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梓弓  作者: 長月 夜半
第一章 十六夜
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シヤの泉


 崖を登りつめたわたしは、死ぬ思いで手に入れた平らな地面の感触を心行くまで味わっていた。(膝が笑って暫く立ちあがれなかったともいえる)


 ……これ、絶対明日筋肉痛に苦しむやつ!


「お前さ、なんで『いい景色見たい、近道いいね』とか言ったんだよ?この道で2時間近くかかるっておかしいだろ。多分、チビだって30分はかかんねーぞ!?」


 騎士の人から命の水(ただの酸っぱい水)をいただきながら、やっと起き上がったわたしはふるふると笑う膝を押さえて立ち上がった。


「うん、わたしが間違ってた。わたしも職業柄、体力にはそこそこ自信があると思ってた。だけど、所詮わたしは現代の日本人レベルだったの。もう、もう、二度と、う、うぐっ、崖登りなんてしないんだから―――…っっ!!」


 だから―…だから―…だからー…と、こだまが返す。

 ついて来てくれたみんなは、そんなわたしを微妙な顔で見ていた。近道イコール楽が成り立つのは平地だけ。それを実感させられた本日の山登り。

 ほっとして堪えていた涙がどばっと解放されたわたしの号泣に、お兄ちゃんも騎士の人達もドン引きしている。


 ……ほんとに、死ぬかと思ったんだってば!!


 最後の絶壁で足を滑らせたわたしが10メートルほど滑落した時にも笑っていたこの人達に、わたしの恐怖は分からないに違いない。


 この国の下町に住む人達にとって山歩きは生活のためのもの。

 その背中に収穫した荷物を担いで行き来する事を考えれば、今回のこれはお遊び以外のなんでもないのだろう。

 騎士の人だって重い装備をつけているのに平然と登っているのを見れば、そもそもわたしとは基礎体力が違うのだと痛感する。

 そして、『魔獣が凶暴化して出没するこのご時世に、危険な山で景色を楽しむなんてことを目的に行動する酔狂者(バカ)はいないですよ』とげじ眉おじさん騎士が口を滑らせたのを、他の騎士が笑って腹パンしていた。


 ……そういうことはもっと早く教えるべきだと思うのですが!?凶暴化した魔獣ってなんなのさ、野犬的なやつ?それとも熊レベル?


 これからはここの常識を勉強しようと切に思ったことは、言うまでも無い。


「お、おい。泣くなよ。ほんとにお前は弱っちいなぁ。ほら、これが見たかったんだろ?後ろ見てみろよ」


「……ズビっ、うぅっ?」


 お兄ちゃんは鼻水をすするわたしを嫌そうに見て、背後を指差して見した。チビちゃんは心配そうにずっと背中を撫でてくれている。


 ……本当にいい子だよぅ。


 振りかえったわたしの視界いっぱいに広がっていたのは、見渡す限りの青空。雲の影が森や平原をゆっくりと移動して行くのが見渡せた。


 ティルグニアの王都は、高い山々に囲まれた山岳地帯にある。

 ここからは対面の崖上にそびえ立つ黒く美しい城の背面が、少し上の位置から一望できた。


 左右を荘厳ともいえる連峰に囲まれ、青くそびえる山々は既に冠雪を迎えている。その裾野は少しくすんだ紅葉に葉の色を変化させていた。乾いた風が足元の砂を巻き上げ、それを虚空へと運ぶ。

 会話が途切れると、しんとした空気が漂い、その場がより一層物悲しい印象になる。


「は――…、ここまでよく登ったな、わたし」


 息を吐いて呟くと、一緒に登ってくれた騎士達が苦笑した。


 ……いや、もうほんとにごめんなさい。


 折角の景色なのに、あまり心が浮き立たない。まだ、この先に進まなければならないのかと少し気が重くなるだけだ。そんなことを考えていると、高山病について教えてくれた色黒おじさん騎士達の会話が聞こえて来る。


「俺もはじめてこの崖に登った時は、もっと感動したんだけどなぁ」


「あぁ、言われてみれば、子どもの頃の方がもっと空気が澄んでた気がします」


 相槌をうったのはちょび髭のっぽの騎士だ。


「年々広がって行く瘴気に、山が穢されてるからな。今じゃ薬草なんて二束三文だぜ。この山の薬草は質がいいんで有名だったのにな」


 げじ眉おじさん騎士も寂しそうに呟いた。


 精霊とやらがいなくなると、見える景色にまで変化があるのだろうか。景色の美しさに精霊なんてものが関係するのなら、日本は精霊のいそうな場所がわさわさあるってことになるではないか。


 騎士達がしんみりとした空気を醸す中、わたしは日本の紅葉スポットを思い描いていた。すると、突然威勢のいい声がして、騎士服を着た人が背後の茂みから飛び出して来た。


「あっ!よかった、やっと到着しましたね!」


 身体についた葉っぱを払いつつ、優しげな笑みを浮かべた騎士は、わたしに近道を勧めた人だった。

 騎士と言うより優男という印象の強い、細身の青髪男性。彼は、先に行ったバルド達に道程の変更を伝えるため、この崖をひょいひょいと軽い足取りで登って行ったお方である。


 崖の険しさに警戒を持たなかったのは、この人の所為だとも言えるのではなかろうか。わたしはカクカクする膝をたたいてほぐしながら、心中で八つ当たりをした。


「ライル班長、警戒態勢の喚起が出ています!しばらく放置されていたシヤの泉一帯を、赤狼の群が縄張りにしていたようです。先遣隊が討伐を試みましたが、残党がまだ数匹逃げ回っているそうです。バルド団長より、こちら別働隊が本隊と合流の後、掃討に入るとのことでした」


「了解した。報告ご苦労、護衛任務に戻れ」


「はっ!」


 爽やか笑顔の細マッチョ騎士は、胸に手を当てて敬礼するとわたしに笑いかけてきた。


「随分時間をかけて登られていましたね。ゆっくりと景色を楽しんでいらしたのですか?」


 この崖を楽しみながら登れる人種には、何を言っても届かない気がする。


 半眼になって彼を見上げるわたしの横で、シャリンと金属のこすれる高い音がした。

 報告を聞いた二人の騎士が抜剣し、ライル班長と呼ばれた色黒騎士は弓に矢を番えて周囲を警戒する態勢を取っている。

 それを見たチビちゃんが身を固くしたのを、お兄ちゃんが守るように手を握っている。少しそわそわとしている彼は、たすき掛けにしている弓を気にしているようだ。


「お兄ちゃん、弓を持つのは初めてでしょ?慣れない武器(もの)は使うべきじゃないと思う。ここが危険ならバルドさん達のところに少しでも早く移動する事を考えて、チビちゃんを助けてあげた方が絶対にいいよ」


 わたしがそう言うと、弓にかけていた手を慌てて放したお兄ちゃんに睨まれた。


「……そういうお前が一番足が遅いじゃないか。大丈夫なのかよ」


「大丈夫じゃないけど、死ぬ気で走るよ!」


 お兄ちゃんと言いあっているうちに、周囲の安全確認を終えた騎士の人達が周りを固めてくれていた。


「二人とも威勢がいいね、やっぱり騎士団に…」


「おい、勧誘してる場合じゃないだろ。それはあとでゆっくりやれ。……いくぞ!」


 ……うん、その勧誘、お兄ちゃんにはぜひ後でゆっくりお願いします。


 わたし達は騎士達に四方を囲んでもらって林の中へ駆けだした。(しばらく)く行くと、草が刈り取られた道に出たので、この斜面の先がシヤの泉なんだろう。


 そう思って視線をあげたとき、騎士たちが一斉に立ち止まった。勢いづいていたわたしは、前方にいたちょび髭騎士にぶつかって止まる。

 みんなが同じ方向を見つめて警戒していた。


「……来るぞ。俺とバージは護衛に徹する。ゾイとナグは迎え撃て。行け!」


 ライル班長が号令を出すと、若手2人が飛び出した。

 バージと呼ばれたげじ眉おじさんは、前方に移動して剣を両手持ちで構えている。先程までの朗らかな様子は消え、鋭い眼差しで前方を見据えていた。


 わたしの耳にも何かが草をかき分け、高速で走って来る音が聞こえたと思った時、繁みから黒い物が飛びだした。


 着地と同時に唸り声を上げた四足の動物は、黒い狼のような大型犬サイズの生き物だった。


 むき出しにした牙の隙間から涎と共に唸り声をあげている狼は、前足を出し頭を低くして今にも飛び掛りそうにして、ぎらぎらとした赤い右目でナグを睨んでいた。

 左目からは赤黒い血が流れている。こちらはよく見えていないようだ。

 狼の額には、大きな赤い石が光っている。それが鈍く光るたびに、目が三つあるような錯覚を覚えた。


「アズサ殿とキミらは少しずつ下がってくれ。赤狼を刺激しないようにそっとだ」


 背後から小さな声で囁かれ、わたしは息をひそめすり足で少しずつ後退した。


 わたし達が下がるのを見計らって、ちょび髭のゾイと爽やかナグが唸る狼の前後に回り込んだ。

 声を上げて剣を振り上げたゾイは、そのまま正面で赤狼と睨み合っている。その間隙をぬって素早い動きで死角に入り、後ろを取ったナグが剣を中段に構えた。


 ゾイが下手から赤狼に向かって剣を振り上げると、右後方に跳び退いた赤狼の背後にはナグがいる。

 ナグは赤狼の動きに合わせ、獣が動いた反動を上手く利用して右から左へと剣を横凪ぎに振り抜いた。


 臀部を切りつけられた赤狼がギャンと声を上げ、ナグに向かって唸り声を上げようとしたその時、わたしの耳元をビィンという小気味よい音とともに風が抜け、赤狼の右目に矢が命中していた。


 苦痛の悲鳴をあげた赤狼は、パニックになってのたうち回っている。その隙を逃さず、向き合っていたナグが獣の首を()ね上げた。一匹の獣が、あっという間に討伐される。


 赤狼の首が在った場所からは、おびただしい血が噴き出し、それを刈り取ったナグを血で染めている。彼もとっさに下がったようだが、すでに大量の血液を浴びていた。


 そんな衝撃的な光景を見てしまったせいだろうか。

 目の前が黒く点滅し、めまいを感じてよろめいた。


 ……貧血?


 今まで大きな怪我をしたこともなく、健康優良児だったわたしは貧血なんて経験したことなどない。

 しかし、ここは流石のわたしも女子として倒れてしまう場面ではないだろうか。なんて、バカみたいなことを考えているうちに、血まみれなのにニコニコと笑顔を浮かべたナグがこちらへ小走りにやって来た。


 その姿に顔が引きつる。瞬間的に背筋が泡立ち、思わず叫んでいた。


「来ないで!!」


 驚いたナグはその場で足を止めたが、わたしはじりじりと後ろへ退がっていた。


 ……嫌だ、来ないで。


 近くにいたくない、と強く思い、逃げ出そうとした時、ガチャ、と何かに背中がぶつかり足が止まった。後ろから肩を掴まれ、全身が震える。


「アズサ殿、どうされた?……血が怖かったのか。大丈夫、もう赤狼は死んだから、本隊との合流を急ごう。ここに長く留まれば、また別の個体が襲ってくるかもしれない」


 そう言って安心させるように肩をたたいているのが、さっきまでわたしを支える様に崖を登ってくれたライル班長だとわかる。

 そうわかってはいるのだが、身体の震えは増すばかりで吐き気まで込み上げていた。


「おい、お前真っ青だぞ。大丈夫か?」


「アズ……、こ、こわかったね。も、もももう、だ、だいじょうぶ、だから」


 自分も怖いだろうに、チビちゃんが震えるわたしの手を両手で包み込むように握ってくれている。わたしは少しでもライル班長の手から逃れたくて、目の前の2人にしがみついた。


「おっわ!お前、なにして…」


 わたしを押し返そうとしたお兄ちゃんは、言葉を途中で飲み込んだように黙った。そのうち、ぽんぽんと軽くなだめるように肩をたたいてくれる。


「そんなに震えるほど怖かったのかよ。もう大丈夫だよ。団長のとこ早く行こうって言ったのお前だろ、しっかりしろよ」


 背中に小さな感触も加わって、チビちゃんが支えようとしてくれているのが分かる。

 だけど、顔があげられない。震えも治まってくれない。なんだか情けなくて、涙があふれてきた。


 わたしが泣き始めたのがわかると、『怖かったよな』とバージの声がして頭に手が置かれる。一瞬身構えたが、今度は触られても平気だった。


 だけど、今感じている不快感が減るわけでもない。

 足が震えて、支えていられなくなり、地面に座り込む。すると、優しげなバージの声が耳元で聞こえた。


「ちょっと我慢しろよ」


 お腹が圧迫されて、吐き気とは別の苦しさを感じ目を開ければ、荷物のように肩に抱えられているのが分かった。


「このまま運ぶぞ。休むにしてもここじゃ落ちつかんだろ?」


 周囲には飛び散った血臭と、何とも言えない獣臭さが漂っている。バージに向かって微かに頷けば、みんなが一斉に動き始めた。


 気を使ってくれているようで、血まみれのナグは大分後ろからついて来るのが見える。彼は一定の距離を保ってくれてはいるが、正直、ついてこないでほしいと本気で思っていた。


 荷物のように担がれて運ばれるうち、明滅していた視界が少し晴れて来る。吐き気は残っていたが、さっきと比べればよくなった……とほっとした時、今度は背後から怖気がたった。

 バージの頭にしがみついて、必死に訴える。


「やめて!!行きたくない!止まって、お願いだから…」


 急に頭を抱え込んだので、わたしの腕で視界が遮られたバージはつんのめる様にして止まってくれた。吐き気を堪えて口元を押さえるわたしに心配そうな声がかかる。

 背後から、走り寄ってくる足音が聞こえていた。


「どうなされたのですか、アズサ殿!?――ライル、報告しろ!」


 バルドの声だとわかるが、めまいと吐き気に言葉がでない。


 どうやら、シヤの泉には辿りつけたようだ。

 だけど、この具合の悪さはなんだろう。バルドは近づいても問題ないようだ。でも、他の人の足音が近づくたびに、不快感が強くなってこの場から逃げ出したい衝動にかられる。


「そうか、一匹仕留めたか。こちらでも先程逃した残党を三匹片付けた。おそらくこれで掃討されたと思うが、……油断はするな。騎士団はこの泉を取り囲むように等間隔に離れて待機!事情はバージから聴く。他の者は指示通りに動け!」


「「「はっ!」」」


 バルドの号令で泉周辺にいた騎士達の荒々しい足音が遠ざかって行く。震えながら彼らの足音が遠ざかるのを待っていると、バルドがわたしの事をバージから聞き出す様子が耳に届いた。


 物音がしなくなり、二人のやり取りだけが続く。

 そのうちに吐き気が治まり、めまいも治まってきた。逃げ出したいという衝動も今はない。


 バージの頭にまわしていた手をほどき、おそるおそる顔をあげると、そこには心配そうなみんなの目があった。


「アズサ殿、ご気分はいかがでしょうか?」


 顔を上げたわたしにバルドが問いかけてくれる。

 お兄ちゃんもチビちゃんも不安そうにわたしを見上げているのがわかる。なぜか騎士見習いもそばにいて、じっとこちらを見ていた。


「取り乱して、ごめんなさい。具合が悪くなってしまって…」


「どのように具合が悪いのか教えていただけますか?もしかしたら、治せるかもしれません」


 バルドはそう言って、騎士見習いに視線を送る。全身鎧の騎士見習いがこちらへ頷いて見せた。


「今は、もう大分いいです。あの、出来ればあちらに行った騎士の人達がここへ戻らずにいてくれると嬉しいです。……変なこと言って、ごめんなさい」


 失礼なことを言っているのは先刻承知だが、彼らの方に意識を向けるだけで鳥肌がたってくる。

 わたしからも事情を詳しく聞きたいとバルドが言うので、具合が悪くなった状況を詳しく説明していった。


「そうですか。……わかりました。では、泉周辺を守る騎士達には出来るだけこちらへ近寄らぬよう指示を出します。バージ、お前は連絡役だ。騎士達へ急ぎ確認をとる事、それに伴い人員の配置入れ替えを速やかに行うように伝達を。確認事項は……」


 バルドの指示を聞き終えたバージは、わたしを地面に下ろして足早に行ってしまった。それを見送っていると、バルドが声をかけて来た。


「アズサ殿、お加減はいかがでしょうか?もし支障がないようならば、視察の目的であるシヤの泉をご覧になって頂きたいと思いますが」


 こちらを窺うように訊ねて来るバルドに頷きを返す。

 いつまでもわたしのせいで時間を無駄にはできないだろう。あまり気はすすまないが、言われていた通り泉を観察する事にした。

 バルドには見るだけでいいと言われているが、見ただけで何かが変わるのだろうか。そうは思えないがそれでも、何か発見できればと思い一歩を踏み出す。


 遠目に泉を見ても何も感じるものなどない。

 背の高い鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた泉の周りはとても静かで、風音以外何も聞こえてこなかった。それがなんともいえず薄気味悪い。


 木々が開けた奥の方に、水の張った場所が見える。踏み締めた地面からは刈られたばかりの青臭いにおいがした。泉の周囲に生い茂っていた草を、あの騎士達が刈ってくれていたのだと思うと、申し訳なさに胸が痛む。


 ……嫌な態度、とっちゃったな、いっぱい迷惑かけたのに。


 ライル班長達にあとで謝ろうと思いながら泉へ近づき水際まで行くと、ヘドロのような臭いが漂ってきた。澱み濁った暗緑色の水は、沼と呼ばれてもおかしくない程に汚れている。


 広さは小学校のプール程度。水の流れが(とどこお)っているのだろう、底の見えない水面には波紋もなく生き物の気配がしない。

 静けさと言うのではなく、まるで死んでいるような場所だと思った。


 ここには何とも言えない違和感があるのだが、それが何なのかはっきりとしない。

 もやもやしつつ、なんだろなと首を傾げて水面に手を入れてみる。どろりとした水草が指に絡み、山の上だというのに生ぬるいような水温をした水に不快感を覚えた。


 ……うぇ、気持ち悪い。


 さっさと水から手を引き抜いて、辺りを見まわした。鬱蒼と茂る木々に光を遮られた泉は、暗い影の中にひっそりと佇んでいる。

 樹上を見上げると、風が木々を揺らし音をたてていた。


「風……」


 目を閉じて風の音に耳を澄ます。ビュウ、ザザザ…と繰り返すような風と葉擦れの音だけが聞こえて来る。


 わたしは無意識に、祖父と巡った日本の山を思い浮かべていた。

 風に煽られた梢が揺れてたつ葉擦れのざわめき。差し込む陽の光、木の香り、湿った土の匂い、虫の羽音に鳥の声、山に住む生き物達の息づく音……。


 そこで違和感の正体に気づいた。


「あ――、ここ、生き物の気配がしないんだ?」


 山であるなら当然いるはずの虫や小動物。これほど木々が生い茂っている森の中なのに、考えてみれば羽虫一匹見ていない。

 この山でわたしが見た生き物は、先程討伐された赤狼だけだ。


 いつからだろう、ティア王女がいる離宮の庭には小さな虫も蝶も飛んでいた。鳥も何羽か見かけている。王都を出てからはどうだったかなと考えてみるが、そこまで詳しくは覚えていなかった。

 だが、そこでふと疑問が浮かぶ。


「バルドさん、ここってかなりの高地だって言ってましたよね?」


「その通りです」


 答えは背後からすぐに返ってきた。みんなわたしの後をついて来ていたようだ。


「わたしの世界では、高地じゃ平地と同じように農作物を育てるのは難しいと聞いたことがあるんですけど、王都の外では麦畑が広がっていましたよね。この世界では違うんですか?」


「いえ、こちらも標高の高い場所では作物が育ちにくい事に変わりはありません。ですが、我が国の王には豊かな魔力があります。ティルグニア王の張られた結界の中では、平地に近い収穫を得られるのです」


 結界の範囲にも限界はあるので、最低限の作物以外は平地を多く有する領地から買い上げ、足りない分を補っているそうだ。

 結界と言われてもわたしにはよくわからないが、大きな半円状のビニールハウス的なものを想像してみた。


「じゃあ、ここもその結界の中ですか?」


「ええ、種類に違いはありますが、このシヤの泉一帯も結界内に納まっております。途中馬車で通ってきた道は結界の範囲外でしたが…」


 だから高山病も起きたと言われて、へぇそうなんだと分かった振りをする。

 騎士団の人は王様の指示で魔獣の討伐や巡回で野山を駆け回っているそうだ。そのため標高の変化にも慣れているが、王都の結界から外へ出ない人たちはわたしと同じように山酔いを起こすらしい。


「じゃあ、ここに生き物が少ないのはなんでですか?山を登ってからはさっきの魔獣以外、虫や鳥の姿も見てないんですけど」


「それは、ここが瘴気の根源となる場所だからでしょう。シヤの泉は我が国が誇る随一の聖地です。ここには結界が張られているため、瘴気による穢れも目に見えるほどには感じられぬのでしょうが、結界で抑えきれずに溢れだした瘴気は、少しずつこの国の大地に広がっております」


 バルドはゆっくりと周囲に視線を巡らせながら、『以前はこの場所も光溢れる聖地で山に住む動物達の憩いの場であったのです』と懐かしむように語った。


「瘴気に侵され穢れた森では、瘴気を間近に浴びるだけではすみません。森に住む生き物達は穢れた植物や生き物を食べることで、穢れがその身に蓄積されて狂化や異形化が進むと考えられております。今後、視察に向かう先での危険は、赤狼の比ではない。国内の各地に点在する小さな精霊の棲み家からは、常に瘴気が漏れ出ているのですから」


 瘴気の中で生き延びることのできない虫や小動物達が、時折休眠状態で発見されるらしい。


「王は、……我が主は、そういった休眠状態にある生き物を集め、瘴気で穢れたものをなんとか浄化出来ないかと研究されております。瘴気に侵される前に保存されていた貴重な薬草を研究につぎ込んでいった結果、穢れにより異形化していたものに変化が見られ、小動物が元の姿を取り戻したというのです。……だが、目覚めないのだと…」


 その言葉に、一緒に話を聞いていた兄妹が息を飲んだのがわかった。


「ですが、この地が浄化されれば、品質の良い薬草などの収穫も多く見込めることでしょう。そうなれば、異形化したもの達を元に戻す研究も更に進むことが期待される。……そしてそれが、竜の呪いを受けた者達の光明となるのではないか、と」


「……それは、半獣の子達にもその薬草が効く可能性があるということですか?」


「それはまだ、我々にもわかりません。研究を進めるには素材となる薬草類が少なすぎるのです。情けない事に、人体で試していくほどには量が確保できませんでした。そもそも、瘴気の穢れと竜の呪いでは根本から違うという研究者もおります。だが、瘴気と呪いがまったくの無関係と言い難いのもまた事実。結界によって抑制されているこの地の生き物と各地に点在する瘴気の温床となっている地の生き物、および半獣達の姿に差異が見受けられるのです」


 半獣の子達が人の姿を取り戻せるかもしれない、という話を食い付き気味に聞いていたが、一転して不穏な話になり眉をひそめた。


「差異って、なんですか。王都以外の場所にいる半獣の子はどんな状態なんです?」


 自分の声が低くなるのを感じながら、濡れた手を握りしめる。


「森に眠る生き物達と同様に休眠状態だと思われる子どもや、獣の特性が大きく出て生活に支障をきたす者が多くおります。今はまだ、子ども達も幼い者が大半ですので大きな問題は起こしておりません。ですが、それも時間の問題のように思われます」


 厳めしい顔をさらに渋面にさせたバルドはただ、じっとわたしを見つめている。その目に期待が込められているのを感じて、哀しくなった。


 ……わたし、何にも出来ないのにそんな目で見ないでよ。


 そう、言いたい。だけど、わたしは自分に出来る事を何か一つでも見つけたいと思ってここへ同行することにしたのだ。くよくよしても、出来ない物は出来ない。今のわたしに出来る事を見つけるだけだ。


 黙り込んだわたしをこの場に残っている4人が静かに見つめている。

 わたしはもう一度、澱んた泉の水に手を浸して水面を撫でる様に水をかきまぜた。


「ここに精霊が棲んでいた時はどんな場所だったんですか?」


「わ、わたし、ししし、知ってる!」


 わたしの問いに勢いよく答えてくれたのはチビちゃんだった。今まで不安げだった表情が一変した彼女は、目を輝かせて説明してくれている。


 泉の水は水底の石まではっきりと見える澄んだ清水。

 深い水深を持つはずなのに、青く透明な水底に並ぶ石は、手が届くのではないかと思うほど近くに感じられる。

 空の色を映す水面に、鮮やかな緑を振りまき舞い踊るのは水の精霊。

 その小さな光のどこに秘められているのか、豊潤な魔力を持つ精霊たちはあらゆるものにその恩恵を分け与える。

 真摯に希えば傷を癒し、加護を与えてくれるのだという。


「ア、ア、アニヤがは、は、話してくれるの。わ、わたしの、お、おおお母さんの、こと」


 チビちゃんのお母さんは、産んだばかりのチビちゃんを抱えここへ逃げてきたそうだ。産まれた子どもが半獣だと分かり、処分しようとする家族の目を掻い潜って。

 巡回中だった騎士に発見された時には、母親はもう虫の息だったという。

 半獣に産んでしまった我が子を不憫に思って、精霊に縋ろうとしたのではないかと推測されたが、真実は分からないまま出血多量で亡くなったそうだ。


「わ、わわわたし、お、おお、おお母さんに、あ、あありがとうって言いたかったの。ううう、産んでくれて、あ、ああ、ありがとうっ……て」


 チビちゃんは顔を真っ赤にして一気にそう話すと、安堵したように息をついた。

 そしてすぐにきゅっと唇を引き結ぶと、泉に向かって膝をつき両手を組んだ。その握りこまれた手は、祈るように額にあてられている。


 どちらかと言えば大人しい彼女がここへ来たがった理由、それをやっと理解した。彼女は、母親に祈りを捧げたかったのだ。死を悼み、感謝を伝えたくて。


 あとからアニヤから聞いた話では、チビちゃんのお母さんは王都に住む貴族の娘だったそうだ。だけど、親族は亡きがらを引き取りにくることも無く墓もないのだと。


「……お兄ちゃんはいいの?」


 一歩後ろに下がって静かにチビちゃんを見ているお兄ちゃんに声をかけると、首を横に振られた。


「こいつの親はオレとは無関係だ」


 そこにバルドが口を挟んできた。


「無関係とは言えないだろう。君がいなければ、この少女は今生きてはいなかった。この子の母親が血を流して歩いている、と山を巡回中の騎士に知らせたのは君だ。満身創痍の小さな子どもが目の前に降ってきた時は、私も度肝を抜かれたよ」


 バルドの言葉に顔を歪めたお兄ちゃんはそっぽを向いてしまったが、その横顔はどこか苦しそうだった。

 血は繋がらなくても、二人はお互いを思いやる家族のようだ。なぜそんな表情をするのかわからないが、彼にも色々な事情があるのだろう。


 泉の水をかき回していた手に藻が絡んできたので、掃うように水をパチャパチャはねあげていると、段々水が冷たくなって来たような気がして視線を下げた。


「……んん?なんか、ちょっと色が変わったような?」


 濁っていた泉の水が少し明るくなったような気がして声を上げると、バルドが身を乗り出して泉を覗きこんできた。


「色、というよりも水が動いているように見えますね」


 祈りを終えたチビちゃんとお兄ちゃんも一緒になって、みんなで泉を覗きこむ。わたしの手が動く事によって起きた波紋とは別の小さな波紋が、少し離れた場所から起きていた。


 ぼんやりする頭でその光景を見つめていると、背後からいきなり光るものが伸びてきて、わたしの腕が水中から引き上げられた。


「もう、その辺でやめておけ」


 腕を引かれバランスを崩したわたしの後ろには騎士見習いがいた。

 堅い鎧に背中が当たって地味に痛い。

 泉の水に触れていた手が籠手の装着された手によって持ち上げられていて、水滴が白銀の鎧に流れている。どこかで聞いた声だな、と思いながら掴まれた腕を見上げていると横から声がかかった。


「あれ……お前、唇の色まで真っ青だぞ!今度は何やったんだよ!?」


 ……なんだろう、この一切信用されていないような心配のされ方は。


「何もしてないけど。でも、なんか寒い気がする…」


 頭はぼんやりとして、背筋はぞくぞく。何だか身体に力が入らない。言われてみれば、さっきまでとは違う具合の悪さを感じていた。

 そう、まるで風邪でも引いたみたいな。


「魔力酔いだ」


 ……なんですかね、魔力酔いって。


 わたしは山に続いて、今度は魔力に酔ったらしい。


「魔力酔いって、赤ん坊が熱出すアレか?」

 

 お兄ちゃんが騎士見習いに問い返している。


「そうだ、体内に増えた魔力に身体が順応しようとしているだけだ。時間がたてば治る」


 兜を被った騎士見習いとお兄ちゃんが、呆れた様子でわたしを見下ろしているのが伝わってくる。


「弱っちぃと思ってはいたけど、赤ん坊並みだったとは…」


 ……うん、赤ちゃんを引き合いに出して、わたしを可哀相なモノでも見るような目で見るのはやめようか?


「アズサ殿は此処へ来て間もないのですから、この地にしっかりと順応するまで無理は禁物ですな」


 お兄ちゃんとバルドの会話に反論する元気も無く、ぐったりしているところへ影が差した。

 同時に額に心地よい冷たさを感じて、ゆっくり視線を向けるとチビちゃんが小さな手をわたしの額に当ててくれていた。

 チビちゃんの心配そうな茶色い目がわたしを見下ろし揺れている。男どもとはえらい違いだ。チビちゃんは天使だと思う。


「これ以上の視察は無理のようですな」


「バージ…」


 バルドの言葉にかぶさるようにボソリとした呟きが聞こえた。直後、慌ただしく駆けて来る足音が聞こえてくる。

 砂利と草、小枝を踏んだはじけるような足音と共にバージの大声が届いた。


「緊急連絡!魔獣による襲撃です、赤狼と思しき巨大な魔獣が現れました!」

















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