見て顔をひきつらせ、今にも泣きそうに顔を歪ませた彼を見つめ、言葉を重ねる。
「わたしが不安にさせてるの?」
小さく震える口元から垂れる血を拭おうとして手を伸ばすと、彼は一歩後ずさった。
……この子がわたしを前にして逃げるのは、初めてかもね。
周囲の人達が心配して、アニヤを呼びに行く声が遠く聞こえる。
でも、傷なんてどうでもいいんだよ。
これはわたしへの罰だ。わたしがちゃんと向き合えなかったから、こうなった。
――わたしは、この子の前にいない方がいいのかな。
その問いに答えが出る前に、わたしは住み慣れたこの屋敷を離れることとなるのだった。