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梓弓  作者: 長月 夜半
第一章 十六夜
11/57

鳴弦 前半


 バルドが鎧の胸元から鎖のついた笛を探り出し、口元へ近付けると甲高い音が山中に響いた。


「すぐに魔獣出没の現場へ向かう!バージはここで待機、招集した騎士達に情報を伝え合流命令を!同時に私に替って護衛任務に着くことを命じる。この者たちを守れ!」


「はっ!」


 笛は騎士たちへの合図のようだ。

 バルドが森の中へ消えたあと、四方からバージの下へ騎士達が集まっては去って行く。

 わたしへの配慮からだろう、バージは泉から距離をとった森の入口で騎士達に対応してくれていた。


 こちらへ騎士達が来る様子が無いのでほっとしたが、発熱から来る寒気を感じて鳥肌がたっている。昨日借りた男の子用の動きやすい服は半袖だったので、ぷつぷつと浮き上がった毛穴が目に入った。こすればザワザワとした感触が手の平に伝わってくる。


 騎士達が消えて行った方向からは、地響きのような物音が聞こえていた。

 わたしの隣でチビちゃんが震えているのがわかる。

 騎士見習いに預けていた背中を起こしてチビちゃんを両腕に抱きしめ、声を掛けた。


「大丈夫だよ。きっと、バルドさん達が何とかしてくれるよ」


 ぽんぽんと背中をたたいているうちに、強張っていた彼女の身体が柔らかくなっていくのを感じる。騎士たちへの連絡がすんだバージは、周囲を警戒しながらこちらへ戻ってきてくれた。


「おい、兄ちゃん。お前も形だけでいいから弓を構えておけよ。万が一こちらへ魔獣が来た時に(あた)らずとも威嚇ぐらいにはなるかもしれん」


 ……子どもに後方支援の真似事でもさせるつもり?


 バージを睨みつけるが、彼にはわたしが睨んでいる意味がわからないようだった。


「アズサ殿は、そのおチビさんを頼む。そうしていれば少しは安心だろ?」


 そう告げた後は、ただまっすぐに騎士達が消えて行った森の方角を見据え、剣の柄に手を添え立っていた。


 カチャ、と音がして目を向けるとお兄ちゃんが矢筒から矢を取りだしている。

 ぎこちなく弓を持ちあげ、見よう見まねと言った感じで矢を番えようとしていた。左手に当たる矢の場所が定まらず、ゆらゆらと不安定に矢が揺れている。

 それを横目に見たバージが『無理か』と呟き、お兄ちゃんの顔が悔しそうに歪んだのがわかった。


「かしてみて。わたしの知ってるやり方でも大丈夫かな?」


 仕方なく、悪寒でゾワゾワする肌をこらえて立ち上がる。

 力なく下ろされたお兄ちゃんの手から矢をそっと引き抜き、左手を出すと彼は黙って弓を渡してくれた。


 丈の短いM字に屈曲した弓を受け取り、先程ライル班長が戦闘時に持っていた様子を思い返して同じように持つ。

 丸木で作られた弓は思いのほか重く、ずっしりと手に負荷がかかったが、腕にぐっと力を込めた。弓を誰もいない方向へ向けて構え、矢束(やづか)の長さに足を開く。

 お兄ちゃんから見やすいように少し弓と矢を横倒しにして番えて見せる。


「左手の人差し指の付け根あたりに矢を乗せて、矢のお尻……(はず)の溝を弦にかけるの。弓と矢がきれいな十字になるように……こうやって置いてみてね」


 矢を番えた後は少し弓を立てる。


「ここじゃわかりにくいけど、練習の時は壁に平行線を一本引いとくと、ちゃんとまっすぐに番えられてるかわかるから。足は矢束の長さを目安に開いて、……角度はこんな感じね。背筋はまっすぐ、腰を据えて呼吸を整えたら……お腹の中心に力を籠めて」


 腹式呼吸を意識しながらゆっくりと鼻から息を吐き出し、口から吸い込むようにして呼吸を整えた。

 そこから弓を構え、打起(うちおこ)し、引分(ひきわ)け、(かい)までをゆっくりとした動作で行う。


「矢羽が頬に……、引いた弦が耳元に届く、とこで……、左腕を伸ばすように押して…」


 右手がぷるぷるしそうで危なっかしいので、引ききらずにやめておく。

 この弓は子ども用らしいが、それでもわたしには強すぎるようだ。矢を番えて扱うのは難しいので無理はしない。


 そもそも、弓に矢を番えたのが初めてだったし、矢の番え方は見よう見まねの聞きかじりだ。


「矢の持ち方は親指の付根、人差指の付根、小指の付根…こんな感じで持つの。このやり方で合ってますか?バージさん」


 弓の形状自体わたしの知っている物とは違うので、専門家に聞くのが一番だと思い訊いてみた。

 ほけっとこっちを見ているバージに話しかけると、ハッとしたように目を瞬いている。


「いや、どれ、見せてみろ?おいおい、これじゃ矢が滑っちまうだろ……。それに、弓の握り方もそんなに緩く持ってちゃ動いちまうぞ。弓はこう握って、矢は弓の左側。筈を弦に掛けたら人差し指と中指の間に挟んで人差し指と中指、薬指を使って弦を引く。……右眉のあたりに弦が当たるようにして、左腕がまっすぐに伸びるまで標的に向かって押し開くんだ」


 ……お兄ちゃん、ゴメン。やり方が大分違ったみたいデス。そっか、専用の道具がないとあの持ち方は難しいよね。


 日本では右手に鹿皮で作られたユガケと呼ばれる手袋のような弓具をつける。右手の親指から中指までを覆う物だ。

 頑張って引いたのに、余計なお世話だったようだとがっくりする。


「ありがとうございます、バージさん」


 わたしが声をかけると仕事を忘れかけていたようで、バージは気まずそうに弓をお兄ちゃんに押しつけた。


「あぁ、いや。そうだった、今は護衛中だ。またあとで見てやるから、兄ちゃんは今の持ち方だけでも覚えとけよ」


「は、はい!……バージ、さん、ありがとう」


 頭をかいて持ち場に戻って行くバージを見送るお兄ちゃんは、はにかんだ笑顔で弓を握りしめている。

 水を差すようで申し訳ないが、ちゃんと釘は刺しておこう。


「お兄ちゃん、練習するのはいいけど、今は持ち方だけにしてね。間違っても使おうと思わないで。お兄ちゃんだけじゃなくて、周りにいる人も矢で怪我をする可能性があるからね?実際に射る練習は、あとで騎士団の人にちゃんと安全な使い方を教えてもらってからにしようね」


 そう真剣に伝えれば、素直にこくりと頷いてくれた。

 人のいない方向を向いて持ち方の練習をし始めたお兄ちゃんは、矢を番えては軽く右手で引く動きを繰り返している。

 左手に当たる矢が揺れていたり、右腕がぎこちないが練習している後ろ姿は楽しそうだ。


 ふらついて地面にへたり込むと、心配そうなチビちゃんが駆け寄ってくれたので両手で捕まえてぎゅうっと抱っこさせてもらう。


「ひぁ!?ア、アアアズ!?」


「チビちゃーん、疲れたよう~」


 チビちゃんの身体は抱きしめると薄くて華奢なのが、布越しにもすぐにわかる。日本の同年代の子に比べれば半分の体重しかないだろう。

 だけど、抱きかかえたチビちゃんが温かくてほっとした。


 人間ホッカイロ~とぬくぬくを存分に味わう。ぐりぐりとチビちゃんの髪に顔を埋めて癒されていると、頭をグーでたたかれた。


「おい、このヘンタイ野郎!チビから離れろ!!」


「っったぁーい!!ちょっと、手加減してよ!お兄ちゃん暴力反対!」


 右手で頭をさすりつつ、左手はチビちゃんから離さない。


「チビが嫌がってるだろ、離せ!」


「そんなことないもん。ねぇ?チビちゃん……あれ?」


 チビちゃんに視線を向ければ、彼女は真っ赤になって涙ぐんでいた。


 ……うわっ、やっちゃった。


 そっと身体を離して、ごめんね?と頭を撫でると、彼女が被っていた赤いスカーフがずれてしまう。


「あっ、あっ、ごめん。取れちゃった、今つけ直すから」


「だ、だだだいじょうぶ。じ、じじ、自分でやる」


 チビちゃんが取れかけていたスカーフを一度外すと、彼女の頭の上で何かが動いてるのをみつけた。


 手を伸ばしかけて、止める。

 チビちゃんが緊張に身を竦ませたのがわかったから。


「チビちゃんのあたま、触ってもいい?」


 それを聞いて一瞬固まったチビちゃんだけど、ギュッと目を閉じるとこくこくと頷いてくれた。

 こげ茶のメッシュが入ったふわりとした髪の毛を、そっとすくいあげるように触れる。うす茶色の髪はやわらかく、絹のように滑らかだった。


 ゆっくりと上から下に髪を撫でていると、チビちゃんの肩から力が抜けていく。そのまま手を伸ばし、左右の頭頂部にあるモノに指先で触れると、ぴくりと動いた。


 栗色の短毛に包まれたそれは、ちょっとネズミの耳に似ているようだ。でも、ハツカネズミのそれよりも厚みがあるように思えた。

 猫のように前を向いているのではなく、縦長のだ円形をした小さな耳は横に向いて開いている。

 そこから手を下ろし、(つや)やかな髪だけをなでつけると、両側でぴくぴくと動く耳がだんだんと大人しくなっていく。


「チビちゃん、……お耳も触っていい?」


「うえぇぇ!?……うぇ、う、うう…ぅん」


 彼女は真っ赤な顔でくりくりとした大きな黒目を左右に動かし逡巡した後、小さな声で了承してくれた。チビちゃんの愛らしさといったらもう。口元が弛んでしまう。


 左右の小さな耳を片方ずつそっとはさむように触れると、もふっとした手触りがたまらない。

 耳をもふって堪能した後は、耳の付け根をもむように撫でつけた。


 なでなで、なでなで、なでなで、なでなで、なでなでなでなでなでなで……。


 ……はぅ。


「……おい!いつまでやってんだよ、このドヘンタイ!!」


「っは!?」


 いつの間にか頭や耳だけでなく、両手であっちこっち触りまくっていた自分の手を見てさっとひっこめた。目の前には、ほんのり口を開けて眠たそうに目を閉じるチビちゃんがいる。


 我に返って見ると、寒気が増していた。

 腕をこすりながら周囲を見まわせば、じっとりとした目でわたしを睨みつけているお兄ちゃんの視線が痛い。でも、それ以上の暴言はなく、重い溜め息を吐かれて視線が逸らされた。


「これ、お前が持ってるか?オレよりお前の方が使い方知ってんだろ」


 お兄ちゃんは少し面白くなさそうに弓を差しだしている。

 それを見て目を瞬いた。


「わたしが持っててもいいよ。でも、わたしも使ったことないから持ってるだけになるけどね?」


「はぁ?お前、持ち方とか、詳しかったじゃねーか。……それに、弓を構えた姿が……すごく、きれいだったし」


 照れくさそうに目元を赤らめるお兄ちゃんが可愛すぎる。

 わたしが笑うと嫌なものでも見たかのように腕をなでた。なぜだ。


 そんな彼の向こうで、騎士見習いがこちらの話を堂々と聞いているのに気付いた。奴は腕を組んで偉そうにこっちを見ている。


「うちの祖父が弓を打つ職人だったの。だから弓は持ったことあるんだけど、習ったことはないよ。わたしの国の弓って独特な扱い方が必要なの。それに、実は矢を触ったのも今が初めてなんだよね。やれって言われたら引けない事はないけど、飛ぶ気がしないなぁ……」


 そう。何を隠そう、わたしの祖父は日本でも数少ない弓師を生業としていた。だから弓はいつでもわたしの身近にあったし、納品のアルバイトで扱わせてもらうこともあったのだ。

 ちなみに、弓師である祖父の娘を嫁にもらった父もサラリーマンをする傍らで、弓道の師範をしていたりする。


 祖父が弓を打つのを見るのは好きだったし、弓を扱う父の姿を弓道場のすみで見せて貰うのも好きだ。だけど、孫や娘がその素質を受け継ぐかどうかは別の話。

 父や祖父には理解を得ているが、わたしは見ている方が性に合うのだ。弓を操る立ち居振る舞いを見ているのは勉強になったし、綺麗な和弓を愛でるのは好き。だけど、矢を射ることには興味が持てないし、正直()てられる気がしない。


 バイトで弓弦を引かせてもらう機会は沢山あったけど、実際に矢を番えたのは本当に今が初めてだったのだ。祖父も、父もわたしにそれ以上を求めることはしなかったから。


 ……でも、そうだ。さっきバージさんは中らなくても威嚇出来ればいいと言ってたんだっけか。


「お兄ちゃんが持ってるのが嫌なら、わたしが持つよ」


 そういって、受け取ろうと手を伸ばしたら弓がひっこめられた。


「べつに、持っていたくないわけじゃないぞ!……もういい、お前はそこで座ってろよ。青い顔しやがって…」


 ……なにやら繊細な男心を傷つけてしまったようだ。


 だけど、口調は怒っているのに言ってる事は優しくて、ちょっとおかしくなってしまう。


「お兄ちゃん、やさしい」


「オレはお前の兄ちゃんじゃねぇ!」


「だって、他になんて呼んだらいか……。あ、そうだバージさん、ちょっと聞いてもいいですか?」


 わたしが暢気な会話をしている間も彼はずっと臨戦態勢で森を警戒してくれている。話を振られたバージは振り返ることなく応じてくれた。


「なんだい?今おじさんちょーっと忙しいから、手短にな」


「あ、そうですよね、すいません。えっと、名付けについて聞きたいんです。名付けは精霊がするって聞いたんですけど、勝手に自分で名前を付けたらいけないとかって決まりはあるんですか?」


 聖地に係わりがない話でもなかったからか、彼は快く答えてくれた。


「自分で名付けちゃいかん決まりなんてない。でも、自分で名付けたって奴の話も聞いたことがないな。そもそも、それじゃ名をつける意味がないじゃないか。名付けってのは魔力でもってその人間に加護を与えるための儀式だ。子どもの健康と健やかな成長が約束される。強い力を持った者が先祖に居ればその名を受け継ぐこともあるが、多くは個々に合わせた一番相性の良い名が与えられるって話だな」


 ……へぇ、加護を受けると健康になるのか。


 名付けは致死率の高い乳幼児の成長を願う儀式のようだ。

 健康と健やかな成長が加護として受けられないのは惜しいが、わたしとしては子ども達に呼ぶ名前がない方がつらいし哀しい。


 ……取敢えず気に入った名前を名乗って、いつか、精霊とやらが増えたらつけ直してもらえばいいんじゃないかな。


 そう思って、いい名前はないかと勝手に妄想しているとバージが他の情報をくれた。


「今度名付けの儀式を受けるのは……そうだ、ナグんとこの嫁さんが腹ボテだって話だったな。奴に詳しく聞いてみたらどうだい」


 わたしは笑顔をふりまく血まみれ男を思い出して、遠まわしにお断りした。


「そうですか、取敢えず禁止事項とかが無いのが分かれば良かったんで、ナグさんにはまた今度聞きたいと思います!」


 わたしがナグを拒否してたのを思い出したのか、バージは『そういや、そうだったな』と笑った。

 そこへ、お兄ちゃんの緊張した声がわたし達の耳に届いた。


「――バージさん、こっちに何か来る!」


 とっさに森の方へ意識を向ければ、さっきまで遠くに感じていた喧騒が近づいているような気配がした。

 みんなが息を飲んで状況を見守っていると、メキメキと木の裂ける音が聞こえて来る。遅れて地響きが(とどろ)き、木々の向こうに埃がもうもうと立ち昇る様子が見えた。

 その中、どこかから断続的な笛の音が聞こえる。


「……おいおい、マジかよ。…――救援要請だ。ここにいるのは俺と子どもらと…」


 破壊音は段々と近付いてくるようだ。

 チビちゃんを抱きかかえるようにして土煙を見ていると、白銀の全身鎧に身を包んだ騎士見習いがバージの隣に並び立った。

 バージは横目で騎士見習いに視線を走らせると、何かに気付いた様子を見せる。


「見習いの、お前さん得物を何も持っていないようだが……もしや、魔法使いか?」


 白銀の騎士の兜が縦に動くのを見てとり、『それは心強い』と言ったバージが抜剣し身構えた。


「子どもは下がっておいてくれ。それと、いつでも逃げられるようにしておいた方がいい。団長が相手して歯が立たない奴が来るんだ。俺だけでお前らを守りきれるかわからんからな。兄ちゃん達、お前らも男なら、か弱い女ぐらい守りきって見せろよ」


 お兄ちゃんが緊張した真剣な表情でゆっくりと息を吐き出し頷くのが見えたが、わたしにはバージの声が遠く聞こえていた。


 喧騒が近づくとともに、また吐き気と視界の明滅が始まったのだ。震えながら吐き気を堪えていると、それに気付いたチビちゃんとお兄ちゃんが手を貸してくれる。

 お兄ちゃんとチビちゃんの肩を借りて立ち上がらせてもらったわたしは、情けない気持ちで愚痴をこぼした。


「うぅ、……これでもわたし、結構強い方だと、思ってたんだけどなぁ」


「バカ言ってんじゃねぇ。お前みたいな弱っちいの見たことないぞ。オレはお前が転んで泣いたり、滑って叫んだり、青くなって倒れたり、担がれて絶叫してるところしか記憶にねぇ。そんな奴が強いなんて誰も認めねぇからな」


 ……転んで泣いたんじゃないし。


 つまずいて飛び出した先が何もない断崖絶壁だったから、死ぬかと思って涙がでたのだ。

 あの時、ライル班長が掴んで止めてくれてなかったら、今わたしはここにいなかったと思う。


「……弱くないもん。お祖父ちゃんが生きてた頃は、よくお山に登ってたんだから。わたしの国の中では身体は強い方だったの!あ―…、納品先で食べたごま豆腐が絶品だったんだよねぇ…」


 短大卒業の年に亡くなった祖父とは、休みの日に納品につき合って神社仏閣巡りをして過ごしていた。

 子どもの頃からの顔馴染みに頼まれて、ちょっと変わったアルバイトもしたが、あれは本当にいいバイトだったと思う。

 プチ旅行で三食おやつ付き。クルミや山ブドウを使った精進料理が懐かしく思い出され、また食べたくなってきた。


「お腹空いたね……」


「本当にお前、ちょっとおかしい。今この状況でなんで腹が減るんだよ。生きるか死ぬかって時だぞ!」


「だって、朝ご飯早かったし。病気になるとご飯いっぱい食べて治すのが我が家の回復法だから」


 土鍋いっぱいに作った雑炊が食べたい。

 この際雑炊じゃなくてもいい。

 ちゃんとした美味しいご飯が食べたい。

 酸っぱくなくて、苦くない物をお腹いっぱい食べたい。

 

 ご飯の事ばかり考えて黙り込んでいると大きな地響きと共に、砂煙がわたし達の方まで舞いあがってきた。それと同時に大勢の足音も聞こえてくる。

 もうもうと立つ埃の中から騎士達が現れ、盾持ち、剣士、弓士三人ずつのグループで森に向かって態勢を整えるのが見えた。


 喧騒と怒号、獣の咆哮と、誰かの叫び、何かが爆発する音に、焦げ臭いにおい。そして、またおかしな体調変化がわたしを苛んだ。


「ひっ……」


 先程、騎士たちに近づかれたときに感じた恐怖がまた一段と強くなって襲ってきたのだ。

 視界が明滅して立っていられなくなる。

 めまいに吐き気、背筋を這う不快感。


 それ以上に押し寄せてくる、これは……感情の、波?


 ……こわい。


 ……怖い、怖い、怖い!


 カチカチと震え歯の根が噛み合わなくなる。噛みしめて止めようとしてもうまく力が入らない。

 魔獣が恐ろしいのではない、()()怖いのだ。

 

「なんで……どうして?こんな……」


 今まで、人をこれほど怖ろしいと思ったことがなかった。

 ニュースで陰惨な事件を聞けば怖いと思ったし、目の前で暴力行為が行われれば、他人の痛みに自分までが同じ目に遭っているような気がして怖れる事もあった。

 でも、今感じている恐怖とは比べ物にならない。


 全身が総毛立つ程の恐怖という感情をはじめて体験した。心臓がなべ底にでもなったかのようにドコドコと激しい鼓動を伝えて来る。

 自分の身体が自分で思うようにならない不快感に、激しく脈打つ胸を押さえ息を詰める。


「あれが、さっきと同じ魔獣だっていうのか……?」


 お兄ちゃんの声に反応して、脂汗の滲む顔を上げて前方を見上げた。泉の周囲を囲っていた木々をなぎ倒して出てきた魔獣が、その姿をあらわにする。


 そこには四足で立ってなお、成人男性の身長を超すサイズの獣が咆哮を上げていた。

 獣の瞳は異様な赤い光を帯び、どこか焦点の合わない濁った目を揺らしている。四肢は熊の脚のように太く、黒い毛並みのあちこちがてらてらと濡れていて、地面に滴るものをみて血で濡れているのだとわかった。


 魔獣は足に傷を負っているのに構うことなく動き、そのたびに鮮血が飛び散っている。眉間に深く皺を寄せ、興奮に鼻息を荒くしているようだ。

 むき出しにされた牙の隙間から、大量の唾液と泡立った血がたれていくのが見えた。


 それに向き合う騎士達からも異様な雰囲気が感じられる。


 必死に手で押さえ、こみ上げてくる吐き気をこらえた。

 騎士達から漂う澱んだような感情が、波のように押し寄せては引き、また寄せて来る。


 他人はこれを狂気とでも呼ぶのだろうか。正気を保っているのが難しくなる様な感情の波に襲われて、足がすくむ。


「この化け物が、よくも俺達の仲間を……殺す!殺してやる!!」


「魔獣なんて、この世からいなくなればいい。……早く、殺せ、殺せ、殺せ…」


「赤狼め、死ね!」


 騎士達の虚ろな声が聞こえて来る。息を呑んだ次の瞬間、空気を切り裂くように怒鳴り声が響いた。 


「貴様ら!騎士ともあろうものが魔獣ごときに後れを取るとは何事だ!しっかり意識を保て!奴に引きずられるな!!」


 バルドの声だった。

 団長自らの活が入ったが、どこか狂気じみた言葉を呟き目の前の獣を睨んでいる騎士達の様子に変わりはない。

 バルドを含む幾人かの騎士達は仲間たちの変調に気付いてはいるものの、巨大な魔獣を前にどうする事も出来ないようだった。


「……お、おおお兄ちゃん…」


 気付けばわたしの左腕を支えてくれていたチビちゃんも、こちらにしがみついて震えている。


「…きき、騎士の人たち、ま、真っ黒、なの。こ、怖いよぉ…」


「……なんかおかしいのはオレにも分かるけど、真っ黒ってなんだよ?」


 チビちゃんは首を振り何も見たくないというように、顔を伏せわたしの脇に顔を埋めている。


「あああ、あたまとお、おなかのとこ、く、くく、黒いもやみたいなの、み、見える。さ、ささ、さっきまであんなの、な、なかった、のに。き、きき気持ち悪い」


 チビちゃんの言葉を聞いてわたしも騎士達の姿に目を凝らした。

 だが、わたしの目にも黒い物なんて見えない。でもチビちゃんの震えと気持ち悪さは、もしかしたらわたしが感じている物と同じなのかもしれない。


 目に見えるのは、攻撃を止めようと近付いては魔獣の体当たりで吹っ飛ばされている盾持ち達の姿だ。その端でバルドが後列に移り、騎士見習いのところへ走り寄っている。


 続けて2人の盾持ちが左右から攻める。だが、後列の弓士たちとの連携は全く取れておらず、つぎつぎとなぎ倒されていく。


 近接戦を余儀なくされている剣士は満身創痍だが、ギラついた眼差しでやみくもに斬りかかって行くのが素人目にもわかった。

 体勢を崩した盾持ちが制止しようと怒鳴っているが、無視しているのか、聞こえていないのか、どちらにしても剣士たちが動きを止める様子はない。


 まともな人は盾持ちに多いようだが、前列にいるため状況がわからないまま翻弄(ほんろう)され怪我を負っている。このままではいつこちらへ襲ってくるかもわからない。


「お兄ちゃん、わたしが弓と矢筒を持つからチビちゃんを抱えてあげて。このままここにいたら危ないから、あっちに移動しよう」


 暴れている魔獣とわたし達の立つ泉までの距離は50Mも離れていない。間に立つ騎士の人数はそもそも多くはないし、次々と怪我に倒れている。

 今、まともに立っているのはバルド、騎士見習い、バージ、それから5・6名ほどだ。


 お兄ちゃんと視線を合わせ、倦怠感を訴える身体になんとか力を入れて荷物を受け取った。


「そうだな、あっちで木の影にでも隠れよう。チビ、ほら、こっちに来いよ負ぶってやるから」


 お兄ちゃんもここは危ないと感じてくれたようだ。わたしの言葉に頷いてすぐに行動してくれた。お兄ちゃんの背にチビちゃんが背負われた時、怒鳴りつけるようなバルドの声が響いた。


「総員、退避!」


 短い言葉で指示されたその一言に、身体に染みついた騎士の性とでもいうのだろうか。先程は従わなかった騎士たちも、一斉に魔獣から身を引き距離を開けていく。


 それを追って跳びかかろうと魔獣が身を低くしたその時、森の中から飛び出した何かが魔獣の身体に突き刺さっていった。次々に刺さって行く物を確認すれば、それは裂けて尖った木の枝であったり、大きな木片だった。


 串刺しのようになっていく魔獣は身をよじって避けようとしている。

 地に伏せたかと思うと、魔獣が全身を震わせて刺さった木片を振り払い、その場を跳躍した。飛び上がった魔獣の着地点には、茫然と見ていたわたし達がいる。


「「「 逃げろ!! 」」」


 一瞬の出来事だった。

 突き飛ばされた衝撃のあと地面にしたたかに打ちつけた身体に痛みを覚えた時には、間に魔獣を挟んで、子ども達とは離れた場所に倒れていた。

 魔獣の尾が立ち、小刻みに揺れている。その四足の向こうには倒れて尻餅を吐いた男の子。背後には妹を匿っているようにみえた。


 唸り声を上げて前傾姿勢を取る魔獣からは濃い血の匂いと獣臭が漂ってくる。

 先ほど見た虚ろに揺れる目を思い出し、身震いした。目前にいるのが騎士だろうが子どもだろうが手加減などしてくれるはずがない。


 ……このままじゃ、あの子達が襲われる!


 地面をかいた手に固い物があたった。

 弓だ。慌てて見まわすと矢も散乱して側に落ちていた。


 慣れない弓に矢を番えて引く。

 だが、震える手から放たれた矢は軽い音を立てて、すぐそこに落ちた。もう一度矢を手に取り、番える。だけど、震える手から落ちた矢は今度は飛ぶことさえなかった。

 魔獣が涎と血を滴らせながら一歩、二歩と痛ぶるような足取りでゆっくりと兄妹に近づいている。


 矢は、中らない。


 でも、威嚇するだけなら……。


 唐突に先程のやり取りを思い出していた。

 矢が扱えないわたしにだって、弦を引くだけならできる。


「おじいちゃん、たすけて…」


 涙で目の前がかすむ。

 地面にへたりこんだ足。それでも上体だけはしっかりと起こして魔獣に向けて弓を構えた。身体に染みついた動きは、和弓を扱うためのもの。祖父の打った弓で幾度となく行った動作だ。


 手に馴染まない見知らぬ弓で行うのは初めて。だけど、込める気持ちは変わらない。


 ――邪気を払う。


 ただ一心にそう心を込めて素引きした。




『 テイィ……ィ……ィ……ン――――――… 』




 耳を痺れさせるような、音叉にも似た音が響く。静まりかえった森の中。先程まで吹き荒れていた風も止んでいた。

 長く永く余韻を残したその響きが終わるころ、静寂を破ったのは叫び声だった。


「グガァアアアァッ」「「「うあぁっ」」」


「にいちゃ!?」


 突然、魔獣だけでなく騎士やお兄ちゃんまでが呻きだし、頭を抱えたり胸元を押さえ苦しそうに顔を歪めていた。










 高音域の鈴音のような響きが周囲に反響していたのは、長いようで短い時間だったと思う。

 弓返(ゆがえ)しされた弓から伝わる振動の余韻が去ると、周囲の混乱状態が目に入った。周囲の慌ただしい声も耳に聞こえてくる。


 目の前で兄妹に襲いかかろうとしていた魔獣の胴体には、丸太のような太い木が深々と突き立っていた。

 地面にまで食い込んだ木の杭は、魔獣の体をしっかりと縫いとめている。血を流し過ぎた獣はやがてもがくような動きを止め、力尽きた。


「怪我人の手当てを最優先にしろ!手の空いた者はこちらへ……」


 バルドの声が遠く聞こえる。力尽きた魔獣の向こうで兄を助け起こすチビちゃんの姿が目に入った。


 ……無事、だった。


 力が抜けて地面にゆっくりと腰を落とすと、揺れる視界に白銀の光が差した。


「少し休め。話はそれからだ」


 騎士見習いが目隠しするように視界を覆ってきた。目の前が暗くなり、抗えない眠気がやってくる。瞬く間にわたしは意識を手放していた。


















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