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梓弓  作者: 長月 夜半
第一章 十六夜
15/57

嫁の家出


 城の宝物庫に眠る最古の文書といわれる石板には、世界の創造主は賢竜であると刻まれている。


 賢竜によって創られたこの大地にははじめ、竜以外の生き物は存在しなかった。

 最古の生き物である竜は己の血肉を五つに分け、己の他に四竜を創ったという。それぞれに鱗の色が違う竜達は、性格もまた元となった賢竜とは異なっていた。


 創世記と呼ばれるその文書にはこう続く。五頭の竜はそれぞれに棲まう大地を分かち、その縄張りに骨を埋めた。東の青竜、西の白竜、南の赤竜、そして北の黒竜。


 東西南北に別れた四竜が囲むように位置する中央の領土には、始まりの竜である賢竜が眠っているとされている。


 グランニア王国、ファフニア王国、ベルニア王国、ティルグニア王国。

 各国に共通する”ニア”とは竜を示し、嘘か真か、その地に眠る竜の名がそのまま王国の名になっているのだという。そのため、我がティルグニア城はまたの名を黒竜城ともよばれ、城の外観もその竜になぞらえて黒岩で造られていた。


 その黒竜城の外周を囲む城壁の片隅には、騎士団の詰め所が置かれている。

 静謐な王城の中にあるむさ苦しい場所として、騎士以外の者は滅多に近寄ることもない場所だ。

 平素ならば、騎士達の起こす剣戟や荒々しい罵声の飛び交うこの一角。だが今は、その喧騒もなりを潜めている。


 王の剣であり盾であるティルグニア騎士団には、国中から武を誇る者たちが集められていた。だが、現在、その猛者達の半数以上の姿がここにはない。


 各領地に派遣されている彼らは、報告とわずかな休みを取るため、交代で王都と領地を行き来する生活を強いられている。

 現在、少数精鋭でこの城と王の直轄領を守るのはティルグニア北軍騎士団と王都ティルグの近衛兵達だ。


「これですべてか」


「ハッ!王城に厳重保管されている国宝器以外の物は、全てこちらに用意させております」


 普段は椅子と机ばかりが並ぶこの軍議室に、今は100を超す数の弓が整然と並べられていた。

 その中の一つを手に取り、軽く弦を引き絞ってみる。

 キリキリと小気味良い弦の音がしっかりと調整されている事を伝えて来る。握りに巻きつけられた皮が手に馴染む感触に満足感を覚えた。

 だが、この弓では駄目だ。


「この中から、比較的軽く弱い物を選び並べろ。この弓より重い物は片付けてよい」


「……弱い物を、ですか?」


 眼前に立つ男は、我が国の北軍騎士隊長を務める男だ。温厚を外面に張り付けている奴だが、わずかに困惑の色をその双眸に映していた。


「そうだ。探しているのは、おんな子どもでも扱えるような弓だからな」


「お、おんな子ども用の弓……」


 こちらの言い分を聞いた北軍隊長は目に見えて動揺し、ほんの一瞬目を泳がせたあと言葉を紡いだ。


「まことに遺憾ながら、ペテリュグ団長の意に添う弓をこの中から選ぶことは難しいと思われます」


 心なしかテカテカし始めた彼の頭部を視界に入れ、手にしていた弓を元の位置に戻す。


「なぜ、そう思う」


「ハッ、僭越ながら女性、という括りであれば何張りかの弓をお出しする事は可能です。ですが、子どもとなるとこの場にある弓では引けるものなどないと思われます」


 彼の頭部にじっとりと汗が伝い、汗に濡れた頭髪が少し乱れて地肌が見え隠れし始めた。


「……そうか」


 ――いくらアズサ殿といえど、あの華奢な身体では騎士用に配備されている弓では、持つことも難しいだろうからな。


 少年に譲ったもののように子どもが初めて鍛錬に使うような弓は、私の手元にはもうない。また一から造るとなれば少し時間が必要となるだろう。

 先程、自分が幼少の頃に使っていた弓を補修に出しては来たが、あれはもうあの少年に贈ると決めた物だ。


 ……城で管理している武器庫ならば、軽く弱い弓もあるかと思ったのだが。


 一つ溜め息を吐いて考え込んでいると、緊張を深めた男の声がかかる。


「……下町であれば身軽に扱える弓も手に入るのでしょうが、ここは王城です。残念ながら、現状では性能の低い弓を配備するのは無駄となりますから」


「私がここへ来た当初には、子ども用の弓などが置いてあったと記憶していたのだが?」


 自分も大人用の弓を求めて全てを並べさせた訳ではない。心当たりがあったから弓を用意させたのだ。幼年の騎士見習い用に配備された物があると考えて。


「ええ、ペテリュグ団長のおっしゃる通りです。『使い道のない弓を揃えておいても劣化するばかり』経費削減を唱え、そう主張する財政官の方針により、今現在使われていない武具には予算が下りません。それどころか維持に回す予算を削るため、使用頻度の低い物を下町のギルドに買い取らせると言って武具保管庫を蹂躙して行ったと、保管庫番が憤っておりました」


 数年前より実施されている各領地への騎士派遣で、王城の財政は逼迫(ひっぱく)している。その余波を受けているのが騎士団だけでないことも知ってはいた。


 現在、大きく破綻もせずにティルグニア王国がまわっているのは、有能な財務官達のおかげであることは間違いない。各方面から苦情があがっていた当時の様子を思い出し、眉間に寄った皺を伸ばして息を吐く。

 国益のために職務に励む彼らの仕事に文句などあろうはずがない。

 それに……。


「今は騎士見習いを育てる余裕などないし、志願者も少ないからな」


「志願者がおらぬ訳ではありませんが、国の状態を見ても、今そちらに力を割く余力が少ないのは皆も承知しております。出来れば、早くから後継を育てたい気持ちはどこも同じでしょうし」


「国中で後継者不足がここまで悪化しているとはな……。有能な素質を持つ子どもは、幼いころから目を付けられ、領地で囲われ王都へ出さずに自領へ留めたいのもわかるが、それではいずれ国が弱体化する」


 その言葉に重々しい頷きが返った。


 騎士団長としての仕事と半獣保護施設の管理責任に加え、此度の召喚に必要な魔獣狩りに追われる日々の中。取りこぼして来た様々なものがあった。

 母上に尻拭いされてなお、把握しきれていない事態はきっとこれだけではない。


 王都ではそれほど感じられなかった後継者不足だが、諸領地を廻る者たちに確認を取ったところ、母上の危惧されたとおり子どもの減少と共に各地で若者がおらずに途絶えそうになっている技術が見受けられたと報告にあった。


 騎士団においては王命で徴兵、という形を取れば人員確保は難しくはないだろう。だが、能力や適性を持った者のみを選別にかけたとき、一体どれほどの人材が残るだろうか。

 深く息を吐くと、目の前の男が腹部を押さえるのが見えた。もう片方の手で懐から手巾を取り出し、汗と脂を拭っている。


「仕方がない、悪いがこれは片付けておいてくれ」


 そのまましばらく、いつ子ども用の弓を手に入れようかと思案していると、外が騒がしくなり、軍議室の扉が大きく開け放たれた。


「ザッカリア隊長!私に、私に今すぐ休暇をください!!」


 取り乱した様子で駆けこんできたのは、見覚えのある男だ。


 ……たしか、名はナグ・ベルベントスといったか。


 つい先日、不慮の出来事で我が主の不興を買った男だ。

 髪を振り乱して室内に駆けこんできた男は、2人の仲間に羽交い絞めされる様にして止められている。だが、男にそれを聞く様子は無く、北軍隊長に向かって直談判を続けていた。

 ザッカリアが私の存在を気にしながらも、突然の部下の乱交に怒りを堪えているのが伝わってくる。


「……ザッカリア、何があった」


 声をかけると、乱入してきた3人のうち喚いている男以外の騎士たちがこちらに気付き、見る間に身体を硬直させていく。


「申し訳ございません、この男はすぐに追い出して……」


「いい。それよりも何があったのか話せ。ナグ・ベルベントス、貴様はなぜ休みを取りたがる。何か、火急の用件か?」


 暗に身内の誰かが死にそうなのか、と問いかけたつもりだったのだが予想に反した返事が返る。


「だ、団長殿!ユイミアが!私の嫁が、行方不明なのです!どうか、どうか探しに行かせてください!!」


「…………。」


 一瞬の沈黙ののちに、北の守りと称される騎士団においては、比較的穏健だと言われていた北軍騎士隊長の怒声が響き渡った。


「こ、この、ど阿呆が―――!!」

















 離宮に張り巡らされた柵の前に佇む人影がある、と門扉の警備騎士の一人によって報告を受け、足早に現場へと向かう。その人影は腹部が大きく盛り上がった、産み月間近の女性だという事だった。


「失礼致します。そのような身重のお身体でどうされましたか?何かお困りのことがあれば、私にお申し付けくださいませ」 


 柵の前に植えられた生垣に、もたれるように地面を見つめていた女性へと声をかける。

 離宮の采配を任されているのは私だ。

 殊更に笑顔を作り、その女性に近づいた。不審者と判断すれば容赦なく排除するため、女の一挙手一同足に目を光らせる。


「……っ、あ、あの、こ、こちらに、ア、アズサ様という方がいらっしゃるとうかがって……」


 今にも泣きそうに顔を歪ませた妊婦は、身を起こした瞬間フッ目の焦点が合わなくなり足元から崩れ落ちた。寸でのところで、地面へ膝を着く前に妊婦の身体を支え、安堵の息を吐く。

 女性の身なりを一瞥し、続けて重い息を吐いた。


「……アズサ様のお知り合いでしょうか。しかし、このまま屋敷に上げるのも問題がありますね」


 手を上げ、少し離れた場所で待機させていた門前警備の一人を呼び寄せた。


「お呼びでしょうか」


「至急アニヤ様の許へ向かい、報告をいれてください。その際、アズサ様に知らせるかどうかはそちらに任せるとお伝え願えますか」


 屋敷の中に影が一つ消えるのを見送り門扉の前まで移動した私は、残ったもう一人に毛布を取りに行ってもらうよう指示を出した。


「やれやれ、このような身重の体で無理をなさって。アニヤ様に叱られるのを覚悟しておいてくださいね」


 青白い顔をして目を閉じる妊婦の腹部に、自分の上着を掛け抱きかかえた。腹部へ圧がかからないよう慎重に。


 妊婦の胸元を飾るブローチは見覚えのあるものだ。

 ティルグニア騎士団の紋章である黒竜と盾が彫り込まれたブローチ。

 それは、敬愛する女性が長年身につけていたのと同じもの。彼女の夫の死と共に外されたそれは、懐かしい思い出のよぎる装飾品であった。 


 それほど待たずに、離宮の扉が大きく開かれ、一抱えもある毛布を自ら運ぶ女性が現れた。


「セバス!そんなところで何してんだい!早く寝室へ運んで休ませておやり!」


「アニヤ様、身元の確認もしないうちから離宮の中へ余所人を入れる訳には参りません。こちらの装飾品で身元の確認をお願い致します」


 両腕の放せない今の状態ではブローチを外す作業が出来ない。言外にそう伝えるとアニヤ様はぷりぷりと頬を膨らませた。


「あんたは昔っから融通のきかない男だね!ほら、早く屈んで」


 気を失っている女性の身体を覆うように毛布でぐるぐる巻きにした彼女は、私への不満を口にしながらも苦笑を浮かべてブローチをその胸元からはずし魔力を通した。


「北軍騎士団員の伴侶だね。ユイミア・ベルベントス……?どこかで……」


「バルド様が先日の視察からもどった折りに、こちらの離宮を見学させたい者がいると仰られていましたね」


「あぁ、それだ。ナグ・ベルベントス。確かそんな名前だった。すぐに王宮へ確認の連絡を入れるから、取敢えず保護するよ。いいね?」


「はい、承知致しました」


 騎士団員の伴侶には、各々身分を表すブローチを身につけることが義務付けられている。有事の際に巻き込まれた者への保険として、保護と検知の魔法が掛けられている魔術具の一つだ。

 それはいつでも危険と隣り合わせの任務に就き、時には民や有力者などから逆恨みされてしまう彼らの家族を護るためのお守りである。 


 アニヤ様の言葉に素直に従った私を見て、彼女は口をへの字に曲げて溜め息を吐いた。


「あんたは『最終的な判断を下すのは主の仕事』っていつも言うが、あたしはもうあんたの主じゃ……あぁ、もう!そんな情けない顔するんじゃないよ!ほら、さっさとその娘を寝室へ運んでおやり」


「……はい、承知致しました。アニヤ様」


 彼女の先導で開け放たれたままの扉から屋敷へ戻り、二階にある客室へと向かう。


 ――例え、今一時離れていたとしても、私は一生貴女の側仕えですから。


 現状の立場にある以上、決して口にしてはならない言葉を飲んで、整えられた客室の寝具の上へと未だ目を覚まさない女性を横たえた。


 王より賜ったこのブローチを身に付けた者には、特別措置が認められている。

 要は、これを持っている人物が困っていたら助けを施すようにといった内容であるが、実際にそれが適用されたというのを今のところ聞いたことがない。


「なぜ、お一人でこちらにいらしたのでしょうか」


「さあねぇ、アズサが元の体調を取り戻すまでは、話を保留にしておくようにって伝えてあったんだ。きっと、この娘の独断の行動なんだろうが……。今頃、家の者たちは大騒ぎしているんじゃないのかね」


 一見しただけでも身なりの良い服装をしたこの妊婦が、護衛の一人もつけずに出歩くなど通常ありえないことだ。

 ここは王城の敷地外であるとはいえ王都内であり、比較的治安の良い区画でもある。

 だが、上流階級の娘であれば一人で出歩いたりなどしない。その上、身重であることを考慮すれば屋敷を預かる者たちは今頃、血眼になって主人の奥方を捜しているだろうということは想像に難くなかった。


「……昔、似たようなことがありましたねぇ」


「うるさいよ、セバス。ほら、あんたはこの娘が起きた時のために白湯でも用意しておきな」


 少女の頃のように頬を膨らませた彼女を見て、笑いを堪えていると開け放ったままだった客室の扉を軽くノックする音があった。


「ああ、アズサ」


 表情を急いで取り繕ったアニヤ様は、やはりアズサ様にも声を掛けたようだ。


「わたしを探して倒れた妊婦さんがいるって聞いて、様子を見に来ました。どうですか?体調は」


「今、医者を呼びにやってるが、多分、軽い貧血じゃないかね。身元も分かってるから大丈夫。すぐに迎えの者が来るだろうよ。で、この妊婦に心当たりは?」


「会ったことのない人だと思いますけど……」


 二人がそんなやり取りをしていると、横になっていた妊婦が身じろぎし、薄く瞼を開けた。

 深緑の瞳だが、今は霞みがかっているようだ。ぼんやりと視線を彷徨わせる彼女に素早く近付いたアニヤ様が、力なく投げ出されていた彼女の手を握って話しかけた。


「私がおわかりになられますか?貴女は、紫水宮の前でお倒れになられたのです。失礼とは存じましたが、北軍騎士団のブローチを確認させていただきました。今、屋敷の者に手配させて貴女のご夫君様へ使いを出しております。安心してこのままお休みくださいまし」


 慈愛に満ちた微笑を浮かべるアニヤ様に、ぼんやりとした視線を合わせ話を聞いていた女性はか細い声で謝罪を口にした。


「ご、迷惑をおかけして申し訳ありません。あの、こちらは、王女殿下と騎士団長様のご生母様が開かれている保護施設で間違いございませんか……?」


 頷きながら、小さな声で話す女性の口元まで耳を寄せて聞いていたアニヤ様が身を起こす。扉付近からこちらを心配そうに窺っていたアズサ様へと視線を送り、手招きして呼び寄せた。


「アズサ様にお話があるそうですよ。聞いて差し上げて?」


 目を瞬いてこちらへ歩み寄るアズサ様は、心配そうに彼女を窺いながらも素直に従った。


「あの、お加減いかがで……」


「っアズサ様…………っっ!」


「ど、どうしたの!?大丈夫?どこか痛みますか?」


 アズサ様の姿を目にした途端、大粒の涙を浮かべた女性の様子に、アズサ様は動揺されたご様子だ。しかし、そのまま起き上がろうとする彼女の背を支えると、背中を優しく撫で、落ち着かせようと試みている。


「……わたくし、恐ろしいのです!……日に日に大きくなるこの子を思うと、恐ろしくてたまらないのです」


 激しく動揺し、涙をあふれさせ、力なく俯いた妊婦の姿に私達は視線を交わし合った。


「あの、もしかしてあなたはナグさんの奥様ですか?」


 彼女の姿を見て、この妊婦の心当たりを思い出したようにアズサ様がたずねた。俯いて咽び泣きながらも、アズサ様へ縋りついた手に力を込めて頷く女性。


 ――やはり、アズサ様のお知り合いの方で間違いなかったようですね。


 涙で言葉を紡げる様子ではない彼女に代わって、アズサ様がこの方のご夫君から聞いたという彼女の様子を話して聞かせてくれた。

 子を産む女性には避けて通れぬ恐怖心と闘う彼女に同情しつつも、なぜ、単身でここを訪れたのかという疑問が浮かぶ。

 それはアニヤ様も同じだったようだ。


「ユイミア様の心中、お察し致します。私も女性ですもの、貴女のお気持ちが痛いほどわかりますわ。ですが、このような身重のお身体で共も着けずに外出するなど淑女のなさることではございませんでしょう。今頃、ご夫君も家を預かる使用人たちも貴女様をご心配なさっておられますわ」


 アニヤ様の言葉にビクリと肩を揺らした彼女は、今にも消え入りそうな声で事情を話し始めた。


「……今朝、ナグ様のご両親から、わたくしの出産のために王都へ向かうという知らせが届きました。初孫の顔が一刻も早く見たいと。……文面にはそうありましたが、実際にはわたくしのお腹に宿っているこの子が健常児であるかどうかを確認しにやってくるのです。私の実家の両親を引き連れて、やってくると、そう、書かれておりました」


 彼女とご夫君であられるナグ様とは、ティルグニア南西部にあるオーガスタ地方のご出身であるとのこと。領を隣にする辺境伯の長女であるユイミア様と大領地オーガスタ領主の甥であるナグ様とは大恋愛の末に結ばれたものの、現領主であるオーガスタ様がお子に恵まれなかった事で、ナグ様が次期領主候補へと推されているのだと彼女の口からぽつりぽつりと語られた。


「夫が領主の後継者となれば、必然と、このお腹の子が次期領主の継承権を持つようになります。その我が子が、もし、半獣の身体を持って産まれてきたらと思うと……。私、怖くて、怖くて……」


 堪え切れずまた嗚咽を漏らし始めた彼女を、アズサ様がそっと彼女の華奢な身体を包み込むように抱きかかえた。アズサ様自身、まだ幼い少年のような華奢な体つきをしているのだが、その顔に浮かぶ眼差しはアニヤ様に似たものがある。


「一人で、悩んでたんだね。ユイミアさん、辛かったね」


 慈愛に満ちた表情で、少し乱れた彼女の薄黄色をした髪を撫でるように漉いていく。

 涙を拭い、なんとか顔を上げようとしていた彼女の身体が、続くアズサ様の言葉に固まった。


「ナグさんはいい人だけど、空気読めないところがあるからねぇ。繊細な人の気持ちがわからない人に話をするのって、本当に疲れるよね」


 ハァ、と思いきり溜め息まで吐き始めた。

 この間もね、と軽い口調で話し続けるアズサ様は、その幼さの残る顔に何とも言えない苦々しさをわざとらしく乗せて話している。


「一緒に視察に行った帰り道で、子ども達の前でこんな話しするのは良くないとか言いつつ、ユイミアさんがどんなに可愛くて、産まれてくる子が女の子だったら絶対嫁にやらないとか、任務で離れている間ユイミアさんに触れられなくて辛かったとか、二人目の子もすぐに欲しいとか延々と聞かされたんですよねぇ。……リア充爆発しろ」


 ……ボソリと呟かれた最後の言葉の意味はわかりかねますが、今の話でナグ様の人為(ひととなり)が垣間見えたような気が致しますね。


 それを聞いていたアニヤ様が顔を逸らして、グフッと息を漏らしたのを見逃さず視線で嗜めたあと、客人の方に目を向けた。

 彼女は耳まで真っ赤にしてシーツを握りしめている。羞恥にうち震えているようだ。


 ……ふむ、ご夫君とは違う感性を持たれた常識人でいらっしゃるようですね。


 話に聞くだけで、お花畑が咲いていそうなご夫君の頭は、今この女性の悩みを相談する相手にふさわしいとは思えない。それ故に、彼女が救いの場を求めて家を出たのだと推測した。


 家人たちもご夫君の実家の者たちが大半であれば、心の内を素直に打ち明けてもいいものかと悩みを深くする一因になっていたのだろう。

 打ち震える声で謝罪を口にする客人に少しの同情を覚える。


「うちの夫が、ご迷惑をお掛けしたようで申し訳ございません。その上、私までこのようにお世話をお掛けして……」


「気分はどうですか?」


「え?あ、はい、……大分良くなったようです」


 突然の質問に顔を上げ、目を瞬かせた客人の顔は、先程よりも血色が良くなり表情も心なしか明るい。眉間に刻まれていた皺がなくなれば、愛らしい娘さんだと一目でわかる。


 見るからに顔色が良くなった彼女を見て、アズサ様が微笑まれた。彼女の気分を変えるために、わざとご夫君の話を持ち出したのだと遅れて気付く。

 目の前の女性は恥ずかしさを堪えながらも、明るく話題をふってくるアズサ様の話術に促され、今では優しげな笑顔をその愛らしい顔に浮かべている。


 ふと、視線を感じて目を向けるとアニヤ様と目が合った。その意図を汲み、頷いて退室の礼を取る。


「では、我々は白湯のご用意等させていただきます。アズサ様、ユイミア様をお願いしてもよろしいでしょうか?」


「はい、大丈夫です。任せてください」


 胸を張ってどんと拳で叩かれたアズサ様は、また申し訳なさそうな表情を浮かべた彼女に、ご夫君の話題を振った。血まみれ、と聞こえたような気がするが妊婦に血なまぐさい話をしているのだろうか。

 扉を閉める際には、二人の微かな笑い声が聞こえてくる。

 重厚な扉を締め切った廊下に静けさ広がった。


「アズサ様はまるで春風のような方ですね。あの方といると心が温かくなります」


「……珍しいね、あんたがそんな風に人を褒めるだなんて。でも、そうだねぇ。あの子は人の心の機微に聡い。目の前にいる人間の気持ちを感じて、少しでも相手の役に立ちたいと思っている節があるんだ。あの子を振りまわしているあたしらが言える立場じゃないのはわかってるけど、……損をしない生き方をしてもらいたいと思うよ」


 自嘲気味に微笑んだアニヤ様は一つ頭を振ると、意識を変え真剣な表情で口元に指を添えた。


「彼女の事はアズサに任せておけば大丈夫。問題はユイミア様の義父母達だね。王命に背く可能性を考慮に入れて動いた方がよさそうだ。バルドに話を通して、彼女の周りに誰か送り込むように手配しておこう」


「では、私は情報収集にあたりましょう。また、お屋敷から数名お借りいたします」


「あぁ、頼んだよ」







 騎士団の詰め所に来た母上の使い魔から伝言を受け取った私は、職務放棄して王宮を抜けだそうとしていた男の首根っこを掴んで離宮へ急いだ。


 泣きながら放してほしいと訴える鬱陶しい男には一瞥もくれず、まっすぐ離宮へ辿りついた頃には男も反省したようですっかり大人しくなっていた。


「ティルグニア騎士団長バルド・ペテリュグだ。アニヤ・ペテリュグ様にお目通り願いたい」


「ハッ、承知致しました!少々お待ち下さい。ただいま家令を呼んでまいります!」


 離宮の門番も騎士団から派遣されている騎士達だ。その門番の一人が去ると、もう一人の門番が青ざめた顔でこちらを見ていた。


「どうした」


「ひっ、いえ、あの、そちらの方は……大丈夫なのでしょうか……?」


 何を言っているのか分からず、訝しげに門番を見ると震えあがりながらも指先で私の足元を示している。


 ……ふむ、なかなか骨のある男のようだな。


 自分に対して、物をはっきりと伝えられる人物がそう多くはない事を知っている。その指が示す先に視線を落として確認した。

 眼下では先程首根っこを掴んだまま引きずってきた男がその顔面をどす黒く変化させている。


「あぁ、こいつを忘れていたな。少し酸欠になっているだけだ。心配ない。おい、起きろ!」


 背後に回って、気つけをすると激しく咳き込んで息を吹き返した男を見て、門番が口元を押さえて喜びに打ち震えている。


 ……こいつの知り合いだったのか、それは悪いことをしたな。


 だが、職務放棄の上指示に従わぬ騎士など、私にとってはどうでもいい存在だ。

 男の介抱を始めた門番に後を任せ、開かれていく離宮の扉に近づいた。


「母上、セバス、迷惑をかけて申し訳ありません。騎士団員の奥方はこちらですぐに保護するので、引き渡しを……」


「ユイミア―――っ!!ユイミア、ユイミアはここにいるのですか!?」


 背後から猛烈な勢いで飛び込んできた男は、進行を阻んだセバスに詰め寄っていた。セバスの冷たい視線をものともせず、自分の主張だけを繰り返す馬鹿男に頭が痛む。


「……ユイミア様は確かにこちらで保護させていただいております。北軍騎士団のブローチを確認させていただきましたが、こちらの方があのご婦人のご夫君で間違いございませんか?」


 縋る男を無視して私に向き合うセバスの鋭い眼光が痛い。

 騎士団でどのような教育をしているのだと視線で糾弾されているのだとわかってはいるが、今そんなやり取りをしていては更なる雷が落ちるのは必須。セバスの問いにだけ応え、母上に視線を向けた。


「ユイミアという女性は北軍騎士団所属、剣士ナグ・ベルベントスの妻で間違いありません」


 溜め息を吐きそうになった母上だが、余計な事は何も口にせず私達を離宮の中へと誘ってくれた。先程から私達の会話の後ろで嫁に会わせろと小虫が煩くさわいでいる。本当に鬱陶しい。この男の所為で、私が後でどれほどのお説教を受けるのか考えるのも憂鬱だ。


「奥方様は、こちらにいらっしゃいますよ。今は客間の方でアズサ様と歓談しておられますのでご心配には及びませんわ」


「アズサ殿がいらっしゃるのですか!よかったぁ、それならば安心ですね」


 今まで必死の形相をしていた男だったが、アズサ殿の名が出た途端にがらりと雰囲気が変わる。焦りが消えて、憑き物でも落ちたかのように身体から緊張がほどけて行くのが分かった。

 その変貌に母上も目を瞬いている。


「……随分とアズサ様をご信頼されていらっしゃるようですわね?」


「はいっ、アズサ殿は俺、いや、私の友人ですから!妻もあの方にお会いしてみたいと、ここ数日呪文のように唱えていたのですが、まさか、こちらへお邪魔しているとは思いもよりませんでした!お騒がせして申し訳ありません。妻には近いうちに必ず会わせると約束していたのですが、待ち切れなかったようです。せっかちなところがまた可愛くて……」


「バルド様、どうぞこちらです」


 アホ面の男を放置して、セバスが客室へと誘導する。だが、扉を開け放ったその場所には少し乱れたシーツが寝具の上に残されているだけで、誰の姿もなかった。

 辺りを見回す母上の顔には疑問符が浮かぶが、そこにナグ・ベルベントスが嬉しそうな声を上げ、廊下の奥を覗いた。


「あっ、ユイミアの笑い声が聞こえます!わぁ、彼女が声を上げて笑うなんて久しぶりだ」


 ……女性の笑い声など、わたしの耳には届いていない。同様に母上も眉を寄せているが、セバスだけは冷めた視線でナグを見つめ、『もしや、執務室に足をお運びになられたのでは?』とアズサ殿の居所に当たりをつけたのだった。


















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