第六十八話
「まだ惚けると言うのなら……」
俺は左手を広げるように展開する。そして腕を振り刀を―
「おや、まだこんなところにいたのかい?」
という博人さんの声で俺は動作を中断した。いつの間に下りてきたのか、博人さんは清陽たちの後ろで、にんまりとした表情で立っていた。
「博人さん……一体何をしたんだ!?」
「おいおい麻斗君、大丈夫だよ。少し落ち着こう。何せ彼らは今さっき目覚めたばかりで、記憶が『曖昧』なんだから。あぁ君たちは行っていいよ。彼には私が話をつけておく」
清陽たちに告げ、博人さんは部屋へと入ってくる。
清陽たちは戸惑いながら、申し訳なさそうに一礼してその場を去って行った。
「一体あれはどういうことですか!?」
入り口を博人さんに塞がれる形になった俺は、今にも飛び出しそうな気持ちを抑えるのに精一杯だった。言葉に熱が篭っているのが自分でも分かる。
「見たままだ。彼らはあの晩の記憶を失っている。いや、あの晩だけじゃない。清陽に至っては何かを企てるような気持ちも、力も完全に失っているよ」
そんな俺に対し、博人さんはいつも通りの落ち着いた雰囲気を崩さない。
「記憶を失っている?」
「そう、僕の部屋のアロマを嗅いだことはあるだろ?」
「はい、あります」
「実はあれ、部屋で使ってる奴は何万倍にも希釈したものなんだ。そして彼らにはその原液を嗅がせた。特徴はかなりの刺激臭と…………忘却作用」
「忘却?」
「あれに鎮静作用があるってことは知ってるよね。でも実はそれって麻薬と同じで脳に直接働きかけて、無理矢理落ち着かせているに近いんだ。あぁ、大丈夫。希釈して用量を守れば別に依存性もないし、ちゃんとした薬になるよ」
「つまりモルヒネを痛み止めで使う感じですか?」
麻薬として有名なモルヒネは、戦時中に死の痛みを和らげるために用いられたりした。普通に使ったら薬物だが、脳が痛みを感じている場合は痛み止めとして働くと記憶している。
「そうだね。でもこいつは希釈すればの話。こいつは濃度が高すぎると脳が異常な反応を起こして脳を鎮静化させるどころか、脳内に深く刻まれた心的ショック、つまりトラウマに関する記憶をさっぱり消し去るんだよ」
「トラウマを……消す? それは……どういう?」
「君に本性を知られて狂喜に飲まれた彼は、このままでは命は助かっても精神は崩壊してしまう。だが彼はこの世界には必要な人間。そのために彼の憎しみの根底を排除し、元に戻す必要がある。ついでに百合子さんもね」
「この世界に必要……だと?」
博人さんの発言に、思わず苛立ち気味になる。自分のために他人を蹴落とし、不幸を招いた男。それがこの成果に必要だとは思えなかった。
「あいつが今までどんな事をしてきたか、あなたは―」
「知っているさ。知っていたけど、僕は何もしなかった。それを責めたければ責めると良い。だが冷静に考えてくれ。彼は確かに独裁的な行動を取り続けた。その中には人道に反するものもあっただろう。しかし、このネフェティアに住む一万人という人間の、実質的な代表者として皆を引っ張ってきたのは間違いなく彼だ。それは否定できないはずだ」
博人さんの言葉に厳しさはなかった。意見を押し付けるのではなく、納得を促す話し方。とても同調しやすい。だからこそ、俺はその内容を含めて反論する事が出来なかった。
清陽のネフェティアにおける貢献は俺も認めざるを得ない。だが―
「また彼が同じ行いをするのが心配かい?」
博人さんに先読みされ、俺は口を開くことが出来なかった。俺の思考全てが見透かされている。博人さんとは元からよくあったことだが、今は完全にシンクロしている。
「だから記憶を消す。こういう言い方は失礼かもしれないが、記憶のクリーンアップだと思えば良い。記憶を消して精神を安定な状態に保つ。これはそのための処置なんだよ」
「何故……そんなこと断言できるんですか?」
博人さんは語っている、まるでそれが正しい対処方法であると宣言するように。




