泉での昼食
子ども達にスープとパンが行きわたったのを確認して声をかけた。
熱いから気をつけて、と言ったそばから舌を火傷する子がでるのは、お約束なのかもしれない。
泉の水に浸かって冷えた身体には温かいものを、と考えて作ったスープだった。それを飲んだ子ども達の顔に笑顔が浮かんでいくのを見てほっとする。
「これ、本当にあったまる……。あたいは足しか浸かってなかったのに、けっこう冷えるものなのね。潜ってたあんたたちはもっと寒かったんじゃないの?」
働き者の赤毛の彼女は、期待通りに子ども達をうまく誘導してお手伝いをさせてくれている。
彼女なりの謝罪の気持ちに浸けこんだわたしのお願いにより、シヤまでの引率を引きうけてお掃除にまで参加してくれたのだ。
ここへ来て水泳経験者なし、という状況に焦りはしたものの、運動神経抜群な男子諸君はあっという間に泳ぎをマスター。女の子と小さい子は水草運びをしてくれればいいよ、なんてさらっと言える十代男子にはじめて会った。一通りの事は教えてあると豪語するアニヤの言葉は本物だった。
……流石です、アニヤさん。
さっきまでずぶ濡れだったのが嘘のように、からっと爽やかなみんなの様子を見ながら、赤毛の姉さんの問いかけに首を傾げる。
「泉の中に入っちゃうと、全然寒さを感じなかったよね?」
正面に座っていつもより大人しく食事をとる年長者の男の子達に視線を投げると、お兄ちゃんが頷いてくれた。
「ああ、水から上がった後も寒くなかった。……王様に魔法で乾かしてもらえたし。……な?」
なんとなく居心地悪そうに話すお兄ちゃんは、畏れ多いと感じていたようだ。
同意を求められ、うんうんと頷いている男の子達は、初の水泳で果敢にも潜水に挑んでくれた猛者たちだ。
見た目はそれほどでもなかったのに中に潜ると水深が深すぎて正直、わたしの方がビビっていた。
作業後は不穏な空気を発しながらずっとこっちを監視していた人に、みんな揃って服ごと乾燥にかけてもらえたのでさっぱりいい気分で食事がとれている。
あの人を畏れ多いと思ったことなんてないけど、もちろん感謝は伝えてある。
二回目の乾燥を『わたしだけ乾かして貰うのは気が引けますのでご遠慮します』と謙虚な姿勢を見せ、『わたしをやってくれるなら、もちろんみんなもやってくれるよね?』と目で語ってみたら快く乾かしてくれたし。
若干、投げやりな視線は感じたが、魔法って本当に素晴らしい。
「こ、このスープ食べたら、ポカポカしてきたよ。な、なんかね、お腹の中からほわってなる。美味しいね、アズ」
自分のほっぺを両手でつつんで幸せそうに微笑んでいるチビちゃん。うんうん、大人数の食事を頑張って作った甲斐があるってもんだ。
彼女の横で二杯目の皿を完食し名残惜しそうに皿を下げた食いしん坊は、まだ物足りなさそうな目を彷徨わせ、鍋と人の皿を交互に見ている。
「今日のおかわりは一回って約束だから」
赤毛の姉さんにそう告げられると、口を尖らせて不満を表しつつ大人しく頷いている。
「わかってるよう……。でも、やっぱりアズの作るご飯ってすっごく美味しいよねぇ。ボク、アズのご飯ならあのお鍋一杯食べられちゃう」
「お前はだれが作ったんだって、食いもんなら何でも喜んで食ってるじゃないか」
みんなから笑われても、カーキ頭の食いしん坊は熱く語っている。
……この子にはやっぱり食べ物関連の名前が合うと思うなぁ。
未だ諦めていない名前つけに思いを馳せつつ、全粒粉で作ったお芋の蒸しパンをちぎって口に放り込んだ。
「ボクだって、こないだまではご飯はなんでも美味しいって思ってたよ?でもね、わかったんだ。料理って、作る人によって味が違うんだよ。みんなだって、料理長の作ったスープとバネッサが作ったのじゃ味が違うって言ってたじゃない。その時はよくわかんなかったけど、アズが作ってくれたスープを飲んでビックリしたんだ。あ、でも、ビックリしたのはこの前もそうだった。アズと半分こにした果物とかアズがお土産に買ってくれたティティルの実!」
……ティティルの実って、わたし切り分けただけだよね。
それ、料理って言わないんだよ?団子っ鼻君?
ちょっと悲しくなりながらそんなことを思っていると、薄水色の髪をした年長の女の子からも変わった感想が聞こえてきた。
「わたしもアズサが作ってくれたご飯って、お屋敷の人が作ってくれるものとは違うって思う。食べるとすごく美味しくって、すぐお腹いっぱいになるもん。いつもはおかわりが欲しくなるのに、一皿食べると満足しちゃうの」
言われて見れば、と他の子たちも頷いている。
美味しいって言ってもらえるのはすごく嬉しいけど、別におかわりしたいとは思わない、と言われるとなんだか哀しい。
一瞬遠い目をしたわたしだったが、今日は泉の水を使って料理したことでわたし自身も久しぶりに文句なく美味しいスープを食べられているのだ。
わたしが感じている苦みや酸味はこの子達には感じない物だと聞いたように思うけど、喜んで食べてくれているのだからまぁ良しとしよう。
正直過ぎる子ども達の言葉にほんのりやさぐれつつ、気を取り直そうと、団子っ鼻君をいじることにした。
「ふうん、そうなんだ?おやぁ、でもおかしい。キミは変わらず何杯でも食べようとしてるよね?」
隣の子の皿を食い入るように見ている少年に語りかけると、心外だとばかりに食いしん坊トークが始まった。
「なに言ってるの、アズ?美味しい物はいくらでも食べられるし、そんなに美味しくなくても食べられるときに食べないと、次にいつお腹いっぱい食べられるかわからないじゃない。ボクが今日、アズの作る料理をどんなに楽しみにしていたかわかる?この間の味見はほんのちょっぴりだったけど、あの時の衝撃はボク、大人になっても絶対に忘れたりしないから!スープの匂いが山の上に漂って来たときのボクの気持ちわかってもらえる?急いで戻って来たのに近づいてもみんなの匂いがしなくて、もうみんなだけ食べて帰っちゃったのかと思った時の悲しさったらなかったよ。あ、でもそれはボクの思い違いだったんだけどね?でもでも、やっぱりとろとろスープに卵たっぷりの味は最高だよ。ボク、ネギはあんまり好きじゃなかったんだけど、このスープ食べてから大好きになったんだ。それで―――……だから―――……」
団子っ鼻君の食にかける熱い思いをスルーして、みんなは昼食を食べ終えた。彼の視線による被害者がいなくなってとても食べやすかったようだ。
片付け始めた周りの様子も目に入れずに話し続けていた彼だが、チビちゃんとお兄ちゃんが前を通り過ぎると首を傾げてじっと目で追うように顔を動かしていた。
子ども達の様子を横目に見ながら、使い終わった食器の水分を軽く払ってカゴにしまっていく。
後半の人達の食事の用意をするために立ちあがったわたし達の後を追って、団子っ鼻君も立ち上がったのだが、直後、彼はおかしな行動をとり始めた。
「な、なによ」
「うっわ、何してんだよお前!危ないからジャマすんなよな」
邪険にされつつも鼻を突き出してみんなの匂いを嗅ぎまわる少年に、困惑する子ども達。
「あれぇ、なんで??やっぱりみんな、いつもより匂いがしないよ?チビ姉ちゃんと青兄ちゃんなんて、もうほっとんど匂いがしなくなってる。う――――…、みんなのいる場所が匂いでわかんなくなっちゃうと困るなぁ」
「はぁ?お前、なにワケわかんないこと言ってんだよ」
……鼻がいいとは思ってたけど、人の判別まで匂いに頼っているんデスかキミは。
軽い衝撃を受けつつ団子っ鼻君に向き合った。
「さっきまで、泉に入って藻刈りしてたからね。シャワーをしたのと同じで、みんなの身体の汚れとかも落ちてるんだと思うよ?」
正確にはチビちゃんは全身浸かってないけど、手足は洗ったようなものだよね。
「そう、なの?……あれ?アズもいつもと違う匂いがする」
ふんふんと鼻を鳴らしてわたしの匂いを嗅ぎ始めた団子っ鼻君が、背伸びして顔を寄せてきた。
つい、いつもの癖で近づいてきた彼のお腹に手をまわしてハグしていると、すぐにわたしの匂い診断も終わったようだ。
「土のにおい。いや、違う。草……、うーん?あ、森?そうだ、この山の匂いがする。……って、あっ!そうだ、忘れてた!!」
と言いおき、突然荷物置き場に走って行った彼は大きなズタ袋を抱えて戻ってきた。
そんなに大きな袋を何枚もどうするのかと聞いていたアニヤの予想に反し、かなりの収穫があったことが一目でわかる。
小さな彼の手に余る大きいサイズのズタ袋は見るからにパンパンだ。
「見て見て、いっぱい美味しいものとって来たんだよ!あと、こっちは美味しくないけど手の痛いのが治るって喜んでたから、同じ匂いの葉っぱもたくさんとって来たの」
両手で抱えても取り落としそうになるほどに膨らんだ袋の中には、栗に似た木の実や青い山ブドウ、赤いベリー類の実に、キノコがいっぱいに詰まっていた。その下で押しつぶされている葉っぱや木の根のような物から立ち昇る香りは先日もらった軟膏の匂いに似ている。
「この葉っぱ、軟膏の匂い?え、キミ匂いを嗅いだだけであの軟膏の中に入ってる薬草がわかったの?」
「やくそうってなぁに?」
首を傾げる少年の様子に、イヤイヤまさかね。と思いつつも、彼の持つ嗅覚に感心してしまう。
「軟膏の中に入ってる傷を治す効果のある葉っぱのことだよ。キミは葉っぱの種類がわかるの?植物に詳しいなんてすごいね」
団子っ鼻君は褒めると嬉しそうに笑ってはいるが、依然として分かっていない様子が伝わって来る。
「良くわかんないけど、美味しい葉っぱと美味しくない葉っぱはわかる。美味しいのはとって来たけど、美味しくないのはとんなかった」
「……美味しい葉っぱと美味しくない葉っぱがあるんだね」
彼はとても大事なことを話してますよ、とでも言うように、神妙な顔をして教えてくれた。
「風邪ひいたときとか、お腹壊したときにアニヤが持ってくる葉っぱはにがい。ご飯に入ってる葉っぱは美味しい」
緑の葉っぱをもぐもぐと食べている彼のイメージが、なんでもかんでも穴を開けて手当たり次第に食い散らかしていく青虫のイメージに重なって思わず笑ってしまう。
「あははは!やっぱり、キミの名前は食べ物関係がいいと思うよ」
「食べ物の名前?ボクの名前が美味しい物の名前と一緒?それ、すっごくいい!どうしよう、ティティルとか?あ、でもこの前食べたバナナっていうのも美味しいよね……」
ここのところ、物の名前に興味を持ってくれた子を中心に、自分の名前を考えてみようとわたしなりに取り組んでいるのだ。
文字を覚える事で物の名前を意識するようになり、小さな子達は興味津々で少しずつやる気になってくれている。
本気で自分の好きな美味しい物の名前を悩み始めた彼に、わたしが考えている名前を伝えてみた。
「あのね、ウカって名前はどうかな?キミにピッタリだと思うんだよね」
「……ウカ?」
なにそれ美味しいの?という顔をした彼に苦笑して名前の由来を話す。
「うん、わたしの国の言葉で、ウカっていうのは食べ物って意味の言葉なの。それから、稲っていう美味しい食べ物が採れる植物のことをそう呼んだりもするよ。食べる物に困りませんように、大きく成長して羽ばたいていけますようにっていう思いを込めてウカ。どうかな?」
食と書いて”うか”とも読むらしいと知ったのは辞書から。他にも読みで変換して羽化と表せば、ハラヘリの青虫君な彼のイメージにもぴったりじゃないかと思う。
まさか、辞書がここで役に立ってくれるなんて思いもしなかったけど。国語の辞書は保護者とのやり取りに使う連絡ノートの、漢字間違い防止のためのアイテムだったのだ。
……けど、最近じゃスマホで済ませちゃうから家に持って帰るところだったんだよねぇ。
脳内で青虫がさなぎから蝶になるイメージが結ばれた時、目の前に立つ少年に異変が起きた。
「きゃあ!?」
突然その場に崩れ落ちた彼を見て、近くにいた子から悲鳴が上がる。
こちらを見上げるように跪く団子っ鼻君のうすく開かれた瞳は、どこかぼんやりとしていて何も映していないように見えた。
そんな彼の様子を心配するよりも先に、わたしは目の前で起きている現象に身体が硬直してしまう。
跪く彼の額の一点に光が差す。
眉間の上、生え際あたりにあったその光は彼の額に少しずつ広がって行き、流麗な文字となって輝きを放っていった。
『羽化』
はっきりとそう読めるように光で刻まれたその字を目にして驚愕し、それが漢字だと理解すると同時に足元から恐怖がせり上がった。
この文字が、なぜ、この子の額に?
漢字はこの世界の人が知らない文字。その事実が私を打ちのめす。
……わたしが、やったの?
「い、嫌だ、やめてよ。何でこんなことになってるの?―――誰か、止めて!お願いっ」
その場に跪いたままの少年の頭を抱えて必死に周囲を見まわし、助けを求めた。
だけど、みんな茫然とわたし達を見たまま動かない。いや、動けないのか、みんなが驚きの表情でわたし達を見ていた。
わたしは光を放ち続ける額を包み込むようにして身をすくませながら、必死になって叫んだ。
「誰か、助けてよ……!」
縋りつくようにかき抱いた幼い少年の身体は、やわらかく温かい。そのことだけが救いのようにも思えたその時。
「――大丈夫だ、泣くな」
肩に乗せられた手の重みを感じ、声のした方を仰げば、涙で歪んだ視界の中に青銀髪を揺らす長身の男が見えた。
「落ち着け」
もう一度、言い含めるように掛けられた言葉に知らず、肩の力が抜ける。
「わたしが、わたしが名前なんか考えたから。こんな……」
嗚咽交じりにそう伝えれば、彼から微かに息が漏れたのを感じる。それが溜め息なのか、安堵のためのものなのかわたしにはわからなかった。
「そうか、そなたは名付けをしようとしたのだな。この者の額に浮かんでいるのは、そなたの国の言葉か?」
「……そう。でも、わたし、こんなことするつもりなかった。なんで、この子の額に傷なんて……!」
額に刻まれた虹色に輝く光は、少年の額にわたしの思い描いていた文字を浮かばせている。
文字が肌に焼き付いて見えるその光景は本当に怖ろしくて、崩れ落ちそうになる自分の身体を少年の頭を抱える事でバランスを保っていた。
馬鹿みたいにぼろぼろとあふれてくる涙。
泣いている場合じゃない。そう分かっていても止められなかった。
首を横に振ってまるでダダをこねるように、自分が犯してしまった出来事を否定しようとした。そんなわたしに彼は静かな声で告げてくる。
「額の文字は傷ではない。そなたの魔力で描かれた魔法式のようなものだ。そなたの魔力はしっかりとこの者の魂に刻まれて、魂と身体との定着を促す式となっている。本来なら名付けの儀式ではこの世界の古代文字が刻まれるものだが、そなたが行ったのは何やら複雑な式のようだな。名に複数の加護を持たせたのか……」
「――魔法なんて、わかんないよ!なんでこんな風になっちゃったの?どうやったら元に戻せるの?お願いだから教えてよ」
「一度魂に刻まれた名は元には戻せぬ。それに、名付けとは産まれたばかりの乳飲み子ですら受けられるものだぞ。施す側には負担があるが、対象者にはなんの不利益も生じない。どちらかと言えば、これほどの魔法式を立てたそなたの方が心配だな。そなたは、この者につけた名を後悔しているのか?」
彼がゆっくりと落ち着いた声で説明してくれているのがわかる。でも、この人の言っていることは、耳には入ってもなかなか現実として受け止められなかった。
「後悔するような名前なんてつけるわけないじゃない!でも、これはわたしが勝手に考えた名前で、本人にちゃんと了承を得たわけじゃない。それに、そんなことが言いたいんじゃないよ!団子っ鼻君を元に戻して欲しいだけなの!」
未だに薄目を開けて何も映していない少年の瞳をみて、一層涙があふれる。
わたしを見下ろす無駄に整った顔の王様は、呆れたと言わんばかりの表情でこれ見よがしに溜め息をついて見せた。
「この泉に来て、そなたの身体にはまた新たな魔力が溜めこまれているのだぞ。魔力の扱い方も知らぬそなたが、高位魔法を使いこなしていることには疑問を覚えるところだが、そなたはそろそろ自分の持っている力を認めた方がいい。使い方を、本当に誤ってしまう前に」
……新たな魔力?高位魔法?使い方を誤る!?
「もう、本当になんで貴方が話す言葉って訳がわかんないのよ!ちゃんとわたしにも分かるように説明してよ!!」
流れる涙を止めることもできずに彼を責めた。わかっている、これは八つ当たりだ。
団子っ鼻君に起こっている現象が自分のせいだとわかっているのに、言葉を止められない。自分が悪いとわかっているのに。どうしても止めることができなかった。
眉を寄せてわたしの言葉を聞いていた彼は、思案するように瞼を伏せたあと噛み砕くようにわたしに説明した。
「前回、ここへ来た時にもそなたは泉の水に触れただろう?」
教え諭すような声に唇を噛みしめ、頷く。口を閉じていなければ、また暴言を吐いてしまいそうだったから。
「その時の泉は瘴気で穢れきっていて、私ですらどうすることもできない状態だった。だが、そなたは触れるだけで瘴気を吸収し、自らの魔力に変換することが出来る力を持っていた」
それは、熱を出した経緯を説明された時にも聞いた話だった。だが今回は、それをさらに詳しく説明してくれるようだ。
「本来、瘴気を魔力に変換し、それを大地や大気へと循環させるのは精霊の役割だ。いわば精霊にとって瘴気は餌。精霊が瘴気を食い、穢れを減らすことで他の生き物たちも恩恵を受けている。瘴気の元となる物を生み出しているのはこの世界の生き物全て、生き物が瘴気を生み出し、精霊がそれを消費する。――精霊の好む物が何かわかるか?」
首を振れば特に応えを期待していたのではなかったようで、彼は泉へと視線を向けた。
「精霊が好むのは豊潤な魔力だ。この泉は聖域とされているが、瘴気が発生する場所には精霊の棲み家が作られやすい。魔力に変換可能な瘴気の濃い場所であればあるほど、精霊は好んで居つくので聖域と呼ばれるようになった。30年ほど前に起こった戦で、聖域が侵され精霊の数が激減したその時、難を逃れた少数の精霊では循環しきれぬほどに瘴気が膨れ上がった。それは精霊までもを穢すほどの量だった」
一度言葉を切って、視線をわたしに戻した彼はわたしが聞いていることを確認するようにじっとこちらを見て話し続けた。
「消化しきれないほどの瘴気の中で精霊は眠りについてしまい、その姿を見せなくなった。それを一度正常な形に戻し、精霊が再びその力を取り戻すきっかけを与えたのがそなただ。精霊もそなたに感謝しているのではないか?」
「……感謝?」
何が言いたいのか分からず、眉根を寄せる。
「基本的に精霊は人の目に触れることはない。だが、彼らは自分以外の生命体の”思い”に反応する性質がある。願いがあればそれに応えようとするのだ」
水を求めるものには泉での休息を。
傷を負ったものには癒しを。
魂の救済を求めるものには安らぎを。
「……今回の場合は、名を欲している者に名を与える手助けをした、といえばわかるか?使われた魔力はそなたの物だが、このような複雑な魔法式を唯人が組むことは難しい。そなたがしたのでなければ、誰がしたのか。そもそも、名付けの儀式はどうやって行われているのか思い出してみろ」
「名付け、の儀式……?」
真っ白になった頭で茫然と精霊についての話に聞き入っていると、腕の中で身じろぐ気配を感じた。
「アズ……?苦しいよ、はなしてぇ」
「団子っ鼻君!?」
絡めていた腕をほどくと、いつも通りの少年がそこにいた。瞳には生気が戻り、不満げにわたしの背中に腕をまわしている。
「もうアズったら、ボクの名前はウカでしょ?まちがえちゃダメだよぅ」
「……ウカ?……名前」
嬉しそうにゆるんだ少年の笑顔をみて、また涙が込み上げた。
「そうだよ!ボクの名前はウカ。これからボクはこの美味しい名前で美味しい物を作る人になるんだから!」
瞳を輝かせて笑う少年は、なんだかついさっきまでの彼よりも力強く、頼もしく感じられる。
ウカの額にはもう、光の残滓は見当たらなかった。
「……おで…こ、おでこは、痛くない?」
ウカの額はつるりとして、カーキ色のほよほよとした毛が風にゆれている。
あの人の言うように傷などは出来ていないようだ。
それでも、身体に異変が無いかどうか確かめずにはいられなかった。ウカの身体をあちこち視診して、服もめくって、何度も額や頬に触れた。
「くすぐったいよぉ。どうしたの?アズ、……泣いてるの?お腹減っちゃった?」
うん、キミはそういう子だよ。
―――いつもと、変わらない。その姿に胸がつまった。
「ごめんねぇ、なんか、わたしまたやっちゃったみたいで。ご、ごめ――…ぇぇん」
もう一度ウカに抱きついて、声を上げて泣いてしまう。
すぐに、グッと後ろからひっぱられ、その力に抗えずウカから引き離された。すでにキャパを大幅にオーバーしたわたしの脳みそは、泣くことに全ての力を費やしていて、他にあてる余裕などない。
「不必要に抱きつくな。不愉快だ」
涙でぼやけた視界の中に、青みがかった銀髪が揺れる。キラキラと光りに反射するその長い髪をたぐりよせ、そっと引いた。
「……なんだ」
不機嫌な、ムッとした声色だったけど、わたしを覗きこむその目には心配するような色があるのがわかる。
「あ、あり……ありがとう。わたし、分からないこと、いっぱいあるけど、……これからはちゃんと勉強する。もう、分からなくて怖い思いをするの、イヤだ」
止まらない涙をこぼしながら、涙でぐちゃぐちゃな顔でそう告げた。
大きく息を吐いた彼は、少しの間をおいて視線を逸らさずに頷いてくれた。
「……泣くな。そなたは十分に頑張っているだろう。そなたは我らが期待している以上に素晴らしい働きをしてくれている。分からないことや怖ろしいことなど、この世にはごまんと溢れているのだぞ。全てを分かろうとすることなどない。己の回りのことを一つ一つ、知っていけばいい。そなたの側にはそなたを支えようとする者が多くいる」
不満だ、という顔をしてそんなことを言ってくれる彼に、思わず泣きながら笑ってしまった。
「そう、ですか。……これからもわたしに色々教えてくれますか?」
視線を上げて呟いたわたしの言葉を聞いて目を瞠った彼が、ふわりと目元を和らげた時、盛大な音が聞こえてきた。
「私のな…」『ぐきゅるるるるるぅぅぅ……』
「「「「「「「「「「 ………………。 」」」」」」」」」」
周囲を覆っていた静寂が霧散して、所々から剣呑な舌打ちが聞こえた気がする。
腹を抱えて顔を真っ青にしているのは、ナグだった。
「いや、これは、あの、朝から今日の昼を楽しみにしていて……!くっ、重ね重ね、申し訳ありませ――ん!!」
腹の虫が鳴ったからといって、何を重ね重ね謝ることがあるのかわからない。そこでやっと我に返り、彼の腕から飛び降りた。
「ごはん!ごめんなさい、後の人達の昼食がまだでしたよね。急いで温め直しますから、少しだけ待ってくださいっ」
勢い良く駆けだしたわたしの後を、ほっとした様子の子ども達が追いかけてくる。
側に寄ってきて囁いたチビちゃんの言葉に内心首を傾げたが、その時は取り敢えず反射的に頷いて応えた。
「精霊さん、綺麗だったねぇ?アズ」