【番外編】08/31(7)
今回でラストです。
……というか1回で終わらせなかった自分ェ…………。
あと一行。
あと一行埋めれば――――ッ!
「――――っし」
「これで――、」
「英語、終わりましたね!」
「お疲れ様です、兄さん」
「っしゃああああああああああああああああああああ!!!!」
空欄を失くし全てを取り敢えずは埋めた冊子をテーブルに叩き付ける。これで英語科目の課題が終了した事になる。ふとカーテン越しに窓の外を見れば天候によって灰色に染まっていた曇天が、いよいよ暗闇に染め上げられていく頃だった。次に振り向いて我が家の時計を見れば、短針が丁度七の時刻を指し示していた。
終わった瞬間に湧き上がった達成感と共に、実際にどれだけの時間を対決していたかを知り、ドッっと一気に疲労感も押し寄せてきた。
「っはぁぁぁあああああ…………。もう疲れたよパトラッシュ」
「終わった事は素直に喜べる話だけど、生憎とまだ死ねないわよ」
詰まっていた何かを解き放つように重苦しい溜息を吐いてテーブルに突っ伏すと、直接ではなく遠回しに、まだ戦いは終わっていない事をチカが告げる。ずっと隣で抜けやミスを指摘してここまで辿り着かせてくれた彼女だってかなり疲弊している事だろう。途中昼食やおかしを作ってくれたりもしたミサも説明するまでもない。
その二人が雰囲気で伝えてくれる。教えてくれる。
最後の正念場が、あと一つだけ残っているのだと。
「…………数学か」
古典から始まり――社会、理科、それから現代文、そして先程英語の課題が終了した。
そう、残るは数学の課題だけだった。
だが逆に、コイツが最大の難関なのだ。
数学自体は俺は好きだ。三平方の定理は綺麗だと思うし、式の展開や因数分解は心踊らされるし、それらを利用して紐解いていく証明問題に関しては自分の脳をフル回転させてるあの感覚が面白くて仕方が無い。しかし、それとこの課題が速攻で片付くかどうかとは全くの関係がないわけで。
例えば簡単な展開の問題に一分、稀どころか後半殆どに混ざるグラフ描きと証明を要求される問題を五分、平均して一題三分程度かかるとしよう。全部で一〇〇題あるわけだから、単純計算で三〇〇分イコール五時間を使用する。その時点で日を跨ぐのは確定で、更に合間の夕食やらほんの些細な休憩も含めて完走時刻を概算していくと眩暈が起きそうだった。
解き直しの時間とか、計算に入れたくもなかった。
「数学、ね……。これについては透が一番できるわけだし、私達に手伝える事はなさそうな気もするけど――」
「うーん……。とおるクン、どうしよっか?」
もう私達は帰っちゃうね、とは安易に言えないのだろう。いや彼女達にはそんな発想すらなさそうな発言だった。ただ力になれない事への戸惑いを感じられた。実際、数学だけは自分の方が学年の一、二を争う彼女達よりもテストの点数や成績が良い。
でも。
俺としてはまだ二人に手伝ってもらいたいという思いがあった。
『でもなー、数学ってどれか一つの解答が正解! ってのが特に高校の内容じゃないヤツのが多いだろ? そう考えると他の人の考えってのも欲しいかなとは思うしさ…………もうちょっとだけ、手伝ってもらえないか?』
こう言えば、二人なら(片方はブツクサ文句を言って渋々といった感じで)快諾してくれるのだと思う。朝のメールの時と同じように。
これは甘えだ。
アイツならこうしてくれるという予想と期待を織り交ぜた発言は、相当な卑怯さを有するものだと思う。勿論『効力』も絶大で、瞬く間――とは言わないが、単独で進めるよりはずっと速く終わるのは誰が考えたってそうだと結論付ける事だろう。だからこそ、甘えなのだ。
そもそもとして、課題をここまでずっと手を付けなかった馬鹿野郎は一体誰だ? 今の今まで付きっ切りで見てもらって、時には料理まで出してもらっていて、感謝と共に罪悪感を覚えたのは誰だ?
すっかりと消耗してネガティブにしか働かない頭では、最低な明日葉透という輪郭しか浮かんで来ない。その自分は、随分と醜かった。
「うーん……」
「そうね……」
可愛らしく顎を押さえてうんうん唸ってくれているミサをチラリと見ると、申し訳なさが茨となって心に巻き付いた気分だった。チカも何を考えているのか――でも絶対見捨てるという思考を持ち合わせていない目で、何か打開策を練っているようだった。
どうするか。
甘さに誘われて二人に協力してもらって楽させてもらうか。
せめて最後くらいは独力でなんとかしようかと奮い立たせるか。
天秤に乗せなくても、もうどちらに傾くかは理解していた。
俺は――――、
「なぁふた――」
「お二人共、この後ってお暇ですか?」
「はい?」
「ほへ?」
腹を決めて言おうとした瞬間だった。
希が幼馴染みの二人に謎の質問を投げ掛けた。
思わず鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で妹の横顔を見つめるが、すぐにその疑問は氷解する事となる。
「いえ、折角の夏休み最終日ですし、みんなでお泊り会みたいな事をしてみたいなと思いまして。丁度両親も仕事で不在ですから」
どうでしょうか? とコテンと首を傾ける無表情に近いその顔で、ハテナを浮かべているであろう二人に提案を持ち掛けていた。その後チラっと俺の方へ視線を向けて、彼女達にバレないくらいの一瞬だけ微笑んだ――ように見えた。
「…………、」
成程、ね。
妹が一番卑怯だったわけだ。良い意味で。
かなり狡い話だった。
その優しさを否定するわけもいかず逡巡している内にも、
「そうね。どうせ透の面倒も最後まで見たかったし、お姉ちゃんに言っておくわ」
「それに記念っぽくて良いと思う! 私もお母さんに訊いてくるね!」
そうして二人は一旦、すっかり雨も止んだ外へと出てそれぞれの家へと確認を取りに向かって行った。
そこからはまるでドラマの総集編のように展開が速かった。
幸い、誰かがこうして我が家に泊まる事に対しては以前で学んだ事がたくさんあったので、前回のような失敗はないよう努める事はできた。……それでも風呂上りの彼女達が隣に来られると集中が乱れるし、自分が臭いんじゃないかと軽く自己嫌悪に陥りそうになったりもしたが。
そして。
「終わったぁぁぁぁぁ…………」
シャーペンを静かにテーブルに置いて、同じように静かに呟いて息をついた。手から離れた筈なのにまだシャーペンを握っているかのような感覚が残っており、攣りそうな痛みも蓄積されていた。両手の拳を突き上げるように背筋を伸ばすとパキッ、ポキッと骨折を疑うような不穏気な音が背骨や腰の辺りから響く。
「明日、大丈夫かね……」
いつかのように時計を見れば日付はとうに切り替わっていて、もう二時になっていた。
左右を見れば、
「――――……すぅ、……すぅ」
「すぅ…………、すぅ…………」
可愛らしく、気持ち良さそうに行われる呼吸と寝顔が二つあった。どちらも良い夢を見ているのか、どことなしに微笑んでいるようにも見える。その顔を眺めていると、少しの申し訳なさと多くの感謝が目から零れそうになる。
「…………布団まで運んでやるか」
ありがとうとは言えなかったけど、行動で伝われば良いなと思い、二人を自分の部屋へと運ぼうと思い付く。元から俺はソファで寝るつもりだったし、シーツ等も変えてあるから問題ないだろう。
「――――ありがとう。おやすみ」
二人をベットまで運び終え、ツルツルとした薄めの生地の布団をお腹の辺りまで掛けて、睡眠を邪魔しない内に俺は部屋の扉を静かに閉めた。
「……兄さん?」
「ん。希、起きてたのか」
「いえ……目が覚めてしまったので何か飲み物でも飲もうと思いまして」
「歯を磨く必要が出るけど、ココアくらいなら淹れるぞ?」
「ありがとうございます、ではそれをいただきます」
「了解」
コトリ、と温めのココアを希の前に置くと、希は熱さを確かめるようにマグカップをつついては、大丈夫と判断したのか湯呑みのように両手で持って口を付け始めた。
一方熱いまま淹れた俺は片手で取っ手を掴んで一口含んで、したが灼けそうになった。軽い火傷みたいにヒリヒリとする舌を息と空気で冷やしながら、俺は謝る事にした。
「……悪いな、狡い言い方させちまって」
「? なんの話ですか?」
「泊まって行ってってアイツらに言ったヤツ」
「ああ……」
寝起きだからか言われてもキョトンとしていた妹は、暫くして合点がいったらしく気の抜けた相槌をした。
「なんとなくですよ」
「……そうか、なんとなくか」
「そうです、なんとなくです」
そこでお互いに笑ってしまった。
「乾杯」
「乾杯です」
改めて口を付け、つい忘れていた熱さに今度はかなり大きめにリアクションを取ってしまい、完全に妹に笑いものにされてしまった。けど、悪い気分じゃなかった。
四ヶ月。
生まれてからここに引っ越してくるまでよりも自分は迷ってばかりで、これと一つの結論を言い出せない事がまだまだ多いし一層増えた気もする。数学よりも難解なそれらをどう解きほぐしていくか、今の自分でも全然想像もつかない。
だから。
正直解けなくてもいい。一つに結論付けなくたって構いやしない。
彼女達の優しさに感謝しつつ、せめてそれらには報いなければいけないな、と改めてそう思った。
P.S.
その後、朝から二人に冤罪を掛けられかけた。
なんでも、俺のベッドに運んだのがマズイとかなんとか。
……やっぱりもう寝相の悪さを我慢してもらって妹の部屋で寝てもらうしかないのかなぁ、と思いました、まる。
次回からまた本編()が始まります。
とはいえ最初はちょっとしたダイジェスト的な何かにしようかなと。