泥棒ネズミ
わたしがお世話になっているお屋敷は、王家の所有する宮殿で紫水宮と呼ばれている。
王宮からそれほど離れていない場所にあるようなのだが、わたしはまだそちらへは行ったことがない。
山の斜面に広がる王都のその上に黒々とそびえるのがティルグニア城。
黒竜が飛び立つ姿を現しているというその城は、見る者を圧倒する禍々しさがある。(と思うのはわたしだけらしい)
朝昼夕夜の1日4回、決められた時間に響く鐘の音は城に備え付けられた鐘楼から届けられるため、城の存在だけは身近に感じていた。
夜明け前に朝の鐘が響くと城門が開かれ、人々が働き始める。
お昼の鐘で仕事に区切りがつけられ昼食を摂り、夕方の鐘は大体日の沈む30分くらい前に鳴らされて城門が閉ざされ、外との行き来が制限される。
そして一日の終わり、夜の鐘で多くの家々は火を落とし就寝することになる。
この離宮の子ども達も毎日をそんな鐘の音と共に生活して、とても健康的で健全な生活を送っていた。
「たまーに、夜中にコンビニにお菓子を買いに行きたくなるのはわたしが不健全なのかな。でも、ビールにおつまみ、焼き鳥、カップ麺。うぅ、食べたいなぁ……」
宵っ張りで早寝が出来ないわたしは、毎日眠くなるまでお裁縫をして時間を潰している。
そこで作ったオムツカバーが中々好評を得て、最近増えたママ友(わたし自身はママではないが)にも作って欲しいと依頼をされることが増えていた。
そんなわたしの最近の流行りは刺繍である。
正直、オムツカバーは飽きたから違うことをしたくなったと言うのが本音。だけど、これまた産着にあしらった刺繍がちょっとした人気になり、カゴつきの刺繍と言われて喜ばれている。
「子ども達の手仕事で作ったカゴがそこまで喜ばれるなんて……。街でカゴつきベビー服って屋台出したら売れる?売っちゃう?」
「お嬢、イモの汁取りは終わったぞ。こんな大量にどうするんだい?」
ずんぐりとした背恰好のオレンジ髭を三つ編みにしている男性はガルロック。
この離宮で、通いの庭師をしている使用人の一人だ。
庭を散歩していればお花を分けてくれたり、草むしりを手伝うと庭で採れた果物や木の実をご褒美にくれたりするから、子ども達の間では密かに人気が高いお人である。
「お芋は騎士達が持ってきた分を全部すり下ろしちゃいましたからねぇ。手伝ってもらえて助かりました。しばらくはお天気が続くって教えてもらったし、今日のうちに全部やっておきたかったんです。日が短くなって、乾燥にも時間がかかるでしょうから」
子ども達だけでなく、バルドや騎士達までとろみのついたスープが気に入ったらしく、作り方を聞かれて焦ってしまった。
葛粉はガルロックが作ったものを分けてもらったもので、そんなに沢山の人に振舞えるほどわたしは持っていなかったのだ。
そこで、とりあえず大量生産が可能そうなお芋の片栗粉を目下製造中という訳だった。
「なんも気にするな。こっちも色々と教えてもらえて助かっとるからな」
手足の長さが控え目で、どうしても届かない場所は子ども達の手を借りなければならないと呟いていたガルロック。
彼との雑談で、某通販で見かけた『枝切りばさみがあれば良かったですねぇ』と世間話をした次の日、彼は輝かしい笑顔で似たような物を担いで現れた。
鼻歌混じりで庭仕事に励んでいる姿は、実に楽しそうだった。
ここにもそんな物が売ってたの!?と思って訊ねると、自分でお造りになられたとドヤ顔で仰るガルロック。
あとからアニヤに、シャムロックの甥っこだと聞いて納得してしまった。確かに、顎ひげを細かな三つ編みにした姿には見覚えがある。
日当たりがよくて風通しのいい場所に、さらしで漉したでんぷんを入れた箱を並べて行く。ふと視線を感じて顔をあげると、近くにある常緑樹の枝に青い小鳥が羽を休めている姿が見えた。
この離宮の敷地内には最近、小さな動物が見かけられるようになっていた。
そのうち、庭の片隅や窓の外にいつの間にか見かけるようになったのは今も梢にとまっている小鳥。
カワセミに似た鮮やかな青い羽を持つその鳥は、気がつくとそこにいてじっとこちらを見ていることが多い。庭園のどこかに巣があるのかもしれない。
「アズ――…、聞いてよ。またデルデンの実が減ってるんだよぉ」
泣きべそをかきながら屋敷の裏手からやって来たのは、食いしん坊のウカだ。
彼は最近、気の毒なほど泥棒の被害にあっている。それも何度も繰り返し被害に合うものだから、大分うっぷんが溜まってきているようだ。
「これは明日のおやつ用にとっといたぶんなのにぃっ」
中身の減ってしまった麻袋を探って悔しげに数を数えるウカは、先日軟膏屋の女将さんに怒鳴られるという経験をしていた。
こっぴどく叱られたというのに、謝ってすぐにケロリと元通りになる彼の性格が少しうらやましくもある。
うん、まぁ話が逸れたが、いつの間にやらこの屋敷に住みついて食べ物を失敬していた存在に一番に気づいたのもウカだった。
この子の鼻の良さは群を抜いていて、風向きによってはまだ見ぬ訪問客を言い当てたりもするので驚きを隠せない。
盗って行くといってもそれほど多くの数ではないのに、随分と細かいところまで気がつく子だと思う。
「アズっ!笑ってないで、そいつを捕まえて怒ってよぉっ」
こちらに向かって怨みがましい視線を投げて来るウカに苦笑する。
隣で作業を手伝ってくれていたガルロックも微笑ましいものを見るように笑い、前庭の剪定作業へ戻っる仕度をはじめた。
大きな剪定ばさみと枝切りばさみを、ホクホクしながら担ぎあげ去って行く彼に礼を告げると、背を向けたまま大きく手を振って返してくれる。
振り返り、不満を訴えるウカの方へ視線を戻すと、何度も数えたらしい麻袋の中身を涙ぐみながらまた数えている。32個あったのに二つ消えているらしい。
引き算と足し算が役に立っているようで何よりだ。
ガルロックが作ってくれた乾燥用の棚にゴミが入らないよう布をかぶせ重石をしながら話を聞けば、足取りを荒くしてわたしのあとをついてくるウカは、今日こそあのこを捕まえたいらしい。
「捕まえるって言っても、あのこすばしっこいんだもん。どこにいるのかもわかんないし」
「もうっ、何いってんのさ。アズの頭の上に乗っかってる泥棒ネズミは何だって言うの!?」
「ん?あたま?」
言われて自分の頭に手を伸ばし、そっと両手を被せるようにすると、やわらかい物が手の中に感じられた。
触れるまで重さを感じなかったそれが、両手で包んだ瞬間に生き物の温かさと重さを主張してくる。
「おお!?こんなところに、いつの間に」
頭上に感じたその存在をふわりと手の中に挟んで下ろせば、そこには手の平サイズの毛毬があった。いつもはまんまるの毛玉なのに、今はこぶが2つできている。
こぶと言っても、怪我をしているわけではない。単に、口に物がつまっているのだ。
「もう、ウカの採ってきた分には手を出しちゃダメって言ったでしょ?あなたのはこっち。ほら、いい子だから頬袋につめたデルデンは返してあげて」
腰につけた巾着を示して見せると、白い毛毬は身じろぎして身体を起こした。
つぶらな黒い瞳でわたしを見上げる泥棒ネズミことハムスターのメイは、試し引きの為にシヤの泉へ訪れたあたりからお屋敷に出没し始めた居候だ。
身体が小さいのでドワーフハムスターの一種なのだろうとは思うのだけど、わたしには種類まではわからない。
普段は白い毛並みのその背に一本のラインが入った毛柄をしているのだが、これがまたおかしなもので、見かけるたびにその柄が変化していたりする。
ちなみに、今は付けまつ毛みたいな模様になっていた。
「あっ、あぁ~っ!飲み込んじゃったぁ」
メイが目を細めてふいっと視線を逸らした瞬間、頬袋の膨らみが消えていつもの丸いフォルムに戻った。それをみたウカが裏庭の地面に崩れ落ちて悲痛な声を上げている。
厨房の裏手にある倉庫には、常温で保管できる様々な食材が置かれていた。
その室内には乾燥した香草や穀物、土のついたままの根菜類など様々な物が所狭しと保管されている。これらはこの屋敷の料理長によって貯められている冬越し用の食材で、その一角に子ども達が山で収穫してきた物を置くスペースをもらっていた。
そこへ置いてあったウカの麻袋が被害にあったのである。
最近、三日にいっぺん位のペースで薬学者達が薬草の採取に向かう馬車が出ているため、わたし達もそれに便乗して食材や冬越しのための薪集めをさせてもらっていた。
その時には騎士団も少なからず動員されているので、近頃では小うるさい男の目を逃れて自由気ままに街へ行ったり山へ行ったり、やりたい放題させてもらっている自覚がある。
アニヤに言わせれば、今まで子ども達を外に出す機会を窺っていたから、これからもじゃんじゃんやっちゃってという感じでお許しをもらっていた。
熱を出したあの時から、特にわたしが何をするでもなく、山には徐々に緑が増えている。もう初冬に差しかかるこの時期に、普通ならばありえないと学者さん達は言っているのだけれど、最近の調査報告ではどうやらシヤの泉一帯に魔力が満ちているとのこと。
魔力で育つ植物もあるんだねぇ、へぇ~。程度にしか聞いていなかったのだが、こうしてその恩恵にあやかっている今では魔力よもっと増えてくれ!と山に行くたび子ども達と念を送るようになっていた。
冬支度のために山へ入った下町の人達も薬草の繁殖に気付いたようで、今では多くの人を山で見かける。そして、自分達の取り分が減ってしまうと焦ったウカが躍起になって食糧確保にいそしんでいるという感じだ。
最近の彼は、いかに効率よく収穫するかということと、自分達のおやつのことしか考えていない。
「ごめんね、ウカ。なんでわたしが採った物じゃなくてウカの収穫袋ばっかり狙うのか……不思議だよねぇ」
打ちひしがれるウカから顔を背けて”ツーン”とそっぽを向いているメイは、時々とっても人間臭い動きをする。まるで、こちらの話していることがわかっているかのような反応だ。
知らんぷりで毛繕いを始めたメイをそっと胸のポケットに入れてウカを抱き起こし、励ますように声をかけた。
「今日のおやつはホットケーキに甘蔓のシロップをかけてあげるから、機嫌直してよ」
「……シロップ?今、シロップって言った!?どうりで朝から甘蔓の匂いが充満してると思った!ホットケーキ!?そういうことは早く言ってよ。こうしちゃいられない、ボク、みんなにおやつのお知らせしてくる――…」
勢いよく立ちあがり、目をキラキラさせて裏庭から消えて行ったウカを見送りながら、手を振る。
「今日のおやつは、もともとホットケーキなんだけどね~」
去って行った彼の耳には届かない事を知りながら一人ごちていると、胸ポケットにいるメイが笑っているような気配がした。視線を落とすと、確かにニヤリとしか表現しようのない顔をポケットから出している。
「メイ、あんたは後からこのお屋敷にお世話になることになった下っ端なの。この先ウカの物を盗ったらここに置いとかないからね。ウカの何が気に入らないんだか知らないけど、子どもっぽい嫌がらせはやめなさい。いいわね?メイ」
「ピキュッ」
わたしの言葉を聞いたメイはおでこを弾かれた、とでも言うように小さな頭を後ろへ逸らす仕草を見せた。
わたしが命令口調でこの子に何かいうと起こる現象だけど、なんでなのかは判らない。それを聞いて教えてくれそうな人が今はここに居ないので、帰ってきたら聞くつもりではいるのだけれど。
額を抑え、小さなピンク色の手で額をなでるメイ。
その愛らしい仕草に癒されながら空を見上げれば、まだ太陽は木々に隠れる位置にある。やわらかな陽光の中、時折吹きつける風は日々冷たさを増していた。
この頃は早朝から洗濯物をする日があるので、日中の仕事が早く終わり、その分時間も空くようになっていた。
その空いた時間を利用してメイの背中の模様を見て思いついた刺繍を子ども達の洋服にちびちびと刺して過ごしているのだ。
「さぁ、今日は誰の服に刺繍をしようかな。赤ちゃん達の分は二着ずつ刺したことだし。あ、色糸がもうなくなりそうなんだっけ……。薬草を街に売りに行くのが先かぁ」
山で採れた薬草はなかなか良いお値段で買い取ってもらえる。
それというのも王宮お抱えの医師、兼薬学者でもあるフィロン先生から王宮御用達の卸しの店を紹介してもらえているからだ。
最近じゃ、数人の子ども達を引き連れてその店に売りにいくのが恒例になっていたりもする。
少しずつ収入を得てちょっとしたお小遣いを持てるようになったわたし達は、街にも好きな物を買いに行けるようになっていた。
まだ子ども達だけで街へ行こうとする姿はないのだけれど、大きな荷物がある時なんかは率先して男の子達が仕事をしてくれる。
一緒にいることが多くなって、騎士団の人達に鍛えてやると声を掛けられた数人の子達はなんだか逞しく育っているし、身近な男性諸君が強くなるのは頼もしい限りだ。
さらに、この離宮でメイドをしているバネッサが以前は下町に住んでいたと聞き、彼女からも下町の色々な情報を聞き出して、顔馴染みになるべく通いまくっているところ。
バネッサはすらりとした長身の持ち主で、焦げ茶色の髪をアップにして仕事をしている。
彼女は鋭い目つきで子ども達を見ている事が多かったので、最初は子ども嫌いなのかなと思ったりもしたのだが、よく見ているとそうではないんだなと分かるようになった。
彼女の言動は、なんだか誰かと似ているなと感じてもいたのだが……。
「アズサ、洗濯物干しが終わったから、あたい達はジャム作りの準備に行くよ」
屋敷の横手にある干し場から姿を現した数人の子ども達の先頭に、赤毛の姉さんが立っている。
ふわりとしたウェーブを描く彼女の髪には青いスカーフがいつも巻かれているのだが、その縁取りには飾り文字でバネッサと刺繍がされていた。
文字がわかるようになって初めてこのスカーフが彼女の物ではないのだと知り、そしてよくよく考えてみれば、時折離れて子ども達を見ている赤毛の彼女とバネッサの立ち姿が似ているなーと思うことがあったのだ。
「この前作った山ブドウのジャムは、バネッサさんが震えるほど喜んでたもんね。きっとまた喜んでくれるよ。わたしはこれから昨日収穫した薬草と拾った石を売って来るつもり」
「……そうなの?じゃあ、あんたが帰って来るまで待つよ」
「もうジャム作りも二回目だもん、わたしがいなくても大丈夫だよ。ペクチンがよく出るかんきつ類の種もちゃんと用意してあるから、あとは焦がさないように気をつけるだけだし」
みんなで並び歩きながら裏庭からの廊下を抜け、玄関前のエントランスへと足を踏み入れると、誰かが言い争うような声が聞こえてきた。
この屋敷の中では耳にしたことのない罵声がだんだんと大きくなる中、声の主が見えるところまで出てみれば、そこには一週間ほど前にウカの首根っこを掴んで怒鳴った軟膏屋の女将さんが立っていた。
「ふざけんじゃないよ!こちとら商いの妨害をされて、本当ならあの子どもを裁いてもらうことだって出来るんだ。それなのに、こっちが温情をかけて雇ってやるって言ってんだから、早くあの小僧をお出しよ!」
「ですから、先程から申し上げております通り、あの子にはしっかりと謝罪をさせましたでしょう。あの子をそちらへ見習いとして奉公にと望まれるのでしたら、それ相応の手順を踏んでくださいませ」
「使用人風情が、気取った言葉でこっちをはぐらかそうったってそうはいかないよ!うちの本店は王宮とも取引のある大店だ。うちを敵に回すとどうなるかみせてやろうじゃないか。あんたの主人をお出しよ、使用人じゃ話にならないからね!」
……おおう、なんて畏れ知らずな女将さんでしょう。
応対に出ているのがアニヤだと気がついた瞬間、自分が怒られているわけでもないのに血の気が引いた。
能面のような笑顔を張りつけたアニヤを睨みつける女将さんは、恐いもの知らずと言うより、全く何にも気付いていらっしゃらない様子。
このままだと色々大変なことになるのだろうと予想がつく。この人を通した門番さんもこっぴどく怒られることだろう。
……セバスさんに見つかる前に何とかせねば!
母がわりのアニヤが侮辱されて、今にも飛び掛りそうになっている赤毛の彼女やちびっこたちを制して、わたしが一歩前へ出た。
恭しくアニヤの前に跪いてゆっくりと頭を下げる仕草をしてみせれば、興奮していた女性の言葉が途切れる。
「アニヤ様。ご子息であられるティルグニア騎士団長バルド様より、至急の連絡が入りました。殿下付き筆頭女官としてのご意見が欲しいとのことです。お客人の対応はわたくしにお任せくださいませ。――お急ぎを」
「……そう、承知しました。では、こちらの客人への対応は貴女に任せましょう。後を頼みましたよアズサ」
「承知致しました、アニヤ様」
静かな靴音を立てて去って行くアニヤの姿が、扉の向こうへ消えたのを確認して立ち上がると、口をあんぐり開けて真っ青になっている女性がぽつんと立っていた。
時代や世界は違えど、どこにも権力者にたてつくとその場で斬られても仕方ないって考え方があるようだ。
わたしはつくづくお侍のいるような時代に生まれなくて良かったと思う。まぁ、要はこの世界でも貴族に逆らうのは不敬、という考えが根強くあるらしく、先程のこの人の言動は限りなくアウトだったという話。
「軟膏屋の女将さんですよね?わたしを覚えていらっしゃいますか?おーい?」
放心状態の女将さんが回復するのを待つ間にウカを呼んでもらい、食堂で女将さんに水を差しだす。虚ろな目でコップをがっと掴んだ彼女は、水をごくごくと一気に飲み干して一言。
「わたし、死ぬのかい?」
どうやらこの方、昨日街で見かけたわたし達の後を追ってここまでの道を知っただけで、このお屋敷が離宮だということも把握していなかったらしい。この怯え方を見るに、そこまで悪人のような人にも思えなかった。
「アニヤ様はお優しい方ですから。わたしに任せてくださった時点で、貴女を手討ちにするというお考えはないと示されたんですよ。でも、これからは気をつけてください。今回許されたのは、あの方の温情ですからね」
『おんじょう……』と小さく呟いて女将さんは俯いてしまった。そこへ、厨房の奥からにこやかな顔をしたウカが小瓶を抱えて現れた。
「アズ~、お待たせ!やっと、シロップが冷えたんだよ」
ほんのりとコハク色をした液体の入った瓶を大事そうに抱えるウカは、厨房で甘蔓の蜜を煮詰める作業を見学していたらしい。
日ごろから『ボクは美味しい物を作る料理人になる!』と息巻いている彼は、料理長に邪険にされながらも厨房への出入りを許可されるようになっていた。見た目ゴリラのような強面の料理長だが、彼は食べ物に並々ならぬ情熱を持つウカを結構気に入っている。
「よかった。今回は頑張ってたくさん採ったからね。ところでウカ、あなたにお客様が来ているの。ちょっとそこに座って」
シロップ入りの瓶の匂いに気を取られたままのウカは、うきうきと椅子に座ったとたん団子っ鼻をぴくりと動かした。正面に座る女性の正体に気がついたらしい。
みるみるうちに青くなって震えだした彼は、隣に座るわたしの服の袖を掴んだ。
「ボク、ボク、もう謝ったよね?ごめんなさいしたよ?」
「今日は怒りに来たんじゃないみたいなの。話を聞いてみようね」
わたし達のやり取りをじっとみていた女将さんは、手に持っていたコップをテーブルへ下ろすと、大きくため息を吐いて話し始めた。
「この前は、あんなに怒鳴って悪かったよ。あたしゃてっきりお前さんが商売敵の回し者なのかと思っちまって。後から従業員に聞いたら、材料をこっちが教えたわけじゃなく、お前さんが全部言い当てたって聞いて驚いたんだ」
すっかり威勢をくじかれた様子の女将さんは、力なく溜め息をついている。
「だけど、お前さんだって悪いんだよ。薬のレシピはうちの店の宝だ。それを人の耳が沢山ある場所でさらけ出すような真似をしたんだからね。それを聞いて真似をした人間が同じものを作って売りだしたらうちの家族はメシが食えなくなる。従業員だって仕事を失くしちまうんだ」
「え……、えぇ!?ご飯が食べられなくなっちゃうの!?ボ、ボク、そんなつもりじゃなかったんだ。本当に、ごめんなさいっ。もうしません。おばちゃんも、ボクのせいでご飯食べられなくなっちゃったの?う、うえぇ、ご、ごめんなさいぃ…」
泣き始めたウカを見て、表情を和らげた女将さんは刻まれた皺をほんのちょっと綻ばせて笑った。
「まだ、そこまで落ちぶれちゃいないよ。だけど、最近他国から輸入されてくる商品にうちのと入れ物が似ただけの粗悪品が紛れ込んでくるんだ。それをうちに持ってきて苦情を言う連中が増えて、こちとらてんてこまいさ。性質の悪いことに、アレは使ってみないことには粗悪品だってわからない。塗ってしばらくすると肌が真っ赤に腫れあがって火傷したように水ぶくれができちまうんだよ。そんな毒を薬だと言って売るなんて、許せないったらないね!」
苛立ちを拳に込めたようにテーブルをたたいた彼女は、ハッとしたようにわたし達の方へと視線を戻して眉尻を下げた。
「事情はわかりました。でも、それがなぜこの子を見習いに欲しいなんて話になったんですか?」
「あぁ、そっちはまた別件さ。最近、グリグラー商会に質の良い薬草を売りに来る子どもらがいるって噂を聞きつけてさ。商会の前でうちのが見張ってたら、あんたとその坊主が出て来るのを見たって言ってね。しかも、偶然聞こえてきた話じゃ、貴重な薬草のほとんどをその坊主が見つけたって言うじゃないか。お前さん、そりゃあ本当の話なのかい?」
……えぇっと、偶然聞こえてきたって、それ、盗み聞きしてたっていいませんかね?
どう見ても悪気なんて無さそうに話す女将さんの姿に苦笑しながら、肯定を返した。
「そうですよ。この子、こう見えてすごい子なんです!とても鼻が利く子で、あの山のどこに何が生えているのか大体分かるらしいんです。でもこの子、本当は薬草を探すつもりはあんまりなくてですね?木の実や甘蔓を探すついでに、薬草が近くにあったら採取するって程度の興味しかないんですよ」
「なんだって!?もったいない、その話が本当ならあんた、雇うのは無理でもうちに専売で薬草を売ってくれないかい?見習いとして雇いたいってのは、坊主にあれだけ薬草の知識があるならほかの店に盗られる前にと思って乗り込んで来たのさ。あれだけ極上の薬草を持ってくるんだ、グリグラー商会があんたらを取り込もうと狙ってるのは間違いないからね!」
おっと、この女将さんは中々目の付けどころが良かったようだ。確かにグリグラー商会の人にも声を掛けられたけど、既にお断りをしている。
誰がって、もちろんウカが。
鼻の良いウカがいなかったら、崖の上や大岩の下、樹上にある苔みたいな植物の存在になんて気付ける者はいないのだから。
そして、本人の意思を聞けば答えは決まっている。
「おばちゃん、ごめんね?ボク、もう働きたい場所は決まってるんだ」
「なんだって!?やっぱり、グリグラーなのかい?それとも、まさか、商売敵の……」
まだうっすらと涙の残る瞳を輝かせながら、ウカはシロップの小瓶を抱え上げて宣言した。
「ボク、料理長とアズの弟子になるの!美味しい物を作る一流の人になるんだよっ」
周囲で話を聞いていた子ども達から一斉に溜め息が出た。
いつの間にか弟子入り先にわたしの名が入っていた事には知らんぷりをして、ウカの肩に手を乗せる。
「ウカ、よく聞いて?一流の料理人は、食べ物の材料の事をよーく知らないといけないの。一流の料理人になるには色々な材料の種類や味、匂い、食べられるものかそうでないかを知っている必要があるんだよ。わかる?」
「わかる!アズが甘蔓の樹液がシロップになるって教えてくれなきゃ、ボク、かじって終わるところだったもの。アズが樹液を煮詰めて食べるんだって教えてくれなきゃ、今日のオヤツのホットケーキは甘くない奴だっただろうし、そもそも、オヤツの時間がなかった!」
その返答に重々しく頷いてから、ウカに囁いて聞かせる。
「軟膏屋のお店の中からは、色んな匂いがするって言ってたじゃない?ウカが美味しくない葉っぱと美味しい葉っぱがあるって言ったように、世の中にはまだウカが食べてないけど美味しい物がいっぱい隠れているのよ。お庭でガルロックさんが育ててる植物のようにね!」
「はっ!?そうだね、ボク、分かってなかったよ!料理長のお料理やアズのゲキウマオヤツを見て食べてるだけじゃ、もっと美味しい物を見逃すところだったんだね!?」
……うんうん、流石ウカ。
わたしの言わんとすることがしっかり伝わって何よりだ。これは社会見学のステップ2、『職場体験』のいい機会だから!!
「そうよ。だからね、少しの間でいいからこの女将さんのところでお仕事をやらせてもらってはどうかな?一人じゃ不安だから、他の子も何人かついて行ってもいいようにお願いしてみるから、ね?」
もちろん、不安なのはウカを一人で行かせることなのだけれど、それを敢えて口にする必要はまったくない。そして彼以外の子ども達はきっとそれに気がついているだろう。後ろからの突き刺さるような視線がちょっと痛い。
「アズ、ボクやってみたい!料理に使える美味しいもの、いっぱい見つけたいよっ」
……うんうん、そうこなくっちゃ。
本人の了承を得たわたしは、女将さんに向き直った。ここからの話が、お互い大事なのだ。
「女将さん、今聞いて頂いた通りです。このように本人には軟膏屋になる意志も薬草に対する熱意もまったくありません。だけど、実際に働いてみて、あなたのお店に興味を持ったり魅力を感じたら、彼の意志は変わるかもしれませんよ。あとは女将さんの手腕次第……。フフフ、この子がリラックスしてそちらのお店に行けるように他の子ども達も同行させていただけるのでしたら、ウカを数日間、午前中の通い見習いだけ、というお約束で行かせることは出来ますが、いかがでしょうか?」
「それは、まぁいいが、あたしの手腕次第って何のことだい……?」
そう、文字通り、あなたの腕次第です。ウカのお腹を満足させられるかどうかっていう、最重要課題ですよ!
「この子はとても食いしん坊ですから。魅力を感じるとしたらそこからです」
「あ、なぁる。そういうことかい」
ふふふ、クククと二人で笑いあう中、また背後からの視線をちくちくと感じつつ、商談(?)は無事に終わった。話はまた日を改めて煮詰めて行く事になる。
彼女を見送って手を振っていると、後ろからアニヤの溜め息まじりの声が聞こえてきた。
「アズサ、あんたって本当に人を丸め込むのが上手だねぇ。ウカがあの女将さんの店で働きたがると思うのかい?」
振り返って、苦笑を返しながら本心を打ち明けた。
「絶対、長続きしないでしょうね。何せあのお店が扱ってる商品に食べ物がありませんでしたから。薬草は何種類か食べられるものもあると思いますけど、全部一通り見たら行かなくなるんじゃないかな」
ウカはシロップの小瓶を料理長に返しに行っているため不在だけど、赤毛の姉さんや他の子達もアニヤと一緒になって呆れ顔でわたしを見ている。
「でも、いいんです。そもそも、これは職場体験をさせたいと思ってたわたしと、あの女将さんの望みが重なって出来た偶然の機会なんですから。向こうがウカをその気にさせられればその時はウカの気持ち次第だし、こっちもこの機会を有効利用させてもらえたら嬉しいなってね。うふふん、さぁて、ウカと一緒に行ってくれる人を探さなきゃなぁ」
そう言いながら、期待の気持ちを込めて赤毛の彼女を見れば引きつった表情で否定された。
「あたいは街に下りるなんて嫌だね。あんたが言い出したんだから、自分で行きなさいよ!」
「えぇ~、でもさ、軟膏の作り方とかすごく興味を持ってたじゃない?きっと、お薬の作り方とか見られるよ?」
「そ、それは……でも…」
以前もらった軟膏はあの女将さんのお店の商品だったのだ。子ども達の赤切れが見る間に良くなっていったことでわたし達はみんなあの薬に感謝している。
だけど、それはそれ。わたしにはこの子達に無理強いをするつもりなんてまったくない。
「気が向いたら一日だけでも参加してみて?もちろん、行かなくたっていいの。行きたければの話だよ。自分で決めていいから、みんなもね」
小さい子から年長者まで、みんなに声をかけてみるつもりでいたが、予想外にこの場に居た子ども達の反応が好意的だったので驚かされる。
「わたし、一日だけなら行ってみたい。でも、この耳じゃ……」
「えぇ~、あたちも、あたちもいくっ。いっしょにつれてって!」
「あんた達、遊びじゃないのよ?見習いは働きに行くって事なんだから」
「だいじょうぶっ、あたち、すっごくがんばってはたらくよ。そんで、またみんなにあのおくすりもらってくるからっ」
「「「「「…………。」」」」」
……くっ、泣かせるやんけ。
胸をズキュンと打ち抜かれたわたしは、よろよろと黄色い髪を持つ少女にハグをした。この子は以前、『あまいのたべたい』とわたしに言ってきた子だ。
そして、今のところ将来の夢がウカとかぶっている。
「うんうん、大丈夫。きっと連れてってあげるからね?他にも行きたい人がいたら教えてね。身体の事なら気にしなくていいよ。わたしがちゃんと話をしておくから。だけど、それでも世の中には色んな人がいるからさ、怖いと思うのなら無理して行くことはないの。本当に行きたいと思った時には、わたしがちゃんとついててあげるから。安心してね」
思えば、このお屋敷へ足を踏み入れた女将さんは、ここが離宮だとは知らなかったけれど、半獣の保護施設であることには気がついていたんじゃないかと思う。
半獣の生まれるこのご時世でこれほど王都に子どもがいる場所なんて、この街の人ならすぐに思い当たるんじゃないだろうか。
緊張のほぐれた女将さんは、いい顔で帰って行ったけれど、あまり視線をウカ以外の子へと不躾に送ることはしなかった。
気付いていて、見習いに誘ってくれた。そう思いたい自分がいるのも確かだけど、それはこれからの話し合いで確かめればいい。ちゃんとウカの価値を認めて声を掛けてくれた女将さんのような存在は、この子達にとって貴重なのだから。
子ども達にこっそりとお菓子をくれるようになった街の女性たちのように、少しずつ、お互いを知って分かり合いながら距離を縮めていけたらいいと思う。
この数日後、ティルグの街で大掛かりな捕り物劇が行われることになる。王様不在の王都で騎士団が大活躍したこの一件の裏では、密やかな噂が流れるようになった。
曰く、すごい見習いが騎士団に入ったらしい、と。