第一章 『歪な心と潜む影と』
とある平日の午後、雲一つのない晴天は長い冬を越し温かい風が桜の花を舞わせる。この季節は眠気を蠱惑してしまう。
「暇だ……ふぁ」
アルバイト中にあくびは頂けないか、駅前近くに古くから個人が営業している古本屋がありここでバイトをしているのだが一向に客が入って来る様子がない。仕方がないので店内を掃除しているのだが殆ど終えてしまったのでやることがないのだ。
店奥のレジ横にあるパイプ椅子に腰掛け視線を店内で冒険させてみた、左右に聳える本棚には漫画や雑誌と言ったものとは無縁の古書が立ち並び、悪く言えばボロくて茶色一色、良く言えば味を醸し出している、だろうか。
ま、客層が絞られてしまうのが暇の原因なのだが。
「神道くん、もしかしてサボってる?」
と声を掛けて来たのは店主の孫娘の長沼えいなだった。
「サボってるつもりはないんだけど」
「そうだよねお客さん来ないから仕方ないもんね」
栗色のショートヘアーにパッチリとした瞳、チャームポイントの右目したの泣きボクロが彼女の魅力を増しているような気がする、個人的に。
「ひいおじいちゃんの代からやってるって聞いてるからきっと店が古臭いのがいけないのね、おじいちゃんにお店の改装しようって言ってるのに味のある店を目指しているんだとか力説されちゃってね」
「まあ頑固だからなあの人」
「だよね? おじいちゃんも柔軟な思考回路を持っていれば苦労しないんだけどね」
「だな。柔らかな考えだったら現在の経営状態も脱出して客が増えるような気がするぞ、見るからにやばい感じだろ、よく潰れないよな」
「あはは、神道くんは正直者ね。おじいちゃんはサイドビジネスをしてるって前言ってたけどね、でも何をしてるのかは教えてくれないんだよ」
サイドビジネスか、孫には教えてないらしい。
「謎だな」
「謎だよね」
一応話を合わせておくか、教えてないってことは話したくないことだと思うからな。
そんな会話をしていると奥から噂の人物が出現する、サンタクロースをライバル視しているのかと思わせる立派な白髭はお気に入りらしい、いつも念入りに手入れをしているとえいな情報を思い出しつつ本人が気にしている寂しい頭の毛を隠蔽する緑色のニット帽とこの二つがトレードマークの店主、長沼源一郎は不機嫌そうにこっちを睨む。
「神道ユウヤ、お主ろくに仕事もせずに孫とイチャつくとはかなりの遊人らしいな」
「イチャつくは酷いよ源さん」
「そうだよおじいちゃん神道くんは心に決めた人がいるんだから」
「なおさら悪いわ、つまり不倫かその年で愛人がいるとは世も末だ」
「何故そうなる。俺はそんなことしないって」
「どうだかな、真の男は言い訳などせんわ」
なるほどその論法がまかり通るか。
「じゃあ源さんもその素敵なニット帽を取って男だと証明して下さい」
知ってるぞ源さんが頭の毛が少ないことを気にしている事実を。
「…………えいな、三時のおやつは何だったかな?」
「おじいちゃんが逃げた。ちなみにおやつは栗ようかんだよ」
「おおそうかそうか、逃げたとは意味が分からぬが栗ようかんは大好物だ」
「おじいちゃんが過去を自分でもみ消しちゃった」
「かっかっか、えいな何を言っとるのか分からんな。どれ栗ようかんでも食べるか。神道ユウヤ今日はもう上がって良いぞ、客も来ないようだしな」
いつものことだと思うがな、客がいないがちゃんとバイト代をくれるのだからそこはちゃんとしているのが不思議な古本屋だ、深く考えない方が良いのだろうかと思考を巡らせつつお言葉に甘えて今日はこれで退散することに。
「じゃあ上がります、お疲れ様でした」
「おう。さっさと帰れ」
「神道くんまた明日ね」
本屋を後にし駅前の広場にある時計が埋め込まれたアメーバ状のモニュメントを眺めると現在の時刻は午後三時過ぎでいつもなら五時に終わるから結構早い、どこかに寄り道でもしようかと思ったが給料前で少し節約しないとならないからおとなしく帰るか。
某県某所にある影牢市の人口は八万と少ない町で都会とは程遠い田舎である、高層ビルとは無縁であり精々大きな建造物は三階建ての証券会社くらいだろう。しかし隣町の光芽市はこことは違い都市化が進む街である、大都市と比べれば田舎と言われてしまうかもしれないが高層ビルや交通量も影牢市を軽く凌駕している、遊園地や動物園も行こうと思ったらそこへ行くのがここの常識だ、何度か行ったことがあるが人が多くて酔いそうになってしまい人混みが嫌いになった。俺にとってはいい思い出ではないな。
自宅はアパートに住んでいる、ここから徒歩十五分くらいで通う道沿いには商店街と大型のショッピングセンターがあるので何かと便利だ。ここに暮らし始めてもう二年になる、最初の頃は一般的な暮らしに慣れてなかったから苦労したが源さんに助けて貰った、今暮らしているアパートも源さんが大家でその流れで今のバイトも世話してくれた。サイドビジネスも同じく世話になってるし頭が上がらない。
しばらく歩いているとアパートが姿を現す、全体が白を基準に塗装されているが中々の年代物で白壁は黄ばみと黒ずみが酷く所々にひび割れも確認されているが経済的理由か怠惰な理由かは知らないが現在もその状態を維持している。ま、その影響か家賃が格安なのがせめてもの気休めだろう。
構造は二階建てで上下二部屋合わせて全四部屋の小規模だ、内部も八畳程で同居人と二人だからギリギリの広さだろうか、だが逆に広すぎる部屋を二人で使うと思うと小さい方が良いかもしれないと強がってみると虚しくなるから余計なことを考えないようにしよう。
向き出した錆び付く階段を上がり一番奥の部屋へ、ここが俺が借りている部屋だ。
「ただいま」
入り口の直ぐ左横に台所があってそこで冷蔵庫の冷凍室を開けて膝を曲げ買い置きしていたソーダ味のアイスを取り出している同居人の姿があった。春だけどまだ結構肌寒いがアイスを食う同居人は俺に気が付く。
「お帰り、今日は早いな」
「源さんの気紛れで早く帰れたよ」
「ほほう、あのじじいも良いことをするな、感心感心」
「感心は良いがせめてまともな格好をしてくれよマギア」
マギア、それが同居人の名前だ。プラチナのロングヘアーは腰の辺りまで伸び、その隙間から覗く白い肌に装着した黒の下着姿が淫靡で目のやり場に困る。
「格好? この格好が変だとでも言うのか?」
「あのな下着姿って恥ずかしくないのかよ、いくら放熱するからってさ一応まだ寒いんだぞ」
「はっはっは、大丈夫だ、それにここにはユウヤしかいないのだ何を恥じる必要がある?」
「今はそうかもしれないが誰か来たらどうするんだ」
「その時はちゃんと服を着るぞ? 当たり前だろう常識だ。あ、もしかしてわたくしを独り占めにしたくてヤキモチでも焼いているのか? 可愛い奴だなユウヤは、大丈夫だこの体はユウヤのものなのだからな」
「そういう事は簡単に口走るなよ、誰かに聞かれたらどうする」
「聞かせてしまえばいい、何故ならユウヤは誰が所有しているのか教えることができるからな、変な虫はそれで寄って来ないだろう」
自信満々に胸を張ってマギアはアイスを齧る。
「分かった、分かったから服を着てくれ、頼むから」
「む、ユウヤに頼まれたら断れないではないか。本当はこの格好気に入っているんだろ?」
ああ言えばこう言いやがって、どうしてこうも変態なんだこいつは。
「はっはっは、そう睨むなちゃんと服を着てやるぞ?」
ショートパンツと白いTシャツを着てくれたが下着が黒なので透けているのだが一応服を着ているからそれは目を瞑ることにした、どうせ言う事を聞いてちゃんと着ただろうがとか言って説得は無意味になるだろう。マギアは時々体温が異常に上昇してしまうので寒い季節でも平気で下着姿になってしまう、まあ持病みたいなものだ。
部屋に入り座布団に座りテレビを点けてニュースにチャンネルを合わせる。ニュースは連続強盗殺人の犯人が捕まったとか外国の大統領が乗った飛行機が爆破されたとか軍事施設から武器が盗まれたとか未成年の少年少女の行方不明人数が5人に増えたとか。
その他にも本当なのかと疑わしい事件も報道されている、高層ビルから飛び降りた人物が落ちている途中で消えてしまったとか都市が跡形もなく消えてしまったとか人が空中に浮いていたとか通行人を丸呑みにした人間がいたとかオカルト的なものも報道するとは珍しいニュース番組だった。物騒なニュースばかりだ、テレビ番組を変えて気分転換することにした、そうだなバラエティが良いだろうととチャンネルを変えていると寝転がって雑誌を読んでいたマギアが何かに閃いたらしい。
「なるほど、つまりわたくしは通い妻と言う奴なのだな?」
唐突に彼女は瞳を輝かせ質問して来た。
「は? 何言ってんだ、別の場所から来るから通うって言葉が初めて適用されるんだ、俺達は一緒に暮らしているんだから通い妻なんて現象は発生しない」
「む、そうか、確かにそうだな……」
と彼女は何故か残念そうにぐうたらと畳に寝転び読み掛けの雑誌に視線を戻す。
「なあマギア、今の質問はどう言う意味だよ」
「うむ、先日のことだが昼頃にふとてれびぃを見ているとだな、通い妻と称する幼子が男の家に訪問していちゃいちゃしていたのでな、興味を持った訳だ。しかし大胆だったぞその女、食事を終えると男を押し倒して昼間からいかがわしい行為に及んだのだ」
世に言う昼ドラを真に受けたのかこいつ。
「で? 自分が通い妻だったらどうだと言うんだよ」
「愚問だな、わたくしが通い妻ならユウヤが喜ぶ」
したり顔で妙なことを口走りやがった、ちょっと待て。
「俺にそんな属性はない」
「え? ま、待て、この雑誌に男はみんな通い妻が大好きだと書いてあるのだぞ!」
「そんなことはないって! というか変な雑誌を読むな!」
「変な雑誌とは聞き捨てならない、『魅惑の女への道も一歩から明日からは男どもは手の平の上』これは私の愛用書だ」
あからさまに怪しい雑誌だなそれ、マイナー雑誌にケチを付けてみると彼女はこの雑誌がいかに素晴らしいのかと約十三分に及び熱弁しそれに折れた俺はこれは素晴らしい雑誌だ悪かったとの謝罪して熱弁地獄から脱出、満足げに再度雑誌に没頭するマギアは幸せそうだったのでしばらく見詰めてみるとそれに気が付いて顔を赤らめた。
「そ、そんなに見詰められると欲情してしまうではないか」
「そこは普通恥ずかしいって言うんじゃないのか? 何常識の段階をぶっ飛ばしてんだよ」
「はっはっは、わたくしは先を行く女なのだ」
「意味分かんねえよ」
こんな会話をいつも繰り返しているが意外と楽しいと思ってしまう俺は変な奴なのだろうかと頭を抱えてみるがマギアが楽しそうならいいかとそんな考えは何処かへ吹き飛んでしまう。
なので妥協した。
「マギア、今晩何食べる?」
「フカヒレ」
「はいはい、で何食べる?」
「フカヒレだと言っているだろう耳だけ老いたか?」
「現在の経済状況じゃフカヒレなんて夢のまた夢だ」
「夢を現実にすることが男というものじゃないのか?」
「無茶言うな……買い物しながら決めるか」
近くにいつも世話になっている激安スーパーに向かおうと立ち上がり玄関へ行くと上着の裾を引っ張られた、発生源を確認するとマギアが寂しそうな瞳でこちらを見ていた。
「わたくしも行く」
「へ? 別に構わないけど」
すると子供のように明るい笑顔ではしゃぎ出す。
「よしよし、買い物デートだな!」
「デートって程のことか?」
「ユウヤは現実的すぎるな、夢見る乙女をもっと勉強するべきだ」
「そういうもんか?」
「ああ、間違いないと断言してやるぞ」
自信満々で言われてしまうと反論できないな、そこは後で予習するとして。
「出掛けるのはいいけどシャツを着替えてくれ」
「何故だ?」
「下着が透けてるんだよ!」
説得は無意味だとは分かっていたが外に出るなら着替えさせなければ。
「下着などどうでもいいではないか、誰かに見られようとも肌を晒している訳ではないしな」
「俺が恥ずかしいんだよ……も、もし着替えてくれたら一つだけなんでも言う事を聞くぞ」
こんなことで意思を曲げてくれると楽なのだが。
「ほ、本当か! 分かった! ユウヤの言う通りにする!」
地雷を自分から踏んでしまった気がする、変たことをお願いされそうで恐ろしい。
「……えっとだな変なお願いは無しだぞ?」
「なんでも言うことを聞くと言ったのはユウヤだぞ? 安心しろ簡単なことをお願いする」
簡単だと言ってマギアは着替え黒のTシャツに着替えた、確かに透けはしないがこれから起きることに覚悟を決めないと。玄関を出てドアに鍵を掛け無邪気なマギアは鼻歌を歌いながら階段を下りて行く、楽しそうだなと思っていると隣の部屋の扉が開き黒のロングヘアーを靡かせた女性が姿を現した。
「あら、神道さんこんにちは、これからお出かけ?」
声を掛けて来たのは名前を羽原あやめ、同じアパートのお隣りさんで姉妹で暮らしている。 高い身長とナイスなプロポーションを持ちまるでモデルと表現でき、高い鼻とつぶらな瞳は完成された美を具現化した高嶺の花。年齢は確か二十歳で大人びた風貌に男どもを手玉に取るのも容易いだろう。
「ええ夕飯の買い出しです」
「あら私もこれからお買いものに行くんですよ? 良かったら一緒に行きますか?」
「あ、嬉しいですけど俺……」
今日は連れがいると言い掛けたがそれを遮り我がパートナーが割って入った。
「ぐっ! 出たな女狐! またユウヤを誘惑しているのか!」
足音を激しく鳴らし憤慨しているぞと分かりやすく主張しながら階段を上り俺とあやめさんの間に仁王立ち。
「マギアさんこんにちは、お買い物日和で何よりですね?」
「なーーにがお買い物日和で何よりですねっだ! 家のユウヤを誘惑しないで欲しいな!」
「まあ、誘惑だなんて私そんなこといたしません、ただこれからご一緒にお買いものにお誘いしていただけです」
「それを誘惑と言うんだ! 覚えておけ!」
「はい、覚えておきますね?」
「ムッキーー! 白々しい奴っ!」
この二人は犬猿の仲だからな、まあマギアが一方的に嫌っているのだけど。
「落ち着けってマギア興奮すると血管が切れるぞ」
「む、ユウヤこいつの肩を持つのか?」
「いやいやそうじゃないって大声出したら近所迷惑だろ? それにあやめさんは何もしてないじゃないか、一方的に言い掛かりを付けたのはマギアだろ」
「うっ……確かにそうだが」
よしこのまま言いくるめて喧嘩を回避させよう、あやめさんは天然なところがあるから言い争いになったら会話が噛み合わずにマギアを更に怒らせるだけだからな。
「平和主義ですね? 神道さんはすごいです」
「いやあそんなことないですよ」
「……ユウヤ鼻の下が伸びているぞ?」
「ばっ! そんな訳無いだろうが!」
「本当かぁ? 顔が良くて巨乳の女に弱いんだな、この女狐の牛のような乳にたぶらかされやがって!」
「ち、違う、絶対に違う、誤解だ誤解!」
「動揺し過ぎだな、逆に怪しいぞ」
自身の潔白を証明しようとあたふたしたがそれがあだとなってせっかく鎮火しそうだったマギアの怒りに拍車が掛かってしまった。もう大爆発寸前で緊迫状況に押し潰されそうになって現実逃避から視線を道路側へ向けるとこの凄惨な場を打破できる人物を捉えた、この時だけは神を信じてもいいとすら思った。大げさだけど。
あやめさんの妹が学校から帰還したのだ。名前を羽原つぼみ、幼さを除けば姉と寸分違えない瓜二つのフェイスを持ち同じく美しい黒髪を後ろで結いポニーテールとしている、現役の高校生で料理のできない姉に変わり家事全般をこなすしっかり者だ。つぼみちゃんは階段を上り終え俺たちに遭遇する。
「……何この状況」
「あらつぼみお帰りなさい」
「ただいまお姉ちゃん……もしかしてまたマギアさんと神道さんを困らせてる?」
やれやれと姉の前へ歩み寄る。
「それは誤解ですよつぼみ、私は何も……」
「何もだと? そのバケモノボディでユウヤを誘惑していたくせに!」
「まあ、そうなんですか?」
「白々しいぞ! こうなったら決闘だ! 表に出ろ!」
マギア、もう表に出てるんだぞ。
「事情は飲み込めませんけどごめんなさいマギアさん、家の姉がご迷惑掛けました」
深々と健気に頭を下げる妹の姿に普段色々とつぼみちゃんに世話になっているマギアは気持ちを落ち着けたらしい。
「む、まあそのなんだ、今回は貴様に免じて許してやらなくもない」
「本当ですか、ありがとうございます」
それは太陽だった、つぼみちゃんの笑顔は温かい日溜まり。
「ふふっ、やっぱりつぼみの笑顔は最高ですね、それだけでご飯が食べれます」
「もう何恥ずかしいこと言ってるの、元はと言えばお姉ちゃんが悪いんでしょ!」
「あぅ、お、怒らないでつぼみ、お姉ちゃん困っちゃうわ」
「困ってるのはあたしの方だよ」
「まあ大変つぼみを困らせるのは誰? お姉ちゃんが許さないわ!」
「……本気で言ってるのそれ?」
頭を抱える妹、その気持ち分かる気がするぞ。
「つぼみちゃん今回はマギアが一方的に言い掛かりを付けただけだから本当にあやめさんは悪くないんだよ、だからそんなに怒らないでくれ」
「まあそうだな……ユウヤがエッチなのがいけないんだ」
「神道さんがエッチ?」
「ちょ、違うって!」
さっきから言い訳ばかりで情けないのだがここで勘違いされてしまったら今後のご近所付き合いに関わるので懸命に誤解だと説明していると痺れを切らしたマギアは少し拗ねてしまったらしくさっさと階段を下りて行く、買い物デートだと言って楽しみにしていたからな、悪いことをしてしまったかもしれない。
彼女ら二人も普段の仲の良い姉妹に戻りあやめさんの買い物にはつぼみちゃんが同行することとなった。それを見届け急いでマギアを追い掛けるとちゃんと待っててくれたがそっぽを向いてしまっている、これはご立腹だ。
「ふん、女と見るとすぐに発情するユウヤなんか知るか」
そんなこと言っているがちゃんと会話をしてくれるのか。
「変なことを言うなって、俺はそんな軽い男じゃないってお前が一番知ってるだろうが」
「……ま、まあなそこだけは認めてやってもいいぞ?」
「ありがとう、なあ機嫌を直してくれよ」
「さて、どうしたものかな…………そうだな、先程言ったなんでも言う事を聞くと」
そう来たか、ここで渋ったらそれこそ本当に拗ねてしまうな。
「分かった、俺にできることならなんでも聞いてやる」
「……そうか、ならば」
そっと自分の細い手を差し伸べた。
「わ、わたくしと……手、手を……繋げ! えっと、そのだな、ユウヤは外だと手を繋がせてくれないから今日からは手を繋いで買い物に行くぞ! こ、これは決定事項だからな! なんでも言うこと聞くって言ったんだからな!」
確かにいつも俺が恥ずかしがって外で手を繋いだことはなかったな。
頬を赤らめ俯く姿はまるで乙女そのものだ。
「それが望みか?」
「そ、そうだ! ユウヤの体も心も何もかも全てわたくしのものだ、遠慮する訳がない!」
「そうだな、俺の体も心も何もかも全てマギアが所有しているんだ」
差し出された手を握る。
「これでいいだろ?」
「……うん」
二人並んで買い物に出掛けた。青い空は夕刻の匂いを漂わせ朱色に染め上がる、外で手を握るなんて人前だと恥ずかしくてとてもできないと思っていたがこうして実際に体感してみるとまんざら悪くないと思った。彼女と触れ合う手は慣れてないのでぎこちないがそれでもしっかりと握り締め、繋がっていると認識して空と同色に変化する街並みを視界に取り込んだ。
しばらく言葉はなかった。けれどそれは苦痛ではない、同じものを眺め同じことを経験し同じ空の下で同じ道を歩く、極々当たり前を噛み締めているのだから。
俺はマギアと出会う為に旅をした、世界のどこかにいる彼女を求めて相棒の黒猫と一緒に。きっとそうしなければ今の自分は形成されず世界から外れていただけだ。誰かにこうやって手を繋いでいて欲しかっただけなのかも知れない、ここに居ても良いって言って欲しかっただけ。
世界が拒絶しようと生まれてしまった、誰かの都合を無視して。仕方なく、しょうがなくと諦めてしまえば楽だろう。いらない人間はいらないのだ。そんな考えが蔓延してしまう現実の冷たさに絶望して自分を呪う。こんなことを考える俺は心が歪んでいる、どうしてこんな卑屈になってしまったのかと意図を手繰ると頭の中にノイズが走った。
過去が脳裏を掠める。
『死んでしまえ、お前は呪われている!』
ごめんなさい、ごめんなさい。
『なんでお前みたいなのがいるんだ、お前みたいな奴が……』
ごめんなさい、ごめんなさい。
『死ね、死ねえ!』
もうやめてよ。
たすけておかあさん、たすけて……。
「痛っ」
マギアの声に正気に戻った、強く手を握ってしまったらしい。
「あ、悪い、考え事してたみたいだ」
「……ユウヤ、顔色が悪いぞ」
「そうか? あはは、風邪でも引いたかな」
「もしかして……昔を思い出していたのか?」
そっか、こいつだけは騙せない。
「ああ、ちょっとな」
「もう忘れろ……ユウヤはここにいて良いんだ」
悲しむ必要はない、だっていても良いって言ってくれる人が側にいるのだから。
「ありがとう」
自然と破顔して感謝の言葉を奏でた。
「やっぱりユウヤが笑っているとわたくしも気分が良いぞ」
呼応してマギアも同じ表情に。
「俺もマギアの笑った顔好きだぞ」
「す、好き……はう……」
「ん? 顔真っ赤になってないか?」
「き、気の所為だ、馬鹿なこと言ってないでさっさとスーパーに行くぞ!」
「なんだ照れてんのか?」
「誰が照れるか愚か者!」
いつもの調子に戻ったな。内容の薄い馬鹿な話に興じつつ到着した激安スーパーで今日の夕食を決めるべく店内に侵入しかごを掴み戦場へと立った。
「ふっふっふ、我らの力を見せ付ける時が来たのだ!」
大袈裟なことを口走っているがこのスーパーでは常識だ、激安スーパー名前をぼろもうけと命名されたこの店は全体的に商品が安いがそこは他店と比べるとまだ安いところはある、しかしここの真骨頂は夕方六時から始まる。
「本当に今回は任せて良いのかマギア?」
「ああ任せて貰おうか! わたくしの実力を見せ付けねばなるまい!」
「分かった、そこまでの覚悟があるのなら俺はもう何も言わない……しかし気を付けろ、俺はここで死に掛けた」
「くっ、ユウヤが生死を彷徨うとはやはり魔境かここは」
その時だった魔境化させる原因が行動を開始したのだ、とある人物が店奥から現れた彼はここの店長でありここにいる全員が待ち望んでいた。そして彼は呪文を唱えた。
「あ、あ、マイクテスト……ごほん、えーー先着十五人様限定でネギ二本三十円になります」
「ネギ二本三十円だと! ネギは色々と使えるから万能だ、行けマギア!」
「了解した!」
駆け出すマギアは一直線に戦場、もとい野菜売り場に直行する。しかし時既に遅し、そこにはネギを求めた群衆が乱闘を繰り広げていた、もちろん過剰に表現しているだけだが。
「ぬ、出遅れたか!」
「あの中に飛び込め! そして活路を見い出せ!」
「任せろ!」
ジャンピングダイブで荒波の中央へと向かうマギアは秘宝を求め潜る、もう一度言うこれは過剰表現である。
「はっはっは! 見ろユウヤ手に入れたぞ!」
勝利品を掲げる姿はまさに勇者だった。
「あ、あ、えーー続きまして先着二十人様限定で豚肉三百グラム二百円になります」
「良し、次は俺が行く!」
この店はこの時間帯になると激安セールを開始するのだ、なのでその瞬間だけ戦場と化す。
そして激闘の末、戦いは終わった。
「全五回戦で三勝二敗、ネギと豚肉とキャベツをゲットできた。まあまあの成績じゃないか」
「そうかもしれないが商店街にある駄菓子屋の京子婆さんこと神速の京子は毎日必ず五勝してしまうんだから俺達もまだまだだ。他にも鉄壁の三郎、幻影の源一郎、千手観音のお花、これに神速の京子を足した四天王が強敵だ」
「何を言うんだ、ユウヤだってダークホースって言われてるじゃないか!」
それは喜んで良いのだろうか。
「ま、今回は四天王が勢ぞろいしていなかったのが幸いだった……だが負けられない」
勝利に酔いしれる俺達は戦利品に視線をやるとテンションが元に戻る。
「……なあユウヤ、どうしてここに来ると変なテンションになるんだろうな」
「分からない……魔法でも掛かってるんじゃないのか?」
「そんな馬鹿な話しがあるもんか」
確かに。激安スーパーでの死闘を繰り広げ戦闘が終わる頃には何故か虚しくなって恥ずかしい思いをするのは俺だけだろうか。嫌、そうではないマギアも終わった後は何故あんなことをしたのかと恥ずかしくなってしばらくおとなしくなるからな。
「ともあれこの材料なら野菜炒めが作れるな」
「そうか、運動したからちょうどいい感じに腹が減ったな」
「じゃあ帰って飯にしようか」
手を差し出すとマギアはちょっとだけ驚いたけど直ぐにそれを取る。
「なんだユウヤも満更ではなかったんだな」
「うるさいな、ほら早く帰るぞ」
店から出ると風景は一変して衣を被り色彩を黒へと変貌させていた、俺たちが暮らす町は都心からだいぶ離れてはいるが星空はまばらで見辛いがそれでも綺麗だ。ちゃんとしたものを見たいなら隣接している山に登って行くとここよりは堪能できるだろう。そうだ今度マギアを連れて星を見に行くのも悪くはないな、夜だから寒くないように水筒にあいつの好きなココアでも入れて、きっと喜ぶぞ。
「おいユウヤちょっと遠回りして川沿いを行かないか? 川沿いにそって桜の木が並んでいるだろ? あそこは照明もあるから闇に輝く夜桜も綺麗だろうなって思ったんだ」
「あーー確かに照明が点けられてたな」
春限定のデートスポットで人気だってえいなちゃんが言ってたっけ、そんなところに行きたいと言うなんてマギアもミーハーだな、まあ『魅惑の女への道も一歩から明日からは男どもは手の平の上』なんて雑誌を読んでいる時点でそれ以外の何があると言うんだ。
「そう言うの好きだなマギアは」
「まあな……本当はもっと手を繋いでいたいだけなんだけどな」
「今何か言ったか?」
「気の所為だろ? ほら行くぞ」
気紛れな女王様を引き連れてあまり歩かない通りを抜け河沿いへとやって来た、アンダーからライトアップされた桜の木は普段太陽の光を浴びピンクの雨を降らせ大衆を魅了するモニュメントだが闇に照らし出されこの世に一つだけ存在を許された絵画を彷彿とさせる、まあ木々だから厳密には一つではないが。
ライトがあるだけで別の顔をする桜も悪くはない、どうやらマギアも気に入ったらしく瞳を輝かせて魅入っていた。
「綺麗……」
二人でゆっくりと歩く、香る桜の匂いは甘く、川のせせらぎは無音を掻き消し安らぎを育むメロディー、夜風は肌寒いが手の温もりを倍増させマギアをより感じられた。
「寄り道してよかっただろ?」
「確かにな、反論はないよ」
「ふふん、惚れ直したか?」
「ああそうだな、わがままを言わなければな」
予想通りこう言えば拗ね始めたので冗談だと返してみると意地悪だと悄気てしまったので慰めた、もしかして俺はにはサディズムの性質でもあるのかと疑いたくなる。それは冗談として春とは言え夜はやはり冷え込んでしまうのでそろそろ帰った方が良いだろう。
「そろそろ帰るか」
「そうだな、ちょっと冷えたかも。後でユウヤに温めて貰おうかな」
「分かった、風呂を沸かすな」
「む、そういうことじゃないんだけどな」
何故か不満そうだがここで深く追求するとろくなことにならないので敢えて知らないふりをして歩き出す、数歩進むと不意にマギアが歩を止めた。
「……ん?」
「どうかしたのか?」
「……気の所為かもしれないがあの橋の下で何かが動いたような気がして」
指差した方角へ意識を移してみるとそこには川を跨ぐ小さな橋がありその下は薄暗く視認し辛い、良く分からないがマギアは俺よりも視力が良いから何かに気が付いたのかもしれない。
何かが動いたと証言したから生物がいるのか?
「犬か猫でも見たのか?」
「いや、それよりも大きかったような気がするそれに多少だが……」
「……感じ取ったのか?」
「ああ」
もし、もしも俺が考えていることが当たっていたらそれは見殺しではないのか?
「ごめん、ちょっと見てくる」
「分かった、ユウヤの好きにしろ」
少し気になったので調べてみることにした、川は掘りが深い為下へ降りられる階段を探すとすんなりと発見しそこから川へ。流石に夜の水に足を突っ込むと冷たくてきついものがあるな、水位は膝よりも下だったのは幸いだったもし腰まで浸かったら寒すぎて動けなかったと思う。
「大丈夫か?」
「大丈夫だ、ちょっと待っててくれ」
足を動かす度に水が体温を奪って行く感覚に足先が麻痺して針に抉られている気分だ、早く確認して上がらないと風邪を引いてしまうな。橋に近づいてようやくこちらも何かを確認することができた、確かに中型犬よりも大きい影は支柱に寄り掛かり微妙に揺れているようだがその場で動かない。もう少し近づけは確認できるだろうがもし危険なものだったらどうする、離れるか? いやそれは論外だろう、このまま放置してしまったら誰かが最悪の事態に合うかもしれない。
フラッシュバックし、過去が蘇る。
ダメだ、もう誰も危険な目に遭わせない。もしもの事態に陥ったならこちらも戦うまでだ。なので近付くことにした、緊張感漂う闇の中は桜のライトだけが唯一の光だが微々たるもの、だが目が慣れ始めそこにいる影を大まかに捉える。シルエットからそれは人型だった。
「そこにいるのは誰だ」
問うてみたが返事はない、こちらを伺っているのかそれとも気が付いていないのか。膠着状態になり俺と影の間が凍り付いたように距離を保つ。
時間が流れるに従いようやく瞳孔が闇を克服し影の正体を暴く。
「お、おい、こんなところで何を……」
クリアになった視界に飛び込んだのは少女の姿だった、体躯は小柄でおそらく十歳前後だろうか。ロングの髪は腰まで伸び綺麗な流線、整った顔立ちから将来性を約束された可愛さを内包している。どうしてこんな場所にいるんだ体も水で濡れて微かに体が震えている、それに今気が付いたが怪我をしているみたいだ、左肩に火傷と切り傷、それだけではなく体中様々な場所にも傷が。こんな場所じゃ体に悪い、少女を抱え上げ暗闇から脱出した。
「マギア、この子怪我をしているらしい、直ぐに手当をしないと」
そうしないと死んでしまうかもしれない、死ぬ、この子が死ぬ。
ぐにゃりと思考が歪む。
川から上がりマギアの元へ。
「マギア、まさか死んでしまうのか……また俺は助けられないのか、また……」
「騒ぐな落ち着け! まだ息があるのだ手当をすれば問題ない」
あの時は助けられなかった、俺が無力だったから。
何もできない、何も守れない、何も救えない。
手が震える、止まらない、止められない。
「助けられないのか……」
「くっ、聞け! ユウヤはもうなんでもできる、無力なんかじゃない、誰かを救えることができるんだ……あの時とは違う」
助けないと、助けるんだ、助けてやる、助かりたいんだ、助けられない。
思考がぐちゃぐちゃで何がなんだか分からない。
その時左頬に痛みが張り付く、何が起きたのか確認しようと眼球はマギアに視点を合わせ彼女が平手打ちをしたことを理解した。
「……マギ、ア」
「正気に戻ったか?」
「あ、ああ……済まなかった、みっともないところを見せた」
「そんなことはいい……それよりもユウヤはどうしたい? その小娘をどうしたいんだ?」
そんなの決まっている。
「俺は……この子を助けたい」
「……おそらく面倒事だぞ? それでもか?」
「ああ、この子を助けられなかったら俺は俺じゃなくなる」
酷い話なのかもしれない、俺は自分の為に少女を助けるのだ。
それはエゴだと知っているだろうに。
「分かった、もう何も言わない……わたくしの体も心も何もかも全てユウヤのものだ、ユウヤの願いだってそうなのだから」
「……ありがとう」
「良し、助けると決めたならわたくしも本気だぞ、先ずは家に運んで傷の手当、体も濡れているから着替えさせて温めないと」
「分かった、なら直ぐに帰るぞ」
場所を移動しようと視線を上げた瞬間に正気じゃなかった自分が不甲斐なく思った、あの騒ぎが猶予を与えてしまったのは事実だろう。突如として地面から生えたように誰かが橋の上に佇んでいる姿を目指した、通行人にしては静止してこちらに視線を送り続けている時間が長いのが不可解だ、夜川で怪しげな俺たちを怪訝に眺めているのかと考えたがそれはない、何故ならそいつは薄ら笑いを浮かべているのだから。
直感はそいつが少女となんらかの関わりがあると警鐘を鳴らす。
薄気味悪い奴だ。その薄ら笑う人物はゆっくりと口を開く。
「こんばんは、桜が綺麗ですね」
男の声が木霊する、向こうは怯むこともなくこちらに歩み寄って微笑む。上下黒のスーツで身を包み手には赤い手袋、オールバックの金髪に掘り深い顔は深々と頭を下げた。
「初めまして、私はセルモクラスィア家でディーナーをしておりますアゴーニと申します、以後お見知りおきを」
セルモクラスィア家? ディーナーって確か使用人って意味だったと思うが。
「ほう、セルモクラスィアか」
「知ってるのかマギア」
「まあちょっとな。簡単に言ってしまえば貴族様だ」
「これはこれは、このような島国にも名は轟いていましたか、これならば話しは早いかもしれませんね。単刀直入に申し上げます、その子を保護したいと思います、お渡し願いますか?」
「保護だと? この子に怪我をさせることが保護だって言いたいのかお前は!」
「おお、これは手厳しい。そんなにお怒りになるとお体に悪いですよ? まあ保護する為に多少手荒くなってしまったのは弁解の余地もございません……しかし、命までは取る気はございませんよ?」
よく言う、常に臨戦態勢を取っている男のセリフじゃないな。
「おや、信じられませんか? 人を信用することは大切ですよ?」
「わたくしたちを馬鹿にしているのか貴様」
「くくっ、馬鹿になどしていませんよ……見下してはいますが」
「ほほう、他人を怒らせる特技があるらしいな」
「良く言われます。さてどうしますか、こちらの申し出を断りますか? その子とはなんの関係のないあなた方が」
「確かに関係ないさ……だが助ける助けないは俺の勝手だ、お前にとやかく言われたくない」
「酔狂なお方だ……しかし長生きはしませんね」
空気が変わった。張り詰めた緊張感が辺りを痺れさせる、これは嵐の前の静けさに等しい。
アゴーニの赤い手袋は暗闇で自身の色を主張するように輝き出し光を揺らす、次第に大きくなり赤と青を絡めた炎となり形状を変え炎の短剣へと変貌させた。
「おや、この炎を見て眉一つ動かさないとは……さてはお二人、こちら側の人間ですね?」
「ユウヤ、セルモクラスィア家は魔力使いの名門だ、おそらく炎系統において秀でている」
「炎か……マギアこの子を頼む」
少女をマギアに渡す。
「分かった、任せておけ」
「離れていてくれ」
「くくっ、質問にも答えてくれないとはつれないですね」
「こんな町中で魔力を使うなんて何を考えているんだ」
「お二人がお利口さんならこのような蛮行をしないでも済んだのですがね」
「よく言う、やりたくて仕方がないって顔をしているぞ」
そう言うとアゴーニの口角は頬を突き破るかの如く上がる。瞬時、轟々と燃え盛る短剣が眼前に迫る。反射的に体を右に逸らすと炎が熱を皮膚に感じさせつつ後方へ通り過ぎた、これが投擲だと気が付いた時にはアゴーニ自身橋から跳躍し一気に距離を狭め手に新たな剣を作り上げていた。
後ろへ飛び迫る戦慄を回避する、剣撃は火の粉を飛び散らせ地面を焦げ付かせた。
「素晴らしい運動神経ですね、常人なら最初の投擲で死んでいますよ? ある程度動ける人物でも二撃目で死にます。いやいや、実に面白い」
「面白いだって? お前は戦闘狂か」
「戦闘狂とは無粋ですね、私はセルモクラスィア家のディーナー、以上でもそれ以下でもまして他の何者でもないのです、命令を遂行する、それが美徳です。戦闘を楽しむなどまさか」
吐いたセリフの信憑性を疑わせるアゴーニの笑みは疑心を繁殖させる。
「お喋りで嘘つきだってことは良く分かった」
「お褒めの言葉有り難く頂戴します。ですが嘘つきとは心外ですね」
両の手に炎が踊る、熱気を放ち二色は混ざり合い折り重なって二本の長刀を出現させた。
「では次の攻撃です、準備は良いですか?」
一方的な会話が終わる刹那に熱の刃が穿たれた、先程よりもスピードが上がり連続攻撃は避けるだけで精一杯だ。ある時は左右、そして上下と炎は軌道を描く。
「まだまだ速くなりますよ?」
更に速度が上がり一撃が脇腹に入る、肉体を切ると同時に焼く攻撃は激痛で全身から汗が吹き出た。
「痛いでしょう? 傷を作り同時に焼いてしまうのですから苦しさは半端ではありません」
「ぐっ! ちっ、厄介だな!」
セルモクラスィア家は魔力使いの名門だとマギアは言っていた、ならば魔術師ではない訳だ、その証拠にどこにも魔術陣が発動してない。奴から感じる魔力は然程高くはないが炎は強力、おそらくアゴーニが使っているあの赤い手袋が魔力を増幅させる魔道具を使っているのだろう、希少で高価だから貧乏人には手が出ないものを見せびらかせるとはさすがは貴族とでも言っておこうか。
とにかく魔術師でないならに捕らわれる心配はない。集中、右手に意識を集わせる。
「おや?」
現れるは紅、構成するは偽装の火炎、しかし姿は空に漂う赤い水、沸騰し気泡を絶え間なく放つ。
右腕全体に粘性を帯びた液状の炎を纏わせた。迫る炎の剣を右腕で防ぎ弾き返す。
「ん! ……赤い水? それとも血液……いやこれは炎ですね、沸騰の音を奏でる炎とは珍しい。こちら側の人間だとは思っていましたがやはりあなた自身も魔力使いですね?」
魔力使い、遥か昔世界に魔力を使うことが常識だった時代があった、だが魔力を行使する度に世界から力が枯渇し始め等々使えるものが限られ日陰者のように闇に隠れた、それまで苦渋を舐めていた科学技術が普及し始め今の魔力すら忘れ去られた現代になる。
完全になくなった訳ではなく二通りの魔力が存在する、自然界から発生されたエネルギーを取り込み魔力に変換させ力を行使するやり方と、本来自分が持っている体内の魔力を使う、それは親から子へと遺伝され受け継がれ継承されて来たものでその中には特殊な性質を帯びた魔力が存在しそれらを操れる、今では二つの後者が殆どで裏の世界で暗躍して恐れられている。
それが魔力使い。しかしこれは忌み嫌われた呪いのようなもの。
「引いてくれないか?」
「引きますよ、あの子を渡してくれるのならばね?」
「そんなのは嘘だ、理由は知らないがあの子を狙っている奴が目撃者を生かしておくなんてお優しい訳がない」
「そこまで理解しているのなら交渉など無意味だと気が付いているでしょう? ならばなぜそのようなことを言うのです? 力の過信ですか、それともまさか哀れみでしょうか」
いや、ただ穏やかな日常を夢見ているだけだ。
「騒ぎが嫌いなだけだ」
「矛盾した方だ、それなら見て見ぬふりをすればよかったのではありませんか」
だが見てしまった、傷だらけの少女を。
シナセテシマッタラココロガコワレテシマウ。
「俺にはこんな生き方しかできない」
「ふふっ解せませんが退屈しない方だ」
他人に理解して貰う必要はない、もう全てを分かって貰える存在が側にいるのだから。
「話しはここまでだ、あの子の手当てをしたいしそれにこっちは夕食前だ!」
爆ぜる如く地面を蹴る、その勢いを借りて右腕に発生している液状炎をやつの顔面目掛けて突き出す。
「単純な攻撃ですね!」
アゴーニは敢えて視界の右へ体を捻らせる、液状炎と右腕が死角となってしまったことを理解し利用してほくそ笑み余裕に炎剣を振り下ろす。そのはずだった。
「なっ!」
間抜けな声にこちらの思惑通りだと悟る、本来なら直進する俺を避け死角から切り掛るのは目に見えているが液状炎は攻防一体型と言ってもいいだろう敵の攻撃をある程度なら防げる、だが相手も馬鹿じゃない炎が途切れる瞬間を狙えば背中を攻撃できる。
そうならばどうして驚愕する必要があるというのか、その答えこそが液状炎の特性を味わったと言うことに外ならない。
「炎が……消えない? いや、そんな訳ありません、これではまるで……」
絶え間なく燃えていた、攻撃を仕掛け液状炎が通った空間が。液状となっている炎には粘性を有しており弾力すら火力濃度を上げるだけで持たせられ、それだけではなく濃度が高いほどに空間に張り付くという特性を発揮する。つまり炎で空を切ると通った場所は液状炎が張り付き俺の任意で燃え続けるのだ。
アゴーニの炎剣は張り付いた炎に遮られた。
「炎の静止?」
「お前が止まってるぞ!」
更に追撃を開始、右に腕をなぎ払うとアゴーニが後退し距離を取ったがまだ信じられないと言わんばかりに眼を丸くしていた、初撃と追撃で通った場所に炎は燃え続ける沸騰音を木霊させながら。序でに奴の剣も炎が絡め取っていた。
「この私の剣が……あの炎には粘着性が備わっているのか!」
敵が触れるだけで粘着し燃やされるが自分の力である俺だけが触れられる、熱もダメージも喰らわない。だがこれを使うには体力を大幅に消費するため長時間は使えない、体を鍛えてはいるが数分が限度だろう。だから遊ぶ時間はない、一気に終わらせる!
背に手を回し魔力を開放、爆発と同レベルを放射しそれを推進力として活用した。目に見える全てが線状となって風圧に押し潰されそうになりながら敵との距離をゼロへ、反応が遅れたアゴーニは成す術がなく自分の手を前へ突き出し剣を作り出そうとするが遅い。
瞬時、奴の手に液状炎が触れた。突進の勢いが指を反対に曲げ腕の骨にひびを入れ衝撃で体を吹き飛ばす。悲鳴も上げる暇なく桜の木に衝突してライトの照明が破壊され光を失う、桜の花びらが大量に散らされてしまう。
「がああああああっ!」
桜の下で暴れまわるアゴーニの右手、右腕スーツの上着に液状炎が貼り付き今も燃え盛り苦痛を生産して痛覚を呼び起こす。痛みから逃げるために地面に転がり消火に尽力するも効果は無し、そのまま起き上がって川へと飛び込む。
「何故だ! 何故消えない!」
ただの炎じゃない、これは俺の魔力の特性だ水なんかじゃ消えない。敵に貼り付き燃え続ける、それを手で払い除けようとすれば逆にその手に移るだけ、消す方法は俺が解除するか魔力解除能力を持った者に解いて貰うしかない。
「ぐぅううううう、があああっ!」
苦痛の末アゴーニは手袋と上着を脱ぎ捨てた、手には重度の火傷を負う。多分シャツの下も火傷の跡があるだろう。
「はぁ、はぁ……ぐっうう……」
「この町から出て行け、そしてあの子に二度と近付くな。そうすればこれ以上の攻撃はしないと約束する」
「…………くっ、どの道、この傷では分が悪いですね」
少女を一瞥してアゴーニは橋の下へと走り去り気配と魔力が途切れた、どうやらおとなしく撤退してくれたらしい。しばらくの間臨戦態勢を維持していたが他の追っ手らしき人物は現れなかったので警戒を解いた。それと同時に空間に残っていた炎も消す。
これで終わりなのか? あっさりと撤退したがなんだか妙な感じを受けるな、気の所為ならいいのだが。
「終わったらしいぞマギア!」
桜の陰に隠れていたマギアが少女をおぶりながら姿を現す。
「ユウヤ怪我をしているぞ!」
「大丈夫だってこれくらい、それよりも敵が魔力使いなら魔力探知を使ってくれ、追っ手がまた来る可能性があるからな、アパートの場所を知られたくない」
「分かった、魔力探知は久し振りだが精度は落ちてないことは保証するぞ!」
「当てにしているよ……その子は俺が運ぼう、マギアは探知に集中してくれ」
「それはいいが本当に大丈夫か? だいぶ無茶な魔力の使い方をしてたぞ?」
「こんな時のために鍛えてるんだ、柔じゃないさ」
少女を抱える、橋の下は暗くてよく観察できなかったがこの子の髪は空のように澄んだ青色だった。小さな命、華奢な体は傷だらけで今にも……。
思うな、死を連想するな。
「ユウヤ?」
「……行こうか」
この腕に灯る小さな灯火を消さぬように大事に抱え帰路へ。
自分に宿る思いが壊れていると知っていても助けると決意して。