第六十七話
だがその笑みは、途中で乾いたものに変わったことに俺は気づいた。
「例え一度は投げ捨てた命だけど、この気持ちは本物……だよね?」
伊織の言葉を聞いている最中、頷こうとした俺だが、しかし、逆に雷に打たれたような衝撃に襲われた。伊織の今の言葉に俺はこう、疑問を返さざるを得ない。
「投げ捨てたって……どういうことだ?」
「そのままの意味……だよ。私は二〇一一年大晦日、新年を迎える瞬間に事務所の屋上から飛び降りたの。ビルの四階分、ちょうど今いるこの高さかな。運が良かったら……違う、『悪かったら』生き延びてしまったんだろうけど、あの時私は確かに自分の死を願った」
伊織の言葉に言葉を詰まらせた。伊織は俺と同じ不思議な力を持っている。世界をほんの少し弄れる力を持っている。だからここが死んだ世界であることも知っている。
だが面と向かってこの会話をする事はなかった。どうやって死んだのかについては話したことは一度もなかった。
「ごめんね突然変なこと言っちゃって。でもね、麻斗君には知っていて欲しい。本当の私を見て欲しい。もしかしたらへんな人間だって嫌われちゃったかもしれないけど、私の全部を知っていて欲しいの」
伊織は一度窓の先に見えるステージの方向に顔を向けた後、何か諦めるような辛そうな笑みを俺に向けてくる。その表情に俺は胸に締め付けられる感覚を覚えた。
「伊織、俺は―」
俺が口を開いた時、ちょうどドアがノックされ女性のスタッフが部屋に入ってくる。
「伊織ちゃん出番だ……よ……ってあらごめんなさい!」
女性は俺を見て口元を手で隠しながら驚いた。おそらく誤解を招いているのだと理解はしても、俺に何かを言いつくろえる余裕は無かった。
「分かりました今行きます」
返事をした伊織の表情に先ほどまでの辛そうな表情は無い。よく見れば無理に笑っていると分かるが、流石はプロとでも言おうか注意して見なければそんなもの気付く事は無い。女性も特に気にしなかった様子で「もう少し話しててもいいのよ?」と念を押している。
「麻斗君」
部屋を出る直前に伊織が振り返り、呆然と立ち尽くしている俺を見る。
「もし良かったらライブが終わった後、もう一度ここに来てくれないかな?」
逆光になって伊織の表情は俺の位置からはよく見えない。だが、声はかすかに震えているように感じた。
「その時に、今言おうとした言葉を教えてね」
そう言って伊織は走るようにその場を去っていった。妙に静まり返った部屋の中で俺はただ立っていることしか出来なかった。
俺は一体何を言おうとしたのだろうか。今となっては良く分からなくなってしまった。
―その時、不意に天井が軋む音がして俺は上を見上げた。
この部屋の上は博人さんの部屋だ。
あの一件以来、博人さんは誰一人自分たちの部屋には入れようとしなかった。言ったとおり遊軍の仕事は全て俺が代表代理として受け持ち、博人さんは部屋にこもり続けた。
昼間でさえ物音一つ立てないほどの静けさ、一体何をやっているのか見当もつかない。
しばらく耳を澄ましていると、階段を下りる音と振動が伝わってきた。
「……」
心臓が締め付けられるように苦しい。これから自分が確認すること、それが重圧となって緊張を強いてくる。
心臓に手を当てて早くなった呼吸を落ち着かせ、意を決して部屋のドアを開けた。
ドアの先にいたのは清陽と百合子さんだった。
「おや、麻斗君……ってどうして身構えるんだい!?」
俺は瞬間的に飛び退り、二人から距離を取った。心臓はバクバク、博人さんが降りてきたと思っていたためより一層驚きのレベルが高い。反射的に姿勢を低くし、臨戦体勢を取る。
「清陽……なんでお前が出歩いているんだ!?」
「ちょっと待ってくれ麻斗君!一体何の話をしているんだ!?」
清陽は焦っている。だがそれはあの夜のように自暴自棄になったものではなく、すっとぼけているように冷静さを持ったものだった。
「あんなことをしておいて白けるってのか?」
「あんなことって一体何のことだ?それはもしかして僕らがここにいることと何か関係があるのかい?」
清陽は百合子さんと顔を見合わせる。しかし百合子さんも小首をかしげるだけだ。
「すまない麻斗君。僕らはどうにもここ数日のことをまったく覚えていないんだ」
「覚えて……いない?」
罰が悪そうな表情で言う清陽。その表情、果たしてその言葉は本当なのか。
いや清陽ならばそのくらい何食わぬ顔で仮面を被り、やり過ごせるほどの器量は持ち合わせている。この男の狡猾さは筋金入りなのだ。




