藻刈り
「どいて、どいて―――!」
「うっわ、ちょっとアズサ殿、危ないですって!」
北軍騎士団に所属するナグ・ベルベントスが必死の呼びかけをし追いかけているのは、快活に走る小柄な子ども。だが、そのような声掛けでこの方が動きを止めるものか。
「大丈夫、大丈夫――…」
この場にいる多くの者が危惧していた通り、アズサ殿は地面に落ちている水草を踏みつけ足を滑らせた。
「…あっ?」
ツルっと滑った身体は『ドボン』という大きな水音とともに盛大な水柱を上げた。ぷくぷくと浮き上がる水泡を残し水面の下へと姿を消すアズサ殿の姿を、騎士団たちが苦笑して見送っている。
大量の水草を抱えていたため、それが重石となって深く沈んでしまったようだ。一瞬の出来事に言葉もない。
泉の外周に張られた豪華な天幕の中では、笑声と溜め息が同時に発されていた。
「クスクスクス」
「ハァ……、笑いごとではなかろう」
「だって、お兄様。もうすでにアズサ様は全身水に浸かっておいでですもの。今更泉に落ちようとも差して変わりないではありませんか」
天幕の中では二人の兄妹が幼い頃のように、屈託のない会話を楽しんでいる。
さきの視察の折りに決まった泉への再度の訪れ。当初の予定通り薬学研究者による調査師団が発足され、今回の視察に同行する運びとなった。
そして今我々の目の前では、アズサ殿の提案で保護施設の子ども達による泉の”藻刈り”が行われている。
”泉の掃除”と聞いて、騎士団が率先してそれを行うのだと考えていた我々の意に反し、『手伝いを頼んだ』という子ども達と一緒になって靴を脱ぎ始めた彼の方に、天幕内では悲鳴と驚愕が同時に起こった。
足から順に水をかぶったかと思えば、思いきりのいい飛び込みをされたアズサ殿を見て、卒倒しそうになられた王女殿下。
だが、子ども達へ嬉しそうに泳ぎを教え始めた姿を見て安心した今では、彼らの大胆な掃除の様子を楽めるまでになられている。
目の前で繰り広げられる”掃除”という名の潜水作業を心配し、いてもたっても居られない様子の我が主を王女殿下が止めに入るやりとりも見慣れてきた。
「お兄様ったら、またどちらへいらっしゃるおつもりですの?今日は、わたくしの側から離れずにいてくださるお約束でしょう?」
「いや、だが……」
「大丈夫ですわ。お兄様がご心配なさらずとも、アズサ様には心強い仲間がいらっしゃるのですもの」
泉を正面にした一角にのみ薄い紗のかかった天幕。その他の場所は分厚い布で覆われ、外から中を窺い見ることは叶わぬが、中からは泉で繰り広げられ始めた水掛けあいの様子が良く見えた。
現在、天幕の中では”雲隠れ”と呼ばれる魔術具を使用している。
シャムロック爺との密談にも使用した指輪だが、このように使うことで王女殿下を皆の目に触れさせずに同行させられるとは、なかなかに使い勝手のいい魔術具だったのだと改めて思う。
当初、今回の泉への同行者に王女殿下の名は入っていなかった。
だが、同行を希望された王女殿下のために何とか一緒に行けないかとアズサ殿から相談を受け、この形でのお忍びが決まったのだ。
二十余年ぶりに外へ出たいと希望されながらも、まだ不安の残る王女殿下に対し、アズサ殿はある提案をされた。
「大丈夫!ティアさんが怖くないように、わたしがずっと肌身離しませんから!」
そう宣言なさった彼の方の後ろから現れた行李。それを見て、誰もが息をのんだ。
流石の私もまさかと我が目を疑ったものだ。
「アズサ様、それはなんでしょう?そして、それを如何様になさるのでございましょうか?」
「蔓草で編まれたカゴですね!わたしの世界では家から出たことのない猫の最初の散歩には、安心・安全のため、こういった風通しの良いカゴに入ってもらってお出かけに慣れていくようにするんですよ」
不思議そうに首を傾げる王女殿下に対し、あっけらかんと『これに入ってもらって、わたしがずっと抱えて外に出ます』そう言ってのけるこの方は素晴らしい度胸をお持ちだ。
流石、アズサ殿である。
外が怖いならば見なければいいとは斬新な発想であった。だが、母上も私も背後に立つセバスの気配が恐ろしくて振り向くことすらできずにいた。
元は母上の側仕えをしていたセバスだが、母上の婚姻を機に家令としての修業を積んでいたそうだ。
その矢先に王妃殿下が身罷られるという一大事が起こり、我が屋敷から信頼のおける使用人たちが離宮へと派遣される事となった。
セバスはその時から、まだ産まれたばかりの赤子であった王女殿下の側仕えとなり、お生まれになってすぐ離宮へと居を移された王女殿下につき従った。
最初は渋々ながらに引き受けたという話だが、王女殿下を蝶よ花よと側で一番に慈しんで来たのもこの男だ。
その彼も、今では離宮の家令として采配をふるってくれている。
そして、王女殿下を蔑にするような言動を耳にした時の、苛烈なまでの報復もしっかりとこの身が覚えていた。
過去に踊れるならば、殿下の回避能力を確認したかった幼き日の自分に忠告してやりたい。死に急ぐな、と。
”お出かけの練習”と称して殿下をカゴに詰めようとするアズサ殿にセバスがどんな反応をするのか、私達親子に緊張が走る。
だが、殿下の嬉しそうな声にそれはすぐ霧散した。
「まぁ、アズサ様がわたくしを肌身離さずに……。ずっと、一緒にいてくださるのですか?」
「もちろんです。ずっと一緒にいますから、恐かったらすぐに教えてください。じゃあ、失礼しますね――…」
そう言葉をかけた次の瞬間には、大切な宝物を抱えるようにして王女殿下を抱き上げていたアズサ殿の姿に目を瞠る。
あの殿下が、逃げもせずにやすやすとその身を預けるとは。
恥ずかしそうにする様子はあるが、それは嫌がっているというよりも少し拗ねたような印象がある。発される言葉も甘えたような声音だった。
「アズサ様、このように抱きかかえられるなんて、わたくし子どもではないのですよ……?」
言外にその身の重さを恥じているのだと主張するような王女殿下だったが、アズサ殿は軽々と持ち上げておられる。
「うわぁ、ふわふわ、さらさら!……いい匂い……はふぅ、幸せぇ~」
「ひゃ、アズサ様、くすぐったいですわ。もうっ、ふふ…」
王女殿下を横抱きにされ首元に顔を寄せて戯れ始めるアズサ殿。
それを嬉しそうに受け入れていらっしゃる王女殿下を目にして、セバスは何か言うのを諦めた様子で苦笑していた。
「この行李では手元が頼りないので、もっとしっかりしたものをご用意いたします。もうしばらくお待ち頂けますか」
セバスの許可も下り、王女殿下が庭園にカゴなしで出られるようになるまでにそれほどの時間はかからなかった。
そして、薬学者達の準備が整い、泉への視察には万全を期して主と共に参加される運びとなったのだった。
泉で水の掛けあいをしてはしゃぐ子ども達は、皆とても楽しそうに笑っている。彼らも巻き込まれた形で始まった水掛けだが、はなから遊んでいた訳ではない。
最初は水草取りをするために水の中で作業していた少年が、アズサ殿を助けようと動いたのだ。だが、流石アズサ殿、といえばいいのか。水泳にも秀でた彼の方は、沈んだ水底から勢いよく水面に飛び出してきてしまい……。
「謝ったでしょ!もう水掛けるのやめてよ!」
「こんの石頭がぁ!!お前なんか、もういっぺん沈んで来い!」
「ひどっ!ちびちゃぁぁぁぁん、お兄ちゃんがいじめるよぅ」
「あっ、このやろ!逃げんな、それからいつもチビを巻き込むな!」
「へへ―――んだ、チビちゃんとわたしは仲良しなんですぅ」
笑い声の絶えない子ども達の間を縦横無尽に泳いで逃げるアズサ殿。
彼らのそんな他愛無いやり取りも王女殿下にとってはこの上なく愉しいもののようで、泉へ到着してからというもの、ずっと嬉しそうに観賞されておられる。
「ね、お兄様?言ったとおりでしょう。……あらあら、お兄様のそのようなお顔、初めて拝見いたしますわね。ふふふ、もう、本当に愉しい。ご一緒させていただけてよかったです」
普段は冷静沈着な主が、憮然といった表情をしながらもアズサ殿の動きから目を離さずにいる。それを見た王女殿下は取り繕うこともせず、兄をからかう妹の顔で楽しそうに微笑まれた。
その様子を感じて不快な表情を消した主も、ほんの少し口角をあげて柔らかい表情をされている。
「……ティアが外へ出ることが苦痛でないのなら、よい。これからも行きたい場所があればどこなりとつき合おう」
「まぁ、お兄様ったらご政務でお忙しいのに。……そのようにお優しい言葉を掛けていただけるだけで、わたくしは幸せですわ」
兄妹の微笑ましいやりとりに胸を熱くしていると、森からこちらへ近づく気配を感じた。
先遣隊との合流時間にはまだ早い。どうやら何か問題が起きているようだと推察し、気を引き締める。
一言詫びて一人、すぐに天幕の外へと移動した。ちょうどこちらへ向かってくるところだった部下の足取りは、妙に焦りを帯びたものだった。
「団長殿へご報告致します!」
「聞こう」
「はっ!森へ同行した薬学者たちは、想定していたよりも薬草類の生息状況が良くなっているとの結果を知らせて参りました」
この報告は主にも関心の強いものだ。その傍らにいる王女殿下にとっても。
あの魔術具を使っていても外の声は聞こえる。だが、今は指輪への魔力提供を解除して報告に耳を傾けているようだ。天幕の中の気配が強くなったことでそれを意識する。
「良い収穫があったようだな。それで何があった」
こちらの問いかけにビクリと肩を震わせた報告者は、おずおずと言葉を紡いだ。
はっきりとしない態度に苛立つも、背後で耳を澄ませている主のために無駄口はたたかない。
「は、あの、そのう…。あ…」
「なんだ」
「アズサ殿を通してこちらへの同行を願い出た、その、少年が、ですね……」
「少年……」
……そういえば、泉の掃除を免れて山へ入る調査師団の中に混ざって行った小さな子どもがいたな。
「その子がどうした」
「は、その、薬学者の連中と一緒になって採取活動に入ったところまでは、確かに、居たのですが……」
騎士の言わんとしていることがわかって、知らず溜め息が漏れた。
私の機嫌が下降したのだと勘違いした騎士は、あからさまに顔色を変え真っ青になっている。
「……迷子に、なったのだな」
「も、申し訳ございません!」
「今も捜索はしているのだろう。続けて捜索を行うように。アズサ殿にはこちらから伝える。任務に戻れ」
「はっ!」
もうすでに足を棒にして駆け回っていたのだろう。よろけるように駆け足で去って行く騎士の姿を見送り、天幕へ向け声を掛けた。
「どう致しますか」
「……その居なくなった子どもと面識は?」
天幕からかかった声に先程思い出した件の子どもの特徴を伝える。
「ございます。先日、街へ弓の買い付けに行った折、同行した子どものうちの一人です。たしか、あの子どもは人一倍食に関心があるような言動をしていたかと記憶しております」
溜め息と共に沈黙が返る。どの子どものことか察したのだろう。私の言わんとすることもしっかり伝わったようだ。
きっと今頃、あの子どもは木の実や山菜採りにでも熱中しているのではないだろうか。
しばらくの沈黙ののち、天幕の中で衣擦れの音がして長身の男が姿を現した。青銀髪に金緑色の瞳を持つ、この国の王。ティルグニア王陛下その人。
だが主はその名で呼ばれることを厭い、長い付き合いである私達親子にはその敬称で呼ぶことを止めるよう仰られている。
……母上は、苦言を呈す時にはわざと敬称をつけて呼んでいらっしゃるようだがな。
すっかり身長を取り戻した主は180センチをゆうに超える長身の持ち主だ。魔力の残有量でたまに縮んだりもするのだが、ここ最近では珍しくなっている現象だった。
身長と共に自信も取り戻したらしい我が主は、やっとアズサ殿の前に姿を見せることにされた。一週間ぶりの対面にも関わらず、王女殿下の心配ばかりする彼の方に、主の機嫌が下降したのは言うまでもない。
馬車でも、中に入っていらっしゃるのは妹姫だというのに、アズサ殿の膝に大切そうに抱えられたカゴへ嫉妬の目を向けていたのを知っている。
正直なぜ、ここまで主がアズサ殿に執着を示すのか私には理解できていない。
だが、この方の考えに私が口を出しても聞きいれられはしないだろうことはわかっている。この方の趣味嗜好は大体読めると思っていたのだが、まだまだ修行が足りないようだ。
「バルド、あの者をここへ呼べ。私から伝えよう」
「……はっ!承知致しました」
社交場で黙って立っていれば引く手数多だというのに、選りによって妹姫と想い人が被るとはなんとも皮肉なものだ。
これまでの様子を見る限り、性別の垣根を越えてでも妹姫に譲る気などないのは明らかだろう。
この国の王ともあろう御方がなんとも情けない話だと思う。だが、初めて家族以外の者に興味を持った我が主のとる行動が、予想外で面白くもあった。
水に全身を浸けながら、繰り返しもぐっては泉全体に蔓延っている藻や水草を掃除する子ども達へと近づいていく。
その中にあってもひときわ目を引く黒髪黒眸の少年が、くったくなく笑っていた。
白地のシャツの上に革のベストを着こんでいるが、革は水を吸う物だからその出で立ちでは大分重さがあるだろう。
しかしそんな重さなど物ともせずに、アズサ殿は水底へ潜水しては水草や藻を抱えてあがってくる。大人顔負けの泳ぎなど、感服するところだ。
他の子ども達は水へ入ることすらも躊躇するような有様だったが、それも無理からぬこと。
今日初めて外に出た子もいる中で、どの子も泳ぐのは初めての経験だという。海辺の町であれば違うのだろうが、寒さの厳しい山野に囲まれたこの土地で水泳を得意とするものは少ない。
それでもアズサ殿に泳ぎを教わってすぐに潜れるようになった子も数人はいる。彼らは特に運動神経がいいのだろう。
……真剣に引き抜きを考えていいかも知れんな。
「バルドさん、何かご用ですか?」
水辺で少年達の身体能力を見分していた私に低い声がかかった。見ればアズサ殿がこちらへ半眼の視線を向けている。
……いや、その目でみられるべきは我が主だと思われますぞ、アズサ殿。
そう考えるも、そういえばこの方は最初から主に対してそんな視線を向けていたと思い直す。
……人を見る目もお持ちのようだ。流石ですなアズサ殿は。
「なにうんうん頷いてるんですか。子ども達を試そうとするのはやめてくださいね。実力を量りたいのなら雇ってからにしてください」
「いや、試すなどそんなことを考えていた訳ではございませんが……。そうですね、そう致しましょう。では、アズサ殿へ伝達を、主がお呼びです」
本題を伝えると、半眼だったアズサ殿の目が座ってしまわれた。
「何の用ですか」
「それは主の口から直接お伺いになっていただければと。……早めに行かれた方がよろしいかと思われますよ」
最後の一言に目を細めて泉から上がってくる姿に、知らず視線が持って行かれる。
出会った頃より少し伸びた黒髪から滴り落ちる水が頬を伝い、その細い顎先から滴となってこぼれ落ちていく。
黒い双眸を隠す濡れたまつ毛が震えるように動き、身震いして放たれた水滴が光を受けて輝く様子に釘付けになった。
濡れそぼったシャツを無造作にまくり絞ると、そのシャツの間から覗く白い素肌。顔を上げようとしたアズサ殿と目が合いそうになって思わず視線を逸らした。
「アズサ殿、気のおけない者しかいないとはいえ、慎みを…」
自分の言おうとした言葉に戸惑い、言うのを止めた。
子どもとはいえ、男に向かって言う言葉ではないだろう。戸惑っている自分に疑問をもっていると、あっけらかんとしたアズサ殿の声にその思考は霧散する。
「あぁ、そうですね。ごめんなさい。今時、どこにどんな不埒な輩がいるとも限りませんからね。今日はアニヤさんもいないし、あの鬼畜な俺様王様からわたしが子ども達を守らなくっちゃ」
あらぬ方向を見て吐かれた暴言に呆気にとられるが、全てを否定できないのが痛いところ。
まことに遺憾ながら、主の目は貴方にしか向いていないのです。そう伝えたところで、この方の表情がさらに剣呑になる姿しか想像できない。
「じゃあ、ちょっと話を聞いてくるので、すみませんが子ども達に危険がないよう見ていてもらえますか?思っていたより水温は高いんですけど、唇が青くなる子がいたら、水から上がって日光浴するよう言ってあげて下さい」
「承知しました。お任せ下さい」
天幕の前に立つ主の許へ駆けていく姿を見送りながら、感嘆の息を吐き出す。
「……本当に、よく気がまわるものだな」
泉の中は深いところへ至るまでに一段、子どもの膝下ほどまでの浅い場所がある。
少女らと泳ぎのできない幼い少年らは膝上まで服をたくしあげ、水底までもぐって藻刈りを行う年嵩の少年達から水草を受け取っては地上へと運んでいた。
先日の”社会見学”なるものにしても、初めて街に出て社会を見せるという目的を問題なく達成されている。
その上、あの短い時間で金銭のやりとりをさせ、子ども達には金を払って物を買うということを、自身はこの国での貨幣価値や物の価値感覚を学んでいらしたようだ。
後日、母上から受けた報告では、アズサ殿は子ども達に簡単な文字や数を教え始めたらしい。
子どもに教えられるということは、あの方がすでに簡単な文字と数字を覚えているということ。そう指摘すればさも嬉しそうに笑った母上から、王女殿下にアズサ殿が教えを請うたのだと聞かされて更に驚いた。
外が怖いと怯えられていた王女殿下も、もう幼い子どもではない。あの方の姿かたちがどうであろうとも、この国を守りたいと願う健気な王女であられるのだ。
以前より、王女殿下に対してもっと国政に携われるような配慮をしろと母上から進言されていた主を思い出す。
王女殿下の教養は深い。だが、国政を動かす者としての経験や知識はほとんどないと言っていい。
そして、その状況を善しとしてきた我々主従は、王女殿下を守るべきものとしか認識していなかった事を悟らされた。
自省に陥る私を察してか、母上はお二人の学習の様子を教えてくれた。
「王女殿下は沢山の蔵書をお持ちでしょう?アズサはその中から、幼いころに読まれていた子ども向けの本を貸して欲しいと言ったのよ。そうしたら、殿下の方から読んで差し上げましょうかって話になって、紙とペンを使っての勉強が始まるまでそう時間はかからなかったね」
姫殿下の教えを受けながら文字の一覧を作ったアズサ殿は、教えてもらうだけでは申し訳ないと言って殿下の苦手な学問を訊ねたそうだ。
恥ずかしげに数字に弱いと告げた殿下に、彼の方はあっという間に演算を覚えさせたのだという。
加え算と引き算だけでも知っていれば商売人になれるとされている。
それが、見知らぬ方法を用いて二つ以上の数の積を求める計算法を教え、さらにある数が他の数の何倍にあたるかを求める計算法まで知っていたという。
それはもう学者領域の知識だろう。
我が国ではこのように幼い子どもが持っている知識ではない。アズサ殿の住んでいた世界を空恐ろしく感じたのは母上も同じようだった。
だが、知識欲を求める以外趣味のなかった王女殿下におかれては、雨が地に浸み込むようにすんなりとその知識を覚えてしまわれたそうだ。
もともと頭の良い方である。自分がその知識を得た後で、アズサ殿には子ども達へ教えるのならば加え算と引き算までに留めてほしいと伝えられたらしい。
「それを聞いてアズサは不思議そうにしていたよ。あの子は、自分の持っている知識がこの世界に与える影響に気付いてないようだった。だけどね、あの子はそのままでいいと思うんだ。変に枷をつけて閉じ込めるより、あの子自身の持っている力を多くの者たちに分け与えて、それがみんなの幸せにつながるのなら嬉しいことじゃないか。その為の手助けも、フォローもあたしは惜しむつもりはない。……それに、あの子はいい物と悪い物とをちゃんと見極めているように思う。それが考えた結果でなく、直感にしたってあの子の力にかわりはないだろ?」
母上の言葉を反芻しながら、これまでのアズサ殿とのやり取りを思い返す。
これまでに、彼の方の言動に驚きはあっても嫌悪や不信を抱いたことはない。アズサ殿の人為りを信じられると感じる自分がいる。
「バルドさん、ありがとうございました」
子ども達を見ながら耽っていた思考をたちきり振り返れば、すっかり髪も服も乾いたアズサ殿の姿があった。
私の視線をどう感じたのか、苦笑して皮のベストに触れている。
「どうせまた濡れるんだから、乾かさなくっていいって断ったんですけどね。……一瞬で乾いちゃうなんて、本当に魔法って便利ですよね」
「また濡れる、と仰るからには捜しには行かれないということですね?」
「はい。多分、大丈夫だと思うんですよ。あの子の事だから美味しそうな匂いに誘われて、今頃は食糧調達に励んでいるんじゃないかな。あの子の嗅覚って本当にすごいんですよ。特に食べ物に関してはちょっと引くレベルで。だから――…」
藻刈りが一段落したころで、丁度日も中天に差し掛かり昼食の準備が始まった。
騎士だけならば普段から使いなれた携帯食で済ますところだが、今日は王女殿下と王も同行しているとあって食事の準備はにわかに活気づいている。
火が熾され、スープが準備されていく。それを作っているのはアズサ殿と子ども達だ。
「いつも思ってたんだけど、少量の野菜だけのスープって味気ないよね。なんか足りないと思ってたら、そう、出汁が足りないんだって気付いたんだよ」
「アズサ、あんたまた変なこと考えてるんじゃないでしょうね?やめてよね、これ以上問題を起こすのは」
大鍋の中を木杓子でかき混ぜる赤毛の少女が、アズサ殿の言葉に溜め息を吐いている。鍋の中には味付けのされた少しとろみのついている汁が、くつくつと湯気をあげていた。
彼女の溜め息を気にした様子もなく、アズサ殿は別鍋で解きほぐした鶏卵を糸を垂らすかのように大鍋へと静かに流しいれている。流し込まれた鶏卵はスープの中で、大理石にも似た揺らめく模様を描き出していた。
つい、その手波の鮮やかさに見入ってしまう。
「だから卵で動物性のうまみを足そうと思ったの。美味しいよね、かき玉スープ。これでごま油があれば最高なんだけど。バルドさんもお腹が空きましたか?」
「いえ、そうではないのですが、卵を絹糸のようにしたスープを初めて見ました。このように美しいスープにするにはどんな秘訣が?」
「ひ、秘訣?……そう、ですねぇ。スープに葛粉を入れてとろみのついたスープにとき卵を流しいれると、こんな風になるんですよねぇ。あ、沸騰するくらい熱い温度にしておくのが秘訣です!あれ、これはコツ?」
葛の粉とは何かと問うと、離宮の庭園の壁際で育っていた蔓草の一種だと言われた。それはどこにでも繁殖している蔓草だという。花の美しさを楽しんだ後、庭師が自分用の薬として根を栽培していたところを分けてもらったらしい。
自分で説明した言葉に頭を悩ませ始めたアズサ殿だったが、すぐに火から鍋を下ろし蓋をした後、近くに寄って来た騎士へ向かって声を荒げた。
「ナグ!お腹が空いてるからって蓋を開けないでよ。今、余熱で火を通してるんだから」
憤慨するアズサ殿の横では、情けない顔をしたベルベントスが立っている。
「だって、この料理をユイミアがとても美味しかったって自慢していたんですよ!妻が食べた物を夫が知らないなんて、許せないじゃないですか!」
何が許せないのか理解不能だ。
だが、こちらを見ている天幕前の主は頷いて同意を示している。
天幕の正面からはアズサ殿の姿が見えなくなったために、わざわざ外へ出てきたらしいと推測して眉間に皺が寄る。
……この二人、もしや思考が似ているのか?
ベルベントスの妻は先日離宮へと押しかけてから、そのまま客間に居ついている。身重なので無理はできないが、赤子部屋の助っ人が増えてご婦人がたは喜んでいるらしい。
出産の際には薬学者であり宮廷医師でもある老師がたちあってくれることが決まっているので、母上も安心して受け入れられると言っておられた。
それよりも、毎日人目を忍んでやってくる馬鹿者の方に手を焼いているそうだ。
その後こちらに正式な報告の無いまま、なぜかさらに妊婦が二人増え、離宮は大賑わいとなっている。
それもこれも、この男のせいだと思うと怒りが湧く。
「ナグが許してくれなくたって結構です。こっちはもういいから、暇なら食器をみんなに渡していく方を手伝ってあげて。そろそろ、山に入って行った人達も帰って……」
「アズ――――っ!!ずるい、ずるい、ずるい!ぼくのご飯、ちゃんととっておいてくれてる!?」
木々の間から飛び出して来た小さな生き物に、この場にいた騎士が緊張を見せる。だが、出てきたのが子どもだと気付き、自らも柄に掛けていた手を放す。
どうやら行方不明になっていた子どもはちゃんと自力で戻れたらしい。
……アズサ殿の仰った通りだったな。
『だから――…、お昼の匂いがしたら絶対に帰って来ると思うんです。まぁ、昼ごはんにも帰ってこなかったら子ども達と捜しに行きますよ』
アズサ殿に駆け寄った子どもは、大きなズタ袋を抱えて犬ころのように鍋の周りをまわっている。騒がしく自分の昼メシの心配をするだけの少年にアズサ殿はご立腹だ。
「こんの、アホたれがぁ!騎士さん達に迷惑を掛けないって約束で連れて行ってもらったんでしょう!一人で勝手に動きまわったキミを心配して、騎士さん達は山の中を捜しまわってくれてるんだよ!?……ちゃんと、連れて行ってくれた騎士さん達と一緒に帰って来たんでしょうねぇ?」
アズサ殿からは、先程までの泰然とした様子が吹き飛んでいる。しかし、じりじりと詰め寄られているはずの少年はあっけらかんと答えた。
「うん、ちゃんと一緒に帰って来たよ。アズのかき玉スープの匂いがしたからね。すぐになくなっちゃうから、みんなの分も取っといてあげるって約束して先に走ってきたの。ねぇ?まだスープあるよね?おかわりもできる?ぼく、お腹ぺこぺこなんだよぅ」
「そ・れ・は、一緒に帰って来たって言・わ・な・い・の!」
引っ張られた少年のほっぺたは面白いように伸びていく。
「ひはい、ひはぃお、アフ~」
目に涙を溜めている少年を他の子ども達が可哀相なものを見る目で見ていた。もちろん、怒られているのを不憫に思っているのではないだろう。
同情されているとすればアズサ殿の方だ。
「アズサ、もうほっときなさい。いいこと?あんたは学者の人と騎士達がみんな帰って来るまで食事はお預けよ。ちゃんと全員にあやまってからじゃなきゃ、お昼は抜きだから」
赤毛の少女は声を荒げている訳でもないのに、妙な圧力を発していた。
……少し、母上に似ているのかも知れない。
母上の怒り方は丁寧な言葉で静かに怒り始めるので、油断していると大きな雷が落ちて来るのだ。
経験則から察したこの後の惨劇を少年も感じたらしい。
アズサ殿から頬を解放された彼はガクガクと頭を上下に振って同意を示し、従順な態度をとるべく自分で自分の口をふさいでいた。……学習能力はあるようだ。
騎士達は護衛任務を交代しつつ、前半と後半に別れて食事をとる。
そのため、子ども達より先に彼らの給仕を受けながらスープとパンを受け取っていた。スープ鍋の横には目に涙を溜めて口を押さえる少年の姿がある。
非常に食べにくそうだ。
少年の視線から逃れるように、少し離れて食事をとろうとしている騎士達を気の毒に思いながら、王女殿下と主の許へ食事を届けた。
「まぁ、これがアズサ様お手製の”かきたまスープ”ですのね?」
「姫もお召し上がりになるのは初めてですか?」
ナグの嫁が食べたという事で、離宮では皆が口にしているのだと考えていた私は、給仕の手を止め訊ねた。
「えぇ、今日の日のための試作だと仰られていたから、お兄様と頂くのを楽しみにしておりましたの」
配膳されたスープ皿から立ち昇る湯気と香りを吸い込んだ王女殿下は嬉しそうに微笑んでいる。
「確かに変わったスープだ。……あの者は本当に多芸だな」
「まぁ、そんな風に仰られて。素直じゃないとアズサ様に嫌われておしまいになられますわよ?」
ほどよく冷めるまでそんなやり取りをして楽しむ兄妹の姿を微笑ましく思いながら温度の確認をする。事前に言われていた通り、とろみのついたスープは中々温度が冷めにくいようだ。
冬の寒さが厳しいこの土地では喜ばれる料理となるだろう。
「アズサ殿にこのスープの作り方を民へ広めてもよいか、お伺い致しましょうか」
その提案に頷いた二人へ「どうぞ」と声をかけ、飲み頃を知らせたあと天幕を出る。外では人の数が増えていた。丁度山から学者たちが戻ってきたようだ。
涙を堪えながら頭を下げて回る少年の背後について、一緒に謝罪しているアズサ殿の姿を見つけて苦笑する。
「……本当に、器用なのだか、不器用なのだかわからない方だ」
「ええ、本当に。妻に聞いたところ、深夜遅くまで針仕事をして赤ん坊や子ども達のために身体にあった服を工夫しているそうですよ。頭が下がります」
独り言のつもりで呟いた言葉に同意が返った。今、天幕周辺の警護についているのはベルベントス一人のようだ。
「……ベルベントスか、いい機会だ。私は貴様に聞きたいことがある」
「ひぇ、あ、いや、はっ!何でありましょうか、団長殿!」
ひと睨みするだけで震えあがる男を視線で縫いとめ、事の詳細を確認した。
「王女殿下のおわす離宮が、妊婦の掛け込み処となっているらしいと聞いた。どういうことだ、離宮の人間が漏らすとは考えられん。情報が漏れるとすれば、貴様からしかあり得ん」
「あっ、そのことでしたら、確かにユイミア……妻の友人である妊婦に離宮の話をしたのは自分であります!」
平然と情報漏えいしたと言ってのける男にこめかみの血管が疼く。
「ほう、くれぐれも、外の人間には知らせぬようにと厳命を受けたにも関わらず漏らしたのか。貴様、それが命令違反だとわかって言っているのか?――もし、王女殿下のおわす離宮に賊でも侵入すれば……貴様の命、無いものと思え」
天幕の中から息をのむような気配が起こる。すぐに魔術具が展開される気配を察知し安堵した。
内心を隠しベルベントスを睨めつけた視線をそのままに、計画通りの言葉を口にする。
「貴様には北軍騎士団を抜けてもらう。北軍隊長にはこの旨すでに伝えてあるため、後日沙汰を出すまでは同様の任務についているように。……それまで己の犯した行いを省みてみるがいい」
驚きに表情を硬くしたベルベントスは僅かにその目から覇気を無くし、騎士の礼をとって一歩下がった。
内心奈落につき落とされた思いであろうに、その姿は評価してもよい。目の前の騎士に対して、ひとつ加点を加えその場をあとにした。