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第七十二話

 俺は再び第一診療所に戻り、伊織のベッドの横に立っていた。

 依然伊織は苦しそうに身を悶えさせ、ベッドに縛り付けなければならないほどの状態になっている。俺の部屋で自分の気持ちを語ってくれた伊織。それが今は同一人物とは思えないほど錯乱している。正直もう見るに堪えない。

 胸が張り裂ける思いに駆られ、俺は自分が涙を流している事に気付いた。きっとこんな顔を見せていたら優しい伊織は酷く悲しい顔をするだろう。俺を気遣い、何とか元気付けてくれるだろう。

 だが、今目の前に居る伊織はおそらく、俺が傍にいることすら分かっていない。自分がどうなっているのかも分かっていない。そしてこれからどうなるのかも。

 俺は第一診療所の人々に、アロマの話を告げる。鎮静作用が働いて、容態が安定するかもしれないが、それは治療にはならない事。根本的な解決にはならない事を告げる。

 そして研究の人に無理を言って、席をはずしてもらった。

 俺は博人さんからもらったアロマキャンドルに火をつけた。今までほんの僅かにしか香らなかったミントの香りが、直ぐに周囲を満たす。せめて、苦しまないように。俺は願った。

 鎮静作用が効き始めたのか、伊織の容態が安定し始める。まだ荒い息は続いているものの、暴れるように体を動かす事が無くなった。建物のいたるところから、安堵のため息が聞こえた。

 予め説明したとはいえ、これが直りつつあるように見えるのは仕方が無いことだった。

「う……うっ……麻斗……君?」

 周りを見渡していた俺の耳に、苦しそうな、だが鈴を転がしたような声が聞こえた。

 伊織が意識を取り戻した。治療が行われたわけでもないのに、現状に変わりは無い。俺が一番分かっているはずなのに、再び伊織の声を聞く事が出来、俺は心の底から喜んだ。

「私……どうなって……?」

 力なく唇を、喉を動かして伊織は声を紡ぐ。もう頑張らなくて良い。俺はこの弱弱しい伊織の姿を見て、それを口にする事が出来なかった。

 だが、伊織は突然納得したように「あぁ」と呟く。

「私……死んじゃうんだね……もうすぐ」

「違う! そうじゃ無い!!!」

 俺は座っていた椅子が転倒するのも構わず、立ち上がり、伊織の手を握った。細く、絹のようなすべすべした肌。色は病人のそれで青白く、不健康そうに見え、生気が感じられないほど弱弱しい。

「伊織は……伊織は……」

 伝えたい思いがあったのだが、俺の頭ではそれを言葉に出来なかった。大丈夫きっと良くなる。そう、口にすれば良いのに、言葉にならなかった。嗚咽を交え、再び涙が流れた。

「最後に……麻斗君に傍に居てもらえて……うれしい……な」

 最後、その言葉が俺の心を容赦なく貫いた。

「ねぇ麻斗君?」

 伊織は目だけ俺の方へ向ける。最早首を動かす力も無いのだろう。

「返事を聞くって……約束だったけど……もう私は……一緒には……居られない……みたい。だから……お願い……この世界を……いつまでも……平和に……」

「そんな! 伊織も伊織も一緒だろ! 皆で皆一緒で決めた事だろ!!」

 酷く自分が幼稚で、無理難題を押し付けていることは分かっていた。だが感情の高ぶりはもう、どうしようもなかった。

「私は……もう……ダメ……。もう……目も……うっすらとしか、見えなくなっちゃった」

 伊織の目から涙が溢れ、頬を伝い、枕を濡らした。

「最後に見るのが……麻斗君でよかった」

 辛いはずなのに、苦しいはずなのに、伊織は俺に向かって確かに微笑み――その体から力が抜けた。

 俺は自分の運命を呪った。

 こんな世界で生きていなければ、こんなことにはならなかった。

 どこかも分からないこの世界で生きる事を強要されなければ、こんな思いをする必要はなかった。


         何故、こんな思いをしなければならないのか!

         何故、こんなにも苦しまなければならないのか!

         何故、ここまでして生きなければいけないのか!


 十分な物資が無く、幾度と無く危機にさらされるこの世界で何故!

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