第七十三話
俺は動かなくなった伊織の手を力強く握り、嗚咽を漏らす。いもしない神に祈るように伊織の手を包む。
救えなかった。何も出来なかった。そんな自分がふがいなく、苛立ちが募った。
「嘘……でしょ?」
背後から恵理の震えた声が聞こえた。
いつの間にかそこに立っていた恵理。俺は荒波をうつ感情を何とか抑えつけようとし、震える体で振り向いた。
「恵理!お前―ッ!」
俺は恵理を見て思わず声を荒げた。
恵理は肩で息をしていた。そしてまるでフルマラソンでも走ってきたかのように大量の汗をかき、体を不安定に左右に揺らしている。立っているのも辛そうな状態だった。
「このぐらい……私にはどうって事……ないわよ」
その表情は言葉とは違い、苦しいものだった。だが恵理はふらつく足を何とか動かし、ベッドの脇にたどり着く。いや、もうベッドに倒れこみ、荒い息をしていた。
伊織や他の患者と同じ症状。絶対安静の状態。
「あんた……何勝手に……死んでるのよ……」
恵理は震える手を伊織の頬に当てる。先ほどまで苦しんでいたのが一転、まったく動かなくなった伊織。ぐったりと力なく横たわる体にはもう生気を感じられなかった。
俺はそれを見ていることしか出来なかった。伊織が死んだ、そしておそらく恵理も。
そう思うと、俺は動いている恵理に触れるのが怖くなった。
俺は今まで幾人もの人を消してきた。だが動いていた人間が、一瞬でぜんまいの切れた人形のように動かなくなることに、今更怖くなった。恐怖した。
「何も……出来なかった。あんたを……救えなかった。それじゃあ意味が無いのよ。何が天才よ、こんな時に……何もできないで……一体何がッ!―ゴフッ、ゴホッ!」
「恵理!」
熱が篭った言葉の途中、恵理が苦しそうにむせ返る。思わず体を支えると、服越しにもかかわらず恵理の体から異常なほどの熱が感じられた。
「自分だけ……言いたい事言って…………満足してるんじゃ……ないわよ」
「もう止せ……恵理。頼む……もう……止めてくれ」
もう俺は恵理を直視できなかった。この現実と同じように認めたくなかった。
目頭が熱く、そして再び嗚咽が俺を襲う。抱える恵理の体から次第に力が抜けていく。見るからに弱り、そして終わりを迎えようとしていた。
「ねぇ……麻……斗?」
荒い息の間で、恵理は確かに俺の名前を呼んだ。いつものような不機嫌を押し出した強気の言葉は影を潜め、弱く儚く今にもかき消えてしまいそうな声。
「私ね……あなたに……色々と突っかかってた……けど」
動かないはず、もう動かす力がないはずなのに恵理は首だけを微かに動かし俺に顔を向ける。
「でも……本当は……私は……」
そして言葉の途中、一瞬フッと笑うと―――そのままストンッと力が抜け、顔をベッドに落とし、動かなくなった。
恵理も死んでしまった。俺の目の前で。
「あぁ……あ……あぁ……あぁぁぁあぁぁぁぁぁああぁぁぁ……」
両目から涙が溢れ、俺は駄々をこねるように顔を左右に振り、嗚咽を漏らす。
安らかにベッドに横たわる伊織。
俺の腕の中で力尽きた恵理。
もう俺は彼女たちと話すことができない。
彼女たちはもう二度と俺に笑いかけない。
一緒の時を過ごすことができない。
永遠の別れが俺たちの中で交わされた。
「麻斗! ここに恵理が来て―ッ!」
背後から総樹の声が聞こえた。矢継ぎ早に用件を言おうとし、そして声を失った。
「おい……どういうことだよ……嘘……だろ? 嘘だよなぁ?」
そして震える声で問いかけてくる。
だが、俺はそれに答えることは出来なかった。
答えたくなかった。
認めたく……なかった。
「嘘だと言ってくれよ!麻斗ぉぉぉ!!!」
この世界が壊れていくのを……俺は認めたくなかったんだ。




