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梓弓  作者: 長月 夜半
第一章 十六夜
1/57

初めての朝








 ――どこか遠く、子どもの声が聞こえる。


 赤ちゃんのように泣くその声に、胸が締めつけられる。


 はやく行かなきゃ、と思うけど、重たい泥をかぶってでもいるかのように、身体が思うように動かない。


 瞼は重く閉じているのに、目のまわるような感覚があった。


「ちょっ…と…、ぃま……」


 行く、という思いは言葉になりきらず、意識は沈むように眠りの中へと溶けた。



















 次に意識がはっきりしたのは昼のこと。


「起きろ!この寝ぼすけがっ!!」


「ぐふ…っ!」


 内臓が飛び出すかと思うようなお腹への衝撃。

 猛烈な痛みに呻いて、おなかを抱え悶絶する。腹部の激しい痛みと胃液が逆流するような吐き気、寝込みを襲われた無防備なお腹は、耐え難い痛みを訴えていた。


「お、やっと起きたな」


「い、い、いけないんだよ!お、おおおおきゃくさまでしょ……っ」


 呼吸を整えようと必死に悶えていると、男の子と女の子の声が耳に届いてくる。

 聞き覚えのない子どもの声に戸惑いを覚えたが、激しい痛みをこらえるのが精いっぱいで、まだ動けそうにない。


「うっ、っ、ぅうぅ…い、いったぁ…」


 ようやく声が出るくらいの余裕ができて、涙を滲ませながら目を開けた。


「――だ、だれ?」


 こちらの問いかけに、息をのむ気配があった。

 そろりとシーツを押しのけて顔を覗かせると、逃げていく子どものうしろ姿が視界に入る。服の裾が扉のない入口の向こうへ消えていくのが見えた。


「……ここ、何処?」


 まだ痛むお腹をさすりつつ、見覚えのない室内を見まわした。


 知らない壁、知らない天井、知らないベッド。

 簡素な木製のベッドが四つ置かれている、眠るためだけにあるような殺風景な部屋にわたしはいた。


 薄いグリーンの壁紙には小花や蔦が描かれていて、枕元に置かれたランタンには溶けた蝋燭が立っている。天井はまっさらで、部屋のどこにも照明器具らしきものはついていない。


 カーテンのない窓枠の向こうには、木々の梢が揺れていた。

 その見覚えのない風景に目を瞬かせ、茫然とする。


「……なに?なんでわたし、よその家で寝てるの?」


 必死に昨日の記憶を思い起こそうとがんばってみたが、職場を出たあとからの記憶が曖昧で、記憶を辿ろうとすると形が薄れていくような奇妙な感覚があった。


 額に手を当てようとして腕を上げると、肩にかかっていたシーツが軽い音を立てて膝に落ちる。持ち上げた麻のシーツからは、お陽さまの匂いがした。


 どうやらわたしは着の身着のまま眠っていたようだ。

 身につけているフリルのついた白いブラウスとデニム地のズボンは、昨日職場を出る際に着ていたものと変わっていない。


 ブラウスにシワが寄っているのを見下ろして溜め息を吐く。

 一晩中この格好で寝ていたのなら当然の結果だ。取り敢えず、体にも目立って違和感がないのだけが救いだろうか。


 ふと視線を下げると、乱雑に床へ転がっている物に気付いた。ベッド脇の床には、通勤に使っているウォーキングシューズが散らばっている。

 さっきの子たちに蹴飛ばされたんだろうな、と思い至ってベッドから降り、靴を履くことにした。


 屈んで紐を結んでいると、ベッドの下に見覚えのあるトートバッグと、コンビニのレジ袋を見つける。

 レジ袋の中身をのぞいて見たら、たしか仕事帰りにわたしが買ったものだという記憶がうっすらとよみがえってきた。


 だけど、記憶がそこから先につながらない。

 思い出そうとすればするほどぼんやりしてしまう頭を振って、バッグに財布とスマホが入っているのを確認した。中身に異常がないのをさっと見て、そのまま手に取ったスマホを起動させる。


「……電波、入らないか」


 接続できないというメッセージに溜め息を吐き、新しいメッセージや着信が入ってない事を確認して画面を閉じた。

 液晶画面の中央、デジタル時計の数字はSAT11:40。今が土曜の昼近くだということを表示している。


「お父さん、心配してるだろうなぁ」


 心配して怒っているであろう父を思うと憂鬱になるが、連絡もせず帰らなかった身としては大人しく叱られるしかなさそうだ。父が玄関先で仁王立ちしている姿が目に浮かぶ。その想像がなんだかおかしくて笑みがこぼれた。

 こんな状況だというのに、割と落ち着いている自分に苦笑する。


 ……無断外泊なんて始めてだよ。


 口を閉ざすと、誰もいない室内はしんと静まりかえった。耳を澄ましてみたけれど、人の声は聞こえてこない。時折、風が窓硝子を揺らす音が聞こえるだけだ。


 こうしてぼんやりしていても仕方ない。

 そう心を奮い立たせ、まずはこの家の人に会って事情を聞こうと思いたち、カバンから手鏡と櫛を取り出す。

 身だしなみを整えるべく覗きこんだ鏡には、ひどく疲れた顔の自分が映っていた。

 短い髪は寝ぐせで少しはねていて、顔は青白くて腫れぼったい。


「うわぁ、ひどい顔……」


 瞼はまるで泣いたあとのようにむくんでいる。

 記憶にはないが、昨日はお酒を飲んだのかもしれない。


 ……お酒を飲む機会なんてそれほどないけど、記憶を失くすような飲み方をしたことはなかったのになぁ。


 思い出せない昨夜(ゆうべ)の記憶に首を傾げつつ、荷物を元の位置に戻して立ちあがる。出入り口に向かって歩き出すと、壁の向こうから男の子がひょこっと顔をのぞかせた。


「おい、……起きたのかよ。おせーよ、アニヤが昼飯だから起こして来いっていうから、それで……」


 はじめ強気だった男の子の口調が、だんだんと小さくなり呟きに変わる。

 戸口の陰から顔を出しているのは身長120cmくらいの男の子。だぼっとした厚手の服を着ている彼は、ちょっと口を尖らせて不満気にわたしを見ていた。


 ……この声、さっきわたしの上にダイビングアタックした子だよね?


 吊り目がちな瞳は暗褐色で、髪色は青みがかった黒。10歳くらいだと思われる少年は、探るような目でわたしをじろじろと眺めている。

 痩せぎすだが精悍な顔立ちの男の子の顔をまじまじ見返していると、きつく睨まれた。


 ……はっ、ダメダメ!


 愛で過ぎて不興を買ってしまうのは良くない。不審者扱いされれば話も聞けなくなってしまう。

 こわくないよ~、と念じながら、わたしはことさら明るく話しかけた。


「起こしてくれてありがとう。迷惑かけてごめんね。えっと、そのアニヤって人のところに連れて行ってもらえると嬉しいんだけど、お願いしてもいいかな?」


 まずは、どうして自分がここにいるのかを知りたかった。

 もし仮に、お酒を飲んで記憶が無いのだとすれば、この家の誰かが酔っ払いのわたしを保護してくれたのかもしれない。……できればそんな恥ずかしい顛末であってほしくはないが。


 入口に立つ男の子に笑顔で頼んでみると、彼はなぜか目を見開いて驚いた表情をしていた。


 ……わたし、なんか変なこと言ったかな?


「変なやつ。……おい、チビ。あとはお前だけで平気だろ。自分で連れてけよ、オレはまだやることあるんだよ」


 そう言うと男の子は廊下の奥へ走り去ってしまった。


 チビ、チビはどこに…?と、入口の外に顔を出して廊下を覗くと、壁に背中を張り付けてあわあわと腕を上下させている女の子を見つける。

 先程の男の子よりも頭一つ分背の低い、5歳ほどの可愛い子だ。


 彼女はくりっとした黒目がちな瞳を揺らし、わたしと目が合いそうになると不安そうに目を逸らして俯いてしまう。


 ワンピースのスカートを握りしめる手に力が込められたのを見て、のぞき込むのをやめた。

 いつもの癖が出て、一歩下がってそっと全身に目を配る。


 女の子の着ている生成りのワンピースは、腰のあたりがこんもりとふくらんでいるデザインだ。その服は彼女には少し大きく、肩があまっていて丈も長すぎる。

 頭につけた赤いスカーフが印象的で、そのスカーフを三角巾のように使ってボリュームのある栗色の髪をまとめていた。赤ずきんちゃんのイメージにぴったりの可愛らしい女の子だった。


 俯いたまま顔を上げない女の子に、出来るだけ優しくゆっくりとした口調で話しかけてみる。


「あなたがチビちゃん?えっと、アニヤさんのところまで案内をお願いしてもいいかな?」


 手をつないで行こうと左手を差し出すと、チビちゃんはビクッと体を強張らせた。その様子を見て、すぐに手を引っ込める。


「……アニヤさんのいる場所はわかる?」


 問いかけに頷いてくれた女の子は、顔を俯けたまま歩き出した。


「こ、ここここっち……」


 どもりながらも、男の子が去って行った方向を示してわたしを誘導してくれている。

 廊下の先には扉があり、その先もまだ同じような廊下が続いていた。ここはかなり大きなお屋敷のようだ。


「さっきの男の子は、どこに行ったの?」


「に、ににいちゃは、そそそそとでお、おおおおしごとやってる。ほほほ、ほんとはひとりでこなきゃ、いいいいけなかったの。で、ででも…」


 ……さっきの男の子はこの子のお兄ちゃんだったのか。


 アニヤという人にわたしを起こす仕事を頼まれ、困っている妹を見かねて一緒に来てくれたそうだ。お腹にアタックされる前に、すでに何度か起こされていたと知って申し訳ない気持ちになる。


 なぜそんなに起こされて起きなかったのか。

 お兄ちゃんは自分の仕事を後回しにしたからそれを片づけに行ったらしい。お兄ちゃんにもあとで謝ろうと心の中で謝罪する。


 ……寝汚くてごめんねぇ。


 長い廊下は照明もなく昼間にしてはうす暗い。

 だけど、窓から差し込む光が廊下の白壁に反射しているため、文字を読み書きするのでなければ活動に支障のない程度の明るさはあった。


 板敷きの廊下を進み、正面の大きな二枚扉を通ると、子どもの発する喧騒が聞こえてくるフロアに出る。赤ちゃんの声が聞こえた気がしたのは間違いではなかったようで、どこからかくぐもった泣き声が漏れ聞こえていた。


 そのフロアはこれまでの質素な内装と打って変わり、吹き抜けになった天井やあちらこちらから差し込む陽の光で照らされている。

 磨き上げられた床はつるりとした光沢を帯び、柱には贅をこらした金の彫刻が施されていた。


 光を少しでも多く取り込むよう考えられた建築物だ。

 先程の廊下には照明器具はなかったが、こちらには壁の上部に豪華なランプが取り付けられている。だけど、丸い球体のランプは中に電球もLEDも入っているようには見えない。金装飾のついたただのガラス球のようだ。


 ……最新家電?


 そう思ったのもつかの間、電気コードも何もないのを見て電化製品ではなさそうだと思う。だけどそれは、とても高価そうな代物に見えた。


 こちらの広い廊下にも人影はなく、重厚な扉が大きく間隔を開けて配置されている。

 明るい廊下を進むと中央に吹き抜けの階段があった。階下は瀟洒なロビーとなっていて、正面には玄関らしき大きな扉。

 左右に置かれた飾り棚の上には花が活けられ、オレンジ色のバラが室内を彩っている。その花がロビー全体に甘い香りを漂わせていた。


 ロビー右手にも長い廊下が続いていて、絵画や彫刻の飾られた廊下をさらに進んでいくと、扉のあけ放たれた広間が見えてくる。

 部屋が近づくにつれ、チビちゃんの足取りが速くなった。

 最後は小走りになり駆けこむように広間の中へ入ると、なにかを探すように中を見まわしている。


 扉の先は食堂のようだった。部屋の中央に置かれた長テーブルの上にはクロスが掛けられ、大人数の食事の準備がされている。

 食器の配膳をしていた若い女性が、入口に立つわたし達を視認して奥の扉に消えて行く。少しすると、小柄でふくよかな女性が奥の扉から出てきて、戸口に立つわたしたちに気付いて微笑んだ。


 女性二人は同じ服を身に着けていた。(うぐいす)色をしたワンピースの袖と襟は白いレースで縁どられ、生成りのエプロンの後ろは大きくリボン結びされている、シンプルで可愛い形だった。


 いわゆるメイド服を身につけている女性は、50代くらいだろうか。

 うすく皺の刻まれた顔に、親しげな笑顔を浮かべこちらへやって来た。白髪交じりのクリーム色をした髪を無造作に束ねてアップにしていて、所々に出たおくれ毛に疲れたような印象を受ける。


「あぁ、やっと目覚めたんだね?なかなか目を覚まさないから、具合が悪いんじゃないかと心配してたんだよ。……うん?少し顔色が悪いかねぇ」


 無造作に伸ばされた手の平がわたしの額に当てられた。

 温かくガサガサとした手に触れられて、ほんのり嬉しい気分になる。


 ……お母さんの手。


 母を病気で亡くした父は、祖父とともにわたしを育ててくれた。いわゆる父子家庭。祖母も早くに亡くなっていたため、我が家に女手はなかったのだ。

 わたしをみて、正面に立つ女性が目を細めて笑った。


「熱はないみたいだね、少し身体が冷えてるくらいだよ。温かいスープとパンがあるから、一緒に食べようね」


 温もりが離れてしまった額を少し残念に思いつつ、お腹に手を当てた。意識をしてみると、自分がかなり空腹だったことに気付く。

 だけど、食事をいただく前に聞かなければならないことがあるのだ。


「あの、ベッドを貸していただいてありがとうございました。その、お恥ずかしいことにわたし、自分がどうしてここに居るのか分からなくて……。家族に何の連絡もせずにここへ泊ってしまったようなので、心配していると思うんです。ご迷惑をお掛けしてすみませんが、詳しくお話を聞かせていただけませんか?」


 わたしが話しだすと彼女は目を丸くした。何かに驚いているようだがよくわからない。

 驚きが通り過ぎた彼女は、すぐに気を取り直して笑顔で応じてくれた。


「それは困ったねぇ。だけど、あたしもお前さんがここへ来た経緯を詳しくは知らないんだ。……そうだね、今はちょっと忙しいから食事の後にでも時間をとって話そう。あたしの名前はアニヤ、アニヤ・ペテリュグだ」


「わたしは梓、……アズサ・モリナガです。お忙しいところお手数をおかけしますが、宜しくお願いします。アニヤさん」


 丁寧にお礼を伝えるとアニヤは笑顔で頷いてくれた。


「じゃあ赤のおチビちゃん、アズサと一緒に食事をとっておくれ。あたしは急いで支度を終えてきちまうからね。アズサ、幾らでもおかわりしていいから、沢山お食べよ」


「ありがとうございます。ごちそうになります」


 私の返答に彼女は目を細め、笑顔を浮かべたまま奥の扉の向こうへ去って行った。カトラリーを並べ終えた若い女性が寸胴の乗ったワゴンを運んで来ると同時に、鐘の音が鳴り響く。


 すぐに、わたしの入ってきた大きな扉から子ども達がやってきた。

 大きい子は中学生くらいから、下は2歳ぐらいの幼い子ども達が大きい子に誘導されて席に着いて行く。


 先に席についているわたしの存在に気がつくと、ふっと声が止み室内に沈黙がおりた。

 小さな子は好奇心旺盛な視線を送ってくるが、大きな子たちは目を合わせないように冷めたような視線をテーブルに向けている。

 全部で16名の子どもが食堂に揃った。


 席に着いた子ども達の顔を見れば、みんなさまざまな髪色をしているのに気付く。

 赤毛、茶髪、青みがたった黒、緑、黄色、灰色。カツラか染めたかしなければ出ないだろう髪色のオンパレードに驚き、じっくり見してしまう。


 顔立ちも西洋の顔というよりは多種入り乱れた感じで、どこの国かは分からないが、どこの国にもいそうな顔だと思った。どこぞのファッションショーにでも飛びこんだような錯覚におそわれる。

 今時、外国人が珍しいなんて思わないけど、ここまで日本人顔がいないのにも焦ってしまう。

 自慢じゃないが、わたしは生まれてこのかた日本から出たことがないのだ。


 ……本当に、ここはどこなのさ。


 自分が不躾な視線を向けている事に気付きもせず、物思いにふけっているうちに、わたしとチビちゃんが座る席を避けるように席が埋まって行った。

 最後はここしか空いていないからしぶしぶ近くに座る、といった感じで座っていたけど。


 子ども達に警戒されているのがひしひしと伝わってきて、なんだかわたしも緊張してしまう。

 そんな中、チビちゃんの隣には先程会った男の子が座った。彼の姿を確認したチビちゃんの顔にほっとしたような笑みが浮かぶ。


 子ども達がじっと耐えて待つ間に、若い女性メイドとアニヤが、ふわりと湯気を立てる野菜のスープと雑穀の固そうな黒パンを一人ずつ用意された皿に盛り付けていった。


 小さい子は目の前にパンが配られると跳びつく様に手を伸ばしていたけど、隣に座って見張っていた大きい子ががっちりとその手を捕まえてけん制している。

 止められた子たちが口をへの字に曲げて我慢している姿が可愛らしい。


「どうぞ、召し上がれ」


 アニヤがそう声をかけると、子どもたちが一斉に食べ始めた。

 小さな子の手を押さえていた年長の子たちも勢いよく食事に手をつけている。よほどお腹がすいていたらしい、噛まずに飲み込んでいるんじゃないかと思うような速さで皿が空になって行く。


 食器の音と咀嚼音のみの静かな食卓は二分ももたなかった。

 あっという間に皿を空にした大きな子達は次々と声を上げておかわりの催促をはじめる。食堂はすぐに

カオスとなった。盗られた、溢しただので大騒ぎになっている。


 給仕をしてくれている若い女性はその様子を見て、嫌そうに眉をひそめていた。あからさまに不満を滲ませた表情で、一人一人の皿にスープとパンのおかわりを盛っている。


「すごい食欲。みんな食べ盛りだねぇ」


 呆気にとられて周りを見ていると、チビちゃんの隣からボーイソプラノの声が聞こえた。


「お前も早く喰わねぇと、なくなるぞ」


 お兄ちゃんは黒パンをかじりとりながらそっけなく話すそぶりを見せている。目も合わせずにかけられた言葉だけど、気に掛けてくれているのが嬉しい。


「あ、そうだね。ありがとう。いただきます」


 姿勢を正して両手を合わせ、すぐに食事をいただくことにした。急いでスプーンを手に取り、スープを一口食べる。


「…………。」


 予想外の味に、スプーンを口に入れたまま手が止まった。

 ちろりと横目で子ども達の皿を見る。

 だが、正面に座る男の子やチビちゃん、お兄ちゃんの食べている物はもちろんわたしの皿の中身と同じもの。みんな美味しそうに食べている。


 なんとか口の中の物を飲み込み、気を取り直そうと、とりあえず深呼吸してみた。

 スープはとりあえず後にとっておくことにして、固いパンを手に取る。何とか一口大にちぎって口に放り込んだ。

 何度も何度も、繰り返し噛みしめて、噛んで噛んで、最後に何とか飲み込むことに成功する。


 ……このパン、噛みしめるたびに何とも言えない苦みが染みだしてくるよね。


 遠い目をしながら、もぐもぐと必死に顎を動かした。

 以前流行った健康機能食品のにっがいお茶も相当だったけど、このパンはそれ以上。よくこれだけ苦いものを何でもないように食べられるものだと思う。


 世の中に酸味の強いパンがあるってことは知っている。

 だが、このパンは苦みばしっている上、非常に硬い。先程のスープに至っては苦みだけでなく舌を刺す酸味もあったのだ。


 肩を並べて食事をとっている子ども達に視線を向けてみるが、同じものを食べているはずの子ども達は喜んでおかわりを繰り返している。


 ……食材の違い、食文化の違い?


 まだたっぷりと皿に残っているスープとパンに視線を落とし、溜め息が出そうになるのをこらえる。

 胸一杯に息を吸い込み、気を引き締めた。


 出来るだけ噛まずに済ませたい。だが噛まなければ喉に詰まる。


 ……よし!


 少し考えた末、ちょっとお行儀の悪い食べ方で乗り切ろうと心に決めた。

 自分のために用意された食事に向き合い、固いパンを口に入れてはスープを含んでふやかし飲み込む作業を繰り返す。

 数分後、自分の皿の物はすべて完食した。


 ……うぅ、もう胸いっぱい。


 食べきった自分を心の中で褒めながら、グラスに入っていた水を口に含む。すると、舌にえも言われぬ酸味を感じてはげしくむせた。


「んぐっ!?ガハッ、ゲホッゴホッ」


 酸っぱい水が鼻や気管支に入りこんだせいで、あちこちに()みて涙が出てくる。

 突然むせ始めたわたしに、周りの驚いた目が集中した。なかなか治まらない咳を心配してアニヤも駆けつけてくれる。


「あんた、大丈夫かい!?」


 心配した彼女は、手に持ったポットからお水を汲み足してくれた。

 が、飲めない。いや、飲みたくないの間違いか。


 わたしが手を出さずにいると『ほら、お飲み!』と無理に口に流し込まれてしまう。

 目を白黒させながらも吐き出さないよう少しずつ喉に流し、何とか飲み込んでホッとしたのも束の間。空になった皿を見つけたアニヤが、おかわりを盛りつけようとしているのを発見し、大慌てでお断りを入れた。


「アニヤさん!わたし、もうお腹いっぱいです!!食べきれませんから、つがないでくださいぃぃっ」


「はぁ?あんた、まだ一杯しか食べてないじゃないか」


「いえ、ほんとに、もうお腹いっぱいなんです。ごちそうさまでした!」


 懇願するようにお断りすると、彼女は仕方がないという風におかわりをよそうのは諦めてくれた。が、『そんなに少食だと大きくなれないからね』と眉をひそめられ、心配されてしまう。


 彼女や作ってくれた人には申し訳なく思うけど、本当はお腹より、胸がいっぱいなんです、とは言えない。


 怒涛の食事風景が終わると、子ども達はみんなバラバラと席を立って食堂を出て行った。チビちゃん達も言ってしまったので少し寂しい。


 アニヤにこの場で待つように言われたわたしは、食器を下げるお手伝いを申し出たが断わられ、時間を持て余していた。

 子ども達によって散らかった食卓を前に何もせずにじっとしているのは、なんとも落ち着かない気分だ。


 しばらくして、アニヤがタオルで手を拭きながら食堂へ戻って来るのを見てほっとする。


「後片付けはバネッサに任せてきたよ」


 座って話そうと促され、彼女と並んでテーブルの端の席に腰かける。バネッサというのはきっと、さっきの若い女性メイドさんのことだろう。


「それで、アズサは自分が何でここに居るのか分からないって言ってたね?あたしもあんたが連れて来られたって話を、人づてで聞いたもんだから詳しくは分からないんだよ。ただ、アズサをここに連れてきたのはあたしの息子のバルドだってことはわかってるから」


 困ったような表情をしていたアニヤだったけど、すぐに、安心していなさい、とでも言うように笑顔を向けてくれた。でもまたすぐに、腕を組んで悩むようなそぶりを始める。


「あの子にすぐにでも連絡を取って事情を聞き出してやりたいのは山々なんだけど、バルドは王宮の騎士団で働いているから、任務中に呼びだすのは難しいんだよ。一応連絡はしてみるけど、任務交代の時間になるまでは来られないと思う。不安だろうけど、待ってくれるかい?」


 ……騎士団?


 耳慣れない言葉に眉を寄せる。

 心配気にこちらを見てくれている彼女が、冗談を言っているようにも見えなかった。


「どうかしたのかい?」


「あ、いえ、こちらこそご迷惑をおかけしてすみません。あの、アニヤさんがわかる範囲でいいので、色々と聞かせて頂いてもいいですか?」


「あぁ、もちろん」


 アニヤが鷹揚に頷いてくれたので、先程からもやもや考えていたことを直球で聞いてみることにした。


「おかしなことを聞きますが、ここは……日本ですよね?」


 かなり初歩的な所からの質問に自分でもびっくりだが、どうにも違和感が拭えない。


 見たところ、このお屋敷の家具やインテリアは木材が多く使われていて高級感が半端ないのは確かだ。この食堂に置かれた家具にしてもデパートなどでたまに見かけるアンティーク調の物がほとんどで、はっきり言ってしまえば、古めかしく重厚そうな物が多い。


 お金持ちのお屋敷か?とも思うが、それも直ぐに否定した。

 電化製品が一つも見当たらないなんて現代日本のお金持ち家庭じゃまずありえない。こんなに広いお屋敷なのに室内がどこもうす暗いのも気になった。


 これが藁葺き屋根や古民家なんかの雰囲気があれば疑いなんて持たなかったかもしれない。だけどここは思いっきり洋館で、アニヤを含めみんなが見知らぬ顔立ちだし、髪色もエキセントリックだし。

 なのに、……日本語が通じている不思議さ。海外の人にありがちな発音の違和感もない。


「ニホンというのはアズサが住んでる町の名前かい?着ている服からしてこの国の物とは違うからそうだろうと思ってたけど、やっぱりあんたは余所の国から来たんだねぇ」


 一人うんうんと頷いて納得した様子の彼女は、丁寧に説明をしてくれた。


「ここはティルグニア王国の王都ティルグだよ」


 ―――はい?


 驚きのあまり言葉が出なかった。

 顔は笑顔のまま固まっている。だが思考だけがぐるぐる忙しく回っていた。


 ……横文字の国名、だと?……いやいや待て待て。そんなばかな。ここが海外?そんなん無理だろ。


 自慢じゃないが、日本大好きなうちの家族はみんなパスポートなんて持ってない。

 でも、自分が海外に居るなんてことあり得ないとは思うのに、ここが日本だとも思えないので困惑しているのだ。


 ここは日本じゃない。絶対にそれだけは確信を持って言えた。

 なぜなら、水が違う。カルキ臭い水道水は我慢できても、これほどまずい水は絶対に我慢できない。明らかにあの酸っぱい水は日本のものじゃない。

 そこだけは譲れないから!


 ……あ、なんだかお腹がきゅるきゅる言ってきたかも。


 外国と北海道の生水は飲んじゃならん、とあれほど祖父から言われてたのに。わたしの馬鹿。

 病は気からという言葉が浮かぶが、不安はぬぐえなかった。


 色々考えているうちに、何とか表情筋が動くようになる。

 真剣な顔でわたしの次の言葉を待ってくれているアニヤへ、探るように、質問をしてみた。


「わたし、職場を出た後からの記憶が無いんです。気がついたらここのベッドで寝ていました。それで、あの、……恥ずかしながら、ティルグニア王国という国をわたしは知らないんですけど、地図でみたらどのあたりなんでしょう?」


 世界の地名を詳しく知っているわけじゃないけど、世界地図のどのあたりかだけでもわからないかとダメもとで聞いてみた。


「この国を知らないって……あんたよっぽど田舎に住んでたんだね。世界に四つしかない王国のうちの一つを知らないなんて。それに、その年でもう働いてるのかい?身なりは良いのに苦労してるんだねぇ」


「………。」


 ……世界に四つしかない国ってナニ?


 頭が混乱してきた。必死に何か理解できる答えを得ようと大陸の名前や有名どころの国名を上げてみたが、アニヤは『分からない、そんな場所知らない』と繰り返すばかり。


 黙り込んだわたしに、同情するような心配そうな目を向けている彼女は、壁に掛けられている黄ばんだ古い紙を指差した。

 そこには五色のインクで塗りつぶされた絵が飾られている。


「あそこにあるのが世界地図だよ。北にある黒の領地がここ、ティルグニア王国。東にある緑の領地がグランニア王国、西の白い領地がファフニア王国、南の赤い領地がベルニア王国、世界中央の黄色く塗られた土地は竜が治める領地だと云われているんだ」


 ――まるで、物語を聞かされているような感覚だった。


「まぁ、あんまり心配するんじゃないよ。ちゃんと親元に帰してやれるよう協力するからさ。もともとここは、あちこちから生活に困っている子ども達を保護している施設なんだ。……こんなこと言いたくはないけど、どこかで誘拐されて連れまわされてたところをこの国で保護したって可能性もあるしね」


 騎士団は国境警備や国内の治安維持に努める警察のような事もしているらしい。

 犯罪者から助けられた人々の保護もしているのでそれでわたしがここへ連れて来られたのではないかと彼女は考えているようだ。


 ”誘拐”という言葉を耳にして、何かを思い出しそうな感じがした。

 だけど、思い出そうとした端から記憶が白く塗りつぶされるような感覚を覚えて、考えるのがひどく億劫になる。


 ぼんやりしていると、アニヤはこの施設の説明を聞かせてくれた。

 ここは、身寄りのない子や問題のある保護者から引き取った子どもを育てている国営の施設で、彼女を筆頭に子育てを終えて余裕のある女性が子どもの面倒を見ているらしい。


 先程一緒に食事をした子ども達の他にも生まれたばかりの赤ちゃんから、歩行が安定するくらいまでの乳児がいると説明された。


「あたしも自分が産んだ4人の子どもを育てあげたけど、こんなに大人数になると勝手が違って大分苦労しているよ。だけどさ、(しいた)げられている子ども達を助けてやろうっていう、王様方の優しさに心打たれてねぇ。微力ながらも働かせていただいているのさ」


 以前は王様の乳母をしていたというアニヤは、王様の話を嬉しそうに聞かせてくれた。懐かしむような、慈しむような笑顔が王様への愛を窺わせる。

 そんな彼女を尻目にわたしは重い溜め息が出てしまうのが止められない。


 結局、わたしをここに連れてきたという彼女の息子に直接話を聞かなければ何も分からないままだ。今日は土曜日、明日中に家に帰れなければ仕事を休むことになる。

 きっと、家で待つ父は連絡の取れないまま帰らぬわたしを心配しているだろう。


 その時、ここはどこ、という自分の疑問に漠然とした答えが思い浮かんだ。


 ……いやいや、そんなあほな。……ねぇ?


「まあ、行くとこもないようだし、しばらくはここに居るといい。折角だからこの屋敷を案内しようか。あたしもさっと食事を済ませてくるから、そこの外窓から庭にでも出て遊んで待ってておくれよ」


 アニヤは励ますように、俯くわたしの肩を叩いてくれた。


「……はい、宜しくお願いします。アニヤさんのお食事の時間を邪魔してすみませんでした。ゆっくり召し上がってきてください」


「……アズサは年の割に綺麗な言葉を使うよね。だけど、貴族の話し方じゃない。……まぁ、いいさ。ここじゃそんなに畏まらなくったっていいんだよ。子どもは子どもらしくしなきゃ!」


 今度は強めに背中をバンバン叩かれる。おもいっきり眉間に皺を寄せてしまうが、背中が痛いわけじゃない。

 わたしは笑顔を貼り付けて訂正した。


「わたし、よく若く見られるんですけど、こう見えて25歳なんですよ」


 背中を叩く彼女の手がぴたりと止まる。

 わたしは身長143cm。その上、日に焼けたこんがり肌をしている。夏休み明けの元気な小学生のような見た目だと自分でも思う。


 夏のプールでも運動会でも日焼け止めをつけなかったわたしが悪いのだが、どうにもあの匂いが苦手で放置してたらこうなった。

 新陳代謝がよくて、冬の間にすぐ元に戻るからあまり気にすることも無く過ごしてしまったわたしの女子力の低さにも問題があったのだろうか……。


 髪型も相まって小学生男子にしか見えないとよくからかわれるようになったのは最近のこと。髪が長かったころは男に間違われることはなかったので、それだけは自業自得かもしれない。


「はい?……25歳!?馬鹿言うんじゃないよ、そんな15近くサバよんだって誰も信じやしないよ」


 からからと笑い声を立てる彼女の様子を見て、乾いた笑いがもれる。

 こういった反応を、高校に入った頃から出会った人みんなにされているのでもう慣れっこだ。


「じゃ、行ってくるからね」


 それにしても、童顔とは言われていたが、まさか小学生にまで落とされるとは……と自分を見下ろしてみる。

 確かに小学校を卒業したあたりからわたしの身長は伸びることを止めた。わたしの矜持が許さないので試していないが、きっとあのころの洋服を今も違和感なく着こなせてしまう自信がある。

 髪や爪は伸びるのに、どうにも納得がいかないが、為すすべもないのが現状だ。


 庭に続く大きな両開きの窓をそっとあけると、ゆるやかな風が土の匂いを室内に運んできた。その風と入れ替わるように外にでて、屋敷周りを見ていると裏手で先程の子ども達をみつけた。


 洗濯や薪割りに励む年長の子達と、その周りをちょこまかとはしゃぎながら、大きな子を真似て邪魔(おてつだい)をする無邪気な幼子達。


 その様子をアニヤに呼びかけられるまで、ただぼんやりと眺めていた。

















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