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梓弓  作者: 長月 夜半
第一章 十六夜
27/57

魔力の制御は根性で




 今日は夢見が悪かった。


 ベッドから跳び起きると、シーツの上を毛毬が転がって行くのが見えて、慌てて拾いあげる。

 手に温もりを感じた時にはもう、何の夢を見ていたのか忘れていた。ハテと首を傾げたけれど、流れ落ちる汗とまだ納まらない動悸だけが、いやな夢を見ていたのだと思わせる名残になっていた。


 カーテンのないこの部屋では、ベッドから外の景色がよく見える。部屋の中は暗い。だけど、窓から差し込む雪明かりが、室内に青白い光を届けていた。

 周囲は全ての音を雪に吸い込まれたかのような静けさを保っている。


 寝汗で濡れたシャツに冷気を感じ、肩が震えた。

 このまま二度寝をするには目が冴えすぎていて、仕方なく起床することにする。


 濡れた夜着を着替えながら、夜間警備の門番さんと一緒にお茶でもしよう、と思いつき、暗い廊下を通って厨房へ足を運ぶ。

 すると、暗い廊下の先から明かりがこぼれているのを見つけた。


 そこでまだ夜中と言っていい時間に料理の下ごしらえをしている料理長と遭遇し、しばし歓談しながら皮むきの手伝いをすることに。


 その片手間にお鍋を借りて作ったのは、ホットワイン。ディンゼルの女将さんから分けてもらったスパイスにハチミツ少々を加えれば出来あがり。

 毛皮の防寒着を着こんだ門番達のもとを訪れれば、何事かと驚かせてしまい、少し罪悪感を覚える。


 スパイシーで身体の温まる一杯を手渡すと、湯気の立つマグを嬉しそうに受け取った騎士達は、あっという間に飲みほしてお礼を言ってくれた。

 少し足りなかったかなとも思ったが、彼らのほっぺが赤くなっていたので良しとしよう。


 門の外には雪が積もっている。

 まだ初冬を迎えたばかりの王都では夜間に雪が降っても、昼までにはそのほとんどが溶けてしまう。それでも、寒いものは寒い。

 空になったマグを持って料理長のところへ戻り、片付けと皮むきが終わったころにはもう、空は明け白んでいた。


 鐘の音とともに門を開けてもらったわたしは、女の社交場へと繰り出す。

 どこから見ていたのか、人目もはばからずに飛んできた青い小鳥が頭の上に着地した。叩き落とそうと思ったら、勝手に地面へベちょっと落ちる。


 頭上から聞こえた”ぷすっ”という鼻息で納得。別に許可した訳じゃないけど、そこには先客がいると昨日判明したばかりだ。


「よくやった!」


 よしよしと頭をなでて、そこじゃ寒かろうとポケットに入れる。まんまるの毛毬に戻ったメイは、そのまま沈黙した。良く寝る子だ。

 走りだしたわたしの肩口に羽音が聞こえる。見れば、そこにはちょこんと小鳥がとまっていた。肩をゆすって振り払おうとしても、がっしり上着を掴まれている。


「開き直ったわね……」


 昨日までは近づいても来なかったくせに。

 それでも頭に乗らなくなったのを見ると、叩き落とされるのに懲りたのか。


 青い鳥に一方的にあれこれ嫌味を言いながら洗濯を終え、屋敷へ戻った。

 エントランスに入ったところで、この時間同じように忙しく立ち働いているはずのセバスに呼びとめられ、荷物もそのままにティア王女の部屋へと通される。


 するとそこには、げっそりとやつれた顔のバルドと、見かけない赤ん坊を抱えるアニヤがいた。


「ごきげんよう。アズサ、早速ですが折り入ってお話がございますの」


「おはようございます。……しばらく見ないうちに、随分と面立ちが変わりましたね」


「「「えっ!?」」」


 わたしの言葉にみんなが揃って声を上げ、こちらを凝視してくる。


「バルドさん、痩せたんじゃないですか?ちゃんとご飯食べてます?」


 なぜかぎこちない動きを見せるみんなを横目にアニヤの手元を覗きこめば、暗い群青色の髪をもつ、ふっくりとした愛らしい赤ん坊と目が合った。

 緑の瞳に散らされたように広がる金色の虹彩。


 挙動不審に汗を拭うバルドへ視線を戻すと、やっぱりなんだかおかしな反応が返ってくる。


「はっ、ご心配痛み入ります。が、ご心配には及びません。異国の水が肌に合わなかっただけでしょう」


 ……お腹を壊してこうなった、とでも言いたいのか。


 こけた頬を引きつらせて無理に笑うバルドからティア王女に視線を戻せば、彼女もまた目を泳がせていた。その姿も可愛いから別にかまわないんだけど、何を企んでいるのやら。


「お話ってなんでしょう?」


 首を傾げて話を促しても、ティア王女は困ったように眉尻を下げたまま、アニヤにすがるような視線を向けた。それを受けたアニヤが疲れたように息を吐き出し、こちらを見る。


「ハァ……。アズサ、あたしとしちゃあ、あんたに頼めるような事じゃないとは重々承知はしてるんだけどねぇ」


「アニヤ!?……やはり、わたくしからお話し致しますっ。バルド、その赤子をこちらへ連れてきてくださいませ」


「はっ」


 アニヤの言葉を遮ったティア王女は、バルドに赤ん坊を連れて来させた。


 バルドは赤ん坊をおっかなびっくり運んでいる。脇を両手で挟まれた状態で、頼りなくぷらぷらとあんよを揺らす赤ん坊は、まだ生後一年未満くらいか。


 少し青ざめ、手元から視線を逸らしているバルドが足を止めると、その見た目に似合わない半眼の目つきをした赤ん坊が、わたしを睥睨(へいげい)してくる。


 赤ん坊が隣に来るまで待っていたティア王女は、ソファの上で可愛らしくふるふると震わせていた両前足に、ぐっと力を込めて意を決したように話しだした。


「この子をアズサに育てていただきたいのですっ」


「…………。」


 しんと静まり返る室内で、こちらを窺うような視線が集まっている。


 ……わたしが?この赤ん坊を、育てる?


 ゆっくりと、言われた言葉を反芻してじっと赤ん坊を観察した。


 ほよほよと揺れる群青色の髪に、ふっくりとやわらかそうなほっぺた。その上でじっとりとこちらを見つめてくる金緑色の瞳。


 しばし、赤ん坊と睨み合う。


 ふと、何を思ったのか、赤ん坊はその小さな手でバルドのごつごつとした手をぺちぺちと叩いた。それを受けたバルドが、承知したとばかりにわたしの方へ手を伸ばし、赤ん坊を差し出した。


 睨み合いの距離が近くなる。


 ……空気的には、抱っこしてみろ、だろうか。


 早く手放したそうなバルドと偉そうな態度の赤ん坊。目の前の二人に、温度の下がった視線を送ってやった。


「意味がわかりません。保護された子どもなら、赤ちゃん部屋でみんなと一緒に育てればいいじゃないですか。一人だけ特別扱いはよくないと思いますよ」


「「「「 !? 」」」」


 わたしの言葉を聞いたバルドとアニヤ、ティア王女に、なぜか赤ん坊までもが目を見開いて驚きを露わにした。

 はくはくと、なかなか言葉が出てこない様子のみんなを冷めた目で見やり、最後に赤ん坊へ視線をもどす。

 驚愕に目をまん丸くさせていた赤ん坊は、わたしと目が合った瞬間、また半眼に戻った。


 それをちょっと鼻で笑ってしまい、いけないと思いなおす。


 ……平等平等。平等は特別扱いも偏見や差別もしないのです。


「まぁ、この赤ちゃん、とても難しい顔をしちゃって。……つらいことでもあったのかな」


 バルドの許へと近づいて赤ん坊の頭に手を伸ばせば、周囲の空気が張り詰めた。

 それを気にせず赤ん坊の頭にそっと手をのせ、やわらかな毛髪とぴっとり吸い付くような地肌を堪能する。


 赤ん坊は何とも言えない表情でかたまり、口をもにょもにょとさせたあとで愛らしいほっぺを林檎色に染めた。じっとりと怨みがましい目をわたしに向けて。


 ……はい。ぷう顔いただきました。


「赤ちゃんはそんな難しいお顔はしないのよ。嫌な事なんて忘れてしまえばいいわ。他人にしたことも、子どもなら許されると思わない?さぁ、全部、忘れてしまいなさいな。何もかも全部」


 さっきまで小鳥にぐちぐち言っていたのと似たような恨み事を言いつつ、あまりに柔らかい髪の感触に手が離せないでいると、背後からアニヤの引きつった声が聞こえてきた。


「ア、アズサ?その子は……」


「……ん?だから保護した子ですよね?いいですよ。これから赤ちゃん部屋でみんなと一緒に育ててあげましょうね。特別扱いは出来ないけど集団の中で揉まれれば、協調性とか忍耐力とか、自立心とか思いやりの心とか、人に感謝する気持ちとか!!」


 一気にまくし立て、少し息が乱れてしまった。いけない、いけない。冷静に、冷静に。


「……きっちり教え込んであげる。心配しないで、ティアさんとアニヤさんが忙しくなるからわたしに頼んでるんでしょ?大丈夫、安心して任せてよ。ふふっ、あ、なんか楽しみになってきたわぁ」


 くつくつと笑ううち、手の中に感じる赤ん坊の重みが増した。そっと手を動かし覗きこめば、可愛い顔をして眠っている。


「……はぁ」


 こてりと傾いた首の後ろとお尻の下にそっと手を差し込んで、危なっかしいバルドの手から赤ん坊を受け取れば、あからさまにほっとした顔のバルドに苦笑した。まるで新米パパのようではないか。


 少し口をあけて微かな寝息を立てる赤ん坊の体温は、抱いているこちらまでリラックスさせてくれるようだった。

 何の憂いもなく眠るその顔を見ても、もう何も思い浮かんではこない。


「あ―ぁ、結局わたしって、赤ちゃんが好きなんだよねぇ」


 わたしの腕の中で安心しきったように眠る赤ん坊。それを見て寸殺で絆されたわたしは、アホなのかもしれない。


「流石アズサだよ。あんたが引き受けてくれなかったらどうしようかと……」


「しっ!アニヤ、何を言うの。お…いえ、その赤子の育て方についてはアズサにお任せしたいと思います。……コホン、アズサが言うとおり、これからしばらくわたくし達は宮城とこちらを忙しく行き来することになりそうですの。本当に申し訳ないのだけれど、その、お…ケフン、その赤ん坊をよろしくお願い致しますわね。多分、一月もかからないと……」


 一体何に一月かからないと仰るのか。

 言葉を濁すティア王女にアルカイックスマイルで返し、横抱きにした赤ん坊をアニヤへお返しした。


「わたし、まだ洗濯物干しが残っているので、この子を預かるのは用事を済ませてからでもいいですか?」


「あぁ、もちろんだよ。朝食をゆっくり摂ってからまたこちらへ来てくれるかい?昼頃までにはこの子に必要な物を仕度しておくから。宰相が迎えに来たら午後には王女殿下とあたしは一度登城するつもりなんだ。ハァ……滞ってる政務を急いでなんとかしなくちゃならなくなったもんだから……。すまないね、アズサ」


 アニヤは口をへの字に曲げながら、睨みつけるようにバルドを見て、呆れた視線をティア王女に向けている。最後にわたしと目を合わせ、申し訳なさそうに苦笑した。


 何となく事情を察したわたしは軽く目配せして苦笑を返す。


「大丈夫ですよ。じゃあ、またあとで」


 振り返ると、普段はおだやかな笑顔を張りつけているセバスの申し訳なさそうな顔、というレアな物も拝見させていただいた。

 扉を開けてもらい部屋を出て、扉が閉まったのを確認し溜め息を吐く。


「あーぁ、これからまた忙しくなりそうだなぁ」


 ……取り敢えず、色糸を買い足すか。


 階段を下りていると、二階から元気な泣き声が聞こえてきた。重厚な扉を閉めていても轟いてくる泣き声に階上を見上げる。


「まさか、ね」


 階下に置いてあった洗濯ものが無くなっていることに気付いて、足早に裏庭へと続く回廊を抜けていく。多分、気を利かせてくれた誰かが干してくれているのだろう。


 その間にも赤ん坊の元気な泣き声は止むことがなかった。








 

 アズサが部屋を出てほんの少しの間を置いて、腕の中の赤ん坊が身じろぎをした。

 懐かしいその赤ん坊の姿に、微笑ましくなって小さな頬に手を当てれば、ぱっちりと目を覚ました金緑色の瞳と目が合った。


「お目覚めになられましたか。そろそろお腹も空かれる頃でしょう。ミルクを用意致しますので…」


 きょろきょろと忙しく視線を動かしている赤ん坊がアズサの姿を探しているのだと思い至り、どこへ行ったのかを伝える。


「アズサは朝食を摂った後、仕事を片付けてからここへ戻りますよ。それまでに坊ちゃまもお支度を整えて…」


 こちらが話しきる前に、その瞳に不安の色を覗かせていた坊ちゃまが声を上げて泣き始めた。


 突然始まった泣きに困惑する。

 昨日の夜に戻られてからこちら、この方がこのように泣くことなど無かったのに。


「……お兄様?バルド、お兄様はこれまでもこのようなお姿がおありになりましたの?」


 王女殿下が訝しげに坊ちゃまを見て、静かにバルドへ問う。声は冷静さを保っているが、瞳が困惑に揺れている。


「は!?いや、そんなまさか!ありえません。言葉は発せずとも、しっかりと理性は保っておいででした」


 本格的に泣き始めた赤子をなんとか宥めようとあやすも、叫ぶような泣き声は止むことがない。その聞き覚えのある声に、思わず笑いが込み上げた。


「アニヤ?何を笑っているの。お兄様のご様子がおかしいのよ!?」


「いえ、ね?坊ちゃまが本気でぐずり始めると、こんな感じだったと懐かしくなってしまって。特に王妃様がお側を離れると不安になって、それはもう、ものすごい泣きでしたのよ」


 どんどんと大きくなっていく泣き声に、込み上げていた笑いが、喉の奥で止まる。何かが違うと感じて、腕の中の赤ん坊をじっと見つめた。


「いくらなんでも、この泣き様はおかしくないかい?バルド、どういうことか説明しておくれよ。この泣き方、これじゃあ、まるで…」


 ――まるで、本当の赤子のようだ。


 その言葉が口をついて出る事はなかった。だが、王女殿下もバルドもセバスでさえ、坊ちゃまの変化を察したようだった。


「まさか、先程のアズサの言葉……」


 ……アズサの言葉?


 『嫌な事なんて忘れてしまえばいい』


 確かに、アズサはそんなことを口にしていた。坊ちゃまが今までアズサにしたことを思えば、あのぐらいの嫌味を言われても当然だと、あの時はそう思ったのだけれど。


「バルド、お兄様をこちらへ」


 全身から絞り出すように声を張り上げて泣く赤子を引き渡すと、バルドはまた持て余すような仕草で坊ちゃまの両脇に手を差し込み不器用な抱き方をした。


 きっと、これまでもそのように抱き上げていたのだろう。

 けれど、それは坊ちゃまの理性があったからこそ、それでなんとかなっていたのだ。いくら非力な赤子とはいえ暴れれば、手をすり抜けて落とす可能性だって……。


 そう考えた時、悪い予感が的中した。

 身をよじって激し泣きをする赤子は、バルドの手から滑り落ち床へ向かって落下する。


「!!」


 バルドは手を離れた赤子を掴もうとしたが、咄嗟に出した手が迷い躊躇して掴み損ねる。床にたたきつけられる赤子を想像した時、銀の光が動いたのを見た。


「――バルド!何をなさっているの!?お兄様が大怪我をされるところよ!」


 とっさにソファから身を滑らせ、その手を差し伸べた王女殿下の腕の中に坊ちゃまが抱えられている。その姿を見て、息を詰めた。


 誰もが声を上げる余裕もなく、目の前で起きた現象に衝撃を受け、その驚きに動けなくなる。







 

 細い肩から今にも折れそうな腕を伝って流れる紫銀の髪。それはさらさらと床に広がり、透き通るような白い肌を覆っている。

 激しく泣き続ける赤子をその細腕と薄い胸でしっかりと受け止めているのは、生まれたままの姿でしどけなく座るひとりの娘だった。


 紫銀の髪は母譲り、長いまつげに縁取られた紫水晶の瞳は赤子を抱える自分の腕に釘づけにされている。


「ティア殿下……?」


 困惑するようなセバスの呟きで我に返り、不躾な視線で王女を見続けている息子を怒鳴りつけた。


「バルド!部屋を出てお行き!!」


「す、すみません!御前失礼いたします!」


 あたしの怒鳴り声で反射的に顔を背け、足早に部屋を後にしたバルドの姿にほっと息をつきながら、隣室からシーツを一枚持ってきて赤子を抱えるその腕ごと身体を覆う。


 今起こっていることに、一番動揺されているのが誰なのか、間違えてはならない。


「ティア殿下、赤子を受け取りますよ。よく、身を呈して守りましたね」


 顔を真っ赤にして泣き続ける赤子を、決して落とさぬようにと強く抱え込んだ腕から解放し、セバスに引き渡す。セバスは赤子を受け取ると、そのまま部屋を出て行った。

 室内には王女殿下と自分だけが残される。

 ぼんやりと自分の身体を見下ろす王女殿下の瞳は、動揺に揺れていた。


「……アニヤ」


「はい。姫様」


「アニヤ、これは……何?」


 王女殿下が腕を持ちあげたことで、肩にかけていたシーツがするりと滑り落ちた。

 殿下が見つめ続けているご自分の、白く細すぎる肩や腕があらわになる。骨ばった細い腕はなるほど、スープしか飲まない生活をしていれば当たり前の痩せぎすの身体。

 本来であれば女性らしい肉付きがあって当然の場所には骨が浮き出て、痛々しいほどだ。


「姫様の腕ですわね。少し、失礼いたしますよ」


 微かに震え始めた肩にもう一度シーツを掛け直し、その細い身体を横抱きにする。成人の女性であるはずの身体は、もとの雪豹の時と変わらぬ軽さで、いとも簡単に持ちあげることができた。


 シーツごと抱え上げた殿下を寝室へと運び、振動のないようベッドの上へそっと下ろす。


「アニヤ、……アニヤ、アニヤ!」


「はい、姫様。アニヤはここにおります」


 そう返事を返すと、王女殿下は視線をあげてこちらを向いた。

 やつれていても白く張りのある肌、微笑めば誰もが見惚れてしまう母親譲りの切れ長の瞳。長い紫のまつげに彩られているその瞳には今、不安が渦巻き涙が浮かんでいた。


「わたくし、怖いわ。なぜこのように突然……姿が」


 王女殿下が見つめる、その両手の平を包み込むように握りしめると、手先の冷たさと大きな震えが伝わってくる。


「なぜでしょうねぇ。姫様に心当たりはないのですか?」


 その手をさすりながら、ゆっくりと話しかけた。


「獣の姿を煩わしいとずっと、ずっと思って生きてきたわ。ずっと、人の姿で生まれたかったと望んできたの。……けれど、わたくしは何もしていないわ。誰かが魔法を使ったの?それとも、これも呪いの一つ?またすぐに元に戻るの?」


 不安いっぱいで堪え切れない涙が頬をころがり、ぽとんと落ちて布地に吸い込まれていく。

 思いつく事はいくつかあるが、あたしがそれを並べたてて、王女殿下にこれ以上の混乱を与えるべきではない。


「……これが他者から受けた魔法であるとは考えにくいですわね。呪いであると考えるには、あの時のように嫌な魔力の波動を姫様から感じませんし」


 客観的な事実だけを述べ、他にも何か不安に思うことがあれば言って欲しいと促せば、王女殿下はぽつぽつと先程までの心境を語り始めた。


「お兄様が帰ってこないことは不安だったけれど、何かあればいつもお兄様が何とかして下さっていたもの。お兄様がいれば大丈夫だって、わたくし、ずっと甘えていたの。なのに、戻られたお兄様は赤子になられていて……。だから、昨夜(ゆうべ)はわたくしが、人間の姿であったならばお兄様の代理を務めることも容易かったのに、とも考えていたわ。そして、もし、人であったらどんな姿だったろうって、……ずっと、想像してたの」


「……姫様のお姿は王妃様とよく似ておられますわ」


 話を聞いてやはり、この現象は王女殿下の魔法であると確信した。


 思えば、このところ悩まされていた王女殿下の不安定な魔力が、一昨日のアズサの行動で覚醒されていたのではないだろうか。そう考えれば、今起きているこの現象が腑に落ちる。


 全ての事に規格外の前王妃、そしてその力を受け継いだ現陛下。


 その血を分けたこの方にも同じように規格外な力が秘められていたと言うだけの話だ。それが竜の呪いを跳ね返すほどのものであるという可能性には、流石にあきれるしかないが。


 妃殿下が姫を出産されたあの時、侍医は生まれたお子を隠そうとした。呪いをその身に浴びたとはいえ、獣の仔として生を受けた赤子にあたしですら衝撃を受けたのだから。


 けれど、元気な産声は正しく人のそれで。


 生まれてすぐの赤子にご自分の乳をふくませてやりたいと、とうに限界を超えた身で仰られる妃殿下の言葉を、あたしも侍医も止めることなど出来なかった。


 差しだされた紫色の獣の仔を見たあの方の第一声が、『かわいい』だったことにあたしも侍医も気が抜けたものだ。


 とろける様な目を向けて愛しみながら乳を与えるその姿に、この人はやはり規格外だと感じた。

 その後、眠ったまま目を覚ますことのなかった王妃。あの方が王女殿下にご自分の乳をふくませてあげられる機会はその後訪れず、数日後には息を引き取られた。


 だが、あの方は呪いを受けて産まれた姫に対して心配するようなそぶりを見せなかった。

 ただ、可愛い、ずっと見ていたい、名残惜しい、と乳を飲み終え眠る姫に話しかけられていただけ。その透き通るような金の瞳が閉じるまで。


「本当に、姫様はお母上や兄上様によく似ておられますわ」


「……ほんとうに?」


 ベッドの上で生まれたばかりの赤子のように震える王女殿下の身体を、包み込むように抱きしめた。


「以前、うかがったことがございますの。どうしてそのように次々と様々な魔法を創りあげることが出来るのかと。そうしましたら、あの方たちは親子そろって同じことを仰られましたわ」


「何と、仰ったの?」


「ふふっ、考えるだけで出来るから、やり方など知らない、と」


 出会って間もなくその話を聞いた時、前王妃の規格外さを思い知らされて、若き日の自分は打ちのめされたものだ。

 魔力だけには自信があった自分を軽々と蹴散らし、どんどん前に進んで行くあの方についていこうと決めたのもあの時。


「姫様にも、同じことをうかがいましょうか。アズサを出先から召喚した時、どうやってなされたのです?」


「……アズサの帰りが遅いと聞いて、わたくしのところへ早く戻ってほしいと、そう考えていましたわ。お兄様の事もあって、どんどん、胸が苦しくなって。気付いたら驚いた表情をしたアズサが目の前に……」


 眉間に力をこめ、己のしたことを語る王女殿下はまるで叱られた子どもの様な表情をしている。アズサに対し、迷惑をかけたと、ずっと気に病んでいるのだ。


「そうでしたわね。では、今しがたバルドの手から落ちた坊ちゃまのお姿を見て、姫様は何をお考えになられていたのです?」


 今度は口元をまごつかせながら、少し気恥ずかしげに話してくれる王女殿下の、その表情の豊かさに胸が詰まる。


「バルドが、あまりに危ない運び方をしているものだから、わたくしに腕があったならばそんな抱き方はしないのに、と、そう考えているうちにお兄様が手から滑り落ちるのが見えて……」


「……その件につきましては、バルドには後ほどきつく注意しておきます!」


 ……あぁ、いけない。今はあの馬鹿息子の事なんて考えてる場合じゃなかったね。


 湧き上がっていた怒りを振り払い、王女殿下へ笑いかけた。


「さぁ、姫様?わたくしは姫様のお美しい人の姿も素敵だと思いますけれど、姫様は人の姿と元の姿、どちらが安心なさいますか?」


「安心?」


 突然変わった話題に、透き通った紫に金色が散ったような瞳を少し丸くして、王女殿下は首を傾げている。もう、涙は止まっていた。


「えぇ、姫様が安心してお過ごしになれるお姿が一番ですもの。さぁ、目を閉じて想像してみてくださいまし。今、ご自分がどうありたいのか。不安を感じずにいられるお姿はどちらなのか、ありのままの姫様でよろしいのですよ」


 不安に瞳を揺らしていた王女殿下は、ゆっくりとその瞳を閉じた。

 魔法を阻害しないよう、そっと体を放して見守る。すると、美しく、絹糸のように長い頭髪がみるみるうちに縮小し、ベッドの上にはいつも通りのお姿に戻られた王女殿下がいた。


「……考えただけで魔法が発動するなんて、少し前のわたくしが聞いていたら信じられなかったと思いますわ……」


 でしょうね。と心の中で相槌を打つ。

 自分も同じ気持ちだったから、今まで敢えて口にはしてこなかったのだ。迷いの渦中にいる時、人は正解を目の前にしていても信じられないことが多いものだから。


 魔法のコツなど人に教えてもらう物じゃない。自分自身で確信し、己の魔力の扱い方を掴み取ることこそが大切なのだ。


「さぁて、姫様?これからが大変ですわね」


「?」


 何を言われているのかわからないと、いつものように首を傾げる王女殿下の姿に少しの寂しさと安堵を感じつつ、しっかりと現実を突き付ける。


「よく考えてご覧なさいませ。考えたことがそのまま全て実現したなら、どうなさいます」


 坊ちゃま不在の留守を預かり、教育役を仰せつかっている身としては、姫様のご成長という喜ばしさと共にまた一つ頭の痛い問題が増えたのだ。


 一瞬で血の気が引いたのだろう王女殿下は、寝具の中に顔を埋めて思い悩んでいる。ぶつぶつと呟く声に耳を傾けると、その呟きが聞こえてきた。


「ダメ、ダメ、絶対ダメ!!わたくしがいつもアズサと一緒に街へついて行きたいって考えてることが現実に?う、嬉しいけど、いけないわっ、民が驚いてしまうもの!あっ、それよりももっと撫でて欲しいと思うだけで、アズサを召喚してしまうなんて事に!?い、いやぁぁぁっ、わたくしの考えていることが全て露見するなんて、恥ずかしくて死んでしまいますわあぁぁぁっ」


 ……まったく、この兄妹ときたら、本当にアズサのことばかりだね。


 想像されただけでこれほどまでに羞恥を覚えるのだ。一つ二つ、失敗をすれば優秀で完璧主義の王女殿下のこと、すぐに魔力の操作をご自分のものとされるだろう。


 可愛らしい煩悩の数々を聞きながら、そっと背を撫でて王女殿下の好きな歌を口ずさむ。静かになった室内に自分の声と、遠くで泣く赤子の声とが聞こえた。


 シーツの中から顔を上げた王女殿下は乱れた毛並みも気にせずに、少し困った表情で不安を告げてくる。


「お兄様のこと、どう考えますか?あれはやはり、アズサの力なのでしょうか」


「……さあて、どうなんでしょうね?わたしには魔法が発動する気配は感じられませんでしたけれど。姫様はご心配ですか?」


「アニヤは心配ではないの!?あのお兄様のお変りようを見て、不安にならぬ方がおかしいのではなくて?」


 驚きに声を荒げてこちらを見た王女殿下に、大丈夫だと笑いかける。


「よく考えてみれば、心配などする必要もないと思い当ったんですよ。たとえ坊ちゃまにアズサが魔法を掛けたとして、現状、何か変わりますか?」


「だって、お兄様がご自分のことをお忘れになられているのよ?このままではお話も……。い、いいえ、何かあった時にはお兄様のお力が……」


 ご自分で話すうち、昨日確認した坊ちゃまの現状を思い出したのだろう。王女殿下は黙ってしまった。


 そう、昨日バルドと陛下が王城へともどり、変わり果てた坊ちゃまの姿を目の前にしながら、我々はバルドから驚きの報告を聞かされていたのだ。




















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