sechs
クリスは案内された客間に着くと、不気味なくらい満面の笑顔でエドヴァルトを見送り――つまるところ、追い出した――ぱたん、と扉を閉めた。途端浮かべていた笑みは初めから無かったものとして抹消し、普段よく見る不機嫌そうな、いや普段の何割増しに不機嫌な表情を浮かべた。そして彼は客間の奥にあるソファの背中に脱いだ上着を投げると、どかりと座り長い脚を組んだ。
「何てことだ、アレク。香水の匂いが染み込んで、余りの悪臭に目眩がしそうだよ」
「目眩がしそうなのは僕の方ですよ。原因は貴方の暴挙です」
アレクはクリスが適当に放り投げた上着を皺がつかないように丁寧に畳みながら苦言を呈した。
「何を言っているんだ。私にしてはもった方だと思わないか?」
「全然自慢になりませんから、それ」
「でもね、私はああいった輩が一番我慢ならないんだ」
奮然と言い放つクリスにため息一つで押し黙る。彼の自由奔放な言動は今に始まった事では無い。
「そもそも私が依頼されたのは、依頼人の異常の原因を突き止め、可能ならばその原因を排除する事。それ以外の事については私の関知する所ではない」
つまり先程の事は依頼内容とは無関係なのだから、自分の知った事ではないと言いたいのだ。アレクは知っていた事とは言え、己の主の傍若無人は行為によって被害を被ったであろう人々に心中で謝罪する。
「で、これからどうするんですか?」
「明日になったら考えるよ。どうせ夜会というものは明け方まで続くものだろう?私は人が多いのは嫌いなんだ。コルネリウス家の人々も明日の午前中は夢の中だろうしね」
クリスはそう言うと、片手でアレクを追い払う仕草をした。
「さぁ、子供はもう寝る時間だ」
「ですが、クリス様の就寝のお手伝いをしなくてはなりませんし……」
「それくらいの事、自分一人で出来るよ」
確かに、やろうと思えばクリスは大抵のことは自分でこなす。そう、やろうと思えば、だ。彼が普段自分達の手を煩わせるのは、やる気が無いだけなのだ。
アレクは主人の上質な服が、明日には悲惨な状態になっているのを想像して、気分が悪くなった。小姓としての誇りと意地にかけて、それだけは許せない。
「クリス様、分かってらっしゃいますか。脱いだ服は皺一つ残らないように畳まないとなりませんし、御髪も整えて……」
「分かっているよ。全く、どこで育て方を間違えたのかな。こんなに口煩い子に育って……」
ぶつぶつこぼすクリスに、それは貴方のせいです、という言葉をかろうじて飲み込んだ。
クリスは昔から過保護なくらいアレクの生活全般に関して煩い。小姓なのに夜になればすぐ寝室に追い払われるし、食事もきちんと摂らせようとする。そのため、クリスの就寝の準備を手伝うのはフェルディナントの仕事だった。しかし生憎と今彼はここにはいない。
反対に自分の事に関しては彼は無頓着だ。興が乗れば平気で睡眠をとるのを忘れるし、しょっちゅう食事を忘れては痺れを切らしたアレクが彼に食べるよう促す。クリスがアレクが口煩くなったと思うのならば、それは間違いなく彼のせいだ。
「忘れているようならば教えてあげるけどね、私は以前寄宿舎に通っていたんだよ。勿論そこにはフェルディナントはいない。それでもなんとかなっていたんだから、私の生活能力は君が思っている以上に高い」
何とも説得力の無い言葉だ。生活能力という言葉は如何にもクリスに不釣合に思える。
しかし名残惜しげにクリスを見ていたアレクだったが、言葉を重ねる主についに折れた。クリスに一礼すると、客間の主寝室の隣にある、小間使い用の寝室へと消えいく。
それを見送ると、彼は満足げに微笑んだ。貴女の子供は私達の想像以上に逞しく育っているよ、と小さく呟いて。それに微笑みを返すのは己の小姓によく似た面影を持つ女性の幻想――。
彼が浮かべたのは滅多に見せることのない、柔らかな微笑みだった……。
翌日、夜会がそろそろ終わるという頃、コルネリウス邸の中庭で使用人達によって変わり果てた姿のグレーテ・フォン=ツァンパッハ嬢が発見され、騒然となる。
それが悲劇のほんの始まりだとは、まだ犯人以外の誰も気付いていなかった。
丁寧に、しかし問答無用に叩き起こされたクリスは不機嫌極まりなかった。
グレーテ嬢の遺体が発見されたのは夜会はまだ続いていたため、コルネリウス邸に滞在していた人間は多い。そのため一同が集まれる場所として指定されたのは夜会が行われていた会場だった。
いくら多くの使用人を抱えているとはいえ会場の片付けをする暇も無かったと見え、そこかしこに昨夜の余韻が残っている。しかし多くの招待客と使用人達を一堂に集めても、手狭な印象は受けない。アレクは改めてコルネリウス家の羽振りの良さに感心する。
夜会の会場の出入り口を塞ぐのは紺色の制服を纏った警邏隊の人間達。そして彼らに指示を与えているのは真紅に銀糸をあしらった制服を纏った三十代半ばと思われる軍人だった。おそらく首都の治安維持を担当する部署の人間なのだろう、強面の顔にはこの場にいる誰よりも鋭い色がある。
本来なら殺人事件で軍が出てくることは殆どない。なざなら、そういったことはこの場にもいる警邏隊の役割だからだ。しかし場所がこの国でも有数の商会であるコルネリウス家であった事、招待客の多くが社会的地位の高い人間達ばかりであった事、そして殺されたのが子爵家の令嬢であった事がここまで事を大きくしてしまっていた。
変わり果てた娘の姿を見たツァンパッハ子爵夫人は錯乱の余り失神し、ツァンパッハ子爵は妻に付き添い、別室へと移動している。
アレクは彼らの様子を思い出し、心が重くなった。
「クリス様、グレーテ嬢の事余り好きにはなれませんでしたけれど、まさかこんな事になるなんて……」
「誰だってそうさ。明日どうなるのか、自身についてさえ分からない。まして他人の事なら尚更だ」
クリスは淡々と答えた。グレーテ嬢の死など歯牙にもかけていない様子、いつもの彼だった。他人は冷たいと思うかもしれない、しかしクリスは決して下手な慰めは決して言わない人間だ。それがひねくれた主の気遣いであり、優しさだとアレクは知っている。
警邏隊の男達に指示を出していた軍人の男は集まっていた人間達をぐるりと見渡すと、クリスに目をやり、鋭い目を更に眇めた。
「おい、そこの男」
明らかにクリスに向かって言っている。
アレクはびくりとした。
自身は傍若無人を絵に書いた様なのに、他人が尊大に振る舞うのは気に食わないという彼である。案の定と言うか、クリスは片眉を器用に上げ、薄笑いを浮かべていた。ただし目は全く笑っていなかったが。
男の鋭い視線などなんのその、華麗に無視してそっぽに顔を向ける。
「そこの黒髪の男!!私を無視するなどいい度胸だな」
「……私の事ですか?」
クリスはそこでやっと男を見遣った。
「すみません。“そこの男”という名前になった覚えはありませんでしたので、私の事だとは思いませんでした」
しれっと言うクリスに男の苛立ちは増してゆく。いつものことながらアレクは彼の態度にはらはらし通しだった。いくら何でも軍人に強硬な態度をとるのは賢明だとは思えない。
しかし高圧的な態度、強面に反して理性は人並み以上と見えて、男は咳払いの一つで平静を取り戻した。
「殺害されたグレーテ嬢と貴殿が昨夜諍いを起こしていたと耳にしましてな」
「……へぇ」
クリスは意味深に黙り込むと、イングヒルト嬢にちらりと視線を流す。その意味深で尚且つ恐ろしく冷ややかな彼の視線に令嬢はびくりと身体を震わせ、目を逸らした。
「で?私に何を尋ねたいのですか?」
「昨夜……いや、もう今朝になるな、明け方に貴殿は何をしていらっしゃったか」
「愚問ですね、寝ていましたよ。それを証明できるのは同じ客間に泊まっていたこの小姓のみ。しかし身内も同然ですから、信用はならないと貴方達は考えるでしょう。だからと言ってそれが何だと言うのですか?グレーテ嬢が殺されたのは夜会の最中、見ての通りこの人数だ。招待客然り使用人然り、人の出入りは多く、その時間帯に殺人は不可能だと確実に証明出来ない人間は少なくないはずです」
違いますか?とクリスは尋ねる。図星だった様で、男は苦い表情で黙り込んだ。
この場に集まっていいるのは社会的地位の高い人間達ばかりだ。決定的な証拠が無い以上、軍人である彼も強引な調査をする事が出来ず、対策を決めあぐねているのだろう。
「それに他の招待客の方にでも聞いてみればよろしいが、恨んでいたのは私ではなくグレーテ嬢の方でしょう。無礼だと散々言っていましたからね」
「黙りなさい!!」
イングヒルト嬢の怒声が室内を切り裂いた。
「よくもぬけぬけと白々しい!!貴方がグレーテを殺したのでしょう!!人殺しのくせに何を堂々と宣っていますの!?軍人様、そこの男が殺人犯です。まさか国民を守る軍人様が殺人犯を野放しにするつもりですの?」
イングヒルト嬢の様子は尋常ではなかった。強面の軍人も令嬢の剣幕に幾分か顔を強ばらせた。美しい顔に浮かんだ憤怒の表情はさながら悪鬼の如く、だ。
「呆れた、貴女の品性が疑われますね」
「何ですって!?」
「私が殺人犯……それは本当にご友人の死を悼んでの言葉ですか?違うでしょう?それは貴女の妄想……いや、期待だ。私に貴方達の魅力が通じなかった。可笑しい、こんな事ある訳がない。そうだ、この男は普通ではないんだ。そう、汚らわしい殺人を犯す様な……。いや、もっとあからさまな意図でしょうか?自分達を拒んで、あまつさえ多くの人の前で恥をかかせた不届きものなど、罰されてしまえばいい。どちらにしろ、浅い考えですね。そんな事は少し調べればすぐに分かる」
クリスは面倒臭そうに断じた。
怒りの余り淑女の仮面を脱ぎ捨てたイングヒルト嬢はクリスに掴みかかろうとする。しかし父親のエッケルマン男爵と警邏隊達によって押さえられ、別室へと連れて行かれた。
彼女が遠ざかるに連れ、同様に遠くなっていゆく怨嗟の声。令嬢の変貌に周囲の人々はただ呆然と見送りしかなかった。