第12話 「入学」―C
相変わらず日々がキツイです……。
そして、こんな弱音を吐かずに前を向いて一歩一歩と足を踏み出せる皆様を、ただただ尊敬します。
……本当に凄い、その一言です。
(……どうしてこうなった?)
ブワッ、と。
全身から非常事態な汗が出始めていた。ついでに目からも何らかの水分が溢れそうだった。それでも今は平静を装わなければならない。
今、心臓は警鐘を鳴らすように鼓動が速く、二日振りに胃がシクシク痛みを発している。
妹に勧められて、「コレつけたら『マトリックス』じゃね!?」とか文句を言っていたサングラス(度はなし)が今日ほど頼もしいとは思わなかった。……まず普通は思う状況にならねぇよ。
そんな時だった。
「どうでしょうか我が校の入学式は?」
「ひょえいぅわ!!?」
心臓を鷲掴みされるかのような驚きにスポンジボブよろしくな奇声を叫び発しそうになるのを堪える。と、別の奇声が出てしまった。
視界の端で声の主を捉える。
――――瞬間、俺は液体窒素に放り込まれたように凍りついてしまった。
当の本人である声の主――スーツ姿と凛々しさと酒とタバコが似合う残念過ぎる針金絶壁(何処とは言わないし言えない)美女の東有紀子――は、そんな俺の内なる動揺を知ってか知らずか俺の椅子の後ろに座りながら尋ねてきた。
「ひょえいぅわ? ……もしかして体調が」
「いっ、いえいえっ! なんでもないですっ!!」
「そうですか?」
「ええ、なんでもありませんから!」
いつもよりやや低めにした声で返答し、俺は必死に顔を合わせないように前だけを向き続ける。
それに対して、彼女はなにやら「ふむ」と頷いてから、
「しかし先程から何か落ち着きがなく、辺りをキョロキョロされておりましたが……現時点で何か不備でもございましたでしょうか?」
おもっくそ動揺がバレとるやないかい! ってか遠回しに不審人物って言ってるぞソレ!!
「い、いえ、入口はしっかりとした入場規制が執られてましたし椅子もパイプ椅子ではなく体育館全体の装飾も豪華で良いと思います。『もてなす』という行為をとても大事にしている気がとてもしましゅね」
俺は冷静を装ったつもりで賛辞を述べようとしたつもりなのだったが、滅茶苦茶早口な上に最後は噛んでしまっていた。ダメダメ過ぎる。
「そうですか。……そこまで言って下さったのは初めてかもしれません。まるで私どもの狙いを的確に突いているような気がしますが」
「そ、そそそそうですか、あははは」
声が少し裏返ってしまったが気にしていられない。着慣れなくてズレ落ちそうな感覚に陥る黒いスーツを着た俺は視線を合わせまいとして応えた。
手と背中に少しの冷たい汗が流れ始める。頬が引き攣ってないか心配……コレはもう引き攣ってるだろうなー…………。
現実逃避も兼ねて腕時計を見ると時刻は九時を回っていた。もうすぐ開式の言葉が入るだろう。
喧しかった周囲の父母親族来賓も段々と静まり返り、巨大で荘厳な体育館が沈黙に包まれてゆく。
……………………。
…………。
(本当に、どうしてこうなったんだ……っ!?)
完全に自業自得だろ、という声が聞こえてこない事もないがソレはソレ。
#
昨日の夜、俺は異常に渇いた喉を動かして、恐る恐る尋ねた。
「明日って学校だっけ?」
その問いはあっさりとミサに答えられてしまった。
『明日は生徒会役員は入学式、その他の生徒は午前中は総合の時間で午後から入学式の片づけがあるはずだよ? …………もしかしてトール君……きゃっ!? い、今凄い音がしたけどトール君大丈夫? もしもし? もしもーし?』
――――以上、回想終了。
そんな訳で四月七日、転校二日目にして早速授業サボっちゃったZE☆
……本当に俺進級できるのかねコレ。もう雲行きが怪しい気がするんだが。更に後ろに担任が座ってるもんねうおおおどうすんだコレ。
『これより、第五十回上ヶ崎第一高等学校の入学式を開始いたします』
広すぎてどこからか判らなかったが司会の声が静かな体育館内に響く。
『まず始めに、開式の言葉を――』
俺は震えを必死に抑えつけながら後ろの有紀先生に駄目元で一つ、囁くようにして訊く。
「あ、えーっと、始まってしまってからでアレですが、貴方は職員側の席には座らないのですか?」
この入学式は中央をレッドカーペットでぶった切り、檀上寄りの中央が行進して来る新入生、その左右に順に教職員と来賓、そしてその後ろに保護者がズラリ……といった座席配置になっているので、普通に考えると俺の後ろに座ってるのは奇妙なのだが……。
すると彼女は「あっ」っと呟いた。何だよ「あっ」ってオイ。
視界の端で気まずそうに俯いて彼女は言った。
「じ、実は私は元々入学式には出席しない立場なのですが……」
彼女はそこで一旦言葉を切り、一呼吸おいて続けた。
「それが急遽こちらの人員に就かされまして。そのため空きのない職員側ではなく全体を見渡せるこちらに……」
「そ、そうですか……」
その理由には大体予想がつき、思わず苦笑するしかなかった。
『――がとうございました』
その間に開式の言葉は終わっていた。
(――――いよいよか)
ドクン、ドクンと。当人ですらないのに、心拍が不自然に、痛いくらいに跳ね上がる。思わず拳をギュッと握る。……情けない話が、手も震えていた。
(落ち着け……、落ち着け…………)
俺が震えていいのは妹の――希の晴れ姿を視界に入れてからだ。
その間にも、司会は律儀に紡ぐ。
『それでは、新入生二百八十名の入場です。お集まりの皆様は大きな拍手をもってお迎え下さい』
#
非常に、異常に若い。
目の前にいる人物を見て、そう思う。社会人の兄なのだろうか。少なくとも父母には全くと言っていい程見えない。私と同じくらい、いやもっと若く見える。
だが、それよりも。
――――どこかであった事がある。
そんな気がする。それも最近だ。
先程から幾ら喋っていてもそれしか解らず、一向に思い出せない。サングラスを掛けているからかもしれない。
私は思い切って話を掛けようとし。
「すみません。つかぬ事をお訊きしますが貴方は――――」
『それでは、新入生二百八十名の入場です。お集まりの皆様は大きな拍手をもってお迎え下さい』
その言葉と同時に鳴り響く盛大な拍手の嵐に私の疑問は掻き消されてしまった。
そして――――、
その男性の横顔の。儚い何かを慈しむような微笑みに、私は目を奪われていた。
なにより、――――彼の目には涙が溜まっているように見えた。
#
拍手の喝采の中に紛れて何かが聞こえた気がするが、俺は前のレッドカーペットの方へ視線を注ぐ。
名前を考えるに妹の出席番号は一番、つまりは先頭だ。あっと言う間に通り過ぎてしまうかもしれない。
『一組の入場です』
一層の喝采が轟く。
……が、肝心の妹がいない。勿論先頭から最後尾まで見たが、妹の姿は見当たらない。
『二組の――』
このクラスにも見当たらない。
『三組の――』
ここにも。
『四組の――』
ここも。
『五組の――』
いない。
『六組の――』
いない。
『七組の――』
いな
――――いた。
家のマイペースなそれではなく、凛々しく顔を引き締めている一人のれっきとした生徒が、そこにはいた。紺の制服もそれを強調するように、綺麗に着こなしていた。
日頃のダウナーな表情は相変わらずでも、少しぎこちなく、やや緊張しながらも嬉しそうに先頭を歩く妹。過去でも未来でもましてや夢でもなく、現在進行形で見る事ができるその姿。
「――あ、」
思わず景色が滲む。なぜかはよく判らない。しかし見逃さないためにも、込み上げてくるものを必死に堪える。
たった数秒の出来事のはずなのに、俺はこの瞬間は一生忘れないと思えた。
七年の歳月は何もあの二人を変えただけでは終わらなかった。
寝たきりで過ごしていた足を動かし、一歩一歩踏み込んで進む少女。
俺は気づけば手に持っていたカメラを落としていた。
「おっと」
拍手の音の中でカメラが落ちたのに気付いてくれたようで、
「すいません、落としまし――――」
肩を優しく叩いて来たので自然にそちらを向いて――――しまった。
「…………、」
「…………、」
「あ、あなたは――いや、お前は」
「――」
直後、俺は思うのだった。
「――――学校サボってここで何してるんだっ!!?」
この時、保護者席が拍手やシャッター音でうるさくて、本当に良かったと。
俺が怒られている声も、脳天に響くような拳骨という名のお灸を据えられた事も、特に妹まで届かなくて本当に良かったと。
#
それから妹は新入生代表としても呼ばれ、入学式の間中、俺はずっと泣きそうになっていた。写真はガッッッッツリ撮り忘れていたし、そもそも担任にその場から引き摺られて説教だったし、その上その説教の中で理由を説明してたら今度は担任がうるうると――いや完全に泣いていたりと、そして説教はどこへやらその担任の面倒を見る羽目になったりと散々だった。
それでもなんとか式が終わるまでには体育館の式場へと戻る事はでき、列としては一番後ろである七組で静かに座る妹の後ろ姿が拝めたので上々という事にしたいと思う。……ヒゲにはともかくとして、母さんになんて言おうかね…………?
そんな事は知らない妹は現在、閉会の後のHRに出席している。そのため俺は他の保護者同様昇降口で帰りを待つ。勿論ブッチしたのが他の学校関係者にバレないようにだ。
正午前、昇降口から新しいブレザーに着慣れない少年少女がぞろぞろと出てきた。第二陣辺りで妹が見えたので手を振ると向こうも気づいてくれたようで、人混みの隙間をスルリと抜けて駆け寄って来た。
「お待たせしました兄さん」
「……いや、そこまで待った感覚はしなかったから大丈夫だ」
色々言いたい事はあったが纏らずぶっきらぼうになってしまった。それでも妹は微笑みながら言った。
「頼み事があるのですが」
「……あぁ、写真だな?」
「流石ですお兄様」
「だからそのネタは止めろっちゅーに」
言いながら俺は辺りを見渡し、目的のものを見つけて続けた。
「希。あの桜の下で撮ろうか」
「はい、兄さん」
妹は嬉しそうな顔で首を縦に振って肯いた。




